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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉒様々な終末期古墳

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣森浩一氏の説

①版築は寺院の土檀の築き方を応用しているとはいえないのでは。

・家型横口石槨は河内の石川と大和川の合流地点あたり、「近つ飛鳥)に多い。

横口式石槨(よこぐちしきせっかく)とは、後期~終末期の古墳にみられる横穴式墓制の一つである。石棺式石室とも言う。
切石を用いて、内部に木棺や乾漆棺を納められるよう程度の大きさに造られ、短辺の小口部が開口する。前室や羨道が付く場合もある。
主として畿内に分布し、大阪府羽曳野市の観音塚古墳や奈良県明日香村の高松塚古墳などが代表的な例。

観音塚古墳

観音塚古墳

高松塚古墳 石室 レプリカ

高松塚古墳 解体実験用石室(飛鳥資料館にて撮影 撮影可)

高松塚 解体実験用石室

飛鳥資料館 説明版より

・版築 寺院の土檀の築き方を応用している。
纏向型前方後円墳でも版築に近い工法が用いられており、寺院の土檀の築き方とはいいきれないのでは。
ただし、この本は昭和47年に発刊されて古く、当時古墳の研究が進んでいなかったのではないかと思われる。

⓶海獣葡萄鏡が作られたのは8世紀初め?

・飛鳥時代は近江へ都が移った6年間を境にしてふたつに分けると便利だろう。
古い方の飛鳥は都塚の一帯。新しい方の飛鳥は終末期。

新しい方の飛鳥については場所、古墳名をおっしゃっていないが、高松塚のある聖なるライン上の古墳の事を言っておられるのだろう。

都塚古墳

都塚古墳

↑ こちらのリンク先の地図がわかりやすいかもしれない。
都塚古墳周辺には石舞台古墳、打上古墳細川谷古墳群などがある。

都塚古墳は方墳で2013年-2014年の調査で、4段以上の階段ピラミッドであったとされた。
都塚古墳のある付近は蘇我氏が勢力を持った地域で、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳や馬子の邸宅跡と思われる島庄遺跡もある。
石舞台古墳も都塚古墳同様方墳で、封土は失われているが、ピラミッド構造であった可能性が指摘されている。
また石舞台古墳と都塚古墳は双墓ではないかとの説もある。
被葬者は蘇我馬子の父・蘇我稲目ではないかとする説がある。

石舞台古墳

石舞台古墳

・高松塚築造年代は終末期。そうでないと横口式石槨は編年上あわない。
・乾漆棺は聖徳太子墓にもあるが阿武山古墳など天武陵の時代に多い。

夾紵棺

阿武山古墳 漆棺

・海獣葡萄鏡 隋または唐と言われていたが、樋口隆康氏が中国の出土例を検討し、7世紀末から8世紀初とされている。
後の時代に伝わるが上限は動かない。
・高松塚の築造時期の上限は7世紀後半から8世紀初め、藤原京時代。場合によると8世紀にはいるかもしれない。平城京遷都までの8世紀。

藤原京遷都は694年、平城京遷都は710年なので、森氏のいう藤原京時代とは694年から710年を指していると思う。
中でも、701年から710年の可能性が高いというお考えだ。
その理由は上にあげた横口式石槨の年代、乾漆棺が天武陵の時代に多いこと、海獣葡萄鏡の製作年代ということである。

ウィキペディアはつぎのように記している。

高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。


樋口氏の意見が絶対的な支持をえているわけではなさそうだ。

・中国の海獣葡萄鏡の出土例では、高松塚と似たものが開元通宝といっしょにでている。銭から遺跡の年代を出すのは難しいが一つの参考になる。

開元通宝は唐で621年に初鋳され約300年間流通した貨幣である。
このように聞くと、年代を出すのはムリのようにも思えるが、いつどこで作ったかで、異なる特徴があるのかもしれない。

開元通宝
開元通宝

・終末期古墳としては珍しく鏡と刀の両方が入っていた。
・ガラスの玉は装飾品か、玉枕かわからない。

玉枕

阿武山古墳 玉枕(複製品) 今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)

・阿武山古墳は切石で、漆喰が塗ってある。

阿武山古墳-石室

阿武山古墳 石室 今城塚古墳歴史観にて撮影
狭い石室は高松塚古墳を思わせる。

・お亀石古墳は新堂廃寺の一番古い瓦と同じ物が郭のぐるりに使ってある。7世紀初頭ぐらい。横口式石槨の編年はわりに確実。それ以来ずっと形式の変遷があるので、高松塚は天武・持統、文武三代のころではないか。

