シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか? より続きます~ トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑯八清里壁画古墳/被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む
・4世紀~5世紀
・前室と玄室の二室墓
・前室から玄室に入る短い間道中心に四角柱石が天井を支える。 天井はなくなり、内部も破損している。
・玄室 柱と斗栱、 北壁・・・被葬者の室内生活 東壁・・・楼閣、殿閣、人物,青龍 西壁・・・台所、人物 南壁・・・描かれない。
・前室 西壁・・・被葬者夫婦 東壁、南壁・・・行列図 被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む 曲芸者の木の竹馬、手品、刀使い、ラッパを吹く二人の午に乗った騎手、太鼓を打つ鼓手
9ページに図あり
⑮徳興里壁画古墳1/墓誌、天の川、織姫、牽牛
上記動画8:04あたりに徳興里古墳がでてくる。
・408年に築かれた。石室封土墳。 (高句麗独自の形式。地表、半地下に長方形の角石、板石で墓室を作り、その上に土をかぶせて叩き絞めて封土にした墳墓。)
・石室内壁に石灰の漆喰を塗り、絵を描く。
・高句麗墳墓の中で被葬者と築造年代が分かっている唯一の墳墓。
・羨道東・・・蓮花と舌を出す獣
・前室北壁・・・墓誌 「広開土王の臣下で、功を立てて大臣になった。名前は鎮。建威将軍。国小大兄を経て、左将軍、遼東太守、使持節などを歴任。幽州刺史を経て77歳で死亡、広開土王の永楽18年《408年)12月25日(409年1月26日)この地で葬られた」 と記される。
前室南側天井・・・天の川、織姫(髻を結び、鬢を長く垂らす。緑や白のチマ(スカート)をはき、淡黄色のチョゴリ(上衣をきる。)牽牛(白色の冠、長く黄色いドゥルマギ)
・信都縣(しんとけん)の出身
・人物、風俗図。
日本古代の男子の髪型(みずら)、流鏑馬
上の記事によるとみずらの人物は女性としている。
⑯キトラ古墳天文図に織女星や天の川の一部が描かれている?
・橋本敬造氏によれば、キトラ古墳の星図には織女星や天の川の一部が描かれ天清(白鳥座)がえがかれているという。
橋本敬造氏の論文はここにあった。 内容をまとめる。
・キトラ古墳の東壁と西壁の上部にあたる星図面の外側の東と西には、線状の雲とともに太陽と月とが描かれている。 六世紀の高句麗・舞踊塚古墳の日・月の描写や、唐初の李賢墓后室にみえる天象図の雲の描写の影響をうけているか。
キトラ古墳 日像
キトラ月像
・キトラ古墳・月像のなかには蜻蛤(ヒキガエル)のような図様跡が見える(図版E )。
図版Eは5ページに掲載されているが、どこにヒキガエルが描かれているのかわからない。
明日香村の記事には次のようにしるされていた。
”日像
金箔を貼った太陽の中に、わずかに黒い羽根様のものが見られる。おそらく太陽の中に描かれた三本足のカラスの一部とみられる。日像の金箔の下方には水平な線を幾筋も描き、その中に雲か山並みを描いている。
月像
銀箔を貼った痕跡はみられたものの、中に描かれたものは残っていない。本来であれば、月桂樹やヒキガエルが描かれていたのであろう。下方の水平な線や山並みは日像と同様である。”
・ヘラ状のもので引いた下書きがみられた。特に十二支寅像で顕著に確認できる。 おそらく原図を壁面にあて、ヘラ状のものでなぞった後に、描かれたのであろう。
これは下の写真を見ていただくとおわかりいただけるように、橋本氏のおっしゃるとおりである。
・「織女」星や天の川の一部、あるいは「天津」(白鳥座)も描かれている。
記事24p、図9 キトラ星図・概念図 に織女、天の川の位置が示されている。 掲載されている図は南が上になっている。そこで図をコピーして180度回転させて南を上にして、下の図と並べてみた。 (実際にやってみてください。) すると、全く図が一致しない。
橋本敬造氏の記事の日付は「1999-03-31」となっている。
キトラ古墳が発見されたのは、1983年11月7日。このとき玄武が発見されている。
その後、1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認された。
2001年には朱雀と十二支像が確認された。
2013年に石室の考古学的調査は終了している。
つまり橋本敬造氏が論文を書いた時点では、キトラ古墳の天文図についてははっきりわかっていなかったということだろう。 橋本氏が「キトラ星図・概念図」と書いたのは、よくわかっていなかったためということになる。 全浩天氏が「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」を著したのは2005年で、この時点でもキトラ古墳の考古学的調査は終了していなかったので、確認する術がなく、橋本敬造氏の論文をそのまま採用したのだろう。
そうではあるが、上のキトラ古墳天文図を見ると、中央部にある赤い円の外側、北北東あたりに、織女と記されている。 飛鳥資料館の記事を見るとさらにわかりやすいかもしれない。 さて、キトラ天文図に天の川の一部と、天清(白鳥座)は描かれているか。
(正確な図ではないことに注意)
この図を回転させて、キトラ天文図と同じくらいの位置に織女星、彦星を持ってきて比較してみよう。
上の記事に中国星座名と現代星座名が記されているが、天津(てんしん)=白鳥座となっている。
白鳥座は天清とも天津ともいうのだろうか。
天の川の一部は描かれていないようである。
おそらく全浩天氏は「キトラ古墳には天の川、織女星、彦星が描かれているのは、高句麗の徳興里壁画古墳との共通点であるとおっしゃりたいのだろう。 しかし、キトラ古墳の織女、彦星、天津(白鳥座)などは天文図として描かれており、徳興里壁画の擬人化した織姫・彦星は描かれていない。 キトラ古墳は天の川伝説とは直接関係が無さそうに思える。
⑰徳興里壁画古墳2/みずら、流鏑馬などに高句麗の影響?
