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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ③弓削皇子に謀反人のイメージ?

高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⓶弓削皇子は人妻を愛した? よりつづきます~
トップページはこちら 高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?

①紀皇女、高安王と密通?

弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首のうちの一首

大船の泊つる泊(とまり)のたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子故に(万2-122)
【通釈】大船が碇泊する港に波がたゆたっているように、私の心もひどく揺れ、思い悩んで痩せてしまった。あの子は人妻であるゆえに。
【補記】「人能兒(ヒトノコ)は、多く他妻をいへり」(万葉集古義)。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuge2.html より引用

弓削皇子は紀皇女を激しく恋したようだが、人妻なので思い悩んで痩せてしまったという。
紀皇女は誰の妻だったのか。

物に寄せて思ひを陳のぶ歌

おのれゆゑ罵(の)らえて居れば葦毛馬の面高斑(おもたかぶた)に乗りて来べしや(万12-3098)

右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云く、昔聞く、紀皇女竊かに高安王に嫁あひて責められし時、此の歌を御作よみたまへりと。但し高安王は左降して、伊与の国守に任まけらる。

【語釈】「おもたかぶた(だ)」は語義未詳。葦毛で斑(ぶち)模様のある馬のことをいうか。

【補記】左注の大意は「昔紀皇女が高安王と密通して罪を責められた時の御作で、高安王はこのため伊予国守に左降された」。高安王は初叙の年齢からして天武末年または持統初年頃の生まれと推定され、紀皇女とは年齢差が大きいことから、左注の作者名は「多紀皇女」の誤りであろうとする説もある(吉永登)。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kinohim2.html より引用

「おのれゆゑ~」の歌の現代語訳は「あなたのせいで叱られているのに、白い面長の斑のある馬に乗ってよくも訪ねてきたものだ」というような意味である。

そして紀皇女がこの歌を詠んだのは、高安王と密通したときで、高安王は紀皇女と密通したため伊予国守に左遷されたと、平群文屋朝臣益人は伝え聴いているというのである。

ということは、高安王は紀皇女の夫ではなく、紀皇女には別の夫がいた、ということだろう。
紀皇女はよほど魅力的な女性だったのか、人妻であるにもかかわらず、弓削皇子をはじめ男性にモテモテだったようである。

⓶紀皇女が和銅以前に死んでいたと推測される理由がわからない。

梅原猛氏は次の様な内容を記している。

・吉永氏が紀を多紀にしたのは一理ある。
・高安王は和同六(713)年にはじめて従五位を授かっているが、令制では諸王の子は21歳に従五位を授けられることになっていいるので、その時、彼は二十一歳であったと思われる。
・紀皇女は『万葉集』にのせた挽歌によって、彼女は少なくとも和銅以前には死んでいたと思われる。
・和銅以前に死んだと思われる紀皇女に、和同六年二十一歳である高安王が通じるはずはない。
(『黄泉の王』128p)

713年、高安王は和銅6年(713年)に従五位。(従五位は21歳で授かることになっているので、このとき高安王は21歳。)
これはいい。

「万葉集にのせた挽歌によって、紀皇女が和銅以前に死んでいたと思われる。」とあるのがわからない。

万葉集にのせた挽歌とは、紀皇女に対する挽歌ということだろうが、誰が詠んだ挽歌なのかが記されていない。
調べてみたところ、山前王(?-723)という人が紀皇女への挽歌を二首読んでいる。
挽歌をよんだのが山前王であるとして、その歌から紀皇女が和銅以前に死んでいたと推測されるのはなぜなのか。

https://bonjin-ultra.com/manyou03390.html

上記記事に次の様な内容が記されている。
424 こもりくの泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
425 川風(かはかぜ)の寒き泊瀬を嘆きつつ君がある国似る人も逢へや
この歌は、「石田王が亡くなったときに、山前王が作った歌の反歌(長歌のあとにつけ加えられた短歌)」とあるが、
左注には、「或いは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に変わって作ったという」とも記されている。
長歌の反歌の場合は、石田王の妻・初瀬娘子の気持ちになって詠んだ歌ということになる。
一方、左注に従えば、泊瀬に葬られた紀皇女を、泊瀬に住む娘子に見立て詠んだ歌ということになる。
425は、「亡き紀皇女を思って石田王がさまよわれても、その皇女に似る人に会う事さえできない。」という意味。

しかしこれだけでは、石田王が死んだ年も、紀皇女が死んだ年もわからない。

吉永登氏の著書『萬葉 その異伝発生をめぐって』に詳しく記されていると思うので、それを読んでみるしかないか。

③紀皇女は多紀皇女の誤りか?

梅原猛氏は、次の様に結論づけておられる。。

❶吉永氏はそれは紀皇女ではなく、紀皇女の異母妹、多紀皇女ではないかというが、多紀皇女としても、高安王の祖母の妹、あるいは姉であり、年齢差がある。
❷多紀皇女は天武の子なので、最低でも天武の死一年後、朱鳥元年(六八六)には生れているはずで、和銅六年には最低でも二十八歳である。
❸多紀皇女は天智帝の子、志貴皇子の妻であるが、志貴皇子の歌にで家庭の破綻の兆候はない。
❹歌の但し書きに「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」とるのは、高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味であろう。
❺「伝へて云はく」「昔聞く」とあり、紀皇女の奔放な性生活は伝えられたが、情事の相手はまちがえられやすい。
高安王ではなく、紀皇女と同時代の皇族、たとえば弓削皇子でもよい。

❹歌の但し書きに「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」とるのは、高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味であろう。

とあるが、千人万首は「但し高安王は左降して、伊与の国守に任まけらる。」となっていて、「のみなり」という言葉が抜けている。
やはり、写本が複数あるので、内容も若干違っているということだろうか。

いずれにしろ、「但し高安王は、左降して伊予の国の守ににんぜられしのみなり」という一文から「高安王の処分は紀皇女の処分に比して軽かったという意味」ととるのは若干飛躍しているような気がしないでもない。

紀皇女は「あなたのせいで叱られているのに、白い面長の斑のある馬に乗ってよくも訪ねてきたものだ」と歌を詠んでいるが、
ここから確認できるのは、「紀皇女が不倫をして叱られている」ということだけであり、高安王よりもひどい処分をうけたことは確認できない。

⓸葦毛馬の面高斑は、謀反人の比喩?

私は「葦毛馬の面高斑」という表現が気になっている。

2871624_s.jpg

葦毛とは、黒っぽい肌に白~灰色の毛を持つ馬のことで、斑点があるような状態から年を取るにしたがって白くなっていく。
面高斑とは、顔が長く、斑点があるという意味ではないだろうか。

私は前回の記事、高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⓶弓削皇子は人妻を愛した? の中でこんなことを書いた。

萩は別名を「鹿鳴草」という。
なぜ「鹿鳴草」というのかといえば、萩の白い花を鹿の夏毛の斑点に見立てたためだろう。
そして、日本書記「トガノの鹿」にこんな話がある。

雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩漬けにされているのです。」と言った。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。

つまり、萩の白い花と、鹿の夏毛の白い斑点は、死体を塩漬けにするための塩の比喩なのだ。
古には謀反の罪で死んだ人の死体は塩漬けにされることがあったという。

とすれば、斑点のある葦毛の馬もまた、謀反人の比喩のような気がする。

⑤春日王は春日若宮?

私たちは万葉集にある弓削皇子の歌のうち、6首までを鑑賞してきた。
残りは2首である。

弓削皇子の御歌一首

秋萩の上に置きたる白露の消けかもしなまし恋ひつつあらずは(万8-1608)

【通釈】秋萩の花の上に置いた白露のように、はかなくこの世から消えてしまったほうがましだ。こんなに恋しがって苦しんでいるよりは。

【補記】秋相聞。万葉集巻十に「寄露」の題で重出。

弓削皇子、吉野に遊いでます時の御歌一首

滝の上の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思はなくに(万3-242)

【通釈】吉野川の激流の上の、三船山にかかっている雲のように、いつまでもこの世にあろうと私は思わない。

【補記】春日王がこの歌に「王(おほきみ)は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」と和している。春日王の没年は文武三年(699)六月二十七日なので、それ以前の作。新勅撰集に入集。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuge2.html より引用

「秋萩の~」の歌は、その別名「鹿鳴草」からやはり謀反人をあらわしているように思える。

そしてこれは余談的になるが、「滝の上の~」の歌は、春日王が「王は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」と和しているのが気になる。

大君は長寿でいらっしゃいましょう。白雲も三船の山から絶える日などありませんよ。
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_243.html より引用

この春日王という人物について、検索してみたところ、次のような記事が見つかった。

春日王は志貴皇子の子に同じ名前の人物がいるなど日本書紀や続日本紀などに複数人確認されていますが、この歌を詠んだ春日王は後の世の志貴皇子の子とは別人でこの歌の時点ではかなりの高齢の人物であったと思われます。
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_243.html より引用

梅原氏は春日王について、次のような内容を記しておられる。

・春日王は、どういう王かも分からないが、弓削皇子の友人だろう。(『黄泉の王』140p)
・『続日本記』は699年7月21日に弓削皇子が死んだことを記し、それより少し前の6月27日に春日王が死んだことを記している。(『黄泉の王』p140~p142)

つまり、続日本記には弓削皇子に歌を和した春日王の生年や父母の記録はないが、弓削皇子が亡くなる約1か月前に春日王が死んだことについては記しているのだろう。

実は私は春日王とは春日若宮様(春日大社若宮神社に祀られる神)のような存在ではないかと思っている。
奈良豆比古神社に、志貴皇子の子の春日王がハンセン病を煩ったが、春日王の子の浄人王が舞をまったところ春日王のハンセン病は治ったという伝説があり、この浄人王の舞が能・翁のルーツだと考えられる。

ところが、奈良豆比古神社にはもう一つ伝説が伝えられていて、ハンセン病を煩ったのは志貴皇子であるというのだ。
また志貴皇子は春日宮天皇、田原天皇とも呼ばれているが(皇位についたことはない。春日宮天皇は追尊。田原天皇は陵のある場所からの呼び名)春日王は田原太子とも呼ばれていて、二人は同じ名前で呼ばれている。

さらに奈良豆比古神社に伝わる翁舞では「奈良豆比古神社の翁舞では「とうとうたらりたらりろ」という謡いにあわせて翁が舞う。
そして奈良春日大社・若宮社の祭「春日若宮おん祭」で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』である。

私は翁の「とうとうたらりたらりろ」はこの唱歌であり、春日若宮様のテーマソングなのではないかと思う。
つまり、春日若宮とは志貴皇子なのではないかと私は考えているのだ。

そして、弓削皇子の歌に和した春日王もまた春日若宮ではないか。
春日若宮はタイムトラベラーのように、過去にも遡って登場する精霊なのではないか。

春日王は『王は千歳にまさむ』と歌っているが、三人翁やそこから派生したとおもわれる能・翁には千歳という人物が登場するのだ。

翁舞 千歳

奈良豆比古神社 翁舞

それはさておき、弓削皇子が死んでしまいたいと思うほど恋に苦しんでいる様子が伝わってくる。

⑥挽歌は、不幸な死を迎えた人に対して贈るもの?

弓削皇子(ゆげのみこ)の薨(かむあが)りましし時に置始東人(おきそめのあづまびと)の作れる歌一首并せて短歌

やすみしし わご大君 高光(ひか)る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神ながら 神と座(いま)せば 其(そこ)をしも あやにかしこみ 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居嘆(ゐなげ)けど 飽き足(た)らぬかも

巻二(二〇四)
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あまねく国土をお治めになるわが大君、その高く光る日の皇子がはるか天空の天の宮に、神々しく神としておいでなされたので、それを不思議なほど畏れ、昼はひねもす、夜は一晩中、臥して嘆くけれど心は満たされないことだ…
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http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu2_205.htmlより引用

大君(おほきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)り給ひぬ

巻二(二〇五)
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大君は神でいらっしゃるので天雲の幾重にも重なった下にお隠れになってしまった。


この歌についての梅原氏の感想はつぎの通り。

・原万葉集は鎮魂と告発のための歌集だと思う。
・万葉集の挽歌は有馬皇子(権力者に殺された)にはじまる。
・第二の挽歌は前半(皇族の死)と後半(人麿および人麿をめぐる人々の死)に分かれる。
・弓削皇子の挽歌は前半と後半を結び付ける位置にある。
これは偶然ではない。万葉集は他の巻でも弓削皇子・紀皇女にかんする歌を、人麿にかんする歌の前に置いている。
こういう重要な位置にあることは、弓削皇子が有馬皇子、大津皇子、柿本人麻呂と同じく与えられた死であることを意味しているのではないか。(『黄泉の王』p144)

https://manyoshu-japan.com/19082/
この記事には万葉集に掲載されている挽歌が一覧にまとめられている。

挽歌が詠まれた人物は、歌の番号順に(名前のない死者はのぞく。巻ごとに人物を書いたので重複あり。)

第2巻
有馬皇子・天智天皇・十市皇女・天武天皇・草壁皇子・泊瀬部皇女・忍坂部皇子へ・明日香皇女・高市皇子・但馬皇女・
弓削皇子・柿本人麻呂の妻・吉備津采女・柿本人麻呂・志貴皇子
第3巻 
大津皇子・河内王・石田王・田口廣麻呂・土形娘子・出雲娘子・真間娘子・大伴旅人の妻・長屋王・膳部王・丈部龍麻呂・大伴旅人・尼理願・ 大伴家持の妻・安積皇子・高橋虫麻呂の妻
第5巻
大伴旅人の妻
第9巻 
宇治若郎子・柿本人麻呂の妻・菟原娘子・田辺福麻呂の弟・真間娘子・菟原娘子
1810 番歌 …1811番 菟原娘子
第13巻
 高市皇子・大津皇子
第15巻 
丹比大夫(たじひだいぶ)の妻・遣新羅使
第17巻 大伴書持

このリストを見て、以外に思うのは壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた大友皇子への挽歌がないことだった。
もしかしたら万葉集には大友皇子の歌も一首もとられていないのかもしれない。
天皇も天智・天武のふたりだけしか挽歌が贈られていない。

私が知る限り、この中で不幸の影がある歌人としては
有馬皇子、大津皇子、志貴皇子などがいる。
もしかしたら、挽歌とは、不幸な死を迎えた人に対して贈るものなのかもしれない。(大友皇子に対する挽歌がないが)

弓削皇子にしても、不吉な鳥・ほととぎす、無常をあらわす植物・ユズリハ、謀反人を意味する鹿鳴草(萩)などを歌の中に読み込んでいて、彼の歌には不吉なイメージが漂っている。


高松塚古墳・キトラ古墳を考える ④「屠(はふ)る」をもののなとして読み込んだ歌?へつづく~
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