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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉖高松塚古墳男子像と法隆寺壁画菩薩像の唇


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「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣久野健氏の説

①橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか?

・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。

天寿国繍張

天寿国繍張

聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。

橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。
古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。

⓶塼仏

・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。
凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。
現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。
しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。

・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。

・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。

長谷寺の法華説相銅板

・日本の塼仏出土例
奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

橘寺の塼仏が最も古い時期のものと考えられる。
・橘寺は聖徳太子創建と伝えられるが、福山敏男氏は古瓦や塔跡の礎石からみて、天智ああの前半としている。
・大阪・野中寺に伝わる弥勒半跏像の銘文に、「丙寅の年、橘寺の知識118人が中宮天皇のために造った」というような内容が記されており、丙寅は天智5年(666年)と推定されている。
橘寺ではなく柏寺ではないかとする説もあるが、橘寺が正しいとすれば、橘寺は666年までには建立されていたことになる。

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

・橘寺の塼仏と野中寺の弥勒像を比較した結果から、橘寺塼仏が野中寺像よりのちに製作されたものと考えられる。
(なぜ先ではなく、のちなのか。この説明ではわからない。)
野中寺・・・肉つきがよい。胴のくびれが少ない。頭部に丸みがある。やや面長。顎が小さい。
橘寺・・・頬がふっくらしている。顎もやや大きい。

滋賀県崇福寺出土の塼仏 崇福寺は天智天皇が創建した寺。668年(菅家文章は671年とする。)天武朝とする説もある。
橘寺のものよりさらに成熟したデザイン。

・橘寺の塼仏に似たものが、唐にある。「大唐善業」の銘文があり、唐代での政策であることがわかる。
橘寺塼仏から考えて、天智朝に唐朝文化が入っていたことを示す。

③山田寺

・天武朝期にはさらに成熟した唐文化がはいってくる。
山田寺出土の塼仏と仏頭がそれを示す。

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

・山田寺造営は『上宮聖徳法王帝説』の裏書に記述がある。
それによれば、641年ごろ整地、644年金堂建立、648年僧を住まわせる。
649年、蘇我倉山田 石川麻呂、讒言によって自害する事件があり、一次中断。
673年、塔建造。678年丈六仏像鋳造はじまる。685年、開眼供養。天皇浄土寺に幸す。(このころにはほぼ完成していたか)

・山田寺塼仏は金堂土壇より出土する。堂内装飾として塼仏を配したのは685年ごろか。
・山田寺塼仏の大型如来胸部、脚部の断片は、紀寺畑出土とされる東京国立博物館の如来坐像と同じ型から製作されている。
・十二尊をひとつの型からぬいた塼仏は諸家に多く分蔵されている。
・玉虫厨子の宮殿内部の押出千仏像のような役割をもっていたか。
・長谷寺の法華説相銅板(写真はブログ記事上にあります。)のように大型の如来を中心に、その周囲に千仏像や如来立像が組み合わされていたのだろう。

・九条兼実の『玉葉』によると、治承4年の兵火に焼けた興福寺の東金堂の本尊は、鎌倉時代の初めに山田寺から奪取してきた像。
室町時代に再び金堂が焼けた際、頭部だけ残り、昭和12年に同堂の仏壇下から発見された。

これについての私の見解は別ブログのこちらの記事に書いた。
山田寺跡 白藤 赤い楓 『興福寺はなぜ山田寺の仏像を欲したのか?』

・興福寺の仏頭は、山田寺の丈六像の頭部とみてさしつかえないだろう。唐美術の影響を顕著にあらわしている。

④夏美廃寺跡塼仏と高松塚古墳壁画の共通点

・夏見廃寺跡から出土した、京都大学文学部所蔵の如来および脇侍などをあらわした塼仏

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

金堂塼仏壁(復元)夏見廃寺展示館展示。

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

正面ではなく、側面をむいた人物像があらわされている。

・高松塚古墳壁画が天寿国繍張や玉虫厨子絵と異なり、横向きに人物が描かれている点が共通する。

高松塚古墳壁画 男子像

高松塚古墳壁画 男子群像

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳 女子群像

・塼仏は氏寺に多い。 
飛鳥寺、大官大寺、薬師寺、東大寺などの官立寺院には繍仏(刺繍で表現した仏画)はあったらしいが、塼仏は出土していない。
諸寺の資材帳、七大寺日記などの記事に、法隆寺の壁画のことは記されているが、そのほかの寺で壁画が描かれていたらしい記事は全くない。

法隆寺のように、壁画のある寺院は特異ではないか。

梅原猛氏は法隆寺や出雲大社のように壁画のある寺社は珍しく、怨霊を慰霊するために壁画は描かれたというような意味のことをおっしゃっていたが、やはり壁画があるのは珍しいのだ。

⑤法隆寺金堂壁画

・法隆寺壁画は同寺金堂の四面の12の壁画、飛天を描いた壁画20面、天井下の山岳中に座す羅漢を描いた壁画などの総称。
五重塔解体工事の際、当初層の四面の壁にも壁画が描かれていたことがわかり、これも含まれる。

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

・製作年代はかつて和銅年間(708-715)と考えられていたが、現在では(この本の初版の1947年当時)
五重塔壁画・・・和銅年間
金堂壁画・・・和銅よりも遡る
建築様式も五重塔と金堂はかなり差がある。(両者の雲形肘木や柱のちがい)

