①黒手
❶黒手は能登(現在の石川県)戸板村に現れた妖怪。(『四不語録』6巻「黒手切り」浅香山井)
❷慶長年間のこと。笠松甚五兵衛宅で、甚五兵衛の妻が便所で何者かに尻を撫でられる。
甚五兵衛が刀をもって便所に入ると、毛むくじゃらの手が出てきたため、これを刀で切り落とした。
数日後、妖怪が3人組の僧に化けてやってきて「自宅に怪しい相がある。」といった。
僧の正体を知らない甚五兵衛は、先日切り落とした手を見せた。
手を受け取った僧の1人が「これは人家の便所に住み着く黒手という物だ」と言った。
さらに別の僧が手を受け取り「これはお前に斬られた我が手だ!」と叫び、九尺(約2.7メートル)もの丈のある正体を現し、手を奪って3人もろとも消え去った。
後日、甚五兵衛が夕方遅くに家への帰り道を歩いていたところ、突然空から衾のようなものが降りてきて彼を包み込み、6~7尺(約1.8~2.1メートル)も宙に持ち上げ、下に落とした。
甚五兵衛の懐から、黒手を斬った刀が奪われていた。
⓶黒手は加牟波理入道 では?
私は以前、加牟波理入道と言う妖怪についての記事を書いた。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「加牟波理入道」
加牟波理入道は厠(トイレ)に露われる妖怪で、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、口から鳥を吐く入道姿で描かれている。 なぜ口から鳥を吐いているのか。それは、 ・大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れない。 ・大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくる、 などという言い伝えがあるからだろう。
加牟波理入道が口から吐いているのはホトトギスというわけである。
なぜホトトギスなのかというと、中国には郭登(読み方がわからない。すいません。)という厠(トイレ)の神がいる。
郭登の姓は郭、名は登とのこと。 菅原公のように、名前の下に公をつけて呼ぶことがある。( 公は貴人の姓名などに添えて敬意を表わす言葉) するとトイレの神・郭登は郭公(カッコウ)となるが、日本では郭公(カッコウ)と書いてホトトギスともよむ。 トイレの神・郭登→郭公(カッコウ)→郭公(ホトトギス) という謎々なのだと思う。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』の「加牟波理入道」はホトトギスという鳥を吐く姿として描かれたのだろう。
厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくるといわれるのは ホトトギスが「天辺かけたか」と鳴くと考えられていることと関係があると思う。
天辺とは、「兜 のいただき」のことで、転じて、「頭のいただき」を意味するようにもなった。
「天辺かけたか」とは「頭がかけたか」ということであり、それで生首が落ちてくるなどと言われたのではないだろうか。
・丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、
その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭はたちまち小判に変わる。(『甲子夜話』松浦静山)
という話もあり、トイレで落ちてくる生首は加牟波理入道のものだと考えられる。
「加牟波理入道」という妖怪の名前ははトイレで力むことからつけられたのではないかと思う。
また「頑張り入道」のイラストを見ると、糞の妖怪のように見える😁。
十返舎一九『列国怪談聞書帖』より「がんばり入道」
加牟波理入道は毛むくじゃらのようにも見える。 便所にあらわれた毛むくじゃらの黒手は加牟波理入道のバリエーションのひとつなのではないか。
③黒手は茨木童子のイメージ?
「甚五兵衛宅で、甚五兵衛の妻が便所で何者かに尻を撫でられる。」 これは古事記にある次の物語を思い出させる。
大物主神は丹塗り矢に姿を変え、セヤダタタラヒメが用をたすために川にやってきたところを、川の上流から流れていき、彼女のほとをついた。 セヤダタタラヒメが矢をとって部屋に戻ると大物主神は美しい男性の姿になり、二人は結婚した。 二人の間にはヒメタタライスケヨリヒメが生まれ、ヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇の皇后となった。(古事記)
これに似たような話が『山城国風土記』にもある。 玉依日売が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、賀茂別雷命を産んだ。
外国の伝説は勉強不足で知らないが、日本の伝説は類型的で似たような話が多いのだ。
そして手を切り落とされた黒手が、手を取り戻しにくるというのは、茨木童子の伝説を思わせる。
一条戻橋で、若い女性が道に迷って困っていたので、渡辺綱は女性を馬に乗せてやった。 すると女性は鬼の姿となり、渡辺綱の髪の毛をつかんで舞い上がり、愛宕山に連れ去ろうとした。 上というパターン。若い美女が道に困っていたため、渡辺綱が馬に乗せてやると、女は突然鬼の姿になって綱の髪の毛を掴綱は鬼の腕を刀で切り落とした。 その後、茨木童子は綱の叔母に変身して綱の家を訪れ、腕を取り戻して空の彼方に消えた。
黒手の「トイレで尻をさわる」という伝説と、大物主神の「矢の姿になってトイレで女性のほとをつく」を結び付けるのはむりくりっぽいかもしれないが(笑) 「切られた手を取り戻しにくる」という黒手の話は、この茨木童子の物語にインスピレーションを得て創作されたものだと考えてよいのではないだろうか。
まず黒手と茨木童子は、どちらも異形(鬼、妖怪)である。 そして、茨木童子は渡辺綱を空高く持ち上げているが、 黒手の伝説でも「空から衾のようなものが降りてきて彼を包み込み、6~7尺(約1.8~2.1メートル)も宙に持ち上げ、下に落とした。」とある。
なぜ鬼や妖怪は切り落とされた手を取り戻しに来ると考えられたのか。 これについては宿題とさせていただく。
④手を切り落とされる非人
余談となるが、関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、主に坂の町に住んでいた。 清水坂辺りに住んでいた非人は犬神人(いぬじにん)といい、祇園社(現在の八坂神社)に隷属し、死体の処理、清掃、警護、神事などを行うほか 弓の弦を製作して「弦召せ」と言って売り歩いていたため、弦召(つるめそ)とも呼ばれた。
非人は結髪が許されず、大人になっても結髪しない童形であったので、童子と呼ばれていたという。 八瀬童子などもそういう人々であったのだろう。 非人ではないかとする説がある。
清水坂の近くに平清盛が住む六波羅があった。 清盛は禿(かむろ)というおかっぱ頭の少年を召し抱え、平家に不満を持つ人をとりしまらせていたとされる。 この禿とは犬神人ではないかとする説がある。
かつて大河ドラマ「義経」に犬神人と思われる人々が登場していた。 そのうちのひとり、五足ははじめ、結髪しない、ぼさぼさの髪で登場していたが 平清盛に仕えるようになってからは、櫛目を通したおかっぱ頭となっていた。 これは禿のイメージだ。
さらに五足が平清盛の頭を剃髪した際、清盛の頭を傷つけ、血がたらーりと流れるというシーンがあった。 これは茨木童子のイメージだ。
茨木童子は両親に捨てられ、床屋に拾われたのだが、あるとき客の頭をカミソリで傷つけてしまい、その血をなめたところ大変おいしく感じ、鬼としてめざめたという伝説があるのだ。
さらには五足ではない別の犬神人が、平家によって手首を切られるというシーンもあった。 これも、渡辺綱によって腕を斬られた茨木童子のイメージから、創作されたものだろうと思った。
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歌川芳藤 『髪切りの奇談』(1868年)
①髪切り(黒髪切)
❶人が気づかぬ間にその人の頭髪を切ってしまう妖怪。 ❷元禄のはじめごろ伊勢国松坂(現・三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現・東京都千代田区)で、夜中に道を歩いている男女が髪を元結(もとゆい)から切られる怪異が多発した。 『諸国里人談(寛保年間/1741年 - 1743年)』 ❸江戸の下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)などで商店や屋敷の召使いの女性が髪が切られた。 『半日閑話(大田南畝)』 ❹明治7年(1874年)、東京都本郷3丁目の鈴木家で「ぎん」という名の召使いの女性が便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは近所の家へ駆け込み、気絶した。便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。 その便所は髪切りが現れたとして、誰も入ろうとしなかった。 ❺人間が獣や幽霊と結婚しようとしたときに出現し、髪を切る。(水木しげるの作品) ❻中国では477年・517年・1876年5月に、ロンドンでは1922年10月に同様の事件が発生している。 ❼中国の『太平広記』に頭髪を切るキツネの話がある。(『建内記(室町時代/万里小路時房)』 ❽髪切りの被害があった場所で捕えられたキツネの腹を裂くと、大量の髪が詰まっていた。(『耳嚢』巻四「女の髪を喰う狐の事」 ❾道士が妖狐を操って髪を切らせているという説がある。(『善庵随筆』朝川鼎) ❿寛永14年(1637年)に髪切りは「髪切り虫」の仕業であるという話があった。(『嬉遊笑覧』)による髪切り ⓫剃刀の牙とはさみの手を持つ虫が屋根瓦の下に潜んでいるともいわれ、髪切り虫を描いた絵が魔除けとして売られたり、「千早振(ちはやぶる)神の氏子の髪なれば切とも切れじ玉のかづらを」という歌を書いた守り札を身に着けることが髪切り避けになるとされた。 ⓬明和8年(1771年)から翌年にかけ、江戸や大坂の人々の間で髪切りの騒動が続き、江戸では多くの修験者、大坂では「かつら」を売るためにかつら屋が仕組んだとして、かつら屋が処罰された。 ⓭明和8年の事件以降も、修験者らが髪切り除けの札を売り歩いており、修験者の自作自演との説も。 ⓮昭和6年(1931年)に東京で少女の髪を切ったとして逮捕された青年は、「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信にしたがって髪切りを行ったことを供述した。 ⓯自然に髪が抜け落ちる病気との説も。
⓶キツネは髪の毛を消化できるか?
