「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」のメモと感想を記す。
「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」における原田淑人氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
①中国の俑
・中国の明器(死者に備える副葬品)の中で、人形を俑という。殉死の代用。周末には四肢を動かす装置をもつものも。 儒家が殉死の流行をおそれ、孔子の言として「俑を作る者、それの地なからんか」と警告。
・唐代「近頃王公百官競って厚葬をなし、偶人像馬彫刻生けるがごとく、」(太極元年 官人唐紹の上奏文)
・漢・唐の宮中、貴族符号の家には次女を多く雇用したため、俑は婦人像が多い。
唐代の女子俑は豊満なもの、やせ形のものなど様々ある。
②倭の五王
ここで「倭の五王」について勉強しておこう。
「倭の五王」は『宋書』倭国伝・『梁書』倭国伝などに登場する。
倭の五王「讃」「珍」「済」「興」「武」(中国風の名前)は中国南朝に使者を派遣した。
その目的は「冊封」。
冊封とは「中国の皇帝が各地の王の地位を是認する」こと、冊封を得るために死者を派遣することを「朝貢」という。
「讃」(在位413?~)
候補者(『記紀』):応神天皇・仁徳天皇・履中天皇
高麗より南東の海上に「倭国」という島国があり、代々その王が中国に朝貢してくる。髙祖永初二年(421年)、皇帝は「倭王・讃は万里もの遠く離れた土地から朝貢してくる。その誠意に応じて官職を授けよう」と命じた。
「珍」(在位438?~)
候補者(『記紀』):仁徳天皇・履中天皇・反正天皇
「珍」は「讃」のあとを継いだ倭王で、「讃」の弟。
在位期間や「讃」の弟であるとの続柄から『記紀』の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇のいずれかに対応するとみられているが定説はない。
讃が死んで弟の珍が倭王となった。
珍は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍倭國王」を名乗り、皇帝に対してその官職への任命を要求したが、文帝は要求をのまず、珍を「安東将軍・倭国王」に任じた。 珍はまた隋ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔國」のそれぞれの将軍職を授けるよう文帝に求め、文帝はこれらを全て認めた。
「済」(在位443?~)
候補者(『記紀』):允恭天皇
「済」は珍のあとを継いだ倭王だが、『宋書』倭国伝には珍との続柄が記されていない。 (『梁書』倭伝には珍の子との記載あり)。
在位期間や次代・次々代の興・武との続柄から、允恭天皇に比定される。
元嘉20年(443年)、倭王・済が使者を派遣して朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)には、安東将軍に加えて、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を与えた。
先代の珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大将軍倭國王」を求めていたが、済に与えられた称号からは「百済」が除かれている。
また、同時に上表された23人を将軍・郡長官に任命した。
「興」(在位462?~)
候補者(『記紀』):安康天皇
「興」は済のあとを継いだ倭王で、済の子。また、『記紀』に残る安康天皇との説が有力。
孝武帝の大明6年(462年)、帝は「倭王・済の世継ぎ・興は中国の外縁の海を守る役割を果たし、丁寧に朝貢してきた。よって、興にも先代同様の安東将軍・倭国王の地位を授けるべきである」と命令された。
称号から「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事」が消えている。 『記紀』によれば興=安康天皇は即位後短期間のうちに殺害されてしまったとされる。
『宋書』倭国伝における次代の倭王・武にかんする記述のなかにも、『記紀』に記された安康天皇の殺害をほのめかす表現がある。
「武」(在位462?or 477~)
候補者(『記紀』):雄略天皇
「武」は興のあとを継いだ倭王で、興の弟。
順帝の昇明2年(478年)、倭王・武は使者を派遣して上表文を送った。
「代々冊封を受けているわが国は遠い地にあり、中国外縁の海を守る役割を果たしている。
私の祖先は昔から自ら甲冑を着て山や川を越え、一か所にとどまることがなかった。東国においては毛人の55国を征し、西国においては衆夷の66国を服属させ、海を渡った北方の国では95国を平らげた。皇帝の威光は広くわが国に溶け込んでおり、わが国の国土は広大である。
わが国は先祖代々朝貢してきました。
私は愚か者ながら、祖先の偉業を継承し、人々を統率して天極である宋に従っている。
宋へ向かうにあたっては、百済を経由する航路を使っている。
ところが、非情な高句麗はその百済を征服しようとして両国の境界に住む人々に対する略奪や殺害を行っている。
そのため、わが国が朝貢するルートが遮断されることもある。
宋の臣下であるわが父・済は高句麗が朝貢ルートを遮ることに憤っており、100万の兵を率いて高句麗遠征を試みた。
しかし、相次いで父と兄が亡くなったため、成功しなかった。 (『記紀』によれば、興=安康天皇の跡を継いだ武=雄略天皇は、兄の殺害に関与した豪族を押さえつけたとされる。) 私は喪に服しているために兵を出せず、高句麗との戦には勝てなかった。
今こそ兵士を鍛え、父と兄の遺志を継ぐときである。 わが国の義士・勇士・文官・武官もともに力を発揮して敵と刃を交えようとも、命は惜しくない。 もし皇帝がわが国を支援していただけるならば、高句麗という強敵を倒し、朝鮮半島の乱れを収束させ、祖先の業績に並びたい。
勝手ではございますが、私はひそかに開府儀同三司を名乗り、その他の諸将も仮の職位を名乗って宋に忠義を尽くしている。」
以上の上表文を受けて、順帝は武を「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に任命した。
その後、倭国と中国皇帝との対外交渉は厩戸王・推古天皇の時代まで150年ほど途絶える。
倭の五王の系譜は断絶、6世紀のはじめごろに即位した継体天皇から始まる王統は、倭の五王とはほとんどつながらない。
継体天皇は15代応神天皇の子・稚野毛二派皇子の5世孫。
③倭の五王(5世紀)ごろの埴輪の衣装は中国の衣装に似ていないと思う。
・倭の五王 (最後の倭の武王は雄略天皇と考えられている。雄略天皇の稚武尊と一致、日本書記には天皇が身狭村主青を宋に派遣したなど)
そのころの埴輪はズボンをすそのあたりで縛る男子像や、スカートを広げる女子像には中国の影響がある。
・中国の服装は男女ともに上衣下裳
人物像は朝服令服等盛装が多い。
男子も裳をつけている。
本にはこの埴輪の写真が掲載されているが、これは中国の衣装に似ているだろうか?
VIDEO
上の動画1:55あたりで唐代の永泰公主墓の女子群像がある。
「中国の服装は男女ともに上衣下裳」と原田氏はおっしゃっているが、たしかに女子群像は上衣下裳のように見える。
2:12辺り、中央の女性の衣装が分かりやすいかもしれない。
しかし、埴輪の女子像の裳はプリーツスカートのように見え、衣の打ち合わせなどを見ても、高句麗壁画古墳に描かれた女子像のほうがより似ているように思う。(ただし打ち合わせが逆)↓
VIDEO
男子はさまざまな服装をしている。 下の動画8:56あたりの人物は膝のあたりを紐でしばっているようにもみえるが、よくわからない。
VIDEO
唐の男性の服装は以下の動画13:56あたりにでてくるが、埴輪の男子の服装とは異なっている。
VIDEO
・中国古代人の服装
男子
頭に幞頭(絹織物の冠り物)前後に二脚の垂飾 前脚は左右の耳下に垂れ、アゴ下で結ぶ。後脚は後ろに垂らす。
女子 冠り者の制はない。高髻、垂かん(漢字が変換できませんでした。すいません。)など。 高松塚の女子像は垂かんの一例
・古来中国人は種々の装飾に日・月・星辰・霊鳥の図像を採用し、辟邪求服の祈願をこめた。
これが墳墓にもおよび、周囲の異民族にも影響を与えた。(高句麗、四神塚など)
④永泰公主墓
・永泰公主墓
女子・・・様々な髪型。上衣の上に帔(ストール)、下には長裙(令服のときは裳といい、平常は裙という)で靴をのぞかせている。 上の動画14:52辺り、スカートのすそから上向きに尖った靴のようなものがみえている。
男子・・・頭に幞頭をかぶり、衣袴の服装、上に長袍、履をはく。
袍
おそらく被葬者供養の行列だろう。 人物は杯盤、燭台、団扇,払子(はたきの様なもの。寺院の僧侶などが用いる)、如意などを持っている。
如意を手にした稚児文珠像
日・月・星辰・建築・樹木が描かれる。石槨にも男女人物の立像が線刻されている。
④高松塚古墳壁画
男子
頭に幞頭をかぶり、中国隋唐以降の上衣下袴の上に長袍
笠を上げ、供物をもつ。繖蓋(きぬがさ)牀机(折り畳みの椅子)をもつ。
リンク先にある唐の幞頭には垂飾があるが、日本の漆紗冠にも垂飾があるようにもみえる。
(下の写真、向かって左から2人目の人物)
原田氏は牀机(折り畳みの椅子)とおっしゃっているが、床几ともいうようである。
女子
冠を被らないで垂かんの髪型。明らかに中国風の上衣下裳
靴を蔽い隠している。
団扇、如意を持つ。
永泰公主墓のほか、蘇思勗墓の壁画に一婦人の後ろに如意を取って起立する一侍男が描かれている。
供養の行列を描いたものか。中国に起源をもつ風俗だろう。
・冠位十二階は隋のものとはずいぶん違っており、推古朝の官位十三階は唐制を踏襲していた。
朝鮮の影響かとおもったことがあった。
・海獣葡萄鏡は唐のもの。7世紀ごろ。高松塚もそのころ。
漢の植民地があった朝鮮半島の楽浪郡では漢代の漢式鏡が多数出土している。三国時代には少ない。
高松塚被葬者の国籍を察する尺度となる。被葬者は日本人。
高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡
朝鮮の三国時代とは、朝鮮半島および満州に高句麗(前1世紀頃 - 668年)、百済(4世紀前半? - 660年)、新羅(前57年 - 935年)があった時代のことである。
漢は中国にあった王朝の名前で、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)がある。 海獣葡萄鏡はかつて漢代の中国で製作されたものと考えられていたが、
1897年に三宅米吉が、寺社に伝わる海獣葡萄鏡は推古朝以降に唐との交流で伝来したものではないか、海獣葡萄経は唐代(618年 - 907年)の鏡ではないかと疑問を呈した。 三宅がそう考えたのは、社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは考えられない、というものだった。 日本に現存する海獣葡萄鏡は以下のとおりで、唐代に創建された寺社が多い。()は創建年 東大寺正倉院(756年)
東大寺三月堂(733年)
香取神宮(?)