・顔料のちがい。
金堂の天井板・・・白・赤(朱)・緑・黒
五重塔の天井板・・・白・赤(ベンガラ)・緑・黒・褐・淡緑・淡褐色
五重塔の壁画の一部・・・赤(ベンガラ)が用いられている。
五重塔の壁画と天井板はほぼ平行して製作されたことをしめす。 (壁面のみ極彩色で天井が素木ではバランスがわるい)
金堂の壁画と天井板もほぼ同時に造られたのだろうが、五重塔とは同時ではないらしいと推定される。

・壁画の描き方は2種類。
❶壁面に白土か小粉を幅三尺づつ程度に塗り、乾かないうちに粉本に従って絵を描く。一部分が終わると次のパートにうつる。
(乾かない壁に彩色された顔料が壁画の中にしみこんで、乾くと一分ぐらいの層を顔料で形成して堅固に保たれる。色彩は鮮明、容易に剥落しない。完成までに時間がかかる。)
❷壁面全体に白下地を塗り、壁面が乾燥してから膠を混ぜた顔料で壁画を描く。補筆も可能。剥落しやすい。

・法隆寺の壁画は昭和24年の火災の時、消化ポンプの水を浴び彩色が剥落してしまったが、線の部分が釘ぼりになっていることが分かり❶の方法で描かれたらしいと推定された。

・高松塚がどちらの手法で描かれたのかは後の研究をまつしかない。

キトラ古墳の十二支寅像も、釘でほったような溝がある。

虎像

キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

来村多加史氏は著書「キトラ古墳は語る」の中で次のようにおっしゃっている。

寅像は下絵の線がヘラ状の道具で深く刻まれているために、写真にくっきりと像がうかびあがっている(口絵)。
「キトラ古墳は語る/来村多加史(日本放送出版協会)」p138より引用

・高松塚古墳壁画の男子像の唇の描き方は、下唇を二つの孤線を合わせたように描くが、法隆寺脇侍菩薩に共通する。

↑ こちらのサイトに法隆寺金堂壁画の画像が多数掲載されている。
その中の「第6壁 阿弥陀浄土 右,  観音菩薩像 頭部 ②」がこちら。↓

高松塚古墳 男子像

高松塚古墳 男子像(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

たしかに唇の描き方は共通している。

・法隆寺壁画は唐美術の影響を受けているが、線質、隈取をほどこす表現はさらに西方美術の結びつきが強い。
法隆寺壁画の線は鉄線描という、肥痩のない弾力性に飛んだ線。
『歴代名画記』によれば、初唐の画家・尉遅乙僧は壁画の名手で「屈鉄盤糸のごとし」と称された。
乙僧は西域・干蘭国の出身。『唐朝名画録』に「凹凸花の中に菩薩を描いた」とあるが、おそらく陰影を施し立体感を出した描法だろう。
この描法が日本に伝わったのではないか。

・649年に王玄策がインドの華氏城にあった仏足石を写し、中国にもちかえった。
さらに黄文本実が唐の普光寺でうつして日本に持ち帰った。これが薬師寺の仏足石の原図である。
彼はこのほかにも多くの文物・粉本を日本に持ち帰っただろう。(例/水臬/みずばかり=水準器)
黄文本実は鋳銭司に任じられたり、作殯宮司に任命されたりしており、仕事の幅が広いことがうかがえる。

・しかし7世紀半ばごろ、大陸の文物を日本に伝えたのは黄文本実だけではない。
百済や高句麗が滅亡した際、集団で日本に亡命した人の中に、多くの技術者がいた。
(東大寺大仏像造営に成功した国中公麻呂の祖父・国骨富もそのような亡命者のひとりか。)
新羅からも大勢の人がやってきた。こうしてできたのが白鳳文化。

白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。『日本書紀』に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。

『二中歴』等では661年〜683年。また、中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。

なお、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる。


高松塚古墳壁画に似た四神像をもつ薬師寺薬師三尊像はいつつくられた?

・高松塚四神図と薬師寺金堂薬師如来台座の四神の関係。
特に青龍は顎にXの模様がある点が同じ。

青龍✖印

高松塚古墳 青龍

・680年、天武天皇は皇后の病平癒を祈って寺と薬師如来像を発願したが、完成を見ずに崩御。
697年、薬師寺薬師如来開眼供養。
710年、平城京へ遷都。
717~729年、西ノ京へ移転。藤原京の薬師寺は元薬師寺として存続した。

・薬師寺縁起はふたつある。
a. 薬師如来は持統天皇が作った。
b.   平城京で新しく作った。
aが正しいと思う。その理由は、「七大寺巡礼私記」「諸寺縁起集」は持統天皇がつくったとしている。
「醍醐寺本諸寺縁起集」の「薬師寺縁起」は藤原京薬師寺から7日を掛けて運んだとする。
平城京で作ったとする縁起は全て近世以降のもの。

・岡倉天心が薬師寺を訪れた際、寺僧は「薬師三尊像は天平時代行基が作った」と説明した。
また日光菩薩・月光菩薩の腰のひねりなど、作風が完成しているので、持統期に造られたものではないとする意見がある。
しかし、塼仏を見ると、天智朝末には唐朝様式の影響がはじまっており、山田寺の塼仏など様式的にかなり熟しているように思える。

薬師三尊像

薬師三尊像






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