❽髪切りの被害があった場所で捕えられたキツネの腹を裂くと、大量の髪が詰まっていた。(『耳嚢』巻四「女の髪を喰う狐の事」 について。
犬は髪の毛を食べる(誤飲する)ことがあるそうで、次の様なネット記事がある。
髪の毛は消化できないので食べる量が多くなると胃などに詰まってしまいます。その結果、食欲低下、嘔吐、元気がなくなるなどの症状が見られることがあります。
人間もそうだが、犬も髪の毛を消化できないのだ。 キツネは犬科であり、やはり髪の毛を消化できないのではないかと思うのだが、どうだろう? これと同様、キツネが何らかの理由で髪の毛を大量に食べてしまったが、消化できなかった髪の毛が胃の中につまっていたということはないだろうか。
③妖怪「かみきり」はミヤマカミキリ?
カミキリムシ
漢字表記では天牛と記すが、これは中国語で、長い触覚を牛の角に見立てたものである。 成虫は植物の花、花粉、葉、茎、木の皮、樹液などを食べ、植物の繊維や木部組織を噛むための大顎が発達している。 カミキリムシという名前は、髪の毛を噛み切るほどの大顎の力を持っていることに由来する。 
佐脇嵩之『百怪図巻』より「かみきり」
上の妖怪「かみきり」はカミキリムシのように顎で髪の毛を噛み切るのではなく、はさみ状になった手で髪の毛を切るのだろうか?
妖怪「かみきり」は、痩せてあばら骨が浮き出ているが、下のミヤマカミキリの写真を見ると胸部に横線が幾筋も入っており、
このミヤマカマキリにインスピレーションを得て創作されたもののようにも思える。 妖怪「かみきり」の嘴のように見えるものは、ミヤマカマキリの口元(顎?)を表しているのではないだろうか? また妖怪「かみきり」の手の形は、ミヤマカマキリの脚のハート形から創作されたもののようにも思える。 妖怪「かみきり」目と目の間にあるⅤ字形のしわはミヤマカマキリの触覚のようにも見える。
たとえば、 カミキリムシの特徴として ・目の上に長いV字形の触覚がある。 ・胸部に横皺がある。 ・手足はハート形 と聞いたとき、実際にカミキリムシを見たことがなければ、妖怪「かみきり」のような姿を描いてしまいそうである。
④妖怪「かみきり」の正体は、販売目的の犯罪?
ウィキペディアの説明を読むと、髪を切られるという事件は、実際に起こった出来事であるようだ。
上記記事は2017年のもので、つい最近も妖怪「かみきり」が現れたことがわかる。(笑) その正体は23歳の男性で、その動機はネットオークションで売るためだとある。
「女子高生 ロング 黒髪」などとタイトルのついたものは39件の入札があり、3万2500円で落札。「中国女性 1メートル40センチ 360グラム 1時間の動画付き」は15万円で落札された。 ~略~ 髪の毛の売買は昔からあった。本物の髪は、古くはロープ代わりや日本髪を結う際のかもじ(添え髪)などで需要があり、現在でもエクステンション(付け毛)やウイッグ(かつら)、人形用などさまざまな用途がある。
とあり、髪の毛は需要があり、結構な高額で売れるケースもあるようだ。
❷元禄のはじめごろ伊勢国松坂(現・三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現・東京都千代田区)で、夜中に道を歩いている男女が髪を元結(もとゆい)から切られる怪異が多発した。
『諸国里人談(寛保年間/1741年 - 1743年)』
❸江戸の下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)などで商店や屋敷の召使いの女性が髪が切られた。
『半日閑話(大田南畝)』
⓬明和8年(1771年)から翌年にかけ、江戸や大坂の人々の間で髪切りの騒動が続き、江戸では多くの修験者、大坂では「かつら」を売るためにかつら屋が仕組んだとして、かつら屋が処罰された。
↑ これらの事件は、2017年の事件と同様、販売目的で切られた可能性が高そうである。
⑤髪の毛に対する信仰
⓮昭和6年(1931年)に東京で少女の髪を切ったとして逮捕された青年は、「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信にしたがって髪切りを行ったことを供述した。
↑ こちらの記事にも書いたのだが、例えば次のような信仰があった。
❶京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵・・・左手に毛髪をもっており、たくさんの毛髪が奉納されている。 ❷京都・菊野大明神・・・かつて毛髪を奉納する習慣があった。縁切りにご利益あり。 ❸京都・東本願寺・・・髪の毛で作った毛綱がある。 ❹大分・椿堂・・・奉納された毛髪が祭られている。 ❺京都・安井金毘羅宮・・・「櫛祭」飛鳥時代から現代までの髪型を結いあげた人々が練り歩く。縁切りにご利益あり。 ❻京都・御髪神社・・・1961年(昭和36年)に、京都の理美容関係者によって創建された。髪を奉納して健康を祈願する。 ❼京都・金戒光明寺・・・境内にアフロ仏像(五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)がある。 ❾奈良時代、県犬養姉女が志計志麻呂を皇位につけるために称徳天皇の髪を盗んで佐保川の髑髏に入れて呪詛した。 ❿遺髪の習慣
「百人の女性の頭髪を切り、神社に奉納すれば自らの病弱な体が必ず健康になる」という迷信は本当にあったのではないだろうか。
⑥発熱を伴う病で脱毛?