大山祇神社(594年)
法隆寺(607年)
春日大社(768年)
原田淑人氏は高松塚古墳から出土した海獣葡萄鏡は唐のものであるとし、 朝鮮半島では漢代に漢式鏡が出土しているが、三国時代には海獣葡萄鏡の出土例が少ないので、 高松塚は朝鮮半島よりの渡来人を葬ったものではなく、日本人を葬ったものだと考えておられるようである。
・高松塚は墳墓の規模が小さい。壁画人物も少数。生前栄華を誇った人物とは思われない。
・唐代の中国文化に興味をもつが、政治的にはあまり頭角を現していない貴人ではないか。
これについては何度も述べたが、高松塚は石室の薄葬令《646年)以降の古墳と考えられるが、薄葬令以降の古墳の中では規模が小さいとはいえず、したがって生前栄華を誇った人物である可能性はある。
薄葬令以降で、高松塚古墳より大きい古墳(直径23m以上)は赤径11.5尋でしめす。
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長22m・高さ4m
※石敷・砂利敷部分を含むと32m
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方10m
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西58m・高さ9m
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長70m※上円下方墳と見做す場合・高さ48m
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長19.5m・高さ4m
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径23m・高さ5m
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径13.8 m・高さ3.3m
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・ ・・方18m・高さ10m
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ ・・方19.3m
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径20m・高さ4.3m
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・・・対角長30m
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ ・・方7.6m
※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・・径16m
・飛鳥の地にゆかりのある人物。服飾に飛鳥の古式を遺存したのではないか。
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VIDEO キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影 (撮影可)
よりつづきます~
梅原猛氏は壁画を描くのは、「被葬者が怨霊であるためではないか」と述べておられた。 その理由は、「葦原中国を天孫に譲った」大国主を祀る出雲大社、「蘇我入鹿に責められて子孫が全員自殺した」聖徳太子を祀る法隆寺のいずれにも壁画があるということだった。
松本清張氏は梅原氏とは意見は違うが、
「法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。壁画を描くのも異端である。」
というような旨のことをおっしゃっていた。
唐において、古墳に壁画を描くのはありふれたことだったのか。 壁画のない古墳もあるのか。あるとしたらどのくらいなのか。 ちょっと調べてみたがよくわからなかった。
そうではあるが 「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」で、長広氏は唐の壁画墳の被葬者について記しておられた。 そこで、今回はどのような人が唐の壁画古墳に埋葬されたのかについて、みてみることにしたい。
「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
1⃣唐の壁画墳の被葬者について
①執失奉節
658年埋葬。
父は突厥の酋長。唐高祖の皇女(九江公主)が降嫁している。
執失氏には、「執失奉節墓誌」と「執失善光墓誌」が存在する。
執失善光の曽祖父(思力から見ると祖父)は淹といい、祖父(同じく父)は武。
両者とも突厥のエルテベル(突厥支配下の首領の称号)で。世襲。
太原で李淵が起兵した際に数千騎を率いて長安制圧を援助している。
この功績によって、執失淹とその子の武は、高祖から金紫光禄太夫・上柱国の位を受けた。
『通典』巻一九七「辺防十三 突厥上」では、「思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した」 とある。
墓誌の記述では「思力が太宗に策をもたらした」「太宗は突厥滅亡後に思力と血を啜って盟約を結んだ」と記されている。
723年に作られた「執失善光墓誌」には、「高宗即位直後に起こった房遺愛の変に関わったとして失脚した、思力の名誉回復の意味合いがあり、善光が思力に成り代わって太宗の陵墓、昭陵に陪葬された」とある。
②趙澄之
696年埋葬
③李爽
668年埋葬
銀青光䘵太夫・守司刑・太常伯・朝臣
李爽(592-668)西安市雁塔区、李爽の字は乾祐、京兆長安の人。
627年に殿中侍御史となり、長安令、治書御史などを歴任した。
中書令の駲遂良とは不仲で、李爽が崔擢を尚書に推薦したが拒否された。
その後崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
墓は西安市の南郊外の羊頭鎮にあり、鄭氏と合葬されている。
墓は全長24.5m。墓には25の壁画がある。
④ 永泰公主
706年埋葬
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。
700年、永泰郡主に封ぜられ、食邑千戸を受けた。
武承嗣(武則天の甥)の子の魏王武延基に降嫁した。
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。
『大唐故永泰公主誌銘』によると、兄と夫の刑死でショックのため流産し重体となり、翌日薨去したとある。
705年、中宗が即位すると、永泰公主に追封された。706年、乾陵に陪葬された。
⑤韋泂
708年埋葬
韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去 。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。
韋泂の姉の韋皇后は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。
中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流されそれに随行。
705年、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。
710年、自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺し、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。
間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。
韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。
韋泂は708年に埋葬されているので、708年までに16歳で死亡したということになる。 708年に16歳で死亡したとすれば、生年は692年ごろである。
⑥薛氏
710年埋葬 ※中国では女性の場合、実家の氏を名乗る。
太平公主(則天武后の娘)の次女。万泉県主。
薛氏の母、太平公主について、ウィキは次のように述べる。父は唐の高宗、母は武則天(則天武后)。
本名を李令月とする説もある。
高宗の末娘として生まれ、両親に寵愛される。
681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。
夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死。
690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。
病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執ると、武則天政権の一翼を担う。
武則天が病に倒れると、その愛人・張易之、張昌宗兄弟が専横を極めた。
705年、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させる。
その後宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復する。 張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させた。 710年、武三思は安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と関係を持つ。 不倫の暴露を恐れた安楽公主は韋后と組んで中宗を毒殺した。
韋后、温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡とした。 太平公主は甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をこ誅殺。
李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させる。
太平公主、皇妹となり、万戸の封を与えられ、息子たちも王に封ぜられた。
宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極め、皇太子の李隆基(のちの玄宗)と対立を深める。
712年、睿宗が皇太子の李隆基(玄宗)に譲位。
公主は玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。
「681年、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生む。」 とある。 薛氏はこの二女のうちの次女ということだ。「713年、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。」 とあるが、薛氏は710年に埋葬されているので、この時すでに母よりも早くなくなっていたということになる。
「690年、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑。
太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生む。」
とあるので、薛氏の生年は681年から690年ということになる。 次女ということなので、682年から690年としてもいいだろうか。
そして薛氏の没年はもっとも遅くても埋葬年の710年になる。
ということは薛氏は20歳から28歳という若さでなくなった ことになる。
⓻薛莫と妻史氏
728年合葬
右驍衛大将軍・雁門県開国公・上柱国・左万騎使
⑧馮潘州
729年埋葬。贈潘州刺史。宦官・高力士の父。
馮潘州の子・高力士についてウィキは次のように記す。
生没年 690年~762年
もとの姓は馮、諱は元一。
唐に降伏し、耿国公に封じられた隋末の群雄の馮盎の曾孫。祖父は潘州刺史の馮智玳。
父は馮君衡(馮潘州ともいうのだろうか)。母は麦鉄杖の曾孫娘。
少年時代に去勢し、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名の少年とともに、嶺南安撫討撃使の李千里(呉王李恪の長男)により武則天に献上された。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。
(このあたりの事情は
684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名したとある。
このとき馮元貴(高元珪)も高姓に改名した。 697年、馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑され、武皇后が宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。 つまり、高延甫の弟が馮元儀(高力士)であり、 馮元貴( 高元珪)は彼らの弟。 高延甫・ 高力士・高元珪は兄弟という事ではないかと思う。(まちがっていたら指摘お願いします。)
武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となった。 高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つ。
1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。
景龍年間に皇子時代の李隆基と交流する。
710年の韋后討伐の政変に協力し、朝散大夫・内給事に任じられた。
玄宗の即位後の713年、太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光禄大夫・行内侍省同正員に任じられた。
