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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑧ 高松塚ファッションから古墳築造年代を考えてみる。






間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①冠(男子)

・男子像の冠は天武11年(682年)6月条にある、『うるしぬりのうすはたのかうぶり』で、高松塚築造は天武11年6月以降。(秋山光和氏・五味充子氏)

・漆紗冠・・・天武11年(682年)7月に着用が定められた。(土淵正一郎氏)

・聖徳太子が被っているものと同種(三上次男氏)

聖徳太子像( 唐本御影)

聖徳太子像(唐本御影)

たしかに似ているように思える。

聖徳太子の生没年は、574年~622年。一方、漆紗冠は682年に着用が定められている。
聖徳太子の時代、この絵の様な冠を着用していたのかどうか、勉強不足で知らないが
聖徳太子像に描かれている冠が漆紗冠とすれば、後世になってから、聖徳太子が存命していた当事の服装ではなく、後世の衣装を描いたものということになる。

このような例は多い。
たとえば百人一首では、天智天皇、持統天皇など平安時代の衣装を着用しているが、実際にはこのような衣装を着用していなかったものと思われる。
上の聖徳太子像唐本御影は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画のことをいい、8世紀半ばごろに描かれたと考えられている。

男子群像頭

②髪型(女子)

女子像は髪を後頭部で結び跳ね上げている。これは天武11年〈682年)の垂髪禁止に合致する。
朱鳥元年〈686年)垂髪に戻したが、詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。
慶雲二年〈705年)の結髪令の注には「語は前紀(持統帝の時代)にあり。是に至りて重ねて制す」とある。
大宝令では五位以上の令服は宝〇で金銀の飾りをつける。六位以下は義〇をつける。(〇は読み方がわからない。すいません。)
壁画の女性の髪型は簡素で、上記にはあたらない。朱鳥元年〈686年)と大宝令の中間の髪型。(土淵正一郎氏)

垂髪とは髪を結わずに垂らすヘアースタイルのことである。
ウィキペディアには、天武天皇11年4月23日 - 男子の髷、女子の垂髪を禁止とある。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」とおっしゃっているが、この意見は「そうも考えられる」というレベルであって根拠がない。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」という為には、「垂髪に戻した」686年以降に結髪していることを示す例が必要だろう。

・高句麗にも中国にも見られない。日本独自の髪型。結髪令(682年~686年)によるものではないか。(三上次男氏)

・結髪令ではなく、垂髪令(686年~705年)のものではないか。(原田淑人氏)

・垂髪令(686年~705年)のもの。無造作にひっつめた髪は便宜上のもの。 (五味充子氏)      

・五味氏に同意。垂髪令(686年~705年)のもの。(小林恵子氏)
垂髪では仕事をする際に不便なので、このような髪型にしているのではないか。

原田氏、五味氏、小林氏が主張されるように「垂髪令の時代の髪型ではあるが、不便なのでひっつめている」というのは、あるかもしれない。ただしこれも断言できるほどの根拠が示されていない。

・持統、文武朝には結髪の令がしばしばでているが高松塚女性の髪型は結髪の令によるものか。
また絵空事を描いた可能性もある。(松本清張氏)

・続日本紀をよむと、文武・持統あたりから、色についてはやかましくいっている。色物をきてはいけない、公式の場面のみ官位に応じた色の衣服を着けよなどとある。
高松塚の様なカラフルなファッションはありえただろうか。(松本清張氏)

漫画などでありえない髪型を描くことがあるのと同様で、そのようにも考えられるだろう。
例えば「エースをねらえ!」という作品に登場するお蝶夫人(竜崎麗華)は、日本人の高校生だが、金髪で巻き髪である。
毛染めをしてカーラーで巻くなどしなければ、多くの日本人はあのような髪型にならないが、たいていは校則で禁止されているはずだ。

・高句麗舞踏塚(4世紀末)と関係がある。(井上光貞氏)


上記記事で高句麗舞踏塚の壁画が紹介されている。
三上次男氏は「高句麗にも中国にも見られない日本独自の髪型」とおっしゃっているが、私は井上光貞氏がおっしゃるように、高松塚女子群像の髪型は高句麗舞踏塚の女子像の髪型に似ていると思う。

松本清張氏は「絵空事の可能性がある」とおっしゃるが、高松塚女子像の髪型は高句麗舞踏塚のものに似ているののもので、高句麗壁画古墳の影響を受けたものか、かつて実際にそのような髪型をしていたことがあると考えられると思う。

③髭

・高松塚の男性にはヒゲがある。(伊達宗康氏)

高松塚 髭2

向かって左から2番目の人は顎髭を生やしている。

高松塚 髭

向かって右の人は顎髭を生やしているように見える。

打ち合わせ

・養老3年〈719年)に右前にかわった。左前なので、それ以前。(土淵正一郎氏)

右前とは右を合わせてからその上に左を合わせることをいう。
下の舞妓さんは右前で着物を着ている。

舞妓

下は高松塚古墳壁画館に展示されていた人物像のスケッチであるが、上の舞妓さんとは打ち合わせが逆で左前になっている。
左前
高松塚人物像が左前になっていることをもって、719年以前は左前だったと考えられているようである。
しかし高松塚人物像が左前なのは、死の世界を描いたものだから、とも考えられるのではないかと思う。
現在でも死に装束は左前にあわせる。

埴輪の打ち合わせも左前になっているが、埴輪は古墳に並べられたものなので、これも死に関係するものということで、
普通の場合とは逆の打ち合わせにした可能性がないとは言えないように思う。

はにわ

中宮寺の天寿国繍張にも、高松塚女子群像と同様の衣装を身につけた女性が描かれている。

天寿国繍張-女性

上の図よりも大きな写真が下記リンク先に掲載されている。
国宝「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を見に行こう!

打ち合わせを見ると右前の様にも見えるがよくわからない。

さて、天寿国繍張を見る上で、注意することがある。
天寿国繍張には「聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせた」という内容の銘が記されている。
聖徳太子が薨去したのは622年なので、天寿国繍張はそのころ作られたものだと考えられているが(異説もある)
実は一部鎌倉時代のものが混ざっているとされる。

天寿国繍張は1274年に法隆寺綱封蔵より発見された。
このとき信如という尼僧がこの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、1275年に開眼供養を行ったと史料にあるのだ。

ウィキペディア「天寿国繍張」 は次のような内容を記している。

●上段左の亀形や月、中段右や中段左の区画の人物群像の一部・・・飛鳥時代
・形の崩れがない。色は鮮明。
・台裂に紫色の羅が用いられている部分・・・
 輪郭線を刺繡で表し、その内側を別色の糸で密に繡い詰めている。
 糸は撚りが強く、中心部まで深く染められている。
 返し繡という技法
・撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繡)で密に繡い詰めるのは飛鳥時代刺繡の特色。
(法隆寺献納宝物等の繡仏や、藤ノ木古墳出土の刺繡など)

●下段左の建物、内部の人物を表した部分・・・鎌倉時代
・色糸がほつれ、褪色し、図柄がわからない。
・台裂に綾または平絹を用いた部分・・・
平繡、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繡、文駒刺(あやこまさし)、束ね繡、長返し繡、纏い繡、表平繡いの9つの技法。
・糸が台裂から浮き上がる部分が多い。
・染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。

天寿国繍張

天寿国繍張 打ち合わせ

上は天寿国繡帳の部分を切り取ったものであるが、打ち合わせは右前になっている。
向かって左についてはウィキペディアは飛鳥時代の物とも、鎌倉時代の物とも述べていない。
向かって右については「人物群像の一部は飛鳥時代」年ているが、この刺繍が飛鳥時代のものだとは明確に述べられていない。
色が鮮やかなのは飛鳥時代ということなので、おそらく飛鳥時代のものと考えられている刺繍なのだろうとは思う。
すると、飛鳥時代打ち合わせは既に右前であったことになってしまう。

但し、天寿国繡帳は飛鳥時代に製作されたものではないとする説もある。
東野治之氏は次のように述べておられる。

銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と記しているが、この和風諡号は推古天皇崩御後に送られたものではないのか、と。(「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称とする意見もある)

”人物の服装をみると、男女とも盤領(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は袴、女子は裳を着けている。また、男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。”

ウィキペディア 天寿国繡帳 より引用

高松塚よりも古い時代には右前だったということだろうか?
これは判断が難しい。
719年に打ち合わせは右前とされ、高松塚古墳が左前であることから、719年以前は左前だったと一般的には考えられているようだが、そうとは言い切れないように思った。

③衿

・男子は白衿をつけている。持統4年。〈690年)
大宝令は白縛口衿から白脛裳に逆戻りし、慶雲3年〈706年)に白衿にもどした。(土淵正一郎氏)

男子が白衿をつけているようには見えない。土淵氏が本を記したとき、画像が鮮明に解析されていなかったのだろう。

高松塚男子像 衿

④肩布(女子)

・高松塚女子像は肩布(ひれ)をつけていないので采女クラス。
采女の肩布が禁止されていたのは天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)。
垂髪令(686年~705年)の時期とかぶる。(横田健一氏)

・女子像は天武11年〈681年)の詔にしたがい、肩衣をつけていない。(土淵正一郎氏)

⑤すそつき

・天武十三年(684年 「会集の日にすそつきを着て長紐をつけよ」(土淵正一郎氏)
男子は全員すそつきをつけている。すそつきは上着の下部につけた別の布。大宝以前の服装。(土淵正一郎氏)

・男女の上着にある横線は襴(すそつき)。
・天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの。(五味充子)

男女ともは上衣の下に筋がはいっているが、これが別布をつけた「すそつき」である。

男子服装

ひらみ

⑥帯

・男女とも織物の紐か帯を前に垂らしている。(かむはたの帯)持統4年(690)に定めた帯だろう。
和銅5年(712年)には「六位以下、白銅と銀を以って皮帯を飾るを禁ズ」
それ以前に皮帯に改められたことがわかる。遣唐節持使粟田真人が帰国した704年7月の直後だろう。

・帯が大宝令の皮でなくヒモなので大宝令(701年)以前のものではないか。
秋山氏、高田大和男氏も同意見。(上田正昭氏)

・すなわち、高松塚古墳の築造時期は持統4年(690年)4月14日の詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」とある期間から大宝元年まで。(小林恵子氏)

ひらおび(褶)

・女子像は男子像と異なり、「ひらおび」をつけている。(土淵正一郎氏)
大宝令では皇族と内命夫の令服のみ復活したが、朝服はこれを欠く。
女子の「ひらおび」は黙認されたものだろう。701年の大宝令以降でなく、大宝令以前だろう。

「ひらおび」について調べると
「ひらび【褶】〘名〙 「ひらおび(褶)」の変化した語」
とでる。さらに

「裙の下には浅縹(うすきはなだ)の褶(ひらみ)[したも]をつけ、」
とでる。

土淵氏のおっしゃる「ひらおび」とは帯のことではなくて、褶の事ではないかと思う。
女子の上衣のすそから少しだけ見えているひだのようなものが褶である。

正倉院宝物

・養老の衣服令による文官礼服
養老の衣服令では朝賀、即位の儀式のみ男子も褶の着用が義務付けられていた。

・壁画中の人物が着用している下着は褶(ひらみ)だろう。
褶は682年に着用が禁止され、702年以降着用復活するので、壁画年代の上限は701年。(直木孝次郎氏)

⑧白袴

690年詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」
701年、禁止されていた脛裳(はばきも/脚絆、ゲートルのようなもの)を再度着用することに
705年、完全に脛裳をなくして白袴となる。(石田尚豊氏)

高松塚 男子像2

袴と履物

⑨裳

裳

・日野西資孝は、当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になったと指摘されている。(小林恵子氏)

上の高松塚女子群像は上着をスカートの上に出している。これは埴輪と同じである。
しかし、実際にはこの時代、上着をスカートの中に入れて着ていたということだろう。

はにわ

上の写真を見ると、上着をスカートの中に入れて着ており、四位の命婦(みょうぶ)=女官の礼服と説明がある。
養老の衣服令は718年である。
718年以前の女官は高松塚女子群像のようなファッションであったかもしれない、ということになるのだろうか。

・日野氏は「前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」のは、隋唐の服装の影響とし、法隆寺摩耶夫人像、女子塑像を例にあげる。
日本でも同時代の唐とほとんど同じ服装をしていた。
高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。(小林恵子氏)

「前代の埴輪」とは「古墳時代の埴輪」のことだろう。埴輪は高松塚古墳と同じように上着を裳の外に出して着こなしている。「ところが飛鳥時代には裳を上着の上につけるようになった」と日野氏はおっしゃっているのだろう。

高松塚古墳

上のコスプレの女性は裳を上着の外に出して着こなしている。

そしてこの日野氏の意見を受けて、小林恵子氏は「高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。」と考えておられるのである。


塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

アラブ世界を舞台とした漫画があるとして、漫画の中にヒジャブ・ニカブなどを身につけた女性がでてくるので、日本の女性もヒジャブ・ニカブを身に着けているとするのがおかしな論であることは、いうまでもない。
法隆寺の摩耶夫人像、女子塑像は唐を舞台として創作されたものであって、当時の人々の姿を映したものとは断言できないと思う。

