シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㊶薬水里古墳・白虎の縞模様が高松塚・キトラにそっくり。
トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
㉑薬水里壁画古墳/白虎の縞模様が高松塚・キトラにそっくり。
・4世紀末から5世紀初
・墓室は丘陵を削った半地下にある。
羨道、前室、前室東西に龕(仏教の信仰の厚い人だったのだろう。)
※龕とは仏像や経典を治める場所
・前室から玄室に入る通路、玄室
天井は穹窿三角持ち送り式
前室床に祭壇 別の場所の床には棺台
羨道入口、前室から玄室に渡る通路入口には門
・前室の西壁と南壁に狩猟図 鹿・猪・寅を追う狩人、短弓
・前室の東壁と南壁に被葬者を中心にした行列図。
・玄室西壁に月像と白虎
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」141ページに描かれている白虎を見て驚いた。
全浩天氏は何故か指摘されていないが、これは高松塚、キトラ古墳の白虎に似ている、と私は思った。
全浩天氏は何故か指摘されていないが、これは高松塚、キトラ古墳の白虎に似ている、と私は思った。
残念ながらネットに薬水里古墳の白虎の画像が見つからなかったので、稚拙ではあるが本を見て自分で模写してみた。
模写とはいうが、全く実物には似ていない出来になってしまっている(汗)点に注意して、薬水里、高松塚、キトラの白虎を比較してみてほしい。
模写とはいうが、全く実物には似ていない出来になってしまっている(汗)点に注意して、薬水里、高松塚、キトラの白虎を比較してみてほしい。
ブログ主による薬水里古墳・白虎の模写
高松塚古墳 白虎
キトラ古墳 白虎
高松塚・キトラの白虎の様な三本指と爪、後方になびく顎髭、などは薬水里古墳の白虎にはない。
そうではあるが、首の曲がり方、前方に向けた前脚、そして何よりトラ模様の描き方がとてもよく似ている。
そうではあるが、首の曲がり方、前方に向けた前脚、そして何よりトラ模様の描き方がとてもよく似ている。
・玄室南側通路入口の上に昴と朱雀
高句麗壁画に描かれる朱雀の発展過程に示される一つの形姿
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」144ページにその写真があるが、これも全浩天氏は指摘されていないが、「キトラ古墳の朱雀に似ている」と私は思った。
小さく手分かりにくいかもしれないが、リンク先8ページ 2薬水里古墳に写真がある。
キトラ古墳 朱雀
薬水里の朱雀は、キトラ古墳野物とは向きが逆になっているほか、頭の上のとさかのようなものが6本伸びているなどキトラの朱雀とは違う。
絵のタッチもキトラの物の方が洗練されている。
しかし、羽根より尾の方が長い姿、横に広い構図などよく似ている。
もっとも三室塚古墳の朱雀の方が、よりキトラの朱雀に似ているかもしれないが。
絵のタッチもキトラの物の方が洗練されている。
しかし、羽根より尾の方が長い姿、横に広い構図などよく似ている。
もっとも三室塚古墳の朱雀の方が、よりキトラの朱雀に似ているかもしれないが。
「キトラ古墳の朱雀 高句麗時代の三室塚に酷似 (東京新聞 4月5日) 」のところに写真あり。
・他の高句麗古墳も同じだが、前室に被葬者が生前心に残った情景が描かれた。
・羨道入口東側部分の南壁・・・門衛武士
東側・・・台所、精米所
西南壁・・・狩猟図、その下に牛舎、馬、馬子
※旧暦3月3日、平壌楽浪の丘陵で国家的な狩猟競技が行われていた。
柱と枓栱 その上部に四神図と人物
上部北壁・・・被葬者夫婦の室内生活と玄武
東壁・・・青龍と太陽
西壁・・・白虎と月
南壁・・・朱雀
北壁・・・北斗七星
被葬者夫婦と玄武はこちらに写真がある。http://avantdoublier.blogspot.com/2012/07/blog-post_13.html
この玄武は翼が生えているようにもみえ、蛇が亀の首に巻き着いている。
高松塚、キトラの玄武には翼は生えていないし、蛇は亀の首に巻き付いてはいない。
また薬水里の玄武は亀の頭が前向きで、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれているが、
高松塚、キトラの玄武は亀が後ろを振り返り、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれている。
高松塚、キトラの玄武には翼は生えていないし、蛇は亀の首に巻き付いてはいない。
また薬水里の玄武は亀の頭が前向きで、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれているが、
高松塚、キトラの玄武は亀が後ろを振り返り、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれている。
薬水里の白虎は高松塚・キトラに、薬水里の朱雀はキトラに(高松塚には朱雀は描かれていないので)似ているが
薬水里の玄武は高松塚・キトラの玄武とは似ていない。
薬水里の玄武は高松塚・キトラの玄武とは似ていない。
高松塚 玄武
キトラ 玄武
・壁画を描かず龕を持つ古墳→龕を持つ壁画古墳→人物風俗四神を描く古墳
と高句麗壁画古墳は変遷している。
と高句麗壁画古墳は変遷している。
㉒水山里壁画古墳/男子像の髪型は「みずら」?