開元年間に入って右監門衛将軍・知内侍省事。
730年、政敵・王毛仲の排除を玄宗に進言。
731年、王毛仲は左遷され、自殺を命じられた。
738年、皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李璵(後の粛宗)を勧め、李璵が皇太子となった。
冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となる。
天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い自宅に戻る。 748年、驃騎大将軍。
752年、王鉷の弟の王銲と邢縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、邢縡を斬る。
安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。
粛宗(李亨、もとの名を李璵)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。
760年、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時、李輔国を叱りとばしてその危機を救うが、巫州に流された。
762年、恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し血を吐いて死去した。
⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。
ウィキペディアに楊思勗(ようしきょく)という人物の頁がある。 ウィキペディアには「もとの姓は蘇」と記されているので、楊思勗と蘇思勗は同一人物と思われる。 楊思勗は740年に死亡しており、蘇思勗は745年に埋葬されているが、 永泰公主は701年に死亡し、706年、乾陵に陪葬されているし 馮潘州(馮俊恒)は697年に亡くなって、729年に埋葬されているようなので、死亡年と埋葬年外れるケースがある。 またウィキペディアには「楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進している。」とか「内侍省に勤めた」などともあり、長広氏の記述と一致する。
もとの姓は蘇であったが、楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。
707年、中宗の太子である李重俊が、武三思・上官婉児の討伐を名目に挙兵し、中宗に迫った時、
宮闈令であった楊思勗が、李重俊軍の先鋒総官の野呼利を斬り殺した。
李重俊の挙兵は失敗に終わり、楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進。
710年、李隆基(後の玄宗)に従い、韋皇后の討伐に加わって功績を立て、右監門衛将軍に任じられる。
722年、安南の首領である梅叔鸞(梅玄成)が反乱を起こし、32州を制し、衆40万を号して「黒帝」と称した。
梅叔鸞は、林邑国・真臘国と通謀して、安南府を陥落させた。
楊思勗が討伐を命じられ、梅叔鸞を捕らえて、党類も全て処刑された。 724年、覃行璋が反乱を起こした。楊思勗は覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺した。輔国大将軍に昇進。
玄宗の封禅の時に従い、驃騎大将軍になる。
726年、邕州の首領・梁大海が数州とともに反乱を起こした。楊思勗が討伐し2万人余を殺し、京観(敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とする風習)とした。
728年、瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。
陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。
楊思勗は何遊魯と馮璘を殺し、6万人を殺し、莫大な財を奪う。
楊思勗は捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せた。
739年、内給事の牛仙童が張守珪から賄賂を受け取っていたことが判明した。
玄宗に命じられ、楊思勗は彼を数日縛りつけた上で、その心臓を取り出し、手足を断ちきり、肉を切り裂いて食したと伝わる。
740年、80余歳で死去。
⓾雷府君婦人宋氏
745年埋葬。
⑪張去奢
747年埋葬。少府監。
張去奢について検索すると、中国版ウィキペディア「張去奢- 維基百科,自由的百科全書」がでてくる。
これを日本語に自動翻訳するとタイトルは「チャン・クシェ」となり、本文には「張去奢」ではなく「張曲社」「張秋社」とでてくる。 しかし中国語の記事では「張去奢」となっているので、「張曲社」は「張去奢」の事だと思われる。
張去奢(688年—747年),字士則,唐朝官員,郡望范陽(今北京市西南),祖籍南陽郡西鄂縣,定居京兆萬年縣。
張去奢曾祖父張立德,官至秦城都尉;祖父張崇,為延州刺史;父親張守讓閬州司法、贈涼州都督、兵部尚書,母親竇氏是唐玄宗的姨母。張去奢開始擔任右衛率府倉曹參軍。開元初年,歷任左衛率府長史、左金吾衛長史,太子司議郎、右贊善大夫、秘書丞、率更令、郢州沁州二州刺史、殿中少監。居宅在長安安業坊。哥哥張去惑、張去疑、弟弟張去逸、張去盈皆受殊榮。開元二十一年關中久雨害稼,京師缺糧,人多菜色,張去奢官拜京兆尹,[1]他和張去逸、張去盈同時三品,故號為三戟張家。加銀青光祿大夫,封范陽縣伯。開元二十八年轉任右金吾衛大將軍、少府監。天寳六年(747年)三月十二去世,年六十歲,十月初七日葬。諡號惠,妻子南安龐氏,有子張沔、張演、張泌。
1953年於渭城區發掘出張去奢墓,為斜坡道磚室墓。墓道、墓室內均發現壁畫,內容為青龍、白虎等。出土墓誌及陶器多件。張去奢墓誌銘為韋述撰,裴冕書、楊嵒刻字。正楷。志石方形,志文35行,邊長87.5厘米。現存西安碑林。新唐書誤記常芬公主的駙馬張去盈為張去奢。
ウィキペディアを自動翻訳し、まとめたのが以下。
張曲社(688 ~ 747) は、唐代の役人で、范陽県(現在の北京市の南西) の司令官。
張曲社の曾祖父、張立徳は秦城の船長、祖父、張崇は兗州の知事、父の張寿は朗州の裁判官、涼州の知事、省の大臣。
母親の竇は、唐の玄宗皇帝の叔母。
張曲社は右衛兵として働き始め、曹操を軍に導いた。
開元開元(開元、713年12月~741年12月/唐の玄宗皇帝李隆基の治世名)の初期、
彼は左魏公邸の石長官、左金武衛兵の石長官、思宜郎公、ヨウザンシャン博士、程書記、林庚陵、営州、欽州の知事を歴任した。
宮殿の少建。 (少建が何を意味するのかわからない。役職名?宮殿を建てた、という意味?) 長安の安寧坊に住んだ。
兄の張曲虎、張曲儀、弟の張曲芸、張曲英は全員この栄誉を獲得した。(この栄誉を獲得したとはどういう意味か?) 開元 21 年(733年)、関中に長雨が降って農作物に被害があり、都は食糧不足で人も食糧も多かったので、都の官吏だった張曲社は趙允に敬意を表した (これも意味がわからない。)
張逡と張饕はともに三位だったため、三司張家とよばれた。
張曲社は殷清光魯医師、范陽県の伯の称号を与えられた。
開元28年(740年)、楊進武威将軍・少府監に転任。
天宝6年(747年)3月12日に60歳で亡くなり、10月7日埋葬された。
諡名は恵、妻は南安出身の龐、息子に張密、張燕、張碧がいる。
1953 年に渭城区で張秋社の墓が発掘された。これは坂道のレンガ室の墓だった。 壁画は墓の通路や墓の内部で発見され、緑の龍や白虎などが描かれていた。
多くの碑文や土器が出土した。
張曲社の碑文は魏叔が書き、培銘と楊燕が刻んだ。ブロック文字。
石は正方形で、文字が 35 行あり、一辺の長さは 87.5 cm 。西安に現存する石碑の森。
『新唐書』には、長芬公主の妃である張曲英が張曲社と誤って記録されている。
⑫高元珪
756年埋葬。宦官高力士の兄。明威将軍検校左威衛将軍。
冯元珪(684年—755年),即高元珪,唐朝将领,高力士的二哥,冯君衡的次子。
生平
684年,冯元珪出生于潘州城西。697年,冯君衡为万国俊诬陷谋反,被诛。因武后让内侍省宦官高延福收其弟冯元一为养子而获赐姓高,改名高力士[1][2],冯元珪也因此改姓高。高元珪讨海盗,加授柱国,授川果毅,转任鸿门折冲。唐玄宗开元十九年(731年),高元珪加勋柱国,迁领军郎将,任金吾中郎等职。开元二十八年(740年),高元珪任右司御率,左威卫将军,加紫绶。天宝十四年(755年)高元珪于长安去世,年七十二岁,翌年春葬东郊龙首原,赠陈留郡太守。高元珪长子高承龙任左卫兵曹参军,次子高承秀任左卫率府仓曹参军,求苏预为其父撰碑文。
以下はこれを自動翻訳してまとめたもの。
高元珪(684 ~ 755 年) は、高元貴としても知られ、唐時代の将軍で、高力士の次弟で、馮俊恒の次男。
684年、高元珪は潘州市の西部で生まれた。
697年、高元珪の父・馮俊恒は万国君によって反逆罪に問われ処刑された。
武皇后が地方の宦官高延甫に弟の馮元儀を養子にするよう頼んだ。
馮元儀は高姓を与えられ高力士と改名した。 このとき馮元貴も高姓に改名した。
高元珪は海賊と戦い、祝国、伝国儀を授与され、紅門哲忠に移送された。
731 年、高元貴は荀竹に加わり、軍を率い、金武忠郎などを務めた。
740 年、高元貴は楊氏の皇帝、左の衛微の将軍に任命され、紫綬章を授けられた。
755年、高元貴は長安で72歳で亡くなり、翌年の春に東郊外の龍寿園に埋葬され、陳柳県知事に献上された。
高元貴の長男、高成龍は左衛に任命され、曹操を入隊に導き、次男の高成秀は左衛に任命され、曹操を従軍に導いた。 父親のために碑文を書いた。
⑬高克従
847年埋葬
宦官高力氏の5世孫。義昌軍監軍使。
宦官なのに子孫がいるの?と思ってしまうが、宦官は養子をとることが一般的であったようだ。
”唐・宋においては、宦官は養子を取って家を継がせると共に宦官とし、宦官が世襲化しているのが特徴です。
代表的なものとして高力士の家があり、『唐代墓誌彙編続集』所収の「故義昌軍監軍使正議大夫行内侍省掖庭局令上柱國賜緋魚袋渤海高公墓誌銘」にはおよそこのように書かれています。
公の諱は克従、字は師倹、開元年間の開府儀同三司・内侍監・斉国公・知省事の力士が公の五代前の先祖である。公の曽祖父の閎は力士の曾孫である。祖父の秀琪は内給事で緋魚袋を賜り、父の忠政は内侍省内府局丞であった。
公は幼くして宮中に仕え、長じて帝に気に入られた。
大和の初め(827)に内養に任命され、まもなく枢機に異動となり、師官補佐の激務をよく勤めて高く評価された。
大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
開成の初め(836)より、地方の軍は制御し難く吐蕃が国内を脅かしたので、善良で有能な人物を選んで節度使を監督することになった。
二年正月九日、公は適任者として選ばれ監軍となると、任地の城塞で衆望を集め、吐蕃の情勢を調査して明らかにした。党項とは三百年来互いに殺戮を繰り返して襲撃は止むことがなく国境警備の兵は疲弊していた。公は主将と共に党項を懐柔すると同時に、法を厳格にして威を示した。帝から交渉の全権を委ねられた公は「敵対関係を棄てて、牧草地は譲り、互いの行き来は妨げない」という条件で講和した。その成功により褒め称える詔書が出されてより一層頼りとされた。撫綏すること五年、人々の弊害を除き辺境を安定させた。
会昌元年(841)冬に都に上って参内し、二年正月には翰林副使を拝命した。
三年三月に染坊使になると命を奉じて宣諭するなど、その活躍は記しきれないほどである。
会昌四年(844)に上党で反乱が起こると近隣の軍に討伐を命じたが、これを纏める人物が必要となった。その年七月十日、公は義昌監軍に任命され、河隍に到着すると日夜休むこと無く主将と事態の収拾に努めた。数ヶ月経って主将が異動となると、公は臨時に軍務を行うよう命じられた。州の人はみなこう言いあった。
「義昌軍が創設されて以来、監軍が自ら軍権を握ったことは無い 。上手く行くだろうか。」
公は陣の出入り口に軍の指揮官を置き、親戚と付き合いを疎遠にし縁故者を地位に就けないようにして、これを規則として定めた。公は感嘆して言った。
「草が風に靡くように水が器に収まるように、軍律は行き届くものだ。理に背かなければ兵たちはよく従うであろう。」
それから公はこの地域に礼楽を導入して仁義をもって人々を慰撫したので、教化が行き渡り人々は穏やかになり、「殺伐としていた河北の地は、長江の民が住んでいるかのごとく穏やかだ。」と言われるようになった。
公は日夜善政を行うため思案を廻らし、他人の不安もわが事のように思案したため、心労が重なり心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。享年六十三。
夫人の戴氏は賢く徳があり、何年も家を空けていた公に代わって欠けること無くよく家を治めた。
公には二子がいる。長子は公球といい義昌軍押衙、次子は公璵で行内侍省雲騎尉上柱国である。
大中元年(847)十月五日に万年県滻川郷鄭村に埋葬し、この文を石に記す。”
2⃣まとめ
①執失奉節
奉節の父の思力は唐に敵対する使者として来朝したため、執失氏が長安制圧の際の縁を反故にしたことを引き合いに太宗は思力を叱責し、拘束した。
②趙澄之 ?
③李爽
崔擢が罪を犯すと李爽も責任をとらされて免官となった。
④永泰公主
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣・張易之・張昌宗兄弟を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。
⑤韋泂
16歳で死去。
⑥薛氏
薛氏は20歳から28歳という若さでなくなったか?
⓻薛莫と妻史氏 ?
⑧馮潘州
馮俊恒(馮潘州)は反逆罪に問われて処刑された。
⑨蘇思勗
745年埋葬。銀青光録太夫・行内侍員外。
⓾雷府君婦人宋氏 ?