お亀石古墳

お亀石古墳

ウィキペディアを読むとお亀石古墳の築造年代は7世紀前半とある。

天武天皇の即位は:673年、持統天皇の即位は690年、文武の即位は697年で 707年まで在位していた。
高松塚は確かにこのお亀古墳より時代が新しいように思われる。
シンポジウムの発言の記録なので、仕方ない部分もあるだろうが、具体的に編年はどうなっているのか、なぜその年代がみつもられたのかについての説明がほしかった。
ネットでも調べてみたが、調べたりないせいかわからなかった。

③壁画古墳は新羅にはない。

・横口石槨は高句麗にもある。百済にも似たものはある。
・壁画古墳は百済に少しあるが新羅にはない。
・百済の壁画、広州宋山里のもの、扶余の陵山里、どちらも簡単なもの。
・高句麗の壁画は三つの流れがある。1.人物 2.四神 3.日月星辰
高松塚はこの3つが全部ある。
・飛鳥人は高句麗の伝統をひく着物をきていた。
・近畿地方の場合、埴輪の終末は6世紀なかごろで、仏像(塑像)とは期間があいている。(埴輪と塑像にはつながりがない)
・欽明陵は終末期古墳に入るかどうか検討が必要。


欽明天皇陵は梅山古墳に治定されており、築造時期は古墳時代後期とされているが、その近隣にある高松塚古墳、キトラ古墳などの円墳、野口王墓(天武・持統陵)、中尾山古墳、牽牛子塚古墳などの八角墳、菖蒲池古墳、小山田古墳などの方墳とはことなり、前方後円墳なので検討が必要ということだろう。
ただし宮内庁管理の陵のため調査ができず、築造時期の特定は難しそうだ。

・終末期古墳は飛鳥のほか、大阪の太子町から羽曳野周辺にも多いが、そのほかは寝屋川の石の宝殿、高槻の阿武山古墳、京都では山科西野山の古墓や小野蝦夷墓など数ヵ所。和歌山も少ない。四国では見たことはない。
出雲の築山古墳は大部分が後期古墳。群馬県前橋付近で乾漆棺がでているが、切石作りの横穴石室に限ると多くない。

石の宝殿古墳

石の宝殿古墳 

現在は封土がないが、もともと封土がなかったとか、八角形古墳とする説もある。
八角墳は天皇陵が多く、被葬者が誰なのか気になる。

・飛鳥の終末期古墳・・・天武・持統陵、中尾山古墳、菖蒲池古墳、牽牛子塚古墳など。
飛鳥の後期古墳・・・石舞台、都塚古墳、打上古墳など。
出土する土器が明らかに違う。
・横口式石棺の系譜は高句麗だと思う。百済には似たものはある。新羅にはない。
・横穴式石室の場合は(高麗尺)の内法で測ると割り切れる。
しかし外からみて家形のような構造の場合は分からない場合がある。高松塚は唐尺の可能性が強い。

④高松塚は政治争い的墓荒しの可能性もある。

・壬申の乱で近江京が消失し、一時的に中国製品などがなくなり副葬品がすくなくなったのかもしれない。
・盗掘であればなぜ遺物を残したのか。刀身がなくなって、装具を残しているような例を他にしらない。
高松塚はスコップで掘れるような柔らかい土ではない。政治争い的墓荒しの可能性もある。
・高松塚副葬品の刀の刀身がなかったが、腐ってしまったのだとすれば、鏡にも錆が大量に出そうだが、出ていない。

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡

海獣葡萄鏡は床の漆喰にのめり込むような形で、鏡面を上にした形で出土した。
そのような環境のため鏡の緒まで残っていたとされるが、それを考慮しても、もっと錆びていたはずだといえるのだろうか。

海獣葡萄鏡 出土状況

海獣葡萄鏡 出土状況

⑤被葬者の歯から年齢鑑定はできる?

