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それってコホート研究ではなく時系列研究では?





頁の最後に、上の動画の書きおこしを記した。

1⃣コホート研究とは何か

上のサイトの「2.コホート研究」の図内で次のように説明している。

(引用ここから)
「ある集団を、ある危険因子(放射線、アスベスト、喫煙、生活習慣など)を持っている集団と持っていない集団にわけ、時間がたった後、どうなっているかを調べる方法です。
(引用ここまで)

武田先生はこのコホート研究を次のように説明されている。

「2:00 例えば1万人なら1万人数をとってですね、タバコを吸っている人はどうかとか、それから朝ごはんを食べている人はどうかとかですね、野菜を摂ってる人はどうかという研究をするんですね。
で1万人の人で野菜を1日200gとっている人と300g とっている人とを比べると
200グラム野菜をとってる人よりか300g 野菜をとっている人のほうが健康だったと、こういうようなのがコホート研究なんですね。」

武田先生のこの「コホート研究の説明」は正しいと思う。わかりやすく整理して書けばこういうことだ。

危険因子を持っている集団・・・野菜を1日200gとっている人(野菜の摂取量が少ない人)・・・健康な人の割合が少ない
危険因子を持っていない集団・・・野菜を1日300g撮っている人(野菜の摂取量が多い人)・・・健康な人の割合が多い

2⃣それってコホート研究ではなく時系列研究の説明では?

武田先生はコホート研究にはトリックがあるとし、次のようにおっしゃっている。

「3:42 20世紀1900年から2000年の間の100年間、だんだんだんだん地球の温度が上がってきたと言うのがあるんですね。
でこれは何だろうかということを整理した人がですね、例えばですね、自分の年齢と比較しますね、国民の年齢でもいいですね
そうすると 1900年に生まれた人がだんだん年をとっていくと気温も上がっていくという綺麗な直線が得られます。
そうするとコホート研究ではですね、日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。
私よく昔そういったんですよ。 co2二酸化炭素が温暖化ガスと言われてますけども、
co2濃度が増えると地球は温暖化するというのは、随分言われた時期があったんですね。
それで私がですね、
『そんなことってありませんよ。そんな整理の仕方だったら武田邦彦の年齢が上がれば地球が温暖化するっていうことを同じように言えます』とこういったわけですね。」

これを聞いて私は「武田先生の『xの法則』に対する批判」を思い出した。
『xの法則』とは、「喫煙率が下がるほど、肺癌が増えている。タバコは肺癌抑制剤である。」とする武田先生の説である。

「タバコを吸わない人に対して、タバコを吸うと肺がんの死亡率は10倍以上減る」と記し、グラフが掲載されている。
このグラフがxの文字に似ているので、武田先生は「xの法則」と名前をつけたのだろう。

図①

xの法則
「奇っ怪な結果?? タバコを吸うと肺がんが減る?!」より引用

武田先生の「xの法則」は間違いであることが、ネット上などで数多く指摘されている。
xのグラフの「喫煙率の低下」と「肺癌の増加」は因果関係を示していないという指摘が多い。

肺癌の原因は喫煙だけではない。
喫煙による肺癌が減っているとしても、大気汚染や高齢化による肺癌が増えていれば
喫煙率が下がっても、肺癌は増えることになる。(図②)

図②

肺癌死亡率

つまり、図①のグラフから「喫煙率が下がったことで、肺癌が増えた」とは、導くことはできない。
こんなことがいえるなら、「ガラケー使用者が減ったから、肺癌が増えた」ともいえてしまう。(図③)

図③

ガラケー使用率

あれ?この図は、武田先生のxのグラフ(図①)と同じではないか。

『「ガラケー使用者が減ったから、肺癌が増えた」ともいえてしまう。』というのも
「武田邦彦の年齢が上がれば地球が温暖化するっていうことを同じように言えます」という武田先生のご発言と同じ意味だ。

また武田先生は
「1900年に生まれた人がだんだん年をとっていくと気温も上がっていくという綺麗な直線が得られます。
そうするとコホート研究ではですね、日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。」
とおっしゃっている。

グラフにすると図④のようになる。

図④
1900年に生まれた人の年齢

図①(喫煙率が下がると肺癌が増える)と、図③(ガラケー使用率が下がると肺癌が増える)
は2本の線が交差しており、
図④(1900年に生まれた人の年齢があがると気温があがる)
は2本の線が平行になっているという違いはあるが
図①、図②、図③はいずれも二つの時系列研究
(時系列研究という言葉があるのかどうかしらないが、『「喫煙率が下がると肺がん死が増える」のはなぜか?』
など複数の記事で武田先生のXのグラフを時系列研究といっているので、時系列研究という言葉を使うことにする。)
であってコホート研究ではないし、このような時系列研究は因果関係を示すものではない。

「2:00 例えば1万人なら1万人数をとってですね、タバコを吸っている人はどうかとか、それから朝ごはんを食べている人はどうかとかですね、野菜を摂ってる人はどうかという研究をするんですね。
で1万人の人で野菜を1日200gとっている人と300g とっている人とを比べると
200グラム野菜をとってる人よりか300g 野菜をとっている人のほうが健康だったと、こういうようなのがコホート研究なんですね。」

上の武田先生のコホート研究の説明は正しかった。
しかし、下に示す武田先生があげた例は、「コホート研究」ではなく「時系列研究から誤った結論を導き出した例」だと思う。

①「日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。」

どうしてかというと、全然因果関係もなんでもないんですけども
私は1年経つと1歳としておりますよね。地球の温度がずっと上がり続けてる場合ですよ。1年に0.01度とが0.001度上がるとしますね
そうすると武田邦彦の年齢があがるたびに地球の温度が上がると。
だからこれは武田邦彦の年齢によるもんなんだ、ちゅうですね結論になっちゃうんですね。

 co2は毎年増えて地球の温度は毎年高くなっている。そうするとですね、 co2が増えると地球の温度が増えるなんてことはすぐ関係しちゃうんですね。

たとえばインドの GDP、インドの生産性が上がると地球の温度は上がるということもなりますね。コホート研究なら。

テレビの画質が良くなるたびに地球が温暖化するとこう言ってもいいんですね。

3⃣コホート研究では「危険因子を持っている集団」と「持っていない集団」を比較する。

なぜ上の①~⑤の例はコホート研究ではないのか。
コホート研究とは
「ある集団を、ある危険因子(放射線、アスベスト、喫煙、生活習慣など)を持っている集団と持っていない集団にわけ、時間が経過した後、どうなっているかを調べる」研究方法のことだった。

武田先生があげられた例が、何と何を比較しているのかを見てみよう。(赤文字で示す)

①「日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。」・・・年齢と地球の気温

②どうしてかというと、全然因果関係もなんでもないんですけども
私は1年経つと1歳としておりますよね。地球の温度がずっと上がり続けてる場合ですよ。1年に0.01度とが0.001度上がるとしますね
そうすると武田邦彦の年齢があがるたびに地球の温度が上がると。
だからこれは武田邦彦の年齢によるもんなんだ、ちゅうですね結論になっちゃうんですね。・・・年齢と地球の気温

③ co2は毎年増えて地球の温度は毎年高くなっている。そうするとですね、 co2が増えると地球の温度が増えるなんてことはすぐ関係しちゃうんですね。・・・CO2と地球の気温

④たとえばインドの GDP、インドの生産性が上がると地球の温度は上がるということもなりますね。コホート研究なら。
・・・GDPと地球の気温

⑤テレビの画質が良くなるたびに地球が温暖化するとこう言ってもいいんですね。・・・テレビの画質と地球の気温

いずれも「危険因子を持っている集団」と「危険因子を持っていない集団」に分けたものではない。

オレンジ色の文字で示すような比較をして、温暖化に影響を与えているかどうかを考えるのが、コホート研究だと思う。

①「日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。」・・・年齢と地球の気温
危険因子を持っている集団・・・60歳以上の集団(高齢者)
危険因子を持っていない集団・・・60歳未満の集団(高齢者以外)