・5世紀後半の単室墓
・墳丘は方台形
・壁画は平和な暮らしを描き、徳興里古墳のような狩猟シーンは描かれない。
※徳徳興里古墳についてはこちら↓の記事の⑮⑰に記した。
2:26 玄室入口(門)門衛
2:49 北壁 墓主、墓主夫人
3:30 北壁 女子群像
3:38 北壁 男子群像
3:49 屋根を支える力士(西域の人か)
4:52 東壁 向かい合う2人の人 鼓吹楽隊
5:52 南壁 日傘をさす男たち
6:27 西壁 夫妻が曲芸見物しながら行列する
7:39 西壁 曲芸師
・西壁 婦人像
※全浩天氏は南壁に夫人像が描かれていると書いておられるが、上の動画では南壁に描かれているのは傘をさす男子像である。
その後、西壁ともあるので、おそらく最初に出てくる南壁とは西壁のまちがいと思われる。
その後、西壁ともあるので、おそらく最初に出てくる南壁とは西壁のまちがいと思われる。
腰に布・玄室上段に描かれた王妃は高松塚壁画古墳の夫人像の原型と言われる。
これは『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』の表紙にも用いられている。↓
高松塚古墳 女子群像
・竹馬の乗る曲芸師の髪型はみずら
上の動画7:39当たりに曲芸師の絵が登場する。
その内の向かって右が竹馬に乗っているが、そういわれてみれば、みずらのようにもみえる。
上の動画7:39当たりに曲芸師の絵が登場する。
その内の向かって右が竹馬に乗っているが、そういわれてみれば、みずらのようにもみえる。
左右の少年の髪型が「みずら」
㉓双楹塚/双楹塚とキトラ古墳の朱雀は似ている。
・5世紀末
・ニ室墓
羨道、前室、玄室からなる。
前室から玄室に入る通路の左右に八角柱(双楹塚の楹は柱という意味)
・前室と玄室の壁には柱、桁、梁が描かれる。
・天井は平行三角持ち送り式。
三本足の烏(太陽を表す)、ヒキガエル(月を表す)、鳳凰、雲文、蓮花文、提灯文
https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf リンク先10ページに三本足の烏の写真がある。
・朱雀は駆け終えながら飛ぼうとしている。
『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』161ページに朱雀の写真があるが、これもキトラ古墳の朱雀によく似ている。
https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf リンク先8ページ4双楹塚に小さい写真ならある。
・前室
入口の左右の壁には力士
東壁に青龍、西壁に白虎、南壁には人物
上記記事、15ページ図7 後室北壁
16ページ写真5 前室天井持ち送り
㉔龍崗大墓/壁穴孔がある壁画古墳
・5世紀中ごろ
・高句麗壁画古墳の中でも構造が独特で規模が大きい。
・羨道・前室・玄室・通路の両脇に壁穴孔がある石室封土墳
・漆喰の上に壁画を描く
・漆喰は剥落していて内容がよくわからない。人物、城郭、雲文、日炎文、柱,、枓栱などが確認できる。
・前室後方の壁、通路の両側の壁穴が龕(仏像や経典を治める場所)になっている。
※残念ながらネットに画像は見つからなかった。
㉕安岳1号墳/安岳1号墳の天馬は法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている?
