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モースが見た明治期の日本① モースの勘違い😄 



先に、エドワード・シルヴェスター・モースの『JAPAN DAY BY DAY』から明治期の日本を考えるということを、ちゃちゃっと片づけてしまおうと思った。
『JAPAN DAY BY DAY』は青空文庫にあり、ぱっとみたところ、さほど量も多そうに思えなかったからだ。

しかし実際に読んでみると、調べたいことが次から次にでてきて(汗)ちゃちゃっとはすみそうにない。
そういうわけなのだが、とにかく、『JAPAN DAY BY DAY』について記し、これが終わったのち、『シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた』シリーズに再度とりかかりたいと思う。

(そういえば、『シドモアが見た明治期の日本』シリーズもやりかけだった!)


↑ 青空文庫 日本その日その日
JAPAN DAY BY DAY
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
石川欣一訳

※ピンク色文字はすべて「日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース」からの引用。

①日本人は他人のものを盗まない?

ネットを検索すると、よくモースの次の文章を取り上げて、「明治の日本は、人々が他人のものを盗まない正直な国だった」と結論づけている記事を目にする。
” そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。”

現在の日本ではいたるところに、備品のトイレットペーパーや消毒用アルコールを持ち帰らないようにと警告する張り紙が貼られているし、トイレットペーパーやアルコールの瓶は以っていかれないように紐などで固定されていることが多い。

本当に日本の旅館では、お盆の上に貴重品を乗せておいて、盗難にあうことはなかったのだろうか?

懐中時計

⓶日本の民家には鍵がない❔

モースは次の様にも書いている。
”日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂かんぬきも戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。”
私は30年ほど前に、鍵のない豪邸があるのを知った。
その家の女主人が言うには、障害のある息子さんと二人暮らしで、鍵を掛けると、何かあった場合に近所の人が助けようとしても鍵があると家の中に入れないから鍵をつけていないのだと。

そういう家が、わずか30年ほど前の日本にもあることはあった。
明治時代にはそういう家が多かったのだろうか。

検索すると「しんばり棒」といって、引き戸が開かないように使うつっかえ棒が広く使われていた、というものもあったが
事実かどうかわからない。
庶民は貧しくて、家にものがないので鍵をつけなくてもとられるものがない、という記事もあった。

しかし、明治時代にも窃盗はおきている。アメリカと比較して多いか少ないかはわからないが。(モースはアメリカ人)
モースも次のように書いている。
”この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒がまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道具屋ありやというばかりである。”


ここにあるデータをもとにグラフを作ってみた。
窃盗の件数

これをみるとたしかに明治時代は窃盗の件数が少ないが、平成15年をピークに窃盗は低下傾向で、最も窃盗が少ないのは令和3年の304.19件(10万人あたり)である。
(新型コロナウイルス対策の行動制限が関係しているかもしれないが)

「日本は西欧文明をとりいれたので、悪くなった。」という人がいるが、近年の窃盗の減少傾向をみると、そんなことは言えないと思うし、
「自国の悪化を他国の文明のせいにする」のは、「日本人らしくない」と私などは思ってしまう。

ウィキペディア 日本の犯罪と治安「世界の諸国との犯罪発生率の比較」には、次のような内容が記されている。

1、国連加盟229国・地域のうち犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告している国の中で、日本は殺人、強盗の暴力犯罪の10万人当たりの発生率は低い。

2、報告書を提出した国全体の数を100として低い方からみた場合、性的暴力と侵入盗は10~20%の間、深刻な暴行と略取・誘拐は20~30%の間、窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)及び自動車盗は40~50%。

3、国の人口構成には大きな差があるので、国別の単純比較は比較対照として適切でない場合もあるが、日本は先進国である西欧・北欧諸国よりも発生率が低い。

3は「10万人あたりの犯罪件数」ではなく「国の犯罪件数」の比較ということだろう。
人口が多いと犯罪件数も増えるだろうから、10万人あたりの犯罪率でみるべきだと思うが
 日本の人口 1億2,330万人は、西欧・北欧の各国の人口と比較して多いので、10万人あたりにしても、西欧・北欧より少ないということになるだろうか。

4.10万人あたりの日本の犯罪発生件数と順位(低い順)
故意の殺人(既遂)・・・・・0.23(2021年)107国中4位。
女性に対する故意の殺人・・・0.21(2021年)94国中7位。
性的暴力・・・・・・・・・・4.34(2020年)74国中9位。
深刻な暴行・・・・・・・・・14.99(2020年)80国中24位。
略取・誘拐・・・・・・・・・0.27(2020年)143国中38位。
強盗・・・・・・・・・・・・1.20(2019年)68国中3位。
窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く。)・・・295.07(2020年)79国中34位。
侵入盗・・・・・・・・・・・34.86(2020年)70国中13位。
自動車盗(日本は自動車盗とオートバイ盗を合わせた認知件数で計上)・・・11.25(2020年)71国中で29位。

