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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮ 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?



「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮高松塚キトラ古墳は皇族の墓ではないかも?」
よりつづきます~

梅原猛氏は、法隆寺や出雲大社の壁画をとりあげて、
「壁画を描くのはそこに祀られているものが怨霊であるからだ」
「壁画古墳である高松塚の被葬者は怨霊だ」
というような意味のことをおっしゃっていた。
※梅原猛氏が「黄泉の王」を著した時。キトラ古墳は発見されていなかった。

怨霊とは「政治的に不幸な死を迎えた人」の事で、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」で、長広氏は唐の壁画墳の被葬者について記しておられた。


「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。


1⃣唐の壁画墳の被葬者について

①執失奉節 
658年埋葬。
父は突厥の酋長。唐高祖の皇女(九江公主)が降嫁している。

https://core.ac.uk/download/pdf/228672433.pdf
上記記事には、次のような内容が記されている。

執失奉節は思力の息子。善光は思力の弟の子、甥。
執失氏には、「執失奉節墓誌」と「執失善光墓誌」が存在する。
執失善光の曽祖父(思力から見ると祖父)は淹といい、祖父(同じく父)は武。
両者とも突厥のエルテベル(突厥支配下の首領の称号)で。世襲。
太原で李淵が起兵した際に数千騎を率いて長安制圧を援助している。
この功績によって、執失淹とその子の武は、高祖から金紫光禄太夫・上柱国の位を受けた。
『通典』巻一九七「辺防十三 突厥上」では、「思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した」とある。
墓誌の記述では「思力が太宗に策をもたらした」「太宗は突厥滅亡後に思力と血を啜って盟約を結んだ」と記されている。
723年に作られた「執失善光墓誌」には、「高宗即位直後に起こった房遺愛の変に関わったとして失脚した、思力の名誉回復の意味合いがあり、善光が思力に成り代わって太宗の陵墓、昭陵に陪葬された」とある。

②趙澄之
696年埋葬

③李爽 
668年埋葬
銀青光䘵太夫・守司刑・太常伯・朝臣

李爽(592-668)西安市雁塔区、李爽の字は乾祐、京兆長安の人。
627年に殿中侍御史となり、長安令、治書御史などを歴任した。
中書令の駲遂良とは不仲で、李爽が崔擢を尚書に推薦したが拒否された。
その後崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
墓は西安市の南郊外の羊頭鎮にあり、鄭氏と合葬されている。
墓は全長24.5m。墓には25の壁画がある。

永泰公主
706年埋葬
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。

700年、永泰郡主に封ぜられ、食邑千戸を受けた。
武承嗣(武則天の甥)の子の魏王武延基に降嫁した。
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。
『大唐故永泰公主誌銘』によると、兄と夫の刑死でショックのため流産し重体となり、翌日薨去したとある。
705年、中宗が即位すると、永泰公主に追封された。706年、乾陵に陪葬された。

⑤韋泂 
708年埋葬
韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。

韋泂の姉の韋皇后は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。
中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流されそれに随行。
705年、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。
710年、自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺し、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。
間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。
韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。

韋泂は708年に埋葬されているので、708年までに16歳で死亡したということになる。
708年に16歳で死亡したとすれば、生年は692年ごろである。 

⑥薛氏 
710年埋葬
※中国では女性の場合、実家の氏を名乗る。
太平公主(則天武后の娘)の次女。万泉県主。

薛氏の母、太平公主について、ウィキは次のように述べる。

父は唐の高宗、母は武則天(則天武后)。
本名を李令月とする説もある。
高宗の末娘として生まれ、両親に寵愛される。
681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。
夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死。
690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。
病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執ると、武則天政権の一翼を担う。
武則天が病に倒れると、その愛人・張易之、張昌宗兄弟が専横を極めた。
705年、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させる。
その後宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復する。
張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させた。
710年、武三思は安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と関係を持つ。
不倫の暴露を恐れた安楽公主は韋后と組んで中宗を毒殺した。
韋后、温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡とした。
太平公主は甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をこ誅殺。
李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させる。
太平公主、皇妹となり、万戸の封を与えられ、息子たちも王に封ぜられた。
宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極め、皇太子の李隆基(のちの玄宗)と対立を深める。
712年、睿宗が皇太子の李隆基(玄宗)に譲位。
公主は玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。
713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。(終生、禁固を受けた説もある)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%85%AC%E4%B8%BB