・4世紀末
・墳丘は方台形 羨道と玄室 天井は平行持ち送り式で3.4m
・天井には太陽、月、星、雲文、炎門、蓮花文 鋸歯文、奇妙な動物や獣
リンク先35ページに図あり。
・玄室西側 鳳凰
法隆寺金堂・天蓋は3個で、それらの天蓋の側面の板には鳥型の彫刻(鳳凰)が14個とりつけられていた痕跡が残されている。(現在は14個ないということだろう。)
松本清張氏の主張
「イラン・アケメネス朝(前700~前330)の応急あとのペルセポリスの柱頭飾りにある双頭の鷲は神聖化されたグリフィン(空想的霊獣、霊鳥)が日本に来て法隆寺金堂天蓋の鳳凰になった。」
「クチバシの形が似ている。」
「イラン・アケメネス朝(前700~前330)の応急あとのペルセポリスの柱頭飾りにある双頭の鷲は神聖化されたグリフィン(空想的霊獣、霊鳥)が日本に来て法隆寺金堂天蓋の鳳凰になった。」
「クチバシの形が似ている。」
「翼の先が巻き上がっているところはペルセポリスのクセルクセス神殿入口にある有翼人頭牡牛の翼の形」
しかし全体像は似ておらず、部分的にわずかに似ている。
安岳1号墳西壁の獣の方が、法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている。
安岳1号墳の聖獣は鳳凰の形をした天馬である。
https://4travel.jp/travelogue/10238737(クセルクセス神殿入口にある有翼人頭牡牛)
たしかにこれは翼の形がわずかに似ているだけで、全体像は似ているとはいえないと思う。
たしかにこれは翼の形がわずかに似ているだけで、全体像は似ているとはいえないと思う。
リンク先35ページ、安岳1号墳の西壁には鳳凰とも天馬ともいえるような聖獣が描かれており、前脚の形は法隆寺の鳳凰と似ているように思われる。
また法隆寺の鳳凰は翼の下に脚のようにも見える棒状のものがあり、これが安岳1号墳の天馬の脚に似ているようでもある。
翼の形なども、安岳1号墳のものは翼の先が法隆寺鳳凰ほど巻き上がっていないが、似ている。
・北壁・・・殿閣図
西壁・・・女子群像、狩猟図
東壁、南壁・・・行列図
漆喰の上宮廷の楼閣を描く。柱、枓栱、桁
リンク先35ページの「安岳1号墳天井壁画展開図」をみてみよう。
この図は上が北、下が南、向かって右が東、向かって左が西になっている。
星宿のようなものが描かれているが、天球図は上が北、下が南、向かって右が西、向かって左が東である。
地図は地面を上から見下ろし、天球図は地面から天球を見上げるので東西が逆になるのだ。
ということは、35ページの図は上から古墳を見下ろした図ということになる。
天井部分、北に描かれているのは北斗七星だろうか。こぐま座のようにも見える。
この図は上が北、下が南、向かって右が東、向かって左が西になっている。
星宿のようなものが描かれているが、天球図は上が北、下が南、向かって右が西、向かって左が東である。
地図は地面を上から見下ろし、天球図は地面から天球を見上げるので東西が逆になるのだ。
ということは、35ページの図は上から古墳を見下ろした図ということになる。
天井部分、北に描かれているのは北斗七星だろうか。こぐま座のようにも見える。
通常こぐま座は下の図のように線で結ばれるが
↓ このように結べば、35ページの北側天井部分の星宿と同じような形になる。
北斗七星は35ページの星宿とは柄杓の向きが逆である。
↑ こちらのページの「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」に二十八宿の図がある。
こぐま座の柄杓の柄の先は現在の北極星である。
こぐま座の柄杓の柄の先は現在の北極星である。
ということは「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」の北極、四輔に該当するかもしれないが、星の数があわない。
二十八宿とは異なる星宿があったのだろうか。
二十八宿とは異なる星宿があったのだろうか。
東壁に描かれている星宿は『心』だろうか。西壁の星宿はわからない。
「安岳1号墳天井壁画展開図」をみると、日・月・四神は描かれておらず、鳳凰、天馬、魚が描かれている。
このうちの鳳凰は横長の構図、長い尾などキトラ古墳の朱雀に似ていると思う。
「安岳1号墳天井壁画展開図」をみると、日・月・四神は描かれておらず、鳳凰、天馬、魚が描かれている。
このうちの鳳凰は横長の構図、長い尾などキトラ古墳の朱雀に似ていると思う。
㉖安岳2号墳
・5世紀末から6世紀初
・羨道は玄室の南の東によった片袖式
・玄室の入り口に二重の石扉が設けられていた痕跡