②どうしてかというと、全然因果関係もなんでもないんですけども
私は1年経つと1歳としておりますよね。地球の温度がずっと上がり続けてる場合ですよ。1年に0.01度とが0.001度上がるとしますね
そうすると武田邦彦の年齢があがるたびに地球の温度が上がると。
だからこれは武田邦彦の年齢によるもんなんだ、ちゅうですね結論になっちゃうんですね。・・・年齢と地球の気温
危険因子を持っている集団・・・60歳以上の集団(高齢者)
危険因子を持っていない集団・・・60歳未満の集団(高齢者以外)

③ co2は毎年増えて地球の温度は毎年高くなっている。そうするとですね、 co2が増えると地球の温度が増えるなんてことはすぐ関係しちゃうんですね。・・・CO2と地球の気温
危険因子を持っている集団・・・CO2排出量が多い
危険因子を持っていない集団・・・CO2排出量が少ない

④たとえばインドの GDP、インドの生産性が上がると地球の温度は上がるということもなりますね。コホート研究なら。
・・・GDPと地球の気温
危険因子を持っている集団・・・GDPが高い
危険因子を持っていない集団・・・GDPが低い

⑤テレビの画質が良くなるたびに地球が温暖化するとこう言ってもいいんですね。・・・テレビの画質と地球の気温
危険因子を持っている集団・・・テレビの画質がいい
危険因子を持っていない集団・・・テレビの画質が悪い

4⃣調査数が多いとその他の要因は均一化されないか?

野菜と健康の関係においては、野菜を200g食べる集団と、野菜を300g食べる集団にわけ、数年後にどちらがより健康かということを調べるのだろう。

健康には野菜以外の要因(運動不足、大気汚染、ストレス、職業など)も複合的にかかわっている。
そうではあるが、研究対象人数を増やせば野菜を200g食べる人と、野菜を300g食べる人に分けた場合、
野菜以外の要因などはかなり均一化されないだろうか。

日本のコホート研究をみてみると、調査人数はかなり多い。

国立がんセンター多目的コホート調査 ・・・5保健所管内15区市町村の住民(6万から8万人)を対象に死亡、罹患を追跡
文部科学省コホート調査・・・ 全国各地で11万人を対象に、死亡、罹患を追跡
久山町研究 福岡県糟屋郡久山町・・・人口約8,400人
の住民を対象に脳卒中、心血管疾患などを疫学調査

5⃣コホート研究の結果が絶対正しいとは言い切れないと思う。

しかし、コホート研究の結果が絶対正しいとは言い切れないと思う。

たとえば日本人約11万人を対象にした10年間の大規模追跡調査の結果、次のような結果がでた。

・約7時間(6.4時間~7.4時間)の睡眠時間の人が一番死亡率が低い
・「8時間睡眠」は、7時間睡眠に比べて、男性で11%、女性23%、それぞれ死亡率が高い。
・「4時間睡眠は、7時間睡眠に比べて約2倍の死亡リスクが高い。
・10時間以上のは、7時間睡眠に比べて男性で73%、女性で92%高い。


この結果をもって寝不足や寝すぎは死亡リスクが高いとは結論づけられないと思った。
睡眠時間が短い人や、睡眠時間が長い人は、何か疾患をもっていてそれが睡眠時間に影響しており、
死亡率が高くなっているのは、睡眠時間ではなく、睡眠時間に影響が出るような疾患のせいかもしれない、と思ったのだ。

そうではあるが、武田先生がコホート研究の具体例として挙げた者はコホート研究ではなく、時系列研究だと思われるので
「7:00ですからコホート研究は基本的にはダメなんですよ。まあ簡単にはどんな結論でも得られるんです。」
というのは間違いである。
武田先生がどんな結論でもえられるとおっしゃっているのは時系列研究である。
「時系列研究は基本的にはダメなんですよ。まあ簡単にはどんな結論でも得られるんです。」
と言わなければならない。

武田先生も二つの時系列研究をおこなって「喫煙率が下がると肺癌がふえる」と結論づけておられる(図①)が
武田先生ご自身の説明が、ご自身の「喫煙率が下がると肺癌がふえる」は間違いである、と言っていることになる。

6⃣武田先生はコホート研究を高く評価されている?



上の動画で武田先生は次の様におっしゃっている。

「6:14 名古屋大学の医療関係の方がね、長年研究してる日本人の睡眠時間と健康の関係。
これは研究の対象は10万人でけど非常に詳細でまきちっと研究されておりました。
それを見ますとね、日本人の大体健康な睡眠時間ってのは6時間から8時間ですね
8時間以上ではむしろ健康外しますまそのデータですとね」

武田先生が研究者名などを明らかにされていないので、検索したところ、
名古屋大大学院の玉腰暁子助教授らの共同研究グループが、日本人約11万人を対象にした10年間の大規模追跡調査の事をおっしゃっているのではないかと思った。(5⃣に記した研究)

その研究では、
・約7時間(6.4時間~7.4時間)の睡眠時間の人が一番死亡率が低い
・「8時間睡眠」は、7時間睡眠に比べて、男性で11%、女性23%、それぞれ死亡率が高い。
・10時間以上の人は7時間睡眠に比べて男性で73%、女性で92%死亡率が高い。
高く、男女とも睡眠時間が減少するほど、あるいは増えるほど死亡率が高くなるとの結果としており、先生のご発言とほぼ一致する。

玉腰暁子助教授の研究では
仮説として考えられる要因を睡眠時間とし、睡眠時間ごとにいくつかのグループにわけてそれぞれの疾病の罹患率または死亡率を比較されたのではないだろうか。
これはコホート研究なのではないか?

「7:00 ですからコホート研究は基本的にはダメなんですよ。まあ簡単にはどんな結論でも得られるんです。」

と武田先生はおっしゃているが、なぜ玉腰暁子助教授のコホート研究を「きちっと研究されておりました。」と評価されているのだろうか。
時系列研究をコホート研究だと勘違いされているのか。
しかしそうだとすると、武田先生自身が二つの時系列解析を比較したグラフを提示して「喫煙率が下がると肺癌が増える」とおっしゃっていることと辻褄があわなくなってしまう。

7⃣温暖化について

武田先生はこのようにおっしゃっていた。
③ co2は毎年増えて地球の温度は毎年高くなっている。そうするとですね、 co2が増えると地球の温度が増えるなんてことはすぐ関係しちゃうんですね。

CO2と地球の気温二酸化炭素が地球温暖化をもたらすというのは、コホート研究ではなく、メカニズムとして説明されている。

たとえば、
という記事は次のように説明している。

(引用ここから)
❶太陽のエネルギーにより地上が温まる
❷地上から放射される熱を温室効果ガスにより吸収・再放射して大気が温まる
❸温室効果ガスの濃度が上がる
❹温室効果がこれまでより強くなることで、地上の温度が上昇

・地球全体の平均気温が上昇している現象を地球温暖化と呼ぶ
・温室効果ガスは二酸化炭素、メタン、亜酸化窒素などがある
・二酸化炭素の排出が急激に増え始めたのは18世紀の産業革命以降である
(引用ここまで)

これは一般的な二酸化炭素が地球温暖化の原因とする説であるが、もちろん絶対正しいとは言い切れない。
地球温暖化については様々な要因を考える必要があるだろう。

8⃣タバコのコホート研究について

武田先生はこのようにおっしゃっている。

「7:23ですから例えばのタバコをすうと、もちろん一番もっとはっきりしているのは副流煙を吸うと肺がんになるんだ。
全くの手がデタラメなんですね。っていうのはどうしてかというと
タバコを吸う人は4000万人から1000万人くらいに減って女性の喫煙率変わらなくて
副流煙の濃度は30年前に比べればほとんど副流煙はなくなっているにもかかわらず
女性の肺がんとか乳がんは2000人とか3000人の規模だったやつがまあ10万人近くなっているわけですから
だから個別のコホート研究とですね、全体を見渡した結果と全く違う。」

コホート研究では、喫煙者と非喫煙者のふたつにグループわけをして、それぞれの肺癌死者数を比較している。
その結果、たばこを吸わない人に比べて、たばこを吸う人は男性では4.5倍、女性では4.2倍肺がんになりやすいとなっている。
「多目的コホート研究(JPHC Study)たばこと肺がんとの関係について」