「681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。」とある。
薛氏はこの二女のうちの次女ということだ。
「713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。」とあるが、薛氏は710年に埋葬されているので、この時すでに母よりも早くなくなっていたということになる。

「690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。」
とあるので、薛氏の生年は681年から690年ということになる。
次女ということなので、682年から690年としてもいいだろうか。
そして薛氏の没年はもっとも遅くても埋葬年の710年になる。
ということは薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったことになる。

⓻薛莫と妻史氏
728年合葬
右驍衛大将軍・雁門県開国公・上柱国・左万騎使

⑧馮潘州 
729年埋葬。贈潘州刺史。宦官・高力士の父。

馮潘州の子・高力士についてウィキは次のように記す。

生没年 690年~762年
もとの姓は馮、諱は元一。
唐に降伏し、耿国公に封じられた隋末の群雄の馮盎の曾孫。祖父は潘州刺史の馮智玳。
父は馮君衡(馮潘州ともいうのだろうか)。母は麦鉄杖の曾孫娘。
少年時代に去勢し、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名の少年とともに、嶺南安撫討撃使の李千里(呉王李恪の長男)により武則天に献上された。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。

(このあたりの事情は
684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名したとある。
このとき馮元貴(高元珪)も高姓に改名した。

697年、馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑され、武皇后が宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
つまり、高延甫の弟が馮元儀(高力士)であり、
馮元貴(高元珪)は彼らの弟。
高延甫・
高力士・高元珪は兄弟という事ではないかと思う。(まちがっていたら指摘お願いします。)

武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となった。
高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つ。
1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。
景龍年間に皇子時代の李隆基と交流する。
710年の韋后討伐の政変に協力し、朝散大夫・内給事に任じられた。
玄宗の即位後の713年、太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光禄大夫・行内侍省同正員に任じられた。
開元年間に入って右監門衛将軍・知内侍省事。
730年、政敵・王毛仲の排除を玄宗に進言。
731年、王毛仲は左遷され、自殺を命じられた。
738年、皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李璵(後の粛宗)を勧め、李璵が皇太子となった。
冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となる。
天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い自宅に戻る。
748年、驃騎大将軍。
752年、王鉷の弟の王銲と邢縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、邢縡を斬る。
安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。
粛宗(李亨、もとの名を李璵)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。
760年、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時、李輔国を叱りとばしてその危機を救うが、巫州に流された。
762年、恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し血を吐いて死去した。

⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。

ウィキペディアに楊思勗(ようしきょく)という人物の頁がある。
ウィキペディアには「もとの姓は蘇」と記されているので、楊思勗と蘇思勗は同一人物と思われる。
楊思勗は740年に死亡しており、蘇思勗は745年に埋葬されているが、
永泰公主は701年に死亡し、706年、乾陵に陪葬されているし
馮潘州(馮俊恒)は697年に亡くなって、729年に埋葬されているようなので、死亡年と埋葬年外れるケースがある。
またウィキペディアには「楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進している。」とか「内侍省に勤めた」などともあり、長広氏の記述と一致する。

