1⃣髪鬼
髪鬼(かみおに)または鬼髪(きはつ)とは、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、頭髪の妖怪[1][2]。
人間の女性の怨みの念や嫉妬心が自分の頭髪にこもって妖怪と化したものとされる。髪がどんどん長く伸び、その名前が示すようにあたかも鬼の角のように逆立つ。長く伸びた髪をいくら切り落とそうとも、どんどんと際限なく伸び続けてしまうという[2]。
古より人間の頭髪には不思議な力があるといわれており、その伝承を元に石燕が創作した妖怪とされる[1]。
イラストに添えられた文章は草書体で読めないが(恥)、次のように記されているようである。
「身体髪膚は父はゝの遺躰なるを、千すじの落髪を泥土に汚したる罪に、かゝるくるしみをうくるなりと言ふを、夢ごゝろにおぼへぬ」
しんたい-はっぷ【身体髪膚】
人間のからだ全体のこと。全身。▽「身体」はからだ。「髪膚」は髪の毛と皮膚の意。ここから、からだ全体をいう。からだは父母から受けた大切なものの意が込められ、出典に「身体髪膚之これを父母に受く、敢あえて毀傷きしょうせざるは孝の始めなり」とある。
現代語訳は次のようになるだろうか。
a.体・髪・皮膚は、「父母の遺体の千筋の落髪を泥土に汚した罪」で、このような苦しみを受けると言う。
そう夢の中で思った。
b.体・髪・皮膚は、父母から受け継いだ大切なものであるのに、「千筋の落髪を泥土に汚した罪」で、このような苦しみを受けると言う。
そう夢の中で思った。
bのほうが正しいような気がするが、古文に詳しい方、間違いなどあれば指摘お願いします。
⓶髪は神と音が同じなので神聖視された?
ウィキペディアは「古より人間の頭髪には不思議な力があるといわれており」と記されている。 その理由の一つは、髪と神が同音であることではないだろうか。
語呂合わせは現在ではオヤジギャクのネタだが、和歌ではそれを掛詞といい、「古にはそれは呪術であったのではないか」と私は考えている。 皆さん、よくご存じのように、日本には言霊信仰があった。
言霊信仰とは口にした言葉には実現する力があるとする信仰のことである。 このように言うと「言霊信仰とはプラス思考、マイナス思考のことなので、ものごとはポジティブに考えるべきだ」 と思われるだろう。
もちろん、これは否定しないが、発した言葉に同音異義語がある場合、同音異義語のほうが実現するとも考えられていたのではないかと思ったりする。
例えば、「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に/小野小町」 と歌った場合、本来は「花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。」という意味なのだが 「私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。」という意味になって言葉がわ実現してしまうなどだ。
※『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。
語呂合わせによって神が神格を広げたケースもある。 たとえば柿本人麻呂は人丸とも書かれ本来は衣通姫、住吉明神とともに和歌三神の一だが、「火止まる」から防火の神へ、「人産まる」から安産の神へと神格を広げている。
③髪に対する信仰
それでは髪の毛に対する信仰にはどのようなものがあるのか見てみよう。
❶京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵・・・左手に毛髪をもっており、たくさんの毛髪が奉納されている。 ❷京都・菊野大明神・・・かつて毛髪を奉納する習慣があった。縁切りにご利益あり。 ❸京都・東本願寺・・・髪の毛で作った毛綱がある。 ❹大分・椿堂・・・奉納された毛髪が祭られている。
❺京都・安井金毘羅宮・・・「櫛祭」飛鳥時代から現代までの髪型を結いあげた人々が練り歩く。縁切りにご利益あり。 ❻京都・御髪神社・・・1961年(昭和36年)に、京都の理美容関係者によって創建された。 ❼京都・金戒光明寺・・・境内にアフロ仏像(五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)がある。 ❾奈良時代、県犬養姉女が志計志麻呂を皇位につけるために称徳天皇の髪を盗んで佐保川の髑髏に入れて呪詛した。 ❿遺髪の習慣
