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翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』 

翁の謎⑫ 護王神社 亥子祭 『宇佐八幡宮神託事件の真実』 よりつづきます~


●春日若宮おん祭


春日大社 おん祭2 
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

春日大社は広大な敷地面積を有する神社で、一の鳥居から二の鳥居まで1km以上もある。
石燈籠が立ち並ぶ長い長い参道のつきあたり左手(北)に回廊をめぐらせた一画がある。
南門をくぐり、受付を経て神域に入ると、奥のほうにさらに回廊がめぐらされている。
その回廊で囲まれた中に春日大社の主祭神である四柱の神々がが祀られている。

武甕槌命(たけみかづちのみこと)・・・藤原氏守護神
経津主命(ふつぬしのみこと)・・・・・藤原氏守護神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・・藤原氏祖神
比売神(ひめがみ)・・・・・・・・・・天児屋根命の妻

南門を出て、100メートルほど南にいったところに若宮社がある。
12月に行われる春日若宮おん祭はこの若宮社のお祭りである。

若宮様は本社の第三殿・天児屋根命と第四殿・比売神の御子神で、神名を天押雲根命という。
『長保五年(1003年)旧暦3月3日、第四殿に神秘な御姿で御出現になった』と春日大社のhpには記されている。
『神秘な御姿で御出現になった』というのは具体的にはどんなお姿だったのだろうか。
もしかしたら若宮様の幽霊が出たということなのかもしれない。

若宮様は出現後、母神の御殿内に、その後は第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られていた。
その後、長承年間の大雨によって、洪水・飢饉・疫病の流行などで人々は苦しんだ。
そこで藤原忠通公が保延元年(1135年)にここに若宮社を造営したという。
おそらく長承年間の洪水・飢饉・疫病は若宮様の怨霊の祟りだと考えられ、慰霊する必要があるとして社殿を建てたのではないだろうか。
さらにその翌年の1136年より祭礼を行うようになった。
これが今も行われている春日若宮おん祭りの始まりである。

春日若宮おん祭は12月17日のお渡り式が有名である。
私も3度ほど見にいったことがあるのだが、3度とも雨や雪でお渡り中止になった。
おん祭のころ、奈良ではよく雨や雪が降るのかもしれない。
そういうわけで、お渡り式はいまだ見学したことがないのだが、16日の大和士宵宮詣(やまとさむらいよいみやもうで)・田楽座宵宮詣は見学させていただいた。
春日大社 おん祭

春日若宮おん祭 大和士宵宮詣

●天児屋根命=天智天皇?

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』で述べたように、私は春日大社の御祭神・天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。

天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味である。

そして天智天皇は 次のような歌を詠んでいる。
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)


仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

28年間遺体が放置されていたということは、天智天皇の遺体は風葬されたような状態であったということではないだろうか。
沖縄では近年まで風葬が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。

誰かがほとんど風葬といってもいいような状態にされていた天智天皇の身になって、「もっと立派な墓に葬ってほしい」という気持ちを詠んだのが、「秋の田の~」の歌だと思う。
または、天智天皇が農民の身になって「秋の田の~」の歌を詠んだため、言霊が作用して天智天皇の遺体は放置されたと考えられたのかもしれない。

藤原氏の祖神である天児屋根命が天智天皇だとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、『興福寺縁起』には次のように記されていて、辻褄はあう。
「藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。これが藤原不比等である。」

すると春日若宮様は天智天皇の子だということになる。
春日若宮様とは、天智天皇の落胤だといわれるる藤原不比等のことなのだろうか。
そうではないと私は思う。

天智天皇には多くの皇子があったが、その一人に志貴皇子がいる。

天武系の最後の女帝・称徳天皇が崩御したのち天智系の光仁天皇が即位したが、光仁天皇は父親である志貴皇子に『春日宮天皇』と追尊している。
この春日宮天皇=志貴皇子が春日若宮様なのではないだろうか。


●『とうとうたらりたらりら』は志貴皇子のテーマソングだった。

残念ながら見ることができなかったのだが、12月16日の22時30分、23時、23時30分の三度に渡り、南都楽所の楽人さんたちによって若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されるのだという。

南都楽所の楽人さんのhp(http://www.eonet.ne.jp/~believe-in-snow/onmaturi.htm)に『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥  』と記されている。

これは奈良豆比古神社で10月8日に行われている『翁舞』の冒頭の台詞『とうとうたらりたらりろ』によく似ている。

能の『翁』では『とうとうたらりたらりら』となっており、言葉の意味は不明だとされている。

南都楽所の楽人さんのhpに記されている『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』とは一体何なのか。

邦楽をやっている友人に聞いてみたところ、これは唱歌(しょうが)だと教えてくれた。
唱歌とは邦楽における音楽を口伝するための表現方とのこと。

『とうとうたらりたらりろ』や『とうとうたらりたらりら』は、若宮様がおでましになる、テーマソングのようなものだったのだ。

そして、翁の旅⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』にも記したのだが、地元の語り部・松岡嘉平さんが伝承している語りは次のようなものだった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。


翁とは志貴皇子のことであり、志貴皇子は舞台に登場する際に春日若宮さまのテーマソングを口ずさんでいたのだ。

これはどういうことなのか。

志貴皇子は光仁天皇に「春日宮天皇」と追尊されている。
春日若宮とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことではないのか。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
奈良豆比古神社 翁舞


春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160
春日若宮おん祭・・・12月15日~18日




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[2017/01/16 21:12] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)