もとの姓は蘇であったが、楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。
707年、中宗の太子である李重俊が、武三思・上官婉児の討伐を名目に挙兵し、中宗に迫った時、
宮闈令であった楊思勗が、李重俊軍の先鋒総官の野呼利を斬り殺した。
李重俊の挙兵は失敗に終わり、楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進。
710年、李隆基(後の玄宗)に従い、韋皇后の討伐に加わって功績を立て、右監門衛将軍に任じられる。
722年、安南の首領である梅叔鸞(梅玄成)が反乱を起こし、32州を制し、衆40万を号して「黒帝」と称した。
梅叔鸞は、林邑国・真臘国と通謀して、安南府を陥落させた。
楊思勗が討伐を命じられ、梅叔鸞を捕らえて、党類も全て処刑された。
724年、覃行璋が反乱を起こした。楊思勗は覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺した。輔国大将軍に昇進。
玄宗の封禅の時に従い、驃騎大将軍になる。
726年、邕州の首領・梁大海が数州とともに反乱を起こした。楊思勗が討伐し2万人余を殺し、京観(敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とする風習)とした。
728年、瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。
陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。
楊思勗は何遊魯と馮璘を殺し、6万人を殺し、莫大な財を奪う。
楊思勗は捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せた。
739年、内給事の牛仙童が張守珪から賄賂を受け取っていたことが判明した。
玄宗に命じられ、楊思勗は彼を数日縛りつけた上で、その心臓を取り出し、手足を断ちきり、肉を切り裂いて食したと伝わる。
740年、80余歳で死去。

⓾雷府君婦人宋氏 
745年埋葬。

⑪張去奢
747年埋葬。少府監。

張去奢について検索すると、中国版ウィキペディア「張去奢- 維基百科,自由的百科全書」がでてくる。
これを日本語に自動翻訳するとタイトルは「チャン・クシェ」となり、本文には「張去奢」ではなく「張曲社」「張秋社」とでてくる。
しかし中国語の記事では「張去奢」となっているので、「張曲社」は「張去奢」の事だと思われる。

張去奢(688年—747年),字士則,唐朝官員,郡望范陽(今北京市西南),祖籍南陽郡西鄂縣,定居京兆萬年縣。

張去奢曾祖父張立德,官至秦城都尉;祖父張崇,為延州刺史;父親張守讓閬州司法、贈涼州都督、兵部尚書,母親竇氏是唐玄宗的姨母。張去奢開始擔任右衛率府倉曹參軍。開元初年,歷任左衛率府長史、左金吾衛長史,太子司議郎、右贊善大夫、秘書丞、率更令、郢州沁州二州刺史、殿中少監。居宅在長安安業坊。哥哥張去惑、張去疑、弟弟張去逸、張去盈皆受殊榮。開元二十一年關中久雨害稼,京師缺糧,人多菜色,張去奢官拜京兆尹,[1]他和張去逸、張去盈同時三品,故號為三戟張家。加銀青光祿大夫,封范陽縣伯。開元二十八年轉任右金吾衛大將軍、少府監。天寳六年(747年)三月十二去世,年六十歲,十月初七日葬。諡號惠,妻子南安龐氏,有子張沔、張演、張泌。

1953年於渭城區發掘出張去奢墓,為斜坡道磚室墓。墓道、墓室內均發現壁畫,內容為青龍、白虎等。出土墓誌及陶器多件。張去奢墓誌銘為韋述撰,裴冕書、楊嵒刻字。正楷。志石方形,志文35行,邊長87.5厘米。現存西安碑林。新唐書誤記常芬公主的駙馬張去盈為張去奢。


ウィキペディアを自動翻訳し、まとめたのが以下。

張曲社(688 ~ 747) は、唐代の役人で、范陽県(現在の北京市の南西) の司令官。
張曲社の曾祖父、張立徳は秦城の船長、祖父、張崇は兗州の知事、父の張寿は朗州の裁判官、涼州の知事、省の大臣。
母親の竇は、唐の玄宗皇帝の叔母。

張曲社は右衛兵として働き始め、曹操を軍に導いた。
開元開元(開元、713年12月~741年12月/唐の玄宗皇帝李隆基の治世名)の初期、
彼は左魏公邸の石長官、左金武衛兵の石長官、思宜郎公、ヨウザンシャン博士、程書記、林庚陵、営州、欽州の知事を歴任した。
宮殿の少建。(少建が何を意味するのかわからない。役職名?宮殿を建てた、という意味?)
長安の安寧坊に住んだ。
兄の張曲虎、張曲儀、弟の張曲芸、張曲英は全員この栄誉を獲得した。(この栄誉を獲得したとはどういう意味か?)
開元 21 年(733年)、関中に長雨が降って農作物に被害があり、都は食糧不足で人も食糧も多かったので、都の官吏だった張曲社は趙允に敬意を表した
(これも意味がわからない。)
張逡と張饕はともに三位だったため、三司張家とよばれた。
張曲社は殷清光魯医師、范陽県の伯の称号を与えられた。
開元28年(740年)、楊進武威将軍・少府監に転任。
天宝6年(747年)3月12日に60歳で亡くなり、10月7日埋葬された。
諡名は恵、妻は南安出身の龐、息子に張密、張燕、張碧がいる。

