シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか?
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊲二つの北斗七星 より続きます~
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「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑮高句麗石刻天文図/キトラ古墳天文図は現存する最古の天文図だが、日本で観測して作成されたものではない。
・高句麗石刻天文図
高句麗最古の天文図 5,6世紀の平壌の夜空の星を写している。正確に描かれていると指摘されているが現存しない。
668年に唐軍が平壌城を攻撃したとき、大同江に落とされ、失われた。
しかし拓本が残っており、1395年に復元して「天象列次文野之図」が作られた。
しかし拓本が残っており、1395年に復元して「天象列次文野之図」が作られた。
こちらの記事には、次のような内容が記されている。
・中国・朝鮮・日本など中緯度から見える天域全体を描いた星図として現存最古のものは、中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」。(これについては「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」の中でも触れられている。)
・中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」は、南宋の淳祐年間(1241年 - 1252年)に刻まれたことから、淳祐[石刻]天文図とか蘇州[石刻]天文図などと呼ばれている。
・ 蘇州天文図(淳祐天文図)は北宋(960年 - 1127年)時代の観測に基づくと推定され、北宋時代に書かれた『新儀象法要』にも星図がいくつか収載されている。
・ 朝鮮半島には「天象列次分野之図」と題する石刻天文図が現存するが、石刻天文図としては中国・蘇州の天文図に次ぐ古いもの。
・「天象列次分野之図」銘文には次のようにある。
「高句麗の都・平壌に石刻天文図があったが、唐・新羅連合軍に滅ぼされた時(AD668)、大同江に沈んだ。歳月の経過とともにその拓本も漸次失われたが、朝鮮の太祖(在位1392~98)のとき、拓本を献上するものがあり、太祖はこの石刻天文図の復元を命じた。しかし書雲観では年月を経て度数(すなわち座標)が変わっている(歳差を指す)として、新たに夜明けと日暮れに南中する星を観測し、それらについては新測に基づき、星象は旧図に基づいて天象列次分野之図を作った。洪武二十八年十二月」
「高句麗の都・平壌に石刻天文図があったが、唐・新羅連合軍に滅ぼされた時(AD668)、大同江に沈んだ。歳月の経過とともにその拓本も漸次失われたが、朝鮮の太祖(在位1392~98)のとき、拓本を献上するものがあり、太祖はこの石刻天文図の復元を命じた。しかし書雲観では年月を経て度数(すなわち座標)が変わっている(歳差を指す)として、新たに夜明けと日暮れに南中する星を観測し、それらについては新測に基づき、星象は旧図に基づいて天象列次分野之図を作った。洪武二十八年十二月」
・朝鮮では明の年号を用いていた。明の洪武28年は朝鮮の太祖3年。この年12月は西暦では大統暦との年初のずれの関係で、1396年となる(11月19日までが1395年)。
・ジョゼフ・ニーダムは「天象列次文野之図」が高句麗石刻天文図を基にしていることを証明している。
どのように証明されたのかについての説明がほしい。
・高松塚古墳、キトラ古墳はキトラ古墳の方が少し古いとされる。
これについては聞いたことがないし、古いとされる根拠について全浩天氏は触れておられない。
・キトラ古墳天文図について
68の星座、350の星が確認される。
内規・・・内側の円(地平線に沈まない星の範囲)
外規・・・外側の円(星が見えなく成る境界)
外規・・・外側の円(星が見えなく成る境界)
黄道・・・地球から見て、太陽が地球を中心にして運行するように見える天空上の大きな円
春分、秋分の位置が明確に示される。
キトラ古墳が作られた天武朝は天文学と占星術が大いに奨励された。
日本書紀天武天皇即位前紀『(天武天皇は)天文・遁甲に能し」とある。
675年正月 陰陽寮設立
・キトラ天文図に匹敵する天文図は中国蘇州孔子廟の礎石(淳祐天文図)淳祐7年(1247年)と天象列次文野之図(1395年)※この時代は李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)
キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀とされている。
つまりキトラ古墳の天文図は、現存する東アジアのる星図としては最古のものだといえる。
つまりキトラ古墳の天文図は、現存する東アジアのる星図としては最古のものだといえる。
しかし、キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっていて、私は「なるほど」と思う。
・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。
窺管がいつから存在していたかわからないが、晋・陸雲〔陸典に与ふる書、十首、五〕に次のように記されているようである。
「東州の幽昧を光(かがや)かし、榮勳を野に(し)かんこと、謂(いはゆる)管を窺ひて以て天を瞻(み)、木に(よ)りて魚を求むるなり。」
晋は中国に、265年から 420年まで存在した王朝である。
下に記す漢書、張衡が水運渾象を製作したということから考えても、この晋の時代には窺管は存在していたと考えられると思う。
「東州の幽昧を光(かがや)かし、榮勳を野に(し)かんこと、謂(いはゆる)管を窺ひて以て天を瞻(み)、木に(よ)りて魚を求むるなり。」
晋は中国に、265年から 420年まで存在した王朝である。
下に記す漢書、張衡が水運渾象を製作したということから考えても、この晋の時代には窺管は存在していたと考えられると思う。
・漢書(後漢の時代に成立した。後漢は25年 - 220年)は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡(78年 - 139年)は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。
・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。
・橋本敬造氏「キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い。」
内規の中にある「八穀」星座、赤道と同心円の外規の間にある「弧矢(こし)」「天(稷/しょく)」「天社」「器府(きふ)」などの星座群が似ている。老人星の位置が似ている。
高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
・宮島一彦氏、「キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう」
「星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか」と推定
「キトラの内規は緯度37度半」中国の長安、洛陽、飛鳥は該当しない。平壌は該当するとしている。
これについては、過去に以下の記事を書いた。
自分自身の復習の意味をこめて(笑)内容をまとめておく。
・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道 天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道 1年を通じた太陽の軌道
(来村多加史氏の説明による)
(来村多加史氏の説明による)
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、画像は不鮮明なので、宮島氏が用いた星の同定や位置に誤りがありえるとした。
2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬充氏が解析を行った。
①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.
