fc2ブログ

高松塚古墳・キトラ古墳を考える ④「屠(はふ)る」をもののなとして読み込んだ歌?

高松塚古墳・キトラ古墳を考える ③弓削皇子に謀反人のイメージ? よりつづきます~
トップページはこちら 高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?

①むささびは弓削皇子ではなく志貴皇子の比喩だと思う。

志貴皇子の御歌一首
むささびは木末こぬれ求むとあしひきの山の猟師さつをに逢ひにけるかも(万3-267)
【通釈】むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sikino2.html より引用

この歌について、梅原猛氏は「弓削の皇子のことをいっているような気がして仕方ない」とおっしゃっている。

しかし、私の見解は違う。

本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。

❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。

❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。

笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 
と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。

白毫寺

志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺には笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌にちなみ、萩が植えられている。

❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
 

元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。
志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。
そのため志貴皇子の死を隠したのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)

私はこの歌は志貴皇子のこの歌に対応しているのではないか、と考えているのだ。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)

大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)

大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、志貴皇子の邸宅跡とされる百毫寺は高円山の西の山麓にある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。

鷺池より高円山をのぞむ

鷺池より高円山を望む

そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。
それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)

この歌によまれたむささびとは志貴皇子自身のことで、漁師とは元正天皇または舎人親王のことをさしているのだと思う。

志貴皇子は、自分が元正天皇と舎人親王の陰謀で囚われの身となってしまったと嘆く歌のように私には思える。

⓶もののなとして「屠る」を読み込んだ歌?

次に梅原氏は『人麿歌集』の次の歌を紹介している。

弓削皇子に献る歌一首
御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか消え残りたる。

初句「御食〈みけ〉向かふ」は「南淵〈みなぶち〉」にかかる枕詞。「南淵山」は現在の高市郡明日香村稲淵〈いなぶち〉の一帯を指すと考えられています。この歌碑のある売店側から石舞台古墳を見ると、その奥に「南淵山」を見ることができます。三句目「巌〈いはほ〉」は地につき出た岩のことを言うため、「南淵山」は岩肌が表れている山であったと推測できます。その岩肌が白い鹿子模様になっている様子を、歌碑の立つ島庄か川原辺りから見、降った雪の「はだれ(雪や霜が薄く降り置いた様を表す語)」がうっすら消え残っているのだろうか、と詠んだ歌です。
https://kahi-sp.nara-hgis.jp/detail/4021709a より引用

原文は「御食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」

「御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか消え残りたる」というのは
「御食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」を次のように詠んだのだろう。
御食向・・・御食向かふ
南淵山之・・・南淵山の(之)
巌者・・・巌には
落波太列可・・・落(ふ)りし波(は)太列可(だれか)
削遺有・・・削(き)え遺(のこり)有(たる)

そして、契沖(1640~1701)が「削り残れる」に弓削皇子の名前がよまれていると指摘していることも、梅原氏は紹介されているが、これ以上の説明はされていない。

私はこれは謎々ではないかと考えた。
「削り残れる」の「削」は弓削の「削」である。
しかし弓がない。弓削の弓が削られて、削が残ったと、そういう謎々だろうか。

あるいは「削遺有」の「有」が「ゆ」「削」が「げ」ということなのかもしれない。

梅原氏はつぎのように述べておらえる。

不吉なイメージをもった南淵山で命を落としたのは誰か。私はここで生き残っている。この生き残ったというイメージに、人麿は、この死んだ人の名をいれて「削遺有」といったのではないか。(『黄泉の王』p148より引用)


「御食向かう南淵山の巌には落(ふ)りしはだれか削(き)え遺(のこり)たる」
この歌の中に私は「屠り(はふり)」という文字列を見つけてしまった。
わかりやすいように、ひらがなで書いてみよう。

「みけむかう みなみぶちやまの いわおには ふりしはだれか きえのこりたる」

「屠る」とは「体などを切り裂く」ことで「ほふる」ともいう。
古事記にも「控(ひ)き出して斬り屠(はぶ)りき」とあり、古くからある言葉である。

原文の「巌者」を「巌には」とよんでいると思うが、「者」からつくられた変体仮名があり、「は」とよむそうである。
ということは、「者」は「は」と読むのだろう。
「食向南淵山之巌者落波太列可削遺有」の「者落波」で「はふりしは」と読める。

