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モースが見た明治期の日本③モースはアメリカ人のためになると考えて日本人をほめた。

↑ 青空文庫 日本その日その日
JAPAN DAY BY DAY
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
石川欣一訳

※ピンク色文字はすべて「日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース」からの引用。

モースはJAPAN DAY BY DAYにおいて、日本人は正直だと盛んにほめてくださっている。
ネットの記事、動画などをみると、このモースの文章を引用して「日本すばらしい」という日本人が結構いるように思える。
「日本すばらしい」というだけならまだしも、モースの文章を引用して「欧米文化は日本文化に劣る」という人までいる。
これは自分の事はへりくだり、相手の事は立てるという日本人の心を失った発言であるようにも感じられた。
逆にモースのほうが、自分のことはへりくだり、相手の事は立てているようにも思える。
そしてJAPAN DAY BY DAYをよむと、モースは必ずしも日本をほめているだけではない。
モースが日本をほめているところだけを抜き出して「日本すばらしい」とやるのはいうまでもなく、チェリーピッキングである。
そこで、私はあえて、モースが日本についてほめていない部分や、現代人が明治を勘違いしていそうな記述について引用してみることにした。

※全部読んでから、内容をまとめて記事にするべきなのだが、読み進めるごとに記事を書いているので(すいません!)、
前回、前々回と重複する項目があることをお詫びします。

①日本人は見返りを要求した?

”東京市の消防夫の多くは、建築師や大工で、火を消すと彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。”

これが事実であるとすれば(モースは日本語が分からないので、勘違いしている可能性もある。)災害に遭った気の毒な人に対して、見返りを要求する態度である。

⓶明治の日本には華族という特権階級があった。

「日本には階級制、身分制はなかった」と真顔でいう人がいる。
もちろん、そんなことはない。
それは、モースの次の文章を読んでも分かる。

”四十人の若い娘の一級クラスを連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。”
”また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬ちりめんの衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。
 私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。”

ここに「華族学校」「貴族の子女」「華族の子弟」という言葉がでてくる。

明治になって、身分制度は廃止され、四民平等とされたのだが、華族という特権階級が設けられていた。

”華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。”

ときどき「ウィキペディアの書いて在ることなんか信用できない。嘘ばかり。」という人がいるが、
モースの旅行記に華族、貴族と名前がでてくるので、ウィキの記述は嘘とは言い切れないことが理解していただけると思う。
「モースの書いていることもウソだ」という人もいるかもしれない。確かにその通りだ。
しかし、「モースの書いていることもウソだ」という理屈では、
「①日本人は他人のものを盗まない?」に書いた、次の文章もウソだといわなければいけない。

”未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。”

明治17年、華族令がだされ、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められた。
公爵・・・親王諸王より臣位に列せらるる者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者
侯爵・・・旧清華家、徳川旧三家、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者
伯爵・・・大納言宣任の例多き旧堂上、徳川旧三卿、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者
子爵・・・一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者
男爵・・・一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者

華族の特権
財産・・・差し押さえられない。
政治・・・貴族院の議員になれる。
教育・・・華族は試験を受けなくても華族学校(現在の学習院)に入学できた。

"私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。"
貴族の子供が質素な服装をするのは、貧しいからではないのだ。
戦前は超格差社会であったという。

③貧富の差
”ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防(すおう)の大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部屋の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や最古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた美事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。”

”それは非常に暗い夜で、私は又しても下層民の住家が、如何に陰鬱であるかを目撃した。雨戸を閉めると、夜の家は土牢みたいであろう。”

広大な土地と5軒の家を持つ元大名の家。部屋の中には黄金漆器、刀のコレクションなどがある。
日本の漆器はマリーアントワネットもコレクションしていた。
フランスの王妃がコレクションするのだから、高価なものであったにちがいない。

モースが下層民とよぶ庶民の住家の詳細については、モースは具体的には記していない。
しかし、JAPAN DAY BY DAYの中に何度も繰り返しでてくる「下層民」という言葉は、明治の日本に下層民という人々がおり、貧富の差があったことを証明している。
貧民ということばも何度か登場する。

”然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾催進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、恐らく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。”
”日本の社会は今や公に、上流、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。”

④名古屋城は質素ではない。

「日本にやってきた外国人が、殿さまの城が質素なのに驚いた」というような話をする人がいる。
その外国人が誰なのかわからないが、モースは名古屋城を巨大・荘厳と表現し、金のしゃちほこの価値を述べてい