武田先生は副流煙についても述べておられるので、副流煙のコホート研究についても見ておこう。

・受動喫煙のないグループと比べて、受動喫煙のあるグループは、約1.3倍肺がんになりやすいが、統計学的には有意ではない。
・受動喫煙のあるグループの肺腺がんリスクは、受動喫煙のないグループの約2倍高い。
・夫の喫煙本数別にみると、受動喫煙のないグループに比べ、日に20本未満で1.7倍、20本以上では2.2倍。
・肺腺がんのうち37%は夫からの受動喫煙がなければ起こらなかったと推計された。
・夫からの受動喫煙に職場など家庭以外の場所での受動喫煙が加わると、肺腺がんのリスクが、わずかですが上昇することが示された。
・受動喫煙中に含まれる化学物質によって肺腺がんが発生することが、動物実験でも示されている。


武田先生はこれ等のコホート研究をデタラメとおっしゃっているのだ。
その理由は、「女性の喫煙率が変わらず、副流煙も減っているのに、女性の肺癌や乳癌が増えている。」からであると。

これはすでに
喫煙による肺癌が減っているとしても、大気汚染や高齢化による肺癌が増えていれば
喫煙率が下がっても、肺癌は増えることになる(図②)と説明した。

肺癌の原因はいろいろ考えられるが、中でも高齢化は大きな原因の一つだと思われる。
実際、高齢化を考慮して年齢調整したグラフでは、肺癌死亡率は減少している。




動画書き起こし(ブログ主が適当に段落に分けて、タイトルをつけた。)

①医者は病気を治す専門家で、健康を守る専門家ではない。
0:00 今日の問題はですね医療の問題なんですが科学の分野として話を進めたいと思うんですね。
医療の問題っていうのはですね、前回医療の方でお話したように、お医者さんっていうのは病気を治す専門家なんですね。
病気というのは健康が害された状態、つまり補修修理の専門家なんですね。
だから修理した人を治すという点についてはまあ日本の特にあのお医者さんとは大したもんで、
本当に身を投げ打ってやっております。
ただ健康を守るというのは違うんですね。
健康な人っていうのは病気をしてる人と違うんですよ。
健康な人ってのは何の故障もなく快調に走っている車なんですね。
その車が快調に走るためには、設計とかエンジン設計とかですね、そういうのが整備とか
そういうのが問題であって故障修理じゃないんですね。
ところがその故障修理の人がですね、設計分野にほとんど訓練なく、方法もよくわからずに突入した。

②タバコが肺癌になる、というのは医者のまちがいで、コホート研究がその間違いを裏打ちした。
1:12 これは主にではですね、1980年くらいからのタバコの問題がそうなんですが
タバコを吸って吐いがんになった人を観察していたお医者さんがですね間違ったんですね
1万人の人がだいたい肺がんになりましたが、残り3999万人のタバコを吸って健康人の状態っていうのは全然違ってたんですよね。だからタバコ吸って肺癌になるかという問題はお医者さんには解けなかったわけです。間違ったわけですね。
ところがそれを裏打ちしたのが実はコホート研究といわれる、まぁ最近その健康な人をあまり研究したことないお医者さんがですね科学的に間違った方法を使っているんですね。

③コホート研究とは何か。
1:55 このコホート研究は素人はよく分かりやすいんですよ。
例えば1万人なら1万人数をとってですね、タバコを吸っている人はどうかとか、それから朝ごはんを食べている人はどうかとかですね、野菜を摂ってる人はどうかという研究をするんですね。
で1万人の人で野菜を1日200gとっている人と300g とっている人とを比べると
200グラム野菜をとってる人よりか300g 野菜をとっている人のほうが健康だったと、こういうようなのがコホート研究なんですね。

④コホート研究は危険
2:32 このコホート研究というのはですね、まぁ私のように科学を長くやってきた人はですね、非常に危険な方法であるということがよくわかってるわけですね。
こんな方法でもしですね、飛行機の材料とか新幹線の車軸とかやったらですね、たちまち事故が起こります。
というのはですね、科学とか自然現象かそんなに簡単にですね、何かをや整理して、それで例えば野菜をうんと食べてる子はどうだ何ちゅう結論を出すとですね、それはもうほとんどの場合は間違ってるわけですよ。
まあ100個に1個くらいからですね、偶然に会うこともあるっていう感じなんですね。
例えば例をあげましょうか。そう言ってもですねそんなことないよと。
だっで野菜を食べている人と野菜を食べてない人と比較したら、野菜を食べている人のほうが健康なんだから
それはそれでいいじゃないかと思うんですよね。
それは実はねどういうトリックがあるかって言うとですね、しょっちゅうあるんです。
これはもう一般的なことなんですよね科学の世界では。ちょっと難しい科学の世界ではですね。

⑤コホート研究はどんな結論でも得ることができる。
3:37 例えば温暖化ちゅう問題を取り上げましょうか。
20世紀1900年から2000年の間の100年間、だんだんだんだん地球の温度が上がってきたと言うのがあるんですね。
でこれは何だろうかということを整理した人がですね、例えばですね、自分の年齢と比較しますね、国民の年齢でもいいですね
そうすると 1900年に生まれた人がだんだん年をとっていくと気温も上がっていくという綺麗な直線が得られます。
そうするとコホート研究ではですね、日本人の年齢が経つと地球が温暖化するっていう結論になるわけですね。
私よく昔そういったんですよ。 co2二酸化炭素が温暖化ガスと言われてますけども、
co2濃度が増えると地球は温暖化するというのは、随分言われた時期があったんですね。
それで私がですね、
「そんなことってありませんよ。そんな整理の仕方だったら武田邦彦の年齢が上がれば地球が温暖化するっていうことを同じように言えます」とこういったわけですね。
みんなその意味がその時よくわからなくてボカーンとして言っておられたんですが
実はですね科学っていうのはですね、もうさまざまな要因が非常に複雑に絡み合っているので
一つのこうなんつーか先入観というか、なんかこういう傾向がないかなと思って調べるとほとんどの場合傾向が出てくるんですよ。だから武田邦彦の年齢が1歳上がることに地球の温度は0.1度上がるなんて結論になるんですよ。
それはそうなんですよね。どうしてかというと、全然因果関係もなんでもないんですけども
私は1年経つと1歳としておりますよね。地球の温度がずっと上がり続けてる場合ですよ。1年に0.01度とが0.001度上がるとしますね
そうすると武田邦彦の年齢があがるたびに地球の温度が上がると。
だからこれは武田邦彦の年齢によるもんなんだ、ちゅうですね結論になっちゃうんですね。
これはあの現在の co2による温暖化も同じなんですよ。co2は毎年増えてるんです。
 co2は毎年増えて地球の温度は毎年高くなっている。そうするとですね、 co2が増えると地球の温度が増えるなんてことはすぐ関係しちゃうんですね。
そんなもんじゃなくてもいいんですよ。
たとえばインドの GDP、インドの生産性が上がると地球の温度は上がるということもなりますね。コホート研究なら。
それでは例えば技術も革新しますからね、テレビが見やすくなるたびにテレビの画質が良くなるたびに地球が温暖化するとこう言ってもいいんですね。
つまりある傾向が見られるときにその傾向を何かの原因にするということはコホート研究的にはもう簡単にできるんですね。
ですからコホート研究とは基本的にはダメなんですよ。まあ簡単にはどんな結論でも得られるんです。
どんな結論でもいられるから社会をごまかすことができるんですね。
これそのその関係が本当に科学的にあるかとか別の意味から整理をしてそれでそうだっていうんじゃないんですね。

⑥タバコのコホート研究について
7:23ですから例えばのタバコをすうと、もちろん一番もっとはっきりしているのは副流煙を吸うと肺がんになるんだ。
全くのデタラメなんですね。っていうのはどうしてかというと
タバコを吸う人は4000万人から1000万人くらいに減って女性の喫煙率変わらなくて
副流煙の濃度は30年前に比べればほとんど副流煙はなくなっているにもかかわらず
女性の肺がんとか乳がんは2000人とか3000人の規模だったやつがまあ10万人近くなっているわけですから
だから個別のコホート研究とですね、全体を見渡した結果と全く違う