これは和歌のテクニックのひとつで「もののな」という。

たとえば
心から 花のしづくに そほちつつ 憂く干ずとなみ 鳥の鳴くらむ(藤原敏行)
この歌には「憂く干ず(うくひす)」が読み込まれている。

「南淵山の巌に屠られたのは誰だ。(弓削の弓が削え)、削のみが残っている。(屠られたのは弓削皇子)」
そういう意味ではないかと考えるのは、トンデモだろうか。

梅原氏は枕詞の「御食向かう」を「死人に食糧を供えるという意味をこめた枕詞だろう」とおっしゃっている。
「御食」とは「神への供物」のことであり、死人は神といってもよいので、梅原氏のおっしゃる通りだと思う。


高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑤四神を描いた壁画古墳は高松塚・キトラ古墳だけではなかった。 へつづく~




スポンサーサイト



日本人が成立してから、ネアンデルタール人と交配?日本ではネアンデルタール人の人骨は発見されていないのだが?


①武田先生は「弥生時代に渡来人が日本列島に渡ってきた」ことは認めている?

上記動画の中で、次の様な発言がある。

>0:47 この日本のこのルーツっていうのがですね、まあ言ってみれば騎馬民族説だとか
弥生人とか渡来人とかいうのは実はここ1000年とか2000年の間のことだけ言ってるんですね、まあ3000年とか。

武田先生は、騎馬民族説や弥生時代に渡来人が日本にやってきたということ自体はありえると考えておられるのだろうか。

ちなみに日本の時代区分は次のように分類されている。

旧石器時代 /?~ 紀元前14000年頃まで
縄文時代 /紀元前14000年頃 ~紀元前10世紀
弥生時代 /紀元前10世紀 – 3世紀中頃

⓶旧人も石器を作った。

旧石器時代を考えるとき、注意しなければならないのは、我々現生人類以外の化石人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)も石器をつくったということである。

たとえば世界最古の石器で検索すると、ケニアのトゥルカナ湖西岸で発見された約330万年前のものとでてくるが
これは猿人が作ったものと考えられている。

日本最古の石器で検索すると島根県砂原遺跡出土の石器がでてくる。
11万~12万年前のものであるとされる。
そしてこの砂原遺跡の石器はデニソワ人が作ったものではないかと考えられている。

砂原遺跡は現生人類が作ったものだとする説もある。

現在、現生人類はアフリカで誕生し、ここから世界中に広がっていったとするアフリカ単一起源説が有力視されている。
(人類はそれぞれの地域で原人から現生人類に進化したとする地域進化説もある。例えばネアンデルタール人がヨーロッパ人に、北京原人が中国人に、明石原人が日本人になったなど。)
※アフリカ単一起源説が有力視されている理由については後で述べる。

現生人類が誕生したのは約20万年前で、日本に到着したのは3万8000年ごろと考えられている。
3万8000年前というのは、次に述べる岩宿遺跡が約3万年前のものであるというところからくる。

しかし、アフリカ単一起源説を正しいとしても、砂原遺跡出土の石器が、絶対に現生人類によってつくられたものではないとも言い切れない。
3万8000年前よりももっと早い時代に日本に現生人類が到着していた可能性はなくはないからだ。

③岩宿遺跡は約3万年前。日本に人が住み始めた時期は5万年にまで遡れるか。

>しかし日本人が日本列島に住み出したっていうのは、どんなに短くても5万年前で
それも遺跡の数が一番以上あるって事はですね

ここで武田先生が「遺跡」とおっしゃっているのは、砂原遺跡ではなく、縄文時代以前の旧石器時代の遺跡、たとえば岩宿遺跡などのことだ。

かつて日本には旧石器時代はないと考えられていたので、そのころの地層の発掘調査は行われていなかったのだが
関東ローム層を掘ったところ約3万年前の地層から石器群が出土し、日本にも旧石器時代があったことが確認された。
その後も同時期の遺跡が続々と発見され、その遺跡の数は4000カ所以上とのこと。
https://www.city.midori.gunma.jp/www/contents/1000000000589/ こちらの記事では遺跡の数を1万ヵ所以上としている。)