❹明治7年(1874年)、東京都本郷3丁目の鈴木家で「ぎん」という名の召使いの女性が便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは近所の家へ駆け込み、気絶した。便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。
これは何かの病気の様にも思える。
ここ数カ月で高熱を出したことがあるのなら、その抜け毛は「中毒性脱毛症」かもしれません。
上の記事は髪が切れるのではなく、脱毛であるが、寒気がしたというのは熱を出した時の症状なので、この中毒性脱毛症の様にも思える。
原爆で被曝された方や、放射線治療で脱毛することもある。 ぎんさんは、なんらかの原因で被曝したというのは考えにくいだろうか?
また、ぎんさんは寒気を覚えたとたんに気絶したとあるので体調不良から発熱して寒気を覚え、気絶したときに何かに引っかかって髪の毛がきれたなんてことはないだろうか?
勝川春亭画による鞍馬山僧正坊
①鞍馬天狗
鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。
牛若丸(のちの源義経)に剣術を教えたという伝説で知られる。鬼一法眼と同一視されることがある。
鞍馬寺の鞍馬天狗
鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が、鞍馬山僧正坊を配下に置くとする。または、鞍馬山僧正坊と同一視する。この教義が現在の形となったのは、鞍馬弘教が天台宗から独立した1949年以降である。
鞍馬天狗 鞍馬駅前には巨大な鞍馬天狗の面が置かれている。
⓶鞍馬寺は紀氏の神を祀る寺?
鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられている。
796年、藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。
※鞍馬寺から貴船神社までは山道を歩いて30分ほどである。
貴船神社
貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっている。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られている。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思う。
ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっている。
平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てた。
貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神のようだ。
すると、貴船の神に命じられて創建された鞍馬寺もまた紀氏の神を祭る寺だと考えられる。
鞍馬寺
③伏見稲荷大社と藤森神社の確執
鞍馬寺の創建説話に登場する藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)の聖没年は759年~827年。
藤原南家の藤原巨勢麻呂の七男である。
藤原伊勢人は鞍馬寺を創建したのと同年の796年に東寺を創建したとも伝わる。
この東寺の鎮守は伏見稲荷大社である。
東寺
伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社があるが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされる。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したという。
そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子なのだそうだ。
藤森神社
藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返す。
こんな話が伝えられている。
稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言った。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りた。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っている。
伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられている。
⑤空海のもとにやってきた紀州の神
『稲荷大明神流記』には次のように記されている。
816年、紀州国熊野で空海は神に出会い、神にこういった。
『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。東寺であなたをお待ちしています。』
823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。
空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないだろうか。
⑥伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っているが
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだという。(式内社調査報告)
五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神である。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国(紀州)に祀られている神とある。
また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとある。
そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としている。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されているが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明。
紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのだろう。
そして紀州は紀氏の本拠地だった。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられる。
伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということだろうか。
和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれている。
⑦秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?
空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしている。
高さ54.8mの東寺の五重塔の心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないだろうか。 『稲荷大明神流記』では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっている。
それ以前の稲荷山には紀氏の神を祀る神社があったはずだ。
伏見稲荷大社の創建説話では秦伊侶具が711年に矢を射たとあるが、これはウソっぽい。その理由↓
空海の俗名は佐伯真魚という。
そして伏見稲荷大社の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読むが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もある。
さらに空海は秦氏だとする説もある。 私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思う。
空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?
⑧藤原伊勢人は架空の人物?
東寺の記録書『東宝記』には「796年、藤原伊勢人が造寺長官となって東寺を建立した」とあるが
藤原伊勢人は公式の史書や系譜にはその名前がなく、架空の人物だとする説がある。
私は藤原伊勢人という人物は架空の人物であり、鞍馬寺はもともとは紀氏の神を祀る貴船神社と関係のある寺ではないかと思う。
⑨護法魔王尊は鞍馬天狗?
鞍馬寺の本尊はもともとは毘沙門天(北方を守護する仏)で、併せて千手観世音を祀っていた。 護法魔王尊とは鞍馬天狗のことではないだろうか。
⓾鞍馬天狗の信仰はいつからある?
護法魔王尊像はいつから鞍馬寺に安置されているのだろうか。 それについては調べてみたがわからなかった。
それでは鞍馬天狗の信仰はいつからあるのか。
南北朝時代あるいは室町時代初期の作と考えられている『義経記』には鬼一法眼が登場する。 (法眼は僧侶に対する尊称)
義経は鞍馬山を出て奥州へ下るも、再び都へ上り、一条堀河に住む陰陽師・吉岡鬼一法眼が持つ兵法書『六韜 』をしり、鬼一に入門を願い出るが断られてしまう。 そこで義経は、鬼一の三の姫を誘惑し、姫に兵法書を盗ませた。 鬼一は激怒し、義経を討とうとしますが果たせず、義経に去られた姫は嘆き悲しんで死んでしまった。
室町時代には能『鞍馬天狗』が成立している。
鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいる中に、見知らぬ山伏がおり、僧たちは山伏を嫌がって稚児一人を残して去ってしまう。
稚児は山伏に優しく声をかけたので、山伏は稚児に恋をし、また稚児が牛若丸であることに気づく。 牛若丸は「ほかの稚児は平家一門で大事にされているが、、自分はないがしろにされている」といい、山伏は同情して牛若丸に近隣の花見の名所を見せる。 山伏は自分が鞍馬山の大天狗であるといい、さらに兵法を伝授するので平家を滅ぼすようにと牛若丸に告げた。
どうやら義経記(南北朝時代あるいは室町時代初期)に登場する鬼一法眼が、能・鞍馬天狗(室町時代)では鞍馬天狗に変化したようである。 鞍馬天狗の信仰が生じたのは室町時代だろうか。
⑪鞍馬の火祭はカシオペア座の神・藤原純友の祭礼だった?
なぜ鬼一方眼の伝説が鞍馬天狗信仰に変化したのか。 私は過去に天狗に関する記事をいくつか書いている。
これらの記事の中で、私は一貫して天狗とは流星または火球、彗星だと述べた。 そして鞍馬寺にも星に対する信仰があったふしがある。
10月に行われる鞍馬の火祭は鞍馬寺境内にある由岐神社の祭礼である。 940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。
遷宮の理由として、939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがあったとする記事もあった。 由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及んだ。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれている。
平将門は940年2月14日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきた940年9月9日(旧暦)ときすでに平将門の乱は鎮圧されていた。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていなかった。
由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないかと思う。
藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こした。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわからないが、鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?
941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破った。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡した。
由岐神社は靭(ゆき)明神とも呼ばれているが、靭は矢を入れる道具であり、「うつぼ」ともよむ。 ウツボという魚もいるが、凶暴な魚で『海のギャング』とも言われる。 ウツボは海賊の首領だった藤原純友のイメージにぴったりだと思うが、いかがだろうか?