・4世紀末の高句麗天文学者は白鳥座を認識できる高い水準をもっていたのではないか。 朝鮮の史書『三国史記」高句麗本紀には、高句麗には「日者」という観測専門家集団がいたと記される。
・遣唐使が天の川伝説を伝えた(粟田真人や山上オクラが帰国したのは704年)というが、それより以前に伝わっていたのではないか。 その根拠は柿本人麻呂の702年の歌 「天の海に 雲の波たち 月の船 星の林に 漕ぎ隠れる見ゆ」
・前室天井には牽牛と織女とともに、日・月・星・蓮花
天井下部には狩猟の図。虎・猪・鹿・雉を追う狩人は馬に乗り、短弓をもつ。
上の動画8:52あたりで馬射戯の絵が登場する。
パルティアン・ショット(射法の一つ)虎やイノシシの首には鏃が月朝サリ、鹿の首から鮮血
・前室の南壁・東壁・北壁・西壁の上部 東・・・三本足の烏(太陽を表す) 西・・・ヒキガエル(月をあらわす)せんじょ 天女・神仙・天馬・火の鳥・飛魚・説明文
・前室北壁西側・・・護衛武士たち、召使いをひきつれた鎮が青羅冠(高句麗の大臣が被る)を被って帳房内に座る。 被葬者・珍の下方左右にはチョゴリ(上衣)とバジ(ズボン)を着用した人物二人が筆で記録している。従者が3人。 屏風の広報にも3人の男子の二人の女子の従者。笛、笙を吹く。西側女子は弦鼓を奏する。
前室西壁・・・十三郡太守図。上下二段。 上段6人、下段7人の太守。(郡の長官)説明文あり。
東壁と南東壁、北東壁・・・幽州刺史・珍の行列図 珍は牛輿車に乗る。
上の動画9:13、9:26あたりに「牛轎車図」とでてくる。 かごを車に乗せた形のものを轎車というそうなので、この「牛轎車図」が「珍が乗る牛輿車」だろうか。 しかし色使いが異なっているように見える。 9:13は駕籠の屋根部分が赤く、9:26は駕籠の屋根部分が黄色く見える。退化の影響があるかもしれない。
・前室から玄室に渡る通路
東壁・・・女子の被葬者が出入りする場面 西壁・・・男子被葬者が出入りする場面
・法隆寺 百済の阿佐が描いたと伝わる御持聖徳太子画像 聖徳太子と二王子 みずらは高句麗壁画にしばしば登場する。水山里壁画古墳、曲芸の若者
・玄室・・・自宅で生活する場面 四隅と天井には柱、斗棋が描かれ、室内のようになっている。 北壁・・・被葬者の張房生活 東壁・・・蓮池・仏教の七宝行事 西壁・・・被葬者の張房生活と倉庫、流鏑馬 南壁・・・厩舎と加治屋 天井・・・火炎模様、蓮花模様
・日本の流鏑馬は起源がはっきりしない。平安中ごろにははじまったか。高句麗の馬射戯と共通する。 日本最初の流鏑馬記事は、吾妻鏡野1187年 藤原秀郷(9世紀の人物)
・4世紀後半の高句麗の馬射戯と9世紀よりはじまった日本の流鏑馬の起原は同じだろう。 ふりかえりざまに弓を引き絞っているシーン 記録係、審判員 準備練習するシーン
上の動画8:42あたりに記録係のような人が登場している。
⑱江西三墓/二十八宿を作ったのは高句麗人?
・江西三墓 三角形に配置される。
・高句麗壁画古墳の終焉期(668年、高句麗は唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。)
・大墓と中墓には東西南北の壁に四神が大きく描かれる。 白虎は胸を突き出し、「首に蛇腹の様な包帯、荒々しい脚、3本の爪。(高句麗白虎の特徴)
・「他方、高句麗の人々は夜空の星や天空の運行によって人間の運命、人生における吉と凶、幸福と不幸、災いが定められるという信仰や思想があった。このため人々は夜空にきらめく星の中に二八個の星座を探り想定し、それを東・西・南・北の四つの星座群にわけた。」(原文まま)
「このため人々は夜空にきらめく星の中に・・・」とあるが、ここにある「人々」とは「高句麗の人々」という意味だろう。
「二八個の星座」とは二十八宿の事だと思われる。 二十八宿について、ウィキペディアは次のように記している。
”二十八宿は二十七宿よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後にヒンドゥー教の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され[1]、バビロニア占星術などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという[1][2][3]。” この記事の4ページ表二には、「准南子天文訓・漢書律暦志・後漢書・敦煌〇本、開元占〇に基づいて決定された宿度と星名」というタイトルが付けられている。
『淮南子』は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者に編纂させた思想書で、 巻三 が天文訓になっている。
一方高句麗の成立は紀元前1世紀頃 である。 紀元前1世紀とは、紀元前100年から紀元前1年までの100年間のことであるが、 『淮南子』はそれより早い淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)に記されているので、やはりウィキペディアも書いているように、二十八宿は高句麗ではなく、中国で作られたものではないかと思う。
・高句麗の支配者層はなぜ四神思想に陰陽思想を結び付けたのか。
5,6世紀、高句麗は支配層内部での争い、対立、葛藤が激しくなったことが原因。
・初期、四神は天井に小さく描かれた。 時代が進むにつれ、四神は壁面に移り、人物とともに描かれた。 5,6世紀になると人物は描かれなくなり、四神のみ壁面に大きく描かれた。
⑲江西中墓/大きく描かれた四神
・6世紀末から7世紀初め
・墳丘は円形に見えるが、石灰と土を交互にたたきしめた方台形
・単室墓 羨道と玄室からなる。花崗岩の板石を用いてつくられている。 羨道は南壁中央に持つ両袖式。 玄室入口は二重作。玄室天井は高句麗石室封土墳によくみられる平行持ち送り式。
・壁画は石壁の上に直接描かれる。 画法、彩色は江西大墓と共通する。 内壁に壁面いっぱいの四神。天井に人頭唐草文、蓮花文、雲文、鳳凰、日像、月像。
 ↑ 写真向かって右が江西中墓の朱雀(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に掲載された写真をみると、江西中墓の朱雀は、ほぼ同様の姿をした(保存状態が異なるせいかもしれないが、細かい部分が若干違っているようにも見える)が向かいあっている。 下の記事に朱雀の写真があった。
⑳江西大墓/黄龍のルーツは高句麗ではなく中国だと思う。
・江西大墓が築かれた7世紀初めと同じ610年に、高句麗の曇徴と法定が紙・墨・水車などの技術を伝えた。(日本書記) 法隆寺の壁画も彼らが描いたという伝説がある。
・方台形。花崗岩の板石。 羨道と玄室からなる。羨道は玄室南壁中央に設置された両袖式 玄室入口に二重の門を立てた門枠の後 玄室長方形、天井は平行三角持ち送り式
・玄室壁面は四隅に五角形の隅石を挟み込み隅を防ぐ。
・天井には蓮花文、忍冬唐草紋、雲文、鳳凰、麒麟、飛魚、飛天、神仙、天人
・壁画は直接石壁に描かれる。
・中央には天文図ではなく黄龍 「この黄龍とは高句麗の始祖・東明聖王と呼ばれた朱蒙が他界した時、黄龍に乗って天上に昇ったというその黄龍のことである。」(原文まま)
この全浩天氏の書き方では、黄龍は高句麗が創作した聖獣(全氏はそうはいっていないが)のように勘違いする人がいるかもしれない。
黄龍とは、中国の伝承五行思想に現れる龍である。 四神も中国発祥である。 四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神であり、中央が黄龍である。
五行思想とは万物は木火土金水の5つの要素からなるという考え方のことである。
五行思想においては、四神&黄龍は次の様に結びつくものと考えられる。
木・・・緑・・・春・・・東・・・青龍
火・・・赤・・・夏・・・南・・・朱雀 金・・・白・・・秋・・・西・・・白虎 水・・・黒・・・冬・・・北・・・玄武 土・・・黄・・・土用・・・中央・・・黄龍・麒麟 ※土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にある。
㉑江西中墓、江西大墓の四神/キトラ古墳は江西中墓、江西大墓の影響を受けているか?