⓻誠意ある科学者は個別のコホート研究をすてる。コホート研究は政治用の研究。
こういう時に私たちは科学者誠意ある良心のある良心を持った科学者はですね
絶対に疑って個別のコホート研究を捨てるんですよ、普通は。
ですからここにですね、医療の研究者は科学的良心を持ってもらいたい。
科学的的良心っていうのはですね、コホート研究で出した結論というのは様々なものが出るんだと
だからこういう集団でこういうことを研究したらこうなりましたっていうのはですね
一個や二個じゃあ絶対に学術論文なんか書けないんですよ。
だけど最近のタバコをはじめとしたそういう健康で朝ごはんを食べたのがて、くだらないぞあるんですが、野菜とかですね。
全部コホート研究つまり政治用の研究なんですね。
これはですねロシアとかナチスとかがやった研究なんですよ。
ナチスはいくらでも研究してるんですよ。ユダヤ人は劣等民族だというコホート研究ってあるんですよ。
それすらね、そのなんかユダヤ人とゲルマン人のある集団をとってですねまぁで数学ができるかどうかなんかやったらですね、必ずある。
あらゆる傾向が出てくるんだから好き勝手にできるんですね。これはまぁちょっと政治に絡んでるのはほとんどそうなんですよ。
まあ原発の被ばくとの関係なんかもそういうのがあるんですね。
ですからこれはですね普通の人つまり科学の訓練を受けてない・・・
お医者さんは科学の訓練受けてないといってもいいんですけどね
まああのお医者さんに悪いんですけど、お医者さんのほとんどは治療の研究をされてて
科学の本当のこの現象をどう見るかというようなことはですね、あまり得意ではないんじゃないかと思うんですね
ただ威張っておられますからね、私なんかが医療のこと、病気のこと言うと俺の方がよく知ってるって言うけど
そうではなくて人間の体と病気の関係は科学の範囲なんでそこをですねやっぱりグッとこらえて良心的な結論を出してもらいたいと思います。



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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮-2 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?②



よりつづきます~

前回の記事の追記です。申し訳ありません。

①古墳に天寿国繍張のようなものはかけられていたか?

・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。

天寿国繍張

天寿国繍張

聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。

橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。
古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。(久野健氏)

古墳から天寿国繍張のようなものや、その切れ端が出土したという例はあるのだろうか。



上の動画説明欄に次のような内容が記されている。

・2012/09/27、土浦市坂田の武者塚古墳から出土した布の断片が、7世紀末ごろの「経錦(たてにしき)」と呼ばれる絹織物であることが確認された。

・経錦は奈良県の藤ノ木古墳などで16例以上確認されている。

・「経錦」は、数色一組にした経(たて)糸をそれぞれ1本のように扱い、それに陰緯(かげぬき)と母緯(おもぬき)の2種類の緯(よこ)糸を交互に入れる、複雑な編み方で文様を織り出した高級な絹織物(錦)だ。

・福井県の十善ノ森古墳からの出土例が最古(5世紀後半ごろ)
奈良県の藤ノ木古墳のもの(6世紀後半)、市の風返稲荷山古墳のもの(6世紀)

・武者塚古墳出土の「経錦」は、武者塚古墳に葬られていた6人の遺体の上に掛けられていた。
そのため、遺体の腐敗などの影響で白色化し、文様は確認できない。

経錦について、こちらの記事の写真をみると、かなり絵画的なものもあるが、織物なので、パターン的な柄が多いのではないかと思う。
天寿国繍張のような絵画的なものを作るのは難しかったのではないだろうか。

天寿国繍張のようなものが古墳から出土した例はあるのだろうか。(あれば教えてくださいね)
そういう物が見つかっていないのであれば、古墳に先のまがった釘が規則的に並ぶ例があるとしても、
古墳に天寿国繍張のようなものを掛けたとは言い切れない。

⓶官寺に塼仏はないのか?

・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。
凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。
現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。
しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。

・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。

・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。

長谷寺の法華説相銅板

・日本の塼仏出土例
奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

松本清張氏は次のようにおっしゃっていた。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に拘束されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

官寺には壁画や塼仏がないというのである。

官寺についてウィキ官寺は次のように記している。

「官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。寺格の一つ。狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指すが、広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す[1]。

一般的に大寺(官大寺)と同義と考えられているが、国分寺・国分尼寺も先述の定義に該当するため、広義の官寺に含んで考えられる事も多い。また、これよりも小規模な有封寺(有食封寺)・諸寺と言った寺院も存在した。更に皇室の私寺的色彩の強い勅願寺や有力な貴族・豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けた定額寺も官寺に准じて扱われることがある[2]。

中世以降は、幕府が特に保護・帰依した禅宗の寺院を官寺と呼ぶ[3]。」

Wikipedia「官寺」 より引用

パッと読んでも、いまいち意味がわかりにくい。😌
官寺のページには、次の寺の名前があがっている。

百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・・・天皇家の発願による最初の官寺
『日本書紀』680年・・・「官司治むる」「国大寺二三」
             大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)
『続日本紀』702年・・・「四大寺」/大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺
      756年・・・「七大寺」/「四大寺」+興福寺・東大寺・法隆寺
      770年・・・「十二大寺」不明
      791年・・・「十大寺」/「七大寺」+四天王寺・崇福寺・西大寺(あるいは川原寺)
『延喜式』「十五大寺」・・・「十大寺」+唐招提寺・新薬師寺・本元興寺(法興寺から分離、現・飛鳥寺)・東寺・西寺 
              ※本元興寺を外して法華寺を入れる異説がある
              ※梵釈寺や建興寺(豊浦寺、現・向原寺)は「十五大寺」に含まれないが大寺の待遇
              ※戒壇が置かれた観世音寺・下野薬師寺なども大寺の待遇
『拾芥抄』・・・十五大寺/東大寺、興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺、西大寺、法隆寺、新薬師寺、不退寺、法華寺、
             超昇寺(超勝寺)、龍興寺、唐招提寺、宗鏡寺、崇福寺
             ※。龍興寺に変わり太后寺を加える説あり

これらの官寺に塼仏があるかどうか確認してみたい。
すなわち、百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺・興福寺・東大寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・西大寺・唐招提寺・新薬師寺・東寺・西寺・法華寺・梵釈寺・建興寺・豊浦寺(向原寺)・観世音寺・下野薬師寺・元興寺・不退寺・超昇寺(超勝寺)・龍興寺・宗鏡寺である。
           、
日本の塼仏出土例は、次の寺だった。

奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

この中に上にあげた官寺は存在しない。(ただし法隆寺には壁画が存在していた。)

松本清張氏がおっしゃっていることはおおむね正しいようだ。

やはり、梅原猛氏は法隆寺や出雲大社、高松塚古墳に壁画があるのは、怨霊を祀る寺だからとおっしゃっていたが
そうとはいいがたいと思う。

皇族の墓のいくつかは発掘調査されていると考えられるが、それらの石室には壁画がなかった。
森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があり、中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかというが、
どうやら天寿国繍張のようなものは出土していないらしい?
布は腐食してしまったのかもしれないが、そのようなものが見つかっていない以上、「有る」とは断言できない。
もちろん「無い」とも断言できないのであるが。

九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳は皇族の墓ではないだろう。
さらに唐の壁画墳の被葬者を調べたところ、壁画墳の被葬者が怨霊だとは言い切れないように思った。

今回確認したように、官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁がある。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?


シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑯ 唇の描き方、横向きのポーズ、黄文本実などいろいろ
へつづく~



シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮ 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?