由岐神社=靭明神とは魚のウツボの神でもあり、藤原純友のことではないかと思う。
藤原純友は日振島を本拠地としていたが、日振島はwの形をした島である。
そのWの形はカシオペア座ににている。
そして鞍馬の火祭では深夜チョッペンの儀が行われる。
チョッペンの儀とは二人の青年が脚を上向けに開脚して2つのV字形=W字形を作るというものである。
宮崎地方で天辺(てっぺん)のことをチョッペンというそうである。
かつて日振島あたりでも天辺のことをチョッペンと言っていたのではないだろうか。
天辺とは「空のはて」「上空」という意味である。
チョッペンは藤原純友の本拠地・日振島をあらわすと同時に、上空にあるカシオペアをもあらわしているように思える。
詳しくはこちらの記事をお読みください。
①倉(くら)ぼっこ
❶倉の守り神
❷岩手県遠野地方に伝承される。
❸子供ほどの背丈、全身毛むくじゃらに描かれることが多い。 ❹危害を加えず、人を助ける。
❺座敷童子に類する妖怪で、倉ぼっこが倉から離れると家運が徐々に傾く。 ❻物音をたてるが姿を現すことは少ない。
❼遠野のある家では、「倉に籾殻を撒いておくと足跡が残るので存在がわかる」と伝えられる(『遠野物語拾遺』柳田國男)
❽酒屋で倉に入ってきた人に子供のような声で「ほいほい」と声をかけたり、異様な音を立てた。(『奥州のザシキワラシの話』佐々木喜善)
❾江戸時代、本所の梅原宗得の土蔵に棲み付いていた。
便意を催すと、この妖怪の現れる前兆なので急いで蔵を出た。
❿防火の神としても祀られている。
火事があったとき、顔が見えないほど髪を長く垂らした女の姿となって現れ、荷物を運び出して火災から守った。
⓶座敷わらし、ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ
以前、↓ こちらの記事で、座敷わらしと関係する妖怪と考えられている、ノタバリコ・ウスツキコ・コメツキワラシについて書いた。
内容を簡単にまとめておこう。
a, 「ノタバリコ」は土間から這い出て座敷を這い回るワラシ。 「のたれ死ぬ」は「倒れて死ぬ」「みじめに死ぬ」という意味。 「ノタバリコ」とは「倒れてみじめに死んだ子」という意味ではないか。
b. ウスツキコは臼(餅をついたり、蕎麦を牽いて粉にするための道具)を搗くような音をたてる。 コメツキワラシの「コメツキ」とは「米搗き」だろう。かつて玄米は臼にいれて杵でついて精米していた。 ウスツキコとコメツキワラシは同様の妖怪と思われる。
c,東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があった。 間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘がある。
弘誓院や徳満寺(茨城県)に間引き絵馬が残されており、江戸時代には飢饉が頻発したことなどから、全国で間引きの風習
e.7歳までは神の領域なので、間引きは神に子供を返す行為と考えられており、間引きのことを「返す」「戻す」などといった。
f、「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は同種と考えられているが、私にはわからない。 その理由。 ・「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は生まれて間もない赤子の妖怪だと考えられる。 いかし「座敷ワラシ」は3歳から15歳ぐらいの姿をしていると伝えられている。
・「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は土間に現れ、座敷ワラシは座敷に現れる。 静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されている。 「桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。」 この話から、現れる場所が土間と座敷では妖怪の格がちがうのではないかと思われる。
③倉ボッチはなぜ防火の神として信仰されたのか。 「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」
「座敷ワラシ」と「倉ぼっち」が同類のものなのかどうか、私にはわからない。
しかし、「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」と「倉ぼっち」は同類であり これらの妖怪は間引きされた子供の妖怪ではないかと思う。
その理由は、倉ぼっちが「❿防火の神としても祀られている。」からである。
防火の神として有名なのは柿本人麻呂である。 柿本人麻呂は柿本人丸と記されることもあり 「人丸→ひとまる→火止まる」の語呂合わせから、防火の神として信仰されている。 さらに「人丸→ひとまる→ひとうまる→人産まる」の語呂合わせから、安産の神としても信仰されている。
「ひとうまる」は「人埋まる」にも通じる。 「人埋まる→ひとうまる→ひとまる→火とまる」の語呂合わせで、倉に死体が埋められた子供は防火の神に転じると考えられたのではないだろうか?
倉ボッチが髪の長い女性の姿であらわれたのは、小野小町のイメージがあるのかもしれないと思う。 小野小町にはこんな伝説があるのだ。
晩年、小野小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。 すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。 (妙性寺縁起)
五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったということだろう。
小野小町は日の神(天照大神)であったが、火の神となり、さらに河の神(水の神)に転じたのだ。
倉ぼっちは防火の神ということで、この小野小町とイメージが重ねられたのかもしれない。
あるいは、防火の神=水の神であり、水の神は弁財天、イチキシマヒメなど女神であることが多いので女神とされたのかもしれない。
陰陽思想で天気は、晴は陽、 雨は陰とする。また、湿度では乾燥が陽で湿潤は陰。 そして性別では男性が陽で女性が陰なので、雨や水をもたらす髪は女神ということになる。
とこのように書いて気がついたが、生まれてまもなく亡くなった子供や、流産、中絶で死亡した胎児のことを水子という。水子は名前に「水」とあるので防火の神になるというような信仰もあったのではないだろうか。
④倉ぼっこが岩手県に伝承されている理由
青森や岩手など東北地方では、江戸時代に飢饉が起こっている。
↑ こちらの記事によれば東北地方にある地名の「わらす河原」は子どもを捨てた河原、「崩川」は赤ん坊がよじ登ろうとして崩れた川と説明されている。 地獄沢については説明がないが、やはり子供を捨てた沢ということなのだろう。
そして飢饉がおこった理由について、当時東北地方は米作に不向きで(現在は品種改良されて寒冷な気候でも栽培できるようになった)、稗の栽培に適していたが、政府や幕府が米を年貢として求めたので米策を行ったという趣旨が記されている。
そのような状況であったので岩手県では多くの間引きが行われ、「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ、倉ぼっこ」などの妖怪が信仰されるようになったのではないだろうか。
⑤便意を催すと倉ぼっこが現れる?