⑨ファッションから高松塚築造年代を考える。

①~⑧での項目の年代をまとめてみた。

漆紗冠・・・天武11年(682年)7月
女子髪型・・・乗髪禁止 681年~686年 ※乗髪が何かわからない。
       結髪令  持統帝(690年 - 697年)の時代にもあったと記されている。
       大宝令 701年 ※髪に飾りをつけるとあるが、高松塚女子像は飾りをつけていない。
       結髪令 (682年~686年)
       垂髪令(686年~705年)のものではないか。
打ち合わせ・・・719年右前に変わった。高松塚は左前なのでそれ以前か?
肩布をつけていない。・・・肩布禁止686年~705年
すそつき・・・684年
長紐・・・・684年~701年
ひらおび(ひらみ)・・・701年より以前
            682年に着用が禁止され、702年以降着用復活
白袴・・・690年~701年、705年~

女子群像の髪型は結髪令なのか乗髪令によるものかわからないので、とりあえず省いて考えてみることにする。

またネットに次のような記事もあった。上のまとめと内容が一致するものに〇をつけ、不足情報は赤で示してみる。


男子群像 漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 〇
      白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月※石田尚豊氏の白袴の情報にはこれはなかった。
            690年4月~ 701年3月 〇
                                      706年12月~      ※石田尚豊氏の白袴の情報では705年になっている。
                   褶の未使用 682年6月6日~702年1月〇
     すそつき    684年~
                  長紐 684年~701年

女子群像 結髪の実施  682年4月23日 ~686年7月2日 ※結髪令か乗髪令なのかわからないので、省いて考える。
                                      705年12月19日 

     肩布禁止  686年~705年
     襟の左前   719年2月3日〇

私は算数が苦手で頭の回転が鈍いので(汗)、項目をふたつづつ突き合わせて,重なる時期をだしてみることにする。

漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 ❶
 白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月  690年4月~ 701年3月 706年12月~ ❷
❶と❷が重なる時期は682年6月6日~686年7月❸
                   
褶の未使用 682年6月6日~702年1月❹
❸と❹が重なる時期は682年6月6日~686年7月

すそつき 684年~❺
❹と❺が重なる時期は684年~686年7月❻

長紐 684年~701年❼
❻と❼が重なる時期は684年~686年7月❽

肩布禁止  686年~705年❾
❽と❾が重なる時期は686年~686年7月

 襟の左前   ~719年2月3日❿
❾と❿が重なる時期は
686年~686年7月

これが正しいとすると、高松塚人物像のファッションは、686年頃のものだということになりそうだが、
古墳が築かれた時期がこれに該当するかというと、そうもいえなさそうだ。
なぜならば、古い時代の装束を壁画に描くこともできるからだ。
たとえば現代に生きる我々が、飛鳥時代の装束を絵に描くこともできる。

ということは、壁画が描かれた時期を686年以降とすることはできるかもしれない。
また松本清張氏がおっしゃっているように絵空事を描いた可能性もないとはいえない。
女性のファッションが高句麗壁画に似ているとの指摘もあり、高句麗の風俗を描いたものとも考えられるかもしれない。

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑨高松塚人物像の持ち物
 へつづく~
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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓻ 高松塚星宿図・キトラ天文図・二十八宿


・『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
・『黄泉の王』における梅原猛氏の意見

上記はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

②星宿について。

・天井の二十八宿は中心の北斗七星が欠落している。(梅原猛氏)

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)

古星図に見る歴史と文化 

リンク先4ページ 図3にトルファン・アスターナ古墳の星宿図が掲載されている。
この星宿図の左上に8つの星で構成される柄杓の形をした星宿があるが、高松塚古墳星宿図では同じぐらいの位置に6つの星で構成される斗がされる描かれている。
これは北斗七星とは別の星から構成される星宿である。
従って、アスターナ古墳も北斗七星を欠くといえるかもしれず、高松塚古墳の星宿が異常かどうかは慎重に判断する必用がありそうである。

高松塚星宿図

高松塚星宿図

③キトラ星宿図には大きく描かれた星がある。

キトラ天文図

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。(来村多加史氏)

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

”キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である。”
キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台 より引用

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認するのは難しいので、どちらが正しいのかわからない。

キトラ天文図4


④天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道 (来村多加史氏)

言葉にするとわかりにくいが、下の動画の図で見るとわかりやすいと思う。
2:49あたり・・・天の赤道
10:47あたり・・・黄道


地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

この動画の10:47あたりに登場する図を見ると黄道は理解できるのだが、キトラ天文図は地球上から天球を見上げた図である。
空間認識能力の弱い私には、地球上から見て黄道がこのような形に見えるというのが理解できなかった。😂

下の動画のように、地球は24時間かけて反時計回りに1周している。
そのため、太陽は毎日東から出て西へ進むわけである。


1年の太陽の動きは下の図のようになる。
下の図は夏至、春分・秋分、冬至のみ描いているが、太陽の動きを全て描き入れるとすると
コイルのように描くことができるだろう。
そして太陽の動きは冬至と夏至で折り返す。
すなわち冬至の南中高度の低い太陽は、冬至を境に再び南中高度をあげていき
夏至に達して南中高度が高くなった太陽は、夏至を境に再び南中高度をさげていく。
太陽が真南にある点をつないだものが黄道なのかもしれないが、その黄道はキトラ天文図のように円形にならない。
天球の上の一本の曲線をいったりきたりする形になるのではないか。(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2


上の動画、1:39あたりで10月1日正午という文字がでてくる。
そして「昼なので見えないが、太陽の後ろに星座があり、それが誕生星座」とおっしゃっている。
さらに、次のような説明がある。
4:00 時間とともに太陽は動くが星座も太陽と共に動く。
4:43 太陽と星座は共に西へ動く。太陽は1日で360度、星座は1日で361度動く。1か月で30度ずれる。
8:06 何月何日に生まれた人は何座と決められたのはかなり昔。長い年月が経っているので、現在は星座が一つぐらいずれている。

太陽の高度は動画6:25、射手座を通るあたりで最も低くなっている。
射手座埋まれば11月23日〜12月21日である。
そして冬至は12月22日ぐらいで、この日最も太陽の南中高度が低くなる。
動画6:25あたりで、太陽の位置が低くなっているのは冬至で太陽の南中高度が低くなっていることを示しているのだと思う。

そこから再び太陽の位置が高くなっていき、6:46、おうし座とふたご座の中間あたりで太陽の南中高度は最も高くなっている。
おそらくこのあたりが夏至(6月22日ぐらい)だろう。
ちなみに、おうし座生まれは4月20日~5月20日、ふたご座生まれは5月21日~6月21日である。

地球のある時点で見たとき、正午の太陽は南に見え、この正午の太陽の線をつなぐとほぼ直線のような形になると思う。
(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2

動画は太陽は高低さのみの動きで、星座は360度回転させてみせている。
しかし、天文図にはすでに星が描かれている。
星を動かすのではなく、太陽の方を動かすとキトラ天文図のようになるということだと思う。

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。(来村多加史氏)

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)(来村多加史氏)

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。(来村多加史氏)

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。(来村多加史氏)

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。(来村多加史氏)

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。(来村多加史氏)
水運儀象台
水運儀象台

⑤キトラ天文図は高句麗の夜空を描いたものではなかった。

来村氏は次のようにも述べておられた。
赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。

来村氏は名前はあげておられないが、これは宮島一彦氏の説である。

ネットで「キトラ古墳天文図の解析  相馬 充 (国立天文台) 」という記事が見つかり、その中で宮島氏の説についてもう少し詳しく記されていた。

それによれば、
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、宮島氏が用いた画像は不鮮明なので、星の同定や位置に誤りがありえるとした。

平壌は高句麗の都があったところである。

記事には、2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った結果が記されている。
その結果、キトラ天文図は正確なものではなかった。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

※⓻については、「附属星座ではないか」とする説がある。詳しくは以下の記事をお読みください。
「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊷ キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星」
②キトラ天文図には附属星座がくっついている?

附属星座?

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

それは残念だ。
しかし相馬充氏は「天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないか」と考えた。
そしてキトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みられた。

「西暦400年ごろに赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。」
上記記事より引用

この文章は少し意味がわかりにくいのだが、こういう意味だと思う。

相馬氏も説明してくださっているように、地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
 
最初に「400年ごろ」と書かれているのは大雑把に見積もった年代で、さらに正確な観測年代を求めたところ、西暦384年±139年となった、ということだろうか。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.  

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

⑥二十八宿を描いた天井壁画はアスターナ遺跡でも発見されている。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

ちなみに同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚古墳は6世紀末から7世紀はじめごろの古墳と考えられており、どちらが古いものなのかわからないが
来村氏がおっしゃるように、当時の日本で行われた天体観測をベースに高松塚の二十八宿が作られたとは考えにくい。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図も中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⓻二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。(来村多加史氏)

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)(来村多加史氏)

上記リンク先にわかりやすい図解がある。)

この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。(来村多加史氏)

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。(来村多加史氏)

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)(来村多加史氏)



シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑥ 日像・月像



『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
『黄泉の王』における梅原猛氏の意見
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』における小林恵子氏の意見はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①天文図について

高松塚古墳には日像・月像、星宿図、キトラ古墳には日像・月像、天文図が描かれている。
そこで、これらの像について見てみる前に、簡単に基礎知識を勉強しておこうと思った。

キトラ天文図

上はキトラ古墳天文図のイメージ図である。
赤色で描かれている円、外規、内規、黄道については、のちに高松塚星宿図・キトラ古墳天文図について述べる際に説明する。

まずは天文図の東西南北について。
地図では北を上にした場合、向かって右が東、向かって左が西になるが
天文図の場合は北を上にした場合、向かって右が西、向かって左が東になる。
キトラ天文図もそうなっている。

なぜこうなるかというと、地図の場合は地面を見下ろし、天文図の場合は見下ろすためだ。
地図の場合は顔を下にしてうつぶせに寝転び、天球図の場合は顔を上にして仰向けに寝転ぶと考えたほうがわかりやすいかもしれない。
普通の人はくどくど説明しなくても理解できるのだろうが、私は空間認識能力が鈍いので(汗)、図を描いてみた。

天文図と地図

②地球の自転について。

地球は24時間かけて一周している。
というより、地球が一周する時間を24時間と決めたと言った方が正しい。

上記記事には次のような内容が記されている。

・地球と月の距離が少しずつ長くなっており、それに伴って地球の自転速度も遅くなっている。
・地球は月の引力の影響を受けていて、月の位置によって満潮と干潮が起こります。その「潮汐力(月が地球を引っ張る力)」によって、1年に3.82センチのペースで、月は地球から離れていっている。
・地球から月までの距離
現在・・・約38万キロメートル
14億年前・・・34万900キロメートル
・地球から月までの距離に加え、地球の自転スピードも14億年前は今より速かった。
・14億年前の1日は18.68時間だった。
・1日の長さは、かつて、太陽が真南に位置する時刻から、次に太陽が真南にのぼるまでの平均時間を、24時間として定義された。
・現在はセシウム原子の振動数を基準にした「原子時計」を用いている。
・「原子時計」によって地球の自転は一定ではなく、わずかに遅くなったり速くなったりしていることが判明した。
・原子時計にもとづいた時刻と天文時でズレが0.9秒以内になるように、必要に応じて1秒単位の「うるう秒」を挿入して補正している。

↑こちらの記事には次のような内容が記されている。

・原子時計が発明されて以来、最も短い1日が観測された。
・2022年6月29日の地球の自転時間は、通常の1日24時間より1.59ミリ秒短かかった。
・1950年代以来、原子時計が使われている。
・太古の地球には1日の長さがもっと短い時代があった。
・恐竜がまだ生息していた7000万年前、1日の長さは約23時間半だったという研究結果もある。
・地球の自転速度は1820年代以来、減速が記録されていたが、ここ数年は加速し始めているという。
・自転速度がわずかに速くなった理由は不明。氷床の融解によって陸地が移動する「氷河性地殻均衡」が原因か。

つまり、長期的に見た場合は地球の自転速度は遅くなってきているが、近年のみの自転速度を見ると、遅くなったり速くなったりしていてその原因は不明、ということだ。

②地球の公転について。

地球は約365.25日で太陽の周囲を一周している。

1日は少しずつ長くなっている--地球の変化と公転速度を解説

・地球の公転が減速するにつれ、日の長さの平均時間も長くなっている。
・1日の長さは、100年ごとに平均して1.8ミリ秒(1,000分の1秒)長くなっている。
・日が長くなる理由は、月の重力による引力の作用によって、地球内部(固体部分)周囲に変位が起こり、隆起が生じること。
・地球が公転するにつれ、隆起群は月から遠ざかるが、月がそれらを再び引き戻す。
これによって地球の公転が遅くなる。
・数学的に言うと、地球にかかる月の引力が作用するなら、地球の公転はさらに遅くなるはず。
・100年ごとの日の長さの延長は2.3ミリ秒になる計算。
・しかし、実際には日の遅延はたったの1.8ミリ秒。地球の公転を速めている要因が他にあるはず。
・そのうちの1つの要因は、最後の氷河期。
その時期の氷の重みは地球の両極をわずかに押し下げましたが、その後、現在のように氷がほぼなくなり、両極がまた押し上がってきています。これによって、地球の多くの質量が両極付近に移動し、地球の公転を速めている。
・もうひとつ考えられる原因は地球の核とマントル。