白虎・・・胸を突き出し、前の両足を大きく開いている。三本の足爪。首には蛇腹のような包帯をまく。(青龍も同様に包帯を巻く。高句麗だけの特徴)
上の動画の5:05あたりからも江西中墓が紹介されている。 (5:09江西中墓の朱雀、5:51玄武、6:02白虎、6:19青龍 3:09江西大墓の玄武、3:32青龍、3:49天井、4:02蟠龍(黄龍のことか?)4:12飛天、4:26唐草模様、4:37白虎、4:52朱雀)
江西中墓の白虎・青龍について 6:02/白虎を見ると確かに首に包帯の様なものを巻いているように見える。 6:19/の青龍の首に包帯がまいてあるかどうかは確認しづらい。
江西大墓の白虎・青龍について 3:32/青龍 包帯状のものが確認できる。 4:37/白虎 包帯状のものは確認が難しい。
江西大墓の壁画を復元した動画の方でも確認してみよう。
0:38あたりに首のアップが登場するが、包帯状のものを巻いているのが確認できる。 さらに1:21あたりに青龍が登場するが、首に包帯状のものを巻いている。 0:38と1:21の映像を比較すると同じであるように見える。どちらも青龍だろう。 0:36と4:38に白虎が登場しているが、どちらも確認が難しい。4:38にはうっすら包帯状のものがあるようにも見えるが、はっきりとはわからない。
(0:31白虎、0:39青龍の首、 0:49玄武、1:22青龍、2:11青龍、2:14天井、4:30玄武、4:38白虎、5:00朱雀)
・高松塚、キトラ古墳の白虎は首に蛇腹状の包帯を巻き、三本指と爪を持っている。
高松塚古墳 白虎
キトラ古墳 白虎
上は高松塚古墳、キトラ古墳の白虎であるが、全浩天氏がおっしゃるような包帯状のものは確認できない。
だが、高松塚古墳の青龍の首には☒マークがある。
キトラ古墳の青龍の首は、泥をかぶっていて確認ができない。
高松塚古墳 青龍
キトラ古墳 青龍
もしかすると高松塚の青龍の☒マークは、江西大墓の影響を受けた物なのかもしれない。 ただし、色は高松塚の☒マークは赤、・江西大墓の蛇腹状のもの(包帯?)は白である。 赤い包帯はありえるか。 江西中墓の白虎、江西大墓の青龍、高松塚古墳の青龍の首にあるのは包帯ではなく、首飾りなのかもしれない。
・キトラ古墳の青龍の原図が見いだされる。
と全浩天氏はおっしゃるが、私にはさほど似ているように思えない。 三本指で爪を持っている点は同じではあるが、ポーズや尾の長さなどがかなり違う。
・二羽の朱雀は「今まさに飛びたたん」とする動と静の瞬間を描く。 朱雀の下には山々が描かれている。朱雀は空高く舞っている。一部の人は両足をそろえて静止していると主張するがそうではない。
上の動画『「高句麗古墳壁画江西大墓」復元.mp4』5:00あたりを見ると、江西大墓の朱雀の下には山々が見えている。
しかし、鳥はこのような姿では飛ばないのではないか。
上記記事を読むと、「サギなどでは後ろに伸ばして飛び、小鳥は前に縮める」と書いてある。 下の動画は鳥が飛ぶ時の足の状態が大変わかりやすい。 下の動画には、真下に足をのばして飛ぶ鳥はでてこない。
江西大墓の朱雀は羽根を高く上げて垂直に天に昇って言っているようにも見える。 また「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に記された江西中墓の朱雀の写真を見ると、朱雀の下に山々は描かれていないようである。
・キトラの朱雀は羽根を広げて駆けている。
キトラ古墳の朱雀は大浩天氏がおっしゃるように、飛ぶというよりは走っている。飛翔する直前の朱雀を描いたのかもしれない。
キトラ古墳 朱雀
・朱雀変遷 4世紀末 安岳1号墳・・・天井持ち送り部分に描かれる 4世紀末~5世紀 薬水里壁画古墳・・・・南壁入口桁の上で駆ける 5世紀末 双楹塚・・・2羽の朱雀が天上下の桁に描かれる駆けている。 6世紀 真坡里4号墳・・・飛ぼうとして駆ける。 真坡里1号墳・・・駆けながら飛び立とうとしている。 江西中墓 飛び立つ瞬間 江西大墓 大空を飛び舞う。
次回へつづく~
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①天文図は北を上にした場合、向かって右が西、向かって左が東
キトラ天文図と実際の夜空とを比較するために、私は某所に置かれてあった説明板の写真を使わせてもらおうと思っていた。 写真は後でお見せする。 この図のせいで(いや、私がうっかりしているのかな?笑)私は4日も悩まされることになった。
まずキトラ天文図を見てみよう。

キトラ天文図
地図は北が上、南が下、向かって右が東、向かって左が西になっている。 天文図は北を上にした場合、南が下、向かって右が西、向かって左が東になる。 キトラ天文図もそうなっている。 地図と天文図は東西の左右が逆になるのだ。
なぜそうなるのか。 地図は地面を見下ろす形で見る。一方、空は見上げる形で見る。 北向きに立って、地面(地図)を見た場合、上が北になる。 一方、北向きに立って空を見た場合、上が南になる。 しかし北向きに立って見下ろしても、見上げても、向かって右が東・向かって左が西で在ることは変わらない。
図1
下の図の上部のだ円は、上の図左上に描いた天球外側ではなく、天球内側(天球図]であることに注意してみてほしい。 天球図の円の輪郭は地平線である。
②東西が逆になった天球図?
下は私が悩まされた、某所にある説明板に描かれた天球図である。
図3
この説明板の図をパッと見ると、下の図(図4)のような天球図の北側半分を切り取ったものだと思うのではないだろうか。
図4
しかし、上の図のように、説明板の下に南側半分があると考えると、天文図としては東西が逆になってしまう。 地図として見た場合には東西はこれで正しいのだが。 ③某所説明板の東西南北は地面の東西南北を表している?
ということは、ここに記されたW(西)、N(北)、E(東)は地面(地図)の方角を表しているのかもしれない。 とすれば、半円は天球を表すのではなく、ただのモニュメントの形であって、北を望むとアルタイル・ベガ・デネブがこんな風に見えるということを示しただけなのかもしれない、と思った。
つまり天球図にすると下の図のようになっていることを示したものだろうか?と思ったのである。↓
図5
上の図を180度回転させて北を上にすると次の図のようになる。 (星の位置と「名前を記した文字」が小さくて読みにくいので赤で付け加えた。)
④「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と「某所 説明板の天球図」を比較してみた。 図6
某所 説明板の「夏の北の夜空」
(正確な図ではないことに注意)
図7 2021年8月4日21時頃 東京の星空
上の図7と図6と比較してみよう。 『某所 説明板の「夏の北の夜空」』ではアルタイルが向かって右、ベガが向かって左、デネブが下にあるのに対し 『2021年8月4日21時頃 東京の星空』ではアルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上にある。
星空は天の北極を中心に1日で反時計回りに1回転する。
つまり、時刻によって星の見える方向は変わる。
そこで、『某所 説明板の「夏の北の夜空」』を180度回転させて、アルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上に来るよう動かしてみたのが次の図である。
図8
アルタイル、ベガ、デネブの位置関係は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じになる。
⑤某所 説明板は午前9時頃の空?