1953 年に渭城区で張秋社の墓が発掘された。これは坂道のレンガ室の墓だった。
壁画は墓の通路や墓の内部で発見され、緑の龍や白虎などが描かれていた。
多くの碑文や土器が出土した。
張曲社の碑文は魏叔が書き、培銘と楊燕が刻んだ。ブロック文字。
石は正方形で、文字が 35 行あり、一辺の長さは 87.5 cm 。西安に現存する石碑の森。
『新唐書』には、長芬公主の妃である張曲英が張曲社と誤って記録されている。

⑫高元珪
756年埋葬。宦官高力士の兄。明威将軍検校左威衛将軍。

冯元珪(684年—755年),即高元珪,唐朝将领,高力士的二哥,冯君衡的次子。

生平
684年,冯元珪出生于潘州城西。697年,冯君衡为万国俊诬陷谋反,被诛。因武后让内侍省宦官高延福收其弟冯元一为养子而获赐姓高,改名高力士[1][2],冯元珪也因此改姓高。高元珪讨海盗,加授柱国,授川果毅,转任鸿门折冲。唐玄宗开元十九年(731年),高元珪加勋柱国,迁领军郎将,任金吾中郎等职。开元二十八年(740年),高元珪任右司御率,左威卫将军,加紫绶。天宝十四年(755年)高元珪于长安去世,年七十二岁,翌年春葬东郊龙首原,赠陈留郡太守。高元珪长子高承龙任左卫兵曹参军,次子高承秀任左卫率府仓曹参军,求苏预为其父撰碑文。


以下はこれを自動翻訳してまとめたもの。

高元珪(684 ~ 755 年) は、高元貴としても知られ、唐時代の将軍で、高力士の次弟で、馮俊恒の次男。

684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。
このとき馮元貴も高姓に改名した。
高元珪は海賊と戦い、祝国、伝国儀を授与され、紅門哲忠に移送された。
731 年、高元貴は荀竹に加わり、軍を率い、金武忠郎などを務めた。
740 年、高元貴は楊氏の皇帝、左の衛微の将軍に任命され、紫綬章を授けられた。
755年、高元貴は長安で72歳で亡くなり、翌年の春に東郊外の龍寿園に埋葬され、陳柳県知事に献上された。
高元貴の長男、高成龍は左衛に任命され、曹操を入隊に導き、次男の高成秀は左衛に任命され、曹操を従軍に導いた。
父親のために碑文を書いた。


⑬高克従
847年埋葬
宦官高力氏の5世孫。義昌軍監軍使。

宦官なのに子孫がいるの?と思ってしまうが、宦官は養子をとることが一般的であったようだ。

”唐・宋においては、宦官は養子を取って家を継がせると共に宦官とし、宦官が世襲化しているのが特徴です。
 代表的なものとして高力士の家があり、『唐代墓誌彙編続集』所収の「故義昌軍監軍使正議大夫行内侍省掖庭局令上柱國賜緋魚袋渤海高公墓誌銘」にはおよそこのように書かれています。

