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トンデモもののけ辞典112 片輪車 ※追記あり

片輪車

片輪車 著者不詳『諸国百物語』より「京東洞院かたわ車の事」

1⃣片輪車

京都の片輪車
延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである[1]。
滋賀県の片輪車
寛保年間の雑書『諸国里人談』に記述がある。寛文時代の近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという[2]。

2⃣江戸時代は車の使用は禁止だった?

延宝とは元号のひとつで、期間は江戸時代の1673年から1681年まで。

江戸時代には人が移動する際には徒歩、または駕籠がよく用いられていた。
これについて、江戸時代には車は禁止だったという話を聞いたことがある。

たとえば「教えてgoo」には、こんな回答がある。

技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。
その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。

2004年に投稿されたもので、参考URLのリンクが貼られているが、リンク先記事は削除されており、確認ができない。

3⃣江戸時代、一部地域では車が使用されていた。

江戸に入ってくる商品荷物は、上方・東北地方より船による場合と陸上を牛馬背で運送される場合とがあった。市内における運送手段には牛馬背、人背負・大八車・牛車が使用されていた。
~略~
貴族の乗用車である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが、江戸時代には衰退していた。荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台、幕末には箱館等の限定された都市でしか使用されなかった。
~略~
牛馬だけでなく人力による荷車輸送も全国的な展開はなかった。
~略~
全国的には未発達の車輌交通が、江戸においては大八車、牛車ともに許可されており、改めて近世都市江戸のもつ意味が問題となろう。なお、辞典においては「江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に用い、牛原や車町に配置されて、建築資材を中心とする輸送にあてたが、大八車の普及につれて、地名にその面影を残すにすぎなくなった。」と説明されている(『国史大辞典4』、九四三頁、吉川弘文館、昭和五十九年、参考文献は明記されていないが、司馬江漢「春波楼筆記」かと思われる)。ここでは地名だけでなく実態を追求するつもりである。
本稿は、錦絵、絵馬、地誌類の挿絵などに出ている牛・牛車の資料も掲載し検討の素材とした。

タイトルは「都史紀要32 江戸の牛」となっており、目次をみると興味をそそられるタイトルが並んでいる。
早速ネット注文して、読んでみた。
内容をざくっとまとめてみる。

①1707年に江戸橋広小路に200坪の牛置場がつくられた。
諸国より海・川を船で運ばれてきた荷物は、牛置場に待機する牛車で市中の各問屋へ送られた。

⓶家康 全国統一後、「伝馬の制」を確立した。
「伝馬の制」とは、 公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。
大伝馬町、南伝馬町・・・道中筋伝馬御用
小伝馬町・・・・・・・・江戸府内伝馬御用 

③1657年、江戸大火後の復興事業後、大八車が使われる。
1662年「江戸名所記」 に地車(小車)、代八と記されている。 
飼料代がかからないなどメリットがあり増えた。馬持の荷物を奪う。
伝馬町、大八車に口銭をかけることを出願した。
極印賃徴収は元禄16年12月 諸運上停止に関連して中止 

④人力による荷車は江戸のほか、京都、大坂のベカ車、名古屋の大八車・小車・貧乏車・鬼カミ・しゅら、駿府(静岡市)など一部の地域で使用されたのみ 

⑤幕府は、人足と馬背による場合を公的機関としていたため、牛車・大八車を限定した地域にしか採用せず、伝馬町・馬持の保護をした。

⑥1845年、中山道樽井・今須宿(岐阜)に板車導入願がだされた。(樽井がどこにあったのかについては、わからなかった。)
1857年 使用許可される。

⑦1808年、馬持が「鞍判を受けて伝馬助役を務めた上で商売をしているが、諸商人の手引車と荷付牛が荷物を江戸市中に運んでいて、商売あがったりなので、これらを禁止してほしいと願い出て認められた。

⑧京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。
京車・伏見車・鳥羽車・嵯峨車などにわかれていた。
京車の主要業務は年間50~60万俵の大津為登米輸送のほか、幕府御用。
http://liaj.lin.gr.jp/uploads/161-3.pdf(リンク先に京車の浮世絵あり)

⑨江戸の牛車は寛永期(1624~43]に土木普請工事のため京都から招き、芝高輪に居住地をさだめ、四日市(江戸橋広小路)・八丁堀牛置場を拠点として活動していた。

⓾安藤広重の高輪を描いた浮世絵53点中10点に牛車が描かれている。
1829年成立の江戸名所図会には高輪牛町、尾張町、魚籃観音堂、麻生一本松、神田明神祭礼に牛車の絵がある。

⑪狂歌、川柳にも牛車をよんだものがある。

⑫京都周辺では、淀・納所・横大路・上鳥羽・京都苦情にいたる鳥羽街道、伏見、武田街道、大津、逢坂、山科、日岡、粟田口にいたる山科街道で牛車が行われていた。
山科街道は未知の損傷を防ぐため敷石舗道だった。

⑬「摂津名所図会」では武庫の山中で採掘される御影石を諸国へ運送するのに牛車を利用している。

⑭1772年頃より西宮町ないの酒屋から積問屋、咳所までの咲け荷物浜出しの運搬にあたる西宮地車組が開始された。

⑮「明治政府になって車通行は解禁となり、馬車・牛車・荷車・人力車の第数は表八のようにいずれも急速にのびてるが」と50pに記されている。
解禁とは「法律、その他のとりきめで禁止していたことを、解きゆるすこと」である。
「解禁となり」という言葉は、車が禁止されていたという風にもよめる。