・頭骨が全部残っているとある程度のことがわかる。頭骨がない場合には少しのことしかわからない。
歯はかなりよくわかる。大阪の黄金塚には歯しか残らなかったが、薄く切って顕微鏡で見て4,50代の男性でやや角張った丸顔と報告がある。

島五郎氏の鑑定によると、高松塚出土の歯は、下顎右側大臼歯は第三大臼歯または第二大臼歯かもしれない。
上顎左側大臼歯は第三大臼歯。破損の著しい小臼歯ということだった。
小臼歯は破損が著しくて鑑定できなかったのだろう。
また第三大臼歯とは親知らずのことである。
歯による年齢鑑定は咬耗度から判断するようだが、親知らずは生えてくる年齢が人によって様々なので、島氏は判断が難しいとされ、30歳以下である可能性は少ないとされた。
残っていた歯が親知らずでなければ、森氏がおっしゃるようにかなりよくわかったかもしれない。
高松塚の被葬者の判定は歯というよりも、骨によって行われた。

⑥キトラ古墳天文図は唐で観測された可能性が大。高松塚二十八宿図は?

・高松塚の星宿は模倣ではなく観測して描いたのではないか。

当時、キトラ古墳は見つかっていなかったが、キトラ古墳の天文図は正確ではなく、またキトラの天文図は日本で観測して描いたものではなく、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いという話を以前にした。

高松塚の星宿図と同様のものはトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
星宿の結び方は異なっているが、同様の形の星宿がほぼ同じ位置にあるのが確認できる。
例えば北の斗(6星からなる星宿で北斗七星とは異なる)、室、壁、西の参、東の角、氐などである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影。撮影可)

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図(キトラ古墳 四神の館にて撮影。)

高松塚の星宿図もキトラ同様、唐で作られたものを参考にして作られたのではないかと思うが、
よく考えてみれば(笑)私は星宿図というものがよくわかっていなかった!

相馬充氏はキトラ天文図について次のように述べておられた。、

・各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。
・内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった. 
・ 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

つまりキトラ古墳の観測地や観測年を推定することができたのは、キトラ古墳に内規と外規の円が描かれていたからだ。
高松塚古墳は天文図ではなく星宿図で、内規と外規は描かれていない。

そしてアスターナ古墳の星宿図と星座の結び方が異なっているということは、日本で観測して作成されたものである可能性は残るかもしれない。 

・「益田の磐船」は天文台の台説(薮田嘉一郎氏)、二つ並んだ大きな穴があいているのは合葬の蔵骨器入れ(西田真治氏説)、枡田池の碑の台説などがある。

益田の岩船

益田の磐船

現在有力視されているのは横口式石槨説である。
近くにある牽牛子塚古墳の横口式石槨に、、岩船の穴の形状が似ているというのである。
つまり、現在の北壁面を下に横転させて古墳石室とする予定だったが、失敗してそのまま放置したのではないかというのだ。
西側の穴には水が溜まらないので、ひびが入っているとされる。
これが失敗というわけだ。

猪熊兼勝氏は、益田岩船は兵庫県高砂市の石の宝殿にも似ており、同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、益田岩船、石の宝殿で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳ではないかとしている。

石の宝殿

石の宝殿

猪熊氏の説が正しければ、石室は飛鳥から遠く離れた兵庫県高砂で制作し、そこから飛鳥へ運搬する予定であったということになる。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳 石室

牽牛子塚古墳 石室

牽牛子塚古墳 石室2

牽牛子塚古墳 石室

⓻日本の墓誌

・元明陵は『続日本記』に「刻字の碑を立てよ」とある。
元明陵の入り口に60cmほどの切石のかたまりがある。しかし文字は確認できない。


↑ 元明天皇陵の近くにある奈良豆比古神社に「元明天皇陵墓碑御旧跡」と記された石碑がある。

元明天皇陵墓碑御旧跡

奈良豆比古神社にかつて「刻字之碑(函石)」があったことを記念して立てられたもの碑であるという。、
「刻字之碑(函石)」は現在は元明天皇陵に戻されているが、奈良豆比古資料館には「刻字之碑(函石)」の拓本が保存されているとのこと。

江戸時代に土砂崩れで田んぼに流されていた函石を奈良豆比古神社で預かっていたのが、後年それが元明天皇が遺言で指示した石碑だとわかり、陵墓の確定もできたそうです。

遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年(1896年)に藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を建造し、かたわらに建立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E9%99%B5%E3%83%BB%E9%9C%8A%E5%BB%9F より引用

奈良春日社というのは、奈良豆比古神社のことである。
ウィキペディアにも記述がある所をみると、奈良豆比古神社に元明天皇陵の墓誌の様なものがかつて存在したことは確からしい。
奈良豆比古神社はその墓誌に文字が刻んであったとし、拓本も存在している。
しかし森氏は文字が読めないという。
奈良豆比古神社に安置されたばかりのころは文字は読めたが、その後風化して読めなくなったということだろうか。