・持ち送り式天井の石の段に蓮華文、火炎文、法輪文
・玄室と玄室東壁に設置された龕(原文まま)
被葬者は経験な仏教徒だろう。
372年、高句麗に仏教が伝来。
375年、肖門寺建立
393年、平壌に9つの寺が建立された。
・東壁上部に大きく描かれた梁の下に2人の飛天、チマ(朝鮮式ロングスカート)を着用した夫人像
・羨道両側の壁には門衛、入り口上に飛天、東壁には蓮花をまく人物と飛天、西壁には女人と子供の群像、北壁には墓主の室内生活
※残念ながらネットに画像などは見つからなかった。
㉗安岳3号墳
2:30 羨道 騎乗隊
2:44 前室 傘 旗を持つ人
2:59 前室 角笛 太鼓
3:08 前室 斧を持つ人
3:22 前室 天井
4:07 前室 墨書
4:31 西脇室 墓主
5:01 西脇室 夫人
5:24 西脇室 門衛
5:36 西脇室 天井
5:54 東脇室入口 手縛(相撲)
5:56 東脇室入口 斧を持つ人
6:39 東脇室 精米所 穀物をふるう人
6:49 東脇室 井戸
6:58 東脇室 台所
7:25 東脇室 肉庫 車庫
7:46 東脇室 牛舎
8:00 東脇室 厩
8:30 玄室 楽隊 踊る人(西域の人)
8:40 玄室 天井
8:56 回廊 建物
9:01 回廊 行列図(250人)
・4:07 前室 墨書
『冬寿は「使持節」「平東将軍」「護撫夷校尉」などの官位を経て、永和13年(357年)10月26日に69歳で死んだ』
『冬寿は「使持節」「平東将軍」「護撫夷校尉」などの官位を経て、永和13年(357年)10月26日に69歳で死んだ』
とある。
『資治通鑑』(1084年)によれば、冬寿は五胡十六国の一つ、前燕を建国した鮮卑族の慕容皝(ぼようこう)の部下。
高句麗にとって前燕は宿敵。
342年、慕容皝、前燕王となり、高句麗都城である丸都城を攻撃。故国原王の母を拉致、父王・美川王の墳墓を暴いて屍を奪った。
慕容皝の弟・慕容仁が兄の皝と戦ったとき、冬寿は仁について皝と戦うが、仁が敗れ、冬寿は高句麗に亡命した。
その後冬寿は高句麗王に信頼されたのだろう。
これを墓誌だという人もいるが、墓誌ではないのではないか。
その下に冬寿像は侍従と同じように描かれている。
西脇室に描かれているのは王だろう。
『旧唐書』「高麗伝」では、高句麗の王だけが五色の衣装を用い、白羅冠を用いると記している。
その下に冬寿像は侍従と同じように描かれている。
西脇室に描かれているのは王だろう。
『旧唐書』「高麗伝」では、高句麗の王だけが五色の衣装を用い、白羅冠を用いると記している。
つまり、全浩天氏は、3:56あたりに描かれている男性が冬寿であり、西脇室に描かれている墓主は高句麗王と考えておられるのだ。
上の動画では、次の様にナレーションがはいっている。
「4:30 正座した姿の主人公は黒い外冠(?)の上に白い外冠(?)を被っているが、これはきめの細かいに意識の一種である羅を用いて作った冠です。墓の主人公が赤色の華麗な2色をまとい・・・」
「4:30 正座した姿の主人公は黒い外冠(?)の上に白い外冠(?)を被っているが、これはきめの細かいに意識の一種である羅を用いて作った冠です。墓の主人公が赤色の華麗な2色をまとい・・・」
墓主の着物は五色ではないが、白羅冠を被っている。
・王妃(5:04)は高髪雲環と呼ばれる髪型。
・手縛(5:49)は相撲ではなく空手かもしれない。
日本の相撲の始祖は出雲の国の野見宿祢と当麻蹴速
「野見宿祢が大麻蹴速の肋骨を蹴って折り、その腰を踏みくじいて殺す」(日本書記)
これは手縛ではないか。
これは手縛ではないか。
イラク・テル・アグラブ遺跡出土の「闘技像脚付双壺」に描かれた格闘技は、日本と高句麗の様に裸で髷を結った姿ではない。
日本書紀、皇極天皇1年(642)史実と考えられる日本最初の相撲の記事がある。
相撲は朝鮮から伝わったのだろう。
埴輪にも力士と思われる人を象ったものがある。
(福島県西白河郡泉崎村、原山1号墳では裸にふんどしの『力士像が発見されている。
和歌山県岩瀬線塚古墳群 井辺八幡山古墳 6体の埴輪力士像(6世紀)
和歌山県岩瀬線塚古墳群 井辺八幡山古墳 6体の埴輪力士像(6世紀)
埼玉県 酒巻古墳群 酒巻14号墳 衣服を着て耳飾り首飾りをつけた力士埴輪
手縛の下の6人の斧鉞手は皇帝や王の威光を示すシンボル。儀礼に用いられる。
前室と玄室の間には3基の八角石柱 石柱上部に鬼面
回廊入口には四角柱、天井は回廊の身へ移行持ち送り式
次回へつづく~
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