⑯1707年 町触などから交通規制があったことがわかる。

⑰宰領付添 は牛車・大八車で犬などをひき殺さないため、生類憐みの目的から1686年に出されていた。

⑱牛の産地・・・出羽・省内・陸奥・会津・南部
肥育地・・・飛騨・越中・越後・信濃

⑲駿府への牛車導入は1609年城廊工事のため伏見・鳥羽から招聘されていた。

4⃣幕末期、車使用許可申請が出されている。

↑ こちらの記事には、次のような内容が記されている。

❶幕末期の東海道では「車」が使用されており、旅人を載せて運ぶ営業もなされていた。

❷江戸時代、健康な一般人は武士も庶民も一切駕籠に乗ることは禁止されていた。
駕籠は街道筋では旅客用として許可されていた。(宿駕籠)

❸近世大阪では「べか車」が用いられていた。

❹シュンベリー 「江戸参府随行記」の記述
「この国の道路は一年中両行な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。」
シーボルトの記述
「地面を平らにし、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂を撒く。(中略)また必要に応じて堀・堤防、水路を設けている」

❺車があまり用いられていなかった理由
・日本は地勢が急峻で車両交通に不便
・架端技術が未熟だった
・街道の路面を痛ませないため
1774年、「べか車の使用が橋の損傷を招くのでべか車の端上通行禁止」の触書がでている。
・馬方や船方の営業を脅かされる。
「べか車の進出により馬方や船方の荷物運送の営業権が脅かされるので使用をさしひかえよ」との触書が1791年、1799年にでている。

❻1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。
1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。
1862年全面許可

❼1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。
しかし、そこに「右は東海道岡崎辺りより草津宿までの間にてもっぱら合用い」とあり、
岡崎―草津間は旅人を車に乗せて運ばれていたことがわかる。

5⃣車の使用を禁じる制度の名前がでてこない?

私の疑問は、幕府は車の使用を禁じていたというが、それはなんという名前の制度で、またどのような形でその制度が広報されたのか、ということである。
例えば、4⃣❺に触書の内容がでてくるが、このようなものは残っていないのだろうか。
検索してもでてこない。調べたりないのかもしれないが。

そうではあるが、
4⃣❻「1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。」
「1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。」
4⃣❼「1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。」などとあり
中山道、東海道、江戸で人を載せる車を使用するためには許可を得る必要があったようである。

荷物を運ぶ車は、
3⃣⑧「京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。」
とあり、やはり許可が必要だったのか?

6⃣江戸時代には交通事故が頻繁におきていた。

「江戸時代には車は使用されていなかった」というのは都市伝説で、実際には牛車や代八車、べか車などが一部地域で用いられていたことがわかった。

それも結構な交通量があり、残念ながら、こちらも一次資料的なものが見つけられていないが、
事故も頻繁におきていたと記したネット記事が多数ある。

元禄以前には、個人の飼い犬よりも町全体で養われている「町犬」の方が多く、路上では「大八車」という物を運搬する車に犬がひかれる事故が多発していました。そのため、幕府から「大八車、牛車による犬の事故防止」と、「飼い主のない犬にも食事を与え、生き物を憐れむこと」というお触れが出ます。

7⃣京都の片輪車は交通事故をおこす牛車、滋賀県の片輪車は大八車?

ようやく本題にはいる。(笑)

かたわ車

妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札

源氏車と言う模様があるが、牛車の車を模様にしたもののように見える。
この源氏車に波文様をあしらい車輪が半分見えない状態になった模様を「片輪車」というそうである。

牛車の車輪は、乾燥を防ぐために外して、鴨川の流れに浸したといい、それを模様にしたものであるという。

また片輪車の模様について、次のように説明された記事もあった。

秀吉の家来が朝鮮出兵の時、満潮になり牛車が波で動かなくなるのをかまわず進め、波の上を牛車が滑るように進んだ。」源氏車と波が美しい景色で人々に感嘆の声をあげさせたとか。勿論、敵に快勝したために秀吉に許されそれを家紋にしたという話を読んだことがある。

妖怪の片輪車は、おそらく京都でも頻発したであろう、牛車の事故をルーツとしているのではないだろうか。

3⃣⑧、「(京都の牛車は)1614年の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た」のだった。
京都でも交通事故がおきたことだろう。
そしてその事故は人から人へうわさ話として伝わっていく。
写真、テレビ、パソコンなどがない、視覚に訴えかける情報が少ない時代である。
噂話が伝聞するうちに、人々の想像力が片輪車というの妖怪を生み出したのではないだろうか。
妖怪・片輪車がくわえている脚は牛車に引かれた子供の脚だと思う。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

滋賀県の片輪車のほうは、牛車ではなく大八車ではないだろうか。
上の絵は滋賀県の片輪車を描いたものだが、車輪の前に車輪を引っ張るための棒がついている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%AB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:20081004%E8%8D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85%E6%B6%88%E9%98%B2%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97%E8%BB%8A.jpg

リンク先の大八車は車の前にT字型の持ち手がついていて、上の絵の片輪車と同じ形である。

追記
8⃣なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのか?

なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのだろうか。
車輪が外れやすかったのか?
そういうこともあっただろうが、わたしは「片輪」と「かたわ」を掛けてあるのではないかと思う。

「かたわ」と言う言葉は差別的な表現であるとして、現在はあまり使われないが身体に障害がある人のことをさす言葉であり、源氏物語にもでてくるという。

ウィキペディアで「かたわ」を検索すると、漢字表記で片端・片輪とでてくる。

「片」はそれだけで不完全という意味を持ち、「かたわ」は不完全なもの、不恰好な物を意味する。片足しかなかったり片側の輪が無い車輪など)。もっとも、どちらが先に語源となったかは定かではない。

片輪車とかたわは関係があるようである。

妖怪・片輪車に脚をもぎとられた子供は、身体障害者である。





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