「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑥大城山城と安鶴宮
・427年、高句麗の都は集安から平壌に移った。その国都の中心は安鶴宮跡。
大城山の山上に築かれた山城も王城。石壁がだ円形に築かれる。
東西約2300m、南北1700m 渓谷にも城壁が築かれた。
宮殿の建物は現存しない。
・安鶴宮跡の下層から2~3世紀の石室封土墳10基が発見された。
⓻湖南里四神塚/北を振り返りながら南へ走る青龍と白虎
ネット上に湖南里四神塚の壁画の写真はみつからなかった。(探したりないのかもしれないが)
・安鶴宮跡の南東に湖南里四神塚はある。
・5世紀から6世紀に築かれた単室墓の壁画古墳。
・花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。
・青龍は走りながら北を振り返る。
白虎は毛をむしり取られたような姿で、南に走りながらやはり北を振り返っている。
南には二柱の朱雀。羽根はシンプルで貧弱。玄武は定型どおり。
ネットに「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事があり、次のように記されている。
”湖南里四神塚[関野1941] 両袖式石室。四壁に柱・斗棋を描く。南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」ものがある。北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。天井部にS字形の連続渦文が全面に描かれる。”
ここに「北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。」とあるが、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には四神の写真が掲載されている。
「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事は1999年3月に記されたものであり、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」の出版年は2005年である。
1993年3月以降に発掘調査などが行われて全容がわかったのだろう。
全浩天氏は「墓室に入る。ひんやりした空気である。」と書いておられるので、古墳石室内に入って見学することもできるようだ。(特別な許可が必要なのかもしれないが)
「北朝・隋唐と高句麗壁画」には
a 四壁に柱・斗棋。
b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。
c 天井部全面にS字形の連続渦文
とあるが、全浩天氏は「花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。」と記し、柱・斗棋・蓮花・S字形の連続渦文については何もしるしておられない。
『b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。』とあるのは、南壁に記された東西二柱の朱雀のうち、西に描かれた朱雀を「蓮花の如きもの」と言っているのだと思う。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には湖南里四神塚南壁入口左側に描かれた朱雀の写真が掲載されている。
南壁中央に古墳入口があり、そのため朱雀を入り口の左右に描いたのだろう。
南壁入口左側とはむかって左側ということだろうか。すると、東の朱雀ということになるが、西の朱雀は東の朱雀と向かいあうように、同様の姿で描かれたのではないかと思う。
そしてその朱雀の写真は蓮花のように見えなくもない。
柱・斗棋・S字形の連続渦文については、あるのかないのかわからない。
⑧高山洞古墳群
これもネットに画像が見つからなかった。本にも画像はない。
・湖南里四神塚がある三石区域の隣の大城区域には多くの古墳群がある。
廬山洞古墳群、内里古墳群、土浦里古墳群、寺洞古墳群、高山洞古墳群、安鶴洞古墳群
壁画古墳もある。
・高山洞1号墳 5世紀末~6世紀初 玄室には人物画と四神図
高山洞7号墳 4世紀末 左右に側室、玄室がある。墓室には人物、風俗、四神図
高山洞10号墳 4世紀末 壁画は人物のみ
高山洞15号墳 壁画の剥落がひどく内容がわからない。
高山洞20号墳 三世紀の築造、前室に人物画が確認される。他は不明。
安鶴洞9号墳 3世紀の築造、玄室には四神図
嵋山洞壁画古墳 5世紀 人物と四神図
⑨鎧馬塚/馬に乗ろうとする被葬者を描く。