5.昔から他国と比較して治安が良かったわけではなかった。
殺人既遂率についてG7の国々と比較(1890年/明治23年以降)
日本がG7の中で最低だったのは盧溝橋事件が起きた年の1937年~1943年
日中平和友好条約が締結された翌年の1979年以降

6.日本で初めて衆議院議員総選挙が行われた1890年は、データの無いアメリカとカナダを除いて、イタリア(10万人当たり約5.7件)に次いで約2.7件と殺人既遂率が高かった。

7.1900年代前半の殺人既遂率はアメリカ(1900年代前半平均:約1.4件)よりも高かった。

5.6,7をまとめると以下のようになる。
1890年~1936年 日本の殺人既遂率はG7中最低ではなく、アメリカよりも高かった。
1937年~1943年 日本の殺人既遂率はG7中最低だった。
1944年~1978年 日本の殺人既遂率はG7中最低ではなかった。
1979年以降    日本の殺人既遂率はG7中最低だった。

モースが来日した期間は次のとおり。
1877年(明治10年)6月~11月初め、
1878年(明治11年)4月~1879年(明治12年)9月
1882年(明治15年)6月初~1883年(明治16年)2月

5の「殺人既遂率についてG7の国々と比較」データは1890年(明治23年以降)であり、モースが帰国してから7年が経過してからのことである。
そうではあるが、わずか7年で日本が激変するとも思えない。

やはりモースのような外国人の個人的な印象は正しいとは言い切れず、実際のデータを見て判断するべきだということになろうかと思う。

【追記⓶】

”江戸時代には、庶民にとって鍵はほとんど必要のないものだった。当時の治安は比較的よかった上に、用心する際はほとんど心張り棒で戸締りをしていたからである。鍵をかけるのは当時の金持ちが蔵にかけるぐらいであったが、その鍵は手で簡単に開けられるようなものなど、防犯の意味をあまり成さず、ほとんど飾りだけのようなものが多かった。ただし、城門の|閂(かんぬき)には頑丈な錠前が備え付けられていた。なお、蔵などには雨戸などで用いられる落とし錠[注 1]が用いられることもあった[9]。”

ウィキペディア鍵 より引用

とある。
でモースが日本にきたのが1877年(明治10年)なので、江戸時代の状態が続いていたってことかもしれない。

江戸時代、窃盗が少なかったのは刑罰がきつかったせいもあるかもしれない。
10両(130万円)盗んだら死刑だったそうである。

③明治期の日本の男性は女性に対する礼儀ができていなかった?

”また、続けさまにお辞儀じぎをする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に添うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛棒強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。”

これはモースらが、婦人に対して礼儀正しく振る舞う男性を見た事がない、ということであって
婦人に対して礼儀正しく振る舞う男性もいただろう。
しかし、①の「お盆に時計と金を置いても盗まれない」話も一例にすぎず、「日本すばらしい」「日本正直」にあう話だけを取り上げて話をするのは、チェリーピッキングである。

チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為のことである[4][5][6]。

チェリーピッキングは質の悪い科学または疑似科学の特徴であり、多くの証拠が自分たちに不利であるにもかかわらず、立場を支持するように見える範囲(狭い時間範囲、地理的地域、亜集団、年齢層)、テキストの抜粋を見つけることができるため、論理的結論を受け入れることを拒否するときにこの戦術を使用する[7]。


④日本は火葬が多い?
”日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。”

”明治時代の火葬率は30%前後だったそうですが、その歴史は意外と古く、古墳時代後期の陶器千塚古墳群の一部である「カマド塚」に火葬の痕跡があります。つまり6世紀ごろには火葬は行われていたようです。

また、日本書紀には法相宗の開祖である道昭が700年に火葬されたと記されており、これが記録として残っている最初の火葬のようです。

さらに、702年に亡くなった持統天皇は天皇としては最初に火葬されましたが、それ以後天皇にならって一部の僧侶や貴族などの間で火葬が行われるようになりました。

その後、火葬は仏教の普及とともに国内に少しずつ広まりましたが、その背景には釈迦が火葬されたことにちなんでいるとされています。”

”平安時代になると、火葬は皇族をはじめ、貴族や僧侶の間にさらに大きく広まっていきました。当時は墓地などに浅い溝を掘って、石や土器などで火床を作った火葬場が作られていました。