ここで、あることに気がつく。
図7は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」である。 図6の撮影場所は大阪府だが、東京とそんなに星空の見え方がかわるわけではない。
大阪においても、2021年8月4日時頃の星空は、若干のずれはあるだろうが「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じように見えるだろう。
先ほども述べたように、星は天の北極を中心にして反時計回りに回る。
1回転(360度回転)するのに要する時間は(約1日=24時間)である。
ということは、180度回転するのに要する時間は12時間である。
図6は「夏の北の夜空」というタイトルだが、図7「2021年8月4日21時頃 東京の星空」に一致させるためには 図を180度回転させる必要があった。 ということは、21時から12時間後、または12時間前の午前9時ごろの空ということになってしまう。 午前9時の空は夜空とはいえない。 既に太陽が昇り、星は見えなくなっているころだ。 これはありえない。
ということは、某所の天球図は、夜21時ぐらいの空(「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と同様の空)を描いたものであり、 天球図は図4の北側半分を切り取ったもので、図9、図10のようにE(東)とW(西)を誤まって左右逆に描いてしまったのではないだろうか。
図9
図10
 図10は図7とほぼ同じである。
図7
某所の説明板は南向き(見る人は北を向いて説明板を見る)で、実際の東西に合わせて設置されていた。 しかし、そうではなく、この説明板は方角を訂正した上で、北向き(見る人は南を向いて説明板を見る)にして、 実際の東西に合わせて設置するべきだったのではないだろうか。
E・W・Sの文字は「地図の方角を記しただけ」なのかもしれないが、そうであるとしても紛らわしい。
南から夏の北の夜空を見た場合、夏の大三角(アルタイル、ベガ、デネブを結んでできる三角形)は説明板のような形にはならず、説明板を180度回転させたような形で見えるのではないだろうか。
図10
↓ 南から北の夜空を見たとき ↓北から南の夜空を見たとき
自信がありません(汗)。何か勘違いしていたら、ご指摘お願いします。
次回へつづく~
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑮高句麗石刻天文図/キトラ古墳天文図は現存する最古の天文図だが、日本で観測して作成されたものではない。
・高句麗石刻天文図
高句麗最古の天文図 5,6世紀の平壌の夜空の星を写している。正確に描かれていると指摘されているが現存しない。 668年に唐軍が平壌城を攻撃したとき、大同江に落とされ、失われた。 しかし拓本が残っており、1395年に復元して「天象列次文野之図」が作られた。
こちらの記事には、次のような内容が記されている。
・中国・朝鮮・日本など中緯度から見える天域全体を描いた星図として現存最古のものは、中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」。(これについては「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」の中でも触れられている。)
・中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」は、南宋の淳祐年間(1241年 - 1252年)に刻まれたことから、淳祐[石刻]天文図とか蘇州[石刻]天文図などと呼ばれている。
・ 蘇州天文図(淳祐天文図)は北宋(960年 - 1127年)時代の観測に基づくと推定され、北宋時代に書かれた『新儀象法要』にも星図がいくつか収載されている。
・ 朝鮮半島には「天象列次分野之図」と題する石刻天文図が現存するが、石刻天文図としては中国・蘇州の天文図に次ぐ古いもの。
・「天象列次分野之図」銘文には次のようにある。 「高句麗の都・平壌に石刻天文図があったが、唐・新羅連合軍に滅ぼされた時(AD668)、大同江に沈んだ。歳月の経過とともにその拓本も漸次失われたが、朝鮮の太祖(在位1392~98)のとき、拓本を献上するものがあり、太祖はこの石刻天文図の復元を命じた。しかし書雲観では年月を経て度数(すなわち座標)が変わっている(歳差を指す)として、新たに夜明けと日暮れに南中する星を観測し、それらについては新測に基づき、星象は旧図に基づいて天象列次分野之図を作った。洪武二十八年十二月」
・朝鮮では明の年号を用いていた。明の洪武28年は朝鮮の太祖3年。この年12月は西暦では大統暦との年初のずれの関係で、1396年となる(11月19日までが1395年)。
・ジョゼフ・ニーダムは「天象列次文野之図」が高句麗石刻天文図を基にしていることを証明している。 どのように証明されたのかについての説明がほしい。
・高松塚古墳、キトラ古墳はキトラ古墳の方が少し古いとされる。 これについては聞いたことがないし、古いとされる根拠について全浩天氏は触れておられない。
・キトラ古墳天文図について 68の星座、350の星が確認される。 内規・・・内側の円(地平線に沈まない星の範囲) 外規・・・外側の円(星が見えなく成る境界) 黄道・・・地球から見て、太陽が地球を中心にして運行するように見える天空上の大きな円 春分、秋分の位置が明確に示される。 キトラ古墳が作られた天武朝は天文学と占星術が大いに奨励された。
日本書紀天武天皇即位前紀『(天武天皇は)天文・遁甲に能し」とある。 675年正月 陰陽寮設立
・キトラ天文図に匹敵する天文図は中国蘇州孔子廟の礎石(淳祐天文図)淳祐7年(1247年)と天象列次文野之図(1395年)※この時代は李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)
キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀とされている。 つまりキトラ古墳の天文図は、現存する東アジアのる星図としては最古のものだといえる。
しかし、キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっていて、私は「なるほど」と思う。
・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。
窺管がいつから存在していたかわからないが、晋・陸雲〔陸典に与ふる書、十首、五〕に次のように記されているようである。 「東州の幽昧を光(かがや)かし、榮勳を野に(し)かんこと、謂(いはゆる)管を窺ひて以て天を瞻(み)、木に(よ)りて魚を求むるなり。」 晋は中国に、265年から 420年まで存在した王朝である。 下に記す漢書、張衡が水運渾象を製作したということから考えても、この晋の時代には窺管は存在していたと考えられると思う。
・漢書(後漢の時代に成立した。後漢は25年 - 220年)は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡(78年 - 139年)は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。
・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。
・橋本敬造氏「キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い。」
内規の中にある「八穀」星座、赤道と同心円の外規の間にある「弧矢(こし)」「天(稷/しょく)」「天社」「器府(きふ)」などの星座群が似ている。老人星の位置が似ている。
高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
・宮島一彦氏、「キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう」 「星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか」と推定 「キトラの内規は緯度37度半」中国の長安、洛陽、飛鳥は該当しない。平壌は該当するとしている。
これについては、過去に以下の記事を書いた。
自分自身の復習の意味をこめて(笑)内容をまとめておく。
・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道 天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道 1年を通じた太陽の軌道
(来村多加史氏の説明による)
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、画像は不鮮明なので、宮島氏が用いた星の同定や位置に誤りがありえるとした。
2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬充氏が解析を行った。
①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている ③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい ⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.
天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。
地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。
各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。
天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないかと思い、キトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みた。
地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。
9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.
天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。
細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。
つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。
これに該当する中国の王朝は次のとおり。
後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404
一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。
来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。
キトラ天文図
高松塚古墳 星宿図
高松塚古墳と同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。
高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。
すると星宿図や天文図は中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったか、もしくは中国で作成されたものが高句麗経由で日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。
高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。
⑯キトラ古墳はどこから伝わったか?
