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平城天皇陵は5世紀の前方後円墳をリメイクしたものだった?(不退寺) 

不退寺 黄菖蒲2
不退寺 黄菖蒲
不退寺・・・奈良県奈良市法蓮東垣内町517
平城天皇陵(市庭古墳)・・・奈良市佐紀町塚本市庭

809年、平城天皇は病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し、平安京を出て平城京に移り住んだ。
翌810年、健康を取り戻した平城上皇は藤原仲成・薬子兄妹らに担ぎ上げられて重祚(再び皇位につくこと)を企て、「都を平安京から平城京へ移す」と詔を出した。
このため平安京に住んでいた嵯峨天皇と対立し、平城上皇は挙兵のため東へ向かった。
しかし嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を東に派遣しており、藤原仲成は処刑された。
藤原薬子は服毒自殺し、平城上皇は出家した。
これを『薬子の変』と言う。
不退寺は『薬子の変』で敗れた平城天皇が出家後に住んだ『萱の御所』があった場所だと伝わっている。

不退寺の西2kmほどのところに、市庭古墳があり平城天皇陵に比定されている。
市庭古墳は5世紀につくられた古墳だと考えられる。
一方、平城天皇は平安時代の人物なので、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇陵は5世紀の古墳を流用して葬られたとする説がある。

1962-63年、市庭古墳の発掘調査を行ったところ、驚くべきことが判明した。
それまで市庭古墳は円墳だと考えられていたのだが、前方部が壊されていた跡が見つかったのである。
市庭古墳はもともとは前方後円墳だったのだ。
前方部は南向きで、平城京築造の障害になったため、前方部が取り壊されたものと考えられている。

しかし私は市庭古墳の前方部が壊されたのは、平城京築造の障害になったためではないと思う。

平安京は船岡山を起点として造営されている。
←平安京の北に船岡山公園とあるところが船岡山である。

これと同じく、平城京は市庭古墳の後円部を起点として造営されたのではないだろうか。
そして起点は後円部のみのほうがふさわしいということで、前方部は取り壊されたのではないか。
市庭古墳の後円部は平城京の真北に位置している。
 地図→☆ (左の+-のめもりを上から四番目くらいにあわせると、わかりやすいと思います。)
地図を見ると平城天皇陵の真南に平城宮跡、大極殿跡があるのがわかる。
市庭古墳(平城天皇陵)と平城京の位置関係は、平安京と船岡山の位置関係に似ている。

古墳を平城京建都の起点にするというのは異様なことのようにも思えるが、もともとの市庭古墳は平城京にとって重要な人物を葬った古墳だったのかもしれない。

さきほど、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇は市庭古墳を流用して葬られたという説があるということを紹介したが、私は最初、古い古墳を流用して天皇陵とするなどとんでもない、と思っていた。
しかし調べていくうちに「平城天皇はもともとあった古墳を流用して葬られた可能性があるかもしれない」と考えるようになった。

市庭古墳が平城天皇陵に比定されたのは、江戸時代から明治にかけて天皇陵の治定が行われたときだろう。
なぜ市庭古墳は平城天皇陵に比定されたのだろうか。

明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、市庭古墳の近く(現在の佐紀幼稚園付近)には超昇寺という寺があった。
平城上皇の第三皇子・高岳親王が「薬子の変」ののち出家して眞如と称し、平城天皇が住んでいた楊梅の宮を寺にしたのが超昇寺であるという。
高岳親王は、中国から印度へ向かう途中、虎に襲われて亡くなったことで有名な人である。

超昇寺は平城天皇の揚梅宮跡にたつ寺だが、平城天皇陵は楊梅陵と記録にある。
揚梅陵とあるからには、揚梅宮の近くにあったのではないかと考えられ、揚梅宮跡にたつ超昇寺の近くにある市庭古墳が平城天皇陵であると治定されたのだろう。

高岳親王は何を目的として超昇寺を創建したのだろうか。
古より天皇陵を守護するための寺が建てられることがあった。
超昇寺は平城天皇陵の陵寺だったのではないだろうか。

日本では先祖の霊はその子孫が弔うべきだと考えられていた。
超昇寺を創建した高岳親王は平城天皇の第三皇子で、平城天皇を弔うのに最適の人物である。

薬子の変で敗れた平城天皇は謀反人であり、祟り神となる要素を持ち合わせていた。
昔の日本には「祟り神は祀り上げると守護神に転じる」という信仰があった。
そこで当時平安京に住んでいた皇族や貴族たちが、平城天皇を平城京の守護神とするため、市庭古墳に平城天皇を葬ったのかもしれない。

「天子南面す」といい、北はもっとも重要な方角だとされていた。
天皇という言葉は道教では北極星を神格化した神だとされている。
北極星は天の中心にあって全ての星は北極星を中心に回る。
北が重要な方角だとされたのは、この北極星の信仰から来るものだと思う。
この時代、都は平安京に移り、平城京は首都であったころの華やぎを失っていたことだろう。
平城天皇は古の奈良の都の天皇(北極星)というわけである。

不退寺は平城天皇の萱の御所のあった場所だと伝わるが、境内に傷だらけの石棺があるのが気になっている。
不退寺 石棺2
不退寺にある石棺
説明板には次のように記されていた。

「石棺
ウワナベ古墳南側の平塚古墳(現在24号線バイパス)から発掘されたもので、石材は砂岸の一種。
草刈の人がこれで釜を研いだ痕が沢山残っている。
長さは2.7mで舟型割竹くり貫き石棺ともいう。」

不退寺を出て関西本線の踏切をわたると国道24号線に出る。
平塚古墳はどうやらこのあたりにあったようだが、現存していない。

受付でもらったパンフレットには次のように記されていた。

「石棺(5世紀)
庫裏の庭にあって石材は春日 (砂岩の一種)で、心ない草刈の人がこれで釜を研いだと思われる痕が沢山残っている。
付近には古墳がたくさんあって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。」

釜を研いだあとがたくさんあることから、この石棺がしばらくの間、野に打ち捨てられていたことがわかる。
石棺は市庭古墳のもともとの被葬者のものなのではないか。
市庭古墳を平城天皇陵としたため、野に打ち捨てられていたのを、平城天皇と縁の深い不退寺に運ばれてきたものだったりしないだろうか。

私はそんなことを考えた。

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[2014/05/17 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)