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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑤四神を描いた壁画古墳は高松塚・キトラ古墳だけではなかった。

高松塚古墳・キトラ古墳を考える ④「屠(はふ)る」をもののなとして読み込んだ歌? より続きます~
トップページはこちらです。 高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?

①天皇陵は発掘されている。しかし壁画は描かれていない。

弓削皇子の歌には、不吉なホトトギスや、大切なものを他人に譲ったことをイメージさせるユズルハ、日本書記「トガノの鹿」の物語から謀反人のイメージの強い鹿鳴草(萩)などの歌があること。
柿本人麻呂が弓削皇子に献った歌「御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか消え残りたる。」には「いわおには ふりし」と「屠る」という言葉が読み込まれているように思えること。
そのような理由から、多少梅原氏の説に異論はあるけれども、彼の「弓削皇子暗殺説」について、だいたいのところは同意できた。

弓削皇子が紀皇女に贈った歌などもあり、弓削皇子が暗殺された理由は、他人の妻であった紀皇女を弓削皇子が自分のものにしたことだという、梅原氏の説も、ありえそうだと思った。

梅原氏はさらに「高松塚古墳は弓削皇子の墓」だと主張されている。
今度はそれについて考えてみたい。

梅原氏は次のような内容を述べておられる。
❶天皇陵はすべて壁画古墳ではないかという人がいる。
❷少なくとも今のところは、高松塚古墳は壁画をもった(日本で)唯一の古墳。
❸天武・持統陵と考えられている古墳の盗掘記『阿不幾乃山陵記』には壁画のことがえがかれていない。
❹高松塚古墳は天皇陵ではないだろう。

梅原氏がおっしゃるように、天皇陵がすべて壁画古墳ということはないだろう。

宮内庁管理下の陵墓の発掘調査が禁止されていることが、日本の考古学の妨げになっているのだが、
この頃はネトウヨと呼ばれる人々が結構大勢いて、そんなことを言おうものなら『天皇陵を掘るのは道徳的でない』と言われてしまう。

しかし、道徳というものは人によっても、時代によっても違うもので、
また天皇陵以外の古墳は発掘調査が行われているので、古墳の発掘調査が道徳的でないならば、他の古墳の発掘調査も道徳的でないといわなければいけない。
発掘調査が道徳的でないのは天皇陵だけ、というのであれば、なぜ天皇陵だけ発掘調査をすると道徳的でないのか説明が必要だが、論理的に筋の通った説明のできる人は果たしているだろうか。
また天皇陵は江戸時代に適当に決めたもので、本当に天皇陵かどうかわからないのだが、天皇ではない豪族の墓を天皇陵と偽るのは道徳的なのか、と逆に問いたくなってしまう。

実は天皇陵は発掘調査されている。
さきほども述べたように、天皇陵は江戸時代に適当に決めたものなので、考古学的には正しくないと考えられている古墳も数多くあり、考古学的に天皇陵だと考えられているが、天皇陵とされていない古墳もあるのだ。

例えば継体天皇陵(450年? - 531年?)は大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」に治定されているが、築造時期は5世紀の中頃とされていて、時代があわない。
6世紀前半の築造と考えられている大阪府高槻市の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)が考古学的には本当の継体天皇陵と考えられているのだが、天皇陵とされていないため、発掘調査が行われており、古墳の墳丘に登ることもできる。
ところが発掘調査の結果、石室を作った石や石棺が発見されなかった。
盗掘で石室の石が失われたと考えられているが、石室を構成する大きく重たい石をもちだしたりするものだろうかとの疑問が残る。
城の石垣に石仏や石棺が用いられていることもあるので、石室の石も石垣に用いられたりしたのだろうか。
疑問はつきないが、話がずれてしまうので、この疑問は先にもちこすことにしよう。

奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳も発掘調査をしたところ、天皇陵に多い八角墳であることがわかり、
二つの石室を持つこと、牽牛子塚古墳の横にもう一つ古墳が発見され
「斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った」という日本書記の記述にあうところから、斉明天皇陵にまちがいないとされている。
ウィキに石室の写真があるが、壁画はない。

同じく奈良県明日香村にある中尾山古墳も天皇陵に多い八角墳であり、文武天皇陵ではないかといわれているが、天皇陵に治定されておらず、発掘調査が行われた。
これもウィキに写真があるが石槨内部に壁画はない。

壁画古墳はキトラ古墳もあるのだが、梅原氏が『黄泉の王』を出版されたのは1973年で、キトラ古墳はまだ発見されていなかった。
キトラ古墳が発見されたのは1983年である。
「❷少なくとも今のところは、高松塚古墳は壁画をもった唯一の古墳。」と述べておられるのはそのためだ。

ただし、梅原氏も本でのべておられるが、装飾古墳と呼ばれる古墳が存在し、特に福岡県、熊本県に多い。
装飾古墳とは、壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾を施した古墳のことである。
高松塚・キトラ古墳も装飾古墳といえるかもしれないが、九州地方の装飾古墳は幾何学的な模様を描いたものなどが多く、繊細なタッチで描かれた高松塚・キトラ古墳とは印象が異なる。

⓶本当に九州の壁画古墳と高松塚・キトラ古墳は共通点はないのか?


1:36あたりで高松塚古墳壁画の飛鳥美人と呼ばれる女子群像、
2:26あたりで高松塚古墳の四神図
5:43あたりでキトラ古墳の壁画が紹介されている。
キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図などが描かれており、四神図は高松塚古墳のものに酷似しており
高松塚古墳と同一人物、または同一グループによって描かれたと考えられている。

高松塚古墳は高句麗壁画古墳や中国の永泰公主墓に似ていると指摘されている。


永泰公主墓の壁画は、たしかに絵のタッチは高松塚のものに似ているように思うが、女性が着ている衣装が異なっている。


こちらは高句麗壁画古墳。
3:09あたりから四神図、9:28あたりからの女性図は襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、
高松塚のものほとんど同じだ。

下の動画は熊本県のキブサン古墳の壁画。前衛アートのようで高松塚古墳とはずいぶん印象が異なる。



ということは、高松塚古墳と九州の装飾古墳とは別系統なのだろうか。

しかし、装飾古墳のひとつである、竹原古墳の壁画を見て、私はかなりびっくりしてしまった。


3:18あたりから、「さしば」と呼ばれる団扇に似た日よけが描かれている。
高松塚古墳の女子群像が手に持っている団扇も「さしば」であるという。

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳壁画 女子群像

さらに、四神のうち、青龍・玄武・朱雀も描かれている。

絵のタッチは高松塚のものよりも荒いが、抽象絵画のようなチブサン古墳の壁画とも違う。
四神図が描かれているあたり、明らかに中国は朝鮮の影響を受けていると思われる。
高松塚・キトラ古墳を考えるとき、竹原古墳について考える必要はないだろうか。
私はそう思うのだが、あまりそれを指摘する意見は聞かない。私が無知なだけかもしれないが。

竹原古墳が築造されたのは 6世紀後半とされている。(6世紀は501年~600年)
一方、高松塚・キトラ古墳の築造年代について、ウィキペディア高松塚古墳を藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳を7世紀から8世紀(601年~800年)と記している。
しかし、高松塚とキトラは同時期に作られたと考えられるので、どちらも藤原京期に作られたものとするのが、定説になっているということだろうか。

高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑥高松塚古墳は本当に薄葬令ののちに作られたのか?へつづく~


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