公転と自転のスピードは関係しているだろうと思うが、具体的にどのように関係し、作用しているのかはよくわからなかった。

そうではあるが、自転も公転も長期的にはスピードが遅くなっていると考えればいいだろう。

地球の公転と自転のイメージは、下の動画がわかりやすい。


上の動画で、地球は「青い部分(太陽の光が当たっている部分)」と「黒い部分(太陽の光が当たっていない部分」がある。
この「青い部分」と「黒い部分」は面積が変化しているが、それは本来3次元(縦・横・高さの三つの次元)であるものを2次元(平面)で描いているため、見かけ上の面積が変化するためである。
実際には、常に「青い部分」と「黒い部分」の面積は1:1であるはずだ。

夏至の図


③地軸の傾きと季節、冬至・春分・夏至・秋分。

上の動画「地軸の傾きと季節」に描かれているように、地球の地軸(北極と南極をつなぐ線)は公転軸に対して約23.4度傾いている。
この地軸の傾きによって季節が生じる。

「上から見た図」を見ていただくとお分かりいただけると思うが、地軸の傾きは公転に従って変化するのではなく、
常に北極点が東に傾いたまま公転する。

北極点が太陽に近いとき、北半球では夏になる。
この時、南半球では太陽から遠くなるため冬になる。

上の動画では0:06あたりで、北極点が最も太陽に近くなっている。
この時、北半球は南半球に比べてより多く太陽の光があたる。
北半球では、この時点が夏至で、1年でもっとも昼が長く、夜が短い。
南半球ではこの時点が冬至で、1年で最も昼が短く、夜が長い。

夏至のとき

北極点が太陽から遠いとき、北半球では冬になる。
この時、南半球では太陽に近くなるため夏になる。
上の動画では0:01あたりと0:11あたりで、北極点が最も太陽から遠くなっている。
この時点が冬至。
北半球では1年でもっとも昼が短く、夜が長い。
南半球では1年でもっとも昼が長く、夜が短い。

冬至のとき

動画「地軸の傾きと季節」では、0:14あたりが春分、0:18あたりが秋分である。
このとき、地軸は太陽に対して垂直になっている。

春分点、秋分点にあるとき、地球のどの場所にいても、昼と夜の長さが同じになる。
地球から見て、太陽は真東から登り、真西に沈む。

春分・秋分のとき


上の動画は全部見てもいいが、特に7:00あたりの図がわかりやすい。

ということは、冒頭に示したキトラ天文図は若干のずれはあるのかもしれないが、真東に日が、真西に月が描かれているので、春分または秋分をあらわしているのではないか?
時間帯としては、朝である。
日が東から昇った時、西にはまだ月が残っている。そんな状態を描いたもののようにも思える。

④月の出が毎日約50分ずれるのはなぜ?

月の出る時刻は毎日約50分ずれる。これは何故だろうか。
地球は西から東に約24時間かけて自転している。
月は地球のまわり(360°)を約30日かけて公転している。
月は1日で地球の周囲を12°公転する。(360°÷30=12°/日)❶
地球は24時間で1周(360°)する。地球は1時間で15°動く。(360°÷24時間=15°/時)
地球は1分で0.25°動く。(15°÷60分=0.25°/分)
月が地球の周囲を12°公転するのに必要な時間は48分≓50分
(12°÷0.25°=48分)


実際には地球も公転していて、1日に1度ほど(360°÷365日≒1.12°)反時計回りにずれるので、厳密にいえばこの地球の公転による位置のずれも考える必要があるのだろうが、おおざっぱに月の出は1日に約50分ずれる、と考えておけばいいだろう。

⑥日の出時刻、日の入時刻について

日の出時刻、日の入時刻のほうは、月の出入時刻よりも複雑だ。
月の出入り時刻のほうが複雑でないのは、月の自転軸は公転面に対してほぼ垂直(1.5°)であり、季節がないためである。
すでに述べたように、地球は公転面に対して約24°傾いているため季節が生じる。
季節とは、太陽の日照時間の変化、およびそれに伴う気温の変化の事だといってもいいかもしれない。

リンク先の図が分かりやすいと思う。

地球の公転は1日で約1度ずれる。(360°÷365日=0.98≓1°/日)
夏至のころ(実際には数日ずれる)日の出時刻は最も早くなり、日の入時刻は遅くなる。
夏至付近で折り返して日の出時刻は遅くなっていき、日の入り時刻は早くなっていく。
日の出時刻が最も遅くなるのは冬至ごろ(実際には数日ずれる)である。
ここから折り返して再び日の出時刻は早く、日の入時刻は遅くなっていく。

⓻東に太陽、西に月が見えるのはいつ?

菜の花や 月は東に 日は西に/与謝蕪村

月は東の空から昇って間もなく、太陽はもうすぐ西の地平線に沈もうとしている夕方の光景を詠んだものである。
これは、太陽がほぼ真正面から月を照らしている状態であり、したがって月は満月に近い状態である。
私は実際にこのような光景を見たことがある。
場所は奈良斑鳩の里、法隆寺に近い法起寺付近だった。
このあたりには高い建物がなく、空が広い。ここへ私は満月の写真を撮りに行ったのだが
月を撮影しながら、ふりかえってみると、まだ夕日が西の空に残っていた。

ひむがしの 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ /柿本人麻呂

東の野に炎(かぎろひ)が立っているというのは、日の出前に朝焼けが広がっている光景を思わせる。
そしてふりかえって西を見ると月がいままさに沈もうとしている、というのだ。

これはまだ日が出ていない状態の様に思われるが、「菜の花や 月は東に 日は西に」の逆で「日は東に 月は西に」というような状態になることはあるだろうか。

記事の最初にキトラ古墳天文図の写真を貼ったが、金色の陽が東に、銀色の月が西に描かれている。
これは「日は東に 月は西に」という状態である。
高松塚の星宿図は天井に日像・月像は描かれていないが、東壁上部に日像、西壁上部に月像が描かれている。

高松塚古墳 レイアウト図

有明の月 ありあけのつき
上記記事によれば、「月齢15前後〜29までの月」が有明の月であるという。
有明の月の状態になる機会は多いのだ。
しかし、太陽と月が地平線に近い状態で見える機会はどのくらいあるのだろうか。

2024年の大阪の日の出、月の入、日の入、月の出、時刻を 「大阪(大阪府)のこよみ」で調べて、「日の出と月の入時刻」または「月の出と日の入時刻」が1時間以内のものをピックアップして、朝は赤、夕方は青で
その中でも30分以内のものは太字で示した。
さらに、日と月が同時に見れるものにアンダーラインを引いた。

その結果、日と月が同時に見えることは朝・夕ともあるが、特に規則性はないように思った。
(1年分しか調べていないが、本当は数年分調べるべきだろう。汗)
そうではあるが、高松塚・キトラ古墳の日像は東、月像は西に描かれているので春分または秋分の満月に近い日を描いたものなのかもしれないと思った。
春分、秋分には彼岸の行事が行われるが、もしかして古墳壁画の東に日像、西に月像を描くことと関係があるのだろうかと考えたりした。

細かい時間を見るのがメンドクサイという人は飛ばして次へ。

※月の出入時刻と日の出入時刻は、定義が違うので注意。
月の出・月の入の時刻・・・月の中心が地平線または水平線に一致する時刻
日の出・日の入の時刻・・太陽の上辺が地平線または水平線に一致する時刻
日の出・・・太陽が地平線または水平線から見え始める瞬間
日の入・・・太陽が地平線または水平線に沈みきって見えなくなった瞬間

”一方、月は形が変わるため、頂点と地平線との関係で「出」と「入り」を定義することができません。したがって、月の中心が地平線と重なった瞬間を「月の出」「月の入り」の時刻と定義しています。”
太陽と月の南中時刻の求め方と季節変化 それぞれの共通点・相違点は?より引用

※太陽の視直径(見かけ上の大きさ)・・・約0.5°(満月とほぼ同じ大きさ)①
太陽が天球(360°)を一周する時間・・・約24時間
太陽が1時間で天球を移動する角度・・・・・・360°÷24時間=15°
太陽が1分で天球を移動する角度・・・・・・・15°÷60分=約0.25°②
太陽の「出始め」から「出終わり」までに要する時間・・・①÷②=0.5°÷0.25°=2分

太陽は垂直には昇ってこないので、2分よりも時間がかかる。
日本では通常、太陽の「出始め」から「出終わり」まで、2分20秒~40秒ぐらいかかる。

月の視直径(見かけ上の大きさ)・・・約0.5°(満月)③
月は1日で地球の周囲を12°公転する。
月が1日に天球を移動する角度・・・360°+12°=372°
月が1時間で天球を移動する角度・・・372°÷24時間=15.5°
月が1分で天球を移動する角度・・・15.5°÷60分=0.258°④
満月の「出始め(満月の上部が見え始める瞬間)」から「出終わり」までに要する時間※0.5°÷0.258°=1.94≓2分
月は垂直には昇ってこないので、2分よりも時間がかかる。
どのくらいかかるかは調べてもわからなかった。
但し、「月の出・月の入の時刻」の定義は「月の中心が視地平線または水平線に一致する時刻」だった。
満月が地平線より半分出ている状態が月の出ということになる。
満月が地平線から完全に出るためには、1分よりも時間がかかるということになると思う。

1月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
24   15:41  6:06    12.6 7:02 17:18     
25   16:42  6:52    13.6 7:01 17:19
26   17:43    7:31     14.6 7:01 17:20
27   18:42    8:03     15.6    7:00   17:21 
28   19:40    8:31     16.6    7:00   17:22 


2月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
23  16:35  6:06  13.2    6:36   17:48
24  17:33    6:35  14.2     6:35   17:49  
※6:35は月が半分見えており、日が正に昇ろうとする瞬間。地平線が見えるならば、ぎりぎりで月も日もみえるだろう。
25    18:30    7:00  15.2   6:33  17:50 
26    19:25     7:24 16.2   6:32  17:50 
27    20:21     7:46  17.2     6:31  17:51

3月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
23  16:24    5:05    12.7 5:58 18:12 
24     17:20    5:29    13.7   5:56 18:13 
25     18:15    5:51    14.7   5:55  18:14 
※18:15、月は半分でている状態で、日は1分前の18:14に沈み切っている。月は1分くらいで半分でてくるので、太陽と月の両方が見えるかどうか、微妙だと思う。
26     19:11  6:14    15.7  5:53  18:15 
27     20:09    6:37    16.7    5:52 18:15

4月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
22  17:04    4:19     13.4 5:18 18:36
23  18:02    4:42     14.4 5:17    18:37 
24  19:02    5:07     15.4 5:15   18:37 
25  20:04    5:35     16.4 5:14   18:38 
26  21:07    6:08     17.4 5:13   18:39

5月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
21     16:51   3:09     13.0   4:51  18:59
22     17:53   3:36     14.0   4:50  18:59 
23     18:57   4:08     15.0   4:50  19:00 
24     20:02   4:46     16.0   4:49  19:01
25      21:05  5:32     17.0   4:49  19:02

6月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
20  17:48    2:41   13.6   4:45   19:14
21     18:52    3:24  14.6    4:45   19:15
22     19:53    4:17  15.6    4:46   19:15 
23      20:47   5:18  16.6    4:46   19:15 
24      21:33   6:27  17.6     4:46  19:15 

7月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
19     17:39    2:03  13.2  4:59  19:10
20     18:36    3:01  14.2  4:59  19:09 
21      19:27   4:08  15.2  5:00  19:09
22       20:09  5:21  16.2  5:01  19:08
23       20:45  6:35  17.2  5:02  19:07 

8月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
18  18:01    2:56  13.7      5:21  18:43 
19     18:40   4:11   14.7      5:21  18:41 
20     19:14   5:26   15.7      5:22  18:40 
21     19:45   6:39   16.7      5:23  18:39 
22     20:14   7:52    17.7     5:24  18:38

9月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
16      17:09  2:58    13.0     5:42 18:04 
17      17:41  4:13    14.0     5:42  18:02 
18   18:11   5:26    15.0     5:43  18:01 
19   18:41   6:40    16.0     5:44  17:59 
20      19:13   7:54    17.0  5:45  17:58 

10月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
16  16:37   4:12     13.3 6:33  16:53 
17     17:08   5:25     14.3 6:34  16:52 
18     17:42   6:40     15.3   6:35   16:52 
19     18:21   7:57     16.3 6:36  16:51
20   19:07  9:13      17.3   6:37  16:51 

11月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
15   16:11  5:27     13.6   6:32   16:53 
16     16:53  6:44     14.6   6:33   16:53 
17     17:44  8:00   15.6 6:34  16:52
18     18:43  9:10     16.6  6:35 16:52 
19      19:4710:12  17.6    6:36  16:51 

12月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
15      16:24  6:46    13.9    6:58  16:49
16      17:26  7:53    14.9    6:58  16:49 
17      18:33  8:49  15.9   6:59  16:49 
18      19:41  9:36    16.9    7:00  16:50 
19      20:46 10:13   17.9    7:00  16:50 

⓻高松塚の日像、月像は金銀箔がはぎとられていた。

・高松塚の日と月の金銀箔がはぎとられている。(梅原猛氏)

高松塚 日像

高松塚 日像(高松塚壁画館似て撮影)

高松塚 月像

高松塚 月像(高松塚壁画館似て撮影)

日像・月像・玄武の剥落は盗賊が驚いてこれらをつぶしたという説がある。
これについて梅原氏はつぎのようにおっしゃっている。

・死体をあばく盗賊がどうして玄武の絵などに恐怖をもとう。(梅原猛氏)

この梅原氏の意見には同意する。

・日月は金箔、銀箔をはがすためだという人があるが、金箔・銀箔は日月より天井により多く貼られているではないか。(梅原猛氏)

私は「金箔銀箔をはがすため」という可能性はあると思う。
天井の金箔をはがすために腕を上にあげるのはきつい作業になる。壁の金箔をはがす方が作業は楽そうだ。

・「死体には最初から頭蓋骨が無く、日月玄武は最初から傷つけられていた」
その理由は「死体を蘇らせないため」(梅原猛氏)

玄武

高松塚 玄武

②キトラ古墳 日像・月像には八咫烏、兎・樹木・ヒキガエルが描かれていた?

キトラ 日像

キトラ 日像

キトラ 月像

キトラ月像

・キトラ日像上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端がある。八咫烏が描かれていたのだろう。
(永泰公主の墓にある八咫烏と一致する。)
月像月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。(来村多加史氏)

・ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。(来村多加史氏)

③高松塚・キトラ古墳の日像・月像の下にある赤線は日の出、日の入りの海の色?

・(永泰公主墓・高松塚、どちらにも同様の海島と海が表現されているので)赤線は日の出、日の入りの海の色だろう。(来村多加史氏)


リンク先に、永泰公主墓の日輪図のイラストが掲載されているが、海ではなく山岳と雲海のように見える。
来村氏は海だとおっしゃるが、梅原氏は雲だとおっしゃっていた。
どちらが正しいかわからないが、日・月を雲の上に乗せる表現は後年の熊野勧心十戒曼荼羅や北野天満宮の三光門にもみられる。
ただし、キトラ古墳壁画のように線であらわすのではなく、もくもくとした雲である。

三光門 太陽?

北野天満宮 三光門

熊野勧心十戒曼荼羅

熊野勧心十戒曼荼羅

来村多加史氏は「日の出・日の入の海の色」とおっしゃっているが、もし日像・月像の下にひかれた赤線が海であるとすれば、それは日の入ではなく、日の出の海の色ではないかと思う。
その理由は、太陽が東に、月が西に描かれているからだ。
陰陽道の宇宙観では太陽の定位置を東、月の定位置を西、中央を星とするのだという。
高松塚・キトラ古墳の日像・月像は陰陽道の宇宙観に従って表現しただけかもしれないが、太陽が東に、月が西にあるのは日の出のときだからだ。

高松塚日像、月像は剥ぎ取られているため、よくわからないが、
日像は赤い線より上に、月像は赤い線から3分の2ほど出ているように思える。
赤い線が海だとすれば、日が昇り切り、月は3分の1ほど水平線に沈んだ状態をえがいたものなのかもしれない。

キトラ古墳のほうは、日像・月像ともに赤い線の中ににわずかに沈み込んでいる。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓻ 高松塚星宿図・キトラ天文図・二十八宿  へつづく~

「道路が寸断されて自衛隊が能登に救助に行けない。」はウソだと思う。

①自衛隊には寸断された道を応急処置的に修復する能力があるのではないか?


”道路が寸断されているから自衛隊が救助に入れないと、マスコミが弁解の報道を撒きまくっている。玉川徹まで 1/5 の朝番組でそうコメントしていて、その虚構を国民全員が信じ込んでしまっている。Xで誰も反論しない。道路が寸断されて誰も輪島や珠洲に入れないのなら、どうして消防や警察が現地で救助活動しているのだ。どうしてNHKや民放の記者が現場をぶらぶら歩いているのだ。
~略~
自衛隊には工兵(施設科)の組織がある。有事の際に道なき道を整備し、橋なき河に架橋し、陣地を構築して作戦を支援する部隊だ。陸自に装備と兵員の存在がある。今回の能登の震災対応など、まさに彼らの出番で活躍する舞台だろう。”
「救出活動やる気がない自衛隊と岸田官邸 - なぜ施設科を本格投入しないのか」より引用

「道が寸断されて被災地にいけない」というが、自衛隊には「道を応急処置的に直す」能力はないのだろうか?
と私は疑問に思っていた。

やはり、自衛隊には施設科があって、ある程度そのような能力をもっているようである。

任務の特性上、多くの建設機械を保有しているため災害派遣や国際貢献などでも施設科が活躍する[1]。
ウィキペディア「施設科」より引用
「救出活動やる気がない自衛隊と岸田官邸 - なぜ施設科を本格投入しないのか」という記事が指摘するように
Xやヤフコメの書き込みなどに「道路が分断されて自衛隊が入れない。自衛隊を大量に送り込むべき、というのは素人の意見」というようなものを数多く見た。

通行止め箇所を示す地図を貼り「状況がわかっていないのに政府批判するな」と書いている人もいた。
また、陸がだめなら「空や海からいけないのか」という意見に対して「海岸線は津波とがけ崩れで使えない」「空路は安全な離着陸場がない」など、まるで「出来なことの理由を探している」かのように感じた。

②都道府県の要請がないと自衛隊出動できない、は嘘。

ヤフコメなどに、次のような意見がある。

「災害派遣は都道府県知事の要請が必要。(自衛隊法第83条の規定)要請がないのに勝手に自衛隊が動けない。」

「災害派遣には都道府県知事の要請が必要」というのは間違いだろう。

”自衛隊は、天災地変その他災害に対して人命または財産の保護のため必要があると認められる場合は、都道府県知事等の要請(ただし、特に緊急を要する場合は、要請を待たずに)に基づき、防衛大臣またはその指定する者の命令により派遣され、捜索・救助、水防、医療、防疫、給水、人員や物資の輸送など、様々な災害派遣活動を行います。”
「災害派遣の仕組み」
より引用。
ここに「特に緊急を要する場合は、要請を待たずに」とある。
今回の能登半島地震は特に緊急を要する場合に該当するのではないか。

・「派遣先の部隊の規模等により初動対処人数が決定される。総理の意向は関係ない。」
派遣までの流れ


上の表を見ると、「大臣または大臣の指名する者」が派遣命令を出すのだから、初動対処人数も「大臣または大臣の指名する者」が出すと考えられる。

これに対して岸田文雄首相は「(陸上自衛隊西部方面隊の拠点がある)熊本にはそもそも1万人を超える自衛隊が存在したが、今回は大規模部隊はいなかった。単に人数だけを比較するのは適当ではない」
木原稔防衛相も「道路の復旧状況も見ながら人数を増やした。逐次投入との批判は全く当たらない」と反論しているが
(「自衛隊派遣、なぜ小出し?熊本地震時の5分の1 対応できない救助要請たくさんあったのに…首相の説明は」)
能登半島に大規模部隊がいないのであれば、全国から収集することを考えるべきではないか。

「自衛隊1000人を派遣予定 別の8500人が出動待機 石川で地震」
上の記事は地震が起こった2024年1月1日付のものだが、「陸上自衛隊中部方面隊の約8500人をいつでも派遣できるよう待機させている」とある。
翌日(1月2日)にこの8500人を派遣することもできたのではないか?

③自衛隊は自分達の食料や寝所は用意して被災地に向かうのでは?

こういうカキコミもあった。

・救助隊が行くためには、食料、寝泊まりする場所、トイレが必要。大勢の自衛隊が被災地に行けばかえって迷惑。

いまや、一般人のボランティアでさえ、食料、寝る場所を自ら用意していくというのは当たり前だ。
自衛隊がそういう物を用意しないまま行く、などということがありえるのだろうか。
トイレについても簡易トイレなどを用意していくのではないかと思う。

④マスコミのデマを信じる人が大勢いた?

私は人命救助を第一に考えないこのような意見がなぜ多いのかと疑問に思っていたが、
「救出活動やる気がない自衛隊と岸田官邸 - なぜ施設科を本格投入しないのか」という記事は

・道路が寸断されているから自衛隊が救助に入れないと、マスコミが弁解の報道を撒きまくっている。
・マスコミがまき散らしたデマを国民全員が信じ込んでしまっている。

と記している。

私の家にはテレビがないので、知らなかったが、どうやらテレビ報道などが「道路が寸断されているから自衛隊が救助に入れない」というデマをまき散らしたらしい❔

そうであるならば、たいへん残念なことである。
デマをまき散らす方も残念だが、デマを信じる人が大勢いることも残念だ。
マスコミや他人の言うことはうのみにせず、疑問をもって自分の頭で考えることが大切だと
自戒の念も込めて、そう思う。

[ 2024/01/09 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑤四神



『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
『黄泉の王』における梅原猛氏の意見
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』における小林恵子氏の意見はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

陰陽五行説と麒麟

高松塚古墳には、四神・人物群像・星宿図・日像・月像が
キトラ古墳には、四神・十二支像・天文図・日像・月像が描かれていた。

高松塚 解体実験用石室

高松塚 展開図 飛鳥資料館説明版より

キトラ天文図

キトラ展開図 キトラ古墳 壁画体験館 四神の館 説明板より

まず四神についてご紹介する前に、四神とは何か、についてみてみることにしよう。

四神とは、中国で発祥した陰陽五行説から生み出された聖獣である。
五行とは、万物は木火土金水の5つの要素でできているとする考え方で
木=青火=赤土=黄金=白水=黒であらわす。

季節では春=木、夏=火、秋=金、冬=水。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまうが
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

土用

春・・・旧暦1月2月3月・・・・・木性   3月の終わりの18~19日間=春土用
夏・・・旧暦4月5月6月・・・・・火性   6月の終わりの18~19日間=夏土用
秋・・・旧暦7月8月9月・・・・・金性   9月の終わりの18~19日間=秋土用
冬・・・旧暦10月11月12月・・・  水性     12月の終わりの18~19日間=冬土用

方角では
北・・・水・・・玄武(黒)
東・・・木・・・青龍
南・・・火・・・朱雀
西・・・金・・・白虎 

さきほど、「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒であらわす」と書いたが、玄武は黒、青龍は青、朱雀は赤、白虎は白であらわされ五行の色が用いられている。
ここでも季節の場合と同様、土(黄)があまってしまう。

土をあらわす聖獣は、麒麟である。

麒麟について来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・部屋や墓室の天井と床は陰陽説の天地の面で、五行のものではなく、麒麟を描く場所はない。
・麒麟・・・胴体は鹿、蹄は馬、尻尾は牛荷にて、頭には根元を肉で包まれた柔らかい独角がある。
優しく、殺生をせず、聖人が王道を行っていれば現れる。
・麒麟の原型は鹿だろう。
・四神ではなく五神として論議するべき。(来村多加史氏)

麒麟
三才図会に描かれた麒麟(明代)

②黄龍

来村氏は述べておられないが、黄龍という聖獣もいる。
四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神である。
そして黄竜はそして中央の守護神であるという。
また、黄色は五行説の土に該当し、春夏秋冬それぞれに存在する土用(春土用、夏土用、秋土用、冬土用)を表すともいわれる。
中国古書『荊州占』では、「黄竜(庚辰)は太一の妻」と記されているとのこと。
黄龍は後に麒麟と置き換え、または同一視されるようになったらしい。

↑ これは集安地域の高句麗古墳壁画についての記事だが、墓室の天井に黄龍が描かれている。
天井に描かれているということは、黄龍は天の川を神格化したものなのかもしれない。
寺院の天井に龍が描かれていることがあるが、もしかしたらあれは黄龍をイメージしたものなのだろうか、などと考えてしまう。

四神にはそれぞれ司る方位、季節、そしてその象徴する色などがある。

四神(四獣)    五方 五時   五色   五行 四象     爻      五佐
青龍        東   春   緑(青)  木 少陽     少陽   句芒(こうぼう)
朱雀        南   夏   赤(朱)  火 太陽(老陽) 老陽   祝融(しゅくゆう) / 朱明(しゅめい)
白虎        西   秋   白     金 少陰     少陰   蓐収(じょくしゅう)
玄武        北   冬   黒(玄)  水 太陰(老陰) 老陰   玄冥(げんめい)
黄竜または麒麟   中央  土用  黄     土 后土(こうど)

来村さんも書いてくださっているが、陰陽五行説には『相生説』と『相克説』がある。
『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

⓻十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟 (来村多加史氏)

・二十四方位

二十四方位


・『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。(来村多加史氏)

・黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡の未の方向に描かれていることを発見した。(来村多加史氏)

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申
(来村多加史氏)

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図

図2

③黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。
(来村多加史氏)

私はこの来村氏の意見には納得できない。
図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

ここから、鹿とは死者のことだと考えられる。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

とすれば、麒麟も鹿同様、死者を表すものだと考えられるのではないか。

1079290_s.jpg

④最古の四神

最古の四神の例は西水玻遺跡。
新石器時代の貝殻絵で、貝殻を並べて東に龍と西に虎が描かれている。
北側の足元には人の大腿骨日本と三角形に敷き詰めた貝殻を組み合わせてひしゃくの形をつくっていた。
北斗七星か、またはこぐま座かもしれない。
墓の南20mほどの場所には龍、虎、虎の背に乗る鹿、龍の頭に近づく雲が貝殻で表現されていた。
其の25mほどのところにも竜虎がある。(来村多加史氏)

ウィキペディアによれば龍虎のレリーフは6400年前とある。(すべてのレリーフが6400年前かどうかはわからない。)
↑ こちらの記事に図がしめされていた。

●上村嶺虢国墓(じょうそんれいかくこくぼ/春秋時代)から出土した鳥獣紋鏡は、上に鹿、下に鳥、向かって右に虎、向かって左に龍が描かれている。
古い時代には玄武は登場しない。(来村多加史氏)

四神図は一般的に次のようなレイアウトで描かれる。

四神図

東(向かって右)が青龍、西(向かって左)が白虎である。
ところが、鳥獣文鏡は、向かって右には虎、向かって左に龍が配置されていて、一般的な四神図と虎・龍の位置が反対になっている。


鳥獣文鏡

↑ これは鏡の模様のある面を上にして、鹿を北に向けておいた場合の図である。
しかし、鏡面が表なのではないかと思う。
そこで鏡面を上にして鹿を北に向けて(鏡面から鹿鳥龍虎は見えないが)置くと、四神図のレイアウトどおりになる。

・戦国時代初期(紀元前5世紀頃)曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した衣装箱 
蓋上面に斗の字が描かれ、周囲に二十八宿の字が並ぶ。
南西に白虎、北東に青龍、龍型の面に舟形、虎方に蛙、南東には何も描かれていなかった。
鳥は他の衣装箱に描かれていたが、玄武は描かれていない。(来村多加史氏)

曾侯乙墓出土の漆塗衣裳箱のイラストが掲載されている。

・昔の大型土洞墓では、青龍、白虎、朱雀が描かれるが玄武はあまり描かれない。(来村多加史氏)

・「方に今、平城の地は四禽図に叶ひ・・・」と和銅元年の奈良遷都の詔にある。(梅原猛氏)
「四禽図に叶ひ」とは四神が四方からこの都を守っているという意味だろう。

・四神思想の原典は礼記であり、天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。(梅原猛氏)

礼記は周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)から漢(前漢/紀元前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年)にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を、前漢の戴聖が編纂したもの。

”四霊(しれい、Siling)は、『礼記』礼運篇に記される霊妙な四種の瑞獣のことをいう。四瑞(しずい)とも。
麟(りん、麒麟)・鳳(ほう、鳳凰)・亀(き、霊亀)・竜(りゅう、応竜)を言う[1][2]。
四神と通用する(四神を四霊(もしくは天之四霊)、あるいは四霊を四神と呼ぶことがある[3])。”
ウィキペディア「四霊」より引用
このときはまだ玄武・青龍・朱雀・白虎ではなくて、麒麟・鳳・亀・龍であったということだろうか。

こちらの記事には『淮南子(えなんじ)』(紀元前139年に献上)に登場する、とある。

⑤四神に守られたものは天皇?

・君主は天の世界の支配者でもある。四神に守られたものが天皇。(梅原猛氏)

つまり梅原猛氏は、高松塚に四神図を描いてあるのは被葬者が天皇に近い人物だとおっしゃりたいのかもしれない。
もし、そういう意味であれば唐や高句麗に四神が描かれている壁画古墳は、皇帝または皇帝に近い人物だということになるが、本当にそうなのだろうか。

⑥唐、高句麗の壁画古墳に描かれた四神

・高句麗の初期の壁画古墳には、人物・風俗を描いている。(小林恵子氏)
5世紀半ばから四神像がみられるようになり、人物・風俗と混在するようになる。
7世紀後半には、雄大な四神像のみ描かれるようになる。(小林恵子氏)

・唐の壁画古墳は10数基のみ。四神像が描かれているのは2基のみ。多くは人物像。
漢代には星宿が描かれていたが後期には天漢(銀河)に変わっている。(小林恵子氏)

・橿原市河西町新沢126号墳出土の円形の漆盤に四神が描かれていた。(小林恵子氏)

これはネットで検索しても画像が出てこないが、そういうものが出土したという記事はある。

⓻高松塚・キトラ古墳に描かれた四神

それでは高松塚・キトラ古墳に描かれた四神を見てみよう。

玄武
玄武

高松塚古墳 玄武 (高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

「壁画古墳 高松塚」66ページで網干善教氏は「(高松塚の玄武像は)中央に大きく欠きとった痕跡があって」と記している。
玄武は人為的に削り取られたとみてよさそうである。


玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

青龍

青龍 高松塚壁画館

高松塚 青龍

首に☒マークがあるのが特徴。薬師寺薬師如来台座の青龍にも同様のマークがある。

薬師寺 青龍



青龍

キトラ 青龍

白虎

白虎

高松塚 白虎

白虎

キトラ 白虎

キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎とよく似ているが、向きが逆になっている。
キトラのように向かって右向きに描かれる白虎は珍しいとのこと。
なぜキトラの白虎は逆向きに描かれたのだろうか?

朱雀

朱雀

キトラ 朱雀 

高松塚盗掘穴の石は残っていた。朱雀はないのではなく、漆喰がはがれている。/伊達宗康氏

高松塚古墳壁画の朱雀は漆喰が剥がれ落ちて、紛失されたと考えられているが
梅原猛氏は「最初から朱雀は描かれていなかったのではないか」と意見を述べられている。

「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
しかし南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができないという呪術的しかけなのだろうかと考えたりした。

衣装箱の場合だと、大事な衣装が外にでていかない。つまり、衣装持ちになれる。そういうわけで朱雀を描いていないのではないかと考えるのは、トンデモだろうか?(笑)



次回へつづく~

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew④遺骨から鑑定した被葬者の年齢



『高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(1972年)』
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』
『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』
における記述内容はピンク色文字で

「黄泉の王―私見・高松塚/梅原猛 (新潮社 1973年)6/1/」は水色文字で、
「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」はオレンジ色文字
「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」における表については緑色文字

私の意見などはグレイの文字で示す。

①高松塚の遺体には頭蓋骨がなかった。

・頭骨が全部残っているとある程度のことがわかる。頭骨がない場合には少しのことしかわからない。
歯はかなりよくわかる。大阪の黄金塚には歯しか残らなかったが、薄く切って顕微鏡で見て4,50代の男性でやや角張った丸顔と報告がある。(森浩一氏/「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(1972年)」)

・顎部以下の諸骨は残存しているのに、頭蓋骨は小破片すら残存しない。
高松塚古墳の被葬者の人骨については、頭蓋骨と下顎骨の破片も発見されていない。
骨を鑑定した島五郎氏によれば、頭蓋骨につづく舌骨、化骨甲状軟骨、前頸椎は残っているので斬首はありえない。
白骨になってから頭骨を引き抜いたのだろう。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」

・律によれば、謀反人は斬首。計画した者は絞首。斬首の方が罪が重く、首と胴体が離れる未来永劫に亘る死刑に処される。
斬首も絞首も同じと考えるのは現代人の感覚。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)

・高松塚の遺骨から、筋骨発達し、腕が長く、足が大きい。大柄。大腿筋が発達している。乗馬の習慣があったか。慢性疾患はなく急死の可能性が高い。推定死亡年齢は熟年者(40~50歳)(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)

・着衣の切れ端も見つかっていない。棺材に残った麻布や鏡の紐は残っているので、最初から衣はなかったのだろう。
着衣もなく葬るというのはありえない。死者を冒涜するために初めから破壊されていたと推定される。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)


②弓削皇子は30歳以下で亡くなった。

梅原猛氏は高松塚の被葬者を弓削皇子だと考えておられる。

弓削皇子の薨去年は699年だが、生年は不明である。
しかし、673年ごろに生まれたと考えられている。その理由は以下。

弓削皇子は693年に同母兄の長皇子とともに浄広弐に叙せられている。
大宝律令の蔭位の制によれば、親の位階によってその子孫が21歳になったときに位が与えられることになっていた。

蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子となっている。

親王の子 → 従四位下
諸王の子 → 従五位下
五世王の嫡子 → 正六位上(庶子は一階を降す)

諸臣
一位の嫡子 → 従五位下
以下逓減して
従五位の嫡子 → 従八位上
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す)

つまり、弓削皇子は浄広弐に叙せられた693年、21歳だったと考えられる。
すると、693年-21歳=672年となるが、21歳というのは数え年だと思われる。

数え年とは生まれたときを1歳とし、元日に年齢をひとつ加算していく年齢のカウント方法である。
なので、弓削皇子の生年は672年+1歳=673年。
弓削皇子の薨去年は699年なので、699年-673年=26歳(数え年では27歳)となる。

しかし、高松塚の遺骨の鑑定結果は、40歳から50歳となっている。

「高松塚古墳の被葬者が30歳以下の確率は約半分もある」は間違いだと思う。

島五郎氏は高松塚古墳の被葬者の年齢を次のように鑑定された。

骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

梅原氏が創元社刊『高松塚壁画古墳』170pから引用されている島氏の鑑定は次のような内容である。

❶骨盤があればほぼ確実に性を決定できるのだが、小さな破片しか残っていなかった。

❷四肢骨は非常に太く、上腕骨の三角筋粗はよく発達し、その他の骨も筋肉付着部のきめがあらいことから、筋骨の発達良好な男性と考えられる。

❸歯は下顎の第三大臼歯が2本、小臼歯1本。

❹歯の咬耗度は、エナメル質全面にわたるものおよび象牙質が点状また線状に露出する程度。
歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。

❺第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳と広いため、年齢推定はむずかしい。

❻咬耗度は2度。(6~8年程度で2度になる。)

これに対する梅原氏の反論。

❹❺❻から年齢推定は次のようになる。(16歳~30歳)+(6年~8年)=(16歳+6年)~(30歳+8年)=22歳~38歳
平均すると30歳。
30歳以下の確率は約半分もある。
そうであるのに、島氏は「❹歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。」としておられて矛盾している。

年齢を書きだしてみよう。
22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳、30歳、31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳
これらの年齢のちょうど真ん中が30歳となる。
そして30歳未満の年齢は22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳で8つ。
30歳超の年齢は31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳で8つ。
それで梅原氏は30歳以下の確率は約半分もある、とおっしゃったのだろう。

私は理数系が苦手なので自信がないが(汗)、梅原氏のように考えるのではなくて、
それぞれの年齢で第三大臼歯が生えてくる割合を考慮する必用があるのではないだろうか。

仮に(実際の数字ではない)
❶16歳から20歳で第三大臼歯がはえてくる人の割合を10%、
❷21歳から25歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合80%
❸26歳から30歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合を5%
としよう。

10%+80%+5%=95%で100%にならないような数字にしたのは、大三大臼歯は親知らずであり、生えてこない人もいるからである。

咬耗度が人によって大きな違いはないと仮定し、6~8年で咬耗度が2度になるということは
❶(16歳+6年)~(20歳+8年)=22歳~28歳 10%
❷(21歳+6年)~(25歳+8年)=27歳~33歳 80%(❹仮に27歳~30歳20%、❺30歳~33歳60%とする。)
❸(26歳+6年)~(30歳+8年)=32歳~38歳 5%

この場合、被葬者が30歳以下である確率は❶+❹で30%となるのではないだろうか。

③島氏は第二臼歯と第三臼歯の両方の可能性を示している。

以下は梅原氏の『黄泉の王』に引用された『調査中間報告書/橿原考古学研究所』(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」の事だと思われる。)における島氏の発言をまとめたものである。

歯牙による推定年齢
残存歯牙大臼歯2、小臼歯1
・下顎右側大臼歯は第一大臼歯ではない。第三大臼歯と考えているが、第二大臼歯かもしれない
 咬耗はエナメル質のほぼ全面に及ぶ 象牙質がゴマ粒大、より小さい点状大の二か所で露出
・上顎左側大臼歯は第三大臼歯。
 咬耗はエナメル質全面 象牙質の露出なし象牙質露出直線の状態

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

     下顎第2大臼歯  下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%

・第2第3臼歯の咬耗が、エナメル質全面に亘るもの、象牙質が点状、線状に露出するものの頻度は、20~29歳群では高くない。
・このような咬耗度をもつ大臼歯による推定年齢の変異幅は広い。
・萌出年齢の変異幅の広い歯牙(第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳)
・大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる)

これに対する梅原氏の反論

❶『中間報告書』と『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』で歯の種類が異なっている。

『中間報告書』・・・・下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)1
           上顎左側大臼歯は第三大臼歯 1
           小臼歯1                       
『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』・・・下顎の第三臼歯2、
                 (第3臼歯は左右一本づつなので、左右の第三臼歯があるということだろう。)
                  小臼歯1

❷下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)
とあるが、歯を特定しなければ年齢の鑑定がかわってくる。
第二大臼歯(15歳ぐらいまでにはえる)と第三臼歯(親知らずなので、16歳~30歳くらいではえてくる。)

『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』は未確認だが、梅原氏のいうとおりであれば、
梅原氏の❶の指摘はそのとおりだ。

もしも、『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』の記述が正しいのであれば、島氏は『中間報告書』の記述は「誤りであった」と一言書いておくべきだったかもしれない。

❷もそのとおりだが、島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

    下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる   
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%


島氏は高松塚古墳の被葬者の下顎大臼歯を「象牙質が点状または線状に露出」した状態であり、
この下顎大臼歯が第2大臼歯の場合、20~29歳である確率は14%、第3大臼歯の場合0%ですよ、
と言っているのである。

つまり、第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと、いずれにしても30歳以下の可能性は少ないと島氏はおっしゃっているのである。

大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる?

上緑色の文字で示した表「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」のデータ元は
栃原博氏が昭和32年に熊本医学科雑誌に発表した「日本人歯牙の咬耗に関する研究」にある表である。

私は図書館で「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」を借りることができたのだが、このp193で島氏は
「i  第2、第3大臼歯と年齢の関係は次表のとおりである。(栃原、昭、32)」と記しておられる。

ただし、梅原氏によれば、島氏の表の「象牙質が点状または線状に露出」の数字は栃原氏の表では「3段」の数字
島氏の表の「エナメル質全面にわたる」の数字は栃原氏の表では「4段」の数字である。

3段とか4段というのは、歯の咬耗度を表す数値で、無咬耗から7段までの8段階になっている。
つまり、島氏の表にある「象牙質が点状または千状に露出」は「3段」の咬耗度、
「エナメル質全面にわたる」は「4段」の咬耗度というわけだ。栃原氏の表に咬耗度を書き入れてみよう。(太字)

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

 下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
     (咬耗度3段)               (咬耗度4段)
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%           55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%           30.4%

そして、梅原氏は次の様に推測されている。

島氏は、上顎の大臼歯を咬耗度3段としたのだろう。
上顎大臼歯咬耗度3段は、20~29歳では19.6%。

下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。
第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%
ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ないとしたのだろうと。

これは私が③で「島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。」と書いたのと同じことである。

その上で、梅原氏は島氏を次のように批判した。

❶歯の鑑定が不安定。(第二大臼歯か第三大臼歯か不明)
❷島氏が栃原氏の八段階の鑑別を正確に行ったか不明。
❸栃原氏の調査は現代日本人のものであって、飛鳥時代の人間にあてはめることができるのか。
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

❶については、③で述べたように、島氏は『中間報告書』で、歯が第2大臼歯か第3大臼歯か特定できないから、
第2大臼歯と第3大臼歯の両方の30歳以下の確率を示したのであり、それ以上しようがないと思う。
ただ、その後『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』において、島氏は「下顎の第三大臼歯2」と特定し、
『中間報告書』での記述(下顎の第3大臼歯または第2代臼歯)と異なった鑑定結果になってしまっていることが、梅原氏の不審を招いているように思える。
❸もその通りだと思う。
❷は島氏の説明不足だろう。

❹はわからないが、❹を考慮すれば上の緑色の表は
20~29歳で咬耗度3段(象牙質が点状または線状に露出)は、下顎第2大臼歯14.3% 下顎大3臼歯 0.% となっているのが、さらに数字が小さくなり、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

④マイルズの研究

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年』p196で島氏は次のように記しておられる。

ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。
この歯牙昨日年数に基く推定年齢も亦栃原成績から得た結果と一致する。

梅原氏によると、マイルズの研究は次のようなものである。

マイルズはイギリスの古い墓地から鑑定可能と思われる157体を選び、年齢推定を試みた。
第3大臼歯が生えるのを18歳とし、18歳以下と思われる38体を選び出して咬耗度を調べた。
彼らはほぼ同一人種。食べているものもほぼ同じ。
第1大臼歯は約6歳、第二大臼歯は約12歳、第3代臼歯は約18歳で生える。
マイルズは大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗すると考えるが、奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。
その比率は、だいたい7:6.5:6。
すると18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳になる。
ただし、この計算は他の骸骨の集合体には使えない、考古学的素材には使えない。

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑨歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと30歳以下の可能性は低いことを島氏は示した。」
私が上の記事を書いたとき、恥ずかしながら「18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳」という計算がどうしてもわからなかった。
その理由は「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」をどのように計算したらいいか、わからなかったからだ。

とりあえず「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」はを無視して、「大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗する」とし、仮に消耗していない場合の消耗度を0、6年で咬耗する度合いを1とし、12年で咬耗する度合いを2として考えてみよう。

18歳の人の場合、
第三大臼歯は生えたばかりで、咬耗していないので、咬耗度0
第二大臼歯は12歳ではえ、6年経過しているので咬耗度1
第一大臼歯は6歳で生え、12年経過しているので咬耗度2

       第一大臼歯   第二大臼歯     第三大臼歯
a18歳の人   6歳で生える 12歳で生える    18歳で生える
        咬耗度2   咬耗度1      咬耗度0

b?歳の人                                  咬耗度2       咬耗度1
             12歳ではえて12年経過 18歳ではえて6年経過

するとbの年齢は24歳となる。 

「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」
ということは、奥に行くほど、消耗にかかる期間が短くなるという事なので、bは24歳よりも若干若いかもしれない。

梅原氏によれば、マイルズはbの年齢を「18歳+6+0.5=24.5歳」としているということだが、
bの第三大臼歯が18歳ではえて6年経過するとaの第二大臼歯の消耗度と同じになるため、18歳に6を足しているのだと思う。
0.5を足す意味はわからない。

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年』p196で島氏は次のように記しておられるのだった。
「ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。」

梅原氏はマイルズの論文を読み「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」と記していられるが、マイルズの論文の引用がないので確認ができない。

梅原氏は「マイルズの報告書には島氏が言うような『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である』という言葉はない」という。

確かに、マイルズの研究が梅原氏の引用のとおりであれば、そんなことは言っていない。

ただ、島氏は「ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。
この歯牙昨日年数に基く推定年齢も亦栃原成績から得た結果と一致する。」と言っている。

栃原成績から得た結果とは、上に緑色文字で示した「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」の表のことである。
マイルズが梅原氏が主張されているように「『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である」と言っていなかったとしても、すでに記したように
栃原成績が「下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%。ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ない」とでている。

これも繰り返しておくが、梅原氏は
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

とおっしゃっているが、咬耗にもっと時間がかかるとすると、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

まとめとしては、島氏の歯による年齢鑑定には、わかりにくい点がある。
また第2大臼歯か第3大臼歯か特定できていないが、島氏は栃原氏の研究にあてはめて歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうといずれにしても30歳以下の可能性は低いことを示した。
しかし、これは現代人のデータによるものであり、飛鳥時代の人物に用いることができるかどうかは、検討の余地がある。
そういう事になると思う。

また梅原氏は、高松塚古墳被葬者の骨を専門家に見せたところ相当老化していると言ったとも書いておられる。

⑤人骨について(島五郎氏の説明)創元社版での発言について

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
この結合部はする。「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進むと、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。

(以上、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』より)

⑥『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」

「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)
・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

(以上、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』より)

⓻キトラ古墳の被葬者の年齢については、こちらの記事に説明がある。(いつ書かれた記事なのかがわからない。)


奈良文化財研究所が石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を発見し、片山一道・京大大学院教授(自然人類学)が歯と骨を鑑定した。
・骨はすねの部分の破片1点。あとはすべて頭骨。
・重複する部分はなく、被葬者は1人。
・目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立つ。
頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるという。身長は推定できなかった。
・歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰、頭骨の状態などから、50代の可能性が高い。
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった。

どのように鑑定したのかなど、もっと詳しいことを知りたいが、
高松塚の被葬者30歳代から40歳以上、キトラの被葬者は50代ぐらいで、どちらも男性ということになりそうだ。

キトラ古墳被葬者の歯

キトラ古墳 被葬者の歯(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)
上側右側犬歯の中央がへこんでおり、モノをくわえる習慣があったと考えられているが何をくわえていたかは謎とのこと。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew③大きさ



キトラ古墳はやや小さいが、高松塚は小さくはない。

①薄葬令の墳墓の大きさの規定は無視されている。

森浩一氏などが「高松塚古墳は薄葬令(646年)の影響がある。」と指摘されている。
646年の薄葬令では、古墳の大きさを次のように規定する。

王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める


『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村(昭和47年)』などの古い書籍では高松塚古墳の大きさを直径18mと記している。
しかし、ウィキペディア『高松塚古墳』は「直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳」と記している。
昭和47年当時、高松塚古墳は二段式の円墳であることがわかっていなかったのかもしれない。

薄葬令の一尺が何メートルに該当するのかわからないが、検索すると1尋は1.5m、古代中国では8尺(約1.m)とでてくる。
1尋を1.5mとすると、高松塚古墳は直径15.3尋、高さ3.3尋、1尋を1.8mとすると12.8尋、高さ2.8尋。
いずれにしても直径は薄墓令の王以上の規定・9尋を超えるサイズになる。

いくつか古墳の大きさを調べて、方の大きい順に並べてみた。
王以上の規定(方9尋、高さ5尋)以上の古墳は赤でしめす。
※1尋は2mとして計算している。1尋=1.8m、1.5mとした場合の1尋は下の数値よりさらに大きくなる。


野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)               
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・対角長15尋(30m)
※ 現在の墳丘は対角長直径10m程だが、中近世の神社境内の整備による。発掘の結果、対角長30mの八角形墳であったことが判明した。
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
中尾山古墳(文武天皇真陵であることが確実/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m)  
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
久渡古墳群2号墳 (高市皇子墓とされているが疑問)/696)・・・・・・径8尋(16m)
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)
※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。

このようにしてみると薄葬令の「方の規定」はほぼ無視して古墳は築かれているように思える。
一方、高さは薄葬令の規定以下のものが多い。
これは力学的、技術的に薄葬令の高さに近いものをつくることが難しかったということかもしれない。

また、キトラ古墳の墳墓はまあ、小さい部類に入るかもしれないが、高松塚古墳の墳墓は決して小さい古墳とはいえない。

②高松塚の石槨は小さいが墳墓は決して小さくはない。キトラは石槨も墳墓も小さい。

薄葬令は石槨の大きさも規定している。
石槨とは「 石で築いてつくった、棺を納める室」のことである。
横穴式石室の事を玄室とも言い、石槨と玄室はほぼ同じ意味であると考えていいのではないだろうか。

王(みこたち)以上        ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
上臣(大臣、大宝令では三位以上) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
下臣(大徳小徳 大宝令では四位) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
大仁小仁以下(五位以下)     ・・・長さ9尺、高さ広さ4尺

尺について、ウィキペディアはつぎの様に記している。
隋代には、一般に使われる長い尺を大尺、旧来の短い尺を小尺として制定し、唐でもそれを継承した。大尺は小尺の1.2倍にあたる。唐の大尺は、日本の正倉院蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。唐代以後は小尺は使われなくなった。

とりあえず1尺30cmとして各古墳の石槨の大きさを求め、薄葬令より大きなものは赤で示す。
※羨道の大きさは省いた。

羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。

横穴各部の名称

柏原市立歴史資料館 説明板より


野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・不明
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ16.3尺(4.9m)、幅9尺(2.7m)、高さ10尺(3m)            
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・奥室:長さ12.3尺3.7m、幅7.3尺(2.2m)、高さ8尺 2.4m 
                       玄室:長さ 21.7尺(6.5m)、幅14.3尺(4.3m)、高さ14.3尺(4.3m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・長さ11.7尺16.7尺(3.5m)、幅16.7尺(5m)、高さ8.3尺(2.5m)
                       ※牽牛子塚古墳の被葬者は2人仕切り壁で2つの空間に仕切られている。
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・長さ10.2尺(3.06m)幅7.1尺(2.12m)推定高さ8.3尺(2.50m)
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・・長さ24尺(7.2m) ・幅8.3尺(2.5m)高さ11.67尺(3.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・不明
薄葬令(四位以上)・・・・・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ5尺(1.5m)、高さ5尺(1.5m)
薄葬令(五位以下)・・・・・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ4尺(1.2m)、高さ4尺(1.2m)
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ8.9尺(2.655m)、幅3.5尺(1.035m)、高さ3.8尺(1.134m)                   
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・長さ8.3尺(2.48m)、幅6.7尺(2m)
                      開口部は幅1.3尺(0.4m)・高さ1.7尺(0.5m)
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・不明
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・長さ3尺(0.9m、 幅3尺(0.9m)、 高さ、?
                       ただし、中尾山古墳の被葬者は火葬されている。 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子?/696)・・・・・?
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ8.7尺(2.6m)、幅3.3尺(1m)、高さ0.65尺(1.3m)
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・  長さ8尺(2.4m)、幅3尺(0.9m)、高さ2尺(0.6m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ ・長さ5.3尺(1.58m)・幅2尺(0.6m)・高さ2.3尺(0.7m)


このように見てみると、石槨(玄室)も薄葬令の規定より大きい物が多くある。
その中で高松塚古墳、キトラ古墳の石槨は「小さい」といえそうである。

③墳丘指数

掘田啓一氏は、墳丘指数を勘案されているそうである。
墳丘指数=高さ÷直径✖100

実際に①で示した古墳の墳丘指数(緑色で示す)を計算して、大きい順に並べてみよう。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)    55.56
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)   26.67               
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)            25.00
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)  23.91
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)  21.74
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)   21.74
中尾山古墳(文武天皇真陵であることが確実/707)・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)20.51
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)   19.54
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)       18.18
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)          15.5
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・径14尋(28m)、高さ1尋(2m)7.14

束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・対角長15尋(30m)高さ?                       
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) ? 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子墓とされているが疑問)/696)・・・・・・径8尋(16m)?
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)?
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)?
                      ※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。


このように比較してみると、高松塚古墳は直径が変更されたせいもあって、さほど墳丘指数が大きいということはないと思う。

高松塚古墳

高松塚古墳

キトラ古墳

キトラ古墳

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(斉明天皇、間人皇女の墓である可能性が高い。隣接して越塚御門古墳があり、大田皇女の墓の可能性が高い。)