「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮高松塚キトラ古墳は皇族の墓ではないかも?」
よりつづきます~

梅原猛氏は、法隆寺や出雲大社の壁画をとりあげて、
「壁画を描くのはそこに祀られているものが怨霊であるからだ」
「壁画古墳である高松塚の被葬者は怨霊だ」
というような意味のことをおっしゃっていた。
※梅原猛氏が「黄泉の王」を著した時。キトラ古墳は発見されていなかった。

怨霊とは「政治的に不幸な死を迎えた人」の事で、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」で、長広氏は唐の壁画墳の被葬者について記しておられた。


「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。


1⃣唐の壁画墳の被葬者について

①執失奉節 
658年埋葬。
父は突厥の酋長。唐高祖の皇女(九江公主)が降嫁している。

https://core.ac.uk/download/pdf/228672433.pdf
上記記事には、次のような内容が記されている。

執失奉節は思力の息子。善光は思力の弟の子、甥。
執失氏には、「執失奉節墓誌」と「執失善光墓誌」が存在する。
執失善光の曽祖父(思力から見ると祖父)は淹といい、祖父(同じく父)は武。
両者とも突厥のエルテベル(突厥支配下の首領の称号)で。世襲。
太原で李淵が起兵した際に数千騎を率いて長安制圧を援助している。
この功績によって、執失淹とその子の武は、高祖から金紫光禄太夫・上柱国の位を受けた。
『通典』巻一九七「辺防十三 突厥上」では、「思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した」とある。
墓誌の記述では「思力が太宗に策をもたらした」「太宗は突厥滅亡後に思力と血を啜って盟約を結んだ」と記されている。
723年に作られた「執失善光墓誌」には、「高宗即位直後に起こった房遺愛の変に関わったとして失脚した、思力の名誉回復の意味合いがあり、善光が思力に成り代わって太宗の陵墓、昭陵に陪葬された」とある。

②趙澄之
696年埋葬

③李爽 
668年埋葬
銀青光䘵太夫・守司刑・太常伯・朝臣

李爽(592-668)西安市雁塔区、李爽の字は乾祐、京兆長安の人。
627年に殿中侍御史となり、長安令、治書御史などを歴任した。
中書令の駲遂良とは不仲で、李爽が崔擢を尚書に推薦したが拒否された。
その後崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
墓は西安市の南郊外の羊頭鎮にあり、鄭氏と合葬されている。
墓は全長24.5m。墓には25の壁画がある。

永泰公主
706年埋葬
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。

700年、永泰郡主に封ぜられ、食邑千戸を受けた。
武承嗣(武則天の甥)の子の魏王武延基に降嫁した。
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。
『大唐故永泰公主誌銘』によると、兄と夫の刑死でショックのため流産し重体となり、翌日薨去したとある。
705年、中宗が即位すると、永泰公主に追封された。706年、乾陵に陪葬された。

⑤韋泂 
708年埋葬
韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。

韋泂の姉の韋皇后は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。
中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流されそれに随行。
705年、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。
710年、自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺し、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。
間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。
韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。

韋泂は708年に埋葬されているので、708年までに16歳で死亡したということになる。
708年に16歳で死亡したとすれば、生年は692年ごろである。 

⑥薛氏 
710年埋葬
※中国では女性の場合、実家の氏を名乗る。
太平公主(則天武后の娘)の次女。万泉県主。

薛氏の母、太平公主について、ウィキは次のように述べる。

父は唐の高宗、母は武則天(則天武后)。
本名を李令月とする説もある。
高宗の末娘として生まれ、両親に寵愛される。
681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。
夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死。
690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。
病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執ると、武則天政権の一翼を担う。
武則天が病に倒れると、その愛人・張易之、張昌宗兄弟が専横を極めた。
705年、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させる。
その後宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復する。
張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させた。
710年、武三思は安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と関係を持つ。
不倫の暴露を恐れた安楽公主は韋后と組んで中宗を毒殺した。
韋后、温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡とした。
太平公主は甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をこ誅殺。
李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させる。
太平公主、皇妹となり、万戸の封を与えられ、息子たちも王に封ぜられた。
宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極め、皇太子の李隆基(のちの玄宗)と対立を深める。
712年、睿宗が皇太子の李隆基(玄宗)に譲位。
公主は玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。
713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。(終生、禁固を受けた説もある)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%85%AC%E4%B8%BB

「681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。」とある。
薛氏はこの二女のうちの次女ということだ。
「713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。」とあるが、薛氏は710年に埋葬されているので、この時すでに母よりも早くなくなっていたということになる。

「690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。」
とあるので、薛氏の生年は681年から690年ということになる。
次女ということなので、682年から690年としてもいいだろうか。
そして薛氏の没年はもっとも遅くても埋葬年の710年になる。
ということは薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったことになる。

⓻薛莫と妻史氏
728年合葬
右驍衛大将軍・雁門県開国公・上柱国・左万騎使

⑧馮潘州 
729年埋葬。贈潘州刺史。宦官・高力士の父。

馮潘州の子・高力士についてウィキは次のように記す。

生没年 690年~762年
もとの姓は馮、諱は元一。
唐に降伏し、耿国公に封じられた隋末の群雄の馮盎の曾孫。祖父は潘州刺史の馮智玳。
父は馮君衡(馮潘州ともいうのだろうか)。母は麦鉄杖の曾孫娘。
少年時代に去勢し、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名の少年とともに、嶺南安撫討撃使の李千里(呉王李恪の長男)により武則天に献上された。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。

(このあたりの事情は
684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名したとある。
このとき馮元貴(高元珪)も高姓に改名した。

697年、馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑され、武皇后が宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
つまり、高延甫の弟が馮元儀(高力士)であり、
馮元貴(高元珪)は彼らの弟。
高延甫・
高力士・高元珪は兄弟という事ではないかと思う。(まちがっていたら指摘お願いします。)

武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となった。
高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つ。
1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。
景龍年間に皇子時代の李隆基と交流する。
710年の韋后討伐の政変に協力し、朝散大夫・内給事に任じられた。
玄宗の即位後の713年、太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光禄大夫・行内侍省同正員に任じられた。
開元年間に入って右監門衛将軍・知内侍省事。
730年、政敵・王毛仲の排除を玄宗に進言。
731年、王毛仲は左遷され、自殺を命じられた。
738年、皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李璵(後の粛宗)を勧め、李璵が皇太子となった。
冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となる。
天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い自宅に戻る。
748年、驃騎大将軍。
752年、王鉷の弟の王銲と邢縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、邢縡を斬る。
安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。
粛宗(李亨、もとの名を李璵)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。
760年、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時、李輔国を叱りとばしてその危機を救うが、巫州に流された。
762年、恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し血を吐いて死去した。

⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。

ウィキペディアに楊思勗(ようしきょく)という人物の頁がある。
ウィキペディアには「もとの姓は蘇」と記されているので、楊思勗と蘇思勗は同一人物と思われる。
楊思勗は740年に死亡しており、蘇思勗は745年に埋葬されているが、
永泰公主は701年に死亡し、706年、乾陵に陪葬されているし
馮潘州(馮俊恒)は697年に亡くなって、729年に埋葬されているようなので、死亡年と埋葬年外れるケースがある。
またウィキペディアには「楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進している。」とか「内侍省に勤めた」などともあり、長広氏の記述と一致する。

もとの姓は蘇であったが、楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。
707年、中宗の太子である李重俊が、武三思・上官婉児の討伐を名目に挙兵し、中宗に迫った時、
宮闈令であった楊思勗が、李重俊軍の先鋒総官の野呼利を斬り殺した。
李重俊の挙兵は失敗に終わり、楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進。
710年、李隆基(後の玄宗)に従い、韋皇后の討伐に加わって功績を立て、右監門衛将軍に任じられる。
722年、安南の首領である梅叔鸞(梅玄成)が反乱を起こし、32州を制し、衆40万を号して「黒帝」と称した。
梅叔鸞は、林邑国・真臘国と通謀して、安南府を陥落させた。
楊思勗が討伐を命じられ、梅叔鸞を捕らえて、党類も全て処刑された。
724年、覃行璋が反乱を起こした。楊思勗は覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺した。輔国大将軍に昇進。
玄宗の封禅の時に従い、驃騎大将軍になる。
726年、邕州の首領・梁大海が数州とともに反乱を起こした。楊思勗が討伐し2万人余を殺し、京観(敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とする風習)とした。
728年、瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。
陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。
楊思勗は何遊魯と馮璘を殺し、6万人を殺し、莫大な財を奪う。
楊思勗は捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せた。
739年、内給事の牛仙童が張守珪から賄賂を受け取っていたことが判明した。
玄宗に命じられ、楊思勗は彼を数日縛りつけた上で、その心臓を取り出し、手足を断ちきり、肉を切り裂いて食したと伝わる。
740年、80余歳で死去。

