勧修寺
①画霊
画霊(がれい)は、藤原家孝による文政時代の日本の随筆『落栗物語』前編にある怪異で、人物画に画家の執念が乗り移るといわれるもの。
概要
その昔、勧修寺という宰相家に、女性の絵が描かれたぼろぼろの屏風があった。あるとき、穂波殿の侍所からその屏風の借用を依頼され、勧修寺は快く貸し出した。
しかしその後、穂波殿の屋敷近辺で怪しげな女性が出没するようになった。あるときに女性を目撃した者が、その跡をつけてみると、女性は屏風のもとまで移動して姿を消した。穂波殿では屏風を気味悪がり、もとの勧修寺へ返却した。
すると今度は勧修寺の方にも、その女性が現れるようになった。屏風を怪しんだある者が、絵に描かれた女性の顔に細長い紙を貼り付けてみたところ、現れる女性も顔に細長い紙を付けていた。
いよいよ屏風を怪しんだ勧修寺では、絵師にその屏風の調査を依頼した。すると絵師が言うには、その屏風の絵は江戸時代に画家として名を馳せた土佐光起のものであり、貴重なものだということだった。
勧修寺は絵を修復し、大切に保管することにした。それ以来、あの女性が現れることはなかったという[1]。
⓶勧修寺は藤原高藤・胤子父娘ゆかりの寺
この物語に登場する勧修寺とは京都府山科区にある勧修寺のことだろうか。
勧修寺の創建は900年、醍醐天皇が右大臣藤原実方に命じて造立させたとされる。
その目的は醍醐天皇の生母・藤原胤子(実方の同母妹)の菩提を弔うためで、胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅が寺に改められたという。(勧修寺縁起)
※胤子が生前に創建したとする史料もある。
勧修寺という寺名前は胤子の父・藤原高藤の諡号をとったものである。
勧修寺近くの民家には勧修寺を造立した藤原実方の墓があるとのこと。
写真を見ると亀の上に墓碑がたてられており、その後ろに墳墓があります。
藤原実方の墓から徒歩10分程度のところの鍋岡山山頂に藤原高藤の墓がある。
墓碑には「贈正一位太政大臣藤原高藤墓」と記されているとのこと。
勧修寺
②高藤・列子のエピソードは作り話
藤原胤子の父親は藤原高藤、母親は宮道列子であるが、高藤と列子にはこんな説話伝えられている。
高藤が南山階に鷹狩に出かけたとき、急な雨にみまわれて宮道弥益(山城国宇治郡大領)の屋敷を訪れた。
高藤は弥益の娘・列子に一目ぼれして一夜の契りを結んだ。
翌日帰宅した高藤は父・良門に厳しくしかられ、鷹狩を禁止された。
6年後、高藤は列子と再会するが、列子は胤子という娘を連れていた。
胤子は6年前に高藤と契ったときにもうけた子供だった。
胤子は成長して宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになった。
高藤は父・良門に鷹狩を禁止されたとあるが、これは事実とは考えにくい。
というのは良門は高藤がうまれて間もなく亡くなったとされているからである。
③天皇の外祖父だったのに昇格できなかった藤原高藤
①で、藤原高藤の墓碑に「贈正一位太政大臣」と記されていると書いたが、これは藤原高藤の死後に「正一位」が送られたということであす。
藤原高藤の最終官位は内大臣正三位である。
高藤は父親の良門が低い地位のまま亡くなってしまったため、昇進が遅く、長い間従五位だった。
そして娘の胤子は光孝天皇の第七皇子で、臣籍降下していた源定省の妻となった。
ところが、887年、源定省は皇族に復帰して即位した。宇多天皇である。
つまり高藤は天皇の義父になったわけで、このとき正五位下に昇進している。
893年には胤子の生んだ敦仁親王が立太子して、翌894年には高藤は従三位、895年には参議となっている。
897年には敦仁親王が即位(醍醐天皇)し、高藤は正三位・中納言に。
899年には大納言となった。
900年、高藤は危篤となり、天皇の外祖父であることから大臣昇進が検討された。
しかし、当時左大臣には藤原時平、右大臣には菅原道真がいました。
高藤を大臣にするためには、藤原時平・菅原道真いずれかを太政大臣にする必要があったのだが、両者とも太政大臣の資格を満たしていなかった。
そこで100年以上途絶えていた内大臣という役職を復帰させて高藤をこれに任じた。
しかし昇進後2か月で薨去し、死後に正一位・太政大臣の官位が送られた。
④藤原基経の後押しを受けて即位した宇多天皇
歴史をもう少しさかのぼってみよう。
藤原良房という人物が娘の明子を文徳天皇に入内させ、紀静子が生んだ第一皇子の惟喬親王をおしのけて、明子が生んだ惟仁親王を生まれたばかりで立太子させた。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、藤原良房は養女の藤原高子を清和天皇に入内させた。
そして高子が生んだ貞明親王がわずか9歳で即位して陽成天皇となった。
そして藤原高子の兄で、藤原良房の養子の藤原基経が摂政となった。
この陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子だという説がある。
というのは、伊勢物語に在原業平と高子が駆け落ちをしたという話があるからですある。
陽成天皇は源益を殺したとして退位させられているが、退位させられた本当の理由は彼が在原業平の子だからではないだろうか。
そして藤原基経は仁明天皇の第三皇子である時安親王を55歳で即位させた。(光孝天皇)
時安親王の母親は藤原沢子という人で、基経の叔母にあたる人である。
光孝天皇は基経の後ろ盾を得て即位したということで基経には逆らえなかったのではないかと想像する。
光孝天皇は陽成天皇の弟の貞保親王をはばかって26人の皇子皇女を臣籍降下させている。
光孝天皇が重体に陥ったとき、基経は後継者に源定省(宇多天皇)を推した。
貞明親王は基経の妹・藤原高子の子なのですが、当時基経と高子は大変仲が悪かった。
(高子と在原業平の関係が気にいらなかったのだろう。)
そしてその源定省(宇多天皇)の妻が、藤原高藤の娘だったということである。
891年に藤原基経はなくなったが、基経の子の時平が権力をひきついで左大臣になっていた。
そういうわけで藤原高藤は天皇の外祖父となっても権力を持つことができなかったのだろう。
このように見てみると、勧修寺は高藤の娘・胤子を弔うという目的のほか、高藤を弔うための寺という意味も持っていそうに思える。
それで寺名を高藤の諡号である「勧修」としたのではないだろうか。
妖怪・画霊の話では、「勧修寺という宰相家」とある。
宰相とは参議のことであるが、藤原高虎の経歴を思い出してみると、895年に参議となっている。
「勧修寺という宰相家」とあるのは、藤原高虎のことだろうか。
藤原高虎・従五位
887年、源定省は皇族に復帰して即位した(宇多天皇)。
高藤の娘・胤子は源定省の妻となっていたため、藤原高藤は天皇の義父となる。藤原高虎・正五位下に昇進。
893年 胤子の生んだ敦仁親王が立太子
894年 藤原高藤・従三位
895年 藤原高虎・参議
897年 敦仁親王が即位(醍醐天皇)、藤原高藤は正三位・中納言。
899年 藤原高虎・大納言。
900年、藤原高藤は危篤となり、内大臣。という役職を復帰させて高藤をこれに任じた。
藤原高虎、昇進後2か月で薨去。死後に正一位・太政大臣。
すると、勧修寺という宰相家にあった屏風に描かれた女性とは、高藤の妻で宇多天皇の女御・胤子を産んだ
宮道列子なのではないか?
画霊の話は高虎と列子の一夜の契り伝説をベースに創作されたもののように思える。
勧修寺
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