⑪張去奢 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。
⑫高元珪 調べた限りでは特に不幸な出来事はない。
⑬高克従
大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。
梅原猛氏は壁画を描くのは、「被葬者が怨霊であるためではないか」と述べておられたが、
怨霊になる条件は、「政治的に不幸な死を迎えた」ことである。 この条件にはっきりあてはまるのは13人中5人(①執失奉節 ③李爽 ④永泰公主 ⑤韋泂 ⑧馮潘州)である。 もうすこし調べてみる必要はあるだろうが、この結果から、 「中国において、墓に壁画が描かれたのは、被葬者が怨霊であるケースである」とはいえない。
よりつづきます~
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」のメモと、感想を記したいと思う。
「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
使える写真があまりなく、わかりにくいかもしれない点はお詫びします。
①唐の壁画墓
・壁画墓の被葬者は唐帝質の皇女、皇后の弟、その他の貴族、高官、その親族が多い。
・造営年代は658年~847年。7世紀から8世紀に多い。
・中国の帝陵は巨大だが発掘調査をおこなっていない。
”秦の始皇帝の墓の近くにある兵馬俑はたくさん出土していて、考古学者が発掘し、研究をされてきました。しかし、兵馬俑は発掘できても、始皇帝の墓は掘り起こせないと言われています。なぜなら、始皇帝の墓は約30Mの深さがあり、さらにそこに到達するまでには有毒な水銀の大海があると言われています。そのため、現在に至っても発掘を進めることができないと言われています。” https://chisapo-academy-blog.jp/2016/04/01/%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E7%99%BA%E6%8E%98%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A7%A6%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E9%99%B5%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%BE%E3%81%A8-2/ より引用
②唐代壁画墳
❶単室墓
山西省太原市南郊金勝邑5号墓
塼築(レンガ構造)の墓室。南面する。東西2.07m、南北2m、高さ2.1m。 方錐形天井(ピラミッド形)中国の伝統的な形
男女1対を合葬
海獣葡萄鏡(直径13cm)・開元通宝銭・サッサン・ペルシャ銀貨 三彩陶器はない。
築造は7世紀末
壁に3ミリの漆喰をぬって、1幅ごとに紅色の枠取りを描く。 壁画は墓室 馬夫、馬、駱駝(東)牛車(西)北にあり、樹下老人図(東、北、西にまたがる)全部で10幅。
人物は31~35cm
描法は稚拙
(と書いておられるが、本に掲載されている写真を見ると、稚拙にはみえない。高句麗壁画古墳のような荒いタッチではなく、高松塚古墳壁画のタッチに似ているように思う。)
山西省太原市南郊金勝邑4号墓
墓の構造、規模、壁画の構成、年代は5号墓と同様。
東、西壁の南端に侍女図が対照的に描かれている。
南壁墓紋に男侍像。
墓頂に四神図。
山西省太原市南郊金勝邑6号墓
頂点に紅蓮華紋、その下に四神、東西壁丈夫に日月星辰
李爽墓
規模が大きい。
長さ20.6mの墓道が傾斜して地下7.8mに達する。
甬道(石畳の小道)がある。 墓室は東西4.3m、南北3.9m、高さ6.5m
墓道・甬道・墓室に壁画
左右壁に侍衛官、朱色の楼門、腰をかがめ笏をささげた分官、侍女。
墓室の壁画・・・柱間の様に枠取りをして、4つの柱間を作る。柱間には一人の人物。
器物を捧げる婦人、笛や排管を奏する婦人 身長は1.3mから1.5m
墓道の人物蓮見筆の輪郭のみ。墓室の人物は彩色あり。
墓誌によれば埋葬年は668年。
初唐様式。
❷前後二室墓
韋泂墓
※韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。
708年築造 前室・後室がある。
墓道(15.3m)・甬道(4.6m)・前室(3.3m✖3.4m✖5.4m)・甬道(4.7mの斜面と7.3mの平面)・後室(主室/4.3m✖4.2m✖5.5m)に壁画が施される。
壁画は朱色で描いたあと、墨筆で輪郭を描く。
墓道は枓栱・朱柱を並べて描く。 柱間には東壁北側に青龍、南部に朱雀、西壁北側に白虎、南部に朱雀をえがく。 本には図がないが、たぶん下図のようなレイアウトになっているのかな、と思った。(斗栱・朱柱はどのようになっているのか、長広氏の説明だけではわからないので図には描いていない。)
唐の単室墓は墓室天井に四神図を描くことが多いが、規模の大きい韋泂墓では玄武をのぞく青龍・白虎・朱雀を墓道東西壁に配置している。 永泰公主墓でも青龍白虎は墓道東西壁に描かれている。朱雀、玄武は報告にない。 まとまった四神図として配置することが重要視されていない。
VIDEO
上の動画7:10あたりで、墓道壁に大きく描かれた青龍白虎が登場する。
墓門上部に楼閣図。永泰公主墓や李爽墓にもある。
永泰公主墓の例は、上の動画7:30あたりの建物の図がそれだろうか。
甬道は男侍の群像。壁上部に長方形の格子(斗栱かもしれない)、その中に花鳥図、下部に樹木、草花。人物像は不明。
後室への甬道には天井部に雲文と鶴。 後室壁画は斗栱と柱を描く。柱間には人物像。
北壁は三幅で侍女、男侍、侍女 生え際の毛髪も細かく描かれている。
永泰公主墓
乾陵の陪陵のひとつ
陵は皇帝や国君(世襲により国家を統治する最高の地位にある人のためのものと定められている。
諸王や公主(皇帝の息女)を陵とは呼ばない。
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。
VIDEO
動画11:16あたりに永泰公主墓の全体図が示されている。 へたくそな図を描いてみた。
南面 全長(水平距離)・・・約87.5m。
最も深いところ ・・・約16m。
上の動画で何分あたりのところにでてくるかを()内に示してみたが、まちがっているかもしれない(汗)。
墓道・・・・・・・・約23.35m(6:48)
5つの過洞、 6つの天井の間・・・水平距離は約33m。
本調査対象の壁画は,墓の入口から遺体を安置した部屋(後室)に通じる通路のうち,図1に矢印で示した第二過洞の東壁に描かれたものである。
とあり、この記事のp2に図が示されている。 この図を見ると、スロープになった部分のことを過洞というのかもしれない。第一甬道・・・約12.5m
前室・・・・・ほぼ方形(東西4.9m、南北4.7m、高さ5.35m)天井は尖頂。
第二甬道・・・約6.5m、中門に石門あり/動画16:49)を通って後室へ。
後室(17:29)はほぼ方形。東西5.4m、南北5.3m、高さ5.5m。尖頂。
前甬道・前室・後室 塼築構造 床にも方塼
後室 西・・・高さ20cmの基壇、その上に石槨(縦3.9m、横2.8m、高さ1.4m)
侍者(男女)・草花・花喰鳥などの線刻画 (19:21)
※石槨の線刻画は韋泂墓、韋頊墓(718)にもある。 この石槨の中に棺をおさめる。
壁画
墓道・・・残存壁画は20mほど
東壁・・・武士 (7:00)
7m以上ある青龍図 (7:09) レンガ造りの門をもつ楼 (7:29) 長い土塀・土塀越に山水、樹木 (7:37) 5人づつ、5組の武士 (7:34)
二人の馬夫(中央アジア人。目が大きく鼻が高い。)と馬、武器たて (8:03?)
西壁・・・剥落がひどい。白虎 (7:09)
5つの過洞
第一、第二・・・宝相花(菱花文、複合バルメット花文)
第三・・・格子天井 十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。
第四、第五・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文
第五・・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文、荷を担ぐ人物
甬道
格天井 ・・・十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。 (9:25)(10:59)
高松塚出土の透金具とほぼ同じデザイン
どちらも八弁 8つのC字形モチーフがある。
中心部は永泰公主墓の者は八弁蓮華紋、高松塚は車輪石風
同じデザインと書いておられるが、永泰公主墓のパルメット花文は四角で、高松塚出土の透金具は円形である。墓誌石 (10:10)の蓋石にも複合パルメット花文がある。
パルメット花文は埋葬年時である706年に近い時点にデザインされたのかも。
このデザインの下限は715年を下回らない。
上限は704年、武周の石塔婆、順陵の大石座獅の台座
順陵 則天武后の母・楊氏《670年死亡)の墓 689年民義陵と呼ばれ、690年に順陵と改称された。製作年不明。690年頃か?
第二甬道
天井 雲鶴図、左右壁 人物図 花草 仮山(築山)
前室 (12:57)
斗栱 梁 柱
天井 天体図 (13:20)
南壁二幅・・・男侍 白袍,笏をもつ。
東南壁・・・・婦人8人と男侍1人
向かって左端(率領/女官長か。公主という説もある)持ち物はない。 その脇や背後に女官たち。玉盤(皿)・燭台・団扇・宝台・高脚杯・払子・如意・袋物などを持つ。
生え際を克明に描く、眉も細筆をかさねている。
日本の天平美人の太い眉と違う。 下書きの淡い筆線が残る。
東壁北・・・人物群像 婦人6人、男侍1人
先頭は何も持たない。(向かって右)後の6人(5人では?)は小箱・燭台・袋物・団扇をもつ。
北壁・・・二侍女 率領と侍女 侍女は高脚杯、方形の箱をもつ。
西壁・・・9人の群像 男侍1人 8人は婦人
天井…天体図 (13:20)、東に山岳と金鳥、西に月、東北隅から西南隅に書けて銀河 周壁に山岳図
主室壁画
南壁東・・・男侍1名 白衣 笏をもつ
南壁西・・・男女2人づつ 何れも男装する
東壁南・・・7人の群像
東壁北・・・7人の群像
北壁東・・・楽隊?6人群像
北壁西・・・三人
西壁・・・石槨に接して壁画の調査はできていない。
天井・・・前室と同じ 月像は残月(有明の月) (18:09)
次回へつづく~
1⃣東大はノーベル賞受賞者が少なく、京大・名大の方が多い?
ある著名な方が 「東京大学の先生は研究は大してできない。ノーベル賞も研究者は東大は少なく、京都大学、名古屋大学のほうが多い。」
とおっしゃっていた。 本当だろうかと思って、調べてみた。
2⃣2023年時点での、ノーベル賞受賞者出身大学ランキング
2023年時点での、ノーベル賞受賞者出身大学ランキングを見てみよう。
1位 9人 東京大学
1位 9人 京都大学
3位 3人 名古屋大学
4位 2人 大阪大学
5位 1人 明治大学
5位 1人 東北大学
5位 1人 埼玉大学
5位 1人 大阪公立大学
5位 1人 東京理科大学
5位 1人 熊本大学
5位 1人 神戸大学
5位 1人 北海道大学
5位 1人 東京工業大学
5位 1人 鹿児島大学
5位 1人 長崎大学
5位 1人 徳島大学
5位 1人 山梨大学
2023年時点で日本人のノーベル賞受賞者は合計28人。
上記ランキングの数字を足すと32人になるのは、二つ以上の大学に通った人がいるためである。 これを見ると卒業大学は東大が最も多い。
3⃣日本人ノーベル賞受賞者
以下、「京都大学 ノーベル賞受賞者」にあった「日本人のノーベル賞受賞者一覧」を引用させていただいた。
日本人のノーベル賞受賞者一覧
受賞年 賞 氏名等 備考
2021年 物理学賞 真鍋 淑郎(東京大卒) プリンストン大学上席研究員(受賞時:米国籍)
2019年 化学賞 吉野 彰 (京大卒) 旭化成株式会社名誉フェロー 名城大学教授
2018年 生理学・医学賞 本庶 佑 (京大卒) 京都大学高等研究院副院長・特別教授
2016年 生理学・医学賞 大隅 良典 (東京大卒) 東京工業大学特任教授(受賞時)
2015年 物理学賞 梶田 隆章 (埼玉大卒) 東京大学教授(受賞時)
生理学・医学賞 大村 智 (山梨大卒) 北里大学特別栄誉教授(受賞時)
2014年 物理学賞 赤﨑 勇 (京大卒) 名城大学教授(受賞時)
天野 浩 (名大卒) 名古屋大学教授(受賞時)
中村 修二 (徳島大卒) カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授(受賞時:米国籍)
2012年 生理学・医学賞 山中 伸弥 (神大卒) 京都大学iPS細胞研究所長・教授(受賞時)
2010年 化学賞 根岸 英一 (東大卒) 米国パデュー大学特別教授(受賞時)
鈴木 章 (北大卒) 北海道大学名誉教授(受賞時)