・墓碑はあまり存在しない。
那須国造碑は、それがどこにあったかわからない。
大阪に采女氏の墓域の碑があるが、拓本しか存在しない。
群馬の山ノ上の碑は古墳の前に建っている。

那須国造碑(笠石神社)

那須国造碑(笠石神社)

689年、那須国造であった那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立された。
1676年、僧の円順が発見し、戸藩主の徳川光圀が笠石神社を創建して碑の保護を命じたという。
光圀は那須直葦提、意志麻呂父子の墓であると考え、上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を命じている。
しかし上侍塚古墳・下侍塚古墳は5世紀の築造と推定されており碑の年代(7世紀)とあわない。

采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)
持統三年(689)天武朝の大弁官であった采女竹良(うねめちくら)が朝廷からもらった古代の墓域を示す石碑。
上の資料は拓本(石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの)であり、現物は古くから妙見寺が保有していたが、明治時代から不明となっている。

山ノ上古墳

山ノ上古墳 古墳の向かって左にあるものは石碑の覆屋

山の上石碑 拓本

山ノ上古墳 墓誌 拓本

681年に立てられたものとのこと。

・玉手山に若い人が日曜ごとにいって図を解読した。
これは大阪府柏原市の安福寺横穴墓群1基の横穴に存在する騎馬人物などの線刻画のことをおっしゃっていると思う。

玉手山横穴

安福寺横穴群(北群)


2⃣井上光貞氏の説

①高松塚は唐と高句麗、両方の影響をうけている。

・壁画は唐の影響が濃厚。女子の一人が吉祥天に似ている。しかし高句麗の影響も看過できない。

薬師寺吉祥天

多分、薬師寺の吉祥天像のことを言っていると思う。↑

飛鳥美人

高松塚壁画館にて撮影(撮影可)

向かって右の4人のうち、向かって左の女性像のことだろうか。

・姓氏録を見ると、画師は百済系が多い。
・火葬は仏教の影響、薄葬はそれとは別のものではないか。
・冠位十二階の起原は中国ではなく朝鮮。新羅は無関係。
冠位の名称の決め方、新羅は17、高句麗は12、百済は14、日本は12.
・推古朝は百済か高句麗の影響が強い。華厳(華厳宗のことかな?)の発達も新羅の影響をうけている。

冠位十二階の決め方になぜ新羅が無関係だといえるのか、推古朝は百済か高句麗の影響が強いといえるのか、この説明ではわからない。

・遣隋使、遣唐使など中国の影響が強いという印象があるが、6世紀以降の宮廷文化は朝鮮文化が基軸となっていて、それから中国文化を受け入れている。
中国文化の決定的影響は壬申の乱ののち。
・正倉院には唐的なものが多いが、それだけでは誤解する。
・蘇我氏の力は壬申の乱ぐらいまで。
・島の宮は島庄(しまのしょう)にあったとされる草壁皇子の宮だが、この宮は島大臣=蘇我馬子の邸宅跡に作られたとされる。草壁皇子の時代にはもう蘇我氏の力は失われている。
・檜前が東漢氏など帰化人が住んでいた地域というのは、7世紀までではないか。
・日本でも火葬墓には墓誌がでている。日本書記などにも墓誌の記録がある。

3⃣末永雅雄氏の説

①薄葬は厚葬の反省から生じた?

・高松塚は高句麗の古墳の人物の表現に似ている。中国にも似ているが服装は似ていない。
・乾漆と木棺に漆を塗った棺はちがう。
牽牛子塚古墳は十数枚の布をはった乾漆棺。高松塚のものは乾漆が主体ではなく、木棺が主体。木棺に漆が塗られている。
・高松塚の棺は横によっていたが、意識して寄せたのか、盗掘でゆがんだのか。
・推古天皇の時に、今年は五穀実らず、だから特に石槨の役をなさず、とある。
厚葬の弊害が社会的な反省となって薄葬に導いたのではないか。

4⃣岸氏の説

①藤原京は高句麗と唐が混ざった文化?