天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。
地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。
各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。
天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないかと思い、キトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みた。
地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。
9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.
天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。
細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。
つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。
これに該当する中国の王朝は次のとおり。
後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404
一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。
来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。
キトラ天文図
高松塚古墳 星宿図
高松塚古墳と同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 4ページ 図3
アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。
高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。
すると星宿図や天文図は中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったか、もしくは中国で作成されたものが高句麗経由で日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。
高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。
⑯キトラ古墳はどこから伝わったか?
・「専門の天文学者たちに差異があったとしても、明らかなのは高句麗文化の結晶である星図の一つが平壌から「飛鳥への道」をたどり、他の一つは「ソウルへの道」にもたらされたのであった。」
『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』85ページより引用(原文まま)
「専門の天文学者たちに差異がある」というのは、すでにのべたように以下のことをさす。
橋本敬造氏・・・
キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い
高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
宮島一彦氏・・・
キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう。
星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか。
そして「飛鳥への道」とは「高句麗石刻天文図(5~6世紀)または類似のものが飛鳥に伝わってキトラ古墳の天文図が作成された」こと
「ソウルへの道」とは、「李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)の首都・漢城府(現在のソウル)において、1395年に高句麗石刻天文図をもとにして天象列次文野之図を作られたということ」を言っているものと思われる。
しかし、高句麗から伝わったのではなく、唐から伝わったとも考えられるのではないか?
遣唐使630年よりはじまり、多くの唐の文化がもたらされたとされる。
その一方で、当事多くの渡来人が日本にやってきたとされる。
四天王寺を作った宮大工の金剛重光は百済人である。
このブログで、高松塚・キトラ古墳の壁画を描いたのではないか、とたびたび名前がでてきた黄文本実は高句麗系だと松本清張氏はおっしゃっている。
遣唐使630年よりはじまり、多くの唐の文化がもたらされたとされる。
その一方で、当事多くの渡来人が日本にやってきたとされる。
四天王寺を作った宮大工の金剛重光は百済人である。
このブログで、高松塚・キトラ古墳の壁画を描いたのではないか、とたびたび名前がでてきた黄文本実は高句麗系だと松本清張氏はおっしゃっている。
黄文本実は669年の第七次遣唐使に参加したともあり、松本清張氏のおっしゃっることが正しければ
黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。
黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。
ウィキペディア「渡来人」には次のような内容が記されている。
・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。
・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。
・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。
・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。
・大和朝廷では優遇され、官人として登用された者も少なくない。
・「新撰姓氏録(815)」に記載される1182氏のうち、326が渡来系氏族で全体の3割を占める。
・諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9。
ここに「漢」とあるのは、漢民族という意味だと思う。
ちなみに中国の王朝である前漢は紀元前206年 - 8年、後漢は25年 - 220年であり、飛鳥時代のはるか昔である。
このように考えると、やはりキトラ古墳の天文図が高句麗からもたらされたものとは断言できず、唐からもたらされたものである可能性もあると思う。
ちなみに中国の王朝である前漢は紀元前206年 - 8年、後漢は25年 - 220年であり、飛鳥時代のはるか昔である。
このように考えると、やはりキトラ古墳の天文図が高句麗からもたらされたものとは断言できず、唐からもたらされたものである可能性もあると思う。
これについては宿題ということにして、次に進むことにする。
次回へつづきます~
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