・「専門の天文学者たちに差異があったとしても、明らかなのは高句麗文化の結晶である星図の一つが平壌から「飛鳥への道」をたどり、他の一つは「ソウルへの道」にもたらされたのであった。」 『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』85ページより引用(原文まま)
「専門の天文学者たちに差異がある」というのは、すでにのべたように以下のことをさす。
橋本敬造氏・・・ キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い 高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。
宮島一彦氏・・・ キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう。 星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか。
そして「飛鳥への道」とは「高句麗石刻天文図(5~6世紀)または類似のものが飛鳥に伝わってキトラ古墳の天文図が作成された」こと
「ソウルへの道」とは、「李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)の首都・漢城府(現在のソウル)において、1395年に高句麗石刻天文図をもとにして天象列次文野之図を作られたということ」を言っているものと思われる。
しかし、高句麗から伝わったのではなく、唐から伝わったとも考えられるのではないか? 遣唐使630年よりはじまり、多くの唐の文化がもたらされたとされる。 その一方で、当事多くの渡来人が日本にやってきたとされる。 四天王寺を作った宮大工の金剛重光は百済人である。 このブログで、高松塚・キトラ古墳の壁画を描いたのではないか、とたびたび名前がでてきた黄文本実は高句麗系だと松本清張氏はおっしゃっている。 黄文本実は669年の第七次遣唐使に参加したともあり、松本清張氏のおっしゃっることが正しければ 黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。
ウィキペディア「渡来人」には次のような内容が記されている。 ・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。 ・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。 ・大和朝廷では優遇され、官人として登用された者も少なくない。 ・「新撰姓氏録(815)」に記載される1182氏のうち、326が渡来系氏族で全体の3割を占める。 ・諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9。
ここに「漢」とあるのは、漢民族という意味だと思う。 ちなみに中国の王朝である前漢は紀元前206年 - 8年、後漢は25年 - 220年であり、飛鳥時代のはるか昔である。
このように考えると、やはりキトラ古墳の天文図が高句麗からもたらされたものとは断言できず、唐からもたらされたものである可能性もあると思う。
これについては宿題ということにして、次に進むことにする。
次回へつづきます~
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
⑥大城山城と安鶴宮
・427年、高句麗の都は集安から平壌に移った。その国都の中心は安鶴宮跡。
大城山の山上に築かれた山城も王城。石壁がだ円形に築かれる。 東西約2300m、南北1700m 渓谷にも城壁が築かれた。 宮殿の建物は現存しない。
・安鶴宮跡の下層から2~3世紀の石室封土墳10基が発見された。
⓻湖南里四神塚/北を振り返りながら南へ走る青龍と白虎
ネット上に湖南里四神塚の壁画の写真はみつからなかった。(探したりないのかもしれないが)
・安鶴宮跡の南東に湖南里四神塚はある。
・5世紀から6世紀に築かれた単室墓の壁画古墳。
・花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。
・青龍は走りながら北を振り返る。 白虎は毛をむしり取られたような姿で、南に走りながらやはり北を振り返っている。 南には二柱の朱雀。羽根はシンプルで貧弱。玄武は定型どおり。 ネットに「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事があり、次のように記されている。
”湖南里四神塚[関野1941] 両袖式石室。四壁に柱・斗棋を描く。南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」ものがある。北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。天井部にS字形の連続渦文が全面に描かれる。”
ここに「北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。」とあるが、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には四神の写真が掲載されている。
「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事は1999年3月に記されたものであり、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」の出版年は2005年である。 1993年3月以降に発掘調査などが行われて全容がわかったのだろう。 全浩天氏は「墓室に入る。ひんやりした空気である。」と書いておられるので、古墳石室内に入って見学することもできるようだ。(特別な許可が必要なのかもしれないが)
「北朝・隋唐と高句麗壁画」には a 四壁に柱・斗棋。 b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。 c 天井部全面にS字形の連続渦文 とあるが、全浩天氏は「花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。」と記し、柱・斗棋・蓮花・S字形の連続渦文については何もしるしておられない。
『b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。』とあるのは、南壁に記された東西二柱の朱雀のうち、西に描かれた朱雀を「蓮花の如きもの」と言っているのだと思う。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には湖南里四神塚南壁入口左側に描かれた朱雀の写真が掲載されている。 南壁中央に古墳入口があり、そのため朱雀を入り口の左右に描いたのだろう。 南壁入口左側とはむかって左側ということだろうか。すると、東の朱雀ということになるが、西の朱雀は東の朱雀と向かいあうように、同様の姿で描かれたのではないかと思う。 そしてその朱雀の写真は蓮花のように見えなくもない。
柱・斗棋・S字形の連続渦文については、あるのかないのかわからない。
⑧高山洞古墳群
これもネットに画像が見つからなかった。本にも画像はない。
・湖南里四神塚がある三石区域の隣の大城区域には多くの古墳群がある。 廬山洞古墳群、内里古墳群、土浦里古墳群、寺洞古墳群、高山洞古墳群、安鶴洞古墳群 壁画古墳もある。
・高山洞1号墳 5世紀末~6世紀初 玄室には人物画と四神図 高山洞7号墳 4世紀末 左右に側室、玄室がある。墓室には人物、風俗、四神図 高山洞10号墳 4世紀末 壁画は人物のみ 高山洞15号墳 壁画の剥落がひどく内容がわからない。 高山洞20号墳 三世紀の築造、前室に人物画が確認される。他は不明。 安鶴洞9号墳 3世紀の築造、玄室には四神図 嵋山洞壁画古墳 5世紀 人物と四神図
⑨鎧馬塚/馬に乗ろうとする被葬者を描く。
9ページに画像がある。
・長方形の玄室のみをもつ。
・壁画風化している。
・壁面には四神が描かれていたが朝鮮戦争(1948年、大韓民国vs朝鮮民主主義人民共和国)で破壊された。 天井部分のみ残る。
・玄室天井持ち送り部に鎧馬に乗る在りし日の被葬者が描かれている。
・絵の上には「塚主着鎧馬之像」(墓の主人が鎧馬に乗る姿)と記されている。(確かに確認できる。)
全浩天氏は「在りし日の被葬者」としているが、 『北朝・隋唐と高句麗壁画 - 四神図像と畏獣図像を中心として』という記事には次のようにある。
”鎧馬塚 玄室左壁の第1段持送り天井側面に,冠飾をつけた墓主像・従者と,御者・飾馬の像があるが,そのあいだに「家主着鎧馬之像」という榜題がある。「家」を「原」と釈読する見解[関野貞1941]もあるが,「塚」であろう。その主墓主)は,鎧馬に乗っていないが,その鎧馬の導かれて昇仙するさまが描かれているのであろう[東1992]。”
そこでもう一度画像を確認してみると確かに墓主は鎧馬に乗っていない。 また、天井部に描かれているということは、「在りし日の被葬者」ではなく、「鎧馬に導かれて昇仙する被葬者」と考えた方がよいのではないかと思った。
・日像には三本足の烏、月像にはヒキガエルと薬草をつく兎
↑ リンク先「11ページ・図10・6」に鎧馬塚の三本足の烏、ヒキガエルと薬草をつく兎の絵がある。
⓾内里1号墳/月の中に松の下にたたずむ兎
・6世紀末から7世紀初
・以前の発掘調査資料から青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていたことがわかっている。
・月像には松の木の幹と葉の下にたたずむ兎が描かれる。
(ネットに写真は見つからなかった。)
⑪高山洞7号墳
・4世紀末から5世紀初めにかけて作られた多室墓
・建物、水車、人物、樹木、馬を牽く人 (ネットに写真みつからなかった。)
⑫徳花里1号墳
・墓室は半地下。
・八角天井に亀甲文を描き、太陽を意味する三本足の烏、月像、星、雲、蓮花、北斗七星を描く。
・柱の角には柱と斗栱
・北側天井には大きく北斗七星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・単室墓
(ネットに画像はみつからなかった。)
⑬徳花里2号墳/大きく描かれた北斗七星と南斗六星
・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。
・四神と人物
・天井には19の星座が確認されている。「井星」「辟星」「胃星」「柳星」の文字が記される。 28の星座が星座名とともに記されていたのだろう。 1395年に作成された「天象列次文野之図」の星座位置とほとんど同じと指摘されている。
・1号墳に東に近接し、壁画も似ている。
・単室墓
・柱の四隅に柱と斗栱
図1に徳花里2号墳の星辰図がある。 北斗七星と南斗六星(南の空にある柄杓の形地をした星。いて座の一部)が大きく描かれている。
南斗六星
⑬星宿図を描いた高句麗壁画古墳
・21基ある。
・伏獅里壁画古墳 角抵塚 特興里壁画古墳 大安里1号墳 星塚 双楹塚 狩猟塚 牛山里2号墳 通溝四神塚 集安5号墳 安岳1号墳 舞踏塚 薬水里壁画古墳 天皇地神塚 長川1号墳 三室塚 牛山里1号墳 真坡里4号墳 集安4号墳 徳花里1号墳 徳花里2号墳
⑭長川1号墳/北斗七星には男神と女神がある。
長川1号墳については「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」69pに模写図が掲載されている。 それをもとに、へたくそな図を書いてみた。↓ かなりいい加減な図である点に注意してほしい(汗)。
この図を書いた後で、友人が長川1号墳の模写が掲載されている中国語の記事を教えてくれた。
そうではあるが、この中国語の記事が削除される可能性はあるので、私のへたくそな図も念のため掲載することにした。
上の記事を中国語に自動翻訳したものをまとめてみよう。(意味が分からない所もあるので、間違いがあるかもしれない。)
・堯水里古墳 平安南道南浦市麗水里にある 4世紀後半から5世紀初頭。 回廊、前室、後室で構成される。 奥の部屋(後室のことか)の上半分には、太陽、月、四神、星などの天体像が描かれている。 北壁上部には北斗七星が描かれ、その下に被葬者と被葬者の妻がカーテンがかかったソファに座る絵が描かれている。 墓主を天に昇らせ、北斗を使って墓を守る。
・高句麗の壁画墓では、北斗七星と蓮が天国の中心的なイメージとして初期に使用された。 蓮華、北斗七星、南斗七星、太陽、月など複数の天体モチーフが天を表現 a 北斗が天国の中心であり、太陽と月がそれを補う. b 蓮の模様中央に北斗と南斗があり、左右対称になっている。
・長川1号墳 吉林省集安市長川市にある 回廊、前室、後室からなる。後室にも棺台が2台設置されている。 後室は前室よりわずかに大きいが、高さは低くなる。 前室の東側と西側の壁・・・被葬者の生涯を描いた絵 棺の下側には四神として緑龍と白虎、上側には菩薩と神像が描かれる。 前室北壁・・・仏陀を礼拝する人々 後室・・・四方の壁とケーソンには、整然と配置された蓮の文様。 ケーソンの中心の南北に北斗七星、東側と西側に太陽と月。中央に「北斗七青」の四文字が赤字で記される。 北斗七星の星座は、星を表す円と、その円を結ぶ線で構成される。円の中に点。北側の北斗は実線で結ばれ、南側の北斗は点線で結ばれる。
・トルファン・アスタ 「荘園の生活図」・・・北斗は墓主のテントに移動させる方法 「墓主の生涯図」・・・長谷1号墳と同様、二人の北斗を同時に描く。 北斗七星は実線で結ばれており、円も点で埋められる。
・なぜ 2 つの北斗を同時に描かなければならないのか。 『淮南子』巻3「天文修練」によれば、「北斗七星の神は男神と女神がいる。11月に子に建立された。月は最初の刻から始まる。男は左に行き、女は右に行く」 " _
・長川一号墓とトルファン・アスタの『墓主生涯図』に見られる二人の北斗は、北斗神の男性、女性、陽、陰の表現。 実線で結ばれたものは陽、南側の点線でつながったものは陰?
2 つの北斗の柄杓はそれぞれ東と西を向き、反対方向を向く。→左と右の移動を表す。 長川市一号墓の前室には仏像が描かれているが、天中部は基本的に墓像の伝統に従って構築されている。
・中世初期の北斗信仰 銭宝の『宋神記』(東晋時代)の第 3 巻 燕君の父親は、延命してくれるように頼んだ。関羽燕君は言った。 「それはあなたを大いに助けるだろう。私も長生きできて幸せだ。あなたが北に座っていれば、それは北斗七星だ。南に座れば南島。南島は生のためのもので、北島は死のためのもの。すべての概念は南島から北島へ移る。すべての祈りは北島に向けられる。」 ナンドゥと北斗はともに擬人化された神。「ナンドゥは生を担当し、北斗は死を担当する。」 ・中世の墓には北斗の擬人化された像がない。
・道教の発展とともに北斗七星は七人格の神に変化し、北斗七星と呼ばれるようになった。 (明代・山西省保寧寺「北斗七元左補・右碧忠」では7人の僧侶の姿であらわされている。)
三本足の烏の絵を描いた〇は太陽、薬草をつく兎とヒキガエルの絵を描いた〇は月だろう。
陰陽道では太陽の定位置は東、月の定位置は西なので、太陽のある側(向かって左)が東、月の有る側(向かって右)が西だと思う。
従って、上が南、下が北である。
南北に大きく描かれているのはどちらも北斗七星と考察されているが、北に描かれた北斗七星にはおかしな点がある。 北斗七星は実は八星で持ち手の端から2番目の星のそばにもうひとつ星(アルコル)がある。
しかし図では持ち手の端から3番目の星の側に星がえがかれている。
北斗七星の形は上の写真の通り。 長川1号墳の北に描かれた北斗七星が地球上から見た北斗七星の形であり、南に描かれた北斗七星は柄杓の向きが逆である。 私は空間認識能力が低いので、長川1号墳北側に描かれた北斗七星の図を透明なビニール袋に書いて裏から見ててみた。 そしてそれを右回りに180度回転させると南の北斗七星の形になる。
下図のように、天球上に星座がはりついているものとし、天球の上から神様が星座を見下ろすと、実線でつながれた北斗七星の形に見えるだろう。
北斗七星には男神と女神がいて、男神は左まわり、女神は右回りと『淮南子』に記されているという。
地球上にいる我々からみると、点線でつながれた北の北斗七星の形に見える。 そして地球から見ると、北斗七星は左回りである。 ということは、地球上から見る北斗七星の姿が男神で、実線でつながれた天球上から見る北斗七星の姿が女神ということか?