・あのころの画師は高句麗系が多いが、遣唐使が技術を持ち帰ったとも考えられる。
・人物の服装は高句麗色が強い。
・7世紀末から唐風の服装がはいってくる。
・高松塚古墳には棺台はない。牽牛子塚古墳、阿武山古墳、聖徳太子墓にはある。
御嶺山古墳は高松塚に似ている。切石を使っているが、棺台がある。

御嶺山古墳 棺台

御嶺山古墳 棺台

・終末期古墳の時代は合葬が多い。(牽牛子塚古墳、天武・持統陵、菖蒲池古墳)が高松塚は最初から合葬を意図していない。(ふたつの棺を置くスペースがない)
・天武ごろからの伝世品が正倉院などにあるのは、天皇が火葬されて副葬品が墓に治められなくなったからかも。
・条坊制をもった都城の形成はやはり中国的なもので、朝鮮とはすぐにつながらない。だから、そういう都城の制が藤原京から始まるのか、もっとさかのぼるのか、その時期がちょっと問題です。しかもそれを計画し、実施に移しているのは東漢氏ですから、そういうところにもなおもっと考えるべき問題があると思います。(原文ママ。p130より引用)

これは条坊制の都・藤原京を計画して作ったのは東漢氏だという意味だと思う。
そのような史料があるのだろうか。ネットで調べてもわからなかった。

藤原京という名前は、1913年に喜田貞吉が『藤原京考証』を書いたことから、そう呼ばれるようになったそうで
当時は藤原京とはいっていなかったそうだ。
『日本書紀』などには新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)と記されているらしい。
なぜ喜田氏が藤原京という言葉を用いたのかというと、その新益京にあった皇居が藤原宮と呼ばれていたからだという。

日本書紀持統天皇の条には「高市皇子、藤原の宮地を観す」「天皇、藤原に幸して宮地を観す」とあり、
藤原という地名の場所に宮を作ったようである。

藤原と聞いて誰もが思い浮かべるのが藤原氏だろう。
藤原氏の祖は藤原(中臣)鎌足(614年ー669年)で、彼は死の間際に天智天皇より藤原姓を賜ったという。
そして新益京遷都は694年。このころ藤原宮も完成していたのではないだろうか。
つまり、694年当時、臣下に藤原氏がいた。その臣下の名前を宮の名前としているわけで、奇妙な感じがする。

鎌足が藤原姓を賜ったのは、669年のはずだが、壬申の乱後、684年に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場しない。
『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場するのは685年9月。
藤原姓が与えられたのは鎌足一代であり、685年9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられたのではないか、という説を、高島正人氏は称えておられるそうである。
ナルホドと思うが、私は鎌足には藤原姓は与えられておらず、鎌足没後最初に「藤原」が登場する685年9月以前に初めて鎌足の子孫に藤原姓が与えられたのではないかと思う。
当時は家を重んじる社会であり、1代限り姓が与えられるというのは違和感があるからである。

鎌足(614年ー669年)の子で男子は定恵(643年666年)と藤原不比等(659年ー720年)の二人である。
定恵は僧侶なので子供はなく、鎌足よりも早くなくなっている。

「つまり、藤原姓を名乗ったのは藤原不比等の子孫のみ?」と思ってしまうが、そうではなく
不比等以外の中臣氏、中臣大嶋や中臣意美麻呂にも藤原姓があたえられたようである。
これは不比等がまだ幼かったためで、698年には鎌足の嫡男・不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻されている。

685年9月、正史に鎌足以降初めて藤原氏の名前が登場する。
その後、694年(天武天皇崩御後の持統天皇8年)に新益京遷都。
それ以前の676年に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手したという記録があり、新益京は天武天皇代から造営がすすめられたと考えられている。

藤原氏は藤原宮造営に功績があって、それで宮の名前である藤原姓を賜ったのではないかとする説を聞いた記憶がある。
たしかにそう考えれば、藤原氏と藤原宮が同じ名前であることの理由は納得できる。

天武天皇が新城の選定に着手した676年、不比等は17歳でまだ若すぎる。
おそらく、中臣大嶋や中臣意美麻呂らが藤原宮造営に功績があったのではないだろうか。

新益京の設計・造営は漢東氏が行い、藤原宮も漢東氏が造営したのかもしれないが、藤原氏は資金提供するなど何かしらの形でかかわったのではないかと思う。

・中尾山古墳と高松塚古墳は聖なるラインから100mほどずれているが、中尾山古墳と高松塚古墳は南北の関係にあるように思える。

このシンポジウムが行われた昭和47年、聖なるラインは藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳―高松塚古墳ー文武陵のことをいっていた。
実際に同一線上にあるのかと確認してみたが、中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳は若干西にずれている。
「中尾山古墳と高松塚古墳は南北の関係にある」とはいえそうだ。



しかし、近隣には聖なるラインから若干はずれた位置にある古墳が結構存在し、本当に聖なるラインといっていいのかどうかと悩んだりしてしまう。

・高松塚から石(墓碑)を運び出したという話もある




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