野口王墓

野口王墓(天武・持統陵)

文武天皇陵

栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)

中尾山古墳

中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)

かんす塚古墳

真弓鑵子塚古墳 被葬者は不明

束明神古墳

束明神古墳

追記(2024年3月17日)
現在の墳丘は小さいが(直径10m程?)これは中近世に神社境内が整備されたためである。
発掘調査の結果、対角長30mの八角墳であったことがわかった。

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew②聖なるライン 



「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。

①聖なるライン

1969年、岸俊夫氏は藤原京遺跡の朱雀大路の延長線上に菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)がほぼ一直線上に存在している(多少のずれはある。)ことを発見した。
これは「聖なるライン」と呼ばれている。

藤堂かほる氏が「藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があるので、天智天皇陵の造営時期は文武天皇の時代ではないか」とする説を発表した。

これを受けて猪熊兼勝氏が『岸氏の「聖なるライン」の延長上に、藤原京大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳がのる」と発表した。
猪熊氏はこれらの遺跡は東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内とされている。

聖なるラインの最北は藤原京ではなく、御廟野古墳(天智天皇陵)だったのだ。

また小山田古墳は、従来、小山田遺跡として発掘調査が行われていたが、
2016年度(平成28年度)に横穴式石室跡が、2017年度(平成29年度)、第9次発掘調査で石室羨道が確認され、古墳であることが判明している。
この小山田古墳も聖なるライン上に並ぶかどうか、微妙な位置にある。(東経135度80分95秒)

小山田古墳と聖なるライン

菖蒲池古墳説明板より ※上の地図では小山田古墳は小山田遺跡と記されている。

また、上の地図を見ると、鬼の俎、鬼の厠も聖なるライン近くにあることがわかる。

つまり、聖なるライン上には、次のものがのると考えてもいいように思える。
※北から順に示す。
※オレンジ色の数字はグーグルマップによる10進法による東経。
※緑色の数字は60進法による東経。変換はこちらのサイトで行った。緯度・経度の、10進数と60進数(度分秒)の変換

御廟野古墳(天智天皇陵)135.80703578189002 135° 48' 25.3296" 〇
平城京朱雀門 135.7942909453661 135° 47' 39.447" 
藤原京大極殿跡  135.807488756034 135° 48' 26.9604" 〇
藤原京朱雀大路跡 135.80744584069 135° 48' 26.805" 〇
植山古墳?(山田高塚古墳に改装される前の推古天皇と竹田皇子の合葬墓?) 135.80348372260363 135° 48' 12.5418"
菖蒲池古墳(蘇我入鹿の小陵?)※これについては後に記す。 135.8079112530273 135° 48' 28.479" 〇
小山田古墳?(蘇我蝦夷の大陵?または舒明天皇の初葬地・滑谷岡?)※これについては後に記す。135.80953546651938 135° 48' 34.326"
鬼俎・鬼厠?※これについては後に記す。135.8053400892267 135° 48' 19.224" 
野口王墓(天武持統合同陵) 135.8078823953552 135° 48' 28.3752" 〇
カナヅカ古墳?(吉備姫王の墓?) 135.803472439535 135° 48' 12.4986"
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)※これについては後に記す。135.80610662419087 135° 48' 21.9846" 〇
高松塚古墳 135.80620099535486 135° 48' 22.323" 〇
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。) 135.8073279818628 135° 48' 26.3808" 〇
キトラ古墳  135.80524770990635 135° 48' 18.8892" ×

猪熊氏は御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・高松塚古墳・栗原塚穴古墳・キトラ古墳は、東経135度48分19-29秒の範囲に収まると仰っている。
収まるものに〇をつけた。

残念ながらキトラ古墳は東経135度48分18秒であり、東経135度48分19-29秒の範囲に収まらなかった。

しかし、それ以外の御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓・中尾山古墳・高松塚古墳・栗原塚穴古墳は東経135度48分19-29秒の範囲に収まっていた。
また鬼俎・鬼厠は135度48分19秒なので、猪熊氏のいう東経135度48分19-29秒に収まる。

しかし、何も東経135度48分19-29秒からわずかに外れたからといって、聖なるラインに乗らないと考えるのもおかしい。

②鬼俎、鬼厠は石室だった。
鬼の俎・鬼の厠
鬼俎、鬼厠のある付近には、昔鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したという伝説がある。
残念ながらこれらの謎の石が鬼の俎・鬼の厠であったというのは伝説にすぎず、『鬼の俎』は石室の底石、『鬼の厠』は古墳の石室だと考えられている。

『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もある。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されている。

鬼の俎付近にあった石室

かつて飛鳥に存在していたもうひとつの鬼の俎

『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もあったが、現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が確実視されている。
牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認された。
この時代の天皇の墓のほとんどは八角墳なのである。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳がある。
石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっている。
中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、梅原猛氏は「石舞台古墳や鬼の俎・鬼の厠も暴かれた墓ではないか」とおっしゃっている。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓と考えられているが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されている。(乙巳の変)
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかもしれない。

石舞台古墳

石舞台古墳

②聖なるライン上の古墳は天皇家の古墳?

・聖なるライン上にある菖蒲池・天武持統陵・中尾山・高松塚・文武陵は石室の形式に差があり、築造年代に若干の差があるが、いずれも終末期古墳。(直木孝次郎氏)

一般的にキトラ古墳も聖なるライン上に並ぶとされるが、直木氏がこの発言をされたのは、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり(昭和47年は1972年)、このときキトラ古墳壁画はまだ発見されていなかった。(キトラ古墳の壁画が発見1983年)

・文武天皇陵は内部の状態がわからないが、他の4つの同時期の古墳がほぼ一直線に並んでいるのは偶然ではない。(直木孝次郎氏)

中尾山古墳を発掘調査したところ、天皇陵に多い八角墳であり、火葬墓であったことなどから、中尾山古墳が文武天皇の真陵と考えられている。
直木氏が文武天皇陵とおっしゃっているのは栗原塚穴古墳だと思われる。
この栗原塚穴古墳は文武天皇陵に治定されているので、発掘調査が行われておらず、内部の状態はわからない。
直木氏がこの発言をされたのは、先ほども述べたとおり「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり、中尾山古墳の発掘調査が行われたのは1974年(昭和49年)・2020年で、本はそれ以前に出版されたものである。
直木氏が「中尾山古墳は文武天皇の真陵」とおっしゃっていないのはそのためである。

・高松塚の被葬者は藤原京時代に死去した人である可能性が高い。
但し、藤原遷都の持統8年以降と見るのではなく、藤原京都市計画が出来た時期以降と考えるべき。
聖なるライン上に天武陵があることから考えると、686年崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていたと思われる。
藤原京時代の下限は平城京遷都の行われた710年。
天武、持統、文武の近親者の可能性が高い。(直木孝次郎氏)

前回も述べたが、聖なるライン上に乗りそうに思われる小山田古墳は蘇我蝦夷の大陵ではないかとする説がある。
そしてやはり聖なるライン上にあるとされる菖蒲池古墳は蘇我入鹿の小陵であり、小山田古墳と菖蒲池古墳が蘇我蝦夷・入鹿の「今来の双墓」ではないかというのだ。
かつて明日香の有る高市郡は今来郡とよばれており、小山田古墳と菖蒲池古墳はどちらも方墳なので、今来の双墓というのにふさわしいように思える。

小山田古墳 羨道跡

小山田古墳羨道跡

菖蒲池古墳

菖蒲池古墳

蘇我蝦夷の大陵とする説のほか、第34代舒明天皇の初葬地・滑谷岡ではないかとする説もある。
舒明天皇は641年に崩御し、642年に滑谷岡に葬られたが、643年に押坂陵に改葬されている。
押坂陵は奈良県桜井市の段ノ塚古墳に治定されている。
段ノ塚古墳は天皇陵に多い八角墳であり、舒明天皇の押坂陵であることが確実視されている。
しかし、小山田古墳が舒明天皇の初葬地・滑谷岡であるというのは疑問視する声もある。

小山田古墳の下層には6世紀後半の集落跡があり、古墳をつくるにあたり、その集落を潰したと考えられている。
さらに築造後の7世紀後半に掘割(地面を掘ってつくった水路。ほり。)の埋没が認められるという。

「掘割の埋没」というのがよく意味がわからないが下の記事をよむと、どうやらそれは古墳の破壊を意味しているようである。

”掘り割りが築造後ほどなく埋没している
という事実である。当然、それは墳丘の削平とも連動していた可能性が高いが、だとすると、大抵の労働力を投入して築造した古墳を、さしたる時間もおかずに、わざわざ破壊したことになる。再び大規模な動員をかけてまで、そうせざるをえなかった理由は何だったのか。舒明初葬陵説に立った場合、はたしてそれを説明しうるのか。”
小山田古墳の被葬者をめぐって 小澤毅 3pより引用
「小山田古墳を舒明天皇の初葬地・滑谷岡」とする説に対しては、「改葬するからと言って、天皇の陵であった場所を破壊するだろうか」という疑問が出されているのである。

一方、小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の小陵と考えれば、彼らは中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターで殺害されているので(乙巳の変)、彼らが作った壮大な墓を破壊する理由は十分にある。

ここで、次のようなここで批判があるかもしれない。

「聖なるライン上に天皇家の墓を作る目的があって、蘇我蝦夷の大陵である小山田古墳を破壊したのではないか。
とすれば、高松塚古墳、キトラ古墳は天皇家の墓であり、被葬者は天武、持統、文武の近親者ではないか?」と。

そういう考え方はありえる。
しかしその問題は一旦保留にしておいて、次に進みたいと思う。


③「聖なるライン」ではなく「聖なるゾーン」ではないか?

・岸俊男氏は「天武持統陵が藤原京の朱雀大路の線上にのる」とおっしゃっている。(聖なるライン)
直木孝次郎氏は「線ではなく、ゾーン」だとおっしゃっている。(ホーリーライン)

ホーリーラインとはHoly lineであり、Holyは「聖なる」という意味であり、Holy lineで検索すると競馬の予想サイトなどがヒットする。(笑)
私は英語はまるでダメなのでよくわからないが、Holy lineを直訳すると「聖なるライン」となってしまい、「聖なるライン」も「ホーリーライン」も同じ意味ではないのか、と思ってしまう。
もしかしたら、私が本を誤読したのかもしれないが、今手元に「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」がない。(図書館で借りて読んだため)
なので、岸氏がおっしゃる「線ではなく、ゾーン」を「聖なるゾーン」としておこうと思う。

「聖なるライン」というが、少しラインからずれている古墳もある。(これについては誤差だとする意見もあるだろう。)
また「聖なるライン」の周囲にも岩屋山古墳、牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、真弓鑵子塚古墳、石舞台古墳、都塚古墳などが存在しているので、岸氏がおっしゃるとおり「聖なるライン」を中心に、その周囲に古墳が存在する「聖なるゾーン」ととらえた方がいいようにも思う。


④「聖なるライン」(または「聖なるゾーン」)が意図するもの

古代の人々が、このように古墳を配置した意図は何だろうか?

私は天智天皇を最上位とするため聖なるラインの最北に天智天皇陵を作ったのではないかと考えている。
「天子南面す」といい、北は天子の位置とされる。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

誰が天智天皇陵を聖なるラインの最北に作ったのか。
私は藤原不比等(659-720年)が天智天皇陵造営に関係しているような気がする。

不比等は中臣(藤原)鎌足の子とされるが、本当は天智天皇の落胤であるとの説がある。
『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。

「藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等である」と。

これが事実かどうかわからないが、藤原氏は事実だと考えていたのではないかと思う。
奈良時代、天武系の天皇は絶えてしまって、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。
光仁天皇の次代には光仁天皇の子の桓武天皇が即位し、平安京に遷都する。
以後、ずっと天智系天皇が続いていることになる。

なぜ桓武天皇は平安京に遷都したのか。
そこには天武系天皇の都である平城京を捨て、藤原氏の先祖である天智系天皇の都を新たに作ろうとする藤原氏の意図が働いてはいたのではないか。
そして自分達の先祖(と彼らが信じている)天智天皇の陵も聖なるラインの最北につくったのではないか?

