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トンデモもののけ辞典131 鞍馬天狗

勝川春亭画による鞍馬山僧正坊。

勝川春亭画による鞍馬山僧正坊

①鞍馬天狗

鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。
牛若丸(のちの源義経)に剣術を教えたという伝説で知られる。鬼一法眼と同一視されることがある。
鞍馬寺の鞍馬天狗
鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が、鞍馬山僧正坊を配下に置くとする。または、鞍馬山僧正坊と同一視する。この教義が現在の形となったのは、鞍馬弘教が天台宗から独立した1949年以降である。

鞍馬天狗

鞍馬天狗 鞍馬駅前には巨大な鞍馬天狗の面が置かれている。

⓶鞍馬寺は紀氏の神を祀る寺?

鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられている。
796年、藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。
※鞍馬寺から貴船神社までは山道を歩いて30分ほどである。

貴船

貴船神社

貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっている。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られている。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思う。

ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっている。
平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てた。
貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神のようだ。
すると、貴船の神に命じられて創建された鞍馬寺もまた紀氏の神を祭る寺だと考えられる。

鞍馬寺 雪

鞍馬寺

③伏見稲荷大社と藤森神社の確執

鞍馬寺の創建説話に登場する藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)の聖没年は759年~827年。
藤原南家の藤原巨勢麻呂の七男である。
藤原伊勢人は鞍馬寺を創建したのと同年の796年に東寺を創建したとも伝わる。
この東寺の鎮守は伏見稲荷大社である。

東寺

東寺

伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社があるが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされる。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したという。
そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子なのだそうだ。

藤森神社

藤森神社

藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返す。

こんな話が伝えられている。

稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言った。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りた。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っている。

伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられている。

⑤空海のもとにやってきた紀州の神

『稲荷大明神流記』には次のように記されている。

816年、紀州国熊野で空海は神に出会い、神にこういった。
『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。東寺であなたをお待ちしています。』
823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。

空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないだろうか。

⑥伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?

伏見稲荷大社

伏見稲荷大社

伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っているが
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだという。(式内社調査報告)
五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神である。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国(紀州)に祀られている神とある。
 また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとある。
そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としている。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されているが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのだろう。
そして紀州は紀氏の本拠地だった。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられる。

伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということだろうか。

和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれている。

⑦秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?

空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしている。
高さ54.8mの東寺の五重塔の心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないだろうか。
『稲荷大明神流記』では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっている。
それ以前の稲荷山には紀氏の神を祀る神社があったはずだ。

伏見稲荷大社の創建説話では秦伊侶具が711年に矢を射たとあるが、これはウソっぽい。その理由↓

空海の俗名は佐伯真魚という。
そして伏見稲荷大社の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読むが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もある。
さらに空海は秦氏だとする説もある。
私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思う。
空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?

⑧藤原伊勢人は架空の人物?

東寺の記録書『東宝記』には「796年、藤原伊勢人が造寺長官となって東寺を建立した」とあるが
藤原伊勢人は公式の史書や系譜にはその名前がなく、架空の人物だとする説がある。
私は藤原伊勢人という人物は架空の人物であり、鞍馬寺はもともとは紀氏の神を祀る貴船神社と関係のある寺ではないかと思う。

⑨護法魔王尊は鞍馬天狗?

鞍馬寺の本尊はもともとは毘沙門天(北方を守護する仏)で、併せて千手観世音を祀っていた。
しかし、1947年から1949年にかけて鞍馬弘教として天台宗から独立すると、本尊は尊天とされた。
尊天とはし中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊の三身を一体とした仏である。
鞍馬寺の護法魔王尊の御前立の写真がリンク先に掲載されている。https://www.jisyameguri.com/chiiki/kyoto/kuramadera/
額に修験道の兜巾をつけ、背中には羽根があり、鼻が長かったり、嘴があるということはないが、天狗の姿に似ている。
護法魔王尊とは鞍馬天狗のことではないだろうか。

天狗

⓾鞍馬天狗の信仰はいつからある?

護法魔王尊像はいつから鞍馬寺に安置されているのだろうか。
それについては調べてみたがわからなかった。

それでは鞍馬天狗の信仰はいつからあるのか。

南北朝時代あるいは室町時代初期の作と考えられている『義経記』には鬼一法眼が登場する。
(法眼は僧侶に対する尊称)

義経は鞍馬山を出て奥州へ下るも、再び都へ上り、一条堀河に住む陰陽師・吉岡鬼一法眼が持つ兵法書『六韜 』をしり、鬼一に入門を願い出るが断られてしまう。
そこで義経は、鬼一の三の姫を誘惑し、姫に兵法書を盗ませた。
鬼一は激怒し、義経を討とうとしますが果たせず、義経に去られた姫は嘆き悲しんで死んでしまった。

室町時代には能『鞍馬天狗』が成立している。

鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいる中に、見知らぬ山伏がおり、僧たちは山伏を嫌がって稚児一人を残して去ってしまう。
稚児は山伏に優しく声をかけたので、山伏は稚児に恋をし、また稚児が牛若丸であることに気づく。
牛若丸は「ほかの稚児は平家一門で大事にされているが、、自分はないがしろにされている」といい、山伏は同情して牛若丸に近隣の花見の名所を見せる。
山伏は自分が鞍馬山の大天狗であるといい、さらに兵法を伝授するので平家を滅ぼすようにと牛若丸に告げた。

どうやら義経記(南北朝時代あるいは室町時代初期)に登場する鬼一法眼が、能・鞍馬天狗(室町時代)では鞍馬天狗に変化したようである。
鞍馬天狗の信仰が生じたのは室町時代だろうか。

⑪鞍馬の火祭はカシオペア座の神・藤原純友の祭礼だった?

なぜ鬼一方眼の伝説が鞍馬天狗信仰に変化したのか。
私は過去に天狗に関する記事をいくつか書いている。


これらの記事の中で、私は一貫して天狗とは流星または火球、彗星だと述べた。
そして鞍馬寺にも星に対する信仰があったふしがある。

10月に行われる鞍馬の火祭は鞍馬寺境内にある由岐神社の祭礼である。
940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。
遷宮の理由として、939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがあったとする記事もあった。
由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及んだ。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれている。

平将門は940年2月14日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきた940年9月9日(旧暦)ときすでに平将門の乱は鎮圧されていた。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていなかった。

由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないかと思う。

藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こした。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわからないが、鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?

鞍馬の火祭り

941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破った。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡した。

由岐神社は靭(ゆき)明神とも呼ばれているが、靭は矢を入れる道具であり、「うつぼ」ともよむ。
ウツボという魚もいるが、凶暴な魚で『海のギャング』とも言われる。
ウツボは海賊の首領だった藤原純友のイメージにぴったりだと思うが、いかがだろうか?
由岐神社=靭明神とは魚のウツボの神でもあり、藤原純友のことではないかと思う。

藤原純友は日振島を本拠地としていたが、日振島はwの形をした島である。



そのWの形はカシオペア座ににている。

そして鞍馬の火祭では深夜チョッペンの儀が行われる。
チョッペンの儀とは二人の青年が脚を上向けに開脚して2つのV字形=W字形を作るというものである。

 

宮崎地方で天辺(てっぺん)のことをチョッペンというそうである。
かつて日振島あたりでも天辺のことをチョッペンと言っていたのではないだろうか。
天辺とは「空のはて」「上空」という意味である。

チョッペンは藤原純友の本拠地・日振島をあらわすと同時に、上空にあるカシオペアをもあらわしているように思える。

詳しくはこちらの記事をお読みください。


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