北斗七青が何かについてはよくわからなかったが、これも友人が教えてくれたところによると「大正新脩大藏經を検索すると、『7つの知恵や七つの真言の象徴』という意味で『七青』と用いられている」とのことで仏教的な意味があるのではないか、とのこと。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。 「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。 肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
①東明王陵/図案化された蓮花紋のみ
・1974年に発掘調査され、高句麗時代の壁画古墳であることがわかった。文献に登場しない定陵寺という寺院跡も発見された。 ・東明王は高句麗建国の始祖王・朱蒙のこと。40歳で紀元前19年に逝去(三国史) ・高句麗が強盛を誇ったのは、広開土王と子の長寿王(ちょうじゅさん)の時代
427年、長寿王は集安から平壌に遷都〈3回目)このとき東明王の陵を現在地に移葬した。 ・楼閣には朱蒙の姿がある。(上の動画6:11あたりに出てくる絵のことだろうか。) 分官、武官の石人と石馬が並ぶ。 ・王陵の高さ、8.15ⅿ 玄室の高さ3.9ⅿ、一辺4.20㎡の方墳 ・四方の平面には図案化された蓮花紋のみ ・王冠には100余個の金銀の歩揺(金板や玉などをつらねて垂下した飾り)
残念ながら東名王陵の壁画の画像はネット上にみつからなかった。
②定陵寺/陵の隣に寺があるのは高句麗の影響? ・出土した瓦に「定陵」「陵寺」と刻まれていた。 ・始祖王だけでなく真坡里古墳群に眠る高句麗王家の忠臣・功臣を供養する菩提寺でもあったのだろう。 ・八角多層唐を中心に三金堂が配置される。高句麗独自の様式だが、飛鳥寺も一つの塔を中心に三金堂をもっていた。 飛鳥寺の最初の住職は高句麗出身の恵慈(慧慈)だった。
『書紀』596年)11月条「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」 馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたと記す。
創建時の飛鳥寺伽藍の模型
・恵慈は聖徳太子の師 ・恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか。 ・聖徳太子廟は叡福寺の境内にある。陵墓の隣に寺があるのは高句麗の影響だろう。
全浩天氏が「恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか」とおっしゃっている理由は次のようにまとめられるだろう。 ・東明王陵の隣には定陵寺があり、聖徳太子廟の隣に叡福寺があるのは、これに似ている。 ・聖徳太子の師・恵慈は高句麗の定陵寺の僧侶であったので、陵の隣に寺を作るアイデアは恵慈が伝えたものであるかもしれない。 「もしかしたら、~かもしれない。」程度の仮説ということだ。 しかし、このような推察から深い考察につながることもあるので、意味のないことではない。
聖徳太子廟
室町時代の叡福寺境内図 絵の中央上に黒っぽい屋根が向かって右上に伸びているあたりが聖徳太子廟
陵の隣に寺をつくるのは、高句麗の影響なのか。これについては中国の寺や陵の例を探すことができず、わからなかった。
③真坡里1号墳/青龍も白虎も北向き。太陽には八咫烏、月には兎。
ネットに真坡里1号墳の画像がないかと探してみたがみつからなかった(涙)。
・真坡里古墳群は20基ある。 ・高句麗古墳壁画は地表上または半地下に土を盛った石室封土墳に壁画が描かれている。 ・1号墳は6世紀の中頃 ・四壁には壁面いっぱいに四神が描かれがる。 ・北壁 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット。玄武。松。
〘名〙 (palmette) 椰子(やし)の一種をかたどった装飾。棕櫚(しゅろ)の葉を放射状に配置したような植物文様。メソポタミア起源といわれるが、エジプトやギリシアの装飾にも見られる。
・北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。 聖徳太子の妃・橘大郎女は天寿国曼荼羅という繍張を侍女たちに作らせて、そこに聖徳太子が往生することを願ったのだろう。
本に北壁の写真があるが、小さくて花吹雪や玄武は確認することができない。松の木のみ確認できる。
全浩天氏が天寿国曼荼羅と書いておられるのは、中宮寺に伝わる天寿国繍張のことだろう。
天寿国繍張
紫羅、紫綾、白平絹の三種裂を下地裂として刺繡した断片を集め額装とする。
上中下の三段に分かれ、各段を左右に二分しているが、下地裂を混用し、図様も連続しない。
紫羅地には窄袖の異衣に褌の男子と裾広の褶の男子、衣裳の上に於須比をつけた女子、鳳凰、月兎、「部間人公」の文字のある亀形を表し、紫綾地には菩薩形、屋形、「干時多至」「利令者椋」の文字のある亀形二個、白平絹地には鴟尾をのせた入母屋造りの鐘楼と鐘を撞く僧、仏殿楼閣と男女、読経僧、仏像四躯を表す。
全浩天氏によれば、真坡里1号墳の北壁には、 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット、玄武、松が描かれているという。月と兎は天井に描かれている。 天寿国繍張には、月と兎、雲、パルメットは描かれているが、花吹雪、玄武(亀は描かれているが、玄武とは亀に蛇が巻き付く姿をしている。)松は確認できない。(欠落している部分があるので、もともとは描かれていた可能性はないとはいえない) そして全浩天氏の説明によれば真坡里1号墳には描かれていないであろう、仏像、菩薩、屋形、鐘楼、僧侶、女子、男子、鳳凰などが描かれていて、真坡里1号墳とはかなり異なっているのではないかと思える。(真坡里1号墳は小さい写真鹿鳴く確認できないが)
「北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。」というのは全浩天氏の主観であり、客観的な根拠がない。
・白虎は北向きに疾走する。 白虎は南向きに描かれるのが一般的。キトラ古墳も真坡里1号墳と同じく北向きに描かれている。 キトラ古墳の北向き白虎は日本独自のものといわれることがあるが、それはまちがい。
・東壁に描かれた青龍も北向き。(通常は南向き)
↑ 高松塚古墳の白虎は南向き。
↑ 高松塚古墳 白虎 高松塚古墳の白虎は南に向かっている。
↑ キトラ古墳の白虎 キトラ古墳の白虎は北に向かっている。
↑ 高松塚古墳の青龍は南向き
キトラ古墳の青龍も南向き
・キトラ古墳と真坡里1号墳は関係が深いと思う。
たしかにキトラ古墳も真坡里1号墳も、通常は白虎は南向きで描かれるところ、北向きに描かれている。 しかし、青龍については、キトラは南向き、真坡里1号墳は北向きで異なっている。 白虎が同じ北向きであるからといって、影響を受けているといえるかどうか。
その後の文章で、真坡里1号墳は壁面いっぱいに四神が描かれていると全浩天氏は記しておられる。 『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅』には真坡里1号墳東壁に描かれた青龍の写真が掲載されているが、確かに壁面いっぱいに描かれている。 これに対してキトラ古墳の四神は、下の動画1:52を見ればわかるように、そんなに大きく描かれているわけではない。
また、キトラ古墳の大きな特徴として、四神の下に十二支が描かれている点があげられるが、 全浩天氏の真坡里1号墳の説明に十二支は出てこない。
下はキトラ古墳壁画体験館四神の館の説明板を撮影したものである。(撮影可) 説明板の下のほうに、「韓国金庚信墓十二支像(拓本)」と記されている。 真坡里1号墳よりも、金庚信墓の影響のほうが強いといえるのではないだろうか。
ただし、金庚信(新羅の将軍/595年-673年)墓の十二支は壁画ではなく、円墳の周囲にめぐらされた護石である。 ※金庾信の墓でないとする説もある。
西湖地区(長江中流域の湖北・湖南両省) 583年前後に出現していた可能性がある。 隋・大業年間(605-616)・・・供手した首の短い座像。腹部に縦帯が垂下するなどの共通点がある。
7世紀中庸・・・笏を持ち、方形台座にする。正座する。(桂子山墓、或嘉湖墓など。)
8世紀初・・・立像 頭部に比較して身部が長い。広袖の長袍 笏をもたない。(揚廟墓、司徒廟鎮墓、高郵車逞墓)
北地区(北京、遼西) 薜府君墓(則天武后期か)・・・窄袖の長袍 束帯をしめる。確実な立像として最古 鋁箔廠墓(734)・・・ 中国における最古の獣頭人身像壁画