9ページに画像がある。
・長方形の玄室のみをもつ。
・壁画風化している。
・壁面には四神が描かれていたが朝鮮戦争(1948年、大韓民国vs朝鮮民主主義人民共和国)で破壊された。
天井部分のみ残る。
・玄室天井持ち送り部に鎧馬に乗る在りし日の被葬者が描かれている。
・絵の上には「塚主着鎧馬之像」(墓の主人が鎧馬に乗る姿)と記されている。(確かに確認できる。)
全浩天氏は「在りし日の被葬者」としているが、
『北朝・隋唐と高句麗壁画 - 四神図像と畏獣図像を中心として』という記事には次のようにある。
”鎧馬塚 玄室左壁の第1段持送り天井側面に,冠飾をつけた墓主像・従者と,御者・飾馬の像があるが,そのあいだに「家主着鎧馬之像」という榜題がある。「家」を「原」と釈読する見解[関野貞1941]もあるが,「塚」であろう。その主墓主)は,鎧馬に乗っていないが,その鎧馬の導かれて昇仙するさまが描かれているのであろう[東1992]。”
そこでもう一度画像を確認してみると確かに墓主は鎧馬に乗っていない。
また、天井部に描かれているということは、「在りし日の被葬者」ではなく、「鎧馬に導かれて昇仙する被葬者」と考えた方がよいのではないかと思った。
・日像には三本足の烏、月像にはヒキガエルと薬草をつく兎
↑ リンク先「11ページ・図10・6」に鎧馬塚の三本足の烏、ヒキガエルと薬草をつく兎の絵がある。
⓾内里1号墳/月の中に松の下にたたずむ兎
・6世紀末から7世紀初
・以前の発掘調査資料から青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていたことがわかっている。
・月像には松の木の幹と葉の下にたたずむ兎が描かれる。
(ネットに写真は見つからなかった。)
⑪高山洞7号墳
・4世紀末から5世紀初めにかけて作られた多室墓
・建物、水車、人物、樹木、馬を牽く人
(ネットに写真みつからなかった。)
⑫徳花里1号墳
・墓室は半地下。
・八角天井に亀甲文を描き、太陽を意味する三本足の烏、月像、星、雲、蓮花、北斗七星を描く。
・柱の角には柱と斗栱
・北側天井には大きく北斗七星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・単室墓
(ネットに画像はみつからなかった。)
⑬徳花里2号墳/大きく描かれた北斗七星と南斗六星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・天井には19の星座が確認されている。「井星」「辟星」「胃星」「柳星」の文字が記される。
28の星座が星座名とともに記されていたのだろう。
1395年に作成された「天象列次文野之図」の星座位置とほとんど同じと指摘されている。
・1号墳に東に近接し、壁画も似ている。
・単室墓
・柱の四隅に柱と斗栱
図1に徳花里2号墳の星辰図がある。
北斗七星と南斗六星(南の空にある柄杓の形地をした星。いて座の一部)が大きく描かれている。
南斗六星
⑬星宿図を描いた高句麗壁画古墳
・21基ある。
・伏獅里壁画古墳
角抵塚
特興里壁画古墳
大安里1号墳
星塚
双楹塚
狩猟塚
牛山里2号墳
通溝四神塚
集安5号墳
安岳1号墳
舞踏塚
薬水里壁画古墳
天皇地神塚
長川1号墳
三室塚
牛山里1号墳
真坡里4号墳
集安4号墳
徳花里1号墳
徳花里2号墳
⑭長川1号墳/北斗七星には男神と女神がある。
長川1号墳については「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」69pに模写図が掲載されている。
それをもとに、へたくそな図を書いてみた。↓
かなりいい加減な図である点に注意してほしい(汗)。
この図を書いた後で、友人が長川1号墳の模写が掲載されている中国語の記事を教えてくれた。
そうではあるが、この中国語の記事が削除される可能性はあるので、私のへたくそな図も念のため掲載することにした。
上の記事を中国語に自動翻訳したものをまとめてみよう。(意味が分からない所もあるので、間違いがあるかもしれない。)
・堯水里古墳
平安南道南浦市麗水里にある
4世紀後半から5世紀初頭。
回廊、前室、後室で構成される。
奥の部屋(後室のことか)の上半分には、太陽、月、四神、星などの天体像が描かれている。
北壁上部には北斗七星が描かれ、その下に被葬者と被葬者の妻がカーテンがかかったソファに座る絵が描かれている。
墓主を天に昇らせ、北斗を使って墓を守る。
・高句麗の壁画墓では、北斗七星と蓮が天国の中心的なイメージとして初期に使用された。
蓮華、北斗七星、南斗七星、太陽、月など複数の天体モチーフが天を表現
a 北斗が天国の中心であり、太陽と月がそれを補う.