金戒光明寺 五劫思惟阿弥陀
④鬼は髪鬼京都の鬼は角がなく、赤熊と言われる結髪しない髪型であるものが多い。 
上は京都・玄武神社のやすらい祭を撮影したものだが、赤熊の少年たちは「鬼」と呼ばれている。 鬼は赤毛だが、黒毛もいる。 
↑ これは北野天満宮 北野追儺狂言に登場した鬼である。
髪鬼とは、このような角のない結髪しない鬼のことを言うのだろう。
鬼といえば、酒呑童子・茨木童子などが有名だが、彼らはなぜ童子というのか。 結髪しない髪型を童形というそうで、それで鬼は童子と呼ばれているのだろう。
鬼だけでなく、人間の中にも童子と呼ばれる人々がいる。 下の写真は八瀬童子である。
山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住んでいる人々のことで、かつて延暦寺に隷属していた民であったという。 おそらく、非人と呼ばれる、中世に寺社に隷属していた人々なのだろう。 彼らは大人になっても結髪が許されず童形であったため、年齢に関係なく童子と呼ばれたという。
「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子
酒呑童子、茨木童子なども非人だったのだろう。
⑤非人は謀反の罪で処罰された人の子孫?
関西では中世より非人と呼ばれる人々がいて、坂の町などに住んでいた。 京都の八坂神社付近の坂には犬神人(つるめそ)と呼ばれる人々がいた。
842年、橘逸勢は皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てたとして、杖で打たれるなどの拷問を受けて流罪となった。 恒貞親王は廃太子となり、橘逸勢は姓を「非人」と改めさせられ、伊豆国へ流罪となり、伊豆へ向かう途中に亡くなった(承和の変)。 橘逸勢の娘、妙仲は出家して尼となり、妙冲と名乗り、父を葬って供養を続けたといわれている。 また逸勢は怨霊となったと考えられ、上御霊神社・下御霊神社などで祀られている。 (かつて、怨霊と神は同義語であったといわれる。)
ここから考えて、非人とは、謀反人の子孫ではないかと思う。 先祖の霊は子孫が供養・祭祀するべきと考えられていたので、橘逸勢の子孫は非人となり、怨霊となった橘逸勢の霊を供養・祭祀する役割を担ったのではないだろうか。
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①木の子
奈良県の吉野地方や兵庫県の山間部や森の中にいるとされる妖怪で、同じく山にいる妖怪である山童の一種[1][2]。
外観は2,3歳から3,4歳ほどの子供のような姿で、木の葉で作った衣服、または青い色の衣服を着ている[1][3]。人間がその姿を見るとまるで影のようで、いるかいないかはっきりしないという[1]。
少彦名神社の神農さんの像である。
神農さんは古代中国で信仰されていた医薬と農業を司る神で、日本の神・少彦名神もまた医薬の神なので習合されていたのではないかと思う。 もっとも木の子は3,4歳の子供であるのに対し、神農さんは子供のようには見えない。どちらかというと老人のように見える。
⓶山童
木の子は山童の一種であるという。 そこでウィキペディア「山童」を見てみると、次の様な内容が記されている。
①山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州をはじめとする西日本に伝わる山に出る妖怪。 ⓶河童が山の中に入った存在か? ③山𤢖(やまわろ)とも記される。「山𤢖」(さんそう)は本来、中国に伝わる妖怪の名。 ④『和漢三才図会』 九州の山奥に住む。10歳程度の子供の姿。柿褐色の長い頭髪。全身が細かい毛に覆われている。胴は短い。 2本の長い脚で直立して歩く。人の言葉を話す。 筑前国(福岡県)や五島列島にも山童がいる。人に似ている。丸顔。赤毛の長髪で目にかかる。耳は犬のようにとがっている。鼻の上に目が一つ。カニやトコロ、コウゾの根を食す。
