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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉖高松塚古墳男子像と法隆寺壁画菩薩像の唇


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「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣久野健氏の説

①橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか?

・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。

天寿国繍張

天寿国繍張

聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。

橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。
古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。

⓶塼仏

・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。
凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。
現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。
しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。

・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。

・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。

長谷寺の法華説相銅板

・日本の塼仏出土例
奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

橘寺の塼仏が最も古い時期のものと考えられる。
・橘寺は聖徳太子創建と伝えられるが、福山敏男氏は古瓦や塔跡の礎石からみて、天智ああの前半としている。
・大阪・野中寺に伝わる弥勒半跏像の銘文に、「丙寅の年、橘寺の知識118人が中宮天皇のために造った」というような内容が記されており、丙寅は天智5年(666年)と推定されている。
橘寺ではなく柏寺ではないかとする説もあるが、橘寺が正しいとすれば、橘寺は666年までには建立されていたことになる。

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

・橘寺の塼仏と野中寺の弥勒像を比較した結果から、橘寺塼仏が野中寺像よりのちに製作されたものと考えられる。
(なぜ先ではなく、のちなのか。この説明ではわからない。)
野中寺・・・肉つきがよい。胴のくびれが少ない。頭部に丸みがある。やや面長。顎が小さい。
橘寺・・・頬がふっくらしている。顎もやや大きい。

滋賀県崇福寺出土の塼仏 崇福寺は天智天皇が創建した寺。668年(菅家文章は671年とする。)天武朝とする説もある。
橘寺のものよりさらに成熟したデザイン。

・橘寺の塼仏に似たものが、唐にある。「大唐善業」の銘文があり、唐代での政策であることがわかる。
橘寺塼仏から考えて、天智朝に唐朝文化が入っていたことを示す。

③山田寺

・天武朝期にはさらに成熟した唐文化がはいってくる。
山田寺出土の塼仏と仏頭がそれを示す。

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

・山田寺造営は『上宮聖徳法王帝説』の裏書に記述がある。
それによれば、641年ごろ整地、644年金堂建立、648年僧を住まわせる。
649年、蘇我倉山田 石川麻呂、讒言によって自害する事件があり、一次中断。
673年、塔建造。678年丈六仏像鋳造はじまる。685年、開眼供養。天皇浄土寺に幸す。(このころにはほぼ完成していたか)

・山田寺塼仏は金堂土壇より出土する。堂内装飾として塼仏を配したのは685年ごろか。
・山田寺塼仏の大型如来胸部、脚部の断片は、紀寺畑出土とされる東京国立博物館の如来坐像と同じ型から製作されている。
・十二尊をひとつの型からぬいた塼仏は諸家に多く分蔵されている。
・玉虫厨子の宮殿内部の押出千仏像のような役割をもっていたか。
・長谷寺の法華説相銅板(写真はブログ記事上にあります。)のように大型の如来を中心に、その周囲に千仏像や如来立像が組み合わされていたのだろう。

・九条兼実の『玉葉』によると、治承4年の兵火に焼けた興福寺の東金堂の本尊は、鎌倉時代の初めに山田寺から奪取してきた像。
室町時代に再び金堂が焼けた際、頭部だけ残り、昭和12年に同堂の仏壇下から発見された。

これについての私の見解は別ブログのこちらの記事に書いた。
山田寺跡 白藤 赤い楓 『興福寺はなぜ山田寺の仏像を欲したのか?』

・興福寺の仏頭は、山田寺の丈六像の頭部とみてさしつかえないだろう。唐美術の影響を顕著にあらわしている。

④夏美廃寺跡塼仏と高松塚古墳壁画の共通点

・夏見廃寺跡から出土した、京都大学文学部所蔵の如来および脇侍などをあらわした塼仏

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

金堂塼仏壁(復元)夏見廃寺展示館展示。

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

正面ではなく、側面をむいた人物像があらわされている。

・高松塚古墳壁画が天寿国繍張や玉虫厨子絵と異なり、横向きに人物が描かれている点が共通する。

高松塚古墳壁画 男子像

高松塚古墳壁画 男子群像

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳 女子群像

・塼仏は氏寺に多い。 
飛鳥寺、大官大寺、薬師寺、東大寺などの官立寺院には繍仏(刺繍で表現した仏画)はあったらしいが、塼仏は出土していない。
諸寺の資材帳、七大寺日記などの記事に、法隆寺の壁画のことは記されているが、そのほかの寺で壁画が描かれていたらしい記事は全くない。

法隆寺のように、壁画のある寺院は特異ではないか。

梅原猛氏は法隆寺や出雲大社のように壁画のある寺社は珍しく、怨霊を慰霊するために壁画は描かれたというような意味のことをおっしゃっていたが、やはり壁画があるのは珍しいのだ。

⑤法隆寺金堂壁画

・法隆寺壁画は同寺金堂の四面の12の壁画、飛天を描いた壁画20面、天井下の山岳中に座す羅漢を描いた壁画などの総称。
五重塔解体工事の際、当初層の四面の壁にも壁画が描かれていたことがわかり、これも含まれる。

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

・製作年代はかつて和銅年間(708-715)と考えられていたが、現在では(この本の初版の1947年当時)
五重塔壁画・・・和銅年間
金堂壁画・・・和銅よりも遡る
建築様式も五重塔と金堂はかなり差がある。(両者の雲形肘木や柱のちがい)

・顔料のちがい。
金堂の天井板・・・白・赤(朱)・緑・黒
五重塔の天井板・・・白・赤(ベンガラ)・緑・黒・褐・淡緑・淡褐色
五重塔の壁画の一部・・・赤(ベンガラ)が用いられている。
五重塔の壁画と天井板はほぼ平行して製作されたことをしめす。 (壁面のみ極彩色で天井が素木ではバランスがわるい)
金堂の壁画と天井板もほぼ同時に造られたのだろうが、五重塔とは同時ではないらしいと推定される。

・壁画の描き方は2種類。
❶壁面に白土か小粉を幅三尺づつ程度に塗り、乾かないうちに粉本に従って絵を描く。一部分が終わると次のパートにうつる。
(乾かない壁に彩色された顔料が壁画の中にしみこんで、乾くと一分ぐらいの層を顔料で形成して堅固に保たれる。色彩は鮮明、容易に剥落しない。完成までに時間がかかる。)
❷壁面全体に白下地を塗り、壁面が乾燥してから膠を混ぜた顔料で壁画を描く。補筆も可能。剥落しやすい。

・法隆寺の壁画は昭和24年の火災の時、消化ポンプの水を浴び彩色が剥落してしまったが、線の部分が釘ぼりになっていることが分かり❶の方法で描かれたらしいと推定された。

・高松塚がどちらの手法で描かれたのかは後の研究をまつしかない。

キトラ古墳の十二支寅像も、釘でほったような溝がある。

虎像

キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

来村多加史氏は著書「キトラ古墳は語る」の中で次のようにおっしゃっている。

寅像は下絵の線がヘラ状の道具で深く刻まれているために、写真にくっきりと像がうかびあがっている(口絵)。
「キトラ古墳は語る/来村多加史(日本放送出版協会)」p138より引用

・高松塚古墳壁画の男子像の唇の描き方は、下唇を二つの孤線を合わせたように描くが、法隆寺脇侍菩薩に共通する。

↑ こちらのサイトに法隆寺金堂壁画の画像が多数掲載されている。
その中の「第6壁 阿弥陀浄土 右,  観音菩薩像 頭部 ②」がこちら。↓

高松塚古墳 男子像

高松塚古墳 男子像(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

たしかに唇の描き方は共通している。

・法隆寺壁画は唐美術の影響を受けているが、線質、隈取をほどこす表現はさらに西方美術の結びつきが強い。
法隆寺壁画の線は鉄線描という、肥痩のない弾力性に飛んだ線。
『歴代名画記』によれば、初唐の画家・尉遅乙僧は壁画の名手で「屈鉄盤糸のごとし」と称された。
乙僧は西域・干蘭国の出身。『唐朝名画録』に「凹凸花の中に菩薩を描いた」とあるが、おそらく陰影を施し立体感を出した描法だろう。
この描法が日本に伝わったのではないか。

・649年に王玄策がインドの華氏城にあった仏足石を写し、中国にもちかえった。
さらに黄文本実が唐の普光寺でうつして日本に持ち帰った。これが薬師寺の仏足石の原図である。
彼はこのほかにも多くの文物・粉本を日本に持ち帰っただろう。(例/水臬/みずばかり=水準器)
黄文本実は鋳銭司に任じられたり、作殯宮司に任命されたりしており、仕事の幅が広いことがうかがえる。

・しかし7世紀半ばごろ、大陸の文物を日本に伝えたのは黄文本実だけではない。
百済や高句麗が滅亡した際、集団で日本に亡命した人の中に、多くの技術者がいた。
(東大寺大仏像造営に成功した国中公麻呂の祖父・国骨富もそのような亡命者のひとりか。)
新羅からも大勢の人がやってきた。こうしてできたのが白鳳文化。

白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。『日本書紀』に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。

『二中歴』等では661年〜683年。また、中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。

なお、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる。


高松塚古墳壁画に似た四神像をもつ薬師寺薬師三尊像はいつつくられた?

・高松塚四神図と薬師寺金堂薬師如来台座の四神の関係。
特に青龍は顎にXの模様がある点が同じ。

青龍✖印

高松塚古墳 青龍

・680年、天武天皇は皇后の病平癒を祈って寺と薬師如来像を発願したが、完成を見ずに崩御。
697年、薬師寺薬師如来開眼供養。
710年、平城京へ遷都。
717~729年、西ノ京へ移転。藤原京の薬師寺は元薬師寺として存続した。

・薬師寺縁起はふたつある。
a. 薬師如来は持統天皇が作った。
b.   平城京で新しく作った。
aが正しいと思う。その理由は、「七大寺巡礼私記」「諸寺縁起集」は持統天皇がつくったとしている。
「醍醐寺本諸寺縁起集」の「薬師寺縁起」は藤原京薬師寺から7日を掛けて運んだとする。
平城京で作ったとする縁起は全て近世以降のもの。

・岡倉天心が薬師寺を訪れた際、寺僧は「薬師三尊像は天平時代行基が作った」と説明した。
また日光菩薩・月光菩薩の腰のひねりなど、作風が完成しているので、持統期に造られたものではないとする意見がある。
しかし、塼仏を見ると、天智朝末には唐朝様式の影響がはじまっており、山田寺の塼仏など様式的にかなり熟しているように思える。

薬師三尊像

薬師三尊像






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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉕下人に落とされた檜前氏

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉔ 日本には墓碑の習慣があったかも?  よりつづきます~
トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣門脇禎二氏の説

①渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれた?

・応神天皇20年(記紀の記述をそのまま信用すると応神天皇20年は290年になるが、記紀の初期の天皇は100歳を超える長寿であるなど、実際よりも古いように描かれているとする説がある。実際には応神天皇は4世紀末から5世紀初めの人物と考えられている。)
東漢氏の祖先、阿智使主(あちのおみ)とその子の都賀使主(つかのおみ)が党類十七県の民をひきいてきた。

・772年、坂上大忌寸苅田麻呂(東漢氏の後裔)の上表文に、「檜忌前寸や右の十七県の民には大和国高市郡檜前村画与えられ、以来この地は他姓の者は十のうち一,二であった」とある。

・東漢直氏の実在人物は、592年の東漢直駒~677年の東漢直一族が叱責をうけたという記述のある期間に限られる。
阿智使主が民を率いてやってきてから、6世紀ごろより分裂、直の姓をもつ坂上、川原民、書など20近い小氏を生じていたと考えられている。

・しかしそうではなく、渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれたのではないか。

・坂上系譜『新撰姓氏録』逸聞は日本書記と異なり、二波に亘る渡来を伝える。
応神紀には「漢人七姓の子孫として14の民が渡来した」・・・檜前調使、檜前村主、阪合部首の祖
仁徳紀には「30の氏族が渡来して今来郡をたてた。」・・・飛鳥村主、牟佐村主、今木村主の祖

・上に挙げた氏族に含まれない別の渡来伝承をもつものが、檜前や檜前周辺では最も早く渡来定着したと考えられる。
乃ち、檜前の地に住んだ檜前村主、檜前調使の人々が最初の定着者だっただろう。
これは理由がしるされていない。

・ついで、身狭村主青、檜前民使い博徳が機織の公認を呉国の使いとともにつれ帰り、呉の使者らを檜隈のに住ませた。ここが呉原(現在の檜前東南型の栗原)の地名になった。
日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とあることを根拠とされているのだろう。

・檜前、呉原に早い時期での定着があり、桃原(渡来人を住まわせた場所)、真神原とともに渡来人の拠点となったのだろう。

②ヒノクマの地名は紀州の日前神からくる?

・檜前にやってきた人々はどこからやってきたのか。
一般的には河内の石川や飛鳥から東にむかってやってきたといわれる。

・古くからの河内と倭の貫通は龍田道で、葛城→平群→物部→蘇我の順で龍田道をおさえた。
大坂道(穴虫道、竹内道)は葛城大麻氏が抑えていたが、龍田道を物部氏がおさえてから、これに対抗して蘇我氏が抑えた。
おさえるとは具体的にどういうことだろうか。またこれを示す一次資料の提示がほしい。

・南大和から西へ向かう道は、檜前または曽我川に沿って古瀬に抜け、御所から着た道と五條で合祀て橋本、吉野川、紀の川へ通じる道が主道。
・川原民直宮という人の話も、上のルートが利用されていたことを思わせる。また川原あたりにも人が住み始めていた様子がうかがえる。

門脇氏のいう「川原民直宮という人の話」とは欽明天皇7年の次の話のことだろう。

欽明天皇秋7月。倭国の今来郡は言った。
「欽明天皇5年の春。川原民直宮が楼に登って、紀伊国の漁者の贄(神へ捧げる食料)を背負わせるのに、よい雌馬を見つけた。
この馬は影を見て高く鳴き、軽く、母馬の背を超えた。
川原民直宮は馬を買い取った。
馬は壮年になると、鴻(オオトリ)のように高く昇り、龍のように飛び、群から飛び出た。
乗り心地もたいへんよかった。
馬は大内丘(オオチノオカ=奈良県高市郡明日香村野口)の18丈(=約54m)の谷を超えた。
川原民直宮は檜隈邑の人です

・檜前と地名をつけた人々は紀の川河口の名草あたりからやってきた可能性もでてくる。
名草郡は渡来人が多い。紀国造は日前(ひのくま)、国懸神を祀り続けた。
和歌山県和歌山市に日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮・くにかかすじんぐう)が同じ境内に祀られている。紀伊国一宮。

・ヒノクマの神は現地の溝を守る農業神で、日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわりであった。紀伊のヒノクマという名前が大和にもちこまれた可能性は大きい。
ヒノクマの神が溝を守る守護神であるというのは、わからなかった。
また「日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわり」とはどういうことなのか、もよくわからない。日前神宮の祭神・日前大神は天照大神の別名であるとして、朝廷は神階を贈らない別格の社として特別な信仰をよせていたらしい。

・高田皇子(宣下天皇)の宮が檜前廬入野に営まれ、「檜前天皇」などとも記された。
「檜前五百野宮」と記す関連資料もあるのでその史実性を疑う必要はない。
檜前五百野宮は於美阿志神社に比定される。
檜前に宮が作られたのは蘇我稲目と関係がある。

宮の記述があるとなぜ史実性を疑う必要がないのか、この説明ではちょっとわからない。
宣下天皇は継体天皇の子で欽明天皇とは異母兄弟にあたる。


③蘇我満智と木満致は同一人物説

・蘇我氏が東漢氏、その中核の檜前氏と結びついたのは、5世紀~6世紀初に大王であった雄略天皇(倭王武)の時代ではないか。
・雄記紀に「唯愛寵(めぐ)みたまふ所は、史部の身狭村主青、檜前民使博徳らのみなり。」とある。
・雄略天皇の時代、百済の官人・木満致(木刕満致)が渡来し、曽我川に沿う南大和の曽我(橿原市曽我町)に定着の土地が与えられた。
蘇我鞍作(入鹿)は林太郎鞍作ともいわれ、林氏は「百済国人木貴の後なり」という言い伝えがあったことも傍証になる。
河内の石川に定着した渡来人が大和に入り、蘇我氏を形成した。

わかりにくい文章なのだが、門脇氏は、木満致が蘇我氏の祖であると考えられているのではないかと思う。
5世紀後半頃、蘇我満智(そがのまち)という人物がおり、木満致と音が通じることから同一人物とし、木満致が日本に渡来して蘇我氏を興したとする説がある。

その説の概要は
応神天皇25年を干支3運繰り下げると西暦474年となって蓋鹵王21年(475年)にほぼ等しい。
木満致の日本への召し出し=文周王・木刕満致の「南」への派遣ではないか。
というものである。

これに対する批判としては、
〇応神天皇紀は通常干支2運を繰り下げる。
〇木満致・木刕満致や蘇我満智の所伝年代に開きがある。
〇大姓の「木」を捨てる根拠がない。
〇秦氏・漢氏が渡来系を称するので当時の情勢として出自を偽ることは不可能
〇文周王は新羅に向かったと読める。
などがあげられる。