⓾雷府君婦人宋氏 
745年埋葬。

⑪張去奢
747年埋葬。少府監。

張去奢について検索すると、中国版ウィキペディア「張去奢- 維基百科,自由的百科全書」がでてくる。
これを日本語に自動翻訳するとタイトルは「チャン・クシェ」となり、本文には「張去奢」ではなく「張曲社」「張秋社」とでてくる。
しかし中国語の記事では「張去奢」となっているので、「張曲社」は「張去奢」の事だと思われる。

張去奢(688年—747年),字士則,唐朝官員,郡望范陽(今北京市西南),祖籍南陽郡西鄂縣,定居京兆萬年縣。

張去奢曾祖父張立德,官至秦城都尉;祖父張崇,為延州刺史;父親張守讓閬州司法、贈涼州都督、兵部尚書,母親竇氏是唐玄宗的姨母。張去奢開始擔任右衛率府倉曹參軍。開元初年,歷任左衛率府長史、左金吾衛長史,太子司議郎、右贊善大夫、秘書丞、率更令、郢州沁州二州刺史、殿中少監。居宅在長安安業坊。哥哥張去惑、張去疑、弟弟張去逸、張去盈皆受殊榮。開元二十一年關中久雨害稼,京師缺糧,人多菜色,張去奢官拜京兆尹,[1]他和張去逸、張去盈同時三品,故號為三戟張家。加銀青光祿大夫,封范陽縣伯。開元二十八年轉任右金吾衛大將軍、少府監。天寳六年(747年)三月十二去世,年六十歲,十月初七日葬。諡號惠,妻子南安龐氏,有子張沔、張演、張泌。

1953年於渭城區發掘出張去奢墓,為斜坡道磚室墓。墓道、墓室內均發現壁畫,內容為青龍、白虎等。出土墓誌及陶器多件。張去奢墓誌銘為韋述撰,裴冕書、楊嵒刻字。正楷。志石方形,志文35行,邊長87.5厘米。現存西安碑林。新唐書誤記常芬公主的駙馬張去盈為張去奢。


ウィキペディアを自動翻訳し、まとめたのが以下。

張曲社(688 ~ 747) は、唐代の役人で、范陽県(現在の北京市の南西) の司令官。
張曲社の曾祖父、張立徳は秦城の船長、祖父、張崇は兗州の知事、父の張寿は朗州の裁判官、涼州の知事、省の大臣。
母親の竇は、唐の玄宗皇帝の叔母。

張曲社は右衛兵として働き始め、曹操を軍に導いた。
開元開元(開元、713年12月~741年12月/唐の玄宗皇帝李隆基の治世名)の初期、
彼は左魏公邸の石長官、左金武衛兵の石長官、思宜郎公、ヨウザンシャン博士、程書記、林庚陵、営州、欽州の知事を歴任した。
宮殿の少建。(少建が何を意味するのかわからない。役職名?宮殿を建てた、という意味?)
長安の安寧坊に住んだ。
兄の張曲虎、張曲儀、弟の張曲芸、張曲英は全員この栄誉を獲得した。(この栄誉を獲得したとはどういう意味か?)
開元 21 年(733年)、関中に長雨が降って農作物に被害があり、都は食糧不足で人も食糧も多かったので、都の官吏だった張曲社は趙允に敬意を表した
(これも意味がわからない。)
張逡と張饕はともに三位だったため、三司張家とよばれた。
張曲社は殷清光魯医師、范陽県の伯の称号を与えられた。
開元28年(740年)、楊進武威将軍・少府監に転任。
天宝6年(747年)3月12日に60歳で亡くなり、10月7日埋葬された。
諡名は恵、妻は南安出身の龐、息子に張密、張燕、張碧がいる。

1953 年に渭城区で張秋社の墓が発掘された。これは坂道のレンガ室の墓だった。
壁画は墓の通路や墓の内部で発見され、緑の龍や白虎などが描かれていた。
多くの碑文や土器が出土した。
張曲社の碑文は魏叔が書き、培銘と楊燕が刻んだ。ブロック文字。
石は正方形で、文字が 35 行あり、一辺の長さは 87.5 cm 。西安に現存する石碑の森。
『新唐書』には、長芬公主の妃である張曲英が張曲社と誤って記録されている。

⑫高元珪
756年埋葬。宦官高力士の兄。明威将軍検校左威衛将軍。

冯元珪(684年—755年),即高元珪,唐朝将领,高力士的二哥,冯君衡的次子。

生平
684年,冯元珪出生于潘州城西。697年,冯君衡为万国俊诬陷谋反,被诛。因武后让内侍省宦官高延福收其弟冯元一为养子而获赐姓高,改名高力士[1][2],冯元珪也因此改姓高。高元珪讨海盗,加授柱国,授川果毅,转任鸿门折冲。唐玄宗开元十九年(731年),高元珪加勋柱国,迁领军郎将,任金吾中郎等职。开元二十八年(740年),高元珪任右司御率,左威卫将军,加紫绶。天宝十四年(755年)高元珪于长安去世,年七十二岁,翌年春葬东郊龙首原,赠陈留郡太守。高元珪长子高承龙任左卫兵曹参军,次子高承秀任左卫率府仓曹参军,求苏预为其父撰碑文。


以下はこれを自動翻訳してまとめたもの。

高元珪(684 ~ 755 年) は、高元貴としても知られ、唐時代の将軍で、高力士の次弟で、馮俊恒の次男。

684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。
このとき馮元貴も高姓に改名した。
高元珪は海賊と戦い、祝国、伝国儀を授与され、紅門哲忠に移送された。
731 年、高元貴は荀竹に加わり、軍を率い、金武忠郎などを務めた。
740 年、高元貴は楊氏の皇帝、左の衛微の将軍に任命され、紫綬章を授けられた。
755年、高元貴は長安で72歳で亡くなり、翌年の春に東郊外の龍寿園に埋葬され、陳柳県知事に献上された。
高元貴の長男、高成龍は左衛に任命され、曹操を入隊に導き、次男の高成秀は左衛に任命され、曹操を従軍に導いた。
父親のために碑文を書いた。


⑬高克従
847年埋葬
宦官高力氏の5世孫。義昌軍監軍使。

宦官なのに子孫がいるの?と思ってしまうが、宦官は養子をとることが一般的であったようだ。

”唐・宋においては、宦官は養子を取って家を継がせると共に宦官とし、宦官が世襲化しているのが特徴です。
 代表的なものとして高力士の家があり、『唐代墓誌彙編続集』所収の「故義昌軍監軍使正議大夫行内侍省掖庭局令上柱國賜緋魚袋渤海高公墓誌銘」にはおよそこのように書かれています。

 公の諱は克従、字は師倹、開元年間の開府儀同三司・内侍監・斉国公・知省事の力士が公の五代前の先祖である。公の曽祖父の閎は力士の曾孫である。祖父の秀琪は内給事で緋魚袋を賜り、父の忠政は内侍省内府局丞であった。
 公は幼くして宮中に仕え、長じて帝に気に入られた。
 大和の初め(827)に内養に任命され、まもなく枢機に異動となり、師官補佐の激務をよく勤めて高く評価された。
 大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
 開成の初め(836)より、地方の軍は制御し難く吐蕃が国内を脅かしたので、善良で有能な人物を選んで節度使を監督することになった。
 二年正月九日、公は適任者として選ばれ監軍となると、任地の城塞で衆望を集め、吐蕃の情勢を調査して明らかにした。党項とは三百年来互いに殺戮を繰り返して襲撃は止むことがなく国境警備の兵は疲弊していた。公は主将と共に党項を懐柔すると同時に、法を厳格にして威を示した。帝から交渉の全権を委ねられた公は「敵対関係を棄てて、牧草地は譲り、互いの行き来は妨げない」という条件で講和した。その成功により褒め称える詔書が出されてより一層頼りとされた。撫綏すること五年、人々の弊害を除き辺境を安定させた。
 会昌元年(841)冬に都に上って参内し、二年正月には翰林副使を拝命した。
 三年三月に染坊使になると命を奉じて宣諭するなど、その活躍は記しきれないほどである。
 会昌四年(844)に上党で反乱が起こると近隣の軍に討伐を命じたが、これを纏める人物が必要となった。その年七月十日、公は義昌監軍に任命され、河隍に到着すると日夜休むこと無く主将と事態の収拾に努めた。数ヶ月経って主将が異動となると、公は臨時に軍務を行うよう命じられた。州の人はみなこう言いあった。
 「義昌軍が創設されて以来、監軍が自ら軍権を握ったことは無い 。上手く行くだろうか。」
 公は陣の出入り口に軍の指揮官を置き、親戚と付き合いを疎遠にし縁故者を地位に就けないようにして、これを規則として定めた。公は感嘆して言った。
 「草が風に靡くように水が器に収まるように、軍律は行き届くものだ。理に背かなければ兵たちはよく従うであろう。」
 それから公はこの地域に礼楽を導入して仁義をもって人々を慰撫したので、教化が行き渡り人々は穏やかになり、「殺伐としていた河北の地は、長江の民が住んでいるかのごとく穏やかだ。」と言われるようになった。
 公は日夜善政を行うため思案を廻らし、他人の不安もわが事のように思案したため、心労が重なり心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。享年六十三。
 夫人の戴氏は賢く徳があり、何年も家を空けていた公に代わって欠けること無くよく家を治めた。
 公には二子がいる。長子は公球といい義昌軍押衙、次子は公璵で行内侍省雲騎尉上柱国である。
 大中元年(847)十月五日に万年県滻川郷鄭村に埋葬し、この文を石に記す。”


2⃣まとめ

①執失奉節 
奉節の父の思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した。

②趙澄之 ?

③李爽 
崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。

④永泰公主
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。

⑤韋泂 
16歳で死去。

⑥薛氏 
薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったか?

⓻薛莫と妻史氏 ?

⑧馮潘州 
馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑された。

⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。


⓾雷府君婦人宋氏 ?

⑪張去奢 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。

⑫高元珪 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。


⑬高克従 
大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。

※高句麗壁画古墳は被葬者がわからないものが多く、調べることができなかった。

怨霊になる条件は、「政治的に不幸な死を迎えた」ことである。

この条件にはっきりあてはまるのは13人中5人(①執失奉節 ③李爽  ④永泰公主 ⑤韋泂 ⑧馮潘州)である。
もうすこし調べてみる必要はあるだろうが、この結果から、
「中国において、墓に壁画が描かれたのは、被葬者が怨霊であるケースである」とはいえない。

日本は中国とは異なるということはありえるが。

松本清張氏は次のようにおっしゃっていた。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に拘束されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

官寺には壁画や塼仏がないというのである。

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

前回の記事で、私は次のように述べた。

「皇族の墓のいくつかは発掘調査されていると考えられるが、それらの石室には壁画がなかった。
九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳は皇族の墓ではないだろう。
さらに官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁があるという。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?」と。

さらに唐の壁画墳の被葬者を調べたところ、壁画墳の被葬者が怨霊だとは言い切れないように思った。

「壁画墳の被葬者は怨霊」と考えるよりも、「壁画墳の被葬者は皇族ではない」と考えるべきかもしれない。


次回につづく~

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮高松塚キトラ古墳は皇族の墓ではないかも?

よりつづく
①古墳には絵のようなものが掛けられていた?

・古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないか。(森浩一氏)

②装飾古墳

装飾古墳と呼ばれる古墳が存在し、特に福岡県、熊本県に多い。
装飾古墳とは、壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾を施した古墳のことである。
高松塚・キトラ古墳も装飾古墳といえるかもしれないが、九州地方の装飾古墳は幾何学的な模様を描いたものなどが多く、繊細なタッチで描かれた高松塚・キトラ古墳とは印象が異なる。


1:36あたりで高松塚古墳壁画の飛鳥美人と呼ばれる女子群像、
2:26あたりで高松塚古墳の四神図
5:43あたりでキトラ古墳の壁画が紹介されている。
キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図などが描かれており、四神図は高松塚古墳のものに酷似しており
高松塚古墳と同一人物、または同一グループによって描かれたと考えられている。

高松塚古墳は高句麗壁画古墳や中国の永泰公主墓に似ていると指摘されている。


永泰公主墓の壁画は、たしかに絵のタッチは高松塚のものに似ているように思うが、女性が着ている衣装が異なっている。


こちらは高句麗壁画古墳。
3:09あたりから四神図、9:28あたりからの女性図は襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、
高松塚のものほとんど同じだ。

下の動画は熊本県のキブサン古墳の壁画。前衛アートのようで高松塚古墳とはずいぶん印象が異なる。



③本当に九州の装飾古墳と高松塚・キトラ古墳は共通点はないのか?

ということは、高松塚古墳と九州の装飾古墳とは別系統なのだろうか。

しかし、装飾古墳のひとつである、竹原古墳の壁画を見て、私はかなりびっくりしてしまった。


3:18あたりから、「さしば」と呼ばれる団扇に似た日よけが描かれている。
高松塚古墳の女子群像が手に持っている団扇も「さしば」であるという。

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳壁画 女子群像

さらに、四神のうち、青龍・玄武・朱雀も描かれている。

絵のタッチは高松塚のものよりも荒いが、抽象絵画のようなチブサン古墳の壁画とも違う。
四神図が描かれているあたり、明らかに中国は朝鮮の影響を受けていると思われる。
高松塚・キトラ古墳を考えるとき、竹原古墳について考える必要はないだろうか。
私はそう思うのだが、あまりそれを指摘する意見は聞かない。私が知らないだけかもしれないが。

竹原古墳が築造されたのは 6世紀後半とされている。(6世紀は501年~600年)
一方、高松塚・キトラ古墳の築造年代について、ウィキペディア高松塚古墳を藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳を7世紀から8世紀(601年~800年)と記している。
(しかし、高松塚とキトラは同時期に作られたと考えられるので、どちらも藤原京期に作られたものとするのが、定説になっているということだろうか。)

また永池古墳に翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。https://saga-museum.jp/museum/files/kanpo015.pdf
翳とは上の高松塚古墳壁画の黄色の着物を北女性が手にもっている団扇のようなものである。

珍敷塚古墳

珍敷塚古墳 キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

古墳には、ガマガエル・鳥(八咫烏?)・日・月のようなものも描かれている。
高句麗壁画古墳には、カエルや八咫烏を描いた喪のがあり、高句麗壁画古墳の影響を受けたものと考えられる。。


高松塚古墳、キトラ古墳にも日、月が描かれているが、高松塚古墳は日像、月像は削られている。

高松塚 日像

高松塚 月像

キトラ古墳の日像、月像について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・キトラ古墳の日像上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端があり、八咫烏が描かれていたのだろう。
キトラ古墳の月像月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。
ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。(来村多加史氏)

キトラ 日像

キトラ 月像

④線刻の壁画

・線刻の壁画は大阪のほか、鳥取、香川(太刀をさした人物像)、埼玉(地蔵塚)でもでている。
北九州のは民間人による直接の交流、畿内のは正常な国際ルートのもとで発達した絵画だろう(斉藤忠氏)
鳥

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

騎馬人物

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

高井田

高井田横穴墓 説明版より

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

高井田2

高井田横穴墓 説明板より 照明が暗くてよく見えなかった。

⑤岩戸山古墳は石人が取り囲んでいた。

磐井の墓が反乱軍の対象ということで、それまで外にあった石人、石馬が壊された。それ以降、筑紫では外部の装飾が地下の壁画になった。(原田大六氏)

・原田氏のように簡単に言い切れるかどうか。
ただ磐井でも見られるように、北九州あたりに新羅などと交渉をもって畿内に対抗する意識を持つものはあったかもしれない。(斉藤忠氏)

岩戸山古墳は 6世紀前半に築造された前方後円墳で、被葬者は筑紫君磐井と考えられている。
磐井は527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を妨害し、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。
磐井は物部麁鹿火によって斬殺されたと伝わる。
松本氏がおっしゃっている石人石馬は上記動画7:45辺りに登場する。
墳丘・周堤・別区から出土した100点以上の石製品が100点以上出土しており、人物・動物・器財などが実物大で作られている。
原田大六氏はこれら出土した石人石馬を、破壊されたものだと考えたということだろう。