⑤山童は墨壺を嫌うので、墨壺を使って線を打っておくと近寄ってこない。(熊本県) ⑥山中で樵(きこり)の仕事を手伝ってくれることがある。礼として酒やにぎり飯をあげると繰り返し手伝ってくれる。 ⑦山童に渡す礼の品物は約束した物でなければならず、違う物を渡すと山童は怒る。 仕事前に礼を渡すと食い逃げをされてしまう事もあった。 ⑧河童と同様、相撲をとったり、牛や馬に悪戯を働くことを好む。 ⑨人家に勝手にあがりこんで風呂に入ってゆく。山童が入浴をした湯船には脂が浮いて臭い。 ⓾天狗倒し(大木が倒れて来るような音を発する)や山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされることが多いが、西日本では山童の仕業とされることもある。 ⑪熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、畚(もっこ。藁などを編んで作った土などを運ぶ道具) ダイナマイトによる発破の音などを山童が出した。 ⑫西日本各地で、河童が山に移り住んで姿を変えたのが山童であるといわれる。
③鉄穴流し⓶河童が山の中に入った存在か? については、 「トンデモもののけ辞典119 ガラッパ」の記事の「④「山ん太郎」「川ん太郎」」に書いた。 ざっとおさらいしておこう。 たたら製鉄では砂鉄の採取に『鉄穴流し』が用いられた。
砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流す。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していく。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離する。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したという。
(比重選鉱法)
鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがあった。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもあった。
つまり、秋から冬には山でたたら製鉄を行った。これが「山ん太郎」。
そして、春から夏には『鉄穴流し』」で増えた土地に田畑をつくる。これが「川ん太郎」ではないか。
④秦氏と相撲
⑧河童と同様、相撲をとったり、牛や馬に悪戯を働くことを好む。 についても、同記事「③秦氏と相撲」に書いた。
❶『日本書紀』垂仁天皇代 に「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」の話がある。※桷力は相撲のこと
「野見宿禰 と当麻蹶速の桷力」は奈良県桜井市穴師にある穴師坐兵主神社 の摂社・相撲神社(地名はカタケヤシ)で行われたと考えられている。
❷穴師坐兵主神社 は 、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社 、巻向坐若御魂 神社 の 三 社 を合祀 した もの。
この地では、もともと穴師大兵主神社 (下社)を祀 っていた。
そこに応仁の乱 で 焼失 した 穴師坐兵主神社 (上社)が 移 り現在の形となった。
上社 焼失以 前 は 「弓月嶽 (現在の巻向山)にあり、兵主神を祀っていた。
※弓月嶽という名前は秦氏の祖・弓月君を思わせる。
❸『大倭神社注進状』 裏書 / 穴師坐兵主 神社 、穴師大兵主 神社の神体は 日矛であり、日矛は兵主神。
『延喜式神名帳』によると「兵主」と名のつく神社は20社ちかくあり、ほとんど近畿にある。特に但馬国に多い。
祭神 は、兵主神、大国主命(八千矛命、大物主命、大己貴命、素盞鳴命)
兵主神は 『記紀』に載らない神。
❹『日本書紀』/応神天皇14年、弓月君が百済より渡来した。
16年、新羅に渡を塞がれ、加羅に留 まって いた 「弓月の 民 」が渡 来する 。
『新撰姓氏録 』/「融通王 (一 に弓 月王 とい う)」 が 、 秦始皇帝 の末裔 で 、多くの民 を率 いて渡 来した。
『古語拾 遺』『新撰 姓氏録』/弓月王 が 秦氏の祖。
秦氏系渡来氏族が 弓月嶽 (現 巻向山)周辺 に も居住しており、彼らが奉じていた神が兵主神 であろう。
秦氏は兵主神を信仰する氏族であり、その兵主神を祭る穴師坐兵主神社の摂社に相撲神社があるのだ。
秦氏と相撲は関係がありそうである。
❺『延喜式神名帳 』 に は 、 兵主 と名のつく神社が19社あり、所在地には穴師の 穴という地名が複数みられる。
大和城上の穴師、坐兵主神社、穴師大兵主神社、近江野洲の兵主神社の地名は穴太、但馬出石の大生部兵主 神社の地名は 穴見。
❻穴師の地ではたたら精錬が行われていたと考証されている。
「アナ」という地名は製錬 や砂鉄採掘 、鉱山などが確認できる。
⑤山童は炭坑節を歌っていた?