”これは極めて朧気おぼろげに城の外見の観念を伝えるに過ぎぬ。この建築の巨大さと荘厳さとは著しいものである。建築上からいうとこの城は、上を向いた屋根のかさなり、破風はふに続く破風、大きな銅の瓦、屋根の角稜への重々しい肋リブ、偉大な屋根の堂々たる曲線、最高の屋梁むねの両端に、陽光を受けて輝く、純金の鱗を持つ厖大な海豚(いるか)等で、見る者に驚異の印象を与える。黄金は殆ど百万ドルの三分一の価値を持っている。我々は頑丈な、石垣の間の通路をぬけ、幅の広い石段を上って、主要な城へと導かれた。厚い戸をあけると、そこは広々とした一室で、壁や天井の桁の大きさは、封建時代にあって、かかる建築が如何に強いものであるかを示していた。”
名古屋城

名古屋城

⑤働く女性

「日本では女性は家で子育てと家事をやり、男性は外に働きに出た」という人がいるが、大きな勘違いである。

”これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。
百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男は全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。”

おそらく華族の様な金持ちの家の女性は外に働きに出たりはしなかったのではないかと思うが、庶民の女性は紡績工場などで働いていたのである。

⑥子守をする少年

”男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、紙鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。”
母親は紡績工場などに仕事にでているか、家にいるとしても家事や家業の手伝いで忙しかったのだろう。
明治には少女だけでなく、少年も子守をしていたのだ。
しかも、少年の群れの中のほとんどが赤ん坊を背負っていたとある。


⓻宮島で人は死ぬことができなかった?

”宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。”
宮島とあるが、厳島神社のある厳島のことを言っていると思う。
厳島神社の住所は 広島県廿日市市宮島町であり、また厳島は宮島ともいうそうである。

ウィキペディアにも次のように記されている。

”『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。”


鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、この島は「女神の御神体内」とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた機織や布晒(ぬのさらし)も禁忌とされていた(山の神』を参照)。『棚守房顕覚書』は「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市の町は鎌倉時代、厳島神社の祭礼最終日(毎月20日)に立った市場から発展した町である。


厳島神社

宮島 厳島神社


⑧妻は夫より早起きしなければならない。

朝夙(はや)く烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。

これは、「下層階級の間に行われる迷信と習慣のひとつ」としてモースが分中に記していることである。
このように言われていたということは、実際にも妻は夫よりも早起きするべき、という考え方が人々の中にあったという事ではないかと思う。

現在でも同様のことを言う人はいる。



”ソロ活動を始めてからもその傾向は変わらず、「雨やどり」(1977年)では「軟弱」と罵られ、自身最大の炎上ソング「関白宣言」(1979年)は「女性蔑視」だと糾弾された。そのタイトルと一部の歌詞が槍玉に挙げられて大炎上し、今もなおその火はくすぶり続けている。しかし実際は深い愛を歌ったもので、母親からも「これで関白ならあんたの人生たいしたことない」と鼻で笑われたという。”

「夫より妻は早起きするべき」については、少なくとも明治のころから、烏の鳴き声とこじつけて、言われてきた道徳のようである。
この道徳については、正しい道徳であるとは思えず、やはり男尊女卑だなあと思ってしまう。
(さだまさしさんの関白宣言について言っているのではない。)

たとえば、共働き世帯で妻が残業で遅く帰宅し、帰宅後も家事におわれて短い睡眠時間しかとれなかったとしよう。
しかし「夫より妻は早起きするべき」が当たり前の道徳であったとすると、妻はそんなときにも夫より早く起きなければならない、ということになってしまうし
夫が妻の事情に対して配慮しないことに対しての「言い訳」としても使えてしまえそうである。

さださんの歌に関していえば、2:10あたりの歌詞を聞けば、妻につらい思いをさせるつもりはない、と言っているように思えるし、妻となる人がそれでよいのであれば、関係ない人々が横からごちゃごちゃ言うのはヤボということになると思う。

⑨昆虫食

”竹中は伯母さんから、瓶に一杯入れた煮たばったを、御飯につけてお上りとて貰った。ドクタアと私とはそれを何匹か食って見たが、小海老に似た味で、中々美味だった。ばったを副食物として食うのは、この地方では普通のことで、我国でもばったをこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。”