「子供ほどの背丈」とあるが、何歳ぐらいの子供なのかによって身長は異なる。 そうではあるが、倉ぼっこが子供の妖怪であるということを示しているのだろう。
「全身毛むくじゃらに描かれることが多い。」というのは、誰によってそのような姿の倉ぼっこが描かれたのかが不明。 ウィキペディアには 境港市水木しげるロードに設置された倉ぼっこのブロンズ像 が掲載されているので、水木しげる氏によってこのような姿に創作されたのかもしれない。 いずれにしろ、「火事があったとき、顔が見えないほど髪を長く垂らした女の姿となって現れ、荷物を運び出して火災から守った。」という伝説から毛むくじゃらの姿として描かれたのではないかと思う。
❾「便意を催すと、この妖怪の現れる前兆」というのは、どういうことだろうか。 昔、「本屋にいくとトイレに行きたくなる」という話が話題になったことがあり、私もそれは何度か経験している。 しかし、ほかの場所でもトイレに行きたくなったことはある。 たまたま本屋に行くことが多いので「本屋にいくとトイレに行きたくなる」と思ってしまっただけかもしれないが その理由としては次のようなものが考えられている。
「紙やインキの匂いが便意を促しているのだ」という説
「大量の本を前にして神経が高ぶるのだ」という説
「立ち読みする際の姿勢が便通を良くしているのではないか」という説
「不安感や逆境が関係しているのだ」という説
①倉坊主
倉坊主(くらぼうず)は、根岸鎮衛による江戸時代の随筆『耳嚢』巻之九にある江戸(現・東京都)の怪異。原題は「怪倉の事」であり[2]、「倉坊主」の名は『妖怪お化け雑学事典』(講談社)によるもの[3]。
概要
本所(現・東京都墨田区)の隅田川近くに数原宗徳という幕府の御用医師が住んでいたが、昔から彼の屋敷の倉には不思議な言い伝えがあった。倉の中に奇妙なものが住んでおり、家人が倉から何か物を出したいときには、そのたびに断りを入れなければ凶事があるとのことだった。その代わり、どの品物を明日欲しいと倉に願うと、翌朝にはその品物が倉の前に揃っているのだった。
ある年のこと。数原邸が火事にあったが、なぜか件の倉だけは焼け残った。寝床を焼かれた数原の家来の一人の書生が寝床を求め、この倉に何者かが住んでいても非常時ならば問題ないとして、倉の中を片付けてそこに寝ていた。すると恐ろしい顔つきの坊主が現れて、許可なく倉に立ち入ったこと、さらには無礼にも倉の中で寝たことを責めた。そして、本来ならば命を奪うところだが、非常時なので許し、今後は決して立ち入ることのないようにと言い残して姿を消した。驚いた書生は、たちまち倉を逃げ出した。
以来、数原家では毎年決まった日に、倉の前で祭礼を執り行うようになったという[2]。 なお、数原家代々の墓所は神奈川県伊勢原市の日蓮宗上行寺にある。もともと寺自体は江戸時代から白金(現在の明治学院大学の真正面)にあったが、戦後になり伊勢原に移転した。
⓶「在原業平ゆかりの地」の怪 上記リンク先、写真の説明に「東京都墨田区吾妻橋。数原宗徳の倉があったとされる」と記されている。
物語の舞台は東京都墨田区吾妻橋である。
吾妻橋 吾妻橋の西、隅田川には地名と同名の吾妻橋という橋がかかっている。
地図に橋の名前が表示されないかもしれないので、隅田川にかかる橋を北から順に書いておこう。 白髭橋、桜橋、(白髭橋、桜橋は上にスクロールして確認してください。)言問橋、すみだリバーウォーク、吾妻橋、駒形橋である。 吾妻橋の東には大横川に業平橋という地名と同名の橋がかかっている。
③事問橋
すみだリバーウオークをはさんで吾妻橋の北には言問橋があるが、言問橋という橋名は、平安時代の歌人・在原業平(825~880)が詠んだ次の歌にちなむとされる。
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
(その名に「都」を持っているのであれば、さあ訪ねよう。都鳥よ。私が思う人は無事でいるだろうか。)
事問橋
『伊勢物語 東下りの段』には次の様な内容が記されている。 在原業平とその一行は東下りをしてこの地にやってきて、見知らぬ鳥がいたので船頭に聞くと、「都鳥」だという。 そこで業平は、都鳥という名前から都に残してきた人のことを思い出してこの歌を詠んだのだった。 業平の歌を聞いて一行はみな泣いてしまった。
竹屋の渡
④業平橋
次に業平橋という橋名の由来をみてみよう。 かつてこの橋があるあたりに、南蔵院というお寺があり、その境内に業平天神社があった。 『江戸名所記』によれば、業平はこのあたりで亡くなったとあり、その場所に業平塚が建てられていたことから、業平天神社は建てられたのだという。 (業平塚は力士・成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)、里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)など諸説ある。)
業平天神
⓹業平は『惟喬親王の乱』で流罪になった?
物語の舞台となった吾妻橋の由来が気になるが、その前に、在原業平という人物について、ざっとみておこう。
文徳天皇は紀静子が産んだ長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えて、源信に相談したが、 源信は藤原良房を憚って天皇をいさめたという。 その結果、藤原良房の娘・明子が産んだ惟仁親王が産まれたばかりで皇太子となった。
在原業平はこの文徳天皇の長子・惟喬親王の寵臣であった。
大阪府東大阪市にある千手寺パンフレットに「在原業平と業平が仕えていた惟喬親王」についての、こんな伝説が記されていた。
その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
千手寺パンフレットより引用
※文徳天皇の生没年は827年~858年。在位は850年~858年である。 パンフレットには「文徳天皇の第1皇子は維喬親王」とあるが、維喬親王とは惟喬親王(844~897)の事だと思われる。 また「乱を起したというのは史実ではない」とあるが、そうとも言い切れないような気がする。 (詳しくは、 惟喬親王の乱 シリーズをお読みください。
千手寺
在原業平は「京には住まない。東に住む国を見つけよう」と東下りの旅に出て、隅田川にやってくる前、
三河の国の八つ橋というところにやってきたところ、 ある人に、「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」 と言われ、こんな歌を詠んでいる。
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う
五七五七七で構成される和歌の最初の文字をつなげると、「かきつばた」となる。
「つま」とは「夫からみた妻」という意味もあるが、古語においては「夫婦や恋人が、互いに相手を呼ぶ称」のことであった。 業平は都においてきた妻を思い出してセンチメンタルな気分になったのかもしあれないが、「つま」とは業平が仕える惟喬親王のことであるかもしれないと思った。 しかし「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」と命令口調で言ったある人が惟喬親王であるようにも思える。
後者の説をとれば、業平は惟喬親王とともに東国に住むべき土地を探して旅をしている、ということになる。 業平が惟喬親王とともに旅をしているのか、都に残してきたのかわからないが いずれにしろ、東国に住むべき土地を探して、ということは、平将門がやったように、東国に独立国をつくるということだろう。 これはクーデター(惟喬親王の乱?)である。
伊勢物語が史実を記したものかどうかわからないが。
⑥吾妻橋の由来は「東下り」からくる?
業平の人物像が見えてきたところで、吾妻橋の由来についてみてみよう。 ・江戸の東にあるために東橋と呼ばれていたのが吾妻橋になったという説 ・向島にある「吾嬬(あずま)神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説 などがある。
しかし、言問橋、業平橋の由来を見ればこの地は在原業平ゆかりの地であるといえ 業平を主人公とする伊勢物語 東下りの段において、業平が 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと と詠んでいることなどを考えると、伊勢物語 東下りの段にちなんで、東橋→吾妻橋と転じた可能性もありそうに思える。
検索すると、業平吾妻鑑という歌舞伎もあるようである。
なお、幕府の御用医師・数原宗徳については、検索しても倉坊主の話しかヒットしない。
⑦伊勢物語 芥川の段に登場する倉に住む鬼
どうやら数原邸があった吾妻橋付近は在原業平に対する信仰が深い地域であることがわかった。
ということは、数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主の正体もまた在原業平に関係するものだと推測される。
伊勢物語に芥川の段がある。
業平は身分違いで得ることができない女のもとへ長年通っていたが、ある夜、盗み出して芥川というところまでやってきた。 女は草の上の露を見て、「あれはなあに?」と聞いたが業平は答えなかった。 雷が鳴り、雨も激しくなってきたので、業平は鬼がいるとは知らずに、壊れかけた倉に女をいれて、自分はやなぐい(弓を入れる道具)を背負って戸口にたっていた。 夜があけるころ、鬼は女を食べてしまった。 業平が見にきたときには女はすでにおらず、業平は地団太を踏んで悔しがった。
これは、二条の后(藤原高子/藤原良房の養女)がの、いとこの女御に仕えていたが、大変美しかったので業平が盗んだのだが、藤原基経(高子の兄、良房の養子)と藤原国経(基経の実弟)が取り返したのだった。 それを鬼と表現したのだ。
吾妻橋周辺は業平がこのあたりで和歌を詠んだということもあって、業平信仰の厚い地域だった。 すると、「数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主」が創作された背景には、業平と高子が駈け落ちしたが失敗したことを記す伊勢物語 芥川の段のイメージがありそうである。 芥川の段に登場する倉の中には鬼がいて、その鬼は高子を一口で食べてしまったのだった。 (「鬼が高子を食べた」というのは比喩的表現で、実際には藤原基経と藤原国経が高子を連れ戻した。)
もちろん倉に鬼がいるとは思っていなかった業平は、倉の鬼に断りもなく高子を中に入れたことだろう。
この伊勢物語・芥川の段のイメージから、倉坊主は生みだされたのではないだろうか。
芥川
丹後倉橋山の件を描いた天保7年の文献[1](瓦版[2][3][4]とされるが、木板に刷られているのがうかがえる)。— 徳川林政史研究所蔵。
①件
「件(くだん)」は、概していえば書いて字のごとし(「亻」+「牛」)、その容姿は牛の体と人間の顔の怪物とされる[5][6][7][注 2]。
佐藤健二さんは、件のルーツは中国の白澤ではないかとおっしゃっている。
城間清豊の白沢之図
人間の言葉を解し万物の知識に精通するとされる。その姿を描いた図画は魔除け(厄除け)として用いられる。
⓶「件の如し」という定型句は怪獣・件から生まれたのではない。
上記ウィキペディア「件」には、ほかには次のような内容が記されている。
❶「件の如し」という定型句があるが、西日本では「怪獣・件の予言が外れないように、嘘偽りがないという意味である」と説明されるが、俗解語源(民間語源)の一つと考えられている。
❷天保年間(1831年~1845年)の瓦版によれば「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」とある。 (この説が天保の頃流布していた)
❸怪獣「件」の記述が登場するのは江戸時代後期。 「如件(件の如)し」という定型句は平安時代の『枕草子』にも登場する。 ゆえに「件の如し」と怪物「件」を関連付けるのは後世の創作(島田裕巳の説)
島田裕巳さんの説はもっともだ。 「件の如し」という定型句は怪獣・件から生まれたのではなく、件という言葉があったので怪獣件が生み出されたと考えるべきだろう。 ③件は実在していた。
ウィキペディア「件」には次のような内容も記されている。 ❹・天保7年(1836年)の瓦版・・・・天保7年12月、丹後国与謝郡(よさのこおり)「倉橋山」に人面牛身の獣「件」が出現した。
※倉橋山は、京都府宮津市、天橋立の以西にある標高91mの倉梯山か。 天保7年に流布した瓦版から件を書写したものも現存する。
❼『密局日乗』という日記の、文政2年5月13日条(=西暦1819年7月4日)に牛の子として生まれたクダンの記述がある。 防州上ノ関(現・山口県上関町)の民家の牛から生まれた人面牛身の子牛が、人語をあやつり、みずからを「件」と名づけよと指示し、異形という理由で自分を屠殺してはならないと諭し、7年の豊作が続くが、8年目に兵乱が起こる、と予言した。
❽安政7/1860年3月12日付で牛から件が生まれたという報告書が近年(2020年)、兵庫県立歴史博物館で発見された。
❾幕末の錦絵「件獣之写真(くだんじゅうのしゃしん)」(慶応3/1867年作と考証)に、「牛の子として生まれ、予言を残して三日で死ぬ」と書かれている。
❿明治の文献にも牛の子として生まれたり、剥製が見世物になったとある。
⓫第二次世界大戦後の民俗学の書物には「件は牛から生まれる奇獣、または人と牛とのあいのこ(雑種)で[、人間の言葉を話すとされるが、生まれて数日で死に、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる」とある。
⓬戦後、近畿地方で件が出生したという話もある。
⓭人面を彷彿させる顔の奇形の仔牛が疾患によって生まれることがあり、件の伝説に発展したものだろうと推察される。
検索してみると人面の牛の動画があった。件は実在していたのだ。
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残念なことに誕生して2時間後に絶命してしまったとのことだ。
④予言獣
ウィキペディア「件」の記述のつづき。
❺江戸時代後期にいくつかの予言獣が流布した。
件(くだん)はその予言獣のひとつで、疫病の流行を予言し、その厄除招福の方法を教示する。
❻天保年間の瓦版でも「この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」とある。
アマビエは江戸時代後期の瓦版に登場する。 瓦版の内容は、次のようなものである。
肥後国海中に毎夜光る物がでた所へ役人が行き、見ると図のような者が現れた。 「私は海中に住むアマビエと申す者である。当年より6か年の間諸国は豊作である。 ただし病が流行する。私の写しを早々と人々に見せるように。」 そういって海中へ入った。右は写し役人より江戸へ送られてきた写しである。 弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)
テレビではアマビエの絵は写し描くことで、写し描いた人の疫病除けになると言っていた。
肥後国海中の怪(アマビエ/アマビヱ)
アマビコという妖怪もいる。 熊本県の海に現われ、豊作と疫病の流行を告げ、自分の姿を家の中に貼っておけば病難をまぬがれるとも語ったという文がいっしょに書かれている。
アマビコ
アリエという妖怪の図には次のような話が添えられていたという。
肥後国(現・熊本県)青鳥郡の海に、夜になると鱗を光らせる妖怪が出現した。
旧熊本藩の柴田という士族が正体を探りにいった。
妖怪は海にすむ鱗獣の首魁・アリエと名乗り、次のように告げた。
「今年から6年間は豊年がつづくが、6月からはコロリ(コレラ)に似た病気が流行して、世の人々は六割死ぬ。
しかし、私の図を信心すれば難をさけることができる。」
アリエ
ウィキペディアには「件(くだん)はその予言獣のひとつで、疫病の流行を予言し、その厄除招福の方法を教示する。」とあり 件とアマビエ・アマビコ・アリエはとてもよく似ている。
1822年、西日本でコレラ流行。
1836年 瓦版に「天保7年12月、丹後国与謝郡(よさのこおり)倉橋山に人面牛身の獣・件が出現した。」とある。 1846年 瓦版にアマビエが描かれる。
1858年 江戸などでコレラ流行。
1860年 牛から件が生まれたという報告書あり。 1862年 江戸幕府『衛生全書』の抄訳本『疫毒預防説』を刊行。
「身体と衣服を清潔に保つ」
「室内の換気をよくする」
「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨する。
1867年 錦絵に「牛の子として生まれ、予言を残して三日で死ぬ」と書かれている。 1876年(明治9年)「アリエの図を信心する者がいるそうだが、迷信である」という内容の記事が、甲府日日新聞(や長野新聞に掲載される。
1877年(明治10年)「虎列刺(コレラ)病豫防(よぼう)心得書」
「石炭酸(フェノール)による消毒」、
「便所・下水溝の清掃などの予防対策」
「看護する者以外は他家に避難させる」
「患者が回復または死亡した後、家族は家中を消毒してからも、10日たつまでは学校に入ることを禁じる」
1879年(明治12年) コレラ流行
1886年(明治19年) コレラ流行 明治時代、件が産まれた、剥製が見世物になったと記す文献あり。 昭和時代、戦後、近畿地方で件が出生した。
件は実在していた。 人面に似た奇形の顔を持つ牛が生まれることがあり、その牛は人(亻)+牛という謎々で件と名付けられた。 しかしさずがに予言まではしなかっただろう。
そうではあるが、件に予言能力があると流布されたのは コレラの流行による不安がある中で 奇獣に予言能力があると考えられていたためだと思われる。
特に牛は牛頭天皇を思わせる。 牛頭天皇は武塔神やスサノオと習合され、疫神として八坂神社などに祀られている。 牛頭天皇は疫神なので、祀り上げて御機嫌をとっておけば疫病から逃れられると信仰されていた。 人面の牛は神秘的であり、かつ生まれてまもなく死んでしまうところから、疫病神が自らの身を犠牲にして(死んで)疫病から人々を救ってくださる。 そんな風に考えられたのではないかと思ったりする。
鳥山石燕『百器徒然袋』より「経凛々」
①経凛々
経凛々(きょうりんりん)は、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、経文の妖怪[1]。
軍記物語『太平記』にある平安時代前期の京都西寺の祈祷僧・守敏(しゅびん)が、東寺の僧・空海との法力比べで敗れ去った逸話をもとに石燕が創作した妖怪とされる[1]。不用となって捨てられた守敏の経文が経凛々になったものだろうか、と石燕は解説文を書いている[2]。
『百器徒然袋』の妖怪は、室町時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』をモチーフとして描かれたものが多いが、この経凛々についても同様に『百鬼夜行絵巻』の中にある、くちばしの長い鳥状の妖怪が経文を頭に巻いている姿にデザイン上の共通点が見られる[2][3]。
絵に添えられた文章は、次のように記されているようである。
「尊ふとき経文のかゝるありさまは、呪詛諸毒薬のかえつてその人に帰せし 守敏僧都(しゅびんそうづ)のよみ捨てられし経文にやと、 夢ごゝろにおもひぬ。」
尊い経文がこのような有様になってしまったのは、呪詛のもろもろの毒がその人(呪詛した人)に返り 守敏僧都が詠み捨てた経文なのであろうと、夢ごころに思った。
というような意味だろうか。(まちがっていれば教えてください)
⓶空海vs守敏の雨乞い祈祷合戦
平安時代、平安京には二つの寺が建てられた。 東寺と西寺である。(現存するのは東寺のみで西寺は現存しない。)
東寺
823年、嵯峨天皇は空海に東寺を、守敏に西寺を与えた。 824年に大干ばつがおこり、空海と守敏は神泉苑で雨乞い祈祷合戦を行ったと『今昔物語』には記されている。
まず、守敏が法力で雨を降らせることに成功した。
次に空海が雨乞いを行ったが、雨は降らなかった。
守敏があらゆる雨の神(龍神)を法力で水瓶の中に封じていたのだった。
そこで空海は天竺の無熱池より善女龍王を勧請して雨を降らせた。
守敏が降らせた雨は都に降っただけだったが、空海が降らせた雨は三日にわたり国土を潤したという。
神泉苑
経凛々は、このとき守敏が呪詛に用いた経文の妖怪であり 空海に対して行った呪詛が守敏自らに跳ね返ってこのような妖怪の姿になったと、そういうことなのだろう。
③経凛々の凛々は仏具の「お鈴」からくる?
「凛々」に「しい」と送り仮名をつければ、「凛々しい」となる。 「凛々しい」とは、「きりっとしていて引き締まっているさま」を意味する言葉であるが、経凛々は凛々しいだろうか? 凛々しいかどうかは主観によるだろうが、呪詛が自らに跳ね返ったのが妖怪・京凛々なので、凛々しいとは言い難いようにも思える。
妖怪が左手に持っているお椀のようなものは仏具の「お鈴(おりん)」だろう。 妖怪の向かって左にある巻物は妖怪の右腕だと思う。 そして巻物の先に棒があるが、これは鈴棒で、妖怪がお経をあげながら、右手で「お鈴」を叩いているのだと思う。 その「お鈴(おりん)」の音が「りんりん」と鳴るところから経凛々という名前が付けられたのではないだろうか。
④経供養
私は経凛々という妖怪から、経供養を思い出した。
経供養とは、「 a経文を書写して仏前に供え、法会を営むこと」である。 また、 「b陰暦3月2日、大阪の四天王寺の太子夢殿で修する法会」のことも経供養という。 bはaのひとつということかもしれない。
かなり以前に四天王寺の経供養を見に行ったことがある。 ただし現在、四天王寺の経供養は陰暦3月2日ではなく、10月22日 (22日は聖徳太子の月命日)であり 「日本にお経が伝来したことを記念して始められた舞楽法要」とされている。 もともとは非公開で、太子殿の椽の下の庭で舞うところから「椽の下の舞”」と呼ばれていた。 しかし、現在は誰でも見学することができる。
ただし私が行った日は雨天であり、縁の下の庭ではなく、太子殿前殿で行われた。
その時、私は「お経は供養のためにあげるものなのに、そのお経を供養するんだ」と驚いたものである。 しかし、お経は供養するためにあげるだけのものではなく、守敏がやったように呪詛にも用いられるのであれば それは供養する必用がありそうである。 お経に恨みつらみが込められているのであれば、供養しなければ成仏できず、経凛々のような妖怪になってしまうからだ。
四天王寺 経供養
⑤採桑老
四天王寺の経供養で、ひときわ異彩を放つ舞があった。『採桑老(さいそうろう)』である。 老人が不老不死の薬を探し求めて舞うというもので、めったに舞われることのない幻の舞と言われている。 なぜめったに舞われることがないのかと言うと、この舞を『舞うと死ぬ』と言い伝わっているのだという。
この舞は唐のころに作られたとか、百済国の採桑翁をモデルに作られ、用明天皇(聖徳太子の父)の御代に大神公持(おがのきんもち)が伝えたなどといわれる。
その後、京方(10世紀ごろより、京方・天王寺方・南都方の3つの楽所があった)の多家(おおのけ)が伝承しており、いったん途絶えたたが、堀河天皇が天王寺方の秦公貞(はたのきんさだ)に命じて継承させたとされる。 その後、旧暦2月22日の聖徳太子の命日の法要である聖霊会において何度か舞われた記録がある。
四天王寺 経供養 『採桑老』 ※長らく、『採桑老』を舞った人は死ぬと言い伝えられていたそうですが、その後何事もおきず、舞人はお元気とのこと。
採桑翁では舞の途中で漢詩を唱える。
三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣
七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑
三十情方盛・六十行歩宜・七重杖項栄・八十座魏々はすいません、意味がわかりません。(わかる方、教えてください!)
四十気力微は「40歳は気力微かなり」、五十至衰老は「50歳で老い衰える」、九十得重病は「90歳で重病を得る」、百歳死無疑は「百歳で疑いなく死ぬ」だろうか?
九・十と百は縁起が悪いので唱えないのだという。 「採桑老を舞うと死ぬ」と言われるのはそのためではないかとする説もある。
採桑老は唐または百済で作られたといわれるが、日本に伝わり、天王寺方に継承され聖徳太子の命日に行われる四天王寺の聖霊会で舞われることで、採桑老に聖徳太子のイメージが重ねられたのではないだろうか。
梅原猛さんは聖徳太子は怨霊だといっておらる。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えたもののことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死んだ。 そのため聖徳太子は怨霊になったと梅原氏はおっしゃっている。
「採桑老を舞うと死ぬ」といわれるのは、聖徳太子の怨霊の祟りがあると考えられたからかも?
四天王寺 経供養『採桑老』
四天王寺 経供養
聖徳太子が詠んだお経にも、恨み、つらみが込められていた?
①隠神刑部
❶実録物語『伊予名草』(1805年/文化2年)・・・享保の大飢饉に際して起こったお家騒動を描いたもの。 『松山騒動八百八狸物語』(江戸末期)・・・講釈師の田辺南龍が伊予名草に狸や妖怪の要素を加えて怪談話に仕立てたもの。講談として広まった。
❷『松山騒動八百八狸物語』のあらすじ 松山の狸808匹の総帥が隠神刑部。 隠神刑部は久万山の岩屋に住み、松山城を守護し続けていた。 「刑部」は松山城の城主の先祖から授かった称号。 松平(久松)隠岐守の時代にお家騒動が起こると、隠神刑部は謀反側に助力した。
藩士・稲生武太夫(怪談『稲生物怪録』で知られ)が、宇佐八幡大菩薩から授かった神杖で隠神刑部を懲らしめ、隠神刑部は808の眷属もろとも久万山に封じ込められた。 その洞窟は、山口霊神として今でも松山市久谷中組に残されている。
松山城
⓶隠神刑部と刑部姫
これを読んで、私は「あっ」と思った。
刑部は律令制の役職のひとつで、裁判・監獄の管理・刑罰を執行する役割を担っていた刑部省の役人のことである。 「ぎょうぶ」と読む。
姫路城は姫山に建てられているが、城が建てられる以前の姫山には「刑部(おさかべ)大神」の社が建てられていたそうである。
姫路城を建設する際、豊臣秀吉が刑部大神の社を遷宮したと伝わる。
兵庫県姫路市立町33には長壁(おさかべ)神社がある。
この長壁神社が刑部大神を祀る社だろうか。
姫路城には長壁姫(おさかべひめ)という妖怪が住んでいるといわれる。 年に1度、城主に城の運命を告げるという。
長壁姫は小刑部姫、刑部姫、小坂部姫とも記す。 長壁姫は、刑部大神の幽霊ということではないだろうか。
長壁姫(おさかべひめ)と隠神刑部(いぬがみ・ぎょうぶ)は読み方が違う。 しかし長壁姫は刑部姫とも記し、隠神刑部の刑部と文字が同じである。 さらに、長壁姫と隠神刑部はどちらも城の守護神である。
刑部姫とも、長壁姫とも記すのは、もともと刑部姫であったのが、姫路城には長い壁がめぐらされているところから、別の漢字をあてたのかもしれない。
姫路城
③刑部親王は池戸親王?
長壁神社の御祭神の刑部親王は光仁天皇の皇子で、藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去したとされる。
しかし光仁天皇(709~782)の皇子の中に刑部親王という名前は見当たらない。
昔のことなので、正史に名前が残っていないということも考えられるが、
藤原百川(732 ~779)の讒言によって流罪となった他戸(おさべ)親王(761?~775)は光仁天皇の皇子である。 もしかして、刑部親王とは他戸親王のことなのかもしれない。
他戸親王の母親で光仁天皇の皇后だった井上内親王(717~775)が天皇を呪ったとして后を廃され
他戸親王はこれに連座したとして廃太子となり、母親とともに奈良県五條市の没官の邸に幽閉され14歳で急死した。
この事件は山部親王(桓武天皇)を立太子させたいと考えていた藤原百川の陰謀だと考えられている。
『おさかべ親王』と『おさべ親王』は音もよく似ている。
『諸国百物語』には、こんな話が伝えられている。
姫路城天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田輝政が病気平癒のため、比叡山の阿闍梨に加持祈祷をさせていた。
その阿闍梨の前に、三十歳ぐらいの女が現われ、「うせよ」といった。
阿闍梨が言い返すと、女は身の丈2丈(約6メートル)もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えた。
これは『愚管抄』の記述を思い出させる。
『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されているのだ。
『諸国百物語』の記述はこれに似ている。
『諸国百物語』の作者は「長壁姫=井上内親王」という認識があり、『愚管抄』の記述をまねたのではないだろうか。
とすれば、長壁姫は井上内親王である可能性もある。
しかし、池戸親王(=刑部親王?)と姫路の接点が見つからない点が気になっていた。 長壁神社の御祭神の刑部親王は光仁天皇の皇子で、藤原百川の讒言によりその地位を追われた、というのは 池戸(おさべ)と刑部(おさかべ)の発音が似ていることから創作された後付けの由緒であるかもしれない。
④亀姫
長壁姫(刑部姫)には亀姫という妹がいるという話もある。「
亀姫(かめひめ)は、福島県猪苗代町の猪苗代城(亀ヶ城)に住みついていたとされる妖怪。
~略~
『老媼茶話』には、以下のような亀姫の奇談が述べられている[2]。
1640年(寛永17年)。当時の猪苗代城の城主は会津藩の第2代藩主・加藤明成であり、堀部主膳という者が城代を務めていた。
12月のある日、堀部主膳が一人でいるところへ見知らぬ禿頭の子供が現れ「お前はまだ城主に挨拶をしていない。今日は城主が会ってやるとのことだから、急いで準備をしろ」と言った。
主膳は「この城の主は我が主人・加藤明成、城代はこの主膳であり、他に城主などいない」と言い返して睨みつけた。すると子供は笑い「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らないのか? お前の命運はすでに尽きた」と言い残して姿を消した。
年が明け、正月の朝。主膳が城の広間へ行くと、自分の席には棺桶や葬儀の道具などが置かれていた。家来たちに尋ねても、何者の仕業かはわからなかった。その日の夕方には、どこからか大勢で餅をつくような怪音が響くなどの怪異があった。その正月の18日、主膳は便所で倒れ、2日後に息を引き取った。
同年の夏のこと。7尺(約2.1メートル)もの大入道が田のそばで水を汲んでいた。それを見た城の武士が一刀のもとに斬り捨てると、それは大きな狢だった。以来、城で怪異が起ることはなかったという。
「姫路のおさかべ姫」とは姫路城の天守に住んでいたとされる妖姫・長壁姫のことであり、亀姫は長壁姫の妹とされている[3]。
長壁姫(刑部姫)、亀姫(刑部姫の妹)、隠神刑部は三柱とも城の守護神なのだ。 城の守護神には刑部という名前がつけられるというルールでもあるような感じだ。
⑤刑部城跡 ” 刑部(おさかべ)という城があるのではないかと思って検索したところ、それは存在していた。
今川義元の家臣・新田美作の居城だったが、1568年(永禄11年)に近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時ら井伊谷三人衆の案内により侵攻した徳川軍に攻められ、落城した。 その後、菅沼氏が城主となり、1572年には武田信玄が滞在したこともある。
刑部城二の丸跡に金山神社があり、次のような伝説が伝えられている。
城が落ちたとき、城主の姫が敵に辱められるぐらいなら、と城のそばの池に入水し、金色の蛇となった。 (池は埋め立てられて現存しない。)
もしかすると、この刑部城の池に身投げした姫が長壁姫(刑部姫)のルーツだろうか?
まとめておこう。
姫路城(白鷺城)・・・・・長壁姫(刑部姫) 猪苗代城(亀ヶ城)・・・・亀姫(長壁姫の妹) 松山城(金亀城、勝山城)・・・隠神刑部 刑部城・・・・金龍
⑥刑部明神は土地管理を行う神?
刑部城の池に身投げした姫が長壁姫(刑部姫)のルーツの可能性もある。 しかし長壁姫(刑部姫)のルーツは別のところにある可能性もある。
⓶で述べたように、長壁姫(刑部姫)は姫路城が建てられた姫山に、かつて祀られていた刑部明神が妖怪化したものと思われる。 刑部の意味は、「裁判・監獄の管理・刑罰を執行する役割を担っていた刑部省の役人」であることも⓶ですでに述べたが、刑部氏という氏族もいる。
刑部氏は古代氏族の部民である。
(刑部氏は)「刑部神社由来」を参考にすれば、允恭天皇の皇后であった忍坂大中姫命の部曲として各地に配置され、その料地管理などに従事していた人々。
料地とは、ある目的のために使用する土地のことである。 刑部氏は大和朝廷の土地管理を行う氏族だったということだ。 刑部明神とは土地の管理をする神ということではないだろうか?
すると刑部姫とは姫路城の土地管理をする妖怪、亀姫は亀が城の土地管理をする妖怪、隠神刑部は松山城の土地管理をする妖怪なのではないか?
刑部城は刑部氏が住んでいた土地なので地名が刑部だったのかもしれないが、刑部城の金龍も刑部という名前から刑部城の土地を管理する妖怪という性質が与えられていたのかも?
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