河童はたたら製鉄と関係が深いようである。すると
⑪熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、畚(もっこ。藁などを編んで作った土などを運ぶ道具)
ダイナマイトによる発破の音などを山童が出した。
とある理由もわかる。
鉱物を採取するために、木をきりたおして坑道を掘ったり、坑道を掘ったときに出た土を藁で運び出したり 作業を妨げる大きな岩をダイナマイトで発破したりする必要があったのだろう。 人間の歌というのは、耕夫たちが作業をしながら歌った歌のことだろうか。 労働をしながら歌う歌のことを労働歌という。
日本にダイナマイトが入ってきたのは明治ごろなので、熊本の山童は明治以降に登場した妖怪だと考えられる。 そのころ鉱山で歌われていたのは伊田場打選炭唄などだろうか。
伊田場打選炭唄は炭坑節の原曲で明治ごろに作られたとされる。 ダイナマイトを仕掛ける、運搬するなどの際に歌われたという。 木霊がはねかえったものが聞こえたのかもしれない。
残念ながら伊田場打選炭唄は伝説のある熊本県ではなく、福岡県の民謡であるが 下の正調炭坑節の歌詞には「月が出た出た 月がでた 三井炭鉱の上にでた」とある。
私が盆踊りで覚えた炭坑節は「三井炭鉱」ではなく「三池炭鉱」だった。 そして検索すると「三井三池炭鉱」があり、その坑口は、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)・熊本県荒尾市にあるという。
上の地図をみればわかるように、三井三池炭鉱は福岡県と熊本県にまたがって存在しているのだ。
伊田場打選炭唄は見つからなかったので、正調べ炭鉱節を。
⑤山童はなぜ一つ目なのか。
山童は一つ目で描かれているが、一つ目は鉱山の神の特徴である。 なぜ鉱山の神が一つ目なのかというと、たたら製鉄では片目をつぶって火の温度をみるため、片目を失明することが多かったのだという。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「山童」
⑨人家に勝手にあがりこんで風呂に入ってゆく。山童が入浴をした湯船には脂が浮いて臭い。
とあるのは、炭坑で働く人は真っ黒けに汚れるためではないかと思う。
⑥山童が墨壺を嫌う理由
⑤山童は墨壺を嫌うので、墨壺を使って線を打っておくと近寄ってこない。(熊本県)
⑥山中で樵(きこり)の仕事を手伝ってくれることがある。 ⓾天狗倒し(大木が倒れて来るような音を発する)や山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされることが多いが、西日本では山童の仕業とされることもある。
とあるのは、鉱山の神というよりも、妖怪「木の子」的な特徴のように思える。 
城南宮 釿始め向かって左の人が手に持っているテープカッターのようなものが墨壺で、中に墨を含ませた綿がはいっている。 墨壺から糸をひきだすと、糸に墨がつく。 
城南宮 釿始め
墨のついた糸をピンと張り、指ではじくと木材に真っ直ぐな線をひくことができる。
山童が墨壺が嫌いなのは、山童が木の子であり、墨壺を用いて木材に記しつけされたあとは、鋸で切断されてしまうためではないだろうか。
しかし、山童が炭鉱の神だとすると、炭坑で採掘するのは石炭である。 私は石炭を触ったことがないのだが、石炭を触ると墨がついたように黒くなると聞いた。 そのことと、山童が墨壺を嫌うことと関係があるのかもしれない。
おまけ
※追記/山童が歌ったのは炭坑節と書いたが、ゴットン節なるものもあり、ウィキペディアは炭坑節の種類の一つとしてあげている。
とあり、ルーツは佐賀県唐津炭田なので、熊本県に出没したといわれる山童が歌ったのは炭坑節のほうかもしれないが。 歌詞は130以上あり、当時は女子供も炭坑で働いていたと記されている。
・汗をふく手に乳房が揺れる 可愛いぼうやを思い出す ゴットン ・七つ八つからカンテラさげて 坑内さがるも親の罰 ゴットン ・ヤマの坑夫が人間ならば 蝶々とんぼも鳥のうち ゴットン ・赤い煙突目当てに行けば 米のマンマがあばれ食い ゴットン
作者不詳『化け物尽くし絵巻』(江戸時代後期)
①狐火
郷土研究家・更科公護がまとめた狐火の特徴によれば、火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという[5]。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという[5]。