2008年 物理学賞 南部 陽一郎 (東大卒) 米国シカゴ大学名誉教授(受賞時:米国籍)
小林 誠 (名大卒) 高エネルギー加速器研究機構名誉教授(受賞時) 元京都大学理学部助手
益川 敏英 (名大卒) 京都大学名誉教授(受賞時)
化学賞 下村 脩 (長崎大卒) 米国ボストン大学名誉教授(受賞時)
2002年 化学賞 田中 耕一 (東北大卒) 株式会社島津製作所フェロー(受賞時)
物理学賞 小柴 昌俊 (東大卒) 東京大学名誉教授(受賞時)
2001年 化学賞 野依 良治 (京大卒) 名古屋大学理学部教授(受賞時)
2000年 化学賞 白川 英樹 (東工大卒) 筑波大学名誉教授(受賞時)
1994年 文学賞 大江 健三郎 (東大卒) 作家
1987年 生理学・医学賞 利根川 進 (京大卒) 米国マサチューセッツ工科大学教授(受賞時)
1981年 化学賞 福井 謙一 (京大卒) 京都大学工学部教授(受賞時)
1974年 平和賞 佐藤 栄作 (東大卒) 元内閣総理大臣
1973年 物理学賞 江崎 玲於奈(三高→東大卒) 米国IBMワトソン研究所主任研究員(受賞時)
1968年 文学賞 川端 康成 (東大卒) 作家
1965年 物理学賞 朝永 振一郎 (京大卒) 東京教育大学教授(受賞時)
1949年 物理学賞 湯川 秀樹 (京大卒) 京都大学理学部教授(受賞時)
3⃣少しでも在籍していればカウントする。
しかし、「ノーベル賞も研究者は東大は少なく、京都大学、名古屋大学のほうが多い。」という発言は 卒業大学ではなく、在籍して研究している大学のことであるという。
記事タイトルをよむと、名古屋大学が東京大学よりもノーベル賞受賞者が多いと思ってしまうが、
記事は2015年4月26日のもので、「2001年以降の日本人ノーベル賞受賞者13人中6人が、名大の関係者だったからだ。」とある。 ノーベル賞の発表は10月なので、「2001年から2014年までの14年間では名大関係者が多い」という話なのだ。
名古屋大学卒業者は3名、名古屋大学教員は3名。 。
京都大学の卒業者は2名、教員は4名。 東京大学の卒業者は3人。
としている。
こちらの記事は2018年の記事だが、一度でも在籍していれば「少しでも在籍していれば1つという数え方」としており、 カウントの対象は平和賞と文学賞を除く2000年以降としている。
「名大なぜノーベル賞を量産するのか 東大をも凌ぐ理由」という記事も同様の数え方をしている。
4⃣ 2023年の時点で2014年の記事を引っ張り出してくるのは不適切
記事は2014年のもので古い。現在は2023年で、2014年から9年もたっている。 こんな古い記事の情報に頼っていてもしかたがない。 2023年までのノーベル賞受賞者ひとりひとりの経歴についてみてみよう。
/の後に在籍経歴のある日本の大学名を記す。(卒業大学と同じものは省いた)
受賞年 賞 氏名等 備考
2021年 物理学賞 真鍋 淑郎(東京大① 卒) プリンストン大学上席研究員(受賞時:米国籍 )/名古屋大学①
2019年 化学賞 吉野 彰 (京大① 卒) 旭化成株式会社名誉フェロー 名城大学教授/大阪大学
2018年 生理学・医学賞 本庶 佑 (京大② 卒) 京都大学高等研究院副院長・特別教授/東京大学② ・大阪大学
2016年 生理学・医学賞 大隅 良典 (東京大③ 卒) 東京工業大学特任教授(受賞時)/総合研究大学院大学
2015年 物理学賞 梶田 隆章 (埼玉大卒) 東京大学④ 教授(受賞時)
生理学・医学賞 大村 智 (山梨大卒) 北里大学特別栄誉教授(受賞時)/ 東京理科大学
2014年 物理学賞 赤﨑 勇 (京大③ 卒) 名城大学教授(受賞時)/名古屋大学②
天野 浩 (名大③ 卒) 名古屋大学教授(受賞時)/ 名城大学
中村 修二 (徳島大卒) カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授(受賞時:米国籍)
2012年 生理学・医学賞 山中 伸弥 (神大卒) 京都大学④ iPS細胞研究所長・教授(受賞時)/ 大阪市立大学・奈良先端科学技術大学院大学
2010年 化学賞 根岸 英一 (東大⓹ 卒) 米国パデュー大学特別教授(受賞時)/北海道大学
鈴木 章 (北大卒) 北海道大学名誉教授(受賞時)/岡山理科大学・倉敷芸術科学大学
2008年 物理学賞 南部 陽一郎 (東大⑥ 卒) 米国シカゴ大学名誉教授(受賞時:米国籍 )/ 大阪市立大学・大阪大学
小林 誠 (名大④ 卒) 高エネルギー加速器研究機構名誉教授(受賞時)/京都大学⓹
益川 敏英 (名大⓹ 卒) 京都大学⑥ 名誉教授(受賞時)/東京大学⓻ ・京都産業大学
化学賞 下村 脩 (長崎大卒) 米国ボストン大学名誉教授(受賞時)/長崎医科大学・名古屋大学⑥
2002年 化学賞 田中 耕一 (東北大卒) 株式会社島津製作所フェロー(受賞時)
物理学賞 小柴 昌俊 (東大⑧ 卒) 東京大学名誉教授(受賞時)
2001年 化学賞 野依 良治 (京大⓻ 卒) 名古屋大学⓻ 理学部教授(受賞時)
2000年 化学賞 白川 英樹 (東工大卒) 筑波大学名誉教授(受賞時)
1994年 文学賞 大江 健三郎 (東大⑨ 卒) 作家
1987年 生理学・医学賞 利根川 進 (京大⑧ 卒) 米国マサチューセッツ工科大学教授(受賞時)
1981年 化学賞 福井 謙一 (京大⑨ 卒) 京都大学工学部教授(受賞時)/京都工芸繊維大学
1974年 平和賞 佐藤 栄作 (東大⓾ 卒) 元内閣総理大臣
1973年 物理学賞 江崎 玲於奈(三高→東大⑪ 卒) 米国IBMワトソン研究所主任研究員(受賞時)
1968年 文学賞 川端 康成 (東大⑫ 卒) 作家
1965年 物理学賞 朝永 振一郎 (京大⓾ 卒) 東京教育大学教授(受賞時)
1949年 物理学賞 湯川 秀樹 (京大⑪ 卒) 京都大学理学部教授(受賞時)/大阪大学・東京大学⑬
上のリストから、2001年以降の、「東京大学、京都大学、名古屋大学と関係のある人物の数」をそれぞれカウントしてみよう。 私は数を数えるのが苦手なので、番号をふっておいた😅。 数え間違いがあれば教えてほしい。
東京大学8(外国籍を除けば7)、京都大学7、名古屋大学7 (外国籍を除けば6)
※「どこ(大学、企業など)で行った研究がノーベル賞をとったのかをカウントするべきではないか」という意見もあったので、ざっとノーベル賞受賞者の経歴などを調べてみたが 在籍大学、企業が変わっても、研究者は連続して同じ研究を行っているケースも多いように思ったので、こちらのやり方でのランキングは出していない。
6⃣65年間の中の14年間のみとりあげることに意味はあるか。
また、どこで区切るかで、割合は大きく変わってくる。
2001年から2014年まで、14年しかない。 日本人ノーベル賞受賞者は1949年から2014年までの65年間で28人しかおらず、その中で14年間のみをとりあげることに意味はあるのだろうか。 1949年から2023年までで数えてみると東京大学13(外国籍を除けば12)、京都大学11、名古屋大学7(外国籍を除けば6)
自然科学の分野だけに限ると東京大学11(外国籍を除けば10)、京都大学11、名古屋大学7(外国籍を除けば6)
「名古屋大学すごい」と思うが、やはり東京大学、京都大学のほうが名古屋大学よりも多いということになる。7⃣学位取得大学でのランキング
上の記事は2018年の記事で学位(学士号・修士号・博士号)取得大学によるランキングを示している。
(文学賞、平和賞をふくむ。)
これはいえるかもしれない、と思った。
1⃣日本人は自然の音を言語と同様の左脳で聴いている?
↑ この記事には、東京医科歯科大学の角田忠信教授による研究について記されている。 内容をまとめてみよう。 記事には角田氏の研究の内容と、ライターである伊勢雅臣氏の意見が混ざっている。 角田氏の研究の内容についてはピンク色文字で、伊勢雅臣氏の意見については空色文字で示す。
①虫の鳴き声を「声」として認識できるのは日本人とポリネシア人だけ。
②東京医科歯科大学の角田忠信教授はキューバの国際学会に参加したとき、虫の音が聞こえたので、虫の名前を尋ねたが誰も聞こえないといった。 角田教授は日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるのではないか、と疑問を持った。
③人間は、左耳から入った音の情報は右脳に行き、右耳から入ると左脳に行く。
左右の耳に同時に違ったメロディーを流すと、左耳で聞いたメロディーのほうがよく認識されている。 違う言葉を左右から同時に聴かせると、右耳で聞いた言葉の方がよく認識される。 ④我々が右耳に受話器をあてることが多いのはこのため。 ⑤日本人も西洋人も、音楽、機械音、雑音は右脳できく。言語音は左脳できく。
⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。
⓻アメリカ人が虫と聞いて思い浮かべるのはモスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)などの害虫。 アメリカでは蜂はみかけるが、蚊や蠅はほとんどみかけない。 文明生活の敵とみなされたか。(伊勢雅臣氏)
⑧「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」など悪いイメージがある。(伊勢雅臣氏)
⑨角田教授によれば、日本人は動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。
⓾擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴。
⑪自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っている。(伊勢雅臣氏)
⑫角田教授によれば、血筋ではなく、日本語を母国語として最初に覚えたかどうかという点で決まるという。 ⑬日本語と同じパターンはポリネシア語でしか見つかっていない。
2⃣ビートルズは虫の声を楽器として曲を作った。
すると「西洋人にとって虫の音は雑音。日本人は虫の音を情緒在るものとして聞く。」は本当なのだろうか。
申しわけないが、私は「記事を書いた伊勢氏」の曲解だと思った。
まずは、ビートルズのSun Kingという曲を聴いてみてほしい。
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冒頭、コオロギの声と楽器の音が気持ちよくあっている。 これはコオロギの声を一つの楽器の様にして用いた例だといえるかもしれない。 すると門田氏がおっしゃる「音楽、機械音、雑音は右脳できく。」というのは正しいかもしれない。 記事を書いた伊勢雅臣氏は、記事のタイトルを「なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?」としたが、外国人にもちゃんと虫の音は聞こえている。
門田氏の研究が正しければ、日本人は虫の声を言語として聞き、西洋人は虫の声をメロディーとして聞いているという違いはあるが、日本人にも西洋人にもちゃんと虫の声は聞こえているということになる。
申しわけないが、「伊勢氏が門田氏の研究を曲解して記事を書いた」といえると思う。
↓こういう曲もある。
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リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂の飛行」は、虫の音をメロディーというよりはリズムとしてとらえた名曲である。 この曲を聴いて不快感を感じる人は多くはないだろう、と思うのだが、どうだろうか。 私は日本人なのだが、蜂がぶんぶんうなる音にはどちらかというと不快感をもっていた。 しかしこういう曲を作る人は蜂の羽音を愛おしく思っているのだろう。 そうでなければこんな曲は作れないのではないかと思う。
3⃣日本語は英語より擬声語・擬態語が多いが、最も多いのは韓国語。
擬声語・擬態語について調べてみると、日本語2000語、英語などは1000語などと出てくる。 これが正しいかどうかわからないが、もし正しければ、日本語は英語の倍ほどの擬声語・擬態語があるということになる。 (いい加減 笑)
門田氏は⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。 とおっしゃっているが、日本語に擬態語・擬声語が多いとすれば、それは日本人が自然の音を左脳で聞いて言語化しているせいかもしれない。
そういえば、雅楽をやっている友人に聞いたのだが、雅楽における楽譜のようなものを唱歌(しょうが)といい、 奈良春日大社・若宮社の祭「春日若宮おん祭」で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』であらわされるのだと教えてもらった。
これは邦楽器音を言語として表現した擬音語であるといえるかもしれない。