⑤「聖なるライン」は存在しないとする説

「聖なるライン」は存在しないとする説もある。

・中国では、古墳の立地は北。(都の北という意味だと思う。)南に墓を作ることはほとんどない。なので藤原京の南の線上というのは疑問。
高句麗の輯安(集安)も南の開けた土地にというのはない。新羅の慶州にもない。(斉藤忠氏)

・藤原京の場合は、北が低く平地になっていて、南が山という立地条件もある。藤原京の地勢から見て墳墓の地は北には求められない。(伊達宗康氏)




能登半島地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

このたびの能登半島地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

能登は数年前に旅行に行ったことがあり、白米千枚田・すず塩田村・軍艦島・キリコ祭・御陣乗太鼓などを見学し、大変美しい場所だと知りました。
また旅先で出会った方々も皆さんとても親切にして下さり、とても良い思い出になりました。
大好きな能登がこのたびの震災で大きな被害を受けたことに心を痛めています。


[ 2024/01/02 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew① 高松塚・キトラ古墳のある場所

 あけましておめでとうございます。今年も拙ブログをよろしくお願いします。

「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 」
という記事を43回にわたって書いた。
これらの記事は本ごと、研究者ごとの意見のメモと、それらに関してわからない点を調べたことや、考えたことなどを思いつくまま書いてしまったので(汗)
自分でも頭が混乱してわけわからなくなってしまった。😅
そこで復習の意味もこめて、「古墳のある場所」「古墳の大きさ」「唐や高句麗の壁画古墳との比較」などのテーマごとにまとめてみることにした。
以前の記事を読み直して、新たに疑問が生じて調べたことなども記そうと思う。

どのようにまとめればいいのかとかなり悩んだし、まだまとまりきっていない点もあるので、途中で記事の順番を入れ替えたり、追記を入れたり、書きなおすこともあるかもしれないが、よろしくお願いします。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。


上の動画で来村氏が語っておられる内容については、私は同意できない点もあるのだが、
高松塚・キトラ古墳に描かれている壁画の内容などがよくわかると思うので、張り付けておく。

①飛鳥

高松塚古墳・キトラ古墳は奈良県高市郡明日香村に存在し、発掘調査の結果、両古墳に極彩色の壁画が発見された。
高松塚古墳には四神図、人物群像、星宿図が、キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図が描かれていた。
壁画を描いた古墳は九州の装飾古墳などもあるが、九州の装飾古墳は絵のタッチが抽象画のようなものが多いのに対し
高松塚キトラ古墳は繊細で、王朝風を感じさせる画風で注目を集めた。
まずは、その高松塚・キトラ古墳がどのような場所に造られたのかについて見てみようと思う。

明日香村は古代日本の都があったところで、主にこの辺りに都があった時代は飛鳥時代(592年~710年)と呼ばれている。
(飛鳥時代には難波や大津に都が置かれたこともあった。)

552年または538年 仏教公伝 欽明天皇は磯城島金刺宮(奈良県桜井市)に住んでいたと思われる。
         ※欽明天皇の宮として難波祝津宮(大阪市)もでてくる。
587年 丁未の乱。崇仏派・蘇我氏vs廃仏派・物部氏の戦い。蘇我氏が勝利。
592年 推古天皇 豊浦宮に住む。
593年 聖徳太子摂政となる。
603年 推古天皇 小墾田宮に住む。
643年 飛鳥板蓋宮に遷都
645年 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺。入鹿の父・蘇我蝦夷は自殺。蘇我氏体制を滅ぼす。
    中大兄皇子が政治の実権を握るが、即位せず。中大兄皇子の叔父・孝徳天皇が即位。
    孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都    
655年 :斉明天皇(中大兄皇子の母)重祚。
    飛鳥宮に遷都
663年 白村江の戦い 百済の国家復興に助力するも、新羅・唐連合軍に大敗。
667年 近江大津宮 に遷都
668年 天智天皇(中大兄皇子)即位。
672年 天智天皇崩御。
     壬申の乱 大友皇子(天智の子)vs大海人皇子(天智の弟)が皇位をめぐって争う。
    大海人皇子が勝利して即位する。(天武天皇)
    飛鳥浄御原宮に遷都
690年 天武天皇崩御。皇后の鸕野讚良が即位。(持統天皇)
694年 藤原京に遷都
710年 平城京 に遷都

②高松塚キトラ古墳のある高市郡は今来郡だった!

直木孝次郎氏は次のような旨の発言をされている。

・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他姓のものは一割~二割程度。/続日本記(直木孝次郎氏)

・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。/姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀にも見える)
後に渡来した新漢(いまきのあや)人などの中には今来に住む者も多かったのではないか。(直木孝次郎氏)

また今来という言葉の意味については次のような説明があった。
”■ いまき(今来・新)
・ 「いまき」とは新参という意味。4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達を一般には「漢人(あやひと)」と呼んだが、5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人(いまきのあやひと・今来漢人)」という。大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。【出典】
■ 今来(いまき): 大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
■ 今木(いまき): 奈良県吉野郡大淀町今木、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 今木の語源は「新しく来る」、つまり今来。木にしたのは神の降臨にかけている。神が来臨して、新しい居住地を定める。  
・ 今来、今城、新漢(いまき・イマキノアヤの略)などと書いた。今木は新木(いまき)の借字。新来の意味で、渡来人の居住地を意味する。しかし、それ以外にも諸説有り。【奈良の地名由来辞典 池田末則 東京堂出版】”
https://folklore2017.com/timei900/999065.htm より引用
・今来は新来(いまき)であり、新参という意味。
・4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達は「漢人(あやひと)」
5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人・今来漢人(いまきのあやひと)」と言った。
・大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。
・大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木などの地名が残る。
・新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
・今来は今城、新漢などとも書かれた。
・渡来人の居住地を意味する。

「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」と姓氏録逸文には記されているという。

現在の高市郡は飛鳥村高取町を含む。
古代の高取町について、『和名類聚抄』は以下の郷をあげている。
巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美

檜前という地名は現在でも明日香村にある。



現在、明日香村に今来や今木という地名が無いので、知らなかったのだが、飛鳥村は古代には今来郡と呼ばれる地域だったのだ。

③蘇我蝦夷と蘇我入鹿の今木の双墓はどこにある?

今木と聞いて思い浮かべるのは、「今木の双墓」である。
「今木の双墓」とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。

1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと考えられていた。

しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。

”近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。”
ウィキペディア 水泥古墳 より引用
水泥古墳と水泥塚穴古墳が今木の双墓ではなく、明日香村も今来郡だったのであれば、蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は明日香村にあるかもしれない。

そう思って調べてみたところ、明日香村にある小山田古墳と菖蒲池古墳が今木の双墓ではないかという説が浮上していた。

”小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。
一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。”


④檜前は渡来人が住む土地

高松塚古墳は飛鳥地域の中でも、檜前と呼ばれる地域にある。
キトラ古墳については、

”キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。”
キトラ古墳 | 国営飛鳥歴史公園 より引用
とあるので、檜前から少し外れたところにあるようだ。
しかし、古代にはもう少し広い地域が檜前であったかもしれない。

・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」/応神20年紀
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。(直木孝次郎氏)

これだけではなぜ坂上氏や檜前氏が倭漢氏なのかわからないが、ウィキペディアには次のように記されている。

”『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条の坂上大忌寸苅田麻呂によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂が述べた[4]。”
ウィキペディア 阿知使主より引用
ここに、「阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂」とある。
「東漢」は「やまとのあや」とよみ、「倭漢」とも記される。

”『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきたとある[4]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[5]。
段(古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり)、首、民使主首の祖。
李 - 刑部史の祖。
皀郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
朱 - 小市、佐奈宜の祖。
多 - 檜前非調使の祖。
皀 - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
高 - 檜前村主の祖。”
ウィキペディア「阿知使主」 より引用

「七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきた」のは誰なのか、主語がないが、話の流れからして
阿知使主が七姓漢人を連れてきたということだろう。

「多 - 檜前非調使の祖。」とあり、阿知使主が連れてきた七姓漢人のうちの多は、檜前非調使の祖なのだ。

直木氏は「檜前氏は倭漢氏」だとおっしゃるが、『新撰姓氏録』の、この記録からは「檜前氏は倭漢氏」だとは言い切れないように思う。
「檜前氏は倭漢氏の祖・阿知使主が連れてきた」とはいえるだろう。

⑤倭漢氏は中国系?朝鮮系?

・朝鮮系渡来氏族、倭漢氏の本拠地が檜前。(直木孝次郎氏)

直木氏は倭漢氏を朝鮮系渡来民族と書いておられるが、ウィキペディアは「後漢霊帝の曾孫」と書いている。
後漢は中国にあった王朝の名前である。
”『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人(中国から一七県の人々を率いて来日、のち天皇の命で呉(くれ)におもむき、織女、縫女を連れ帰ったという。後漢霊帝の曾孫[2])系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

”東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。また、門脇禎二によると半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った場合がほとんどだという[3]。秦氏も同様に秦始皇の苗字は秦氏ではなく、弓月君が渡来した時期、秦国は数百年前に滅んでいる。弓月君は百済か新羅から渡来したが『魏志』東夷伝で「辰韓はその耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。」という耆老の間違った伝世によって中国から新羅はよく秦国の末裔と呼ばれ波多氏は秦氏を名乗るようになった[3]。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

門脇氏は直木氏同様、「半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った」とおっしゃっている。

⑥天皇家の勢力は檜前に及んでいた。

・檜前は倭漢氏など朝鮮系渡来者の勢力が強い土地だったと考えられるが、「他姓のものは10に1、2」は「倭漢氏の一族を高市郡司に任用されることを願う文中にあり、誇張があるだろう。(直木孝次郎氏)

・天皇家の勢力は檜前に及んでいた。
6世紀中の宣化檜隅高田皇子という名前で、檜隅蘆入野に都した。
欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)

・檜前が東漢氏など帰化人が住んでいた地域というのは、7世紀までではないか。(井上光貞氏)

今来郡は渡来人が住む土地で、その今来郡にある檜前は倭漢氏などの渡来人が多く住んでいたのだが
天皇の勢力も及んでいたということだ。

「日本書紀」によれば第28代・宣化天皇 (467年?- 539年?)は諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)といい、 檜隈廬入野宮に住んでいたとある。
宣化天皇は倭漢氏などの渡来人が多く住む地域に都をつくったということだ。
この檜隈廬入野宮は明日香の檜前にあったのだろう。

また第29代欽明天皇(509年 - 571年)の陵は檜隅坂合陵といった。
檜隅坂合陵も檜前にあったのだろう。
現在、檜隅坂合陵は明日香の梅山古墳に比定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳が欽明天皇陵とする説もある。

⓻で述べるように、直木孝次郎氏も「欽明天皇陵は見瀬丸山古墳」と考えられておられるようだ。

「欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)」

と直木氏はおっしゃっているが、直木氏のいう「檜隅陵」とは現在、檜隅坂合陵に治定されている梅山古墳のことではないと思う。
記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記されているが、その「檜隅陵」とは欽明天皇の「檜隅坂合陵」のことだろう、という意味だと考えられる。

現在、欽明天皇陵は梅山古墳に治定され、そのとなりに吉備姫王(皇極・孝徳両天皇の母)の墓とされる古墳がある。
これは、記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記述されているのを、「吉備姫王の墓は欽明天皇の檜隅坂合陵檜隅陵の域内にあった。」と解釈し、治定したのだろう。

”一方で、『日本書紀』推古紀に「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に「しのびこと」[3]たてまつる」と見える。この「軽の巷」は当時の下ツ道と阿倍山田道の交点で現在の丈六交差点にあたり、丸山古墳の北側に位置する。堅塩媛は欽明天皇后であり推古天皇の生母でもあることから、改葬の理由を夫婦合葬とすれば、やはり欽明陵であった可能性が出てくることになる。
ウィキペディア「丸山古墳」より引用”

真の欽明陵が見瀬丸山古墳だとすると、その領域内に吉備姫王の墓と考えられる陪塚はあるのだろうか。
調べてみたがわからなかった。


 

吉備姫王墓について、ウィキペディア「宮内庁治定陵墓の一覧」をみると、陵墓名称は桧隈墓とあり、「真陵はカナヅカ古墳か」と記されている。

カナヅカ古墳は上の梅山古墳の地図を拡大すると梅山古墳の東にある。

梅山古墳が欽明天皇の檜隅坂合陵でなく、カナヅカ古墳が吉備姫陵の真陵だとすると、
吉備姫王が葬られた檜前陵の域内は、檜隅坂合陵の域内とは別所ということになる。

そうではあるが、吉備姫王の墓は「檜隅陵の域内にあった。」と記されているので、檜前の地にあったとはいえるだろう。

※倭漢氏と天皇家、蘇我氏の関係についての、門脇禎二氏の考察は、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」に掲載されており
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉕下人に落とされた檜前氏
上の記事に、そのメモも記したのだが、読み直してみたところ、わからない点があったので、再度本を確認してから(図書館で再度借りてから)記したいと思う。

⓻檜前の範囲

大字檜前の東南7~800mのところにある栗原は、日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とある呉原の転訛と考えられる。(直木孝次郎氏)

日本書記によれば、欽明天皇が檜隅坂合陵に葬られたとある。これが檜前の北限。
欽明天皇陵は明日香村霜平田の梅山古墳に比定されているが、見瀬丸山古墳が有力。
天武・持統天皇陵は檜隅大内陵と呼ばれた。
鎌倉時代、盗難にあった際、内部の様子を記した阿不幾乃山陵記によって、檜隅大内陵であることは確実視されている。
(直木孝次郎氏)

・現欽明陵の梅山古墳は近鉄吉野線沿いに吉備姫王墓の東。濠が確認できる。さらにその東に檜隅大内陵の名前がある。
吉備姫王墓のその南東に飛鳥歴史公園館、高松塚古墳があり、先ほどの栗原は高松塚古墳の南。(直木孝次郎氏)

・檜前の西には佐田の丘陵地帯があり万葉集に名前がみえるが檜前という地名がついているものはないので、佐田は檜前ではないだろう。(直木孝次郎氏)

・檜前は明日香村大字栗原・檜前・御園・上平田・中平田・下平田・立部・野口、橿原市の五条野、見瀬あたり。(直木孝次郎氏)

高松塚 女子像2

高松塚古墳 女子群像

虎像

キトラ古墳 寅像