fc2ブログ













奴隷貿易、奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。 

① 奴隷貿易

15世紀ごろ、ヨーロッパでは丈夫なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が伝わるなどして遠洋航海が可能となった。
大航海時代の到来である。

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

ヨーロッパ各国は西インド諸島やアメリカ大陸で大規模な農場経営を始めるようになる。
農場経営のための労働力として、ヨーロッパ人は原住民を用いていたが、疫病が流行するなどして人口が削減、労働力不足に陥ってしまう。

これを解消するために、アフリカの黒人奴隷が労働力として用いられるようになる。

黒人奴隷は三角貿易によって西インド諸島、アメリカ大陸にもたらされた。

三角貿易とは、 ヨーロッパから工業品を船に積み込んでアフリカ西海岸へむかい、次にアフリカ西海岸から黒人奴隷を船に載せて西インド諸島やアメリカ大陸にむかう。
その後、西インド諸島、アメリカ大陸の砂糖やタバコを積んでヨーロッパへ戻る、というものである。

黒人奴隷は人間としては扱われず、商品として扱われていたわけである。
ウィキペディア「アフリカ史」には次のように記されている。

アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。


たいへん惨酷な内容であり、これをもって、「ヨーロッパ人は残虐だ」と考える人がいるかもしれない。

奴隷船の内部構造

奴隷船の内部構造(部分)

⓶奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。

さて、奴隷狩はどのようにして行われたのだろうか。
下の絵を見ると、右下にヨーロッパ人のような人が描かれている。

アフリカの奴隷狩

奴隷狩

ヨーロッパ人が鉄砲などで脅して奴隷狩を行ったのだろうか。
もしかしたらそういうこともあったかもしれないが、いくら鉄砲があるといっても奴隷狩りはやるほうも大変である。
ヘタすると命を落としかねない。
商品として手に入れられるのであれば買った方が安くつくだろう。

そう、ヨーロッパ商人たちは西アフリカ諸国から奴隷を商品として買っていたのである。

アフリカは暗黒大陸で、未開人が住んでいたと思っている人がいるかもしれないが、
アフリカには国が存在していた。
アフリカにはちゃんと文明があったのである。

ヨーロッパの商人たちは交易をおこなうにあたり、アフリカの土地の支配者や首長から許可をえたのだという。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。

「歴ログ -世界史専門ブログ-なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」
という記事には、次のように記されている。

・奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。
彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。

・ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。
ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。
ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。

・この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。
その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。
1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。
その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。

・奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には
我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い
と記されています。

・ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。

・(アシャンティ王国は)それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました。


奴隷たちを荷物同然に船に積み込んだり、過酷な労働をさせたヨーロッパ人も惨酷だが、食用だと思って奴隷を出荷していたアフリカ人も惨酷といわざるをえない。

③ アフリカ、奴隷貿易で衰退、植民地化する。

しかし1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立され、1807年にはイギリス、アメリカ、1814年にはオランダ、1815年にはフランスと次々に奴隷貿易が禁止された。
その理由のひとつは、イギリスなどの国内で、奴隷貿易は、キリスト教の立場からみて人道的に問題があると批判されるようになったためであるという。

奴隷貿易の廃止によってアフリカ諸国は衰退し、ヨーロッパ各国と保護条約を結ぶなどして植民地化されていった。
これは、自分で自分の首をしめる結果になったといわざるをえないのではないだろうか。

④残虐性は民族の特性ではなく個人の特性

残虐性は民族の特性ではなく、個人の特性、または環境によって作り出されるものだと私は思う。
それは左的な思想からくるものではなく、科学的に考えるとそういう結論になるのではないかと思うのだ。

ヨーロッパの商人たちはお金儲けのために奴隷貿易をおこなったが、ヨーロッパ人の中にはそれを「人道的ではない」として批判する人々もおり、その結果奴隷貿易は廃止された。

ある人は「アフリカ人は優しい」と発言されていたが、「食肉用と思って奴隷を出荷していた」アフリカ人もいた。

日本はアメリカに原爆を落とされた。これはとんでもなく残虐な行為である。
さらにGHQはプレスコードで報道を制限し、原爆被害の報道をさせないようにしていた。
そんな中で、現地取材し、原爆の真の恐ろしさを伝えたジャーナリスト・ジョン・ハーシーがいた。
彼はアメリカ人である。
https://courrier.jp/news/archives/209821/

日本海軍は「海軍々人精神注入棒」で毎日隊員の虐待を行っていた。
https://373news.com/_news/storyid/135693/

その一方で、「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」と話すイギリス人もいる。

これらの例が示すことは、残虐性などの人間の性質は、民族やDNAによって決まるのではなく、個人の資質、または置かれた環境によって形成されるものであって
「ヨーロッパ人は残虐」などとはいえないということである。


関連記事
スポンサーサイト




[2022/10/07 14:22] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/tb.php/1009-113cf971