十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい[6]、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するという[7]。
火のなす行列の長さは一里(約4キロメートルあるいは約500~600メートル)にもわたるという[8]。火の色は赤またはオレンジ色が多いとも[6]、青みを帯びた火だともいう[9]。
現れる場所は、富山県砺波市では道のない山腹など、人の気配のない場所というが[2]、石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)では、逆に人をどこまでも追いかけてきたという伝承もある[10]。狐が人を化かすと言われているように、狐火が道のない場所を照らすことで人の歩く方向を惑わせるともいわれており[3]、長野県飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができるといわれた[11]。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあることから、狐火を行逢神(不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊)のようなものとする説も根強く唱えられている[12]。
また長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白い狐が狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もある[13]。
正岡子規が俳句で冬と狐火を詠っている通り、出没時期は一般に冬とされているが、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられている[14]。
~略~
王子稲荷の狐火
東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる[15]。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという[8][15][16]。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている[16][17]。
~略~
岡山県・備前地方や鳥取県では、こうした怪火を「宙狐(ちゅうこ)」と呼ぶ[22][23]。一般的な狐火と違って比較的低空を浮遊するもので、岡山の邑久郡豊原村では、老いた狐が宙狐と化すという[23]。また同じく邑久郡・玉津村の竜宮島では、雨模様の夜に現れる提灯ほどの大きさの怪火を宙狐と呼び、ときには地面に落ちて周囲を明るく照らし、やがて跡形もなく消え去るという[24]。明治時代の妖怪研究家・井上円了はこれに「中狐」の字を当て、高く飛ぶものを天狐、低く飛ぶものを中狐としている[22]。
~略~
英語のFoxFire(「朽ちた木の火」の意から、実際にはヒカリゴケなどの生物発光)を直訳した説
元禄時代の本草書『本朝食鑑』には、狐が地中の朽ちた木を取って火を作るという記述がある。英語の「foxfire」が日本語で「狐火」と直訳され、この「fox」は狐ではなく「朽ちる」「腐って変色する」を意味し、「fox fire」は朽ちた木の火、朽木に付着している菌糸、キノコの根の光を意味していることから[5][27]、『本朝食鑑』の記述は、地中の朽ち木の菌糸から光を起こすとの記述とも見られる[27]。
死体から出るガス等による光説
『本朝食鑑』には、狐が人間の頭蓋骨や馬の骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の『訓蒙天地弁』、江戸後期の随筆家・三好想山による『想山著聞奇集』にも同じく、狐が馬の骨を咥えて火を灯すとの記述がある[28]。長野県の奇談集『信州百物語』によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えている狐がおり、狐が去った後には人骨が青く光っていたとある[12]。このことから後に、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説が、井上円了らにより唱えられた[28]。リンが60度で自然発火することも、狐の正体とリンの発光とを結びつける一因となっている[12]。
反論
しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれているため、菌糸やリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい[27][28]。
1977年には、日本民俗学会会員・角田義治の詳細な研究により、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できるとされた[5]。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるが、現在なお正体不明の部分が多い[5]。
火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという[5]。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという[5]。
とあるのは、蛍ではないかと思ってしまう。
上はアニメ「火垂るの墓」で蛍が飛び交うシーンである。 この「火垂るの墓」は名作だが、この蛍の飛び方はまちがいである。 蛍にはゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメホタルなどあるが、こんな風に点灯したまま飛ばない。 蛍はついたり消えたりを繰り返しながら飛ぶのだ。
ゲンジボタルは点滅の間隔が長いが、点滅している。以前、ゲンジボタルを見にいったことがあるが、ゲンジボタルは小川に沿うように飛んでいた。 それは行列のようだといえるかもしれない。
また、「現れる時期は春から秋にかけて」とあるが、ゲンジボタルやヒメボタルが観測されるのは5月~6月くらいなので、時期的にもぴったりあう。(ヘイケボタルは8月ごろ)
③朝廿四考 狐火の段
しかし白狐が道案内をしたり(長野)、冬や大晦日に現れたり(東京、王子稲荷)、雨の日に現れたり(邑久郡・玉津村の竜宮島) 狐火の正体はひとつではなく、さまざまであるような印象を受ける。 そ の正体にしても、英語のFoxFire(「朽ちた木の火」、実際にはヒカリゴケなどの生物発光)を直訳した説、
死体から出るガス等による光説、角田義治の扇状地などに現れやすい光の異常屈折説、石油の発火説、球電現象説などある。
おそらく狐火といっても、原因はひとつではなく、いろいろな原因で生じるのではないだろうか。
そんな狐火のひとつに、人形浄瑠璃「本朝廿四考 狐火の段」がある。
本朝廿四孝とは武田家と上杉家の確執を脚色した物語である。 脚色したものなので、実在しない人物も登場する。 たとえば主人公の八重垣姫は架空の人物である。
中国に『二十四孝』(にじゅうしこう)という孝行に優れた24人を取り上げた書物がある。 「本朝」とは日本のことで、「本朝廿四考」とは「日本の孝行に優れた24人の孝行者の話」という意味だ。
3段目に慈悲造という者が母に命じられて雪の中筍を掘るという話が出てきまして、それが孝行者の話だということでこういうタイトルになったようだが、あまり本筋に関係のないエピソードで、それがなぜタイトルになったのだろうか。
あらすじはこんな感じ。
武田家の家宝・諏訪法性の兜を上杉家が返さないので両家は仲たがいをしていたが 和解のため、上杉の娘八重垣姫と、武田信玄の息子・武田勝頼の縁談が決まった。 そんなとき、将軍足利義晴が暗殺されるという事件がおきた。 武田晴信が犯人ではないかと疑われ、3年の間に犯人を見つけることができなければ嫡子勝頼の首を差しだすようにと求められた。 しかし3年がたっても犯人を見つけ出すことができず、勝頼の首を差し出すことになった。 武田家家老・板垣兵部はかつてこっそり自分の子供と勝頼をすりかえていたのだが、自分の子供の首を差し出すのは嫌だと思い、身代わりとして蓑作という者を連れてきた。 実は蓑作こそが本当の勝頼だった。 信玄はこれを見破り、偽の勝頼(兵部の子)は切腹した。
真の勝頼(箕作)は諏訪法性の兜を求めて甲斐から信濃へとやってきて、花作りに身をやつして上杉の屋敷に入った。 花作りが勝頼であることを見抜いた謙信は、勝頼を使いに出し、その帰りに討ち取ろうと考え刺客を送った。 謙信の娘・八重垣姫は蓑作の姿を見て「この方は勝頼にちがいない」と悟り、勝頼を助けるため、諏訪法性の兜に祈った。 「諏訪湖は凍っていて舟を出すこともできないのですが、なんとしても勝頼様にお知らせしたいのです、お助けください!」 すると諏訪明神の使いとされる白狐が現れ、八重垣姫が兜を頂くと、たくさんの狐火が燃えた。 狐が乗り移った八重垣姫は湖上を駆け抜けていった。
④諏訪湖に表れた白狐の正体は御神渡りだった?