 公の諱は克従、字は師倹、開元年間の開府儀同三司・内侍監・斉国公・知省事の力士が公の五代前の先祖である。公の曽祖父の閎は力士の曾孫である。祖父の秀琪は内給事で緋魚袋を賜り、父の忠政は内侍省内府局丞であった。
 公は幼くして宮中に仕え、長じて帝に気に入られた。
 大和の初め(827)に内養に任命され、まもなく枢機に異動となり、師官補佐の激務をよく勤めて高く評価された。
 大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
 開成の初め(836)より、地方の軍は制御し難く吐蕃が国内を脅かしたので、善良で有能な人物を選んで節度使を監督することになった。
 二年正月九日、公は適任者として選ばれ監軍となると、任地の城塞で衆望を集め、吐蕃の情勢を調査して明らかにした。党項とは三百年来互いに殺戮を繰り返して襲撃は止むことがなく国境警備の兵は疲弊していた。公は主将と共に党項を懐柔すると同時に、法を厳格にして威を示した。帝から交渉の全権を委ねられた公は「敵対関係を棄てて、牧草地は譲り、互いの行き来は妨げない」という条件で講和した。その成功により褒め称える詔書が出されてより一層頼りとされた。撫綏すること五年、人々の弊害を除き辺境を安定させた。
 会昌元年(841)冬に都に上って参内し、二年正月には翰林副使を拝命した。
 三年三月に染坊使になると命を奉じて宣諭するなど、その活躍は記しきれないほどである。
 会昌四年(844)に上党で反乱が起こると近隣の軍に討伐を命じたが、これを纏める人物が必要となった。その年七月十日、公は義昌監軍に任命され、河隍に到着すると日夜休むこと無く主将と事態の収拾に努めた。数ヶ月経って主将が異動となると、公は臨時に軍務を行うよう命じられた。州の人はみなこう言いあった。
 「義昌軍が創設されて以来、監軍が自ら軍権を握ったことは無い 。上手く行くだろうか。」
 公は陣の出入り口に軍の指揮官を置き、親戚と付き合いを疎遠にし縁故者を地位に就けないようにして、これを規則として定めた。公は感嘆して言った。
 「草が風に靡くように水が器に収まるように、軍律は行き届くものだ。理に背かなければ兵たちはよく従うであろう。」
 それから公はこの地域に礼楽を導入して仁義をもって人々を慰撫したので、教化が行き渡り人々は穏やかになり、「殺伐としていた河北の地は、長江の民が住んでいるかのごとく穏やかだ。」と言われるようになった。
 公は日夜善政を行うため思案を廻らし、他人の不安もわが事のように思案したため、心労が重なり心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。享年六十三。
 夫人の戴氏は賢く徳があり、何年も家を空けていた公に代わって欠けること無くよく家を治めた。
 公には二子がいる。長子は公球といい義昌軍押衙、次子は公璵で行内侍省雲騎尉上柱国である。
 大中元年(847)十月五日に万年県滻川郷鄭村に埋葬し、この文を石に記す。”


2⃣まとめ

①執失奉節 
奉節の父の思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した。

②趙澄之 ?

③李爽 
崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。

④永泰公主
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。

⑤韋泂 
16歳で死去。

⑥薛氏 
薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったか?

⓻薛莫と妻史氏 ?

⑧馮潘州 
馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑された。

⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。


⓾雷府君婦人宋氏 ?

⑪張去奢 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。

⑫高元珪 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。


⑬高克従 
大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。

※高句麗壁画古墳は被葬者がわからないものが多く、調べることができなかった。

怨霊になる条件は、「政治的に不幸な死を迎えた」ことである。

この条件にはっきりあてはまるのは13人中5人(①執失奉節 ③李爽  ④永泰公主 ⑤韋泂 ⑧馮潘州)である。
もうすこし調べてみる必要はあるだろうが、この結果から、
「中国において、墓に壁画が描かれたのは、被葬者が怨霊であるケースである」とはいえない。

日本は中国とは異なるということはありえるが。

松本清張氏は次のようにおっしゃっていた。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に拘束されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

官寺には壁画や塼仏がないというのである。

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

前回の記事で、私は次のように述べた。

「皇族の墓のいくつかは発掘調査されていると考えられるが、それらの石室には壁画がなかった。
九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳は皇族の墓ではないだろう。
さらに官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁があるという。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?」と。

さらに唐の壁画墳の被葬者を調べたところ、壁画墳の被葬者が怨霊だとは言い切れないように思った。

「壁画墳の被葬者は怨霊」と考えるよりも、「壁画墳の被葬者は皇族ではない」と考えるべきかもしれない。


次回につづく~
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