両京地区(隋・唐代に都城のおかれた長安、洛陽) 開元年間(713~741)
獣頭人身像は、立像俑、線刻座像ともに、いずれも広袖の長袖、長杉を着て供手する。揚州様式のものと共通する。あるいは、それをもとに形成されたのかもしれない。 線刻座像は、両湖型のモチーフと一致した持笏し、方形台座上に盤座するものに転換する。
獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽる。 この時期、十二支の動物像をもつ鏡や墓誌が流行した。 獣頭人身像による十二支表現もこの流行を背景にあらわれたものだろう。
獣頭人身像自体の出現は、仏教の盛隆と関係するか。 (十二支と十二神将の融合など) 南北朝期から初唐にかけては、十二神将が説かれる経が漢訳され、盛行した。
キトラ古墳は年代が7世紀末~8世紀初頭。立像。 獣頭人身像が出現していなかった両京地区や座像を基本とする両湖地区を除く地域、特に、長江流域以北の地域である可能性が高い。
十二支の護石がある金庚信(595年-673年)墓は、金庾信の墓でないとする説もあるが、673年ごろに作られた墓ということになるだろうか。 そして獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽるということは、獣頭人身像のルーツは中国ということになりそうだ。 ただし、四神の館の説明板にあるように、中国の獣頭人身像は武器を持っていないが、新羅の金庚信墓の護石に刻まれた十二支は武器を持っており、キトラ古墳の十二支も武器を持っている。
キトラ古墳 寅像
そして、中国における最古の獣頭人身像壁画は鋁箔廠墓(734)であり、年代はキトラ古墳よりも新しくなるかもしれない。 ウィキペディアには高松塚古墳の築造時期は藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀と記されている。 そうではあるが、キトラ古墳と高松塚古墳の四神図は大変よく似ており、同時期に築造されたものと考えられるのではないだろうか。
するとキトラ古墳は、中国における最古の獣頭人身像壁画鋁箔廠墓(734)よりも時期が早いということになる。 そうではあるが、藤原京時代の情勢を考えると、獣頭人身像が日本から中国に伝わったとは考えにくい。 中国にはまだ発掘されていない獣頭人身像壁画があるか、破壊されるなどして消滅してしまったということも考えられるのではないか、と思う。
白虎の向きに意味があるとすれば、「キトラ古墳の北向き白虎は、高松塚の南向き白虎との関係を考えたほうがいいのではないか」と個人的にはそう思う。
・天井は平行三角持ち送り式
・高句麗壁画古墳では東に太陽(三本足の烏が描かれる)、西に月(ヒキガエルが描かれる)、 中国では紀元前2世紀の漢のころ、すでに日像に三本足の烏、月像にはヒキガエルが住んでいると信じられていた。
・『淮南子』という書物に、「日中に烏ありて、月中に蟾蜍あり」と記されている。
・陳寿は『三国志、魏書 高句麗伝』には「高句麗の人々は歌舞を好む、どの村も夜になれば男女が集まり、群がり相ともに歌い踊る・・・・人々は清潔で、多くはそれぞれが自分で酒を醸造し、家に置く。」とある。
・真坡里1号墳の日像には三本足の烏、月像には薬草を搗く兎。 本に掲載された写真、イラストを見ると太陽と月は離さず、並べて描かれている。
・6世紀になると高句麗では月の中に兎が描かれるが、ヒキガエルとセットになっていることもあるし、ヒキガエルのみ描かれることもある。
・真坡里1号墳の四神図は恵慈が聖徳太子に教えた天寿国。聖徳太子の妃,橘大郎女が聖徳太子の死に際して作らせた「天寿国曼荼羅」の世界とは、真坡里1号墳と同様のものではないか。
④長川1号墳/相撲、楽器、草花を楽しむ風流は高句麗から始まったとは考えられない。
・集安の長川1号墳を描いた高句麗の画師は、楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ人々を描く。 このような風流は高句麗から始まった。
集安は中華人民共和国吉林省通化市にある都市であるが、古の高句麗はこの付近から、北朝鮮にまたがって存在していた。 集安には高句麗壁画古墳が複数残されている。
・アメリカ大陸、アフリカ大陸でも月と兎についての話が多い。
・「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった。
全浩天氏は「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった、と書いておられるが、その根拠を示しておられない。
・『礼記・月令』には、「初冬、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の天子は軍隊に対し、射御、角力を習うことを命じた」とある・ 「角力」は、「手搏(素手による戦闘)」能力を競うことをいう。 ・『漢書・刑法志』・・・戦国時代(前770年ー前221年)、秦は斉、楚、韓、趙、魏の六国を併合するため、角力を強化し、「手搏」を「角抵」と改めた。(前漢/紀元前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年) ・しだいに、軍事から娯楽観戦のためのものとなっていった。 『漢書・武帝紀』には角抵の行事が2度記録されている。(紀元前108年、紀元前102年) ・唐代には『角力記』が記される。 ・『太平御覧』巻七百十五の『江表伝』によると、「三国時代(184年ー280年)、呉の国主・孫皓が相撲をとらせた」とある。 ・『夢梁録』では、「角抵なるものは、相撲の異名なり。(角抵とは相撲の別名である。)」と述べている。 ※『夢梁録』は南宋((11271279)の地理風俗を記したもの。 ・現在の中国では相撲競技は残っていない。
この記事は劉心明という方が書いたものである。劉という名字から中国の方なのだろうか。 そのため中国びいきなのかもしれないが、史料名を提示してその内容を書いておられる点に信憑性が感じられる。 (もし、記載内容が間違っていれば教えてくださいね。) 「高句麗古墳群」は、4世紀から7世紀の築造とされるが、中国では紀元前108年、紀元前102年に相撲観戦の記事があるので相撲の記録は中国の方が古いといえるだろう。
④真坡里4号墳/高松塚には北斗七星はなく、真坡里4号墳には大きな北斗七星がある。
・古墳群の中で最大の規模(一辺約23m、高さ約6m) ・墳丘の形態は方形
・墓室 長い羨道を持つ。長方形。長さ3.1m、幅2.5m
・壁面に四神や神仙(仙人)が描かれる。
・羨道には風景画 松、絶壁のある山に囲まれた蓮池と蓮花
・天井持ち送りには金箔で二十八宿(高松塚の二十八宿と対比され、議論された。)

高松塚古墳 星宿図
リンク先4ページのアスターナ古墳の星宿図の方が、高松塚古墳の星宿図に似ている。
高松塚古墳壁画には北斗七星は描かれておらず、梅原猛さんはその事をもって、高松塚古墳の星宿図は特別な星宿図であるというような意味のことをおっしゃっておられた。 真坡里4号墳の星宿図に大きく北斗七星が描かれているところを見ると、高松塚の星宿図は梅原氏がおっしゃるように特別な星宿図といえるだろうか。 アスターナ古墳の星宿図にも北斗七星のように見える星宿がある。 しかし、アスターナ古墳の北斗七星のように見える星座星の数が7つではなく8つあるように見える。 実は目のいい人であれば北斗七星は8つの星に見えるそうである。 持ち手の方から数えて2番目の星ミザール(腰布)の横にアルコル(微かなもの)という星があるのだ。 アスターナ古墳の星宿図は、このアルコルを加えて8つの星として北斗七星を描いたのかもしれない。 高松塚古墳やキトラ古墳の星宿と比較して、その位置から推定できるかと思って見比べてみたが、星座の形がまったくことなっていてそれはできなかった。
⑤真坡里7号墳/玉虫の羽根を用いた日像透彫金銅製装飾
・壁画はない。
・日像透彫金銅製装飾(5世紀)
上から4番目の写真 帯状 王冠に付けたものとする説、木枕の側面に着装する飾り金具説 三本足の烏が掘られている。 日像の外側には雲文、鳥。
・北欧の神話では烏は神の使い。道案内の鳥。 熊野三山(熊野坐神社、熊野速玉大社、熊野那智大社)のシンボルは三本足の烏(八咫烏)
・日像透彫金銅製装飾は、玉虫の羽根を用いている。玉虫の厨子はこれの影響をうけたか。
玉虫の厨子(法隆寺)
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