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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉓隼人石に描かれた動物は被葬者に地獄の責め苦を行う?

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣斎藤忠氏の説

①高松塚と同様の画題をもつ壁画古墳

・永池古墳に翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。https://saga-museum.jp/museum/files/kanpo015.pdf
翳とは下の高松塚古墳壁画の黄色の着物を北女性が手にもっている団扇のようなものである。

高松塚古墳 女子群像

・珍敷塚古墳 ガマガエルが描かれている。高句麗壁画古墳の影響。
ガマガエルだけでなく、鳥(八咫烏?)・月・太陽のようなものも描かれている。

珍敷塚古墳

珍敷塚古墳 キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

・竹原古墳 玄武・青龍・鳳凰・さしばが描かれている。


九州の装飾古墳である永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などに、斎藤氏は高松塚と同様の画題があると指摘される。
以前にも述べたが、九州の装飾古墳と奈良の高松塚・キトラ古墳の違いについて、絵のタッチの違いが述べられることはよくあるが、さしば・四神・高句麗の影響などの共通点は述べられることが少ないような気がする。
キトラ古墳 四神の館に展示されていた説明版でも絵のタッチの違いについて説明されていただけだった。
しかし、高松塚・キトラ古墳と同様の画題、四神、日月、さしばなどが九州の装飾古墳にも描かれていることは、認識しておいた方がいいと思う。

平安時代の僧・空也像にもいろいろな雰囲気を持つ像が存在する。
しかし像の雰囲気が違っても、口からみほとけがほとばしり出る表現は同じであり、空也に対する信仰が存在することも同じなのである。
これと同じことが、古墳の壁画にもいえると思う。
絵のタッチは違えど、四神や日月に対する信仰があり、さしばを用いた儀式を重んじる気持ちも同じように持っていたと考えられるだろう。

⓶日本の壁画古墳は高句麗の影響?中国の影響?

・高句麗壁画古墳・・・先行文化である古代中国の壁画古墳、北魏の寺院、石窟壁画の影響に高句麗の文化がミックスしたもの。4世紀中~8、9世紀。高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。

4世紀は301年から400年、8世紀は701年から800年である。
高句麗が滅んだのが668年で、それ以前に高句麗壁画古墳が終わっていたのであれば、4世紀中~7世紀というべきではないのだろうか?

・百済の壁画古墳は韓国忠清南道広州や扶余に残っている。唐の影響のほか、高句麗の影響も考えられる。

・日ノ岡古墳(https://ukihalove.jp/contents/hinookakofun/)、珍敷塚古墳、竹原古墳が築造されたのは6世紀~7世紀前半。
これらの古墳は直接高句麗と関係があったか、新羅を通じて間接的に影響をうけたのかは検討を要する。
国と国との外交によるものではなく、民間における外交によるものだろう。

・日本で装飾古墳として最初に発達したと考えられている大阪の玉手山古墳出土の直弧文をほどこした石棺。
大阪府柏原市 勝負山古墳(玉手山古墳群のひとつ)出土割竹型石棺 

勝負山古墳(玉手山古墳群のひとつ)出土割竹型石棺

玉手山古墳出土石棺

勝負山古墳出土割竹型石棺-直弧紋

玉手山古墳出土石棺 直弧文

直弧文は日本のオリジナルデザイン。
勝負山古墳は大型の前方後円墳(墳丘長95メートル以上)なので高い身分の人だろう。


直弧文 直線と弧線を巧みに組み合わせた日本独自の文様。

この石棺はいつ発掘されたものなのかわからないが、安福寺の境内に手水鉢として置かれており、勝負山古墳のものだと伝えられている。
同様の石棺は四国の前期古墳から出土しているとのこと。


③高松塚は高句麗ではなく、唐の影響を受けている?

・多くの学者が高松塚古墳を高句麗系と考えている。
四神は北朝鮮の平安南道江西郡江西郡江西面遇賢里の大墓、中国吉林省の通溝の四神塚などにもある。

玄武と朱雀

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)
蘇思勖墓は中国西安にある。

・星辰図も似たようなものが中国、高句麗にあるが、高松塚のような女子群像は高句麗にはない。
中国の永泰公主墓(706年造営)に似ている。北魏で好んで描かれた画題。
高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。
高松塚の造営は7世紀終末、8世紀初頭。高句麗壁画古墳が終わってから、40~50年たっているので、初唐の影響を考えるべき。
当時、唐の影響をうけて天文陰陽思想が発達し、天武天皇は天文台を作った。
中務省に画工司が置かれ、日本の画師が活躍していた。
持統天皇6年には日本の画師音橿に位を授けている。(高句麗の画師でなくても描ける、ということだろう。)
高松塚壁画の系統は初唐にあったと考える。

新羅にその占星台が残っていて、新羅から日本へ伝わったとする記事もあるが、なぜ唐から伝わったといえるのだろうか?

・多くの人は飛鳥に同じような壁画古墳があると考えているが、斎藤氏は高松塚はただ一つの壁画古墳と考えている。
その理由は聖武天皇皇太子那富山墓に隼人石があるのは、新羅の墓制の影響をうけたただひとつの例であったため。

斎藤氏がこの記事を書いて以降にキトラ古墳に同様の壁画が描かれているのが発見された。
なので高松塚古墳はただ一つの壁画古墳ではなかったことが明かになった。
そうではあるが、斎藤氏のおっしゃっていることは、あながち間違いとも言い切れないかもしれないと思う。
高松塚はただ一つの壁画古墳ではなかったが、今のところ飛鳥では壁画古墳は高松塚とキトラしかところ発見されていない。(すでに述べたように、永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などには高松塚と同様の画題を描いた壁画古墳がある。)
もしかすると、四神や星宿図(天文図)を描いた壁画古墳は、畿内では高松塚・キトラ古墳だけであるかもしれない。

もしそれが正しければ、どうなるか。
高松塚とキトラの被葬者は関係の深い人物であり、またこの2人に限って壁画が描かれる特別な理由があったのではないかと思えてくる。

④キトラ古墳と隼人石は関係がある?

ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。

那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!

虎像

キトラ虎像

現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。
が、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。


第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。
第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。
第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている

大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。はやといし
杜本神社 隼人石

⑤杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?

先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。
境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。

藤原永手 墓誌2

藤原永手の墓碑

藤原永手 墓誌

藤原永手の墓碑
上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。

藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。

日本霊異記紀にこんな話がある。
藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。

もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。
いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、この中国の仏画である。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

この仏画はウィキペディアにあったものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94#%E4%B8%AD%E5%9B%BD
製作年代、作者などわからないが、いわゆる地獄絵のようである。
日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。

杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。

中国の十二支像は手に武器をもっていないが、高句麗の十二支は手に武器をもっている。
しかもそれは、上の中国の仏画野の獣面人身のものたちが手に持っている道具によく似ている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

韓国金庚信墓十二支像(拓本)キトラ 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。
キトラ  子丑戌亥


キトラ古墳 子像、丑像、戌像,亥像。キトラ古墳 四神の館にて撮影。

⑥聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?

隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。

ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」
被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。

基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。

那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?

1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?
彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。

彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。

称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
聖徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?

藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。
藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。






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