しかしながら、最も擬態語・擬声語が多いのは韓国語で、それは日本語の4倍、8000語もあるとされる。
門田氏の研究では、
⑬日本語と同じパターンはポリネシア語でしか見つかっていない。
ということだが、韓国語に擬態語・擬声語が多いのであれば、韓国語を用いる人々も、自然の音などを左脳で聞き、言語化しているのではないかと思えるのだが、そのあたりの研究はどうなっているのだろうか。 門田氏の研究についても、もうすこし突っ込んで確認してみる必要がありそうだ。
4⃣
昔から、多くの日本人が「西洋人にとって虫の音は雑音。」と言っていた。
伊勢氏も
⓻アメリカ人が虫と聞いて思い浮かべるのはモスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)などの害虫。
アメリカでは蜂はみかけるが、蚊や蠅はほとんどみかけない。
文明生活の敵とみなされたか。(伊勢雅臣氏)
⑧「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」など悪いイメージがある。(伊勢雅臣氏)
とおっしゃっているが、
ビートルズの「Sun King」や、リムスキー・コルサコフ「熊ん蜂の飛行」を聞いて、「虫の音を文明生活の敵とみなしている」とか「卑しむべき存在とみなしている」などと感じる人は少ないだろう。 角田氏も
「⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。」
とおっしゃっている。 門田氏の意見は次の様にまとめられるかもしれない。 日本人・・・自然の音を言語として聞いている。・・・擬態語、擬声語が多い。
西洋人・・・自然の音をメロディーやリズムとして聞いている。・・・擬態語、擬声語が少ない。
門田氏は決して、西洋人は虫の声が聞こえないとか、西洋人は虫の声は雑音にしか聞こえない、とおっしゃっているわけではない。 それでも、次のような反論があるかもしれない。 「ビートルズやリムスキー・コルサコフは例外ではないか。なぜなら、英語では虫の声を「insect noise」という。 これは「虫の雑音」という意味であると。
私は英語はからきしだめなのだが、「 noise」を自動翻訳すると「雑音」とでる。 しかし、「insect noise」を自動翻訳すると「虫の雑音」ではなく「虫の音」とでる。 「虫の音」を英語に変換してみると「insect sounds」とでる。 「虫の音」は「insect noise」とも「insect sounds」ともいうようである。
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ある人が、次のように教えてくれた。
「日本語で『虫の声』とか『虫の音』と言うと鈴虫やコオロギのなどの音なので、蚊や蠅などを含むinsect(虫)と訳したのが間違い。cricket(コオロギ)と訳して検索すればリラックスCDとか出てくる。」
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上の動画のタイトルは、「Sleep and Relaxation Nature Sounds, Crickets Summer Night - Sleep Music」 日本語に訳すと「睡眠とリラクゼーション 自然の音、コオロギの夏の夜 - 睡眠音楽」である。 コメントをいくつか拾って、日本語に自動翻訳してみた。 GanjaGriffinさん
No matter who you are, where or when you were born, we are all nostalgic for cricket chirping at night. (あなたが誰であろうと、どこで、いつ生まれたとしても、私たちは皆、夜のコオロギの鳴き声を懐かしく思います。) S MさんThe only things missing are a distant train, my parents laughing and talking on the back porch, being quiet, unable to make out their words and the smell of cut grass. I felt safe in my room, falling asleep to these sounds and smells. I remember my mom playing Gladys Knight, Memories and feeling melancholy knowing that one day, this would all be memories. Daddy is gone now and the world just isn't the same. I'll never feel as safe and protected as did then. (唯一欠けているのは、遠くにある電車、裏のポーチで笑いながら話している両親、静かで言葉が聞き取れないこと、そして刈った草の匂いだけだ。 私は自分の部屋で安全だと感じ、これらの音と匂いを聞きながら眠りに落ちました。 母がグラディス・ナイト「メモリーズ」をプレイしていて、いつかこれもすべて思い出になってしまうと知って憂鬱だったのを覚えています。 パパはもういなくなって、世界は以前とは違います。 あの時ほど安全で守られていると感じることはもうないでしょう。)
Merlyn BenitezさんThis is the only sound that genuinely feels like a night at home on a summer night. I can feel the outside humidity coming inside while the AC is still on. Best sleep sound on here! (これは本当に夏の夜の家の夜を感じさせる唯一の音です。 エアコンをつけているのに、外の湿気が室内に入ってくるのを感じます。 最高の睡眠サウンドがここにあります!)
よりつづきます~
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「朝鮮三国時代の壁画古墳ー新発掘をふまえて 金元龍」のメモと、感想を記したいと思う。
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「朝鮮三国時代の壁画古墳ー新発掘をふまえて 金元龍」における金元龍氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
使える写真があまりなく、わかりにくいかもしれない点はお詫びします。
①古代朝鮮半島の大雑把な歴史
金元龍氏の話の前に簡単に古代朝鮮半島の大雑把な歴史を確認しておこう。 これを確認しておかないと、金元龍氏の話が理解できないと思うので。
前190 衛満が衛氏朝鮮を建国する
前108 前漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に4郡をもうけて支配下に置く。4郡の一つが楽浪郡。
楽浪郡の位置は下記参照
313年 楽浪郡、高句麗に滅ぼされる。
朝鮮半島における中国の支配力が低下し、その後、馬韓は百済に、辰韓は新羅となった。
弁韓には統一王朝が存在せず、複数の王朝が存在していた。それらをまとめて任那(加羅・加耶)と読んでいる。
百済、新羅、任那の位置は下記参照
6世紀中頃、新羅、加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れる。
660年、唐、百済を滅ぼす。 668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。
892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。後三国時代に。
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。 935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。
②高句麗壁画古墳は4世紀末から5世紀初頭に始まった?
●朝鮮の古墳壁画は三国時代に始まる 最も早かったのは高句麗
三国時代には、中国と朝鮮のふたつがある。
中国の三国時代・・・中国に魏・蜀漢・呉があった時代。184年~280年
朝鮮の三国時代・・・朝鮮半島および満州に高句麗(前1世紀頃 - 668年)、百済(4世紀前半? - 660年)、新羅(前57年 - 935年)
勿論、ここでは朝鮮の三国時代のことをさしている。
●高句麗の固有墓制は玄室が地上に造られる積石塚
積石塚のもっとも発達した形はピラミッド形の将軍塚(5世紀)
高句麗という国があったのは②にも記したように、前1世紀頃 - 668年である。
高句麗の積石塚がいつごろ発生したのかは調べたがわからなかった。
●高句麗壁画古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけて始まったのではないか。
”高句麗古墳群は、4世紀から7世紀にかけて築かれた壁画古墳が中心。”http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/news/040707.htm より引用 という記事もあり、金氏の意見と一致している。
●5世紀頃より封土石室墳(土塚)が現れる。
中国の塼室墳または石室墳から発達したことが明らか。 石室の三角持送り天井は、中国では抹角藻井といい近東地方で誕生して中国に伝来されたもの。
・近東についてウィキペディアは「西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義されるアジアの地域」と記している。
この説明ではアジアのどのあたりのことをさすのかわからないが、同記事の地図をみると トルコ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリア、レバノン、イスラエルあたりの事を指しているようである。
・三角持ち送り天井は、下のYouTube動画「安岳3号墳壁画(日文)・・・」に映像がある。
●高句麗、313年に楽浪郡(漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した朝鮮半島の郡)を滅ぼした。その半世紀のちに楽浪の故地・大同江下流に南下してきたのは半世紀あと。
●369年高句麗、百済と戦う。これは五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族)による中原(異民族から隔てられる文明の中心地)の分占が始まり、それに仲間入りそれにする可能性がなくなったため。
●楽浪滅亡から約半世紀間、楽浪の故地には楽浪以外の中国系民族が住んでいて、自治権を形成していた。
高句麗はこれを黙認。
●高句麗、これを統治させるため336年に冬寿を帯方郡の故地にすまわせた。
帯方郡の位置は下記サイト地図を参照 ↓
冬寿、357年に死亡。1949年、冬寿の墓が発見される。(朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡安岳面兪雪里 安岳3号墳)
●冬寿墓は三角持ち送り天井、中国系の墓であることは一目瞭然
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●高句麗王とする説もある。
●銘文、行列図、主人夫妻肖像などは、他の高句麗壁画の平面的展開方式とは異なる。中国系ではないか。
被葬者の名前を書き残すこと自体が中国的
●石刻画・彩色画を含める装飾墳は漢代には多く造られた。
※前漢(紀元前206年 - 8年)後漢(25年 - 220年)楽浪古墳にも彩篋塚(さいきょうづか)のように、騎馬図が残っている例がある。
(写真はなし)
●中国系古墳は前室に左右の側室・翼室が付く。壁画の内容は主人夫妻、侍僕、吏卒、車馬
後漢末~三国にかけて遼東一帯に広がっていた。
●平南順川郡龍鳳里の遼東城塚 4世紀 も中国系古墳 城郭、四神などの壁画あり ●高句麗が南下するまでの大同江地方には楽浪系中国人によって少数ながら中国式壁画古墳が造営されていた。
4世紀半ばごろの高句麗人は中国系壁画古墳と接していた。
そこから4世紀末から5世紀初頭にかけて、高句麗壁画古墳が発生した。
●中国の楊泓 は高句麗壁画古墳の始まりを後漢末期(3世紀初頭)とし、その例を通溝の舞踊塚を上げる。
●楊泓の年代感、編年には高句麗古墳にみられる新古要素のうち古式要素のみをとった恨みがあり、仔細に調べると壁画発生年代をシカト上げ得ない諸要素が見られて、高句麗に仏教の伝来した372年を越えられる確かな壁画古墳の存在が革新を持って主張できない。(p270 原文まま)
「新古要素の内古式要素のみをとった恨みがあり」とはどういう意味だろうか?