⓻継体天皇の謎

・6世紀半ば、北陸から迎立された継体天皇は531年の辛亥の政変で倒れる。

継体天皇についてここで勉強しておこう。😅 以下、ウィキペディア継体天皇の記事をまとめた。

記紀は継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)とする。垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも、(日本書記)
450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生し、幼い時に父が死亡。
母・振媛の故郷・越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)で育ち、「男大迹王」として越前地方を統治した。(日本書記)
しかし古事記には、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細に記しているが、その後約50年の記録がなく、次に記述があるのは57歳ごろとなっていて、越前の名前は出てこない。このことから、継体天皇はずっと近江に板のではないかとする説もある。
506年、暴君・武烈天皇が後嗣を定めずに崩御。
大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)の14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を天皇にしようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
そこで大伴金村が「男大迹王に皇位を継いで頂こう。」といい、男大迹王を迎えにいった。
しかし男大迹王は群臣を疑って即位を拒む。
群臣のひとりで男大迹王の知人であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)は、使者をおくってり、男大迹王を説得させた。
507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)で即位。

樟葉宮跡

樟葉宮跡

511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。
512年、 百済から要請があり、救援の軍を九州北部に送る。
527年新羅と通じた筑紫君・磐井が朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍を阻む。
528年、磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧された。
531年、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、即位の同日に崩御した。(古事記は継体の没年を527年とする。)

日本書紀注釈は百済本記の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述を引用している。
継体の後継者・安閑・宣化と、即位後に世子(世継)とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。
しかし「天皇」が誰を指すのか不明であり、百済の歴史書の信憑性を疑問視する意見もある。

『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によれば、
「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されている。
しかし欽明朝に戊午年は存在しない。
継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たる。

真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(継体とその皇子の安閑、宣化の石棺か)


今城塚古墳 復元石棺

今城塚古墳復元石棺 今城塚古墳歴史館にて撮影(撮影可)

辛亥の年は531年ではなく60年前の471年とする説もある。
記紀によれば干支の一回り昔の辛亥の年に20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄八釣白彦皇子や従兄弟市辺押磐皇子を殺して大王位に即いている。
「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞を『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈したのではないかとする説もある。

⑧蘇我氏と継体・安閑・宣化天皇の関係

・勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)の名の勾(橿原市曲川町)や高田大和高田市が宮の所在地や生母の住地に関係しているとすれば、曽我氏の本拠地(前述の曽我川に沿う橿原市曽我町のことをさしている?)に近い。
勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)は継体天皇の子であり、継体天皇大和迎え入れに蘇我氏の力が働いていたのではないか。


・蘇我氏は大王高田皇子(宣化天皇)と姻戚関係を結んでいた形跡もある。
古事記には欽明天皇の息子に宗我の倉王の名前がある。母は春日糠子郎女。
同母兄弟は、春日山田郎女、麻呂古王なので、倉王だけが宗賀の倉主というのは不可解。
父親が欽明天皇ではないか、糠子郎女の子ではないと見るのが自然。
日本書紀には倉皇子があり、母親は日影皇女。日影皇女は欽明紀に宣下天皇皇女とあるが、宣下紀には記述がない。
倉皇子を生んだ日影皇女の母后の姓は宗賀臣ではないか。

・このような経緯を経て蘇我氏は東漢直氏の主要氏族である檜前村主氏の住地に大王高田皇子(宣化天皇)の宮を営ませたのだろう。

・蘇我稲目の政治・・・対新羅関係の悪化に備えて、瀬戸内の要塞と北九州の防備を固めている。
百済に遣わしていた日羅を大伴金村を通じて償還しようとしたのも、現地の情報を得るためだろう。
檜隅廬入宮の警衛も固めた。
警衛は東漢直氏や檜隅村主氏のほか、地方から徴発された。
舎人や名代、子代の称は上番出仕した宮号にちなんでつけられたらしい。
檜前舎人造のもとに檜前舎人や舎人部が指定されたのも、この宮号によるものだろう。
檜前舎人、檜前君を称した人々は、上総国海上部や上毛野佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に指定されており、檜隅の名前が広まった。


・大伴氏の勢力が弱まり、蘇我馬子と、物部守屋が権力を握り、対立する。
物部氏が龍田道を抑えていたのに対し、曽我氏は竹内峠、穴虫峠の確保を急いだ。
(抑えるとは具体的にどういうことなのかな?)
蘇我氏は二上山東山麓の葛城当麻氏を配下にして、大阪路の通行権をおさえ、朝鮮渡来の人々を積極的に迎え入れた。
・坂上氏系図には忌寸の姓をもつ東漢氏を構成した多くの氏族がいる。大阪道から渡来した者だろう。
都賀使主(=東漢直掬(やまとのあやのあたい つか)を祖とし、高松塚の所在地の字名・平田氏も登場する。

⑨今木の双墓はどこにある?

平安時代の興福寺今木御庄から逆推して、三条里地区(檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里)と葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があったのではないかと指摘されている。(秋山論文)
今木の双墓の所在地から考えても支持したい。檜前直と称する一族が葛上郡にいたことも傍証になる。

国見山塊西の葛上郡南郷(今の御所市南部)も今木郡だった可能性があり、蘇我蝦夷・入鹿の墓とされる水泥古墳は御所市にあるので、これが今木の双墓の可能性がある、ということだろう。

今木の双墓とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。
1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと言われていた。
門脇氏がおっしゃる「今木の双墓」とは御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳を指すものと思われる。

しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。

近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。

蝦夷・入鹿の死よりも20年早いというのはどのようにして判断されたのだろう。
これについては調べたりないせいかわからなかった。

形状 方墳
規模 東西72m(北辺)・80m超(南辺)南北約70m

小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。


一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3 より引用

段ノ塚古墳は上八角下方墳であり、八角墳は天皇陵に多い形であるため、舒明天皇(天智・天武天皇父)陵である可能性は高いと思う。

小山田古墳は八角墳ではなく、方墳であるが、天皇陵として最初の八角墳が段ノ塚古墳であるならば、小山田古墳は舒明天皇の初葬地の滑谷岡である可能性はある。

↓こちらの記事に現地説明会のようすなど詳しく説明されていた。


見つかった土器や瓦片から、橿考研は築造時期を640年ごろと推定。石舞台古墳石室(全長約19メートル)を上回る全長30メートルクラスの大石室がつくられていた可能性もある。

 日本書紀によると、舒明天皇は641年に崩御。翌年、飛鳥の「滑谷岡」に埋葬され、崩御から2年後に現在の押坂陵(おしさかのみささぎ)(段ノ塚古墳、奈良県桜井市)に改葬された。菅谷文則・橿考研所長は「今回の調査で、築造年代や墳丘規模など『舒明天皇の初葬墓』説を補強する新たな材料がたくさん出てきた。舒明天皇の初葬墓であるという考えはゆるぎないものになったと思う」としている。


今尾文昭・元橿考研調査課長も「周辺では西側の谷を埋めて高い盛り土をするなどすごい造成工事をして築造している。大王家(天皇家)の力をみせようと、飛鳥の目立つ場所に造った大古墳だ」とみる。

 一方、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は濠(ほり)の遺構が見つかった平成27年には「被葬者の第1候補は舒明天皇」としていたが、「蝦夷の大陵の可能性の方が大きい」と見解を変更。今回、蘇我氏ゆかりの豊浦(とゆら)寺(明日香村)出土の瓦と同タイプの瓦が見つかったことなどを理由にあげた。「石室は全長30メートルぐらいの規模だろう」と推理する。

 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長は「7世紀の中ごろに飛鳥のど真ん中に墓をつくることができるのは蘇我氏の族長以外に考えられず、被葬者は蝦夷とみるのが常識的な理解」とし、「舒明天皇の初葬墓は、埋葬翌年に改葬している。あんな立派なものを造ってすぐに改葬したと考えるのは無理がある」と語る。

 一貫して「蝦夷の大陵」説を唱える泉森皎・元橿考研副所長は「日本書紀が『大陵』と伝えるにふさわしい大きさだ。当時使われていた高麗尺(こまじゃく)で考えると、一辺は約200尺。ピラミッドのような段築(だんちく)構造の方墳だったと思う」としている。


小山田古墳の被葬者が誰なのか、ということは高松塚古墳の被葬者について考える上で重要である。
小山田古墳の被葬者が蘇我蝦夷であるとすれば、近くにある方墳・菖蒲池古墳は、今木の双墓(蘇我蝦夷の大陵と、蘇我入鹿の小陵)のうちの小陵、蘇我入鹿の墓の可能性が高くなる。

そして菖蒲池古墳は、聖なるライン(天智陵ー平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵ーキトラ古墳とほぼ一直線に南北につながるライン)上にあるからだ。

つまり、秋山論文が指摘する「葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があった」がまちがいであっても、檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里が今木郡であった可能性は高く、
その檜前の地にある小山田古墳は蘇我蝦夷、聖なるライン上にある菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓であるかもしれない、ということである。

⓾東漢直氏

・東漢直氏と高市県主との関係
古くから高市県主の名がみえ、壬申の乱でも高市郡司として高木県主・許梅(こめ)の名がみえる。
高木県主が祀っていた高市社は高市御県座事代主社(橿原市雲梯町)
地域的には高市県主と東漢直氏(や檜前氏〉との競合関係はみられない。
むしろ、東西にひろがっていた今木郡のうち、曾我川東岸のヒノクマも含めた地をのちに高市郡の南部に加え,西岸は葛城上郡に加えて行政区としたのだろう。
檜前の人々は今木郡の人々と結合が強かっただろう。

檜前は今来ではないという事だろうか?
しかし「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)とあり、
『和名類聚抄』(931年 - 938年ごろ、源順が編纂した辞書)には高市郡の郷として、巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美とあると言う事なので、檜前は今木郡にあったのではないかと思われる。

・今来郡に分住した渡来人諸集団が6世紀末ごろ、東(倭)漢氏年て総称的氏族を称し、直の姓を与えられたのだろう。
そして東漢直氏は蘇我氏を支える最大の力になった。
・東漢直氏の力を用いて、蘇我馬子は物部守屋を倒す。
蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした587年の丁未の乱において、東漢直氏は具体的にどのような活躍をしたのか。

・570年、東漢直糠児は越に渡来した高句麗使を迎えにいっている。
・572年ごろ、東漢坂上直子麻呂、高句麗使の接待を行う。
・592年東漢駒(姓は直)が馬子に命じられて崇峻天皇を殺害し、馬子の娘・河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪らの妻として馬子に殺害されている。
・高松塚のある平田に人々が定着したのは6世紀末から7世紀初ではないか。
612年に渡来した百済人・味摩之(みまし)より呉の伎楽舞を学んだ二人の弟子のうちひとりは新漢斉文といい、彼が
辟田首(さきたのおびと)らの先祖とされている。辟田は平田、枚田とも書かれた。
・蘇我馬子は檜前坂合陵の上に砂礫をしき、氏ごとに柱を競立させたが、東漢坂上直氏が特に大きな柱をたてた。
・中尾山古墳、高松塚、文武陵、墓山古墳(吉備姫王墓のことか?)は何故檜前の地にあるのか。

⑪檜前はいかにして国家権力の統治を受ける地となったか。

・蘇我蝦夷、入鹿のころより東漢氏は分裂状態になったと思われる。
厩戸皇子の舎人・調子麻呂は山背大兄が蘇我入鹿に責められて一族もろとも自殺するまで上宮王家に従った。
蘇我本宗毛滅亡の時、高向氏の国押は蘇我討滅派。
東漢氏の諸反族も蘇我本宗家滅亡に際して四散した。
檜前氏のその後の動きはしばらく正史にみえない。
東漢坂上氏の系譜には、檜前忌寸はみえない。
平田氏は兄腹の山本直に、呉原氏は中腹の代2子志多直に、川原氏は同弟三子の阿良直に結ぶ系譜となっている。
壬申の乱では、坂上直熊毛は近江朝側だったが、一族は大海人皇子側につく。
ところが大海人皇子=天武天皇は他氏の関与を拝して王権を拡大させた。
・677年、東漢直氏は叱責される。
「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田御世より近江朝に至るまで、常に汝等に謀るを以て事とせしも、今朕が世に当たりては、将に汝等の不しき状を責め、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大恩を降して原したまふ」

このときより後、東漢氏は宮廷への出仕から排除され、檜隈氏に代わって東漢氏の中心にたった坂上氏たちさえ、平安時代初めまで「下人の卑姓」者の扱いを受けることになった。

・東漢直氏が犯した「7つの不可」を明確に示す史料はない。
この檜前の地は国家権力の直接的統制を受ける地となり、住民は下人とされた。

⑫檜前の人々は墳墓造営の地と仕事を提供した?

・中尾山古墳、高松塚は厳密には「聖なるライン」に乗らない。
檜前・呉原の中にはいる。

「檜前・呉原」の中にはいるという表現はわかりにくいが、「聖なるライン」は存在しないという意味かもしれない。
私も何度も飛鳥の地図を眺めるうちに、聖なるラインは存在しないのではないかと思うことがあった。
しかし全く関係がないというわけではなく、ライン上の古墳がのっているというよりは、飛鳥地域の古墳群が一塊になる形で、天智天皇陵ー平城京ー藤原京に繋がっているのではないかという思いが頭をよぎった。

・檜前の人々は地位挽回のため、進んで墳墓造営の地と仕事を提供した可能性もある。
・東漢坂上直氏は叱責を受けるどころか、坂上姓をえて坂上大忌寸として栄進している。(坂上直熊毛、国麻呂ら)
彼らは同族諸氏族の勢力挽回にもつとめた。
・枚田忌寸安麻呂は740年、外従五位下にのぼった。
・729年、民忌寸 志比ら、先祖・阿智使主の応神朝に聞かせるを上申。(?意味がわからず)
731年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡少領に任ぜられる。
739年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡大領に転じ、蚊屋忌寸子虫が同少領。
765年、文山口忌寸公麻呂、高市郡大領に任ぜられる。
772年、檜前忌寸を高市郡司に任ずべきことを上申。檜前氏、下人から宿祢に。

・橿原考古学研究所の中間報告では高松塚造営は7世紀末~8世紀初に絞られている。677年(東漢直氏が叱責された年)以降と言ってもいいのではないか。
・宮門警備の下人の住地に貴人の墓地が作られた。
・平田氏は東漢氏の中でも坂上氏と結んでいった。坂上氏は壬申の乱の功臣として地位を保持。配下の平田忌寸氏とともに王族の陵墓造営の地を提供したのかも。
・下人の地位におとされたが、新しい葬礼を創出しようとしたのかもしれない。この場合、高松塚は王族に限らない。









シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉔ 日本には墓碑の習慣があったかも?

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。


1⃣秋山日出雄氏の説
②飛鳥の古墳

・喪葬令 皇陵の兆域内には葬埋、耕牧を禁止。

・石舞台古墳 昭和8年、末永氏によって調査が行われ、濠をめぐらせた一辺50mの方形古墳。

石舞台古墳

・高松塚古墳は石舞台古墳と対照的。

高松塚古墳

高松塚古墳

・石舞台・・・底石はない。玄室奥の側石が建てられてから両側石がたてられ、天井石は奥のほうにおく。
・高松塚・・・底石がある。底石を敷き、両側、奥が組まれ、天井石で覆い、棺を入れたのち、手前の側石で封鎖する。
(最後に閉鎖することを考慮して石が組まれる。)石を矩形に伐る。

高松塚 解体実験用石室

高松塚古墳石室 展開模式図(飛鳥資料館にて撮影)

・鬼の厠、牽牛子塚古墳は、三方の側石と天上石を一石で切り出している。

鬼の厠

鬼の厠

牽牛子塚古墳 図

牽牛子塚古墳 埋葬施設(牽牛子塚古墳 説明版より)

図をみると牽牛子塚古墳石槨を囲うのは切石だが、石槨は一枚岩で作られているようである。
「横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもの」
とウィキペディアは説明している。

・岩屋山古墳は石の表面は平滑になってきているが、稜角が直角になっていない。

岩屋山古墳

岩屋山古墳

岩屋山古墳 石室内部

岩屋山古墳 石室内部

③高松塚は薄葬令や浄御原令以降に作られた?

・持統5年以降、日本書記に賻物(ふもち/ふもつ 死者に贈る品物)の記事がある。
賻物の初見が持統5年以降。直前の持統3年に浄御原令が出されている。
浄御原令に喪葬令賻物条があり、それに従って葬送を実施していたのだろう。
古代葬制史上、浄御原令(689年)の影響は大きい。

・大化の薄葬令(646年)には王以上には轜車(きぐるま/棺を運ぶ車)を用いると規定されている。
養老喪葬令葬具条には、親王・一品・太政大臣には轜車を用いると規定されている。
木棺(たぶん石棺では車で運べないということだと思う)実例から考えると漆棺を運んだのだろう。

・高松塚の古墳の規模は大化薄葬令にあっているし、出土した棺は漆棺であるので、薄送令(薄葬令の誤りと思われる)や浄御原令以降に作られたものだろう。

以前の記事でも書いたが、高松塚の古墳の大きさは薄葬令にはあっていない。

下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
薄葬令よりも広さが大きい古墳を赤で示してみよう ※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m                
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)    
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)

このように薄葬令の基準を上回る古墳のほうが断然多いが、高さは薄葬令の5尋を上回るものはない。
力学的に広さ9尋に対して、高さ5尋はムリということなのではないかと思うのだが、どうだろう?

仁徳天皇陵古墳の陪塚に源右衛門山古墳がある。
仁徳天皇陵がつくられたのは5世紀前期から中期とされているので、その陪塚とされる源右衛門山古墳も同時期のものだと考えられるが、その大きさは直径34m、高さ5.4mである。
これは上にあげた終末期古墳のサイズと同程度であり、古墳のサイズだけで時代を出すことは難しそうだ。
高松塚の場合は、石室のつくりや、壁画に描かれたファッションなどが築造時期特定の参考になると思う。
副葬品の海獣葡萄鏡なども年代特定の参考になるが、鏡の製作年代と、それを副葬品として納めた年代が同じとは限らないので、決定打にはなりにくいと思う。

④日本に墓誌の習慣はあったのかも?