※「ばった」は(「虫+奚」「虫+斥」)と表記されているが、変換できないため「ばった」と表記した。
「ばった」とあるのは「いなご」のことだと思われる。

※この話は、川越での話として記されている。千葉県川越市か。

前回も書いたが、ネットでときどき見かける「日本では飢饉の際にも昆虫食はしなかった」は間違いである。
逆にアメリカでは昆虫食はしなかったのか、モースは「我国でもばったをこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。」と書いている。

⓾えた・非人の存在

”その後高嶺は、私を特定区域へ案内した。以前、彼等は不潔であると見られ、彼等は皮革の仕事をし、動物の死体を運搬し、概してこの都市の掃除人であった。この階級と結婚することは許されず、またそのある者は富裕であったにかかわらず、彼等は避けられ、嫌われていた。彼等は、人々から離れて、ある区域に住む可く余儀なくされ、誰もその区域を通行しなかった。今や法律的の制限はすべてなくなったのであるが、而も彼等は、彼等だけ一緒に住んでいる。主要街路は妙にさびれて見えた。人力車はどこにも見えず、店もあるか無しかである。看板はすこしあるが、店の前の紙看板や提灯は無い。”


⑪明治に日本人は信仰を捨てた?
”食卓には二十人以上の人がいたが、ブライト夫人は、そこに列る紳士達の宗教を知り度いといい出した。これはいささか困った質問だったのである。私は前もって彼女に教養ある日本人は、彼等がかつては持っていたであろう、仏教なり神道なりの信仰から、既に進歩して脱出して了っていることを、説明しておいたのである。この質問は鍋島侯爵によって巧に提出されたが、一人のこらず、ニコニコ笑いながら、宗教的の信仰から自由になっていることを自白した。”
よく「日本人には宗教や信仰はない」という人がいるが、それは明治以降の事であり、それ以前の日本人は信仰心の厚い民族であったのかもしれない。

⑫骨董商人が不正直なのは世界共通(日本も含む)

”日本の骨董商人は、世界の他のすべてに於ると同じく、正直なので有名だということは無い。欧洲なり米国なりでつかませられた贋物、古い家具、油絵、特に「昔の巨匠」の絵、エジプトの遺物等を思い出す人は、日本の「古薩摩」(屡々窯から出たばかりでポカポカしている)や古い懸物やその他の商人を、あまりひどく非難しないであろう。悪いことではあるが、これ等のごまかしのある物が、実に巧妙であるのには、感心せざるを得ぬ。”

”権左と呼ばれる老商人は、私が名古屋へ行った時、あの大きな都会中の骨董屋へ私を案内して大いに働いてくれ、この男こそは大丈夫だろうと思っていたのだが、その後私をだまそうとした。その方法たるや私が日本の陶器をよく知っていなかったら、ひどくだまされたに違いないようなものであった。私は古い手記から、初期の瀬戸の陶器のある物の、ある種の切込み記号を、非常に注意深く写し取った。これ等の写しを権左に送り、それ等の署名のある品をさがし出してくれ、そうすれば最高の値段を払うといってやった。数ヶ月後名古屋から箱が一つ私のところへとどいた。それには権左の、古い陶工の歴史を書いた手紙がついていた。そして私が彼に送った写しと同じような記号のついた、これ等の陶工がつくった茶入、茶碗その他が入っていた。私は一目してそれ等が、三百年昔のものではなく、精々三、四十年位にしかならぬことを知るに充分な位、日本の陶器に関する知識を持っていた。石鹸と水と楊子とを使うと、一度こすった丈で、なすり込んだ塵埃が取れ、切り込んだ記号が奇麗に、はっきりあらわれた。”

⑭モースはアメリカ人のためになると考えて日本人をほめた。弱点を認めることは劣等な国民として咎めることではない。

”終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屡々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。”
モースの文章の一部分を切り取って「日本すばらしい」というだけならともかく「欧米の文化は劣っている」という人は、モースの態度を見倣ってほしい。
中には日本の良くない点について述べると「自虐史観」「反日」「貴方は日本人ではない」等の言葉を投げかける人もいる。

戦後、GHQは報道機関に対して規制を行っていた(プレスコード)。
これが「自虐史観」につながったという点は多少はある。
しかし、「弥生人はおらずNHKが捏造したもの」であるとか、「稲作は日本ではじまった」とか、
「人類の発祥は日本」「アイヌは鎌倉時代に日本にやってきた」のように、非科学的なことを述べることは決して日本のためにならないだろう。

”我々のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」”


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