↑ こちらの記事では舞踊塚を5世紀ごろのものとしている。
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● 高句麗の壁画には仏教的要素があるため、仏教伝来後と考える。
●将軍塚は413年に没した広海土王の陵、またはそのころの建造と考えられているが、玄室に壁画がない。
●壁画の風習が4世紀ごろ始まっていたとしても、5世紀の初頭には一般化していなかった。その発展は高句麗が平壌に遷都した427年以降だと思う。
●石塚が消滅したわけではない。土塚のすべてに壁画が描かれているのでもない。
壁画があるのは総数30ほど。土塚の一部。
③高句麗壁画古墳の変遷
・1期(4世紀末―5世紀) 中国を模倣し、古式要素も残すことから編年上誤解を生じさせる時期。
通溝( 中国,東北部の鴨緑江中流域にある平野の名称)・ 平壌から離れた大同江口、海岸地方に多い。
・壁画封土塚は塊石で四壁を罪、天井部は壁面と並行もしくは斜交する数段の持ち送りを内方にせり出して、最後に壱枚の板石で頂上を塞ぐ。その後漆喰を厚く塗って壁画を描く。 ・夫妻合葬用
・古新羅墓は単葬
・壁画は朱・暗赤・黄・黄土・緑青・輪郭用の墨
漆喰が乾きにくいのでフレスコ法
”フレスコは、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とする。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法だった。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B3 より引用””高松塚古墳壁画はフレスコ(ブオン・フレスコ)ではなく,白漆喰壁に絵が描かれている(フレスコ・セッコ)という印象をもった。イタリアなどの海外の壁画とは違うと感じた。〔保存修復〕 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/takamatsu_kitora/hekigahozon_kentokai/14/pdf/shiryo_3.pdf より引用”
・絵具、墨色がむらのない一色になってる。 中国壁画のように、下絵をピンで壁に差し、その穴跡をたどってゆくとか下書きをしたような形跡はない。
・壁画の内容・・・中国古墳壁画同様、前室の側室に主人夫妻の肖像と、それを取りまく侍僕を描くのが基本。
・側室の廃止とともに肖像図は玄室の正壁に移る。梅山里四神塚・双楹塚の如く夫妻を牀上に列坐させた高句麗式。
「牀」は訓読みでは「だい・とこ・ねだい・ゆか」などと読む。「寝台・こしかけ・長いす」というような意味。
・人物は一列上に並ぶ平たい正面観。その前に横向きの履(靴)が並んでいる。
”肖像は4体あり、いずれも 正面を向いて牀の上に座る。右が被葬者の男性、左3人は彼の妻妾と推定される。3人のうち の右端の女性は単独の牀に座しているが、残り2人は同じ牀の上にいる。男性と左2人の女性の前には黒い靴が揃えて置いてある点も双楹塚と共通する。 https://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_minami2005-2007_pdf/kaken_minami2005-2007.pdf より引用
とあり、金元龍氏が例としてあげておられる双楹塚にも同様の絵が描かれているのだろう。
また次の様にも記されている。
本書で取り上げる九つの古墳では狩猟塚と並んでもっとも新しく、主に四神図のみで構成される壁画古墳へ移行する時期のものである。 https://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_minami2005-2007_pdf/kaken_minami2005-2007.pdf より引用
これは、双楹塚について述べたものなので、狩猟塚も金元龍氏のいう第Ⅰ期の壁画古墳ということになるだろうか。
・安城銅大塚・龕神塚・双楹塚・三室塚は 玄室の四隅に斗栱(ときょう)を具えた柱が描かれる。この意匠は二期につづく。
・漢代の怪雲文帯
・漢鏡に見られる神像の羽根状、火焔状突起・・・梅山里四神塚の人物にある。 ・両手を前に重ねた格好・・・初期の中国仏像と同じ。
・日像、月像、四神が天井に。梅山里四神塚では人物の横に描かれている。
・三室塚・・・技巧,巧拙が違っている。(数人の画工が描いたか)
Ⅱ期(6世紀前半ごろ)
・通溝の舞踏塚・角抵塚・環文塚、平壌地方の大同郡鎧馬塚・龍岡郡星塚
・ 玄室正壁の主人夫妻を主題としている。Ⅰ期の様な静坐ではなく、生活・記録中の主人公として取り扱われている。(風俗画) ・舞踏塚
玄室( 玄室を現世の再現、延長と見ている?)
四隅・・・木柱
北壁(正壁)・・・主人公が僧侶を接待する。 東壁・・・食物を運ぶ女性と歌舞団 西壁・・・狩猟図
南壁・・・樹木
天井・・・飛天、千人、四神、人面鳥、双鶏、星辰、蓮華
前室・・・ 馬厩、馬具、馬丁
画面は平面展開 飛翔する仙人の袴の裔(すそ)が反対の方向にはねているのも不合理
怪雲文帯はない。 粗雑な唐草文帯 側面視の蓮華
木柱の梁形の上にならぶ三角文は5世紀末、6世紀初頭の中国仏像の光背を表現
空を表す変化した鳥形文
VIDEO
Ⅲ期
・将軍塚のように大きな花崗岩を使う。
・百済の扶余陵山里壁画墳・・・片磨岩板石の壁面にじかに絵を描く形式も登場
・四神が壁に
・人頭唐草、飛雲、樹木
・蓮・・・花弁から条線が亡くなる(新形式)
・四神塚、十七号墳、内里一号墳、高山里一号墳
・壁画に隋・唐の影響が見られず、六朝(呉、東晋、宋・斉・梁・陳)にとどまっているのは何故だろうか。 理由は隋唐との戦争のため、装飾墳の造営が不可能だった?
高句麗の画工たちは古来の壁画法を墨守し続けた?
どちらも事実とは考えられない。
・まとめ
1.高句麗壁画古墳は中国の影響を受けて4世紀末~5世紀初頭ごろ発生した。
2.墓室は初期には横長の前室に方形の主室が付く凸字形。前室に両翼に側室が付くのは古式。
中期には前室の幅が短くなって主室のそれと同じくなる。後期には単室が流行。従来の塊石築造とちがい、加工された巨石が板石を以って築成される傾向
3、墓室は南北主軸を基本とし、夫妻合葬用
4.壁画は壁面に漆喰をぬり、その上にフレスコが法で描かれる。後期には石面に直接描かれる。
5.壁画の内容は初期は主人公夫妻の肖像、中期には主人公を中心とした生活記録ー風俗画、 後期には四神図が主になる。
6.画法は中国との接触が反映されているが、案牀などに見られる逆遠近法、画面の平面展開などの原始性は最後まで墨守(頑固に守ること)される。 7.前期 漢式怪雲文、中期は光背形三角文、鳥形文,後期は忍冬唐草文 唐系模様がない
8.壁画は壁面、天井に描かれる。青龍は全長2mのものがある。
9.仏教的色彩は前期よりある。ほかに道教、固有のシャーマン思想も。信仰・思想の混合、融合。
・百済古墳
百済は、京城の南方→475年公州→538年扶余 百済の古墳は公州・扶余に集まっている。
④百済古墳の分布
・百済古墳で壁画があるのは公州に1基、扶余に1基。
・公州錦城洞俗称宋山里6号墳(壁画古墳)はトンネル形の塼築墳 高句麗の平地墳と違い、斜面に掘り込んだ形式
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https://ameblo.jp/snsreporter/entry-12561718924.html
トンネル式の塼築墳だが、塼築墳はとなりにある武寧王陵のみ。
揚子江南朝時代塼墓そのものだが、壁画は発見されていない。
画を描く部分のみを細土で塗り、その上に胡粉で四神を描く。
・扶余山里の壁画墳は石室墓。石室にじかに絵をかく。 四壁には四神図、天井には蓮華、飛雲など。高句麗の影響をうけている。 内里1号墳、真被里1,7号墳など高句麗後期の壁画と似ている。
https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=9318
金元龍氏は百済古墳で壁画があるのは公州に1基、扶余に1基と書いておられるが、なぜかここでは3基壁画古墳があるといっている。
⑤新羅・伽耶の古墳
・大伽耶の壁画古墳・・・慶北高霊邑右衛洞1基、栄州順興1基
・慶北高霊邑右衛洞 片袖形石室と百済のトンネル形を混同した石室
壁面に泥と漆喰を塗った上に壁画を描く。
剥落がひどく原型を残さないが、青・緑・紅・褐色で蓮華と草花文を描いたようである。 羨道天井石には高句麗式蓮華紋が点々と描かれる。(高句麗の影響)
・西北部九州の装飾古墳は、高句麗ー百済ー伽耶と伝わったのだろう。
具体的にはどの装飾古墳の事だろうか?
・新羅の壁画古墳・・・栄州の壁画古墳
石扉にはもと人物像が描かれており、羨道天井には七弁三重の蓮華が紅・黄・黒で描かれていた。
石扉には「乙卯年於宿知術千」とあり、6世紀後半ごろのものとされる。
⑥壁画古墳の終焉
・統一新羅には壁画古墳が存在しない。高句麗の滅亡とともに壁画古墳は消滅した。
①で記した年表を思い出してほしい。 668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。 金王龍氏が統一新羅とおっしゃっているのは、676年以降の新羅ということだ。
・917年に没した新羅の神徳王陵の内部が朱・白・黄・青・藍で長方形色塗り部を上下段6個ずつ配列しているが、壁画とはいえない。
・高麗時代には壁画古墳は少なくない。宋の刺戟を受けて起こった新しいアイデア。高麗時代で終了。李朝の墓は壁画を描く空間がなかった。
①の年表を確認しよう。
892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。後三国時代に。
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。
935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。
・玄陵、正陵、水落岩洞、法堂坊に壁画がある。(星辰、十二支神像)
・慶南居昌付近の石室墓 飛天像
⓻高句麗壁画と高松塚
・天井に星宿、四壁に四神と日月を描くのは高句麗壁画の伝統。
・女性が頭に巾を被らず、右袵(衿)なのは高句麗と逆。
高松塚古墳女子群像
高松塚古墳女子群像の衿の合わせ方は一般的に左前(左を合わせてから右を重ねる)と言われるが、金元龍氏はこれを右袵とおっしゃっているのだろう。
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上の動画をYouTubeの全画面で見ると衿の合わせ方は高松塚と同じように見えるのだが、下の水山里古墳は高松塚とは逆の右前になっている。
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・スカートのすそに縁飾りをつけるという記録に符号している。
・人物の重なりは高句麗の平面展開とは違って唐式だが、落ち着きのある筆致と画面の効果は高句麗的。
(動いているようで顔にも体にも一種の静止がある。) 後半の「落ち着きのある筆致と画面の効果」というのは抽象的過ぎて意味がわからない。
・人物に関する限り、永泰公主墓壁画に似ている。
・女性の顔が四角い高句麗型ではなくてしもぶくれの唐型。
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・史料によれば、7世紀前半ごろ、高句麗と百済の服装はほとんど同じだった。
・7世紀頃、奈良で活躍した画工たちは高句麗人。曇微、加西溢、小麻呂など
・狛竪部の小麻呂は659年同族一同を招宴したが、官から1枚60斤もする熊皮70枚を借用して客が羞じて退帰した。(日本書記)
・高松塚の画工は高句麗系だろう。
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㉝唐の壁画墓 へつづく~。
①イエス・キリストの墓は日本にあった?
明治時代、竹内巨麿という人物が青森県戸来村(現在の青森県新郷村大字戸来)を訪れ、塚(十来塚)をみつけた。
そしてこの塚をキリストの墓だと主張した。 私はここへは行ったことがないのだが、近くにはキリストの双子の弟・イスキリの墓とされる「十代墓」もあるそうだ。 この「十代塚」がイスキリの墓であると、竹内巨麿が主張したかどうか。 いくつかの記事をしらべても、はっきり記したものは見つからなかった。(探したりないのかも)
そうではあるが、「キリストに双子の弟・イスキリがいた」と、竹内巨麿が主張したことは、竹内文書の内容からして確かだと思われる。
竹内巨麿は平群真鳥の子孫・竹内家に養子に入ったといっているが、その竹内家には竹内文書なるものが伝わっていて、
そこに次の様に記されているのだという。
「イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されていない。イスキリスの弟のイスキリが身代わりになった。 その後、イスキリスは日本にやってきて亡くなり、墓がつくられた。」と。 竹内巨麿はこのイスキリスがイエス・キリストであり、「十来塚」が「イエス・キリストの墓」だと主張したのだ。 ただし、竹内文書は後世に造られた偽書だとされている。 私も偽書だと思うし、十来塚・十代塚はキリストとキリストの弟・イスキリの墓ではないと思う。😊
②渡来はヘブライ、ナニャドヤラはヘブライ語の歌?