b 蓮の模様中央に北斗と南斗があり、左右対称になっている。
・長川1号墳
吉林省集安市長川市にある
回廊、前室、後室からなる。後室にも棺台が2台設置されている。
後室は前室よりわずかに大きいが、高さは低くなる。
前室の東側と西側の壁・・・被葬者の生涯を描いた絵 棺の下側には四神として緑龍と白虎、上側には菩薩と神像が描かれる。
前室北壁・・・仏陀を礼拝する人々
後室・・・四方の壁とケーソンには、整然と配置された蓮の文様。
ケーソンの中心の南北に北斗七星、東側と西側に太陽と月。中央に「北斗七青」の四文字が赤字で記される。
北斗七星の星座は、星を表す円と、その円を結ぶ線で構成される。円の中に点。北側の北斗は実線で結ばれ、南側の北斗は点線で結ばれる。
・トルファン・アスタ
「荘園の生活図」・・・北斗は墓主のテントに移動させる方法
「墓主の生涯図」・・・長谷1号墳と同様、二人の北斗を同時に描く。
北斗七星は実線で結ばれており、円も点で埋められる。
・なぜ 2 つの北斗を同時に描かなければならないのか。
『淮南子』巻3「天文修練」によれば、「北斗七星の神は男神と女神がいる。11月に子に建立された。月は最初の刻から始まる。男は左に行き、女は右に行く」 " _
・長川一号墓とトルファン・アスタの『墓主生涯図』に見られる二人の北斗は、北斗神の男性、女性、陽、陰の表現。
実線で結ばれたものは陽、南側の点線でつながったものは陰?
2 つの北斗の柄杓はそれぞれ東と西を向き、反対方向を向く。→左と右の移動を表す。
長川市一号墓の前室には仏像が描かれているが、天中部は基本的に墓像の伝統に従って構築されている。
・中世初期の北斗信仰
銭宝の『宋神記』(東晋時代)の第 3 巻
燕君の父親は、延命してくれるように頼んだ。関羽燕君は言った。
「それはあなたを大いに助けるだろう。私も長生きできて幸せだ。あなたが北に座っていれば、それは北斗七星だ。南に座れば南島。南島は生のためのもので、北島は死のためのもの。すべての概念は南島から北島へ移る。すべての祈りは北島に向けられる。」
ナンドゥと北斗はともに擬人化された神。「ナンドゥは生を担当し、北斗は死を担当する。」
・中世の墓には北斗の擬人化された像がない。
・道教の発展とともに北斗七星は七人格の神に変化し、北斗七星と呼ばれるようになった。
(明代・山西省保寧寺「北斗七元左補・右碧忠」では7人の僧侶の姿であらわされている。)
三本足の烏の絵を描いた〇は太陽、薬草をつく兎とヒキガエルの絵を描いた〇は月だろう。
陰陽道では太陽の定位置は東、月の定位置は西なので、太陽のある側(向かって左)が東、月の有る側(向かって右)が西だと思う。
従って、上が南、下が北である。
南北に大きく描かれているのはどちらも北斗七星と考察されているが、北に描かれた北斗七星にはおかしな点がある。
北斗七星は実は八星で持ち手の端から2番目の星のそばにもうひとつ星(アルコル)がある。
しかし図では持ち手の端から3番目の星の側に星がえがかれている。
北斗七星の形は上の写真の通り。
長川1号墳の北に描かれた北斗七星が地球上から見た北斗七星の形であり、南に描かれた北斗七星は柄杓の向きが逆である。
私は空間認識能力が低いので、長川1号墳北側に描かれた北斗七星の図を透明なビニール袋に書いて裏から見ててみた。
そしてそれを右回りに180度回転させると南の北斗七星の形になる。
下図のように、天球上に星座がはりついているものとし、天球の上から神様が星座を見下ろすと、実線でつながれた北斗七星の形に見えるだろう。
北斗七星には男神と女神がいて、男神は左まわり、女神は右回りと『淮南子』に記されているという。
地球上にいる我々からみると、点線でつながれた北の北斗七星の形に見える。
そして地球から見ると、北斗七星は左回りである。
ということは、地球上から見る北斗七星の姿が男神で、実線でつながれた天球上から見る北斗七星の姿が女神ということか?
北斗七青が何かについてはよくわからなかったが、これも友人が教えてくれたところによると「大正新脩大藏經を検索すると、『7つの知恵や七つの真言の象徴』という意味で『七青』と用いられている」とのことで仏教的な意味があるのではないか、とのこと。
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