・薄葬令では大仁以下は封土の築造が禁止されているが、封土のない古墳の被葬者は墓誌名から大仁以下であることがわかる。考古学的調査と令の制度が一致している。

「ウィキペディア金石文 墓誌・墓碑・墓誌銘」の頁に、日本で発見された墓誌は18例あると説明がある。

〇船王後 (?ー642年)大仁 /大阪府柏原市 出土地は不明。
〇小野毛人 (?ー677年)大錦上(たいきんじょう 26階中7位)/https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=675
〇文禰麻呂(?ー707年) 従四位下 /奈良県宇陀市文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)

文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)

〇威奈大村(707年) 正五位下 / 奈良県香芝市 江戸時代、二上山麓・葛下郡馬場村の西にあった「穴虫山」より出土
〇下道国勝・国依の母 (?ー708年)  岡山県小田郡矢掛町/下道国勝は吉備真備の父。http://geo.d51498.com/qbpbd900/simotumiti.html
伊福吉部徳足比売 (?ー708年)従七位下 / 鳥取県鳥取市文武天皇の采女https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1096974936984/index.html
〇太安麻呂 (?ー723年) 従四位下/奈良県奈良市 https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_kiki/k05/
〇山代真作 (?ー728年)従六位上/ 奈良県五條市  大阿太小学校付近とされるも不明
〇小治田安万侶 (?年ー729年)従四位下 蘇我稲目の後裔/  奈良県奈良市 

小治田安萬侶墓

小治田安萬侶墓

〇美努岡万(661年ー730年) 奈良県生駒市 /https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0789.html
〇楊貴氏 (墓碑製作739年) 奈良県五條市 (非現存)吉備真備の母/五條西中学校の敷地に墓碑がたてられているが、大正時代にたてられたもの。所在地不明。記録から墳丘や盛土による古墓ではなかったと考えられる。
〇行基 ((668年ー749年)  奈良県生駒市

行基墓

行基墓 竹林寺

〇石川年足 (688年ー762年)正三位/  大阪府高槻市  https://blog.goo.ne.jp/tottuan310920/e/0a65371d291a73544f11f9ef4d12b211
〇宇治宿禰 (墓誌製作年768年?)/  京都府京都市 
〇高屋枚人 (墓誌製作年776年)/ 大阪府南河内郡太子町 高屋連枚人墓誌  叡福寺
〇紀吉継 (?ー784年/ 大阪府南河内郡太子町)紀広純の娘/二上山麓
〇日置(郡)公(?)/  熊本県玉名郡和水町 (非現存) 

画像がみつからないものも多いが、画像がみつかったもののみでは、封土はないか、あっても大変小さいもののように見える。

それはともかく、私は今まで、日本には墓碑を残す習慣がないと思っていたのだが、確認されているだけで18例あるということは、「日本には墓碑を残す習慣がない」という認識は変える必要があるのではないかと思った。

船王後の墓誌の様に銅などの金属で作られた墓碑は錆びて朽ちてしまったり、文字の判別が不可能な状態になってしまったのかもしれない。
あるいは盗掘されてしまった可能性もある。

また威奈大村のように、骨蔵器に墓碑が刻まれたものもある。
そこで思い出すのが、持統天皇の骨を入れた銀の骨壺である。
この骨壺は盗掘されてしまって現存しないのだが、もしかしたら、墓碑のようなものが記されていたのではないか、と思ったりする。

また、シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉒様々な終末期古墳 において
奈良豆比古神社に元明天皇の墓誌の拓本が保存されていること、群馬の山ノ上の采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)について記したが、これについては、ウィキペディアの18例には含まれていない。

天皇陵はほとんど発掘調査が行われていないが、調査すると墓碑がでてくる可能性があるのではないか、と思った。

そしてやはり気になるのは「高松塚から石(墓碑)を運び出したという土地の伝えがある。」という岸俊男氏の発言である。




シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉓隼人石に描かれた動物は被葬者に地獄の責め苦を行う?

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣斎藤忠氏の説

①高松塚と同様の画題をもつ壁画古墳

・永池古墳に翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。https://saga-museum.jp/museum/files/kanpo015.pdf
翳とは下の高松塚古墳壁画の黄色の着物を北女性が手にもっている団扇のようなものである。

高松塚古墳 女子群像

・珍敷塚古墳 ガマガエルが描かれている。高句麗壁画古墳の影響。
ガマガエルだけでなく、鳥(八咫烏?)・月・太陽のようなものも描かれている。

珍敷塚古墳

珍敷塚古墳 キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

・竹原古墳 玄武・青龍・鳳凰・さしばが描かれている。


九州の装飾古墳である永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などに、斎藤氏は高松塚と同様の画題があると指摘される。
以前にも述べたが、九州の装飾古墳と奈良の高松塚・キトラ古墳の違いについて、絵のタッチの違いが述べられることはよくあるが、さしば・四神・高句麗の影響などの共通点は述べられることが少ないような気がする。
キトラ古墳 四神の館に展示されていた説明版でも絵のタッチの違いについて説明されていただけだった。
しかし、高松塚・キトラ古墳と同様の画題、四神、日月、さしばなどが九州の装飾古墳にも描かれていることは、認識しておいた方がいいと思う。

平安時代の僧・空也像にもいろいろな雰囲気を持つ像が存在する。
しかし像の雰囲気が違っても、口からみほとけがほとばしり出る表現は同じであり、空也に対する信仰が存在することも同じなのである。
これと同じことが、古墳の壁画にもいえると思う。
絵のタッチは違えど、四神や日月に対する信仰があり、さしばを用いた儀式を重んじる気持ちも同じように持っていたと考えられるだろう。

⓶日本の壁画古墳は高句麗の影響?中国の影響?

・高句麗壁画古墳・・・先行文化である古代中国の壁画古墳、北魏の寺院、石窟壁画の影響に高句麗の文化がミックスしたもの。4世紀中~8、9世紀。高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。

4世紀は301年から400年、8世紀は701年から800年である。
高句麗が滅んだのが668年で、それ以前に高句麗壁画古墳が終わっていたのであれば、4世紀中~7世紀というべきではないのだろうか?

・百済の壁画古墳は韓国忠清南道広州や扶余に残っている。唐の影響のほか、高句麗の影響も考えられる。

・日ノ岡古墳(https://ukihalove.jp/contents/hinookakofun/)、珍敷塚古墳、竹原古墳が築造されたのは6世紀~7世紀前半。
これらの古墳は直接高句麗と関係があったか、新羅を通じて間接的に影響をうけたのかは検討を要する。
国と国との外交によるものではなく、民間における外交によるものだろう。

・日本で装飾古墳として最初に発達したと考えられている大阪の玉手山古墳出土の直弧文をほどこした石棺。
大阪府柏原市 勝負山古墳(玉手山古墳群のひとつ)出土割竹型石棺 

勝負山古墳(玉手山古墳群のひとつ)出土割竹型石棺

玉手山古墳出土石棺

勝負山古墳出土割竹型石棺-直弧紋

玉手山古墳出土石棺 直弧文

直弧文は日本のオリジナルデザイン。
勝負山古墳は大型の前方後円墳(墳丘長95メートル以上)なので高い身分の人だろう。


直弧文 直線と弧線を巧みに組み合わせた日本独自の文様。

この石棺はいつ発掘されたものなのかわからないが、安福寺の境内に手水鉢として置かれており、勝負山古墳のものだと伝えられている。
同様の石棺は四国の前期古墳から出土しているとのこと。


③高松塚は高句麗ではなく、唐の影響を受けている?

・多くの学者が高松塚古墳を高句麗系と考えている。
四神は北朝鮮の平安南道江西郡江西郡江西面遇賢里の大墓、中国吉林省の通溝の四神塚などにもある。

玄武と朱雀

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)
蘇思勖墓は中国西安にある。

・星辰図も似たようなものが中国、高句麗にあるが、高松塚のような女子群像は高句麗にはない。
中国の永泰公主墓(706年造営)に似ている。北魏で好んで描かれた画題。
高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。
高松塚の造営は7世紀終末、8世紀初頭。高句麗壁画古墳が終わってから、40~50年たっているので、初唐の影響を考えるべき。
当時、唐の影響をうけて天文陰陽思想が発達し、天武天皇は天文台を作った。
中務省に画工司が置かれ、日本の画師が活躍していた。
持統天皇6年には日本の画師音橿に位を授けている。(高句麗の画師でなくても描ける、ということだろう。)
高松塚壁画の系統は初唐にあったと考える。

新羅にその占星台が残っていて、新羅から日本へ伝わったとする記事もあるが、なぜ唐から伝わったといえるのだろうか?

・多くの人は飛鳥に同じような壁画古墳があると考えているが、斎藤氏は高松塚はただ一つの壁画古墳と考えている。
その理由は聖武天皇皇太子那富山墓に隼人石があるのは、新羅の墓制の影響をうけたただひとつの例であったため。

斎藤氏がこの記事を書いて以降にキトラ古墳に同様の壁画が描かれているのが発見された。
なので高松塚古墳はただ一つの壁画古墳ではなかったことが明かになった。
そうではあるが、斎藤氏のおっしゃっていることは、あながち間違いとも言い切れないかもしれないと思う。
高松塚はただ一つの壁画古墳ではなかったが、今のところ飛鳥では壁画古墳は高松塚とキトラしかところ発見されていない。(すでに述べたように、永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などには高松塚と同様の画題を描いた壁画古墳がある。)
もしかすると、四神や星宿図(天文図)を描いた壁画古墳は、畿内では高松塚・キトラ古墳だけであるかもしれない。

もしそれが正しければ、どうなるか。
高松塚とキトラの被葬者は関係の深い人物であり、またこの2人に限って壁画が描かれる特別な理由があったのではないかと思えてくる。

④キトラ古墳と隼人石は関係がある?

ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。

那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!

虎像

キトラ虎像

現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。
が、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。


第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。
第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。
第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている

大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。はやといし
杜本神社 隼人石

⑤杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?

先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。
境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。

藤原永手 墓誌2

藤原永手の墓碑

藤原永手 墓誌

藤原永手の墓碑
上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。

藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。

日本霊異記紀にこんな話がある。
藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。

もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。
いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、この中国の仏画である。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

この仏画はウィキペディアにあったものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94#%E4%B8%AD%E5%9B%BD
製作年代、作者などわからないが、いわゆる地獄絵のようである。
日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。

杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。

中国の十二支像は手に武器をもっていないが、高句麗の十二支は手に武器をもっている。
しかもそれは、上の中国の仏画野の獣面人身のものたちが手に持っている道具によく似ている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

韓国金庚信墓十二支像(拓本)キトラ 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。
キトラ  子丑戌亥


キトラ古墳 子像、丑像、戌像,亥像。キトラ古墳 四神の館にて撮影。

⑥聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?

隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。

ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」
被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。

基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。

那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?

1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?
彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。

彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。

称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
聖徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?

藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。
藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。






シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉒様々な終末期古墳

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣森浩一氏の説

①版築は寺院の土檀の築き方を応用しているとはいえないのでは。

・家型横口石槨は河内の石川と大和川の合流地点あたり、「近つ飛鳥)に多い。

横口式石槨(よこぐちしきせっかく)とは、後期~終末期の古墳にみられる横穴式墓制の一つである。石棺式石室とも言う。
切石を用いて、内部に木棺や乾漆棺を納められるよう程度の大きさに造られ、短辺の小口部が開口する。前室や羨道が付く場合もある。
主として畿内に分布し、大阪府羽曳野市の観音塚古墳や奈良県明日香村の高松塚古墳などが代表的な例。

観音塚古墳

観音塚古墳

高松塚古墳 石室 レプリカ

高松塚古墳 解体実験用石室(飛鳥資料館にて撮影 撮影可)

高松塚 解体実験用石室

飛鳥資料館 説明版より

・版築 寺院の土檀の築き方を応用している。
纏向型前方後円墳でも版築に近い工法が用いられており、寺院の土檀の築き方とはいいきれないのでは。
ただし、この本は昭和47年に発刊されて古く、当時古墳の研究が進んでいなかったのではないかと思われる。

⓶海獣葡萄鏡が作られたのは8世紀初め?

・飛鳥時代は近江へ都が移った6年間を境にしてふたつに分けると便利だろう。
古い方の飛鳥は都塚の一帯。新しい方の飛鳥は終末期。

新しい方の飛鳥については場所、古墳名をおっしゃっていないが、高松塚のある聖なるライン上の古墳の事を言っておられるのだろう。

都塚古墳

都塚古墳

↑ こちらのリンク先の地図がわかりやすいかもしれない。
都塚古墳周辺には石舞台古墳、打上古墳細川谷古墳群などがある。

都塚古墳は方墳で2013年-2014年の調査で、4段以上の階段ピラミッドであったとされた。
都塚古墳のある付近は蘇我氏が勢力を持った地域で、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳や馬子の邸宅跡と思われる島庄遺跡もある。
石舞台古墳も都塚古墳同様方墳で、封土は失われているが、ピラミッド構造であった可能性が指摘されている。
また石舞台古墳と都塚古墳は双墓ではないかとの説もある。
被葬者は蘇我馬子の父・蘇我稲目ではないかとする説がある。

石舞台古墳

石舞台古墳

・高松塚築造年代は終末期。そうでないと横口式石槨は編年上あわない。
・乾漆棺は聖徳太子墓にもあるが阿武山古墳など天武陵の時代に多い。

夾紵棺

阿武山古墳 漆棺

・海獣葡萄鏡 隋または唐と言われていたが、樋口隆康氏が中国の出土例を検討し、7世紀末から8世紀初とされている。
後の時代に伝わるが上限は動かない。
・高松塚の築造時期の上限は7世紀後半から8世紀初め、藤原京時代。場合によると8世紀にはいるかもしれない。平城京遷都までの8世紀。

藤原京遷都は694年、平城京遷都は710年なので、森氏のいう藤原京時代とは694年から710年を指していると思う。
中でも、701年から710年の可能性が高いというお考えだ。
その理由は上にあげた横口式石槨の年代、乾漆棺が天武陵の時代に多いこと、海獣葡萄鏡の製作年代ということである。

ウィキペディアはつぎのように記している。

高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。


樋口氏の意見が絶対的な支持をえているわけではなさそうだ。

・中国の海獣葡萄鏡の出土例では、高松塚と似たものが開元通宝といっしょにでている。銭から遺跡の年代を出すのは難しいが一つの参考になる。

開元通宝は唐で621年に初鋳され約300年間流通した貨幣である。
このように聞くと、年代を出すのはムリのようにも思えるが、いつどこで作ったかで、異なる特徴があるのかもしれない。

開元通宝
開元通宝

・終末期古墳としては珍しく鏡と刀の両方が入っていた。
・ガラスの玉は装飾品か、玉枕かわからない。

玉枕

阿武山古墳 玉枕(複製品) 今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)

・阿武山古墳は切石で、漆喰が塗ってある。

阿武山古墳-石室

阿武山古墳 石室 今城塚古墳歴史観にて撮影
狭い石室は高松塚古墳を思わせる。

・お亀石古墳は新堂廃寺の一番古い瓦と同じ物が郭のぐるりに使ってある。7世紀初頭ぐらい。横口式石槨の編年はわりに確実。それ以来ずっと形式の変遷があるので、高松塚は天武・持統、文武三代のころではないか。

お亀石古墳

お亀石古墳

ウィキペディアを読むとお亀石古墳の築造年代は7世紀前半とある。

天武天皇の即位は:673年、持統天皇の即位は690年、文武の即位は697年で 707年まで在位していた。
高松塚は確かにこのお亀古墳より時代が新しいように思われる。
シンポジウムの発言の記録なので、仕方ない部分もあるだろうが、具体的に編年はどうなっているのか、なぜその年代がみつもられたのかについての説明がほしかった。
ネットでも調べてみたが、調べたりないせいかわからなかった。

③壁画古墳は新羅にはない。

・横口石槨は高句麗にもある。百済にも似たものはある。
・壁画古墳は百済に少しあるが新羅にはない。
・百済の壁画、広州宋山里のもの、扶余の陵山里、どちらも簡単なもの。
・高句麗の壁画は三つの流れがある。1.人物 2.四神 3.日月星辰
高松塚はこの3つが全部ある。
・飛鳥人は高句麗の伝統をひく着物をきていた。
・近畿地方の場合、埴輪の終末は6世紀なかごろで、仏像(塑像)とは期間があいている。(埴輪と塑像にはつながりがない)
・欽明陵は終末期古墳に入るかどうか検討が必要。


欽明天皇陵は梅山古墳に治定されており、築造時期は古墳時代後期とされているが、その近隣にある高松塚古墳、キトラ古墳などの円墳、野口王墓(天武・持統陵)、中尾山古墳、牽牛子塚古墳などの八角墳、菖蒲池古墳、小山田古墳などの方墳とはことなり、前方後円墳なので検討が必要ということだろう。
ただし宮内庁管理の陵のため調査ができず、築造時期の特定は難しそうだ。

・終末期古墳は飛鳥のほか、大阪の太子町から羽曳野周辺にも多いが、そのほかは寝屋川の石の宝殿、高槻の阿武山古墳、京都では山科西野山の古墓や小野蝦夷墓など数ヵ所。和歌山も少ない。四国では見たことはない。
出雲の築山古墳は大部分が後期古墳。群馬県前橋付近で乾漆棺がでているが、切石作りの横穴石室に限ると多くない。

石の宝殿古墳

石の宝殿古墳 

現在は封土がないが、もともと封土がなかったとか、八角形古墳とする説もある。
八角墳は天皇陵が多く、被葬者が誰なのか気になる。

・飛鳥の終末期古墳・・・天武・持統陵、中尾山古墳、菖蒲池古墳、牽牛子塚古墳など。
飛鳥の後期古墳・・・石舞台、都塚古墳、打上古墳など。
出土する土器が明らかに違う。
・横口式石棺の系譜は高句麗だと思う。百済には似たものはある。新羅にはない。
・横穴式石室の場合は(高麗尺)の内法で測ると割り切れる。
しかし外からみて家形のような構造の場合は分からない場合がある。高松塚は唐尺の可能性が強い。

④高松塚は政治争い的墓荒しの可能性もある。

・壬申の乱で近江京が消失し、一時的に中国製品などがなくなり副葬品がすくなくなったのかもしれない。
・盗掘であればなぜ遺物を残したのか。刀身がなくなって、装具を残しているような例を他にしらない。
高松塚はスコップで掘れるような柔らかい土ではない。政治争い的墓荒しの可能性もある。
・高松塚副葬品の刀の刀身がなかったが、腐ってしまったのだとすれば、鏡にも錆が大量に出そうだが、出ていない。

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡

海獣葡萄鏡は床の漆喰にのめり込むような形で、鏡面を上にした形で出土した。
そのような環境のため鏡の緒まで残っていたとされるが、それを考慮しても、もっと錆びていたはずだといえるのだろうか。

海獣葡萄鏡 出土状況

海獣葡萄鏡 出土状況

⑤被葬者の歯から年齢鑑定はできる?