私は斎藤氏に同意で、原田氏のように簡単には言い切れないように思う。

岩戸山古墳 石製品 (模造品)

岩戸山古墳 石製品 (模造品)

岩戸山古墳の石人は興味深いが、埴輪のかわりに石で人形を作ったようにも思える。

⑥官寺には壁画がない。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に高速されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡_塼仏壁_部分(復元)

すると、古墳に壁画があるのも、官というか、天皇家の古墳ではなく、民間の古墳なのではないか、と思えてくる。

⓻天皇陵は発掘調査されている。しかし壁画はなかった。

高松塚古墳、キトラ古墳に壁画が描かれているのが発見された。
ここから「天皇陵には壁画が描かれているのではないか」という意見があるそうだ。
このような意見がでてくるのは、天皇陵の宮内庁管理下にある古墳の発掘調査が禁止されていて、石室内部の状態などがほとんどわかっていないためだ。

しかし、私は天皇陵には壁画は描かれていないのではないかと考える。

実は天皇陵は発掘調査されている。

天皇陵の治定は江戸時代に適当に決めたものなので、考古学的には正しくないと考えられている古墳も数多くある。
考古学的に天皇陵だと考えられているが、天皇陵とされていない古墳もあるのだ。

例えば継体天皇陵(450年? - 531年?)は大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」に治定されているが、築造時期は5世紀の中頃とされていて、時代があわない。

6世紀前半の築造と考えられている大阪府高槻市の今城塚古墳が考古学的には本当の継体天皇陵と考えられているのだが、天皇陵とされていないため、発掘調査が行われており、古墳の墳丘に登ることもできる。

今城塚古墳に壁画は描かれていたか否か。
残念ながら今城塚古墳を発掘調査したところ、石室を作った石や石棺が発見されなかった。
石室を構成する石は、古墳を上から掘って、盗掘されたと考えられている。
副葬品を盗掘するならまだしも、石室そのものが盗掘されたというのはオドロキである。
城の石垣に石仏や石棺が用いられていることもあるので、今城塚古墳の石室もこのようなものに利用されたのかもしれないが
もしかすると今城塚古墳は破壊されたのかもしれない。

ともかく、石室や石棺が発見されなかったので、今城塚古墳に壁画があったかどうかはわからない。

奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳を発掘調査をしたところ、天皇陵に多い八角墳であることがわかり、
二つの石室を持つこと、牽牛子塚古墳の横にもう一つ古墳が発見され「斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った」という日本書記の記述にあうところから、斉明天皇陵にまちがいないとされている。
ウィキに石室の写真があるが、壁画はない。
但し、牽牛子塚古墳は長い間開口していたので、壁画が剥落した可能性はあるとのこと。

同じく奈良県明日香村にある中尾山古墳も天皇陵に多い八角墳であり、文武天皇陵ではないかといわれているが、天皇陵に治定されておらず、発掘調査が行われた。
これも石槨内部に壁画はなかった。

中尾山古墳 石室内部

中尾山古墳 石槨内部

束明神古墳も八角墳であり草壁皇子の真陵とする説があるが、天皇陵に治定されていないので発掘調査が行われた。
その石室は橿原考古学研究所博物館に復元されているが、やはり壁画はない。

束明神古墳 横口式石槨(復元)内部

束明神古墳 復元石室

マルコ山古墳は発掘調査の結果、30代とみられる男性の骨が見つかった。
川島皇子は34歳でなくなり、越智野に葬られたとされ、年齢はあう。
越智野は奈良県高市郡高取町の北部,及び明日香村西部の低丘陵とされる。
真弓はこの越智野に該当しそうで、場所もあいそうだ。
マルコ山古墳に壁画が描かれていたという話はきかない。壁画が描かれていたのなら、大きく報じられるはずだ。

マルコ山古墳

石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。
ここも発掘調査されているが、壁画は発見されていないようだ。

天武持統合同陵が確実視されている野口王墓は鎌倉時代に盗掘にあい、その際の記録が阿不幾乃山陵記に記されているが、壁画があったという記録はない。
暗くて壁画が確認できなかったのではないかとする意見もあるが。

聖徳太子廟はかつて中に人が入ることが出来たそうだがやはり壁画があったというような話はきかない。

⑧高松塚キトラ古墳の被葬者は皇族ではないかも❔

⓻でのべたように皇族の墓には壁画がない可能性が高いように思われる。
そして九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳はまず皇族の墓ではないだろう。
さらに官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁があるという。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮ 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?
へつづく~


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑭ キトラ古墳副葬品・出土品

よりつづく

キトラ古墳の副葬品について、記事を書いていなかったので😅書いておこうと思う。

①キトラ古墳石室内が水没していた?

キトラ古墳から人骨出土 ひつぎの金具も
上記記事に次のような内容が記されていた。

・歯が4点出土した。あごの骨についている歯も。
・頭の骨の破片が6点ほど出土した。
・ひつぎ金具は銅製の直径3.7センチの円形。
X線撮影したところ六花形で、3カ所に直径2ミリの穴。
ひつぎの内側に取り付ける「くぎ隠し」とみられる。
・高松塚古墳の出土品や正倉院宝物に似ている。
・木棺の破片とみられる大量の漆片。黒漆がほとんどで、漆の上に水銀朱で赤く塗った破片もあった。
・石室内が雨水につかるなどして水没し、木棺の断片が浮き沈みを繰り返したのでは。人骨や漆片は元の位置から大きくずれて水面を漂っていた可能性が高い。

②キトラ古墳被葬者は50代男性の可能性が大

キトラ古墳の被葬者の年齢については、こちらの記事に説明がある。


・奈良文化財研究所が石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を発見し、片山一道・京大大学院教授(自然人類学)が歯と骨を鑑定した。
※上の記事と歯や骨の数が違うが、上の記事が報道されたあと、さらに発見されたのだろう。
・骨はすねの部分の破片1点。あとはすべて頭骨。
・重複する部分はなく、被葬者は1人。
・目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立つ。
頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるという。身長は推定できなかった。
・歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰、頭骨の状態などから、50代の可能性が高い。
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった。

どのように鑑定したのかなど、もっと詳しいことを知りたいが、
高松塚の被葬者30歳代から40歳以上、キトラの被葬者は50代ぐらいで、どちらも男性ということになりそうだ。


キトラ古墳被葬者の歯

キトラ古墳 被葬者の歯(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)
上側右側犬歯の中央がへこんでおり、モノをくわえる習慣があったと考えられているが何をくわえていたかは謎とのこと。
上側右から4つ目、5つ目、6つ目の歯の上にあるのは①の記事に「あごの骨についている歯も。」というような内容が記されていることから考えて上顎骨だと思う。

③出土品


上の記事には次のような内容が記されている。

・キトラ古墳の石室内から木棺の部材や飾金具、副葬品である刀装具、玉類などが出土した。
・木棺は漆塗りで、金銅製鐶座金具、金銅製六花形飾金具、銀環付金銅製六花形飾金具などの飾金具が取り付けられていたと考えられる。
・大刀に関連するもの・・・金線で直線とS字文を象嵌した鉄地銀張金象嵌帯執金具、刀装具、刀身の断片。
銀装の大刀は全面を黒漆で仕上げたもので、正倉院の大刀に匹敵する。
・玉類では琥珀玉やガラス小玉、径1㎜ほどのガラス粒

キトラ副葬品

金銅製鐶座金具・・・棺に用いる金具
金銅製六花形飾金具・・・棺の釘隠し
銀鐶付六花形飾金具・・・棺に取り付けたもの
金銅製六花形飾金具・・・棺の釘隠し


鉄地銀張金象嵌帯執金具・・・大刀を吊り下げるための帯を通した鞘(さや)金具
銀製鞘尻金具 刀身 銀製鞘口金具・・・金具と刀身部分の破片


ガラス小玉・・・直径4㎜前後、20点
琥珀玉・・・直径1㎝ほどのものが4点、直径1.5㎝ほどのものが2点、計6点

・・・盗掘時に灯明皿として使用されたものとみられる。13世紀前半のもの。