鎌倉時代に浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉仏教が庶民に普及すると、庶民へも火葬が広まっていきました。この頃の火葬は、野原に薪を積み、その上に遺体を置いて焼く野焼きでした。ほとんどの地域でこの形が江戸時代末まで続いています。”

”江戸時代には、お寺の境内や墓地の敷地に火葬場が作られるようになり、となりました。このころの火葬場は、簡易な屋根や壁を使った小屋の中に設ける火家と呼ばれるものでした。鎌倉時代の野焼きと比較して、徐々に現在の形に近づいてきました。

とは言え、火葬はまだまだ主流とは言えず、地域によっては土葬が主流であったことも多いようです。

火葬が主流にならなかった理由のひとつには、火葬による臭気や煙の問題がありました。実際に浅草や下谷の20数ヵ所のお寺の火葬場が幕府指定地へ移転させられました。”

ここに
・明治時代の火葬率は30%
・江戸時代は都市部を中心に庶民も火葬をすることが一般的になった。
・江戸時代は地域によっては土葬が主流。
とある。

モースは主に横浜や東京の話を書いており、都市部を旅していると思われる。
それで火葬が多いと書いたのだろうが、全国的に見て火葬は30%ということは、残りのほとんどは土葬だと考えられる。
(一部風葬などもあったかもしれないが)

モースはアメリカ人である。アメリカ人はクリスチャンが多い。(2011年は75%がクリスチャン)
そしてキリスト教の基本は土葬である。
アメリカではじめて火葬が行われたのは1876年のルモイーヌ博士とされる。
1876年は明治9年である。そしてモースが日本にやってきたのは1877年(明治10年)。
モースはほとんど火葬を見たことがなかったであろうと思われる。

ある人が「日本は火葬文化」とおっしゃっていたのは、このモースの記述をよまれて、そう思われたのかもしれない。
(その方はモースの文章の引用をよくされている。)

なるほど、アメリカに比べれば日本は火葬の文化だといえる。火葬の歴史も古い。
しかし、その率は明治期で30%程度であるので、主流は土葬だったといえるだろう。

⑤日本人は種痘の功徳を理解した?
”これ等不幸な人達は疱瘡ほうそうで盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”

ウィキペディア種痘をよむと、シーボルトや日本の医師らが熱心に研究、普及に努めたことがわかる。
1849年には京都・大坂に「除痘館」が、1851年には福井藩「除痘館」を開設するなど急速に広まったようである。
明治維新後の新政府も「牛痘種継所」を設けて日本各地へ配布できるシステムを整備するなどし、
1909年には「種痘法」をつくるなど天然痘撲滅に努力している。
1948年(昭和23年)施行の予防接種法では計3回の定期接種が義務付けられ、1980年(昭和55年)に天然痘の撲滅が確認されている。

しかし日本においても迷信や不信感の様なものはあったようで、ウィキペディア「種痘」には次のように記されている。

”江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅ら医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。”

”この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。”

”当時は、牛痘に対して「打ったところから牛の頭が生える」「四つ足で歩くようになる」といった迷信も流行した[8]。”


モースは
”我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”

といっている。

我国とはアメリカのことで、迷信からアメリカの種痘を拒む人々のことを莫迦者と言っているのではないか、と思う。
”いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”
というのは、莫迦者たちはいずれ疱瘡で死に絶えて、いなくなるので、アメリカは進歩するだろう、というような意味だろうか。

しかし、モースは日本における種痘の迷信については書いていないし、彼の記述から、日本とアメリカの迷信の差を知ることはできない。
また同胞であるアメリカ人の一部を莫迦者と呼ぶのは同胞とアメリカという国を愛するが故の言葉かもしれないと思った。
我が子かわいさゆえ、莫迦と叱ったりすることはよくあることだ。
しかし他人の子をなかなか莫迦とはいえない。
それは、「他人の子がどうなろうと、自分には責任がない。勝手にしろ。」ということでもある。

⑥乞食は監獄に収容されていた。

”「私は盲です」という札を胸にかけている乞食は一人もいない――第一乞食がいないのである。”

ここでモースは”乞食がいない”と言っている。
しかし、『JAPAN DAY BY DAY』をよみ進めると、あとのほうにこういう記述がでてくる。
”ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸ぼろのひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。”
”第一乞食がいないのである。”というモースの記述はやや誇張されたもので、「乞食がいない」とは「乞食が少ない」という意味だととらえるべきだろう。

さて「日本に乞食は少ない」は事実だろうか。

”1869年(明治2年)に東京府が乞食行為を禁止したことを嚆矢として全国的に乞食行為への取り締まりが行われ、1871年(明治4年)には賤民廃止令により身分としての乞食も亡くなった。 