「なーんだ、でっちあげなのか」と思うのは、まあ当たり前な感覚だと思う。 しかし、そこで終わってしまうには、若干気になることがある。
その後「古代史書研究会」は「来村」という地名の由来は「ヘブライ」であると主張。 また、その地にはナニャドヤラという歌が伝わっており、川守田英二氏が、それは「ヘブライ語で、ヤハゥエをたたえる歌である」とした。
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ナニャドヤラの歌詞をみてみよう。
♪ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ
ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ
ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド♪
これはさっぱり意味がわからない。 川守田英二氏は次のように主張する。
「ナギャド」・・・「前方へ」という副詞と「指導者」という名詞
「ナサレ」・・・・「掃蕩(払いのぞくこと)」
「ナギアドナサレ」・・・「前方を掃蕩する」
全体の意味・・・・「御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん」
ナニャドヤラについては、梵語説もあり、こちらも、ありそうに思える。 私がヘブライ語や梵語がわからないせいかもしれないが。(笑)
なにゃあどやらよ 奈任耶阿堵野羅世
なにゃあどなされいのさえ 奈任耶阿堵長谷嶺居野宰叡
なにゃあどやらよ 奈任耶阿堵野羅世
鳥谷幡山が降霊術師の小松周海に招霊を依頼したところ「キリストの妻の名はユミ子、娘が三人」であり、村の旧家の沢口家であるとされたが 沢口家の家紋の「桔梗紋」はユダヤのシンボル「ダビデの星」と似ていたり
この地方の幼児を始めて屋外に出すときには額に十字を描いて魔除けにする習慣など、キリスト教に関係していそうなものがある。③キリスト教伝来は1549年より早かった?
日ユ道祖論と呼ばれるものがある。 日ユ道祖論について、ウィキペディアはつぎのように記している。
日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96 より引用これが事実かどうか、私にはわからない。
しかし、5世紀頃日本に渡来したとされる秦氏の故郷は、弓月王国というキリスト教国であるとか、
空海が遣唐使として入唐したころの中国では景教(ネストリウス派キリスト教)が流行っていたとか 聖徳太子が厩で誕生するなどの伝説が、キリストの伝説に似ているなどの指摘もある。 また飛鳥昭雄氏は記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあると指摘されている。
聖書1日目/ 神は光と闇を分け光を昼、闇を夜と呼んだ。
古事記神世第1代/天之御中柱主神
※キリスト教の三位一体説は『生命の樹』で説明される。
生命の樹は三本の柱からなるとされ、中央が最も高くなり、左右に同じ高さの柱がある。
中央を「均衡の柱」左を「慈悲の柱」右を「峻厳の柱」と言う。
神を柱と表現するのはキリスト教も日本神道も同じ。(左右は均衡の柱からみて)
「天之御中柱主神」というのは生命の樹の均衡の柱を意味するのではないか。
聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応する。
聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応する。
聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。
聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。
聖書/6日目/神は獣と人間を造った。造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏しは賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したのである。
日本におけるキリスト教の伝来は1549年とされるが、実はそれ以前に伝わっていたのではないかとする説があり、 これは有りそうに思える。
④死後3日後に生き返ったのは双子のトリック?
綾部宗彦氏はキリスト双子説を唱えておられる。
キリストは死後3日目に復活したとされるが、死んだ人間が生き返ったと信じることは知性に犠牲を強いる行為である、
そうではなくキリストは双子であり、十字架にかけられたのは弟のほうだったというのだ。 コーランにもキリストは「磔になって死んでいない。そう見えただけ。」というような主旨の内容が記されているとのこと。
磔になったイエスは死ぬ直前、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』とに叫んだとされる。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、『わが神、わが神。どうしてしをお見捨てになったのですか』と訳される。 エリとはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようだが 綾部氏は『高い』『より上にある』とは『兄』のことではないか、
キリストのかわりに磔になったイスキリが『兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるのか』と言ったのではないか、
とおっしゃっている。
またキリストの弟子に「双子のトマス」という人物がおり、福音書ではトマスを「キリストの双子の兄弟」としているとも指摘される。
とすれば、竹内文書はコーランや、キリスト双子説をもとに創作されたものではないか、とも思えてくる。
⑤キリスト=太陽神説 キリストは太陽を擬人化したものとする説もある。
地球は歳差運動といって地軸がコマのようにふれている。
その影響で、北半球でも南十字星が見えていた時期があったとされる。 勿論北半球で南十字星が見えていた時期があったといっても、南中高度は低かったはずだ。 キリストは太陽、キリストが磔になった十字架は南十字星であり
冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度をさげていき、南十字星の南中高度に近づいていくことを キリストが十字架にかけられたと表現。 キリストが死後3日目に生き返るのは、冬至の後、太陽が再び南中高度を上げていくことを表現したもの、というのだ。
もし仮に、記紀が編集される以前の古代の日本にキリスト教が伝わっていたとしたら、天照大神は日本版キリストということになる。 そしてこれにキリスト双子説を考え合わせてみよう。 「キリストが十字架にかけられる」というのは、「冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽」の比喩であった。 しかしキリスト双子説では、十字架にかけられて死んだのはキリストではなくキリストの双子の弟であったとする。
ということは、「冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽」はキリストの双子の弟ということになる。 そして、「冬至の後、再び南中高度を上げていく太陽」がキリストだ。
⑥天照大神は男神?
記紀神話では天照大神は女神とされているが、天照大神は男神とする説がある。 天岩戸に隠れた天照大神は、女神のストリップダンスに興味を持ってでてきた。 女神のストリップに興味を持つのは男神だというのである。 また物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命といい、
ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説もある。 ニギハヤヒは神武が東征して畿内入りするより早く、天の磐船を操って畿内のいかるがの峰(大阪府交野市)に天下っていたと記紀は記している。 畿内入りした神武は、ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコと戦い、それに勝利して天皇として即位した。
この話から、神武以前の畿内に物部王朝があったとする説がある。 万世一系を称する天皇家があえてこの説話を記紀に記したのは、記紀編纂当時、神武以前に物部王朝があったというのは、当事の人々にとって余りに当たり前の認識だったからないかともいわれる。
神武は天孫(天照大神の子孫)だが、ニギハヤヒもまた天孫とされる。
とすれば、次のような関係が成立すると思う。
冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽・・・キリストの双子の弟・・・ニギハヤヒ(天照大神の子孫)
冬至の後、再び南中高度を上げていく太陽・・・・・・キリスト・・・・・・・・神武(天照大神の子孫)
とここまで考えたとき、アッと閃いた。
ニギハヤヒが天下ったのは大阪府交野市の磐船神社付近とされるが、ここからそう遠くはない大阪府東大阪市に石切神社があって、ニギハヤヒトウマシマジノミコト(ニギハヤヒの子)を祀っている。 「いしきり」を東北訛りで発音すると「いすきり」になりそうだ。 キリスト(イスキリス)の双子の弟のイスキリは石切さん(関西では石切神社の事を親しみを込めてこう呼ぶ。)ではないのかと。 ちょっと単純かな(笑)。
石切神社 大勢の人々がお百度参りをしている。
⓻中世宗教画に描かれた飛行物体の正体は?
中世の宗教画に宇宙人が描かれているという。
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上の2:04あたりから、ドメニコ・グルランダイオが描いた「聖母と聖ジョヴァンニーノ」には円盤型UFOが描かれているというのだ。
またバチカン、デチャニ修道院にある『キリストの磔刑』(1350年)には飛行物体が描かれており、パイロットのような人物も描かれている。
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これらの絵画を根拠として、キリストは宇宙人だったという人もいる。 しかし常識的(ホントカヨ?)で、頭の固い私にはにわかにそんなことは信じられない。 頭の固い私は(笑)、『キリストの磔刑』に描かれた飛行物体は、ニギハヤヒが操っていかるがの峰に降り立ったとされる天の磐船だと思ったのだった。
天の磐船について、UFOの様なものではないかという人もいる。 実はこの天の磐船は巨石であり、大阪府交野市・磐船神社のご神体として存在している。 磐船神社はニギハヤヒが天下った場所だとされ、ニギハヤヒを祀っている。
天の磐船 「たまたまそこにあった巨石を神話になぞらえて天の磐船といってるだけじゃん」とおっしゃる方もおられるだろうが 頭の固い私は(笑)、天の磐船の正体はUFOではなく巨石だったと考える。 「雲陽誌」という書物には次のような内容が記されていると聞いたことがある。 「島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。ニギハヤヒは星の神。」
これはつまり、こういうことを言っているのだろう。 ・石は空から降ってきた星、つまり流星である。 ・ニギハヤヒは星の神 すると「天の磐船は、天から地上に落ちた星が岩になったものである」と、古の人々は考えたのだろうと推理することができる。
だからこそニギハヤヒは星の神として信仰されたのだろう。
バチカン、デチャニ修道院にある『キリストの磔刑』(1350年)に描かれている飛行物体も流星なのではないか。
⑨習合された太陽神と北極星の神 とここまで考えると、壁にぶつかってしまう。 ニギハヤヒは別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命といい太陽神であるのに、星の神でもあるというのはどういうことなのか、ということだ。 理由はよくわからないが、太陽神と北極星の神は習合されたようである。 昼の神と夜の神を習合するというのはムチャクチャな感じがするが、 実際、天皇家は天照大神を祖神としながら天皇という称号を用いている。 天皇いう称号は天皇大帝(北極星の神)から撮ったのではないかとする説がある。
さらにこんな記事もある。
伊勢神宮の伊雑宮で行われる御田植神事では高さ9メートルに及ぶ巨大な扇が立てられるが、この扇には「太一」と書かれている。太一は古代中国で北極星が神格化された神名である。太一は北斗七星に乗って宇宙を循環すると言われる。太一は天照大神、北斗七星は神宮外宮の祭神・豊受大神と「神仏習合」を果たして、伊勢の神事に取り込まれたという。なお「淮南子」には太一神を信仰すれば不老不死になれると記されている。そして仏教では北極星・北斗七星は妙見菩薩という仏神となった。 https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1651 より引用
ウィキペディア「太一」にも太一は天照大神と同一視されることが多いと書いてある。
神武は北極星となって宇宙の中心に君臨し、ニギハヤヒは北極星の座を神武に奪われ下界に流れ落ちて石になったと考えられたのかもしれない。
ニギハヤヒは太陽神でもあり、北極星の神でもあった。 そう思って、⑥の石切神社の写真をみると、お百度参りをする人々が、北極星を中心にしてめぐる星々のように見えてきた。
星は北極星を中心に、左周りに動いている。しかし、それは地上から見上げた場合である。 星々が天球上に張り付いているとし、天球の上から星の動きを見れば右回りになる。 京都龍安寺の石庭はカシオペア座を示しているとする説を、明石散人さんが唱えておらえるが、 石庭のレイアウトは地上から見上げたカシオペアの形を左右反転させた形になっている。
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