発掘された遺跡の名前から、日本の旧石器時代は岩宿時代と呼ばれることもある。

武田先生がおっしゃっている石器は、岩宿時代のもののことで、これは現生人類が作ったものだろうが
年代は武田先生がおっしゃる5万年前ではなく約3万年前である。
約3万年前の石器があるということは、それよりもっと早い時点で日本に石器を作る人々がいたという可能性はあるが
5万年前まで遡れるかどうかは疑問である。

④渡来人が日本にやってきていないのであれば、日本人のほとんどがD系統(縄文系)のはず。しかしO系統が多い。

>1:15 もちろん未発見の遺跡って、その10倍ぐらいあるでしょうし非常に人口も多かったわけですね
それからナウマン像だとかヘラジカなんかと戦った跡ですね、まあそれの武器だとか
そういったものから見てもですね相当の戦闘能力を持ってた日本人独特の高度な技術もあったわけで
それが5万年前にあるのにですね
それから5万年経って簡単に大陸の方から大量に人が渡ってくるとかですね
もちろん海を越えて大量に人が渡ってくるってこと自体がですね、その今と違いますからないわけですね

「日本列島に先住民である縄文人がいると、後から渡来人がやってこない」と武田先生はおっしゃっているのだが、
そんなことは言い切れない。

岩宿時代の遺跡が関東地方に多いことは、2023年6月8日のヒバリクラブで武田先生自身もおっしゃっていたが
縄文時代にも人は関東地方に多く住んでいたと考えられている。
つまり、九州地方にはあまり人が住んでいなかったのだ。
そこへ渡来人がやってくるということは普通に考えられる。

また弥生時代に渡来人がやってきたであろうことは、Y染色体ハプログループの研究からも裏付けられる。
縄文人のY染色体ハプログループはD系統である。
ところが現在の日本人でD系統は35%程度で、O系統のほうが多い。
そして、O系統は中国や朝鮮にも多い。
つまり、O系統の人々が縄文時代以降日本にやってきたと考えられる。
もし、渡来人が日本列島にやってきていないのであれば、日本人のほとんどがD系統のはずである。

もしかすると、日本列島にやってきた渡来人は少数であったかもしれない。
しかし、渡来人には子孫を増やす能力があったかもしれない。
その能力とは稲作技術である。稲作を行えば、狩猟採集よりも安定して子孫を増やすことができる。
とすれば、日本列島にやってきたあと、彼らは縄文人よりも子孫を増やした可能性がある。

⑤Y染色体ハプログループの研究は遺伝学、考古学、言語学が融合されている。

>2:09 歴史の方は文献を当たるだから紙があって文字がなきゃだめ
考古学の人は遺跡を掘り出してやっていくんですね
それからここで今日説明するのは言語学とか、それから遺伝学なんですけどもそれぞれ分かれてるんですね
こういった別れた学問を融合しなきゃいけないということはもうずいぶん前から今から50年ぐらい前から
ですね
●●●●(聞き取れず)とか融合しようとかいうことはずっと言われてるんですが

最近研究が進んでいるY染色体ハプログループの研究は
文字がない時代なので、文献を読みとくということはやっていないが

Y染色体の突然変異で変化した塩基配列のちがいからグループ分けし(遺伝学)、
これを遺跡の年代(考古学)にあてはめて、
アフリカで誕生した人物がどのように世界中に広がっていったのかを推測し(遺伝学と考古学の融合)
言語(言語学)とY染色体の変異の間の相関が密接であるとする研究(言語学と遺伝学の融合)から
父系言語仮説が唱えられている。

⑥父系言語仮説

>5:13 日本語っていう言語はですね、この図は英語テキストなんですが
世界の言語学をまとめたものですね。
言語同士の親戚関係なんかをまとめてるんですが残念ながらここにもちろんジャパニーズ・日本語はなくてですね

