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トンデモもののけ辞典121 角大師

①角大師

京都などでよく見かけるお札といえば、角大師さんのお札だ。
角大師さんのお札は疫病退散にご利益があるとされる。
僧名は良源(912- 985)といい、平安時代に比叡山の天台座主だった人のことだが
現在もあつく信仰されており、人々は尊敬と親しみをこめて「角大師さん」と呼んでいる。元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)

元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)

御覧のとおり、角大師さんは痩せて角の生えた鬼のような姿で描かれるが、これが良源であるという。
なぜ良源は鬼のような姿で描かれ、角大師さんと呼ばれているのか。

⓶角大師さんと桜と疫病の関係

角大師さんの伝説として、次のようなものがある。

伝説①
ある年の春のこと、御所に参内した良源は、庭園の桜の美しさに惹かれて、しばらく散策していました。
不意に、女官らが花見の酒宴をしているところに出くわし、無理やりという感じで引っ張りこまれます。しばらくの間、座興に調子を合わせていましたが、「今日は、ほんとうによいお花見をさせてもらいました。そのお礼に、私も一つ、一番得意とする百面相をお目にかけます」と、みなに合図があるまで顔を伏せるように言いました。
しばらくして、「はい」と呼び声があったので、女官らが顔を上げると、そこには恐ろしい二本角の鬼の姿が。腰を抜かした女官らは、恐怖のあまりまた顔を伏せます。音一つしないので、おそるおそる顔を上げると、さっきまで鬼がいた場所には誰もいず、良源の姿も消えていたそうです。


この話は桜と疫病と鬼の関連を思わせる。

昔の人は「桜の花びらに乗って疫神が散っていく」と考え、そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神神社で『鎮花祭』を行うようになった。
京都の今宮神社や玄武神社では4月8日にやすらい祭が行われているが、そのルーツは『鎮花祭』で、これに念仏踊りを加えたものである。

赤い髪をした少年たちが念仏踊りを行うが、彼らは角はないが鬼と呼ばれている。
京都の追儺式などでは角のない鬼が登場することが多い。

玄武神社 やすらい祭

玄武神社 やすらい祭

つまり、桜の花びらにのって疫病が広がるのを、鬼が念仏踊りを踊って鎮めるというのが、やすらい祭の趣旨だといえる。

角大師さんのお札は、疫病退散にご利益があるとされるのだった。
角大師さんの伝説では、花見の席で角大師さんは鬼に返信するのだが、これは「花びらにのって疫病が広がるのを、阻止しようとした角大師さんが鬼に変身した物語だとみることができるのではないだろうか。

③疫病を退散させるため瞑想した角大師さん

伝説⓶
それは、良源の最晩年73歳の時の話。夜更けに瞑想の境地に浸っていると、何か不穏な空気が漂ってきます。ほの暗い灯りの陰に怪しい者がいるので、良源は「何者ぞ」と尋ねます。すると、こんな答えが返ってきました。
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しています。あなたもまた、これに罹らなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
おりしも、巷では疫病が蔓延していました。良源のもとを訪れたのは、それを広めている疫病神だったのです。
逃れえぬ因縁と考えた良源は、左の小指を指し出し、「これに付いてみよ」と言います。すると、たちまち高熱を発して、尋常でない苦痛をおぼえたため、得意の秘法の一つを行い、身体の中に入った疫病神を弾き出しました。疫病神は逃げ出し、良源はすぐに体調を回復します。
良源は弟子を集め、鏡を持ってくるように言い、二つ三つ指示を出しました。それから、鏡の前に座り、瞑想に入ります。そうするうち、鏡に映る姿が変貌していき、頭から角を生やして、骨の浮き出た鬼のようになりました。他の弟子たちが恐ろしさにひれ伏すなか、気丈で知られた明普阿闍梨が、鏡の妖魔を描き取りました。
目を見開いた良源は、絵を見て満足気にうなずき、すぐに版木におこし、お札を摺るよう伝えます。摺り上げられたお札に加持を施した良源は、ふもとの家という家に配布し、戸口に貼ってもらうよう命じました。畿内に疫病が猛威をふるうなか、お札を貼っている家の人だけは難を免れたそうです。
以来、民衆はこれを角大師と称え、こぞってそのお札を貼るようになり、今に至るというわけです。


角大師さんの生没年は912年10月15日~985年1月26日である。
この物語は角大師さんが73歳の時の話だとあるので、984年春ごろを舞台としている。
角大師さんは瞑想にふけるうち、角が生え、骨の浮き出た鬼のような姿になったというのである。

伝説③
若き日の良源は日々きびしい修行に明けくれ、仏前での読経三昧を続けていた。そのようにして良源が解脱の域に達し、立派な僧侶として完成してしまうと、誠に困るのが悪鬼・邪鬼の類で、彼らは良源の修業をしきりに妨害しようとし、妖術を使って世俗的な誘惑をさまざまなやり方で仕掛け、修業をやめさせようとこころみる。しかるに良源は食を絶って不断の読経と瞑想とを続け、やせ衰えて骨と皮だけの身となり、自らも鬼のごとくの姿に化して悪鬼・邪鬼の妨害をはねのけ、ついに解脱を達成した。角大師は、その時の良源を描いたもので、鬼神と化した異様な姿の放つ霊力で妖魔を撃退する、だから寺の山門や檀徒家の玄関口にそれを貼って、魔除けとするようになった、とのことだった。


こちらの伝説にはいつ頃の話であるのかについては記されておらず、瞑想に読経と食断ちが加わっている。

伝説④
永観二年〈984年)、全国に疫病が流行して、ちまたでは疫病の神が徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。お大師さまは、この人々の難儀を救おうと大きな鏡に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ、禅定(坐禅)に入られるとお大師さまの姿はだんだんと変わり骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人の明音阿闍梨だけが、このお姿を見事に写しとられた。お大師さまは写しとった絵を見て版木でお札を刷るように命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して、各家の戸口に貼り付けるように再び命じられ、病魔退散の実を示されたのであった。やがて、このお札(角大師の影像)のあるところの病魔は怖がられて、よりつかず一切の厄難から逃れることが出来た。以来、千余年このお札を角大師と称し、元三大師の護符としてあらゆる病気の手本と厄難の消除に霊験を顕し、全国に崇めらているのである[鹿野,2004:pp.50-51]。


伝説④は伝説①と同じく、時代は984年である。
この年、疫病が流行り(疫病神が徘徊し)角大師さんが禅定を行うと骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になったとある。

伝説⓶・・・984年、瞑想にふけるうち、角が生え、骨の浮き出た鬼のような姿になった。
伝説③・・・食を絶って不断の読経と瞑想とを続け、やせ衰えて骨と皮だけの身となり、自らも鬼のごとくの姿に化した。伝説④・・・984年、疫病が流行り、角大師さんが禅定を行うと骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になった。

空海は高野山奥の院に入定し、現在も禅定を続けているとされる。
空海は生きていると信じられ、いまでも食事が供されている。

入定というのは即身仏になるべく、五穀をたって木食修行をして脂肪をおとし(こうして死後腐りにくい体にする)
漆のお茶をのんで胃の中のものを吐きだし、洞窟や土中に埋められてミイラ化することをいう。
埋められたあとは、命がつきるまで読経を続けたなどといわれる。

角大師さんは入定して骨と皮だけの即身仏になったということではないだろうか。

即身仏は山形県の湯殿山などに多く残されている。
湯殿山は水銀土壌であり、そこに生える草や木の実を食べて木食修行すると水銀が体内に取り込まれて死後腐りにくい体になったという。
しかし京都大原にも一体即身仏は残されている。



残念ながら現在拝観できないが、阿弥陀寺に即身仏が存在している。
阿弥陀寺がある京都大原は、比叡山のふもとにあって、京都市街よりも2,3度気温が低い。
そのような寒冷な気候のため即身仏が残されたのだろう。

 

角大師さんの御廟(良源御廟)は比叡山にあるが、比叡山は大原よりもさらに気温が低いので、
一定期間、即身仏が残されていた可能性はある。

④天然痘の神から豆の神へ

伝説⑤

元三大師のお札には、豆大師というものもあります。
江戸時代の寛永年間(1624~1645)のこと、大坂の百姓が、豊作祈願のため比叡山の横川を訪れました。
熱心に祈っていると、来るときには小雨だった雨足が土砂降りになり、自分の水田が気になって仕方ありません。
田植えを終えたばかりなのに、洪水ですべてが流されてしまうのではないかと、寺の僧に苦衷を訴えたところ―
「田作りの守護をして下さるお大師さまにお参りに来ていて、それは何をいうて御座るぞ、いまこそ一途にお大師さまにお祈りする時じゃないか」
百姓は気を取り直して、懸命に祈りました。
とはいうものの、やはり心配は収まらず、大雨の中を急ぎ足で自分の村を目指します。近づくほどに洪水のもたらした被害が大きくなり、半ば諦めかけたところで村にたどり着きました。
案の定、村の田畑は、全滅といっていい被害を受けていました。ところが、くだんの百姓の田だけは、被災していないのに驚きます。村人に質すと―
「三十人余りの子供上がりの若者が、手に手に桶や鍬を持って来てサ、畔をつくるやら、水を汲み出すやら、いやもうその働きの素早いこと、手際のよいこと、おぬしの田だけが苗の顔が見えていらア」
その若者たちがやってきたのは、まさに百姓が、横川で僧に諭されて、一心不乱に祈っていた時刻と一致していました。
百姓が再び横川に参詣すると、前回会った僧に事の次第を話しました。すると、僧は次のように答えを返したそうです。
「お大師さまは観音さまの御化身じゃから、三十三身になぞらえて、三十三人の童子となってお救い下されたのじゃと思います」
この出来事が元になって、33体もの小さい良源の姿絵を描いたお札を、豆大師(魔を滅するということで魔滅大師)と呼んで貼られるようになったのです。


これは角大師さんが疫病除けの神から、語呂合わせで豆の神となり、さらに農耕の神、雨の神へと神格が広がった結果生じた物語ではないだろうか。

984年に流行した疫病が何なのか、はっきりしないが、当時畏れられていた疫病は天然痘だった。
天然痘では体中に豆のようなぶつぶつができるところから、豆の神→農耕の神→雨の神と神格が広がったのではないか。


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