どうやら、乞食行為は禁止されたらしい。

”東京府における監獄が浮浪・乞食にどのように介入していたのかを達で確認すると、明治 11(1878)年 7 月 5 日警視庁達第 106 号では、乞食体の者及び無籍者を市ヶ谷監獄に送致するよう達し、浮浪・乞食の監獄収容を行う 5)。また、同日
の同達 115 号では、他県の者でも東京府のものでも「瘋癲ヲ発シ候者」で引取人のいない者は監獄署に送付するよう定め、その書式も提示している。”
なるほど、乞食体の者は監獄にいれられたのだ。

この頃の「懲役場」すなわち監獄は、純粋自由刑施設ではなく救貧院の役割も果していたということは隅谷(1955)の研究でも指摘されるところである。明治 4(1871)年の脱籍者復籍規定より、生活の安定しない脱籍無産の徒を監獄施設に収容して授産をさせた経験は、わが国におけるハウス・オブ・コレクションの萌芽と見ることも可能である。”

”そのため、近代初期のヨーロッパでは浮浪・乞食を労働者に陶冶する House of Correction(以下ハウス・オブ・コレクション)が設立され、これが近代的自由刑施設、つまり刑務所の起源となった。浮浪・乞食の増大と従来の残虐な身体刑
から距離を置こうとする啓蒙思想の発達、そしてルターの職業観やカルヴィン主義によって労働の価値が引き上げられ、施しの宗教的権威の低下から怠惰が悪の根源とされたことも、ハウス・オブ・コレクション設立の基盤となった(小野坂 
1969:64-65)。
ハウス・オブ・コレクションはロンドンのブライドウェル(1555)に作られたのが始めであると言われる。オランダのアムステルダム(1595)にも同様の施設が作られ、これがドイツ語圏を中心とするヨーロッパ各地に設けられ、近代的自由刑施設(刑務所)の起源であるとされる。こうした施設は、救貧院・工場・刑罰施設の機能を兼ね備えたものであった。”


取り締まられ、監獄にいれられた乞食体の者たちは、その後どうなったのだろうか。

上記サイトの表 1 ことも「懲治監の人員(明治 9 ~ 13 年)」をみると、復籍になっている者が多いが、その後、きちんと生計をたてられるようになったのだろうか。
後、死亡者が多いことも気になるが、これについては、次のように説明されている。

”「脱籍無産ノ者」の死亡者の数の多さは懲治監の衛生環境が良くなかったこともあるだろうが、先述の通り警視庁達で行旅病人死亡法にかかる者や「瘋癲ヲ発シ候者」が監獄送りになっていたことを考えると、むしろ病弱な者を多く収容してい
たと見るべきであろう。”

https://jwu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2168&file_id=22&file_no=1   より引用

これについてはまた機会を見て、調べることができればと思う。
ここでは東京でモースが乞食を見ることが少なかったのは、彼らが取り締まられて監獄にいれられたためであり、
日本が乞食のいない社会であったわけではない、ということを認識しておこう。

⓻外国人旅行者は過去の日本で間引きが行われていたことをしらない。

”いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅うるさく愚図愚図ぐずぐずいわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如しくものはない。爾なんじの父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。”

”分娩後の間引きは残酷で、膝(ひざ)やふとんで窒息させたり、臼(うす)ごろといって石臼で圧殺したり、紙はりといってぬらした紙を顔にはって窒息させたりした。たいてい取上げ婆(ばば)(免許制以前の産婆)が処理した。霊魂信仰の考え方では、生児は成長に応じて次々に霊魂を付与し人間らしくなっていくので、胎児、嬰児、幼児の人権は重視されていなかった。妊婦、産婦の心情はいまも昔も変わりがないが、社会的な人権意識が足りなかった。間引いた子は自宅の床下や縁の下に埋める例もあり、生まれ変わることを期待する気持ちがあった。間引きのことを「返す」「戻す」などというのはそのためであり、桟俵(さんだわら)にのせて川に流す例もある。”


”間引き法としては濡紙を口に当てる、手で口をふさぐなどの直接的なものとネグレクトなど間接的方法があった。これらの根底には貧しさがあり、親たちが生きるためのやむにやまれぬ選択であった。そして、そこには「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来の日本人の精神があった。また、七五三に見られる通過儀礼は、子どもが無事に生まれ、無事に育つことの困難な時代にあって不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であった。”
「江戸時代後期の堕胎・間引きについての実状と子ども観(生命観)」より引用
”徳満寺の本堂廊下には、「間引絵馬」が掲げられています。絵馬には、母親が必死の形相で生まれたばかりの子供の口をふさいでいる様が描かれており、水害と天明の飢饉に襲われた農民の悲惨さを象徴しています。”





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