この図は「ヨーロッパのそれぞれの言語はどれぐらい似ているのか、の図」
https://labs.cybozu.co.jp/blog/akky/2014/01/european-languages-lexical-distance-chart/
なので、日本語はなくて当然である。

>5:45 日本語の類似言語は原則としてはないんです

類似言語がないとされているのは、日本語だけではない。
朝鮮語、アイヌ語、キリヤーク語なども類似言語のない系統不明言語とされている。

ただし、ウィキ・ハプログループO (Y染色体)のところには、Y染色体ハプログループO1b2が弥生人(倭人)の言語と記されており、系統樹も示されている。

オーストリック大語族(中国南部から東南アジア、インド東部/Y染色体ハプログループはO1)があり
その下に、
・オーストロアジア語族(東南アジアからインド東部・バングラデシュ/Y染色体ハプログループはO1b1)
・弥生人(倭人 Y染色体ハプログループはO1b2)
となっている。

⓻日本語のルーツを考えるには、大和言葉を調査する必用がある。

>6:02 非常識とか常識の前に非をつけるとかですね、無というのをつけるとかですね
こういった否定語をつける言語の多さという点では、ここの言語は似ているというような言語はないじゃないんですけども

言葉は時代とともに変化するので、言語のルーツを考える場合、古い言葉を調査する必用がある。

非常識とか常識という言葉もそうだが、もともとは中国語であって、それを日本流に発音した言葉ではないだろうか。
そうではなくて、日本にもともとある古い言葉、大和言葉と他言語の比較を行わなければならない。

例えば現在の日本に「ラジオ」「テレビ」などの言葉があり、英語のradio,televisionなどの言葉に似ているから、
日本語のルーツは英語だ、などというのがおかしな論だということは、ご理解いただけると思う。

⑧日本人とネアンデルタール人はどこで交配したのか

>8:55 日本でたどり着いた人がいたか、それとも生粋に日本列島の中で日本人という新種が誕生したかどっちかであって

前者は単一起源説、
後者は多地域進化説(例えば北京人から中国人へ、明石原人から日本人へと進化したというような説)
である。

現在、Y染色体ハプログループの研究が進み、その結果、人類はアフリカで誕生し、Y染色体の塩基配列を少しづつ変化させながら世界中へ広まったとする説が支持されている。

そして、塩基配列の変化によってA、B、C、Dなどのようにグループ分けされ、系統樹もつくられている。
当然、似たような塩基配列のグループは、系統樹の近いところに配置され、異なる塩基配列のグループは系統樹の離れたところに配置されることになるのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97#%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%A8%E5%88%86%E5%B8%83

このような系統順は、順序が逆ではないかという疑問をもってしまうが、
最古級の現生人類の人骨が発見されているのはアフリカで、30万年前とか、20万年前のものが見つかっていることもあり、アフリカ起源とするのは妥当だと思う。

ときどき、日本人は明石原人から進化したといいながら
日本人のY染色体ハプログループD1a2a は日本人特有のもので、優秀な遺伝子である、などという人がいる。
ノーベル賞受賞者とY染色体ハプログループは関係がない。2022年4月18日 追記あり

そういう人には、そのY染色体ハプログループの研究がアフリカ単一起源説の正しさを示していると思われるが、
なぜY染色体ハプログループをもちだしながら、多地域進化説を支持しているのか、ぜひ理由を説明していただきたい。

>9:18
もちろん日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人の遺伝子の比率が1.8%

全ての日本人がネアンデルタール人の遺伝子をもっているわけではなく、30%程度だ。
また日本人だけがネアンデルタール人の遺伝子をもっているわけでもなく、アフリカ以外の人の50%程度はネアンデルタール人の遺伝子をもっているという。

>9:28
日本人ができてからネアンデルタール人とのわずかな交配があったということを示しているんではないか

ネアンデルタール人の人骨はヨーロッパで発見されている。日本人とどこで交配したのだろうか。

プロフィール

写真・文章の無断使用はご遠慮ください。 ご意見・ご感想はお気軽にメールフォームにてお問い合わせください。

ぜっと

Author:ぜっと

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー

05 | 2023/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

カウンター

ブログ村ランキング

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR