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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑯高松塚古墳人物像のファッションから年代を考える。※追記あり 2023.12.25

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


前回に続き、 『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①壁画の顔料

・壁画顔料は黄色は密陀僧を使用していないが、あとは法隆寺と同じ。
装飾古墳の壁画顔料とは全く異なり、法隆寺などの上代寺院壁画顔料と同時代と考えられている。

・柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)とする。

法隆寺

法隆寺

法隆寺を創建したのは聖徳太子(574~622年)だと伝えられている。
日本書紀には「670年、一屋余すことなく消失した」とあり、法隆寺再建論と非再建論が対立していた。
しかし、1939年に発掘調査が行われた結果、一度消失し、その後再建されていたことがわかった。
従って、法隆寺金堂の壁画は670年以降のものとなる。

『法隆寺資財帳』によれば持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われており、693年には伽藍の中心である金堂は再建されていたと考えられている。
711年には五重塔初層安置の塑像群、中門安置の金剛力士像が完成しており、この頃には、五重塔、中門など西院伽藍全体が完成していたのだろう。
※法隆寺は西院伽藍(金堂・五重塔など)と東院伽藍(夢殿)に分けられる。

つまり、法隆寺の金堂壁画は持統朝の693年ごろに描かれていた可能性は高いといえるが、金堂完成後に描いた可能性もありそうだ。

「柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)とする。」
と小林氏は結果のみを記して、比較の詳細を記しておられないが、ぜひその比較の詳細を知りたいものだと思う。

・考古学的出土物全体から総合的に年代を推定すると、高松塚古墳は天武13年(684)~持統11年(697)に築造されたという結論に達する。(p79)

申しわけないが、これは説明不足だなあ、と感じる。
考古学的出土物全体から総合的に年代を推定すると、なぜ天武13年(684)~持統11年(697)に築造されたという結論になるのかの説明がないからだ。
p79以前に記した内容が「天武13年(684)~持統11年(697)」を示しているという意味なのかもしれないと思って
前回の私の記事(小林氏の『高松塚被葬者考』79pまでをまとめて、私の感想などを記したもの)を読み直してみたが
「高松塚古墳は天武13年(684)~持統11年(697)の築造」と決定づける内容にはなっていないと感じた。

上の記事をできるだけ短くまとめてみる。

唐尺(1尺=29.5cm)/石槨の長さ・幅は唐尺で完数(端数の付かない尺数)が得られるが、高さは完数は得られない。
高麗尺(1尺=35cm)/石槨の長さ・幅・高さとも完数が得られない。
周尺(1尺=20.2cm)/石槨の長さ・幅・高さとも完数が得られないが、木棺の長さ・幅は完数が得られる。
高松塚の木棺に周尺が用いられているので、701年の大宝令の尺度決定以前に造営されたと推測される。

上の結果は、周尺2勝、唐尺2勝で「引き分け」と見るべき。高松塚が唐尺で用いられた可能性は排除できない。

●木棺に貼られていた布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。

●海獣葡萄鏡は西安独孤墓出土のものが高松塚と同一の鏡(同笵鏡。同一の鋳型または原型を使用して鋳造した複数の鏡)西安独孤思貞は697年に没し、698年に銅人原の墓に遷葬されたことが墓誌に記されている。
ここから高松塚海獣葡萄鏡の製作は698年より以前と考えられる。

「海獣葡萄鏡の製作は698年より以前」には根拠がない。
独狐思貞墓の墓誌が698年であっても、当然、その後に高松塚出土の海獣葡萄鏡がつくられた可能性もある。

●高松塚出土の透金具は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文に似ている。
そのデザインの最古例は則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻模様。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。
透金具は臨海殿出土の塼(せん)に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年( 681年)の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。

史料に臨海殿がつくられたのが674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろうか。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったと断言することはできない。

●墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。

このように見直してみると、小林氏が高松塚築造時期を天武13年(684)~持統11年(697)と結論を出された根拠は、上にあげた5つだが、そのうち3つは「必ずしもそうとは断定できない」ものである。

「発見された須恵器が藤原京時代かそれ以前のもの」と、
「柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)末までには描かれていたとする。」
の時代特定については詳しい説明はない。

「高松塚古墳の築造時期が、天武13年(684)~持統11年(697)におさまる可能性はある。」とはいえるだろうが。

それにしても、小林氏はなぜ684年をもちだしたのだろうか。そのあたりがよくわからない。
(もしかしたら私が説明を読み落としたところがあるかもしれない。汗)

⓶四神はいつから日本で信仰されていたか。

・壁画について、ファイバースコープで調査したものに玄武像が描かれているものがあるが、本格的に発掘調査されていないので比べようがない。

これはキトラ古墳のことをおっしゃっていると思う。
キトラ古墳は1983年にファイバースコープによる石槨内部調査が行われて、玄武の壁画が発見された。
その後、1998年3月、小型カメラによる石槨内部の再調査がおこなわれ、青龍・白虎・天文図も発見された。
2001年3月には朱雀も発見された。

小林氏がこの本を著されたのは1988年なので、当時、玄武のみ発見されていたということになる。

・高句麗の初期の壁画古墳には、人物・風俗を描いている。
5世紀半ばから四神像がみられるようになり、人物・風俗と混在するようになる。
7世紀後半には、雄大な四神像のみ描かれるようになる。

・唐の壁画古墳は10数基のみ。四神像が描かれているのは2基のみ。多くは人物像。
漢代には星宿が描かれていたが後期には天漢(銀河)に変わっている。

・橿原市河西町新沢126号墳出土の円形の漆盤に四神が描かれていた。

これはネットで検索しても画像が出てこないが、そういうものが出土したという記事はある。



竹原古墳にも四神とおぼしきものが描かれていた。
竹原古墳が築造されたのは 6世紀後半とされている。

・小野毛人墳墓(天武五年在銘墓誌)、文禰麻呂墓、宇治宿禰墳墓など四神相応の地に造営されている。

四神相応の地とは、北に玄武が棲む丘陵、東に青龍が棲む清流、南に朱雀が棲む湖沼、西に白虎が棲む大道がある土地のことだ。


小野毛人の墓は北に西明寺山があり、東には川がある。
南に湖沼はないが、大きな川が流れている。西の大道はどこにあるのだろう。
古と現在では道も変わっているだろうし、ちょっとわからない。


文禰麻呂墓はそれらしい地形はみつけられない。
宇治宿禰墳墓はグーグルマップで検索してもでてこない。

③高松塚古墳壁画は北魏の影響をうけている?

・薬師寺台座の青龍と高松塚の青龍の首に✖印がある。

青龍✖印

高松塚 青龍 高松塚壁画館で撮影(撮影可)

薬師寺 青龍

薬師寺薬師如来台座(レプリカ) 青龍

・長広氏は、高松塚の四神像・薬師寺台座の四神像は永微元年の四神像より古式、日月像の下に朱線をひくのは、隋・唐・高句麗には見られない。より古い北魏の石棺にみられるとおっしゃっている。
高松塚の四神像のルーツは北魏だろう。

こちらに北魏の石棺画の画像が掲載されている。
参考文献として
「魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代」 蘇哲 2007年 白帝社アジア史選書008
をあげておられる。(読んでみたいので、メモしておこう♪)

高句麗壁画古墳の青龍はこちら→https://gendai.media/articles/-/93945?page=4
唐や高句麗の壁画もたくさん見て見ないと、高松塚の四神図のルーツが北魏であるかどうか判断ができなさそうだ。
これは宿題にしておこう。

ただし、小林氏がこの本を出版したのち、キトラ古墳から玄武だけでなく青龍・朱雀・白虎像も見つかり、さらに武器を持った十二支像が発見されている。
武器を持った十二支像は中国にはなく、朝鮮にはあるということであった。
ということは北魏には武器を持った十二支像はないのではないかと思われるが、どうなんだろう。
そして、キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎と左右反転しているだけで、そっくりであることから
高松塚とキトラは同一人物または同一グループによって描かれたと考えられている。
すると、高松塚は北魏の影響を受けているとは断言できないのではないか。
北魏・唐・朝鮮など様々な文化の影響を受けているとはいえるかもしれないが。

④飛鳥時代の人々は唐風の衣装を身に着けていた?

・日野西資孝は、当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になったと指摘されている。


上の記事に、天武・持統朝女官朝服の説明がある。
その中で「襴(らん)/公家の袍や半臂の裾の前後に共裂を横にあてたもの。裳と同義。」と説明がある。
女性を象った埴輪はこちら。


日野氏の主張は、私の理解力が不足しているのかもしれないが、言葉の意味がわからない。

高松塚古墳 女子群像

※追記(2023.12.25)
日野西資孝の「当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」というのは、こういう事だろう、と思いいたった。
上の高松塚女子群像は上着をスカートの上に出している。これは埴輪と同じである。
しかし、実際にはこの時代、上着をスカートの中に入れて着ていた。
養老の衣服令による命婦礼服
上の写真を見ると、上着をスカートの中に入れて着ている。
4位の命婦(みょうぶ)=女官の礼服と説明がある。
養老の衣服令は718年。

はにわ



日野氏は「前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」のは、隋唐の服装の影響とし、法隆寺摩耶夫人像、女子塑像を例にあげる。

塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

法隆寺五重塔の女子塑像

・日本でも同時代の唐とほとんど同じ服装をしていた。
高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。

うーん、これはどうだろうか。

言葉の意味がわかりづらいので勘違いしているかもしれないが、たとえば漫画などで外国を舞台にしたものがある。
当然、その漫画に登場する町並みや衣装が現在の日本を反映したものとはいえない。
その漫画がアラブ世界を舞台としたものだとしよう。
漫画の中にヒジャブ・ニカブなどを身につけた女性がでてくるので、日本の女性もヒジャブ・ニカブを身に着けているとするのがおかしな論であることは、いうまでもない。

法隆寺の摩耶夫人像、女子塑像は唐を舞台として創作されたものであって、当時の人々の姿を映したものとは断言できないのではないだろうか。

そうではあるが、儀式用、公用という小林氏の意見はありえると思った。
現代でも皇族方は儀式の際に平安時代の装束を身につける。

⑤人物像のファッションから古墳築造年代を考える。

・高松塚女子群像の髪型について
井上光貞氏・・・高句麗舞踏塚(4世紀末)と関係がある。
三上次男氏・・・高句麗にも中国にも見られない。日本独自の髪型。結髪令(682年~686年)によるものではないか。
原田淑人氏・・・結髪令ではなく、垂髪令(686年~705年)のものではないか。
五味充子氏・・・垂髪令(686年~705年)のもの。無造作にひっつめた髪は便宜上のもの。        
小林氏・・・・・五味氏に同意。垂髪令(686年~705年)のもの。
        垂髪では仕事をする際に不便なので、このような髪型にしているのではないか。
横田健一・・・・高松塚女子像は肩布(ひれ)をつけていないので采女クラス。
        采女の肩布が禁止されていたのは天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)。
        垂髪令(686年~705年)の時期とかぶる。

上記記事で高句麗舞踏塚の壁画が紹介されている。
絵のタッチは違うが、後ろで束ねた髪を上にはねあげるのは、高松塚女子群像の髪型に似ていると思う。
また、原田氏、五味氏、小林氏が主張されるように垂髪令の時代の髪型だが、不便なのでひっつめているというのは、ありえそうだと思った。

五味充子氏・・・男女の上着にある横線を襴とする。
        天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
        高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの。

↑ こちらのページで「天武・持統朝女官朝服」について説明がされている。
襴(らん)は「公家の袍や半臂の裾の前後に共裂を横にあてたもの。裳と同義。」と説明がある。

高松塚 男子像2

高松塚 女子像1

男女とも上衣の下のほうに横線が描かれているが、これが襴(らん)だろう。

・女性像だけでいうと
髪型・・・・・垂髪令(686年~705年)天武11年(682年)以前、または朱酉元年(686年)~慶雲2年(705年)
       垂髪令の期間は686年~705年だが、小林氏はなぜ「天武11年(682年)以前」ともしているのだろうか?
肩布禁止・・・・・・天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)
襴・・・・・・・・・天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
          高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの
髪型・肩布・襴の条件がそろうのは、朱酉11年(686年)~慶雲2年(705年)

・秋山光和・・・男子像が持つ緑色の蓋は重圏連珠模様(重圏/二重丸)法隆寺金堂の木製天蓋の彩色装飾と関係がある。
・上原和・・・野中寺の仏像の腰裳にある円環連珠文に似ている。
これはどの仏像をさしているのかわからない。

法隆寺金堂木製天蓋はこちら。↓

三上次男氏・・・男子の冠 聖徳太子が被っているものと同種

↓ これのことだろうか。
聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』

秋山光和氏・・・男子像の冠は天武11年6月条にある、『うるしぬりのうすはたのかうぶり』で、高松塚築造は天武11年6月以降だとする。
五味充子氏も同意見

上田正昭氏・・・帯が大宝令の皮でなくヒモなので大宝令(701年)以前のものではないか。
秋山氏、高田大和男氏も同意見。

すなわち、高松塚古墳の築造時期は持統4年(690年)4月14日の詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」とある期間から大宝元年まで。

石田尚豊・・・大宝元年、禁止されていた脛裳(はばきも/脚絆、ゲートルのようなもの)を再度着用することになる。
       持統4年(690年)、白袴を用いよ。
       慶雲2年(705年)、完全に脛裳をなくして白袴となる。
その他の資料
(その他の資料とは?)から、高松塚は慶雲2年(705)以降に造営されたとは考えられないので(その理由は?)持統4年(690年)から大宝元年(701年)までの衣装

ここでも小林氏の説明は不十分だと感じる。
690年以降とするのは、「持統4年(690年)の詔」以降だということなのはわかる。
しかし、「705年以降に造営されたとは考えられない理由」「705年以降造営されたとは考えられないのであれば、造営時期は704年までとなりそうなのに、701年までと限定した理由」がわからない。




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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑮高麗尺、唐尺は年代特定に使うことはできるか。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


今回の参考書籍は『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

高松塚古墳

高松塚古墳

①高松塚の墳丘指数は特別高いということはない。

・高松塚古墳の墳丘は大きさのわりには背の高い封土を築いている。(直径18~20m、高さ5.6m)

発見当時、高松塚古墳の直径は18mとされていたようであるが、ウィキペディア高松塚古墳を確認すると、
「直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳」となっている。
調査が進んで、当初発表されていた18mよりも直径が大きいことがわかったのではないかと思う。

・掘田啓一氏は、墳丘指数を勘案した。
墳丘指数=高さ÷直径✖100

実際にいろいろな古墳の墳丘指数を計算してみよう。。

※()は被葬者と没年で、没年が早い順に並べた。被葬者が確実視されていないものは、緑色で示した。
※高さがわからないものは?とした。わかりしだい追加で書き入れる。
                                         墳丘指数
塚穴古墳(来目皇子/ 603 )・・・・・・・・・・辺53m・高さ10m          18.87
叡福寺北古墳(聖徳太子墓/ 622)・・・・・・・ 南北43m・東西53m/高さ11m      20.75  ※53mで計算
石舞台古墳(蘇我馬子/626) ・・・・・・・・・方80m・高さ不明(封土が失われているため)          
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方16.2m・高さ9m         55.56
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方19.3m・高さ?
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長22m・高さ4m          18.18
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m       12.5            
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 10m・高さ?
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径20m・高さ4.3m           21.5
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西58m・高さ9m           15.5
御廟野古墳(天智天皇/672)・・・・・・・・・下方辺長70m・高さ8m         11.43
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・・・対角長30m・高さ? 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・径16m・高さ?
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長19.5m・高さ4m        20.51
梨本南2号墳(長屋王/ 729 )・・・・・・・径15m・高さ1.5m               10.00
岩屋山古墳・・・・・・・・・・・・・・・・辺45m、高さ12m                26.67
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・・・径23m、高さ5m              21.73
菖蒲池古墳・・・・・・・・・・・・・・・・30m、高さ7.5m                 25.00
栗原塚穴古墳・・・・・・・・・・・・・  径28m、高さ2m                   7.14
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径23m・高さ5m             21.73
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径13.8 m)・高さ3.3m                               23.91

このように比較してみると、高松塚古墳は直径が変更されたせいもあって、さほど墳丘指数が大きいということはないと思う。

⓶高麗尺、唐尺は年代特定に使うことはできるか。

・高松塚石室内の寸法は、長さ265.5cm、幅約103cm、高さ113.4cm
梅原氏は高松塚古墳の石槨の大きさについて、長さ2.655m、幅1.035m、、高さ1.134mとされている。
ほぼ同じ数値だが、幅の数値がわずかに違う。

下は『壁画古墳 高松塚 調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』29pで伊達宗泰氏が示されている石槨計測値表の数値だが、やはり幅の数値が若干違っている。

幅・・・北壁103.25cm
    南壁(外法)137.0cm.
長さ・・東壁 265.5cm、
    西壁 265.5cm
高さ・・113.4cm

・年代推定で問題になるのは尺度。

701年の大宝律令で唐尺(約29.7㎝)が導入された。
701年以前は高麗尺を使っていたとする主張があり、高麗尺を用いているか、唐尺を用いているかで
701年以前か、701年以降かが判断できると、小林氏はおっしゃっているのだ。
しかし、建造物の基準尺として確認されておらず、高麗尺は存在しなかった、とする意見もある。

・伊達宗泰、網干善教え、尾崎喜左雄ら、実際に調査された方、岸俊夫は唐尺(1尺=29.5cm)を用いたという意見。
唐尺では長さ9尺、幅は1尺を29.57cmに変更して、ほぼ3.5尺で完数(端数の付かない尺数)が得られる。
しかし、高さに関しては岸氏も指摘されているように完数が得られない。

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』29p 石槨計測値表の横には唐尺換算値が記されている。

唐尺換算値 幅3.5尺、長さ9尺、高さ3.8尺、(1尺=29.50cm)
とある。

計算式は下のようにして行ったのだろう。

幅・・・北壁103.25cm÷29.5cm=3.5尺
    南壁(外法)137.0cm.
長さ・・東壁 265.5cm÷29.5cm=9尺
    西壁 265.5cm
高さ・・113.4cm÷29.5cm=3.844067796≓3.8尺

小林氏がおっしゃるように、高さ113.4cmを(1尺=29.50cm)で割ると、3.844067796となって完数にはならない。

また小林氏は「幅は1尺を29.57cmに変更して」とおっしゃっているが、なぜ1尺=29.5cmをⅠ尺=29.57に変更して計算するのだろうか?

岡本太郎氏は周代に日本に入った和(周)尺(20.2cm)とする。
これで計算すると、高さは5.6尺として完数に近いが、奥行と幅が合わなくなる。

コトバンクによれば、周尺は一尺を18.18cm、または23.03cmとあるが20.2cmで換算してみよう。

       調査中間報告                小林氏            梅原氏

幅/北壁103.25cm÷20.2cm=5.1113886138   幅約103cm÷20.2=5.0990099 幅103.5cm÷20.2=5.123762376
  南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷20.2cm=13.14356435尺 長さ265.5cm 左に同じ     長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷20.2cm=5.613861386尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

このような結果となって幅、長さ、高さとも完数が得られないが、なぜ小林氏は「和(周)尺」を用いると、高さは完数を得られると書いておられるのだろうか?
何か私が勘違いしているのかもしれない。

・井本英一氏は周(和)尺を19cmとする。

 調査中間報告                小林氏が提示する数値   梅原氏が提示する数値

幅/北壁103.25cm÷19cm=5.434210526  幅約103cm÷19=5.421052631 幅103.5cm÷19=5.447368421
    南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷19cm=13.97368421尺 長さ265.5cm 左に同じ   長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷19cm=5968421052尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

このようになってやはり完数にはならない。

・木棺の長さと幅は出版物によって1cm前後の誤差があるが、199.5cm✖57cmとするものがあり、1尺=19cmでは
10.5尺✖3尺となって完数になる。

・再建法隆寺の塔や金堂、群馬県古墳寸法は高麗尺(一尺=35cm)だが、これでもない。

高麗尺で石槨を換算してみると

調査中間報告                 小林氏が提示する数値    梅原氏が提示する数値

幅/北壁103.25cm÷35cm=2.95尺      幅約103cm÷35=2.942857142 幅103.5cm÷35=2.957142857
    南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷35cm=10.44285714尺 長さ265.5cm 左に同じ    長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷19cm=5968421052尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

たしかに高麗尺でもなさそうだ。

高松塚が周尺を用いられているとすれば、周尺が用いられていた時代と地域を調べる必要があるが、そういう文献を知らない。
ただ、701年の大宝令の尺度決定以前に造営されたと推測される。

小林氏は高松塚は周(和)尺(1尺19cm)で造営されたと考えているのだろう。
小林氏がそう考えたのは、「井本英一氏の周(和)尺を19cm説であれば、木棺のサイズは完数になる。」からだろう。

ちなみに調査中間報告には次のような内容が記されている。
「棺の長さ2.02m、幅57cm、側板の立ち上がり残部15cm~10cm程度」

すでに見たように石槨のサイズは周尺(1尺19cm)では完数にならず、唐尺(1尺29.50cm)では長さと幅は完数が得られる。

       調査中間報告          小林氏            梅原氏

幅/北壁103.25cm÷29.5cm=3.5尺     幅約103cm÷29.5=3.491525423 幅103.5cm÷29.5=3.508474576
  南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷29.5cm=9尺    長さ265.5cm 左に同じ    長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷20.2cm=5.613861386尺  高さ113.4cm 左に同じ     高さ113.4m 左に同じ

つまり、木棺の長さ・幅は周尺(1尺19cm)で完数になるが、木棺の高さはわからない。
しかも、長さが完数になるのは木棺の大きさを199.5cm✖57cmとした場合で、
調査中間報告の202cm、幅57cmでは、長さは10.63157894尺となって完数にならない。

一方、石槨の長さ・幅は唐尺(1尺29.5cm)で完数になるが、高さはあわない。

この結果は、周尺2勝、唐尺2勝で「引き分け」と見るべきではないか。

私は高松塚が唐尺で用いられた可能性は排除できないと思う。
したがって、小林氏の「701年の大宝令の尺度決定以前に造営された」という結論には納得しかねる。

また、周(和)尺、高麗尺、唐尺は、1尺を何センチとするかも研究者によってまちまちで、
これらのうちどれを用いたかによって時代を推定する目安にはならないと思う。

③木棺について

・漆喰純度は95%で、中尾山古墳と高麗(任那地方)の壁画古墳と一致。新羅系、旧任那刑の漆喰技術が用いられたと考えられる。
但し、高松塚は鉛含有量が0.28%で高い。(他の古墳は0.01%)

・漆塗木棺は檜とされていたが、昭和52年12月に杉と訂正された。
板の厚さは1.6cm、底・両側板・両木口板共、一枚板。銅釘で止める。
内、外とも板に麻布を二枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面には漆を3,4回塗った上に全体に金箔が貼られていた。
布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。

・漆塗木棺の出土例は多い(大阪府茨木市初田二号墳、大阪府羽曳野市御嶺山古墳、マルコ山古墳など)

・猪熊兼勝は百済王家との慣例を指摘。(扶余にある百済末期の陵山古墳のほとんどの石室から棺に用いたと思われる金箔辺と棺飾金具が出土しているため)

④海獣葡萄鏡

・海獣葡萄鏡は南壁面より奥87cmの東壁側に漆喰で塗りこめられていた。

これについて、『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』では、次のような内容を記している。

・南壁面、内側より奥83CMの東壁面に接した床面の漆喰に食い込むようにして出土した。鏡面が上向きになっていた。

「食い込むように」というのは鏡が動かないようになっていたのか、それとも動かせる状態だったのか、この説明ではわからない。
出土状況を撮影した写真を見ると、床面に浅い窪みがあるように見える。

・海獣葡萄鏡は、縁の部分が高いので、模様の部分が空洞となっていたので錆が少なく、鈕(下の写真の鏡中央部。緒=ヒモが通せるようになっている。)に通した緒も残っていた。

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚出土 海獣葡萄鏡

たぶん、こういう状況だということだと思う。↓

海獣葡萄鏡 出土状況

・石槨に緒が密着した状態では緒は腐食が進んでいたと思われる。すると、移動されていないか、腐食が進んでいない時期に移動されたかどちらかだと考えられる。

・おそらく鏡は棺の外に置かれていた。その理由は東壁に鏡が密着しており、棺の厚みが東壁と鏡の隙間に挟まる余裕がないため。
(↓ たぶん、こういう事だと思う。)

鏡の位置①

鏡の位置2


・同一の鏡(同笵鏡。同一の鋳型または原型を使用して鋳造した複数の鏡)は5例あり、西安独孤思貞は則天のときに朝議太夫となり、697年に没し、698年に銅人原の墓に遷葬されたことが墓誌に記されている。
ここから高松塚海獣葡萄鏡の製作は698年より以前と考えられる。

これについて、ネットにこんな内容を記した記事がある。

・独狐思貞墓の墓誌によれば、その墓が作られたのは698年ということがわかっている。
中国で鋳造され、遣唐使によってもたらされたものだとすれば、この年号の前後、おそらく後に古墳が築かれたことが推定できる。

・このタイプの海獣葡萄鏡が698年よりも大きく古い時期に鋳造されたとは考えにくいので、遣隋使を除外し、630(舒明2)年から始まった遣唐使でも668(天智7)年に帰国した事例以後になるだろう。
これ以後の遣唐使としては、704(慶雲元)年、718(養老2)年、734(天平6)年、754(天平勝宝6)年、761(天平宝字5)年、778(宝亀9)年、781(天応元)年、805(延暦24)年、806(元和元)年、839(承和6)年がある(いずれも帰国年、20回説より)。

・663(天智2)年、白村江の戦いで敗れ、その後は壬申の乱が起きたり律令制への過渡期であったなど、遣唐使を派遣する環境になかったと考えられている。

・朝鮮半島からの献上品の可能性もあるが、高松塚古墳の海獣葡萄鏡が遣唐使によってもたらされたとするならば、
独狐思貞墓の墓誌(698年)により、704年の遣唐使帰国後に亡くなった人物が被葬者の候補になる。

しかし墓が作られた時期と、副葬品の作られた時期が必ずしも一致するとは限らない。
親が使っていたものを受け継いで、墓に治めたなんてことも考えられる。
また、土淵氏も
「朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。」

とおっしゃっていたように、別ルートがないともいえないので、「高松塚と同型の海獣葡萄鏡が副葬品として出土した独狐思貞墓の墓誌(698年)」も年代特定のものさしとしては使えないと思う。

小林氏が指摘される「海獣葡萄鏡の製作は698年より以前」というのも、根拠がない。
独狐思貞墓の墓誌が698年であっても、当然、その後に高松塚出土の海獣葡萄鏡がつくられる可能性もある。

高松塚と同笵鏡と思われる海獣葡萄鏡が中国で出土しているので、日本で製作したものではなく、唐でつくられたものである可能性が高いとはいえるだろう。

⑤透金具

・透金具について、長広敏雄と五味充子は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文との共通点を指摘。
長広氏はそのデザインの最古例として則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻もようをあげる。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。


・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文よりも臨海殿出土の「塼(せん)」に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年(の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。

https://www.narahaku.go.jp/collection/1066-0.html (宝相華文塼 慶州付近出土)

史料に674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろう。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったとはいえなくはないだろうか?

・網干善教氏は高松塚古墳と新羅の関係が深いこと、東大寺出土の金鈿装太刀、法隆寺玉虫厨子の造金具に似ていると指摘している。

・源豊宗氏は興福寺十大弟子と八部衆の服飾、東大寺三月堂の不空羂索観音の光背の模様に似ていると指摘。

不空羂索観音の画像はこちら ↑

興福寺 八部衆

興福寺 八部衆 向かって左・畢婆迦羅像、向かって右・沙羯羅像

興福寺 阿修羅像 服飾の模様

興福寺 八部衆 阿修羅像の服飾

・法隆寺心礎舎利容器、妙心寺梵鐘文、大官大寺出土隅木金具などの対葉華文と似ているとの指摘もある。
7世紀末から8世紀にかけてアジア全体に流行した模様だといえる。

⑥土器

・盗掘の際持ち込まれたと思われる土器が石槨内に流入した土の中や上、墳墓頂上部の攪乱土中から出土した。
これらはすべて燈明皿と推定されている。

・墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。






高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑭中国の地獄絵は十二支が亡者を責める?


トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?(読めないのだろう。)巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。

・干支の虎,辰以外は身近な動物。

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。


・中国中央部の遺跡である泉湖村では、約6,000年前から人間が定住していた。
・考古学者らは泉湖村で、住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見した。
・見つかった骨は約5,300年前のもの。
・食生活の分析から、イヌ、ブタ、ネズミは穀類を食べており、ネコは、穀類を食べる動物を狩っていた。
・遺跡の発掘で、ネズミが貯蔵穴の近くに住んでいたことがわかった。
・狩りよりも穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

⓶干支は人を仙境へ導いてくれる?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。
虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろう。

しかし、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか?

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏を持つ牛頭人身の門番がたつ。
・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車

・十二支は人を仙境に導くお供であり、方位の鎮守でもある。

③十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

④四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。

⑤高松塚・キトラの被葬者は南枕だった?

先ほど、私は次のようなことを述べた。

・記紀にイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
・イザナギの顔は宇宙空間に喩えられており、イザナギの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神。
・薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置する。
左右は薬師如来からみた場合の左右。
・薬師如来は星の神

星の神とはキトラ古墳天文図の中央に描かれた赤い円(内規/1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲)の中にある、北極星(地球の自転軸は歳差運動といって独楽がぶれるような動きをしているため、北極星は時代によって異なる。地球の歳差運動の周期は約25800年。)または北辰(天の北極)の神だと思う。

高松塚星宿図では図の中央にある星宿「北極(星宿名であり、天の北極の意味ではない。)」「四輔」、または北辰の神だろう。

つまり、北極星または北辰からみて左が東、右が西ということだ。
キトラ高松塚
キトラ天文図 高松塚古墳星宿図 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

高松塚の星宿図やキトラの天文図は、石室に眠る被葬者が北枕で寝かされた状態で、空を見上げたときに、向かって右が月、向かって左が日がくるようなレイアウトになっている。

天井に描かれている図の側からみれば、左に月、右に日があるという状態になり
これでは「イザナギの左目から天照大神(日)が、イザナミの右目から月読命が(月)が生まれたという記述とあわなくなってしまう。

キトラ 被葬者は北枕?

上の図は「キトラ古墳 四神の館」で展示されていたものである。
被葬者は北枕で寝かされている。
この状態であれば、被葬者が見上げた空は上のキトラ天文図のように、被葬者の右手(向かって左)に月、被葬者の左手(向かって右)に日が見える。

キトラ古墳は木棺も朽ちてしまったのかほとんど残っていない状態だった。
人骨と歯は10点(4点は歯、6点は頭の骨の破片) http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200406180048.html
のみ発見されているが、盗掘にあっており、その際に動かされた可能性もある。

北極星や北辰からみれて、左手に太陽、右に月がある状態にしようと思ったら、南枕にする必要があると思う。
高松塚、キトラ古墳の被葬者はもしかしたら南枕だったという可能性も考えてみた方がよさそうに思える。

あるいは、地下の石室内で北枕で左手側を日、右手側を月とし、
これを反対側の地上から見下ろしたときには右手側が日、左手側が月になるように天文図・星宿図を描いているのは
何か意味のある呪術なのかもしれない。

高松塚星宿図についてだが岸俊男氏が次の様に言っておられることにも注意しておきたい。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられる。
もしそうだとすれば、朝賀の儀式の詳細を記した貞観儀式に男子人物像は「舎人を率いて先頭の〇〇に立つ」とに規定された官人だと考えることができる。(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

唐や高句麗の壁画古墳にも日月が描かれたものは多いと思うのだが、被葬者の向きはどうなっているのだろうか。
どうやらこれを調べてみる必要がありそうである。

⑥壁画を描いたのは黄文本実説には根拠がない。

・高松塚、キトラの壁画を描いたのは黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)だとする説がある。
・黄文氏は高句麗系氏族。
・669年の第七次遣唐使で渡唐し、671年、土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)を天智天皇に献上した。
・薬師寺の仏足石は本実が唐の普光寺で転写した図面をもとにしたとする記録がある。
・この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
・しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。
・キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に最もにている。

来村氏はこのように述べているが、白虎の前足比較図が掲載されているだけなので、キトラが唐、キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に似ているかどうかは今のところ判断できない。
唐や高句麗の壁画古墳についての書籍などを調べてみた上で判断したい。

⓻十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟

・二十四方位

二十四方位




上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図


図2

⑧黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていない。図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑬ キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

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今回も前回にひきつづき、『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』を参考資料として考えてみる。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。

このうち「十二支」を人をかたどった姿で描いた壁画はこれまで6体が確認されていましたが、今回、文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析したところ、「十二支」の「辰(たつ)」と「巳」、それに「申(さる)」にあたる場所に顔料の成分とみられる水銀や銅の反応が検出されたということです。
データをもとに可視化すると、このうち「巳」とみられる像では衣装をまとった姿や顔の部分から伸びた舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できました。
~略~
このうち十二支の像は、▼東の壁に描かれた「寅(とら)」のほか、▼南の壁の午(うま)と▼西の壁の戌(いぬ)、▼それに北の壁の亥(い)、子(ね)、丑(うし)のあわせて6体の像が肉眼で確認されています。
残り6体のうち、▼東の「卯(う)」、▼南の「未(ひつじ)」、▼西の「酉(とり)」の3体については、それぞれ描かれていたと考えられる場所のしっくいがはがれ落ちていてすでに失われているとみられています。
一方、▼東の「辰(たつ)」、▼南の「巳(み)」、▼西の「申(さる)」が描かれていたとみられる場所は、しっくいが泥に覆われた状態だったため文化庁などはこの部分をはがしとって保存し、壁画が残っていないか科学的な方法で調査を続けていました。
リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⓶高松塚・キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

①で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。
・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。
・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村氏)
・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像があるのは金庚信墓である(墓の周囲の護石に浮彫として刻まれている。)

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。
http://www.hitsuzi.jp/2011/10/1911sheep.html
「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。
この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。


❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

③キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

右前

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

それでは右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。
あるいは、何か理由が会って右前になっているのだろうか。 >

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑫ キトラ古墳の天文図、四神 ※追記有8月18日

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図書館で『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』という本を借りることができたので、今回はこれを参考史料として考えてみることにした。

読んでみると、この本は「キトラ古墳は語る」というタイトルではあるが、中国の墓の壁画、四神の歴史などについて多くのページをさく内容となっていた。
しかし参考になる点は数多くあったので、それについて記していきたいと思う。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、それについての私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳の天文図には大きな星が4つある。

キトラ古墳 天文図

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である.
「キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台」より引用(http://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/history5/21Soma.pdf

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認できないので、どちらが正しいのかわからない。

この4つ(または3つ)の星が大きく描かれていたのはなぜか。
中国の占星術を勉強すればその意味がわかるかもしれない。(お手上げ状態?)😂

上の写真の天文図は分かりやすいように、「天狼」「土司空」「北落師門」を緑色で、「老人星」はオレンジ色に変更した。(本来は他の星々と同じ色/実物は金箔が貼られている。)

⓶天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道

地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。(宮島一彦氏説)

来村氏が「観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない」とおっしゃっているのは、「赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になる」とする宮島氏の説に対する批判なのだ。
宮島氏がどのようにして緯度を38度と計算したのか確認してみる必要がありそうに思うが
計算の苦手な私に宮島氏の計算が理解できるかどうか自信がない。😚

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村多加史氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)

明時代の渾天儀のレプリカ

明時代の渾天儀のレプリカ

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

水運儀象台
水運儀象台

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。

④二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)
上記リンク先にわかりやすい図解がある。)
この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

⑤キトラ日像・月像

キトラ日像は金箔が剥がされている。上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端がある。八咫烏が描かれていたのだろう。
(永泰公主の墓にある八咫烏と一致する。)
月像も銀箔が剥がされている。月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。

http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/heya0/kantyou57.htm
(リンク先にイラストあり)

キトラ 日像

キトラ 月像

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)
上の写真に大星が写り込んでいる。「土司空」だろう。

ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。

どちらにも同様の海島と海が表現されているので)赤線は日の出、日の入りの海の色。

来村氏は海だとおっしゃるが、梅原氏は雲だとおっしゃっていた。
どちらが正しいかわからないが、日・月を雲の上に乗せる表現は後年の熊野勧心十戒曼荼羅や北野天満宮の三光門にもみられる。
ただし、キトラ古墳壁画のように線であらわすのではなく、もくもくとした雲である。

熊野勧心十戒曼荼羅

熊野勧心十戒曼荼羅

三光門 月?

北野天満宮 三光門

⑥四神の起原

・西水玻遺跡 新石器時代の貝殻絵(貝殻を並べて東に龍と西に虎が描かれている)
北側の足元には人の大腿骨日本と三角形に敷き詰めた貝殻を組み合わせてひしゃくの形をつくっていた。
北斗七星か?
墓の南20mほどの場所には龍、虎、虎の背に乗る鹿、龍の頭に近づく雲が貝殻で表現されていた。
其の25mほどのところにも竜虎がある。

↑ こちらの記事に図がしめされていた。

・上村嶺虢国墓(じょうそんれいかくこくぼ/春秋時代)から出土した鳥獣紋鏡は、上に鹿、下に鳥、向かって右に虎、向かって左に龍が描かれている。
四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって
西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。
古い時代には玄武は登場しない。

「四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。」とある。

私はこの文章の意味がわからず、3日(!)考えてようやく意味がわかった。

四神図は一般的に次のようなレイアウトで描かれる。

四神図

東(向かって右)が青龍、西(向かって左)が白虎である。
ところが、鳥獣文鏡は、向かって右には虎、向かって左に龍が配置されていて、一般的な四神図と虎・龍の位置が反対になっている。

鳥獣文鏡

しかし、上の図を頭上にあげて、鹿を北、鳥を南の方角に向けると、虎は西、龍は東の方角にくると、
そういう事をおっしゃっているのだと思う。

・戦国時代初期 曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した衣装箱 
蓋上面に斗の字が描かれ、周囲に二十八宿の字が並ぶ。
南西に白虎、北東に青龍、龍型の面に舟形、虎方に蛙、南東には何も描かれていなかった。
鳥は他の衣装箱に描かれていたが、玄武は登場しない。

この衣装箱の図は先ほどもリンクを張らせていただいた上の記事に図が掲載されている。

玄武が描かれていないことに注意するのはもちろんだが、他の衣装箱には描かれていても、この衣装箱の南に何も描かれていなかったというのも個人的には気になる。
高松塚古墳壁画の朱雀は盗掘穴があけられたため、紛失されたとされているが
梅原猛氏は「最初から朱雀は描かれていなかったのではないか」と意見を述べられている。

↑ これは高松塚古墳南壁の盗掘穴(レプリカ)だが、盗掘穴は壁の上部にあけられている。

高松塚古墳壁画_(複製)

高松塚古墳壁画_(複製)

朱雀が描かれていたとすれば、玄武と同じくらいの位置に描かれていたのではないかと思う。
盗掘穴はこれよりも高い位置にあけられているように思うのだが、どうだろうか。
そういうわけで、梅原氏がおっしゃるとおり、朱雀は初めから描かれていなかったようにも思われる。

追記
朱雀が描かれていた場所については上に書いた通りだが、どうも盗掘穴があけられた際に、北壁の漆喰がはがれおちてしまい、その結果、漆喰の上に描かれていたと考えられる朱雀が失われたと考えられているようだ。
梅原氏は朱雀が描かれていたのならば、顔料ぐらいは残りそうだとおっしゃっているが、どうだろうか。
今後の研究をまちたいと思う。

「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
しかし南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができないという呪術的しかけなのだろうかと考えたりした。

衣装箱の場合だと、大事な衣装が外にでていかない。つまり、衣装持ちになれる。そういうわけで朱雀を描いていないのではないかと考えるのは、トンデモだろうか?(笑)

・昔の大型土洞墓では、青龍、白虎、朱雀が描かれるが玄武はあまり描かれない。

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

高松塚古墳 玄武(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

青龍

青龍(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
※青龍は脱色が激しく、頭部・胸部・前脚が残っているだけなので、高松塚古墳壁画から書き起こしたのだろう。
高松塚とキトラの白虎像は大変よく似ているため、青龍も似ていたかもしれない。

青龍

青龍

青龍 高松塚壁画館

高松塚 青龍(高松塚壁画館)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
向かって右の翼は、向かって左の翼から復元された。
先ほども述べたように、高松塚古墳には朱雀像はなかった。
(一般的には盗掘穴に描かれていたと考えられている。梅原猛氏は「初めから描かれていなかった」とされる。)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)

白虎

白虎(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎とよく似ているが、向きが逆になっている。

白虎

白虎 高松塚 (高松塚壁画館にて撮影)

キトラのように向かって右向きに描かれる白虎は珍しいとのこと。
なぜキトラの白虎は逆向きに描かれたのだろうか?







高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑪消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき 

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①岩屋山古墳

さて、土淵氏はなぜ高松塚古墳が高市皇子の墓だとしたのか。
それは紀路にある古墳のうち、可能性が低いものを落としていった結果、高松塚古墳しか残らなかったからだとされる。
紀路とは現在の近鉄吉野線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道のようである。

ひとつひとつの古墳について、土淵氏の見解をみていこう。

まず岩屋山古墳が高市皇子の墓でない理由を、土淵氏は次の様に述べておられる。(ピンク色でしめしたのが土淵氏の意見。グレイの文字で記したところは、土淵氏の説明に対する私の意見である。)

畿内に岩屋山式とする切石作りの横穴式石室がいくつかあり、7世紀前半、7世紀第二四半期のものとされる。
高市皇子は696年に薨去しており時代があわない。(土淵氏)

7世紀第二四半期とは、一世紀を4分割した2つ目という意味である。つまり、626年~650年がそれに該当する。
おそらく土淵氏が『高松塚は高市皇子の墓』を書いた1991年当時の考古学の見解では、岩屋山古墳を7世紀第二四半期としていたのだろう。

しかし、今ウィキペディアを確認すると、岩屋山古墳の築造時期は、 7世紀中葉から7世紀第3四半期(651~675)となっている。

延喜式は「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡(現在の広陵町)に在り。」としており、広瀬郡には現在百済寺という寺もあって高市皇子の墓が広瀬郡にある可能性は否定できない。
そうではあるが、明日香に高市皇子の墓があるとするならば、それを岩屋山古墳と考えるのもありかもしれない。

築造時期が7世紀第3四半期(651~675)ならば岩屋山古墳を696年に薨去した高市皇子の墓としても、そんなに無理が無いように思える。

そして、万葉集199に
「(高市皇子は)城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。」
とあるが、岩屋山古墳は明日香近辺の古墳の中でも高さのある古墳である。

また岩屋山古墳は天皇陵に多い八角墳の可能性が指摘されている。
草壁皇子の墓は束明神古墳が有力視されているが、これも八角墳である。

束明神古墳

束明神古墳

束明神古墳横口式石槨(復元)開口部奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

束明神古墳石室レプリカ

束明神古墳 横口式石槨(復元)内部

束明神古墳 石室内部(レプリカ)

すると、天武天皇の長子で壬申の乱で活躍した高市皇子の墓が八角墳である可能性もありそうに思える。

岩屋山古墳

岩屋山古墳

岩屋山古墳 石室内部

岩屋山古墳石室内部

そして高市皇子の長子・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と記された木簡が発見されている。
「親王」の称号は天皇の子に用いられることが多く、皇子の子は大抵、王と呼ばれる。
そのため、高市皇子は天皇であったとする説もある。

そもそも古墳の年代をどうやって出しているのか、という疑問が私にはある。
年輪年代法を用いればかなり確実な年代がでそうだが、木の皮がついた木材が発見されないと年輪年代法は使えない。
さらには古墳築造よりも古い木材を古墳内に持ち込んだ可能性もないとはいえない。
放射性炭素年代測定法もあるが、誤差が大きいと指摘されている。

古墳の形や出土した土器などの編年(遺構及び遺物の前後関係や年代を配列すること)によって年代を出す方法もある。
しかし形の変遷の順序は正しく作れても、古墳築造時期は、かなりアバウトな数字になるのではないだろうか。

箸墓古墳の築造年代についても長らく4世紀中期以降とされ、卑弥呼の墓ではないと言われていたのが、近年炭素14年代測定法により3世紀中頃から後半とする説が有力視され卑弥呼の墓の可能性が高いと言われるるようになっていたりする。

史料と照合して年代を出すのであればそこそこ信頼できる数字になりそうだが、そういうものが無い場合、古墳や土器、建造物などの年代を出すのは難しいのではないだろうか。

【古墳の大きさ比較】岩屋山古墳は高さ12mで、近隣の終末期古墳と比較して高さがある。
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
岩屋山古墳・・・・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)
菖蒲池古墳・・・・・・・・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・・・・・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                              ※石敷・砂利敷部分を含むと対辺長32m                 
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・ 辺9.65尋(19.3m)
マルコ山古墳(川島皇子/691)・・・・・・・対角長12尋(24m、高さ2.65尋(5.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・・対角長15尋(30m)
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・・一辺3.8尋(7.6m)
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・ 径8尋(16m)

※被葬者は確実視されていないものを含む。
※1尋は2mで計算

⓶牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳については、天皇陵に多い八角墳であること、横口式石槨墳は書紀によると斉明天皇だけであることから斉明天皇陵であろう。(土淵氏)

これについては現在、八角墳の牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女の合同陵が確実視されている。
牽牛子塚古墳の石室は2つあり、さらには隣接して越塚御門古墳がある。
これは「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」とする日本書記はの記述と一致している。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳(向かって右)

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

③マルコ山古墳

築造年代が7世紀末というのは高市皇子の墓としても成り立つが、所在地が真弓で被葬者の年齢が30歳なので川島皇子の墓だろう。(土淵氏)

発掘調査の結果、マルコ山古墳から30代とみられる男性の骨が見つかった。
川島皇子は34歳でなくなり、越智野に葬られたとされ、年齢はあう。
越智野は奈良県高市郡高取町の北部,及び明日香村西部の低丘陵とされる。
真弓はこの越智野に該当しそうで、場所もあいそうだ。

マルコ山古墳

マルコ山古墳

⓸束明神古墳

土淵氏は、川上邦彦氏の文章をとりあげて、彼に同意し、束明神古墳を草壁皇子の墓だとされる。
川上氏の指摘は以下のとおり。
・多数の鉄釘、漆膜片、棺金具の一部が発見されており、漆塗りの木棺があったと思われる。
・人歯10本発見された。被葬者は1人。
・八角墳、築造時期の一致、地元では「草壁皇子の墓」とする伝承がある。若干の文献とも一致するなど、草壁皇子の墓である可能性が高い。

⑤中尾山古墳

八角墳、火葬墓なので、文武天皇陵と考えられる。(土淵氏)

中尾山古墳

中尾山古墳

⑥キトラ古墳

地名が安倍山なので、安倍氏との関連も考えられるが、安倍氏の墓は安倍文殊院辺りに集中している。
阿部倉梯麻呂の墓も安倍文殊院。703年に没した安倍御主人の墓にしては、規模と位置からふさわしくない。(土淵氏)

安部文殊院境内には文殊院西古墳があり、被葬者は阿倍倉梯麻呂という説がある。
また文殊院西古墳の東には文殊院東古墳があり、安倍氏一族の墳墓ではないかといわれている。
グーグルマップをみると、この2つの古墳のほかに谷首古墳、艸墓古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳、兜塚古墳などがある。
被葬者は不明のようだが、安倍文殊院近辺にあるので、安倍氏と関連のある古墳かもしれない。
文殊院西古墳は直径25-30m、高さ6m。キトラ古墳は直径13.8 m、高さ3.3mだが、なぜこのサイズだと安倍御主人の墓としてふさわしくないのか、土淵氏は説明をされていない。

キトラ古墳

キトラ古墳

キトラ古墳は天武の皇子だろう。その中で藤原京時代に没したのは、高市、弓削、忍壁。
忍壁は現・文武陵(栗原塚穴古墳)ではないか。
高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。
するとキトラ古墳は弓削皇子の墓だと考えられる。(土淵氏)

藤原京に関与した人物が「聖なるライン」上に並んでいるとしたら、高松塚古墳は高市の墓ではなく、弓削や忍壁であってもいい。
また、キトラや現文武陵が高市の墓であってもいいということにならないだろうか。
なぜ高松塚が高市の墓であるといえるのかについての説明が不足しているように思われる。

文武天皇陵

現・文武陵

土淵氏は、高市の墓は欽明天皇陵の側にあるはずだとの考えから、高松塚を高市墓と考えておられるのかもしれない。
キトラ古墳は若干欽明天皇陵から離れている。
しかし、現文武陵は欽明天皇陵からそんなに離れていないので現文武陵を高市墓と考えることもできそうに思える。

そしてキトラ古墳は弓削の墓とは考えられない、かなり有力な証拠がある。
キトラ古墳から骨が出土しており、その鑑定結果から、被葬者は熟年ないしそれ以上の年齢の男性と考えられているのだ。

弓削皇子は30歳未満で亡くなったと考えられている。
弓削の生年は不明だが、693年に浄広弐に叙せられており、当時の蔭位の制では、有る身分にある子孫は21歳で位階が与えられることになっていた。
つまり、693年、弓削皇子は21歳だった可能性が高いのだ。
そして弓削皇子はその6年後の699年になくなっている。ここから弓削皇子が亡くなったのは27歳ごろと考えられている。



⓻野口王墓

名月記、阿不幾乃山陵記の記述によると、八角墳・持統天皇の火葬骨は金銅の桶におさめられているとあり、天武・持統合同陵にまちがいない。

野口王墓

野口王墓

⑧土淵氏が用いた二重消去法、仮定Aから得た結論Bを根拠Bとして結論Aを導く?

土淵氏はなぜ忍壁の墓が現・文武陵なのか、なぜキトラ古墳が弓削の墓なのかについて十分な説明をされていないと思ったが、
本の続きを読みすすめると、後のp78からp79で説明されていた。

土淵氏の考えを要約する。

「聖なるライン」上には川島(マルコ山)草壁(束明神)はない。
現文武陵、中尾山古墳は「聖なるライン」上にある。
※聖なるラインとは、藤原京の南に菖蒲池古墳、天武・持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武陵、キトラ古墳がほぼ一直線に並ぶラインのことである。
本当の文武陵は現文武陵ではなくて中尾山古墳が確実視されている。
文武天皇が藤原京に住んでいたことから考えると
藤原京に関係する人物の墓が「聖なるライン」上に並んでいるのではないか。
高松塚も「聖なるライン」上にあるので、藤原京に関係する人物だろう。
高松塚の被葬者は藤原京を建設をした高市ではないか。
高市以外に藤原京時代に没した皇子は弓削・忍壁がいるが、藤原京建設には関与していない。
そうではあるが、藤原京時代に死んでいるので「聖なるライン」上に墓はあるだろう。
なので、キトラ古墳は弓削皇子の墓の可能性が高い。
忍壁は現文武陵に妃・飛鳥皇女と合葬されているのではないかと思う。
これは推量だが、高松塚古墳近辺に終末期古墳がほかにないので、現文武陵が有力。(土淵氏)

土淵氏は二重に消去法をもちいている。

step1(消去法1)
高松塚・キトラ・現文武陵の3つの古墳のうち、高市の墓と想定(理由はのべていない)して、消去法で高松塚を消す。
その上で、残ったキトラは弓削、現文武陵を忍壁の墓とする。
(現文武陵を忍壁の墓とする根拠はのべていない。)

step2(消去法2)
紀路付近の8つの墓をリストアップ。
その中から高市の古墳を特定するのに消去法を用いる。
その際、消去法1で得た結論、キトラ=弓削、現文武陵=忍壁として、二つの古墳を高市の墓である可能性なしとする。
その結果、高松塚を高市の墓と断定。

次の様に書いたほうが、わかりやすいだろうか。

step1(消去法1)
 高松塚は高市の墓だと思う(根拠)→なのでキトラは弓削、現文武陵は忍壁の墓(結論)

step2(消去法2)
 岩屋山古墳は時代があわない→なので高市の墓ではない。
牽牛子塚古墳は斉明天皇陵→なので高市の墓ではない。
マルコ山古墳は川島の墓→なので高市の墓ではない。
束明神古墳は草壁の墓→なので高市の墓ではない。
中尾山古墳は文武天皇陵→なので高市の墓ではない。
キトラは弓削の墓(その理由は高市の墓が高松塚古墳だから/step1の結論を根拠として用いる)→なので高市の墓ではない。
現文武陵は忍壁の墓(その理由は高市の墓が高松塚古墳だから/step1の結論を根拠として用いる)→なので高市の墓ではない。
ゆえに、残った高松塚は高市の墓(step1の根拠を結論にしている)

つまりstep1で「キトラは高市」、「現・文武陵は忍壁の墓」と導いた【根拠】は、「高松塚は高市の墓だと思う(理由はのべていない)」だったのに、
次の段階step2では、「キトラは高市の墓」「現・文武陵は忍壁の墓」という【結論】を導いた【根拠】が「高松塚は高市の墓だと思う」だったことを忘れてしまって
「キトラは高市の墓」「現・文武陵は忍壁の墓」を【根拠】として、「高松塚は高市の墓だと思う」という【結論】を導いているのである。

根拠A(高松塚は高市の墓)→結論B(キトラ=弓削の墓、現・文武陵=忍壁の墓)
根拠B(キトラ=弓削の墓、現・文武陵=忍壁の墓=結論B )→結論Å(=根拠A高松塚は高市の墓)

ある根拠Aから消去法で導き出した結論Bを、根拠Bとして消去法で結論を導けば結論がAになるのは当たり前の様に思うのだが、どうだろう?

高松塚古墳

高松塚古墳

⑨土淵氏は明確な事実によって消去法をもちいていると言えるか。

土淵氏は『高松塚は高市皇子の墓』p211で、梅原説批判として、次のようにかいておられる。
「それには、勝馬予想表などを真似すべきでない。消去の条件は◎〇△✖のような主観的判断ではなく、客観的で動かしがたい明確な事実によるべきである。」

私は梅原氏の『黄泉の王』の中の勝馬予想表に該当する箇所はちらりと見たが、返却期限がきていったん図書館に返却したため、その部分はまだきちんとは読んでいない。
なので、土淵氏の梅原批判が的を得たものかどうか判断できないが、
「消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき」というのは、全くそのとおりである。

土淵氏の「キトラ古墳は弓削皇子の墓」「高松塚古墳しかあいていない(高松塚古墳は高市皇子の墓」も消去法である。
土淵氏自身は、客観的で動かしがたい明確な事実によっているだろうか。
申しわけないがそうは思えない。

彼が用いた前提は

ひとつめ。
aキトラ古墳は天武の皇子だろう。その中で藤原京時代に没したのは、高市、弓削、忍壁。
b忍壁は現・文武陵(栗原塚穴古墳)ではないか。(なぜ忍壁皇子の墓が栗原塚穴古墳なのか不明)→忍壁を消去
c高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。→高市を消去
(忍壁、高市、弓削)-(忍壁、高市)=弓削
ゆえに、キトラ古墳は弓削皇子の墓。

だった。

aはいい。

bは⑧で、高松塚古墳を高市の墓と定めて(理由はのべていない)から現・文武陵の被葬者を忍壁と導いていることを説明した。

cの理論は、「高市の墓は欽明天皇陵の近く」が正しければ成り立つ。
bで高松塚古墳を高市の墓と定めたのも、「高市の墓は欽明天皇陵の近く」から導いた結論であるように思える。
(そうであっても、現文武陵を高市の墓とすることもできそうではあるが)

しかし、これは土淵氏の推論であって、事実とは結論しがたい。
不確かな推論を前提にした場合、結論も不確かになるだろう。

なぜcが事実と結論しがたいのか。

土淵氏は「高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。」とおっしゃるのだが、
土淵氏が高市皇子の墓を欽明天皇陵付近とされたのは、
万葉集199番の、「(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。」
万葉集3324の「(高市皇子を?)城上(きのえ)の道から磐余(石村)に向かい神さまとして埋葬したので」

これらの歌にある地名を次のように考えたからである。
・百済=百済大寺の有った付近=百済大寺は奥山久米寺跡と思われるので、奥山久米寺跡付近
・イワレ=石村(欽明天皇陵付近)
・城上(紀路のほとり)

しかし、延喜式は「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡(現在の広陵町)に在り。」としており、広瀬郡には現在百済寺という寺もあり、百済の原が広瀬郡にある可能性は否定できない。

土淵氏は次のような理由をあげて、延喜式の高市皇子の記述を否定される。
❶応神以前の記紀の記事が信憑性を欠くことは常識だが、延喜式は神武以降の天皇陵すべての所在地を示していて疑わしい。
❷三立丘は宮内省管理外で、数十年前ブルドーザーで削り取られたが、何もでてこなかった。
❸延喜式が示す陵墓の兆域は広すぎて不自然。
❹広陵町から以降、遺物が出土していない。
❺百済大寺が明日香から遠い広陵町に移ったと考えるのは不自然。

しかし、彼の上の説は次のように反論することができる。

❶延喜式が記す陵墓は正しく記しているものもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E9%99%B5%E5%BC%8F
延喜式がどのように陵墓を記しているかについては、上記記事にある。
たとえば天智天皇陵は山科陵〈京都市山科区)
天武・持統合同陵は檜隈大内陵 (飛鳥村野口。南に檜前という地名がある。)
草壁皇子の陵は真弓丘陵(束明神古墳が確実視されているが、束明神古墳の南に真弓という地名がある。)
上にあげた3つの陵は被葬者が確実視されており、これらについて延喜式は正しく記述しているように思える。

❷過去の三立丘と呼ばれる地域は近年より広かったのかもしれない。
なお、これと同様の反論は土淵氏もおこなっている。
百済大寺は十市郡にあったとされる。
土淵氏は百済の地を高市郡の奥山久米寺跡と考えておられるのだが、
「奥山久米寺跡は十市郡ではない。しかし高市郡と十市郡は隣接していた」とのべておられる。

❸高市皇子は壬申の乱の功労者であることなどを考慮して広い兆域が与えられたのかもしれない。

❹後日の発掘調査で、百済大寺跡は広陵町ではなく、飛鳥から遠くはない吉備池廃寺跡が確実視されている。
(百済大寺は文献に九重塔があったと記されているが、吉備池廃寺跡から九重塔と推測される塔跡が発見されている。
百済大寺は創建後早い時期に移転しているが、吉備池廃寺も創建後早い時期に移転したとみられる。)
また百済という地名は一ヵ所ではなく複数あると考えられる。

土淵氏は私が指摘したようなことはわかっておられるようで、次のように書いておられる。

しかしそれは高市挽歌によまれた「百済」「石村」「城上」の地名についての卑見が正しければという条件の下でのみ成立する仮説である。(『高松塚は高市皇子の墓』p75より引用)

⓾土淵氏が提供してくれている参考になる情報

土淵氏説について批判してきたが、彼は参考になる内容もたくさん読者に提供してくれている。
それについて、簡単にメモしておこう。ただし、検証はしていない.。

❶出土した杯蓋の時期は7世紀代末。これに該当する皇子は高市のみ。

天武の皇子は以下のとおり。

天武の皇子(生没年)
草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年)
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年)
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年)
穂積皇子(? - 715年)
第一皇子:高市皇子(654年 - 696年)
忍壁皇子(? - 705年) - 龍田真人祖、のち知太政官事
皇子:磯城皇子(? - ?) 

弓削皇子は699年になくなっており、これは7世紀末なのだが、もがりをして葬ったとすると墓が作られたのは8世紀はじめであると土淵氏は考えられたのだろうか。
草壁皇子(662年 - 689年)の墓はは束明神古墳が確実視されているため省いたのだろう。
大津皇子(663年 - 686年)は万葉集に葛城二上山に移葬されたとあるため、省いたのだろう。

❷出土した海獣葡萄鏡は初唐後半から中唐始めと思われる。(樋口隆康氏)
以下、樋口氏の見解。

・高松塚と同製品と思われるものに、高松市の加藤達雄氏が所蔵するもの(’高松塚とほとんど同じ)
西安十里337号墓出土鏡(高松塚とほとんど同じ)がある。(樋口)
・西安十里337号墓から出土した鎮墓獣、天王桶、索馬胡桶、馬桶、駱駝桶が出土しているが、同じものが則天武后の武周時代〈690から705)以降の多くの墓から出土するので、西安十里337号墓は700年前後、8世紀初頭に充てる可能性が強い。
・高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡の様式は、藤井有鱗館所蔵の鏡と、唐代盛期及びそれ以降のものとの中間。
・法隆寺五重塔心礎内より出土したものは、図柄は簡単になっているが唐代盛期とみていい。
・法隆寺五重塔の塔心礎は711年以前にたてられたが、そこから出土した鏡が唐代盛期以降となる。
・以上の考察によって、高松塚古墳出土鏡の年代は中唐前半(7世紀後半)と考えられる。(樋口隆康氏)

以下は土淵氏の見解
・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。

❸高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。

❹高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。土淵氏は新羅文化の影響をうけたものではないかという。

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。

❻人骨について(島五郎氏の説明)創元社版での発言

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
この結合部はする。「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進む戸、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。

❼高松塚古墳被葬者、急死・毒殺の可能性

『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)
・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

・高松塚多量鉛分
「『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「古代漆喰の化学分析で新しく得られた二、三の知見について」安田博幸
高松塚古墳の漆喰に鉛成分が多量に含有されている。
古代の漆喰の原料・貝殻には鉛は微量。高松塚の漆喰のみ多量。

・鉛は棺の部分で多量に観測される。鉛は棺から流出した?

・保刈成男 毒殺(雪華社刊) 古代ローマでは鉛管をもちいていた。この水は甘く、鉛糖と呼ばれた。
鉛糖は酢酸鉛 酸化塩が洗髪や化粧に用いられて害をもたらした。(鉛害)
漆喰でなく、被葬者が原因であれば、被葬者は毒殺の可能性がある。

❽星宿図の年代7世紀(能田正亮)

❾人物画は朝賀の儀ではなく葬送を描いたもの 衣服は衣服令の規定をそのまま描いたのだろう。(土淵氏)

・男子は漆紗冠をかぶっている。(天武十一年七月に着用が定められた)
・男子は全員すそつきをつけている。すそつきは上着の下部につけた別の布。大宝以前の服装。
(天武十三年閏四月 「会集の日にすそつきを着て長紐をつけよ」とある)

高松塚 男子像2

上の写真の緑色の服の男性は上衣の下に筋がはいっているが、これが別布をつけた「すそつき」だろうか。

・男女とも織物の紐か帯を前に垂らしている。(かむはたの帯)持統4年に定めた帯だろう。
和銅5年には「六位以下、白銅と銀を以って川帯を飾るを禁ズ」
それ以前に皮帯に改められたことがわかる。遣唐節持使粟田真人が帰国した704年7月の直後だろう。

高松塚 女子像2

高松塚 男子像1

・男子は白衿をつけている。持統4年。〈690年)
大宝令は白縛口衿から白脛裳に逆戻りし、慶雲3年〈706年)に白衿にもどした。
壁画の服装は大宝元年から慶雲3年ではない。
慶雲元年〈704年)~3年〈706年)に皮帯に改められたので、大宝元年〈701年)より前の服装だろう。

男子が白衿をつけているようには見えない。

・左襟 養老3年〈719年)に右襟にかわった。左衿なので、それ以前。

・女子像は神を後頭部で結び跳ね上げている。これは天武11年〈681年)の乗髪禁止に合致する。
朱鳥元年〈686年)乗髪に戻したが、詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。
慶雲二年〈705年)の結髪令の注には「語は前紀(持統帝の時代)にあり。是に至りて重ねて制す」とある。
大宝令では五位以上の令服は宝〇で金銀の飾りをつける。六位以下は義〇をつける。(〇は読み方がわからない。すいません。)
壁画の女性の髪型は簡素で、上記にはあたらない。朱鳥元年〈686年)と大宝令の中間の髪型。

・女子像は天武11年〈681年)の詔にしたがい、肩衣をつけていない。

・女子像は男子像と異なり、「ひらおび」をつけている。
大宝令では皇族と内命夫の令服のみ復活したが、朝服はこれを欠く。
女子の「ひらおび」は黙認されたものだろう。701年の大宝令以降でなく、大宝令以前だろう。

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳 女子群像

❿蓋(きぬがさ)

貴人の外出時に用いる。身分によって色が異なる。
儀制令(大宝令及び養老令/礼儀解)によれば、
皇太子・・・表紫 裏スハウ(蘇芳のことか?赤紫)頂四角 錦を覆い総を垂れる。
親王・・・・紫
一位・・・・深緑
三位以上・・・・紺
四位・・・・ハナタ
四品以上及び一位・・・頂角に錦を覆い、総を垂れる。
二位以下錦を覆う。ただし、大納言以上は総を垂れる。裏は朱。

高松塚の蓋は緑色で角を錦で覆い、緑色の房を垂れているので、一位。(上の動画1:42あたり)

諸臣一位に該当する者は中臣鎌足~天平時代の期間では、石上麻呂、藤原不比等しかいない。
もともとは紫であせて緑になった可能性もある。
この儀制令が天武朝でもあてはまるか。天武朝の『浄御原令』の蓋の規定は不明。

⓫筆法、顔料が法隆寺のものに似る。
・蓋の端にある連珠文の模様後世と彩色原理は法隆寺天蓋や金堂壁画中の者と同一の錦門のパターンになっている。
・人物の描き方は法隆寺金堂天井板の落書きに似ている。
・高松塚古墳壁画は7世紀の終わりごろ描かれたものだろう。(以上、秋山光和氏)

・高松塚古墳壁画の顔料は法隆寺のものと類似性が高い。九州の装飾古墳のものとはかなりちがう。(安田博幸氏)

⓬高松塚古墳壁画と唐の壁画比較
658年 執失奉節墓、669年 李爽墓、706年 永泰公主墓、708年 韋洵墓など年代のはっきりしているものが多数ある。
日月、星辰、四神など高松塚と共通点があるが、唐のものは大型。
李爽墓・・・各面にひとり 二人の場合も単純
永泰公主墓・・・群像 人数も多い
高松塚・・・群像
高松塚は李爽墓と永泰公主墓の中間?

⓭高松塚を描いたのは黄文本実?
・高句麗系
・薬師寺の仏足石の原図を伝えた人
・初唐のころ、王玄策がインドの仏足足を写した。それを黄文本実が伝えた。

天智天皇8年(669年)の第七次遣唐使で渡唐したとみられ、王玄策が中天竺で転写した仏足石図を唐の普光寺で再転写し日本に請来した伝承があるほか[1]、天智天皇10年(671年)天皇に献上した土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)についても[2]、同じく唐より持ち帰った物か[3]。

天武天皇12年(683年)八色の姓の制定により一族とともに、造姓から連姓に改姓した[4]。
持統天皇8年(694年)大宅麻呂・台八嶋とともに鋳銭司に任ぜられている。この時の冠位は勤大弐。
大宝元年(701年)大宝令の位階制の制定に伴って従五位下となり、大宝2年(702年)持統上皇の崩御に際して、穂積親王・犬上王・路大人・佐伯百足とともに作殯宮司を務める。慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御に際しては、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤め、同年10月の大葬に際しても御装司を務めた。
また、高松塚古墳の壁画を描いた人物とする説もある[5]。



高松塚古墳・キトラ古墳を考える⓾高松塚古墳の被葬者=高市皇子説(土淵正一郎氏)※追記あり

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

高松塚古墳 光の地上絵

高松塚古墳 光の地上絵(キャンドルで高松塚古墳の男女を描いたもの)

いままで梅原猛氏の『黄泉の王』という本を参考にして高松塚古墳について考えてきた。
この本は図書館で借りていたのだが、返却する必用が生じたため、現在手元に本がない。
なので、途中ではあるが、梅原氏の説については一旦中断して、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』を参考にして記事を書くことにする。

①高市挽歌

万葉集に柿本人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌がある。
全文、現代語訳はこちら ↓ のブログ記事にある。

長いので、現代語訳を要約して記しておく。

明日香の真神の原の地に宮殿を定めて神として天の岩戸にお隠れになった天武天皇が全国を平定しようとして、
東の国の兵を集め、「凶暴な人々を鎮めよ、従わない国を治めよ」と高市皇子に戦の指揮を任せられた。
高市皇子は腰に太刀をつき、手に弓をもって兵を率いた。
伊勢の宮から神風を吹かせて敵を惑わし、雲で太陽が見えないよう暗闇に包み込み、日本国を平定された。
天武天皇が自ら統治し、高市皇子が政務をとられて、栄えていたときに
高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)と飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが、その悲しみが終わらないうちに
(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。
けれど高市皇子が永久を願って造られた香具山の宮はいつまでもなくなることはないだろう。
大空仰ぐように見てしっかりお慕いしていこう(199)

⓶城上の宮は馬見丘陵にある?

赤字の部分をもう一度記しておこう。

天武天皇が自ら統治し、高市皇子が政務をとられて、栄えていたときに
高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)を飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが、その悲しみが終わらないうちに
(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。

高市皇子は元気でバリバリ政務をとっていたのに急死してしまったかのようによめる。

高市皇子の宮は埴安というところにあったらしい。
橿原市に現在という地名はないようで、グーグルマップで検索してもでてこないが

万葉時代には天香具山の西麓にある畝尾都多本神社(哭沢の杜)の北側に「埴安の池」がありhttp://saigyo.sakura.ne.jp/haniyasunoike.htmlより引用

とあり、埴安は天香具山の西麓にあったようである。
高市皇子の宮は天香具山の西麓にあったのだ。
高市皇子が薨去したのち、殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)をつくった。
人々がまだ埴安の宮殿で悲しみに沈んでいるとき、高市皇子の遺体は百済の原を通過して、城上の宮に埋葬された。
この「百済の原」は、「奈良県北葛城郡広陵町百済」と考えられている。

平安中期の延喜式には、高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡に在り。」と記されている。
三立岡は、馬見丘陵にある見立山ではないかと考えられている。
しかし、見立山には古墳はみつかっていないらしい。

③百済から飛鳥寺までは至近距離?

これに対して土淵氏は
「百済=北葛城郡広陵町百済」は納得できない。百済は飛鳥奥山あたりではないかとおっしゃる。

その理由のひとつが、日本書紀・壬申紀の次の記述である。

大伴吹負、密かに留守司坂上直熊毛と議りて一二の漢直等に謂りて曰く、『我謀りて高市皇子と称りて、数十騎を率ひ飛鳥寺の北の路より出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ』といふ。すでにして兵を百済の家に繕ひて、南の門より出づ。

672年、壬申の乱がおこる
天智天皇崩御後、天智の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)と天智の子・大友皇子が皇位を巡って争ったのだ。
天武側についた大伴吹負は飛鳥にある大友皇子本営を攻略するため、留守司・坂上直熊毛と計画をたてた。
そして1人2人の漢直らに次のように語った。
「私は偽って高市皇子と名のり、数十騎で飛鳥寺の北の路から出て、大友皇子の軍営に現れるから、お前たちはそのときをねらって相手軍をうて。」
そして兵を百済の家に選抜して南の門から出た。(日本語訳自信ないです。すいません)

土淵氏はこの記述から、百済という地名の場所にあった吹負の屋敷の南門から飛鳥寺の近江朝の本営まで至近距離であったと考えられた。

北葛城郡広陵町百済から飛鳥寺までは距離がありすぎる(9km以上はある。)というのだ。

④土淵氏の百済大寺=奥山久米寺跡説

次に土淵氏は百済大寺があった場所が百済ではないかと考えられた。
百済大寺とは現在奈良市にある大安寺の前身で飛鳥時代に建てられたと記録にあるのだが、どこに建てられたかが不明となっていた。

土淵氏はいくつかの文献をあげる。

❶日本書記
639年秋7月に舒明天皇が百済川のほとりに大宮および大寺を建設した。
❷大安寺伽藍演技並流記資材帳
舒明天皇11年春2月、百済川のそばに子部社を切り排いて、九重塔を建てた。百済大寺という。しかし火事によって九重塔、金堂石鴟(しび)は焼けてしまった。
❸三代実録 陽成天皇 元慶4年〈880〉10月
昔、聖徳太子が平群郡熊擬道場を建てた。つ。飛鳥岡本宮天皇(舒明天皇)、これを移転させて十市群百済川辺に縦、封三百戸を施入して百済大寺とした。子部大神宮の近側に在ったが、怨を含んで屡々、堂塔を焼く。

そして、「ここに十市郡とあり、広瀬郡ではない」ことを指摘された。
土淵氏は百済の地を高市郡の奥山久米寺跡と考えておられるのだが、奥山久米寺跡は十市郡ではない。
しかし高市郡と十市郡は隣接していたということも指摘された。

次に土淵氏は考古学的証拠として、1989年の奥山久米寺跡の報道をとりあげておられる。
記事は「明日香村奥山で、飛鳥時代初期と考えられる大規模な金堂の基壇と参道が見つかり、文献に名をとどめない謎の寺跡」と報じている。

1983年ごろには網干善教氏が、「奥山久米寺跡は高市大寺、百済大寺の跡の可能性がある」と発言された。
1990年、土淵氏は飛鳥資料館・学芸室長・猪隈兼勝氏に質問したところ「ほとんどの考古学者は奥山久米寺は百済大寺跡と考えている」との回答をえたとおっしゃっている。

そして、土淵氏は人麻呂が歌に詠んだ八釣川が百済川であろうとされた。

八釣川 水底絶えず 行く水の 継てぞ 恋ふる 此年頃を(柿本人麻呂)
( 八釣川の水底を絶えず流れる水のように、絶えることなくずっと恋をしています。何年も。)

土淵氏によれば、八釣川は明日香坐神社の東方にある八釣山に源を発し、奥山久米寺の西で北折し、北流していたという。
(グーグルマップでは確認できず、現存しないのかもしれない)

⑤百済大寺は吉備池廃寺跡?

土淵氏が「高松塚は高市皇子の墓」を著したのは1991年。
私がこのブログを書いているのはそれから32年が経過した2023年である。

現在、ウィキペディアには次のような内容が記されている。

・伝承によれば、この寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地。
・この百済大宮と百済大寺の所在地を奈良県広陵町百済に比定する説は古くからあったが以下の理由から疑問視されていた。
a「百済」の地名が古代から存在した証拠がない。
b 付近から古代の瓦の出土がない。
c 飛鳥時代の他の宮(岡本宮、田中宮、厩坂宮など)は飛鳥近辺なのに、百済宮のみが飛鳥から遠い場所にあるのは不自然。
・1997年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺の発掘が進み、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、吉備池廃寺が百済大寺であった可能性が高い。

・1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は奈良県桜井市の吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されると発表した。
(ちなみに古淵氏が『高松塚は高市皇子の墓』を著されたのは1991年で、これが発表される以前である。)
・吉備池廃寺跡は藤原宮跡の東でかつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。
・古瓦の様式年代も639年建立の百済大寺にあう。


・伽藍は法隆寺式伽藍配置で、金堂・塔・中門・回廊・僧房の遺構が検出されている。
・法隆寺式伽藍配置としては最古
・推定高さ80-90メートルの九重塔や金堂および伽藍の規模は同時代の国内寺院をはるかに凌ぎ、新羅の皇龍寺や文武朝の大官大寺に匹敵する。
・創建時期は飛鳥時代の630年代-640年代初頭と推定され、ほどなく移建されたと見られることから、第34代舒明天皇によって舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺(大安寺前身寺院)の遺構に比定する説が確実視される。


百済大寺が奥山久米寺跡ではなく、吉備池廃寺跡だとすると、申しわけないが「奥山久米寺付近の地名が百済であったとする」土淵氏の説は通らなくなる。

吉備池廃寺跡の付近は磐余という地名であったとウィキペディアは記している。
上の地図を確認すると、吉備池廃寺跡の南東あたりに天理教磐余文教会の名前も確認することができる。

そしてこの磐余(石村)については土淵氏も述べておられる。

万葉集3324(長歌)と3325(短歌)で磐余(石村)とでてくる。

原文と現代語訳はこちらのページにある。https://sanukiya.exblog.jp/29486298/
長いので現代語訳の磐余の言葉がでてくるところだけ引用させていただくことにしよう。

これはうつつか夢ではないかと
わけがわからずうろたえるうち
城上(きのえ)の道から磐余に向かい
神さまとして埋葬したので

磐余の山を真っ白な
布で覆っているように
山にかかっている雲は
今は亡き皇子だろうかな
https://sanukiya.exblog.jp/29486298/ より引用

この挽歌には作者名も引用原典も記されていないが、土淵氏は「人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌であろう」という。

その理由のひとつは、棺の進路を城上としているが、人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌にも
「百済の原を通過して神さまとして葬って 城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさられた」とあるため、としておられる。

ただし、私は3324の歌が土淵氏がおっしゃるように、人麻呂が詠んだ挽歌かどうかは判断に迷ってしまう。
3324は城上から磐余にむかっている。最終到達地点は磐余のようによめる。
一方、199の柿本人麻呂が詠んだ高市挽歌は、百済の原から城上の宮に向かっていて、最終到達地点は城上となっているからだ。

土淵氏説のつづき。
彼はこの磐余(石村)を欽明天皇陵付近ではないかとされた。
その理由は
・欽明天皇陵の事を付近の人々は石山と呼んでいたと、幕末の蒲生君平が書いている。
・『日本古墳大辞典(東京堂刊)』は欽明陵の別称を石山・猿山としている。
・万葉集3324(長歌)で石村、と3325(短歌)で石村の山と詠んでいる。(原文は磐余ではなく石村となっているそうだ。)
石村の山が石山である。
・継体紀8年3月の条に、「村邑(ふれ)を剥掠(さきかす)む」とある。
「村邑(ふれ)」について『日本古典文学大系』には「古代朝鮮語」とある。
当時欽明天皇陵がある檜隈は渡来人の居住地で、葺石に覆われた欽明天皇付近の部落を「石村(いはれ)」と呼んだ。
(石村は「いしふれ」であったのが、転じて「いはれ」になったということか。)
・万葉学者は石村を「磐余」と訳した。
その理由は大津皇子が亡くなるときに詠んだとされる「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」の印象が強いせいだろう。
さらに、磐余は多くの天皇の宮都の所在地の地名であったことも原因だろう。(履中天皇・磐余椎桜宮、継体天皇・磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮)

しかし百済が百済大寺のあった吉備池廃寺跡であり、3324(長歌)と3325(短歌)が柿本人麻呂が詠んだ高市挽歌だとすると、
石村(いはれ)は吉備池廃寺跡付近の磐余と考えたほうがよさそうに私には思える。
ただし、土淵氏がこの本を書いたとき、吉備池廃寺跡は発掘調査されていなかったので、やむをえない点があると思う。

⑥城上は紀路のほとり?

・(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。(199)
城上(きのえ)の道から磐余に向かい
神さまとして埋葬したので(3324)

この城上は通説では広陵町にあるとしている。
なぜ広陵町とされたのか。それは先ほども述べたように、延喜式に「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡に在り。」と記されているためだ。

これについて土淵氏は次の様な理由で疑わしいとされている。
❶応神以前の記紀の記事が信憑性を欠くことは常識だが、延喜式は神武以降の天皇陵すべての所在地を示していて疑わしい。
❷三立丘は宮内省管理外で、数十年前ブルドーザーで削り取られ、消滅した。
❸延喜式が示す陵墓の兆域は広すぎて不自然。
❹広陵町から以降、遺物が出土していない。
❺百済大寺が明日香から遠い広陵町に移ったと考えるのは不自然。
※これについては、すでに述べたように、のちに吉備池廃寺跡が発掘調査されて百済大寺跡であることが濃厚になった。
また、百済大寺があるから地名が百済であったということもない。
百済という地名は各地にある。

しかし、土淵氏によれば、広陵町ではない、とする説もあるという。
たとえば、折口信夫は城上(きのへ)は明日香村木部(きべ)とする。

グーグルマップで明日香村木部と入力してもヒットしないが、
木部は藤原京の東京極である中ツ路と剣池をへて山田寺にいたる山田路が交差するあたり、ということである。

【追記】
飛鳥時代から残る古代官道。遣隋使とともに来日した裴世清が宮殿まで向かった道。

宮殿へと続いたこの道は、遣隋使と裴世清も通ったであろうか。石川池(剣池)や豊浦宮跡、雷丘と、山田道沿いにも、いにしえの飛鳥が偲ばれます。

https://asuka-japan-heritage.jp/suiko/spot/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%81%93/より引用


とあり、木部は 孝元天皇 劔池嶋上陵あたりだろうか。

土淵氏は「城上」を「紀州路のほとり」「紀路のほとり」とされる。

上記地図によれば、藤原京の西の下ツ道が紀路のようである。

土淵氏の『高松塚は高市皇子の墓』p35の地図では現在の近鉄吉野線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道を紀路とされている。


土淵氏が想定するルートは次のとおり。
奥山久米寺跡付近(百済)→欽明天皇陵付近の部落(石村)→城上(紀路)

しかし、百済を奥山久米寺跡あたりとする説の根拠であった、奥山久米寺跡=百済大寺とする土淵氏の説は
のちに吉備池廃寺跡の発掘調査によって、百済大寺跡であることが有力視されるので、通りそうにない。

もしも、高市皇子の遺体が、高市皇子の宮があった天香具山の西麓から、運ばれていったとすると
天香具山の西→東へ向かう→吉備池廃寺跡→西へ向かう→石村/欽明天皇陵付近→紀路と、わざわざ遠回りして運ばれていったことになる。
しかし、まったくありえないことではないだろう。
そして、紀路から東にそれて高市皇子は高松塚古墳に葬られたと土淵氏はいう。


高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑪消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき
へつづく~



高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑨歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと30歳以下の可能性は低いことを示した。※追記あり。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

高松塚古墳 光の地上絵 四神

高松塚古墳 光の地上絵 キャンドルで四神を描いたもの

弓削皇子は30歳以下で亡くなった。

弓削皇子の薨去年は699年だが、生年は不明である。
しかし、673年ごろに生まれたと考えられている。

弓削皇子は693年に同母兄の長皇子とともに浄広弐に叙せられている。
大宝律令の蔭位の制によれば、親の位階によってその子孫が21歳になったときに位が与えられることになっていた。

蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子となっている。

親王の子 → 従四位下
諸王の子 → 従五位下
五世王の嫡子 → 正六位上(庶子は一階を降す)

諸臣
一位の嫡子 → 従五位下
以下逓減して
従五位の嫡子 → 従八位上
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す)

つまり、弓削皇子は浄広弐に叙せられた693年、21歳だったと考えられる。
すると、693年-21歳=672年となるが、21歳というのは数え年だと思われる。
数え年とは生まれたときを1歳とし、元日に年齢をひとつ加算していく年齢のカウント方法である。
なので、弓削皇子の生年は672年+1歳=673年。
弓削皇子の薨去年は699年なので、699年-673年=26歳(数え年では27歳)となる。

⓶「被葬者が30歳以下の確率は約半分もある」は間違いだと思う。

島五郎氏は高松塚古墳の被葬者の年齢を次のように鑑定された。
骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

梅原猛氏はこの鑑定結果を「異議あり」とされている。

梅原氏は高松塚古墳の被葬者を弓削皇子ではないか、としておられるが、弓削皇子は30歳以下で亡くなったと考えらえている。
したがって、島五郎氏の鑑定結果が否定されなければ、梅原氏の説は認められないことになる。
そういう意味で、島五郎氏がどのように高松塚古墳の被葬者の年齢を鑑定したのか、
梅原氏はどのような理由で島氏の鑑定を「異議あり」としたのか。
これは大変重要なところである。

梅原氏が創元社刊『高松塚壁画古墳』170pから引用されている島氏の鑑定は次のような内容である。

❶骨盤があればほぼ確実に性を決定できるのだが、小さな破片しか残っていなかった。

❷四肢骨は非常に太く、上腕骨の三角筋粗はよく発達し、その他の骨も筋肉付着部のきめがあらいことから、筋骨の発達良好な男性と考えられる。

❸歯は下顎の第三大臼歯が2本、小臼歯1本。

❹歯の咬耗度は、エナメル質全面にわたるものおよび象牙質が点状また線状に露出する程度。
歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。

❺第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳と広いため、年齢推定はむずかしい。

❻咬耗度は2度。(6~8年程度で2度になる。)

これに対する梅原氏の反論。

❹❺❻から年齢推定は次のようになる。(16歳~30歳)+(6年~8年)=(16歳+6年)~(30歳+8年)=22歳~38歳
平均すると30歳。
30歳以下の確率は約半分もある。
そうであるのに、島氏は「❹歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。」としておられて矛盾している。

年齢を書きだしてみよう。
22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳、30歳、31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳
これらの年齢のちょうど真ん中が30歳となる。
そして30歳未満の年齢は22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳で8つ。
30歳超の年齢は31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳で8つ。
それで梅原氏は30歳以下の確率は約半分もある、とおっしゃったのだろう。

私は理数系が苦手なので自信がないが(汗)、梅原氏のように考えるのではなくて、
それぞれの年齢で第三大臼歯が生えてくる割合を考慮する必用があるのではないだろうか。

仮に(実際の数字ではない)
❶16歳から20歳で第三大臼歯がはえてくる人の割合を10%、
❷21歳から25歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合80%
❸26歳から30歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合を5%
としよう。

10%+80%+5%=95%で100%にならないような数字にしたのは、大三大臼歯は親知らずであり、生えてこない人もいるからである。

咬耗度が人によって大きな違いはないと仮定し、6~8年で咬耗度が2度になるということは
❶(16歳+6年)~(20歳+8年)=22歳~28歳 10%
❷(21歳+6年)~(25歳+8年)=27歳~33歳 80%(❹仮に27歳~30歳20%、❺30歳~33歳60%とする。)
❸(26歳+6年)~(30歳+8年)=32歳~38歳 5%

この場合、被葬者が30歳以下である確率は❶+❹で30%となるのではないだろうか。

③島氏は第二臼歯と第三臼歯の両方の可能性を示している。

以下は梅原氏の『黄泉の王』に引用された『調査中間報告書/橿原考古学研究所』における島氏の発言をまとめたものである。

歯牙による推定年齢
残存歯牙大臼歯2、小臼歯1
・下顎右側大臼歯は第一大臼歯ではない。第三大臼歯と考えているが、第二大臼歯かもしれない
 咬耗はエナメル質のほぼ全面に及ぶ 象牙質がゴマ粒大、より小さい点状大の二か所で露出
・上顎左側大臼歯は第三大臼歯。
 咬耗はエナメル質全面 象牙質の露出なし象牙質露出直線の状態

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

     下顎第2大臼歯  下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%

・第2第3臼歯の咬耗が、エナメル質全面に亘るもの、象牙質が点状、線状に露出するものの頻度は、20~29歳群では高くない。
・このような咬耗度をもつ大臼歯による推定年齢の変異幅は広い。
・萌出年齢の変異幅の広い歯牙(第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳)
・大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる)

これに対する梅原氏の反論

❶『中間報告書』と『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』で歯の種類が異なっている。

『中間報告書』・・・・下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)1
           上顎左側大臼歯は第三大臼歯 1
           小臼歯1                       
『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』・・・下顎の第三臼歯2、
                 (第3臼歯は左右一本づつなので、左右の第三臼歯があるということだろう。)
                  小臼歯1

❷下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)
とあるが、歯を特定しなければ年齢の鑑定がかわってくる。
第二大臼歯(15歳ぐらいまでにはえる)と第三臼歯(親知らずなので、16歳~30歳くらいではえてくる。)

『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』は未確認だが、梅原氏のいうとおりであれば、
梅原氏の❶の指摘はそのとおりだ。

もしも、『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』の記述が正しいのであれば、島氏は『中間報告書』の記述は「誤りであった」と一言書いておくべきだったかもしれない。

❷もそのとおりだが、島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

 下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
     
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%


島氏は高松塚古墳の被葬者の下顎大臼歯を「象牙質が点状または線状に露出」した状態であり、
この下顎大臼歯が第2大臼歯の場合、20~29歳である確率は14%、第3大臼歯の場合0%ですよ、
と言っているのである。

つまり、第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと、いずれにしても30歳以下の可能性は少ないと島氏はおっしゃっているのである。

梅原氏のように「歯を特定しなければ年齢の鑑定がかわってくる。」というのは、少々かたくなすぎる態度の様にも思える。


大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる?

上緑色の文字で示した表「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」のデータ元は
栃原博氏が昭和32年に熊本医学科雑誌に発表した「日本人歯牙の咬耗に関する研究」にある表である。

私は図書館で『中間報告書』を借りることができたのだが、このp193で島氏は
「i  第2、第3大臼歯と年齢の関係は次表のとおりである。(栃原、昭、32)」と記しておられる。

ただし、梅原氏によれば、島氏の表の「象牙質が点状または千状に露出」の数字は栃原氏の表では「3段」の数字
島氏の表の「エナメル質全面にわたる」の数字は栃原氏の表では「4段」の数字である。

3段とか4段というのは、歯の咬耗度を表す数値で、無咬耗から7段までの8段階になっている。
つまり、島氏の表にある「象牙質が点状または千状に露出」は「3段」の咬耗度、
「エナメル質全面にわたる」は「4段」の咬耗度というわけだ。島氏の表に咬耗度を書き入れてみよう。(太字)

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

 下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
     (咬耗度3段)               (咬耗度4段)
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%           55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%           30.4%

そして、梅原氏は次の様に推測されている。

島氏は、上顎の大臼歯を咬耗度3段としたのだろう。
上顎大臼歯咬耗度3段は、20~29歳では19.6%。

下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。
第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%
ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ないとしたのだろうと。

これは私が③で「島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。」と書いたのと同じことである。

その上で、梅原氏は島氏を次のように批判した。

❶歯の鑑定が不安定。(第二大臼歯か第三大臼歯か不明)
❷島氏が栃原氏の八段階の鑑別を正確に行ったか不明。
❸栃原氏の調査は現代日本人のものであって、飛鳥時代の人間にあてはめることができるのか。
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

❶については、③で述べたように、島氏は『中間報告書』で、歯が第2大臼歯か第3大臼歯か特定できないから、
第2大臼歯と第3大臼歯の両方の30歳以下の確率を示したのであり、それ以上しようがないと思う。
ただ、その後『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』において、島氏は「下顎の第三大臼歯2」と特定し、
『中間報告書』での記述(下顎の第3大臼歯または第2代臼歯)と異なった鑑定結果になってしまっていることが、梅原氏の不審を招いているように思える。
❸もその通りだと思う。
❷は島氏の説明不足だろう。

❹はわからない。

とすれば、緑色のグラフはどうなるだろうか。
20~29歳で咬耗度3段(象牙質が点状または線状に露出)は、下顎第2大臼歯14.3% 下顎大3臼歯 0.% となっているのが、さらに数字が小さくなり、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

④マイルズの研究

『中間報告書』p193で島氏は次のように記しておられる。

ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。

梅原氏によると、マイルズの研究は次のようなものである。

マイルズはイギリスの古い墓地から鑑定可能と思われる157体を選び、年齢推定を試みた。
第3大臼歯が生えるのを18歳とし、18歳以下と思われる38体を選び出して咬耗度を調べた。
彼らはほぼ同一人種。食べているものもほぼ同じ。
第1大臼歯は約6歳、第二大臼歯は約12歳、第3代臼歯は約18歳で生える。
マイルズは大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗すると考えるが、奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。
その比率は、だいたい7:6.5:6。
すると18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳になる。
ただし、この計算は他の骸骨の集合体には使えない、考古学的素材には使えない。

この計算の意味がどうしても理解できない。お手上げ状態である。(汗)
おまけに、図書館で借りていた『黄泉の王』はいったん返却する必用が生じて、いま手元にない。
とりあえず、マイルズの研究については宿題としておく。

※追記

「18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳」という計算がどうしてもわからなかい。
その理由は「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」をどのように計算したらいいか、わからないからだ。

とりあえず「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」はを無視して、「大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗する」とし、仮に

消耗していない場合の消耗度を0
6年で咬耗する度合いを1
12年で咬耗する度合いを2

として考えてみた。

18歳の人の場合、
第三大臼歯は生えたばかりで、咬耗していないので、咬耗度0
第二大臼歯は12歳ではえ、6年経過しているので消耗度1
第一大臼歯は6歳で生え、12年経過しているので消耗度2

       第一大臼歯   第二大臼歯     第三大臼歯
a18歳の人   6歳で生える 12歳で生える    18歳で生える
        咬耗度2   咬耗度1      咬耗度0

b?歳の人            咬耗度2    咬耗度1
             12歳ではえて12年経過 18歳ではえて6年経過

するとbの年齢は24歳となる。 

「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」
ということは、奥に行くほど、消耗にかかる期間が短くなるという事なので、bは24歳よりも若干若いかもしれない。

梅原氏は「マイルズの報告書には島氏が言うような『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である』という言葉はない」という。

確かに、マイルズの研究が梅原氏の引用のとおりであれば、そんなことは言っていない。

ただ、島氏は「ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。
この歯牙昨日年数に基く推定年齢も亦栃原成績から得た結果と一致する。」と言っている。

栃原成績から得た結果とは、上に緑色文字で示した「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」の表のことである。
マイルズが梅原氏が主張されているように「『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である」と言っていなかったとしても、すでに記したように
栃原成績が「下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%。ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ない」とでている。

これも繰り返しておくが、梅原氏は
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

とおっしゃっているが、咬耗にもっと時間がかかるとすると、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

まとめとしては、島氏の歯による年齢鑑定には、わかりにくい点がある。
また第2大臼歯か第3大臼歯か特定できていないが、島氏は栃原氏の研究にあてはめて歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうといずれにしても30歳以下の可能性は低いことを示した。
しかし、これは現代人のデータによるものであり、飛鳥時代の人物に用いることができるかどうかは、検討の余地がある。
そういう事になると思う。
 へつづきます~


高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑧高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳壁画 女子群像

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

①高松塚古墳は藤原京時代に皇子を葬ったもの?(直木孝次郎氏説)

梅原猛氏は著書『黄泉の王』の中で、直木孝次郎氏の『高松塚古墳の被葬者=忍壁皇子説』についてふれておられる。
それによれば、直木氏の説は次のようなものである。

・聖なるライン上にある。→ 藤原京時代にできたもので、天皇の皇子が被葬者ではないか。
              天武・持統・文武三天皇の近親者の可能性が高い。
              古墳の造営時期は藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)まで。

※前回説明したように、「聖なるライン」は藤原京を最北とし、その南に
菖蒲池古墳
野口王墓(天武・持統陵)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)
高松塚古墳
キトラ古墳

がほぼ一直線上に存在している。(多少のずれはある。)

※キトラ古墳については梅原猛氏の『黄泉の王』が著された当時、存在が周知されていなかったと思われる。

※藤原京から「聖なるライン」を北に延長すると御廟野古墳(天智天皇陵)があるのだが、これも当時認識されていなかったと思われる。

※持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年12月だが、690年12月に『宮地を観(みそなは)す』とあり、新京の視察が行われたと考えられる。このとき天武陵はできていたはず。(天武は686年に崩御)

聖なるライン説は藤原京ができて、その朱雀大路の南に天武・持統陵、文武陵、菖蒲池古墳ができたと考えるべきなので矛盾が生じる。
天武陵の北に藤原京ができたとすれば、天武帝の死のとき藤原遷都の計画ができていたと考えるべき。(岸俊夫氏説)

・梅原氏は上の岸氏の説は成立しないと考える。その理由は文献がなく、天武死後すぐに遷都計画が立てられたとは考えられないため。(しかし実際に古墳は聖なるライン上に並んでいるので、私はあり得ると思う。)

高松塚古墳

高松塚古墳

⓶高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)

高松塚古墳の造営時期を藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)までとすると、被葬者の候補としては、大津皇子・草壁皇子・川島皇子・高市皇子・弓削皇子・忍壁皇子などがあげられる。
直木氏は、この中から、大津・川島皇子を以下の理由で除外した。()は薨去年。

大津皇子(663-686)/年が若く、謀反の罪で処刑されているので除外。
川島皇子(657-691)/越智野(高市群高取町超智のあたりか)に葬られている。
高市皇子(654?-696)/壬申の乱の勇将だが、広瀬群(現在の北葛城郡)に墓があること記載されている。

直木氏はこうして、草壁皇子・弓削皇子・忍壁皇子の3人にしぼり、それから島五郎氏による骨や歯の鑑定結果を考慮された。
直木氏が考慮された島五郎氏の鑑定結果は次のとおり。
骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

草壁皇子(622-689)/28歳で薨去
弓削皇子(673?ー699)/30歳未満で薨去

となって、直木氏は草壁皇子・弓削皇子を省き、残った忍壁皇子(?ー705)を高松塚古墳の被葬者ではないかとした。

また直木氏は忍壁皇子について、次のような内容を語っておられるという。
・忍壁皇子(天武の子)は壬申の乱では兵を率いて活動したという記述はない。壬申の乱のとき19歳だった高市皇子より年下だろう。
・天武崩御(686)後、忍壁皇子は文武天皇4年〈670?)にやっと登場する。
このとき、大津・高市・川島はすでに亡くなっていたので、忍壁の地位は宮中第一。
持統期に姿を見せないのは、草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)のライバルとして持統に忌避されていたからではないか。
しかし、文武が無事即位したので、警戒をといたのでは。

梅原氏は、直木氏が考慮された次の島五郎氏の鑑定結果を「異議あり」とされている。

骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

梅原氏は高松塚古墳の被葬者を弓削皇子ではないか、としておられるが、彼の意見はあまり支持されていない。
ウィキペディアにも次の様に記されている。

弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。

したがって梅原氏が『島五郎氏の鑑定結果を「異議あり」とされた理由』は、高松塚古墳の被葬者=弓削皇子説を考えるうえで非常に重要である。

記事が長くなりそうなので、これについては次回。



高松塚古墳 飛鳥美人 光の地上絵

高松塚古墳 光の地上絵 キャンドルを並べて高松塚古墳壁画の女子群像を描いたもの




まとめ 高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)
直木孝次郎氏の『高松塚古墳の被葬者=忍壁皇子説』
・聖なるライン上にある。→ 藤原京時代にできたもので、天皇の皇子が被葬者ではないか。
              天武・持統・文武三天皇の近親者の可能性が高い。
              古墳の造営時期は藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)まで。
持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年12月だが、690年12月に『宮地を観(みそなは)す』とあり、新京の視察が行われたと考えられる。このとき天武陵はできていたはず。(天武は686年に崩御)
・聖なるライン説は藤原京ができて、その朱雀大路の南に天武・持統陵、文武陵、菖蒲池古墳ができたと考えるべきなので矛盾が生じる。
・天武陵の北に藤原京ができたとすれば、天武帝の死のとき藤原遷都の計画ができていたと考えるべき。(岸俊夫氏説)
・天武死後すぐに遷都計画が立てられたとは考えられないので岸氏説は成立しない。(梅原猛氏説)
(しかし実際に古墳は聖なるライン上に並んでいるので、天武死後すぐに遷都計画がたてられたかもしれない。)
高松塚古墳の造営時期を藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)までとすると、
被葬者の候補としては、大津皇子・草壁皇子・川島皇子・高市皇子・弓削皇子・忍壁皇子
直木氏は、この中から、大津・川島・高市皇子を以下の理由で除外した。()は薨去年。
大津皇子(663-686)/年が若く、謀反の罪で処刑されているので除外。
川島皇子(657-691)/越智野(高市群高取町超智のあたりか)に葬られている。
高市皇子(654?-696)/壬申の乱の勇将だが、広瀬群(現在の北葛城郡)に墓があること記載されている。
直木氏はこうして、草壁皇子・弓削皇子・忍壁皇子の3人にしぼり、それから島五郎氏による骨や歯の鑑定結果を考慮された。
・直木氏が考慮された島五郎氏の鑑定結果は次のとおり。
骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳
草壁皇子(622-689)/28歳で薨去
弓削皇子(673?ー699)/30歳未満で薨去
直木氏は草壁皇子・弓削皇子を省き、残った忍壁皇子(?ー705)を高松塚古墳の被葬者ではないかとした。
・忍壁皇子(天武の子)は壬申の乱では兵を率いて活動したという記述はない。壬申の乱のとき19歳だった高市皇子より年下だろう。
・天武崩御(686)後、忍壁皇子は文武天皇4年〈670?)にやっと登場する。
このとき、大津・高市・川島はすでに亡くなっていたので、忍壁の地位は宮中第一。
持統期に姿を見せないのは、草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)のライバルとして持統に忌避されていたからではないか。
しかし、文武が無事即位したので、警戒をといたのでは。


高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⓻描かれなかった朱雀と北斗七星、頭蓋骨のない人骨 ※追記あり 8月18日

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

①聖なるライン

梅原猛氏は『黄泉の王』p16あたりで、岸俊夫氏が最初に発見した聖なるラインについて述べておられ、
p9に掲載した「飛鳥と藤原京周辺地図」には「聖なるライン」が書き込まれている。
藤原京の中央を南北に延びる朱雀大路の延長線上に、おおくの古墳が存在しており、「聖なるライン」と呼ばれているのだ。

「飛鳥と藤原京周辺地図」に描かれた「聖なるライン」は、藤原京を最北とし、その南に

菖蒲池古墳
野口王墓(天武・持統陵)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)
高松塚古墳
キトラ古墳

がほぼ一直線上に存在している。(多少のずれはある。)

うち野口王墓(天武・持統陵)、中尾山古墳(文武天皇陵)などの古墳が天皇陵と考えられることから、
聖なるライン上に存在する高松塚・キトラ古墳も皇族の墓ではないかと考える研究者が多い。

この時代の天皇陵は八角墳であることが多い。
野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)も八角墳であるし
八角墳の牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女の合同陵が確実視されている。
天皇ではないが、草壁皇子の古墳である可能性の高い束明神古墳、天智天皇陵であることが確実視されている御廟野古墳も八角墳である。

高松塚・キトラ古墳は八角墳ではなく二重円墳なので、天皇陵ではないと見られている。
天皇ではない皇族の墓ではないかという意見が多い。

⓶聖なるラインの最北は天智天皇陵

それはそうと、私にはこの聖なるラインについて気になることがある。

聖なるラインを藤原京から北に延長していくと、平城京を横切る。
平城京からさらに北に延長していくと、京都山科の御廟野古墳(天智天皇陵)にいきつくことが、近年指摘されている。

つまり、聖なるラインの最北は藤原京ではなく、御廟野古墳(天智天皇陵)だったのだ。

古代の人々が、このように古墳を配置した意図は何だろうか?
それがわかれば、高松塚・キトラ古墳の被葬者の特定に一歩近づくと思うのだが。

これにについて、いくつか推測してみよう。

❶藤原京の南は天武天皇または天武天皇の子孫の古墳を配置し、藤原京の北には天智天皇または天智天皇の子孫の古墳を配置したのではないか。

このように考えてみたのは、天智天皇の子の大友皇子の墓が滋賀県にあるからだ。(園城寺亀丘古墳)
だが、大友皇子の墓とされる園城寺亀丘古墳は聖なるライン上にはない。
また天智天皇の子の墓と思われる古墳は藤原京の南にもある。
・大田皇女・・・藤原京の南、牽牛子塚古墳に隣接する越塚御門古墳が確実視されている。
・持統天皇・・・天武天皇とともに野口王墓に埋葬されている。
・志貴皇子・・・田原西陵 ※ただし、京都府宇治田原に陵墓があったとも伝えられている。

田原天皇旧跡2

田原天皇社舊(旧)跡

❷天智天皇を最上位とするため聖なるラインの最北に天智天皇陵を作った。
「天子南面す」といい、北は天子の位置とされる。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

誰が天智天皇陵を聖なるラインの最北に作ったのか。
私は藤原不比等(659-720年)が天智天皇陵造営に関係しているような気がする。

不比等は中臣(藤原)鎌足の子とされるが、本当は天智天皇の落胤であるとの説がある。
『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。
藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。
その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等であると。

これが事実かどうかわからないが、藤原氏は事実だと考えていたのではないかと思う。

奈良時代、天武系の天皇は絶えてしまって、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。
光仁天皇の次代には光仁天皇の子の桓武天皇が即位し、平安京に遷都する。
以後、ずっと天智系天皇が続いていることになる。

なぜ桓武天皇は平安京に遷都したのか。
そこには天武系天皇の都である平城京を捨て、藤原氏の先祖である天智系天皇の都を新たに作ろうとする藤原氏の意図が働いてはいたのではないか。

さらには自分達の先祖である(と彼らが信じている)天智天皇の陵も聖なるラインの最北につくったのではないか?

③描かれなかった朱雀と北斗七星、剥ぎ取られた日像・月像・玄武

高松塚古墳壁画について、梅原氏は次の様な意味の事を述べておられる。

❶四神について。
・「方に今、平城の地は四禽図に叶ひ・・・」と和銅元年の奈良遷都の詔にある。
「四禽図に叶ひ」とは四神が四方からこの都を守っているという意味だろう。
・四神思想の原典は礼記であり、天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。
・君主は天の世界の支配者でもある。
・四神に守られたものが天皇。(p19)
・高松塚には四神のうち朱雀が欠如している。
雨漏りによる剥落であれば跡形くらい残りそうだが残っていないとしたら、最初から朱雀はなかったのではないか。
・玄武の蛇と亀の顔が人為的に取り去られている。

玄武

高松塚古墳 玄武 (高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

❷日像、月像、星宿について。
・日と月の金銀箔がはぎとられている。

高松塚 日像

高松塚 日像(高松塚壁画館似て撮影)

高松塚 月像

高松塚 月像(高松塚壁画館似て撮影)

・天井の二十八宿は中心の北斗七星が欠落している。

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)

❸人物像について。
・貞観儀式に記されている朝賀の儀式の図と一致(岸氏の見解)(p25)
高松塚 持ち物1

高松塚 持ち物3

高松塚 持ち物2

高松塚 持ち物4

私は「南壁の朱雀は最初から描かれていなかった」という梅原氏の意見に賛成である。

高松塚古墳壁画_(複製)

北側玄武はこのように、壁のほぼ中央に描かれているので、朱雀も同じぐらいの位置に描きそうなものである。

朱雀は初めから描かれていなかった?

上の写真は高松塚北壁に盗掘穴をあけられた高松塚南壁を透明にして重ねたものである。
北壁の玄武像は盗掘穴の下にすっぽり隠れてしまう。
南壁の朱雀も描かれていたとするならば、玄武と同じくらいの位置に描かれていて、盗掘穴の下に絵が残ったのではないだろうか。
それがないということは、梅原氏がおっしゃるとおり、初めから描かれていなかったように思われる。

追記
朱雀が描かれていた場所については上に書いた通りだが、どうも盗掘穴があけられた際に、北壁の漆喰がはがれおちてしまい、その結果、漆喰の上に描かれていたと考えられる朱雀が失われたと考えられているようだ。
梅原氏は朱雀が描かれていたのならば、顔料ぐらいは残りそうだとおっしゃっているが、どうだろうか。
今後の研究をまちたいと思う。


「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
古代中国で指南車が作られ、指北車が作られなかったのは(人形の向きを変えるだけで指北車はつくれる)、そのような思想に基づくものだと思う。


④不完全な三種の神器と頭蓋骨のない人骨

高松塚古墳の被葬者の人骨については、頭蓋骨と下顎骨の破片も発見されていないことに梅原氏は注目しておられる。
骨を鑑定した島五郎氏によれば、頭蓋骨につづく舌骨、化骨甲状軟骨、前頸椎は残っているので斬首はありえないということである。

副葬品は海獣葡萄鏡、刀身を欠く剣の金具、玉などが発見された。

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚出土 海獣葡萄鏡

太刀パーツ

高松塚出土 太刀の部品

梅原氏はこれは三種の神器ではないのか、とおっしゃっている。

被葬者は朝賀の儀式を行っている中で眠っている。
しかし、被葬者には頭蓋骨がなく、天には北斗七星がなく、南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができない。
正当な皇位継承権を示す三種の神器もあるが、太刀には刀身がない。

盗掘されたのだろうか。
梅原氏は『頭蓋骨を取るなどということがはたしてありえようか。(p38より引用)』と書いておられるが、
頭蓋骨は結構盗まれていたということを、何かの本で読んだことがある。
頭蓋骨ードクロは呪術の道具として需要があったそうなのだ。
江戸時代に消滅したとされる真言立川流では、ドクロに漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊をつくったという。
この髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏が命を以って語り出すとかなんとか。
そしてこの髑髏本尊を作るためには身分の高い人のドクロが効力が高いとされていたというのだ。

日像・月像・玄武の剥落は盗賊が驚いてこれらをつぶしたという説があるが、梅原氏も「死体をあばく盗賊がどうして玄武の柄などに恐怖をもとう。(p39)と指摘されているように、これは変な話だ。
梅原氏は「また日月は金箔、銀箔をはがすためだという人があるが、金箔・銀箔は日月より天井により多く貼られているではないか。(p39)とおしゃっているが、私は金箔銀箔をはがすためというのは否定できないと思う。
天井の金箔をはがすために腕を上にあげるのはきつい作業になる。壁の金箔をはがす方が作業は楽そうだ。

同様の星宿図については、トルファン・アスターナ古墳でも発見されているが、やはり中央に描かれる北斗七星を欠いているので、高松塚のものが特別異常だとはいえないかもしれない。
https://www.oit.ac.jp/is/shinkai/Papers/0803kawazu.pdf

追記
トルファン・アスターナ古墳の星宿図の左上に8つの星で構成される柄杓の形をした星宿があるが、高松塚古墳星宿図では同じぐらいの位置に6つの星で構成される斗がされる描かれている。
これは北斗七星とは別の星から構成される星宿である。
従って、アスターナ古墳も北斗七星を欠くといえるかもしれず、高松塚古墳の星宿が異常かどうかは慎重に判断する必用がありそうである。

梅原氏は、「死体には最初から頭蓋骨が無く、日月玄武は最初から傷つけられていた」
そしてその理由は「死体を蘇らせないため」だと考えておられる。



【まとめ】聖なるライン、高松塚の四神、日像、月像、北斗七星のない星宿図、頭蓋骨のない遺骨、刀身を欠く剣
①聖なるライン 北から順に
天智天皇陵
平城京
藤原京
菖蒲池古墳
小山田古墳 (蘇我蝦夷の墓か?)
野口王墓(天武・持統陵)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)
高松塚古墳
キトラ古墳

②野口王墓(天武・持統陵)、中尾山古墳(文武天皇陵)などの古墳が天皇陵と考えられることから、
聖なるライン上に存在する高松塚・キトラ古墳も皇族の墓ではないかと考える研究者が多い。

③この時代の天皇陵は八角墳であることが多い。
野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)牽牛子塚古墳(斉明天皇と間人皇女の合同陵)草壁束明神古(草壁皇子の墓か)御廟野古墳(天智天皇陵)などいずれも八角墳。

③高松塚・キトラ古墳は八角墳ではなく二重円墳なので、天皇陵ではないと見られている。
天皇ではない皇族の墓ではないかという意見が多い。

④天智天皇を最上位とするため聖なるラインの最北に天智天皇陵を作ったのではないか。
「天子南面す」といい、北は天子の位置とされる。

⑤672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱(天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の同母弟・大海人皇子)
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年。
藤原不比等(659-720年)が天智天皇陵造営に関係しているのではないか。
不比等は中臣(藤原)鎌足の子とされるが、本当は天智天皇の落胤であるとの説がある。
『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。
藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。
その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。これが藤原不比等であると。

奈良時代、天武系の天皇は絶えてしまって、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。
光仁天皇の次代には光仁天皇の子の桓武天皇が即位し、平安京に遷都、以後、ずっと天智系天皇が続いている。
天武系天皇の都である平城京を捨て、藤原氏の先祖である天智系天皇の都を新たに作ろうとする藤原氏の意図が働いてはいたのではないか。
さらには自分達の先祖である(と彼らが信じている)天智天皇の陵も聖なるラインの最北につくったのではないか?

⓻「方に今、平城の地は四禽図に叶ひ・・・」と和銅元年の奈良遷都の詔。
四神思想の原典は礼記。
天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。
高松塚には四神のうち朱雀が欠如している。
雨漏りによる剥落であれば跡形くらい残りそうだが残っていないとしたら、最初から朱雀はなかったのではないか。(梅原氏)これについては今後の研究を俟ちたいと思う。

⑧玄武、日像、月像が人為的に取り去られている。
盗賊が驚いてこれらをつぶしたという説があるが、梅原猛氏も「死体をあばく盗賊がどうして玄武の柄などに恐怖をもとう。(p39)と指摘されているように、変な話。
日像、月像がとりさられたのは金箔・銀箔をはがすためというのはありそう。
天井の星に貼られた金箔ははがされていないが、腕を上にあげるのはきつい作業になる。壁の金箔をはがす方が作業は楽そうだ。

⑨天井の二十八宿は中心の北斗七星が欠落している。
のちの記事に書いたが、北斗七星がないのが異常かどうかは慎重に検討する必用がある。

⓾貞観儀式に記されている朝賀の儀式の図と一致(岸氏の見解)

⑪高松塚古墳の被葬者の人骨については、頭蓋骨と下顎骨の破片も発見されていない。
頭蓋骨につづく舌骨、化骨甲状軟骨、前頸椎は残っているので斬首はありえない。(骨を鑑定した島五郎氏による。)
頭蓋骨は呪術の道具として結構盗難にあっていたという。真言立川流では、ドクロに漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊をつくった。髑髏本尊を作るためには身分の高い人のドクロが効力が高いとされていた。

⑫副葬品は海獣葡萄鏡、刀身を欠く剣の金具、玉など。