・頭骨が全部残っているとある程度のことがわかる。頭骨がない場合には少しのことしかわからない。
歯はかなりよくわかる。大阪の黄金塚には歯しか残らなかったが、薄く切って顕微鏡で見て4,50代の男性でやや角張った丸顔と報告がある。

島五郎氏の鑑定によると、高松塚出土の歯は、下顎右側大臼歯は第三大臼歯または第二大臼歯かもしれない。
上顎左側大臼歯は第三大臼歯。破損の著しい小臼歯ということだった。
小臼歯は破損が著しくて鑑定できなかったのだろう。
また第三大臼歯とは親知らずのことである。
歯による年齢鑑定は咬耗度から判断するようだが、親知らずは生えてくる年齢が人によって様々なので、島氏は判断が難しいとされ、30歳以下である可能性は少ないとされた。
残っていた歯が親知らずでなければ、森氏がおっしゃるようにかなりよくわかったかもしれない。
高松塚の被葬者の判定は歯というよりも、骨によって行われた。

⑥キトラ古墳天文図は唐で観測された可能性が大。高松塚二十八宿図は?

・高松塚の星宿は模倣ではなく観測して描いたのではないか。

当時、キトラ古墳は見つかっていなかったが、キトラ古墳の天文図は正確ではなく、またキトラの天文図は日本で観測して描いたものではなく、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いという話を以前にした。

高松塚の星宿図と同様のものはトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
星宿の結び方は異なっているが、同様の形の星宿がほぼ同じ位置にあるのが確認できる。
例えば北の斗(6星からなる星宿で北斗七星とは異なる)、室、壁、西の参、東の角、氐などである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影。撮影可)

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図(キトラ古墳 四神の館にて撮影。)

高松塚の星宿図もキトラ同様、唐で作られたものを参考にして作られたのではないかと思うが、
よく考えてみれば(笑)私は星宿図というものがよくわかっていなかった!

相馬充氏はキトラ天文図について次のように述べておられた。、

・各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。
・内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった. 
・ 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

つまりキトラ古墳の観測地や観測年を推定することができたのは、キトラ古墳に内規と外規の円が描かれていたからだ。
高松塚古墳は天文図ではなく星宿図で、内規と外規は描かれていない。

そしてアスターナ古墳の星宿図と星座の結び方が異なっているということは、日本で観測して作成されたものである可能性は残るかもしれない。 

・「益田の磐船」は天文台の台説(薮田嘉一郎氏)、二つ並んだ大きな穴があいているのは合葬の蔵骨器入れ(西田真治氏説)、枡田池の碑の台説などがある。

益田の岩船

益田の磐船

現在有力視されているのは横口式石槨説である。
近くにある牽牛子塚古墳の横口式石槨に、、岩船の穴の形状が似ているというのである。
つまり、現在の北壁面を下に横転させて古墳石室とする予定だったが、失敗してそのまま放置したのではないかというのだ。
西側の穴には水が溜まらないので、ひびが入っているとされる。
これが失敗というわけだ。

猪熊兼勝氏は、益田岩船は兵庫県高砂市の石の宝殿にも似ており、同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、益田岩船、石の宝殿で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳ではないかとしている。

石の宝殿

石の宝殿

猪熊氏の説が正しければ、石室は飛鳥から遠く離れた兵庫県高砂で制作し、そこから飛鳥へ運搬する予定であったということになる。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳 石室

牽牛子塚古墳 石室

牽牛子塚古墳 石室2

牽牛子塚古墳 石室

⓻日本の墓誌

・元明陵は『続日本記』に「刻字の碑を立てよ」とある。
元明陵の入り口に60cmほどの切石のかたまりがある。しかし文字は確認できない。


↑ 元明天皇陵の近くにある奈良豆比古神社に「元明天皇陵墓碑御旧跡」と記された石碑がある。

元明天皇陵墓碑御旧跡

奈良豆比古神社にかつて「刻字之碑(函石)」があったことを記念して立てられたもの碑であるという。、
「刻字之碑(函石)」は現在は元明天皇陵に戻されているが、奈良豆比古資料館には「刻字之碑(函石)」の拓本が保存されているとのこと。

江戸時代に土砂崩れで田んぼに流されていた函石を奈良豆比古神社で預かっていたのが、後年それが元明天皇が遺言で指示した石碑だとわかり、陵墓の確定もできたそうです。

遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年(1896年)に藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を建造し、かたわらに建立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E9%99%B5%E3%83%BB%E9%9C%8A%E5%BB%9F より引用

奈良春日社というのは、奈良豆比古神社のことである。
ウィキペディアにも記述がある所をみると、奈良豆比古神社に元明天皇陵の墓誌の様なものがかつて存在したことは確からしい。
奈良豆比古神社はその墓誌に文字が刻んであったとし、拓本も存在している。
しかし森氏は文字が読めないという。
奈良豆比古神社に安置されたばかりのころは文字は読めたが、その後風化して読めなくなったということだろうか。

・墓碑はあまり存在しない。
那須国造碑は、それがどこにあったかわからない。
大阪に采女氏の墓域の碑があるが、拓本しか存在しない。
群馬の山ノ上の碑は古墳の前に建っている。

那須国造碑(笠石神社)

那須国造碑(笠石神社)

689年、那須国造であった那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立された。
1676年、僧の円順が発見し、戸藩主の徳川光圀が笠石神社を創建して碑の保護を命じたという。
光圀は那須直葦提、意志麻呂父子の墓であると考え、上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を命じている。
しかし上侍塚古墳・下侍塚古墳は5世紀の築造と推定されており碑の年代(7世紀)とあわない。

采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)
持統三年(689)天武朝の大弁官であった采女竹良(うねめちくら)が朝廷からもらった古代の墓域を示す石碑。
上の資料は拓本(石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの)であり、現物は古くから妙見寺が保有していたが、明治時代から不明となっている。

山ノ上古墳

山ノ上古墳 古墳の向かって左にあるものは石碑の覆屋

山の上石碑 拓本

山ノ上古墳 墓誌 拓本

681年に立てられたものとのこと。

・玉手山に若い人が日曜ごとにいって図を解読した。
これは大阪府柏原市の安福寺横穴墓群1基の横穴に存在する騎馬人物などの線刻画のことをおっしゃっていると思う。

玉手山横穴

安福寺横穴群(北群)


2⃣井上光貞氏の説

①高松塚は唐と高句麗、両方の影響をうけている。

・壁画は唐の影響が濃厚。女子の一人が吉祥天に似ている。しかし高句麗の影響も看過できない。

薬師寺吉祥天

多分、薬師寺の吉祥天像のことを言っていると思う。↑

飛鳥美人

高松塚壁画館にて撮影(撮影可)

向かって右の4人のうち、向かって左の女性像のことだろうか。

・姓氏録を見ると、画師は百済系が多い。
・火葬は仏教の影響、薄葬はそれとは別のものではないか。
・冠位十二階の起原は中国ではなく朝鮮。新羅は無関係。
冠位の名称の決め方、新羅は17、高句麗は12、百済は14、日本は12.
・推古朝は百済か高句麗の影響が強い。華厳(華厳宗のことかな?)の発達も新羅の影響をうけている。

冠位十二階の決め方になぜ新羅が無関係だといえるのか、推古朝は百済か高句麗の影響が強いといえるのか、この説明ではわからない。

・遣隋使、遣唐使など中国の影響が強いという印象があるが、6世紀以降の宮廷文化は朝鮮文化が基軸となっていて、それから中国文化を受け入れている。
中国文化の決定的影響は壬申の乱ののち。
・正倉院には唐的なものが多いが、それだけでは誤解する。
・蘇我氏の力は壬申の乱ぐらいまで。
・島の宮は島庄(しまのしょう)にあったとされる草壁皇子の宮だが、この宮は島大臣=蘇我馬子の邸宅跡に作られたとされる。草壁皇子の時代にはもう蘇我氏の力は失われている。
・檜前が東漢氏など帰化人が住んでいた地域というのは、7世紀までではないか。
・日本でも火葬墓には墓誌がでている。日本書記などにも墓誌の記録がある。

3⃣末永雅雄氏の説

①薄葬は厚葬の反省から生じた?

・高松塚は高句麗の古墳の人物の表現に似ている。中国にも似ているが服装は似ていない。
・乾漆と木棺に漆を塗った棺はちがう。
牽牛子塚古墳は十数枚の布をはった乾漆棺。高松塚のものは乾漆が主体ではなく、木棺が主体。木棺に漆が塗られている。
・高松塚の棺は横によっていたが、意識して寄せたのか、盗掘でゆがんだのか。
・推古天皇の時に、今年は五穀実らず、だから特に石槨の役をなさず、とある。
厚葬の弊害が社会的な反省となって薄葬に導いたのではないか。

4⃣岸氏の説

①藤原京は高句麗と唐が混ざった文化?

・あのころの画師は高句麗系が多いが、遣唐使が技術を持ち帰ったとも考えられる。
・人物の服装は高句麗色が強い。
・7世紀末から唐風の服装がはいってくる。
・高松塚古墳には棺台はない。牽牛子塚古墳、阿武山古墳、聖徳太子墓にはある。
御嶺山古墳は高松塚に似ている。切石を使っているが、棺台がある。

御嶺山古墳 棺台

御嶺山古墳 棺台

・終末期古墳の時代は合葬が多い。(牽牛子塚古墳、天武・持統陵、菖蒲池古墳)が高松塚は最初から合葬を意図していない。(ふたつの棺を置くスペースがない)
・天武ごろからの伝世品が正倉院などにあるのは、天皇が火葬されて副葬品が墓に治められなくなったからかも。
・条坊制をもった都城の形成はやはり中国的なもので、朝鮮とはすぐにつながらない。だから、そういう都城の制が藤原京から始まるのか、もっとさかのぼるのか、その時期がちょっと問題です。しかもそれを計画し、実施に移しているのは東漢氏ですから、そういうところにもなおもっと考えるべき問題があると思います。(原文ママ。p130より引用)

これは条坊制の都・藤原京を計画して作ったのは東漢氏だという意味だと思う。
そのような史料があるのだろうか。ネットで調べてもわからなかった。

藤原京という名前は、1913年に喜田貞吉が『藤原京考証』を書いたことから、そう呼ばれるようになったそうで
当時は藤原京とはいっていなかったそうだ。
『日本書紀』などには新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)と記されているらしい。
なぜ喜田氏が藤原京という言葉を用いたのかというと、その新益京にあった皇居が藤原宮と呼ばれていたからだという。

日本書紀持統天皇の条には「高市皇子、藤原の宮地を観す」「天皇、藤原に幸して宮地を観す」とあり、
藤原という地名の場所に宮を作ったようである。

藤原と聞いて誰もが思い浮かべるのが藤原氏だろう。
藤原氏の祖は藤原(中臣)鎌足(614年ー669年)で、彼は死の間際に天智天皇より藤原姓を賜ったという。
そして新益京遷都は694年。このころ藤原宮も完成していたのではないだろうか。
つまり、694年当時、臣下に藤原氏がいた。その臣下の名前を宮の名前としているわけで、奇妙な感じがする。

鎌足が藤原姓を賜ったのは、669年のはずだが、壬申の乱後、684年に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場しない。
『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場するのは685年9月。
藤原姓が与えられたのは鎌足一代であり、685年9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられたのではないか、という説を、高島正人氏は称えておられるそうである。
ナルホドと思うが、私は鎌足には藤原姓は与えられておらず、鎌足没後最初に「藤原」が登場する685年9月以前に初めて鎌足の子孫に藤原姓が与えられたのではないかと思う。
当時は家を重んじる社会であり、1代限り姓が与えられるというのは違和感があるからである。

鎌足(614年ー669年)の子で男子は定恵(643年666年)と藤原不比等(659年ー720年)の二人である。
定恵は僧侶なので子供はなく、鎌足よりも早くなくなっている。

「つまり、藤原姓を名乗ったのは藤原不比等の子孫のみ?」と思ってしまうが、そうではなく
不比等以外の中臣氏、中臣大嶋や中臣意美麻呂にも藤原姓があたえられたようである。
これは不比等がまだ幼かったためで、698年には鎌足の嫡男・不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻されている。

685年9月、正史に鎌足以降初めて藤原氏の名前が登場する。
その後、694年(天武天皇崩御後の持統天皇8年)に新益京遷都。
それ以前の676年に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手したという記録があり、新益京は天武天皇代から造営がすすめられたと考えられている。

藤原氏は藤原宮造営に功績があって、それで宮の名前である藤原姓を賜ったのではないかとする説を聞いた記憶がある。
たしかにそう考えれば、藤原氏と藤原宮が同じ名前であることの理由は納得できる。

天武天皇が新城の選定に着手した676年、不比等は17歳でまだ若すぎる。
おそらく、中臣大嶋や中臣意美麻呂らが藤原宮造営に功績があったのではないだろうか。

新益京の設計・造営は漢東氏が行い、藤原宮も漢東氏が造営したのかもしれないが、藤原氏は資金提供するなど何かしらの形でかかわったのではないかと思う。

・中尾山古墳と高松塚古墳は聖なるラインから100mほどずれているが、中尾山古墳と高松塚古墳は南北の関係にあるように思える。

このシンポジウムが行われた昭和47年、聖なるラインは藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳―高松塚古墳ー文武陵のことをいっていた。
実際に同一線上にあるのかと確認してみたが、中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳は若干西にずれている。
「中尾山古墳と高松塚古墳は南北の関係にある」とはいえそうだ。



しかし、近隣には聖なるラインから若干はずれた位置にある古墳が結構存在し、本当に聖なるラインといっていいのかどうかと悩んだりしてしまう。

・高松塚から石(墓碑)を運び出したという話もある




シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉑高松塚男子群像は褶を着用していない。※追記あり


 よりつづきます~

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものであるので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。

執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣義江彰夫氏の説

①高松塚男子群像は褶を着用していない。

・高松塚の服装と持物は朝鮮・中国の風俗ではなく、日本の風俗、大宝令で定めらっれた重要祭祀用式服「礼服」と「持物」である。

・大宝令(701)の注釈書「古記」
男子・・・「褶(ヒラミまたはヒラオビ)は袴の上に顕出して着用する」
女子・・・「裳の一首で上衣の下に着用する」

義江氏は「すべての人が男も女も、上衣と袴(女は裳)の間に、厚めの襞(図1)がついた独立した衣服を着用していることがわかる。ところが『大宝令』によれば、この独特な衣服に当たると思われるものが、「褶(ヒラミまたはヒラオビ)という名で令服の一部として記されているのである。(p77より引用)」と書いておられる。

ひらみ

褶を説明したものが、高松塚壁画館に展示されていた。
上衣のすそからちらっとみえているものが褶のようである。
本p78の図1をみると、女子像でこの褶の部分はトリミングされて写っていなかった。

そして男子像には褶は描かれていないと思う。

男子服装

また、次の様に記した記事がある。

男子群像 漆紗冠の着用       天武11(682)年6月6日 ~ 持統元(687)年
      白袴の着用       天武11(682)年6月6日 ~ 朱鳥元(686)年7月
                     持統4(690)年4月    ~ 大宝元(701)年3月
                                             慶雲3(706)年12月   ~
                   褶の未使用        天武11(682)年6月6日 ~ 大宝2(702)年1月

女子群像 結髪の実施            天武11(682)年4月23日 ~ 朱鳥元(686)年7月2日
                                             慶雲2(705)年12月19日 ~
      襟の左前      ~ 養老3(719)年2月3日

上の記事があげる項目のうち、漆紗冠・白袴・結髪・左前は、高松塚壁画の人物像に描かれているので、
「褶の未使用 」という項目があるのは、高松塚男子像が褶を着用していないということだと思う。

上のイラストに「袍のすそつき(漢字に変換できなかった。すいません。)」とあるが、義江氏が見られた絵が不鮮明で、これを褶だと見間違えたのではないだろうか。

男子群像頭

袴と履物

正倉院宝物

上3枚 全て高松塚壁画館で撮影

褶をどのように着用するかは、こちら ↓ の記事に説明がある。


・大宝令の礼服
男子・・・冠、上衣、條帯(くみのおび)・褶(ひらみ)・襪(しとうず)・鳥河舃(とりかわのくつ)
     笏はもたない。

條帯は上の記事に説明がある。襪(しとうず)とは親指部分が分かれていない足袋のようなものである。
https://www.iccho-ogasawara-ryu.com/ja/product-page/shitouzu

・大宝令の礼服
女子・・・宝髻(ほうけい)・上衣・帯・褶(ひらみ)・裙(も)・〇・緑〇(〇は読めず。すいません)

宝髻を調べると、いろいろな意味があるようだが、その中に

① 仏語。仏菩薩や天部の仏像が頭上に結んでいるもとどり。
② 令制の五位以上の婦人の礼服の時の頭上に結ぶ理髪の様式。また、髪のもとどりにさす髪飾具もいう。釵子(さいし)、平額(ひらびたい)など。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9D%E9%AB%BB-131895 より引用

とでてくる。高松塚女子像は後ろで髪を束ねているように見える。
これが宝髻ということか。

・高松塚壁画人物は大宝令規定の礼服を描いている。

このように義江氏は結論づけているが、高松塚壁画男子は褶(ひらみ)をつけていないので、義江氏の結論の正しさについては疑問が生じる。

⓶高松塚人物像のファッションは、682年~686年頃のもの?

さきほどもご紹介した記事↓ についての検証は大変すぎてやっていないが(汗)こちらの記事の表の方が正しいのかもしれない。
男子群像 漆紗冠の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 持統元(687)年
      白袴の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 朱鳥元(686)年7月
          持統4(690)年4月    ~ 大宝元(701)年3月
                                             慶雲3(706)年12月   ~
                   褶の未使用 天武11(682)年6月6日 ~ 大宝2(702)年1月
女子群像 結髪の実施 天武11(682)年4月23日 ~ 朱鳥元(686)年7月2日
                                             慶雲2(705)年12月19日 ~
     襟の左前      ~ 養老3(719)年2月3日

この絵はいつの時代を描いたものだろうか。
私は算数が苦手で頭の回転が鈍いので(汗)、項目をふたつづつ突き合わせて,重なる時期をだしてみることにする。

漆紗冠の着用    682年6月6日 ~687年  ❶
白袴の着用        682年6月6日 ~686年7月
        690年4月      ~701年3月  
                          706年12月   ~             ❷
❶と❷が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❸

褶の未使用   682年6月6日~702年1月❹
❸と❹が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❺

結髪の実施  682年4月23日 ~ 686年7月2日
       705年12月19日 ~       ❻
❺と❻が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❼

襟の左前      ~ 養老3(719)年2月3日❽

❼と❽が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❾

❾の682年6月6日 ~686年7月の時期は、男子「漆紗冠の着用」「白袴の着用 」「褶の未使用」 女子「結髪の実施」男女とも「襟の左前」が行われていたということになる。

この表が正しいとすると、高松塚人物像のファッションは、682年~686年頃のものだということになりそうだが、
記事は

高松塚古墳では副葬品として海獣葡萄鏡(両槻会第3回定例会レポート参照)が発見されており、同型鏡が中国の7世紀末の古墳(独弧思貞(どっこしてい)墓(689年)・十里鋪337号)から出土しているので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものではないかと推測されています。
 この推測が正しいとすると、築造されたのは704年以降となり、中に描かれている人物像が、左襟となっていることから719年(養老3年)までの間に作られたものと考えられます。(続日本紀 養老3年2月「初めて天下の百姓をして襟を右にせしむ」)

そうすると被葬者はその間に亡くなった人かと限定されてしまいそうですが、「遣唐使が持ち帰ったかも」なので、断定は出来ません。朝鮮半島の人々が献上物として、日本にもたらせた可能性もあります。

と記している。

海獣葡萄鏡と左襟だけに注目して、わざわざ記した漆紗冠、褶の未使用は無視してしまった??

あるいは、壁画の人物のファッションは682年6月6日 ~686年7月のものだが、古墳が作られたのは704年~719年という意味なのか、とも思ったが、
高松塚築造時期を704年~719年とはじきだした理由のひとつに「襟の左前」があり、これは壁画に記された人物のファッションなので、やはり「漆紗冠の着用」「白袴の着用 」「褶の未使用」は無視しているように思える。
私が何か勘違いしているだろうか?

2⃣能田忠亮氏の説

①二十八宿図に北斗七星を描かないことは普通にある❔

・中国、周初のころ、太陽暦の季節を定める方法として二十八宿が草案された。
・三日月が西の空に見え始めてから数日間、月の恒星間における位置の変化を観測し、その二日行程だけを、三日月の位置から逆に遡ると、日月合朔の時における月の位置=太陽の位置を示す。
恒星間における太陽の位置は、太陽暦の季節を示す。
月が恒星に対して黄道を一周するのは、二十七日余りなので、月の恒星間における位置の変化を知りやすくするために、いちじるしい星象を目標として黄道方面の一周天を二十八の不等な部分にわけて、これを二十八の月の宿と称えた。

うーん、意味がわからない。(汗)

ウィキペディアは簡単に次の様に記しているだけである。

皇帝二十八宿(にじゅうはっしゅく[注 1])とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものであり、

高松塚星宿図

高松塚古墳 星宿図 (高松塚 壁画館にて撮影。撮影可)

高松塚の星宿図には北斗七星が描かれていないと梅原猛氏はおっしゃっていた。
しかし、今画像検索してみると、北斗七星の描かれていない星宿図は他にもみつかる。

星宿図に北斗七星を描く場合は、下記リンク先のように中央部に描くのだと思う。
https://history-links.com/?p=356

しかし、こちらの記事、https://yamauo1945.sakura.ne.jp/28shuku.html
図7 二十八宿の天上表現(HP4)は高松塚と同じように、中央部は四輔と北極になっている。

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)

記事には「よく古墳の天井に描かれているものである。」とあるので、高松塚の星宿図を参考にして描いた星宿図かもしれない。

しかし、同様の図はこちらの記事にもある。
https://www.ygkyfs.com/wap.php?action=article&id=18026
自動翻訳して読むと、二十八宿の説明のようで、高松塚という名前はでてこない。

トルファン・アスターナ古墳で発見された星宿図には、四輔と北極も描かれていない。

これをどう考えるべきだろうか。

・高松塚星宿図は朝鮮を経て日本に渡来したもの。
・553年6月、内臣を朝鮮につかわし、医・易・暦の博士をかわるがわる来朝させるよう詔されたので、その翌年に易博士王道良、欲々年には暦博士王保存などが来朝した。
・602年、百済僧観勒が来朝し、暦本、天文、地理書、遁甲方術書を貢した。
書生、3~4人に命じて観勒にまなばせた。
陽胡史の祖・玉陳が暦法を習得、大友村主高惚が天文遁甲を学び、山背臣日立が方術を学んだ。
・604年甲子の年の正月朔から初めて暦日を用いた。
・日本で歴法施行が決定したことが国史に登場するのは、690年。
・被葬者は推古天皇~持統天皇代にかけての天文博士、暦博士、易博士のいずれか、またこれらの博士たちを支配した地位の高い人。
・北極五星は太子・帝・諸子・妃宮・紐星
このうちの帝星(子熊坐β星)が天の北極に最も近かったのは周初のころ。(紀元前1100年ごろ)
・觜宿 参宿 の位置が正しいのであれば明代で、未来を予想したことになる。
・紐星付近が北極とみられ、高松塚の二十八宿図は漢代以降のものだろう。


※追記
こちらの記事で古代星宿の同定が記されていた。
この記事によると北極はこぐま座の一部、四輔はきりん座の一部とある。
また、こちらの記事にも説明があった。https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2018/03/20180315.html
この記事ではキトラ古墳天文図を用いて北極星を同定している。
「北極」の5星は、帝・后(きさき)・妃(ひ)・太子・庶子
(能田忠亮氏によれば、北極五星は太子・帝・諸子・妃宮・紐星とある。)
北極点から遠い順に、こぐま座のγ(ガンマ)星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ(シグマ)1694という5星に比定される。

(北極5星の同定はできているようだが、一つ一つの星についての同定はできていないようである。)
天帝の星=「帝星」には、5星のうち、こぐま座β星(コカブ)。


3⃣伊達宗康氏の説

①漆塗の棺について
・脱乾漆の手法を用いたもの・・・夾紵棺(きょうちょかん)
 木心乾漆・・・乾漆木棺
 木棺に漆だけを塗る・・・漆木棺
 石棺に漆を塗ったもの

1.石棺に漆が塗られているもの・・・菖蒲池古墳
2.陶棺に漆が塗られているもの・・・恩坊山三号墳
3木棺に漆が直接塗られているもの・・・御嶺山古墳
4.木棺に布を張り漆塗り・・・・・・・・高松塚古墳
5.炭化物に布を張り漆塗り/・・・・・・塚穴山古墳
6.布を漆で張り合わす夾紵棺・・・・・牽牛子塚古墳・阿武山古墳・天武陵・聖徳太子陵・安福寺蔵品

古墳菖蒲池

菖蒲池古墳

夾紵棺

阿武山古墳 夾紵棺 今城塚古墳歴史館にて撮影(撮影可)

4⃣網干善教氏の説

①副葬品について

同様のことは以前にも書いたと思うが、先日高松塚壁画館で写真を撮影してきたので(撮影可)改めて書いておく。
写真があると読んでくださる方にも、わかりや水と思う。

・高松塚古墳出土の刀装金具は正倉院金銀鈿装唐太刀、東大寺大仏殿須弥壇下出土の金平脱珠玉装太刀に似ている。
・冑金と石突がある。山形金物は古墳出土遺物には他にない。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/514175(模造 金銀鈿荘唐大刀(正倉院御物))
(香取神宮 太刀)

太刀パーツ

冑金

太刀各部名称

3枚とも高松塚 壁画館で撮影

・盗掘にあっているが、盗掘者は刀身のみ持ち去った。

わざわざ金物をはずして刀身のみ持ち去るなどということがあるだろうか。
もしかすると盗掘に入った際、壊れて金物が外れていたのかもしれない。
しかし、その場合でも美しい細工を施した金物も持ち帰りそうなものだ。
梅原猛氏が指摘されるように、最初からなかったと考えるのが妥当なように思うが、断定はできない。

・石突は正倉院黄金装太刀・横刀、東大寺大仏殿出土の金鈿装太刀、助戸新山国府出土の方頭太刀の外装具鞘尾金物などに似ている。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/439657 (正倉院黄金装太刀)

聖徳太子の太刀

網干氏は本の中で「高松塚出土の大刀外装具と共通点がみられる」として、聖徳太子像と王子像のこの写真を掲載しておられた。
ウィキペディアから画像をお借りして、本と同じようにトリミングし、文字をいれた。


透金具


興福寺 阿修羅像 服飾の模様

興福寺 阿修羅像 服飾の模様

・中国では八稜銅鏡が似ている。
・109pには新羅臨海殿出土の(立方体あるいは直方体の煉瓦)の写真を、高松塚出土金銅装透金具の写真と並べておられる。

・金銅製花文座金具の類例は、牽牛子塚古墳出土のもの、御嶺山古墳出土のものがある。

座金具

高松塚古墳出土 座金具(高松塚 壁画館にて撮影)

牽牛子塚古墳 座金具

牽牛子束古墳出土 金銅製八花形飾金具

・座金具は半島から日本に及ぶが、いずれも夾紵棺(きょうちょかん)または漆塗り木棺に付着している。




高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑳高松塚のある高市郡は今来郡だった!

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑲ 現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか? 

 よりつづきます~

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


今日から「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えていきたいと思う。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものであるので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。

執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣直木孝次郎氏の説

①高松塚の場所

・高松塚の西南7~800mのところに大字檜前の集落がある。
古代の檜前はもっと広域で高松塚もその中にあったと考えられる。
・大字檜前の東南7~800mのところにある栗原は、日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とある呉原の転訛と考えられる。


・北は欽明天皇が檜隅坂合陵に葬られた(日本書記)
欽明天皇陵は明日香村霜平田の梅山古墳に比定されているが、見瀬丸山古墳が有力。
天武・持統天皇陵は檜隅大内陵と呼ばれた。
鎌倉時代、盗難にあった際、内部の様子を記した阿不幾乃山陵記によって、檜隅大内陵であることは確実視されている。



・現欽明陵の梅山古墳は近鉄吉野線沿いに吉備姫王墓の東。濠が確認できる。さらにその東に檜隅大内陵の名前がある。
吉備姫王墓のその南東に飛鳥歴史公園館、高松塚古墳があり、先ほどの栗原は高松塚古墳の南。
・檜前の西には佐田の丘陵地帯があり万葉集に名前がみえるが檜前という地名がついているものはないので、佐田は檜前ではないだろう。
・檜前は明日香村大字栗原・檜前・御園・上平田・中平田・霜平田・立部・野口、橿原市の五条野、見瀬あたり。(直木孝次郎氏)

⓶高松塚のある高市郡は今来郡だった!

・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。(続日本記)
・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」(応神20年紀)
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。
・「阿智王が応神朝に七姓の漢人を率いて渡来し檜前郡郷にすんだ。」(姓氏録逸文)
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀にも見える)
後に渡来した新漢(いまきのあや)人などの中には今来に住む者も多かったのではないか。
・朝鮮系渡来氏族、倭漢氏の本拠地が檜前。(直木孝次郎氏)

蘇我蝦夷、入鹿は「今来(いまき)の双(ならびの)墓」を建てたそうだが、その今来とは高市郡のことではないだろうか。
高市郡がかつては今来と呼ばれていたのであれば、檜前村のある飛鳥に今来の双墓は存在していたのではないかとも思えてくる。

1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと言われている。
しかし御所は飛鳥からは遠く、時代も逢わないという記事をよんだことがある。

ウィキペディアには次のように記されている。

蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。

蝦夷・入鹿の死よりも20年早いというのはどのようにして判断されたのだろう。
これについては調べたりないせいかわからなかった。

それは奈良・明日香に蘇我蝦夷・入鹿の「今来の双墓」が発見されたようだとの知らせである。

642年、皇極天皇の時代に蘇我蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。

さらに引き続き、全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子(蘇我入鹿)のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼び、入鹿の墓を小陵と呼んだ。

蘇我蝦夷は、墓の建設は自分の死後人に苦労を掛けないためだと言ったが、

上宮王家(聖徳太子一族)の春米女王は「蘇我臣は国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ」と非難したと伝えられる。

来年早々には報道されるようである。

場所が奈良県立明日香養護学校の敷地内のようであるため、慎重な扱いが必要である。


個人ブログだが、気になる記事である。

実は私は先日、明日香養護学校を訪れたばかりだった。
菖蒲池古墳を訪れ、そこにあった説明版の「菖蒲池古墳と主な古墳等の位置図」をみると小山田古墳というのがあり、どうも飛鳥養護学校の敷地内にあるようだった。
校門の前でインターホンを鳴らしたが、日曜日だったためか、どなたも出られず、見学はかなわなかった。

形状 方墳
規模 東西72m(北辺)・80m超(南辺)南北約70m

小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。

一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3 より引用

菖蒲池古墳

入鹿の「小陵」ではないかとの説があがある菖蒲池古墳。
ほとんど参拝する人もないらしく、道はあったのかもしれないが、雑草が生い茂ってどこを歩いていいのかわからない。
生い茂る雑草をかきわけて進んでいく。
右手の小屋の下に菖蒲池古墳はあった。小屋の手前には黒い遮光シートがかけられている。
遮光シートをめくると、小屋の扉を開くことができるようになっていた。

菖蒲池古墳2

扉を開けると柵になっている。その柵の隙間から家形石棺が見えた。

菖蒲池古墳 周辺図

菖蒲池古墳 説明版より

小山田古墳 羨道跡

小山田古墳 羨道跡 これはウィキペディアからお借りしたもの。

滑谷岡の伝承地は明日香村冬野字天野の出鼻の岡だという。

③檜前は倭漢氏だけが住んでいた土地ではない。

・檜前は倭漢氏など朝鮮系渡来者の勢力が強い土地だったと考えられるが、「他姓のものは10に1、2」は「倭漢氏の一族を高市郡司に任用されることを願う文中にあり、誇張があるだろう。

・天皇家の勢力は檜前に及んでいた。
6世紀中の宣化檜隅高田皇子という名前で、檜隅蘆入野に都した。
欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。

・檜前の歴史的環境からすれば高松塚の被葬者は倭漢氏などの渡来者である可能性もあるが、他の氏族、天皇家の可能性もある。

高松塚古墳の被葬者は天武、持統、文武の近親者の可能性が高い?

・聖なるライン上にある菖蒲池・天武持統陵・中尾山・高松塚・文武陵は石室の形式に差があり、築造年代に若干の差があるが、いずれも終末期古墳。
文武天皇陵は内部の状態がわからないが、他の4つの同時期の古墳がほぼ一直線に並んでいるのは偶然ではない。

・被葬者は藤原京時代に死去した人である可能性が高い。
但し、藤原遷都の持統8年以降と見るのではなく、藤原京都市計画が出来た時期以降と考えるべき。
聖なるライン上に天武陵があることから考えると、686年崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていたと思われる。
藤原京時代の下限は平城京遷都の行われた710年。
天武、持統、文武の近親者の可能性が高い。

・壁画中の人物が着用している下着は褶(ひらみ)だろう。
褶は682年に着用が禁止され、702年以降着用復活するので、壁画年代の上限は701年。

ひらみ

高松塚壁画館似て撮影(撮影可)

褶・・・682年~701年まで着用禁止
高松塚の築造年代・・・686年以降。686年に崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていた。)
ゆえに、高松塚の築造年代…701年以降
ということだろうか。

しかし、藤原京プランは天武天皇崩御以前に計画していたとも考えられ、すると天武天皇が即位したのは:673年なので
673年から682年の間に高松塚は建造されていたとも考えられるかもしれない。

・襟の打ち合わせは左前。
719年2月に「氏姓を持つものは全て右前にせよ」と令が出された。
つまり、壁画製作年代は701年から719年まで。

・令の制度では蓋から房を垂らすことができるのは、
皇太子・・・四品以上(親王・内親王)一位、二位以下は大納言以上

・被葬者は人骨の鑑定から男性とされているので、女性は省かれる。

・義江氏は被葬者の可能性のある人物として三品・忍壁親王(没年705年)、大納言・紀朝臣麻呂(没年705年)、一品・長親王、一品・穂積親王をあげる。

・海獣葡萄鏡は朝鮮での出土例がほとんどないので、唐から持ち込まれた可能性が高い。

・長・穂積両親王はともに一品、天武の皇子。
長は693年に叙位、穂積は691年にすでに位階を持ち封戸を賜っていて、このときいずれも20歳前後。
708年の死亡時には40歳以上。しかし707年に崩御した文武が火葬なので、彼らも火葬の可能性がある。

・紀朝臣麻呂は705年になくなっているが、天武の近親者とはいいがたい。

・草壁は28歳、大津は24歳で死亡していて年齢があわない。
草壁皇子の墓は高市郡真弓丘とあり、檜前の高松塚にあてはまらない。
大津は二上山に葬られたとあって、やはりあてはまらない。

・弓削皇子は年齢不詳だが、693にはじめて叙位、このとき20歳前後とすれば死亡した699年は26、7歳で年齢があわない。

・高市皇子は43歳で死亡しているが、大和国広瀬郡の三立岡に葬られたとある。

・川島皇子は35歳で亡くなり、越智野(高市郡高取町超智あたりか)に葬るとある。

・文武天皇は火葬なので高松塚被葬者ではない。

・705年に死亡した忍壁皇子。死亡時の年齢は不明だが、672年の壬申の乱のとき、天武に従って東国へ行き、674年に廃止上神宮に使いとなって赴いているので、天武3年には15~6歳にはなっていただろう。死亡時の705年には46、7歳以上で最有力候補。
704年、30年ぶりに派遣された遣唐使が帰国している。海獣葡萄鏡はこの時唐からもたらされたのかも。
しかし断定はできない。長、穂積の可能性もあり、延喜式の記載が誤りであれば高市の可能性もある。(直木孝次郎氏)

梅原猛氏もそうだが、この直木孝次郎氏も、史料に記された墓地の記述を無視していない点が、個人的には好感がもてる。
(梅原氏は被葬者の年代の考証でつまづかれたように思えるが)
墓地の記述がまちがっているはずがない、などというつもりはないし、天皇陵は発掘調査できないので史料が正しく記載されているかどうか確認できないものが多いのだが、
やはり安易に史料の誤りと判断するのは避けるべきだろう。

ただ、聖なるライン、藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統合同陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳のうち、
菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓とする説がある。
もしもその菖蒲池古墳に近い小山田古墳も聖なるライン上にあるとみなせるならば、小山田古墳の被葬者は第34代舒明天皇説、蘇我蝦夷説があって、いずれも天武天皇の皇子ではない。
菖蒲池古墳は他の古墳より規模が大きく、築造時期が他の古墳より古いという可能性もあるが、なぜ菖蒲池古墳が聖なるライン上にあるのかという事も考える必要がありそうだと思う。

そして聖なるラインをさらに北へ延長すると、平城京、京都府山科区の天智天皇陵に達する。
つまり聖なるラインは
天智天皇陵₋平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統合同陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳
と続いているのである。
天子南面す、という言葉から考えると最北の天智を最も上位においた配置だとも考えられそうである。
そう考えたとき本当に高松塚・キトラ古墳を天武の関係者に限定してしまっていいのだろうかという疑問が生じる。



高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑲ 現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか? 

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①高松塚の星宿図に北斗七星を描いていないのは、被葬者が天皇であることを否定するため?

・民間では北斗七星は生と死を司る神。(窪徳忠氏)
・高松塚に北斗七星が描かれていないのは、被葬者が天皇であることを否定すること。

前回、深緑色の蓋は一位をあらわし、高松塚古墳の被葬者は一位であって、天皇ではない(天皇に位階はないと思う)という説をお話しした。
そうではあるが、北斗七星は天皇の乗り物だと言う話を聞いたこともあり、北斗七星と天皇の関係は強いと思う。
なので、「高松塚に北斗七星が描かれていないのは、被葬者が天皇であることを否定すること。」という小林氏の意見は記憶にとどめておくことにしよう。

⓶天武は青龍?

・風水思想
龍・・・大地の起伏の千形万様をあらわす。
龍脈・・・龍身にしたがって陰陽の生気が感応流行するところ
穴・・・龍脈の中で最も生気が集中するところ
砂・・・穴の周囲の大地の形勢
局・・・穴と砂によって構成される小界。陰宅、陽基いずれの場合も局の善悪によってその穴を占拠する死者・生者の未来永劫に亘る吉凶禍福が決定されると考えられていた。
ひとつの穴の左右前後(東西南北)にある山岡流泉を青龍、白虎、朱鳥、玄武とみなし、中央の穴を守護すると考えられた。
四神砂・・・穴の四方を囲む形勢
玄武と朱鳥はもっとも重要、両者があいまって陰気の中和生気の醇化(手厚く教え導く)を致す。
高松塚古墳は玄武の亀蛇の頭部が削られており、四神の中の最も重要なものが破壊されている。
(牧夫良海氏)

・玄武は北、水徳だが、新羅は秦人の後と称したことがあり、秦が祖としているのは水害を治めた顓頊高陽氏(水徳)
このことから新羅は水徳とする説がある。

水徳というのは、万物は木火土金水の5つからなるとする五行説からくる考え方である。

・「三国志」から「二十八宿の配当では虚宿は日に配され、玄武を神とするが、その虚宿と角宿の光が金庚信に下垂した」のは、新羅と高句麗を暗示している。(鎌田茂雄氏)

・金庾信(きむ ゆしん、595年 - 673年。新羅の将軍)の時代、新羅には玄武水徳意識があったということ。
高松塚の壁画の中で玄武が最も傷つけられているのは、被葬者が親新羅、築造者がアンチ新羅をあらわす。

四神は五行説に基づくものである。上の小林氏の意見は、次のように考えればすんなり理解できると思う。

北・・・水・・・黒・・・玄武・・・・・・・・新羅
東・・・木・・・青・・・青龍
南・・・火・・・赤・・・朱雀
西・・・金・・・白・・・白虎
中央・・土・・・黄・・・黄龍または麒麟

・天智系の残党が報復のため天武系要人の墓を暴いた可能性がある。(牧尾良海)
・一番粗末に描かれている白虎は西方、金を意味するが、再三のべるように天智は金、白、白虎で表現されると思うので被葬者は天智系ではない。築造者は半新羅で天智系とすると、高市以外いない。

「再三述べる」とあるが、どこに「天智は金、白、白虎で表現される」と書かれてあっただろうか。(汗)
ぶっ飛んだ内容に心がくじけて(笑)読み飛ばしてしまった、第一章に書いてあったのかもしれない。

ネットで検索すると、次のような記事があった。

天武と五行思想
天武は本来、木徳
天智は金徳
金徳の次の大友朝は水徳のはず。
そして水徳の次が木徳だから、順番からして天武は木徳のはず。
 壬申の乱の時、近江朝が合言葉を「金」にしているのは、天智が金徳の人だったからだが、もう一つの理由は「金は木に剋(か)つ」という五行思想による。それを予想した天武は金に勝つ火徳の色の赤を旗にしたのである。(小林、同書、p39より抄) 漢朝は火徳だったので高祖(劉邦)は赤旗を用い、高祖に擬する天武も壬申の乱の時、赤旗を用いた。(小林、同書、p48)
※頁数は「白虎と青龍:中大兄と大海人 攻防の世紀(小林惠子) 文藝春秋 1993年」

つまり、壬申の乱(天智天皇の子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子)のとき、近江朝(天智天皇の子、大友皇子側)は合言葉は金であった。その理由を小林氏は次の様に推理しているということだろう。

・天智が金徳の人だったから。
・「金は木に剋(か)つ」という五行思想

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』がある。
『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

そして大友側(近江朝)に対して、「天武側は金に勝つ火徳の色の赤を旗にした。」これは「火剋金」である。

・朱雀が描かれなかったのは、天武の赤帝意識と、天武崩御後、一時期実権を握った大津の朱雀好みへの高市の否定。

赤帝とは古代中国の道教における五方上下の守護を司る七帝、黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝、天帝、地帝の一人。
黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝の名前に用いられる色は、五行説からくるものだろう。
大津皇子が朱雀好みというのは、何か理由があるのだろうが、ちょっとわからない。

・青龍は天武を表象する。 
あれあれ、「天武は赤帝で、朱雀じゃないの?」と混乱するが、すでに述べたように、小林氏はつぎの様に推理されているように思われる。
壬申の乱の時、近江朝が合言葉を「金」にしているのは「金は木に剋(か)つ」という五行思想によるのではないか。
つまり、天武は「東・・・木・・・青・・・青龍」なので、
「『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。」で近江朝は合言葉を金にした。
そこで天武は近江朝を金とみなし「『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。」から、赤い旗を用いた。
しかし、もともと天武は「東・・・木・・・青・・・青龍」である。

・高松塚の青龍には首に✖印があるが、天武の追悼寺であり薬師寺台座にも同じマークがある。天武を象徴する青龍には✖印をつけたのだろう。
・✖マークは五行思想から四方と中央を意味しているのだろう。

青龍✖印

高松塚 青龍

薬師寺 青龍

薬師寺 薬師如来台座 青龍

たしかに同様のマークが認められる。そして薬師寺が天武の追悼寺であることも事実である。
しかしこの✖マークには別の意味があるのかもしれず、これだけで天武=青龍であるとは言い切れないだろう。

・青龍は雷雨をもたらす雲と結びつき「青雲」という言葉ができたのだろう。
北山に たなびく雲の 青雲の 星離り行き 月を離りて(持統天皇の天武への挽歌)
青雲は天武をさしている。

・高松塚の日月像の下にある朱線上の緑と青の雲は天武をあらわす。

高松塚 日像

高松塚 日像

高松塚 月像

高松塚 月像

朱色の線は海だとか、雲だもいわれており、青と緑で描かれたものは山または島と解釈されている。
小林氏は青と緑で描かれたものを雲だとおっしゃっているが、このような形の雲はあるだろうか。
入道雲だと言われればそうかもしれない。

これと同様の日・月像は法隆寺の玉虫厨子にも描かれている。

玉虫厨子2

法隆寺 玉虫厨子に描かれた日像

玉虫厨子には高松塚古墳と同様の島または山状のもの(小林氏の言う青雲)が描かれている。
法隆寺は聖徳太子の建立と伝わり、天武とは直接的なつながりはないと思う。
したがって、玉虫厨子に描かれた島または雲状のものは天武とは関係がなく、高松塚古墳に描かれたものも天武を示すとは言い切れないと思う。

・壁画の侍者が持つ蓋の色が緑色で赤い房飾りがついているのは、位階を示すものではなく、天武を示している。

高松塚古墳壁画 男子像

これについては前回も述べたように、養老令に「縁の蓋は一位」と記されている。

こちらの記事には、
養老令(718)蓋条(きぬがさじょう)で深緑が一位でありと「てっぺんと四隅を錦で覆い房を垂らす」との記述があり絵と見事に一致しています。
と記されている。

小林氏の主張は全く通らなくもないが、やはり「緑色の蓋=一位をあらわす」をひっくり返せるほどの力がないと感じる。

③高松塚女性像は西壁が相生、東壁が相克を表す?

・五行における相生・相克を高松塚女性像にあてはめると、西壁が相生、東壁が相克を示しているように思われる。(吉野裕子氏)

西壁女性群像に見る五行順理

西壁赤の背後に「虚位〇」をおき、これを水とすれば、五行の相生、木→火→土→金→水の並びになる。

先ほども書いたが、おさらいしておこう。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

東壁女性群像にみる五行逆理

東壁女性群像は赤の背後に虚位〇を想定し、水とすれば、五行の相剋、木→土→水→火→金 の並びになる。

『相克説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

・西壁は白虎、天智を表すので相生、東壁は青龍、天武を表すので相克になっている。
・水は胎児の死者=被葬者をあらわすので描かれていない。(吉野裕子氏)
・半新羅の意図によって描かれていないと推定する。(⓶で「新羅は水徳とする説がある」と書いた。)
・4人づつのグループで書いたのは四✖四・・・死✖死を意図している。

虚位の水を設定する!?素直に同意できないが、うーん??

⓸現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか?

・江戸時代の天武・持統合葬檜前大内陵(野口王墓)は所在不明
1880年、阿不幾乃山陵記が発見され、野口村の王の墓(現大内陵)が天武・持統陵であることが明らかになったとされる。

・1235年、現大内陵盗掘される。
・藤原定家の明月記の記録
4月22日、盗掘があり、白骨、白髪が少々残っていた。
5月23日、石清水八幡宮と興福寺配下の庄民との間に用水をめぐる争いがおき、六波羅より武士が出動。
6月4日、朝廷では山陵使を(現大内陵に)派遣する話が出ていたが、興福寺の僧が蜂起して延期になった。
6月30日、比叡山の僧侶が蜂起する。
10月になっても騒動おさまらず。
10月6日、「忠成宿祢訪来。坂本近日狼藉殊甚、恒例神事皆依衆徒制止、無骨云々」。
忠成宿祢がやってきて、恒例の神事はすべて坂本の僧侶の狼藉によって中止された。(小林氏による現代語訳)
・「無骨」とは現大内陵に骨がなかったということではないか。
・衆徒のさわぎの原因は、現大内陵に骨がなかったことではないか。

これは明月記を読んで内容を確認してみないとわからないが、残念ながらネットには名月記の原文、現代語訳がない。
とりあえず、小林氏の説明に沿って考えてみよう。

恐らく、興福寺や延暦寺の蜂起というのは強訴のことだ。
強訴とは平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求のことで、興福寺は春日神木を担ぎだし、朝廷に要求を迫ったという。
朝廷は神仏の権威の前にたいてい寺社の要求をのまざるを得なかったという。

ウィキペディアの強訴のページに1235年の強訴についても記されていた。

 1235年 7月23日 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流 吾妻鏡
7月27日 興福寺 寺領について訴えるため、神木動座 大宮文書
12月22日 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛。朝廷、六波羅探題に命じて制止 明月記

4月22日、現大内陵に盗掘があり、白骨、白髪が少々残っていた。
5月23日、石清水八幡宮と興福寺配下の庄民との争いがおき、六波羅より武士が出動した。
その原因は用水をめぐる対立であった。
6月4日、興福寺の僧が蜂起しているが、これに5月23日の石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民の争いが関係しているかどうかはわからない。
この興福寺の蜂起を抑える必要があったので、朝廷は山陵使を派遣する計画を急きょ取りやめた。
山陵使の派遣など、興福寺の蜂起を鎮めてからでいいと、そういう判断だろう。
この山陵使の派遣について、小林氏はどこへ派遣するかを明確にされていないが、4月22日に盗掘があった現・大内陵へ派遣するということだと思う。
6月30日、比叡山の僧侶が蜂起しているが、これが石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民、興福寺の争いと関係があるかどうかもわからない。
ウィキペディアによると、7月23日 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流とある。 
10月になっても騒動おさまらず、というのは、「石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民、興福寺」との争いがおさまらなかったということかもしれない。
その結果、12月22日 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛につながったのではないだろうか。
朝廷、六波羅探題に命じて制止したという。

少し戻って、10月6日、「忠成宿祢訪来。坂本近日狼藉殊甚、恒例神事皆依衆徒制止、無骨云々」。
忠成宿祢がやってきて、恒例の神事はすべて坂本の僧侶の狼藉によって中止された。(小林氏による現代語訳)

忠成宿祢とは大江忠成のことだろうか。
彼は1220年に辞していたが、熱田神宮大宮司であった人物なので、神社の神事などに口を出せる人物であったのかもしれない。
文章の流れからみて、忠成が恒例の神事を中止させたように読める。
恒例の神事とは石清水八幡宮の神事のことだろう。

 「無骨」の意味は、
1 骨ばってごつごつしていること。また、そのさま。「節くれだった―な手」
2 洗練されていないこと。無作法なこと。また、そのさま。「―な振る舞い」
3 役に立たないこと。才のないこと。また、そのさま。
「我―なりといへども…君王の死を救ひ」〈曽我・五〉
4 都合の悪いこと。また、そのさま。
「(御遊ぎょゆうノ興ヲ)さましまゐらせんも―なるべしとて」〈平治・上〉


「無骨とは現大内陵に骨がなかったということではないか」、と小林氏はおっしゃるが、
ここでいう無骨とは、「2洗練されていないこと。不作法なこと。」ではないかと思う。
坂本とは比叡山延暦寺の山麓にある延暦寺の門前町である。
比叡山延暦寺「坂本)の僧の強訴によって伝統的な祭が中止になったことが、洗練されず、不作法だということだろう。

「衆徒のさわぎの原因は、現大内陵に骨がなかったことではないか。」と小林氏はいうけれども、
現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのかがわからない。

⑤現大内陵の遺存品は橘寺へ移送された。そのリストを正確に記すのは当たり前では?

・橘寺の僧侶が「阿不幾乃山陵記」を書いているが、遺骨を測定して記しているが、噂を否定するためにこれを書いたのではないか。

『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書と次の記事には書いてある。

こういう記事も見つかった。
 
侵入後の実検記録の書写本が、京都市右京区にある高山寺の方便智院に所蔵されていた「阿不幾乃山陵記」です。山陵の形状や規模、墓室.棺の構造と材質、遺骸の状態、遺物の種類や数量を記します。また、遺存品の橘寺への移送や「御念珠」を多武峯の法師が持ち帰ったことなども書かれています。

どうやら盗掘後、盗掘されずに残った品々を、場所的にも近い橘寺に移送したらしい。
その遺品の中に遺骨があったのだろう。
そして橘寺の僧侶が、預かった遺品のリストを作ったということで、私には何ら不審な点は感じられない。
寺宝のリストを作るようなものではないだろうか。

・1293年に再び賊が(原大内陵に?)入り頭骨を持ち出したという記録がある。

「頭骨だけを持ち出すとは不思議な泥棒だ」と小林氏は書いているが、頭骨、すなわち髑髏は呪術の道具として盗掘されることがあったということを何かの本で読んだ記憶がある。
真言立川流では髑髏に漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作って信仰していたようである。
その髑髏本尊をつくる髑髏は高い身分の人のものほど効果があるとされていたとのこと。
真言立川流は、蓮念(仁寛、?–1114年)と見蓮によって創始されたとされるので、現大内陵が盗掘にあった1235年、1293年にはすでに存在していた。

⑥高松塚は天武持統陵の南にある。

・山陵の盗掘は史料を見る限りすべて僧侶によって行われている。

そうであるとすれば、僧侶が髑髏本尊を作る目的で古墳を盗掘したのかもしれない。
真言立川流は江戸時代に邪教であるとして迫害され消滅したが、かつてたいへん流行った流派であったという。
1235年の現大内陵盗掘も僧侶によって行われたのだろうか?

・日本書記によると、688年11月4日条に、天武の殯宮のことが記されているので、この時点まで天武の棺は殯宮にあり、
11月11日の「祭事が終わって大内陵に葬る」とある時に大内陵は完成していたと考えられている。
持統は702年12月に崩御し、火葬されて大内陵に合葬されたとある。

・続紀707年7月5日「有事〇大内陵」。
続紀755年10月「遣使於山科(天智)、大内東西(天武・持統)・安占(文武)・真弓(草壁)・奈保山東西等山陵(元明・元正」
730年9月25日「遣使以渤海信物、令献山陵六所、併祭」
元正が崩御したのは748年なので、元正陵は六所から省かれるので、大内陵は2カ所ある。その1か所が天武陵の高松塚ではないか。

六所は、山科(天智)、大内東西(天武・持統合同陵)・安占(文武)・真弓(草壁)・奈保山東陵(元明)に、斉明天皇陵が加わるとも考えられると思う。

斉明天皇陵は藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳と南北に延びる「聖なるライン」からそんなに遠くない場所にある。
天武持統陵からは西南西に500mほどの距離である。
またもうお気づきの方も多いと思うが、高松塚古墳は天武・持統陵の南(正確にいえば南南西)にあるので、高松塚古墳もまた大内陵と呼ばれていたならば、「大内東西陵」ではなく「大内北南陵」と表現されるのではないだろうか。
しかし続紀755年10月の記述は「大内東西」なので、それは天武持統陵と高松塚古墳を指すものではないと判断できる。

小林氏は地図を確認されていなかったのか?いや、彼女は地図を確認している。
そして、次のような理屈で大内東西陵を定義している。
・藤原宮から南北に垂直線を下すと南からみて西140mのところに高松塚がある。

つまり、現大内陵から高松塚を見るのではなく、聖なるラインからみて高松塚は西にあるから大内西陵であると主張されているのである。
申しわけないが、これは納得できない。
二つの古墳があり、140mほどのずれはあるにしても、ほぼ南北に並んでいた場合、それは東西とは言わず、南北というのがふつうではないだろうか。

菖蒲池古墳 周辺図

菖蒲池古墳案内板より 大内陵は野口王墓。その南、少し西にずれた場所に高松塚古墳がある。
この大内陵(野口王墓)と高松塚古墳の位置関係で、高松塚古墳を大内西陵というのは違和感がある。
言うのなら、大内陵南陵だろう。

この時点で彼女の意見はつまづいていると思うが、彼女は高松塚=大内西陵という視点でものを見始める。

・嵯峨天皇が魏武帝の西陵をテーマにしてよんだ歌は、実際には高松塚をよんだ歌
・日本書紀が完成した720年は続紀707年7月5日の「有事〇大内陵」から13年で日本書記編集者は高松塚(日本書記は有事があったのは大内陵としているが、大内西陵=大内陵と決めつけておられる。)の情報は知っていたはずで
現大内陵が完成したのは11月11日と記録があり、そこからで、高松塚の祭が11月16日と定められた。

そもそも、現大内陵が完成したのは11月11日なのに、なぜその祭が11月11日ではなく、16日なのだろうか。

・持統6年、大内陵造営に功のあった直丁8人に官位を与えているが大内陵が完成したのは持統2年で、官位を与えたのが陵完成から4年後は期間があきすぎ。
衣縫王は文武3年に超智山陵(斉明天皇陵)造営使となっていて山陵造営の専門家。
高松塚造営の責任者も衣縫王ではないか。持統6年の褒章は高松塚完成に対する褒章ではないか。

当時褒章を4年後に与えるのが異例だったかどうかもわからないし、すでに述べたように大内西陵というものがあったとしても、それは高松塚のこととは考えられない。
先ほども述べたように、高松塚が大内陵とすれば、天武持統合同陵を大内北陵、高松塚は大内南陵となると思う。

・持統7年2月、造京司衣縫王に命じて掘り出した屍をおさめさせたとあるが、呪術思想が強い時代に新京を設置する場所を墓地の上に設定するはずがない。掘り出したのは大内陵の天武の屍ではないか。

人が生活している場所に屍や墓地があるのは当たり前のことである。
私が住んでいるところは住宅街だが、やはり墓地は存在する。
富士山の樹海のようなところには、出口がみつからないまま死んだ人の屍はあるだろうが、墓地はないだろう。
藤原京がある場所は多少土地を削ったりはしたかもしれないが、平地であって古くから人が住んでいたのではないだろうか。
そうであれば墓地があるのはむしろ当たり前ではないかと思ったりする。

奈良時代につくられたとされる奈良市の頭塔は仏塔と考えられているが、、6世紀の古墳を破壊してその上に築造されている。
墓を壊して仏塔をつくるのに、なぜ墓のある場所には都を作らないと言い切れるのだろうか。

頭塔

頭塔

高松塚造営の責任者が衣縫王とするのも、小林氏の想像によるものであり、根拠らしい根拠はないといえそうである。

⓻推理というよりは創作?

大津皇子が捕らえられたのは朱鳥元年9月24日。殯宮を南庭に建てた祭の日。
大津が天武に謀反を計画したとすると、天武11年8月の時点で高市も反天武であったので同罪。

高市が反天武とするのは、小林氏が次の様に考えたことによる。

卑母のうまれとはいえ年長の高市が天武の第一子とされていないのはおかしい。天智の子の大友も卑母の生まれだが第一子とされている→高市は本当は天智の子

しかし前回述べたように、天智には身分の低い女性が産んだ男子しかいなかった、厳密にいえば建皇子は夫人の蘇我遠智娘が産んだのだが、彼は夭折してしまっている。

一方、天武の方は身分の高い大田皇女・鸕野讚良皇女(持統天皇)※どちらも天智の娘で母親は夫人の 蘇我遠智娘
が産んだ大津皇子、草壁皇子があり、
天智の第一子大友が卑母の生まれだからといって、天武の年長の子とされる高市が第一子とされていないのはおかしい、とはいえない。

天武が高市に『自分には幼少の子供しかいない」と言ったことを小林氏は疑問視しておられ、これは確かにおかしいが、
ここから導かれるのはせいぜい「高市は本当は天武の子ではない」までで、「高市は天智の子」とまでもっていくことはできなくはないだろうか。

・高市が大津だけを罪に陥れる方法は、死者への冒涜。
天武は11年8月5日に崩御して現在の長野市善光寺あたりに殯宮が営まれた。
その後、朱鳥元年9月に南庭へ殯すと在り、祭が行われているので、その前に善光寺から棺は移されていたと考えられる。
高市はこの移動の間に遺骨を盗み出したのではないか。そして殯宮に空の棺を置いた。
殯宮の祭に大津が出席した際、高市は棺をあけ、遺骨のないことを大津のせいにして死者への冒涜の罪で捕えたのではないか。
その後、高市は密かに高松塚を築造した。高市にとって高松塚の築造は天武・大津親子に対する復讐であった。
高松塚に朱雀が描かれていなかったのは、南が帝位を表すと同時に、大津をイメージさせるためである。

南が帝位をあらわすというならば、なぜ都の宮殿は北につくるのだろうか。
天子南面す、とは天子は北にいて、南をむくということだと思うのだが?


藤原京は平城京に比べて宮が北ではなく中央によっているが、天皇の棲む内裏は藤原宮の北に位置している。
平城京

・以上は完全に推理だが、様々な角度からみて、現在のところこれ以外の結論はありえない。

小林氏は推理といっておられるが、推理というのは根拠をベースに行うものである。
特に小林氏の最後のこの結論には、ほとんど根拠がなく、推理というよりは、創作に近いと思ってしまった。

かなり批判めいたことを書いてしまったが、小林氏が細かく資料を調べておられる点については、私など足元にも及ばないと思った。







高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑱深緑色の蓋は被葬者が天皇ではないことを表している。※一部書き直しました。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①神として祀られた高松塚古墳

・秋山日出雄「高松塚は形は小さいが、木を伐ると祟りがあり、常ならぬ所として文武陵と推定し、周囲に竹垣をつくった。」

江戸時代までに伝えられていた伝承によると、村人たちによって皇陵として奉祀りは続けられていたようである。

これについて、『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』は次のような内容が記されている。

古来より上平田の村人の中で、橘の家紋を持つ家々が祭典をおこなっていた。
その村人の集まりを古宮講といい、旧暦11月16日に高松塚古墳所在の古宮で宮座行事をおこなっていた。
いつしか平田八坂神社の大宮講と合併されて高松塚古墳での祭典はなくなった。(秋山日出雄氏)

梅原猛氏も次のような内容を述べておられる。

飛鳥村には多くの古墳があるが高松塚だけ神として祀られていた。
この古墳は古宮と呼ばれ、字上平田に住む橘の紋をもつ九軒の家の人々によって代々祀られてきた。祭の日は1月16日。
戦前まではこの古墳の前で祀りをしたが、戦後は各家で行っている。
古宮の講の代表者である前田忠一氏を訪ねるとこんな話をしてくださった。
「昔は木がうっそうと生えていて不気味なところだった。祭の日以外は近寄る人はなかった。」

中間報告と梅原氏の文章は、祭の日が違っている。
年2回祭があったのか、またはどちらかが間違っているのかもしれない。

⓶高松塚に大木は育たない?

・平田村の庄屋三郎右衛門らが提出した覚書には「高松塚は立木もない芝山」
与力玉井与謝衛門らが現地報告した報告書「松が15本ある」
同時代の地図 大きな松が一本書かれている。
下が版築では大木は育たないのでは?

小林氏は上の発言の意図を明確にされていないが、その後中尾山古墳、野口王墓、高松塚古墳などの混同がみられることを指摘されているので、三郎右衛門の報告は高松塚古墳のものだが、玉井与左衛門の報告は高松塚古墳のものではない(玉井氏は高松塚とまちがって中尾山古墳を調査したなど)と考えられたのだろうか。

小林氏は「下が版築では大木は育たないのでは?」と書いておられる。
版築とは板などで囲った枠の中に土をいれ、たたき棒で土を突き固める工法のことである。

↑ こちらのブログ記事に木の生えた高松塚古墳の写真が掲載されている。ただし松ではなく竹のように見える。

版築

↑ これは高松塚壁画館で撮影した(撮影可)「高松塚古墳の墳丘版築層実物標本」 である。
竹の根が生えているだけで大木が根をはった跡がない。
小林氏がおっしゃるように、版築には大木は生えないのだろうか。

調べてみたところ、纏向型古墳は版築に近い方法で作られているということである。
奈良県桜井市の箸墓古墳も纏向型古墳だが、木が生い茂っている。
版築といっても、箸墓古墳はつき固め方が甘いなどの原因があるのかもしれない。

箸墓古墳

箸墓

③古墳の向きと北枕

・蒲生君平は南面していることを陵墓(皇室関係の墓)のひとつの条件としてあげる。
喜田貞吉は「後期古墳の横〇(漢字がよめない 汗)が南面して開口しているのは、天子南面からくるものか」としている。
しかし中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とし、北向きに葬る。

円墳、方墳、八角墳などは、外から見ただけでは、古墳の向きはわからない。
高松塚を発掘調査したところ、羨道(えんどう/の玄室と外部とを結ぶ通路部分)が石室の南につけられていたことがわかった。
おそらく石室から羨道が南に伸びている方向を南向きといっているのだろう。

小林氏はなぜ「しかし」という言葉を用いているのだろう。
「しかし」というのは、「 今まで述べてきた事と相反することを述べるときに用いる」言葉である。

小林氏は「南面していることが陵墓のひとつの条件である、しかし中国では北向きに葬るので、南面していない。」と言っておられるのだろうか。

「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」ということは、
被葬者を北枕で葬るということで、北枕で被葬者を寝かせれば、南を向くことになると思うのだが。

北枕

↑ 知恵袋だが、質問に次のようにある。

「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向きに作られていて、生前に王として南面していたことを示しているんですよね?でも秦では始皇帝に至るまでの陵墓は東向きに作られていて始皇帝の陪葬墓群、兵馬俑によって構成された陣形もすべてが同じく東を向いています。」上記記事より引用

小林氏は「中国では北向きに葬る」とおっしゃているが、知恵袋の質問者さんは、「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向き」とおっしゃっている。
私は知恵袋の質問者さんの認識のほうが正しいのではないかと思うのだが、どうだろう。
たぶん小林氏は南枕で葬ることを南向きと勘違いされていると思う。
北枕にすれば、被葬者は南を向くことになる。
北枕は「天子南面す」という状態を作って葬ることになる。

(私のほうが勘違いしていれば教えてくださいねー)

⓸高松塚は北枕?南枕?

・高松塚の場合は「天子南面」の意識があったかもしれない。
高松塚の遺骨は散乱してどちら向きとは確定できないが、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いていく様子から、南向きに葬られた可能性がある。

高松塚古墳 レイアウト図

高松塚古墳 壁画館で撮影(撮影可)

高松塚古墳壁画の人物像は、朝賀の儀式を著したものとする説が支持されている。

朝賀(ちょうが)とは、律令制において毎年元日の朝に天皇が大極殿において皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B3%80


平安神宮の社殿は平安京・大内裏の朝堂院を縮小して復元している。
その平安神宮の大極殿を見ると南に広場がある。



朝賀の儀式のとき、広場には大勢の人が集まるのだろう。
そして天皇は大極殿にいて、広場にいる人々の拝賀をうけるのだから、南向きに座していることになる。
広場にいる人々は北向きにたって、大極殿を望む。
これは「天子南面す」である。

ところが、高松塚の壁画に描かれた人々は南を向いているので、被葬者が天皇で、壁画に描かれた人々の群臣のほうをむいているとすると天皇は南枕で北を向いていることになる。
「天子南面す」とはならない。

「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」で岸俊夫氏は次のようにおっしゃっている。※()内はブログ主の注釈

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられるが、もしそうなれば屏繖の下にみえる口髭・顎髭を生やした男子人物像はさきに舎人を率いて先頭の屏繖に立つとされた官人に相当するものと推定され、また円〇(漢字が読めませんでした。すいません。たぶん翳(さしば)の事だと思います。) を持つ女子像もともに東西相対して女子群像の先頭にくることとなり、壁画群像の多くが南の入口の方向に向いていることも相まって、一応壁画全体が無理なく理解できる。

「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

、壁画に描かれている男子像は、「舎人を率いて先頭の屏繖に立つ官人」であり
また丸い翳(さしば)を持つ女子像も女子群像の先頭にたっており
人物像は南の入口の方向に向いている。
そして、被葬者は南枕の可能性があるという。
ということは、被葬者は人物像に対面するような形で、北を向いているわけである。



(リンク先は、朝賀ではなく大嘗祭の様子だが、参考までにはっておく。)

⓸松は陵墓を示す木?

中国では陵墓には必ず木が植えられ、その中に松があった。陵墓の松についての詩は多い。
『御漢書』(陶遺伝75)に「高句麗は金銀財宝を増やして厚葬をし松柏を植える」とある。
王陵といわれる高句麗の中和真坡里第一号墳の玄室北壁の玄武像の左右に松が描かれている。高松塚と同じく南に羨道がある。
元明天皇の違勅に「常緑の木を植えよ」とある。
高松塚は南面と松から高句麗の王朝との関連をうかがわせる。
 
『松柏』
〘名〙 (「柏」は、側柏(このてがしわ)・扁柏(ひのき)・円柏(びゃくしん)などの常緑樹をいう) 松と柏。また、四季に緑を保つ常磐木(ときわぎ)の総称。転じて、節を守って変わらないこと、また、変わらずに永く栄えることのたとえ。

松は被葬者の魂に対して永遠であれ、という願いをこめて植えるのかもしれない。

滋賀県君ヶ畑には惟喬親王が創建した金龍寺があり、人々はそこを「高松御所」と呼んだという伝説もある。
金龍寺の隣には惟喬親王の墓もある。

金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

惟喬親王は世継争いに敗れて御霊(怨霊が祟らないように慰霊したもの)として各地の神社に祀られている。
御霊や墓と高松には何か関係があるのかもしれない。

「高句麗の王朝との関連をうかがわせる」と小林氏が書いておられるのは、
・高句麗の中和真坡里第一号墳の玄室北壁の玄武像の左右に松が描かれている。
・高松塚と同じく南に羨道がある。
という二つの理由だけでなく、小林氏が「中国の墓は北枕なので、天子南面ではない。」と考えて「南向きに羨道のある高松塚と違う造りになっているので、中国との関連は薄い」と考えたためかもしれない。
しかし、すでに述べたように、北枕だと「天子南面」になると思う。

⑤高松塚の墳丘は小さくない。

・墳丘の規模が小さいため、高松塚は下級貴族の墓とする説もあるが、薄葬令の王以上は方9尋高さ5尋・
高松塚の広さはそれを超えている。高さは薄葬令そのものが不可能な数値。

小林氏のこの意見は完全に同意する。
下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
薄葬令よりも広さが大きい古墳を赤で示してみよう ※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m                
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)    
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)

このように薄葬令の基準を上回る古墳のほうが断然多いが、高さは薄葬令の5尋を上回るものはない。
力学的に広さ9尋に対して、高さ5尋はムリということなのではないかと思うのだが、どうだろう?

⑥副葬品は三種の神器?天武は渡来人?

・高松塚の副葬品、鏡、刀、玉について梅原猛氏は「三種の神器」とされている。
これに対して高橋三智雄は「高松塚出土の玉は勾玉ではなく三種の神器ではない」と反論している。
しかし、三種の神器の玉は公開されたことがなく、勾玉かどうかわからない。

三種の神器のうちの玉は、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と呼ばれることから、高橋氏は三種の神器の玉は勾玉だと判断したのだろう。

・三種の神器意識が高松塚の時代にあったかどうか。
令集解(868年頃)には神器が鏡と剣の2種と記されている。
古語拾遺《807年)には三種の神器として最初に「八尺瓊勾玉」があげられている。
・中国の即位儀礼には玉は用いられなかった。
・渡来人系の天武は土着勢力を懐柔するために日本古来の伝統である「玉」を尊重したのではないか。
天武以降に実験をもった大津・高市は、すでにそういうことを考える必要がなく、中国式の即位儀礼をおこなったと思われる。

なんだかぶっ飛んだ話になってきた。(笑)
定説では天武の父は舒明天皇、母は斉明天皇であり、日本人だとされているが、小林氏は天武を渡来系と考えているわけだ。
さらに、定説では天武の子である大津、高市が即位した事実はないとしているが、小林氏は即位したとお考えのようである。

白状すると「高松塚被葬者考(小林恵子)」の第1章は「ぶっ飛んだ内容」がでてくることもあって読む気になれず、飛ばして第2章から読み始めたのだが(汗~)
第一章を探してみると、その理由が簡単に記されてあった。

・日本書紀は、「斉明天皇が舒明天皇と結ばれる前に、高向王との間に漢皇子を生んだ」と記しており、
漢皇子を天武と同一人物とした。

・「秋月系図」に「後漢孝霊帝の孫・阿智王の子孫・高貴王が斉明と結婚し、三子をもうけた」とあり、高貴王を孝徳朝の重臣で大化の改新の推進者・高向玄理と同一人物とした。
高貴王=高向王=玄理とすれば、天武は玄理の子となる。

小林氏はこれだけの理由で天武を渡来系、高向玄理としたわけではないだろうが、それについては彼女の別の本を読んでみないとわからないだろう。

さらに小林氏は高市皇子は天智の子で、はじめ近江朝側についていたのを、寝返って天武側についたと考えておられるようである。
小林氏はその理由をたくさんあげておられるが、その中からいくつか書きだしてみる。

・高市は天武と胸形君徳善の娘で第三子と記されているが、公卿補任によれば壬申の乱のとき19歳で、11~12歳と思われる草壁・大津より年長。
高市は卑母の出だが、大友は卑母の出であっても天智の第一子となっている。

天武の妻には天智天皇の娘の大田皇女・鸕野讚良皇女など身分の高い女性がいて、彼女らは男子を生んだのだが、
天智の妻で身分の高い女性は男子を生まず、夫人の蘇我遠智娘は建皇子を生んだが夭折してしまっている。
天智の妻で建皇子以外の男子を生んだのは采女身分の女性ばかりだったようである。

「ようである」と書いたのは、史料によって子の記載がちがっているためである。
日本書紀は天智の皇后を倭姫(子供なし)、他に八人の妻があったとし、大友・建・川嶋・施基の四皇子と、太田・鸕野讚良(持統天皇)・御名部・阿倍(元明天皇)ら十人の皇女があったとする。

ところが『続日本紀』は施基を第七皇子とし、『扶桑略記』は子女を男六人・女十三人とし、他書にも大友皇子の弟妹について伝える記事があるという。

小林氏が高市を天智の子と考えた背景にはこのようなことも影響していそうではあるが、
健皇子は夭折し、後は采女が産んだ男子しかいなかったので
天智の皇子は、采女の伊賀宅子娘が産んだ大友を第一子とし、
天武の皇子は鸕野讚良皇女の子である草壁を第一子とするのは、ありそうなことで、別におかしなことではないと思う。

・大海人は挙兵後高市に『自分には幼少の子供しかいない」と言っているが、高市は19歳で当時としては大人。

・高市は天武に対して「なんで天皇の霊に逆らうことがあろうか」と言っているが、生存者に対して霊という言葉を使っているのはみたことがない。天皇とは天武のことではなく、天智のことではないか。

・「扶桑略記」金勝院本 天智条に「三人即位一人不載系図」とある。
三人のうち二人は大友と元明だろう。残るひとりは高市ではないか。

・大友吹負が高市になりすまして叫んだところ、近江軍は声を聞いただけで逃げ去ったとあるが、(見方の)高市だと思って引き下がったのではないか。

・近江朝側の穂積百足が高市の命令によって素直にやってきたのは、高市が近江側であることを疑っていなかったのではないか。

・二万の兵を率いて大海人側に参加した小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は軍功があったのに自殺し、大海人は陰謀蛾あったのか、と不審に思っている。
これについて、
大海人は鉏鉤の軍を寝返らせたとみるべき。
鉏鉤は乱後高市が帝位につくと思って大海人に協力したのに、大海人が皇位についたので自殺したのでは?

これについては、まあそういうこともあるかもしれない、とは思わなくもないが、決定打にかけているようにも思われる。
ともかく、小林氏がこのような考えを持っているということだけ抑えておいて、次に進もう。

・「高松塚の場合、持統朝以前の三種の神器意識をもって、被葬者の天皇という身分を表明するために三種の品を入れたと推量する。」(原文まま。『高松塚被葬者考』109pより引用)

つまり、小林氏は高松塚の被葬者は天武天皇であり、天皇という身分を示すため、また渡来人である天武が日本古来の風俗を尊重し、三種の神器として、海獣葡萄鏡、刀、玉を副葬品としていれたと考えておられるのだ。

⓻深緑の蓋は一位をあらわす。

・原田淑人氏は壁画の内容を「供養行列ではないか」とするが、岸俊男は「葬送には鼓吹が伴うが、高松塚壁画にはない」と指摘する。
・斎藤忠は葬送の際に歌舞奏楽する埴輪像があると指摘する。
・柿本人麻呂の高市の挽歌に「御門の人も白袴の麻衣着・・・」とあり、葬送であれば白い衣装を着ているはず。
・従者を壁画に描くことによって、被葬者の身分を明らかにしている。

上は「歴史ヒストリア/ 飛鳥美人 謎の暗号を解け 高松塚古墳の秘密」について記したものである。
面白い記事なので、別途内容をとりあげて考えてみたいが、ここでは「従者を壁画に描くことによって、被葬者の身分を明らかにしている。」とする小林氏の考えと対立する内容のみを記しておこう。

男子群像が手に持っている深緑色の蓋は天皇が持つものではなく、一位の身分の者が持つというのである。
もしもこの蓋を被葬者にさしかけているならば、高松塚の被葬者は天皇ではないことになる。

⑧頭蓋骨のない遺骨

・高句麗、百済では壁画古墳は王族に限られていた。(江上波夫氏)

・昔の墓荒しは、墓を荒すことによって死者の霊を亡きものにすることを目的としていた。
高松塚も権力闘争とかかわり合った天皇家の人物の墓ではないか。(江上波夫氏)

・律では塚を暴くものは従三年、棺槨を開くものは遠流。

・刀身が無く、刀の金具のみ残っているが、狭い石室内で外す作業は難しい。梅原猛氏も指摘されているように最初から刀身はなかったのだろう。

・鏡は遺骸の顔面か胸の上に鏡面を上にして置くのがふつう。(斉藤忠)
日本では、古墳から完全な遺骨が発見された例は数が少ないと思うが、なぜそれが普通だといえるのかの説明がほしい。

・高松塚は東壁に漆喰に淵がめり込んだ形で発見され、最初から棺外に置かれていたと推定されている。
漆喰が生乾きの内にたたきつけたのだろう。
鏡は東壁ではなく、東壁に接する床で発見された。

・玉は槨内に散らばり、遺骨も棺外に散乱している。
なぜそんな骨の折れることをして金銭的価値のある玉や鏡を持ち帰らなかったのか。

・着衣の切れ端も見つかっていない。棺材に残った麻布や鏡の紐は残っているので、最初から衣はなかったのだろう。
着衣もなく葬るというのはありえない。死者を冒涜するために初めから破壊されていたと推定される。

・高松塚の遺骨から、筋骨発達し、腕が長く、足が大きい。大柄。大腿筋が発達している。乗馬の習慣があったか。慢性疾患はなく急死の可能性が高い。推定死亡年齢は熟年者(40~50歳)

・28歳でなくなった草壁、24歳でなくなった大津は除外される。残るのは高市と天武。

天武の皇子は、他に長、弓削、穂積、忍壁、舎人、磯城などがいる。
そうであるのに小林氏が被葬者を草壁、大津、高市、天武の4人に絞っているのは、高松塚の被葬者を天皇クラスの人物と考え、草壁、大津、高市は即位したと考えておられるからだろう。

・顎部以下の諸骨は残存しているのに、頭蓋骨は小破片すら残存しない。
顎骨があるので、骨になる前に斬られたとは考えられない。(島五郎氏)
白骨になってから頭骨を引き抜いた。

・律によれば、謀反人は斬首。計画した者は絞首。斬首の方が罪が重く、首と胴体が離れる未来永劫に亘る死刑に処される。
斬首も絞首も同じと考えるのは現代人の感覚。






高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑰  キトラ天文図は中国で描かれたものだった。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①高松塚に最もふさわしい被葬者は天武天皇?

・小林氏は次の有坂隆道氏の次の発言をとりあげておられる。
高松塚の星宿は正確。
高句麗の古墳にも星宿はあるが北斗七星が主で二十八宿すべてを描いたものはない。
したがって高句麗からの影響はない。
天武4年《675年)正月に「占星台を立つ」とあり、天武朝、持統朝に作られたのではないか。
特に、持統4年(690)11月の「元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦を行う」の頃までに描かれたのではないか。
最もふさわしい被葬者は天武天皇。(有坂氏)

・中国の天井画は銀河のみ。(小林氏)

元嘉暦は中国の南北朝時代の南朝宋の天文学者・何承天が編纂した暦法。
『日本書紀』によれば、554年に百済から日本に伝えられた。
持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)説もある)、中国から新しい暦・儀鳳暦と元嘉暦を並用した。
686年10月1日文武天皇元年(697年)からは元嘉暦は廃され、儀鳳暦が正式に採用された。

小林氏の本には、有坂氏の発言として「元嘉暦と儀鳳暦を行うの頃までに描かれた感が深い。」と記されていて、意味がわからなかったが、「元嘉暦と儀鳳暦を行う」とは「元嘉暦と儀鳳暦を並用する」という意味だったのだ。(笑)

有坂氏はなぜ「元嘉暦と儀鳳暦を並用することになった年までに描かれた」と考えられたのか。
その理由は「持統朝以降では星宿図を描くことはできなくなっただろうから」という事だと思うが、
なぜ持統朝以降では聖縮図を描くことができなくなったと考えられるのか、そのあたりの説明もほしいと思った。
有坂氏の著書『高松塚の壁画とその年代』をよめばその理由について説明されているかもしれない。

686年、天武天皇は重態となり、皇后・鸕野讚良と、息子で皇太子の草壁皇子に大権を委任した。
同年、天武天皇は崩御され、2年3ヶ月に及ぶ葬礼を経て688年に大内陵に葬られたとされる。
草壁皇子はすぐに皇位にはつかず、689年病を煩って亡くなってしまった。
690年、鸕野讃良は草壁皇子の子で当時7歳だった軽皇子(後の文武天皇)を皇位につけるため、中継ぎの天皇として自ら即位し、697年に軽皇子に譲位している。

有坂氏は「最もふさわしい被葬者は天武天皇」とおっしゃっている。
日本書記によれば、「天武天皇は天文や遁甲(とんこう/式占)の術をよくされた」とあり、そういう意味では星宿図が描かれている高松塚古墳は天武天皇にふさわしいといえるかもしれない。

しかし、天武天皇の大内陵は明日香村の野口王墓に治定されており、これは確実視されているのだが。

明治13年、京都の高山寺で『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』という古文書の写本が発見された。
『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書である。

そこにはこう記されていた。
「墓の奥に一体の骸骨があった。手前には台の上に立派な金銅製の箱があり、その中に銀の大きな壺があった。
その壺を盗んだが、中に入っていた灰は溝に捨てた。」

持統天皇は火葬され、骨灰を銀の骨壺に収納して天武天皇の大内陵に合葬されていた。
また、石室内の状況も『日本書紀』の記述と一致していたため、ほぼまちがいないとされているのだ。

とはいえ、高松塚が天武の墓である可能性はゼロではない。
小林氏の本を読み進めていくと(全部読んでからブログを書いてるのではない 汗)、有坂氏がなぜ高松塚を天武の墓と推理されているのか、その理由が説明されているかもしれない。

⓶当時の日本で星宿図や天文図を作るのはムリ?

有坂氏は、「持統朝以降では、おそらくあのような星宿図を描くことはできなくなったであろうし」と述べておられる。
天武天皇が作った占星台で天文観測をし、その結果、日本において、高松塚の星宿図は作成されたと考えておられるようにも思える。

高松塚古墳とキトラ古墳は白虎図など左右反転しているが全く同じと言ってよく、両者はセットで語るべきだと思うが
(ただし、小林氏が『高松塚被葬者考 天武朝の謎』を著したとき、キトラ古墳はファイバースコープで玄武像が発見されていただけの状態だったので、彼女が高松塚・キトラをセットで語っていないのは仕方がない。)

白虎

高松塚古墳 白虎

白虎

キトラ古墳 白虎

キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。

誤解がないように書いておこう。
小林氏は「中国の天井画は銀河のみ」と書いておられるが、それは「古墳壁画に星宿図が描かれていない」というだけであって、
中国では天文学が発達していたのである。それは小林氏も分かっておられると思う。

明時代の渾天儀のレプリカ
     
明時代の渾天儀のレプリカ

キトラ古墳 天文図

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図を読み解く上で重要になってくるのは図に描かれた赤い4つの円である。
これについて来村氏は次のように説明してくださっている。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道

③キトラ天文図は高句麗の夜空を描いたものではなかった。

来村氏は次のようにも述べておられた。
赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。

来村氏は名前はあげておられないが、これは宮島一彦氏の説である。

ネットで「キトラ古墳天文図の解析  相馬 充 (国立天文台) 」という記事が見つかり、その中で宮島氏の説についてもう少し詳しく記されていた。

それによれば、
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、宮島氏が用いた画像は不鮮明なので、星の同定や位置に誤りがありえるとした。

平壌は高句麗の都があったところである。

記事には、2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った結果が記されている。
その結果、キトラ天文図は正確なものではなかった。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

それは残念だ。
しかし相馬充氏は「天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないか」と考えた。
そしてキトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みられた。

「西暦400年ごろに赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。」
上記記事より引用

この文章は少し意味がわかりにくいのだが、こういう意味だと思う。

相馬氏も説明してくださっているように、地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
 
最初に「400年ごろ」と書かれているのは大雑把に見積もった年代で、さらに正確な観測年代を求めたところ、西暦384年±139年となった、ということだろうか。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.  

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

⓸二十八宿を描いた天井壁画はアスターナ遺跡でも発見されている。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

ちなみに同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚古墳は6世紀末から7世紀はじめごろの古墳と考えられており、どちらが古いものなのかわからないが
来村氏がおっしゃるように、当時の日本で行われた天体観測をベースに高松塚の二十八宿が作られたとは考えにくい。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図も中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⑤壁画の画師は黄文本実説には根拠がない。(来村氏)

全ての研究者が壁画を描いた画師について、黄文造本実をあげる。
日本続紀によれば、本実は持統崩御時、作殯宮司になったとあり、文武朝になっても活躍していた。

これについても、来村氏が、「黄文本実説には根拠がない。」として、その根拠を次の様に述べておられる。

・この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
・しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。

本実は持統崩御時、作殯宮司になっており、そうであれば高松塚古墳にもかかわっていそうに思えなくもないが
やはり根拠が薄いと感じる。