諏訪湖では冬の寒い日に「御神渡り(おみわたり)」という現象が起こることがある。
「御神渡り」とは 氷が盛り上がって、長い筋を作る現象のことである。
諏訪大社の御祭神・建御名方命(タケミナカタ)が下諏訪に住む八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)に会いにいくときにできた足跡だと言い伝わっている。
「本朝二十四考 狐火の段」はこの伝説を元に作られたものだったのだ。 つまり武田勝頼はタケミナカタ、八重垣姫はサカトメノミコトのイメージと重ねられているのでしょう。 これにちなみ、諏訪湖には八重垣姫のブロンズ像がたてられているそうである。
この「御神渡り」ができるメカニズムは次のように考えられている。
①気温が下がると氷が収縮して裂け、そこに湖の水が入って結氷。 ②気温が上昇すると氷が膨張し、裂け目の氷が持ち上げられる。
冷凍室にビンに入ったジュースを入れて、翌朝見てみるとビンが割れていたということがある。 なんでも、水は氷るときに膨張して体積が増えるそうである。 いったん凍ってしまった氷は、気温が下がると収縮し、気温があがると膨張するということだろうか?
タケミナカタは大国主神の次男である。
天照大神は葦原中国は自分の子孫が収めるべきだとし、葦原中国の大国主命のもとへタケミカヅチとフツヌシを派遣し、大国主神に「国を譲るように」と迫らせた。 大国主神は「自分の二人の息子に意見を聞いてくれ」と言った。 そこでタケミカヅチが大国主神の長男のコトシロヌシと次男のタケミナカタに「国を譲るように」と言うと タケミカヅチは「承知した」と答えて海に入水した。 タケミナカタはタケミカヅチに力くらべを挑んだ。 タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えて(ひえ~)、タケミナカタの手を潰して投げ飛ばした。 タケミナカタは諏訪湖まで逃げましたが逃げきれなくなり、ここから出ないこと、葦原中国は天照大神の子孫に譲ることを誓った。
タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えたとあるところに注意して、もう一度、上の御神渡りの動画を見てほしい。 御神渡りは神様が渡った跡のようにも見えますが、たくさんの氷の刀が並んでいるようにも見える?
諏訪湖の御神渡りは、タケミカヅチがタケミナカタと闘った際に変身した氷の刀であるとも考えられていたのではないか。
すると「本朝廿四考 狐火の段」で八重垣姫の前にあらわれた諏訪明神の使いの白狐や狐火とは、諏訪湖にできた御神渡りのことではないかと思われる。
諏訪湖は長野にあるので、長野に伝わる「道案内をする白狐」の正体も諏訪明神であり、諏訪湖にできた御神渡りであるかもしれない。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「狐火」
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「加牟波理入道」
①加牟波理入道
『今昔画図続百鬼』では、厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられている。
大晦日の夜 厠にゆきて がんばり入道郭公 と唱ふれば 妖怪を見ざるよし 世俗のしる所也 もろこしにては厠神の名を郭登といへり これ遊天飛騎大殺将軍とて 人に禍福をあたふと云 郭登郭公同日の談なるべし
兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある[1]。松浦静山の著書『甲子夜話』にもこれと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭はたちまち小判に変わると記述されている[2]。
一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書『諺苑』では、大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる[2]。
加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典『喜遊笑覧』に、厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)[2]、中国の六朝時代の書『荊楚歳時記』にも同様、厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている[3]。また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある[4]。
和歌山県の伝承では「雪隠坊」(せっちんぼう)と呼ばれ、鳥のような声を出すという[5]。
岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている[6]。
中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある[7]。
・大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れない。 ・中国では厠の神を郭登という。郭登は遊天飛騎大殺将軍であり、人に禍い幸福を与えるという。
⓶兵庫県姫路地方の伝説 ・大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくる。 ・この生首を部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていた。
③松浦静山の著書『甲子夜話』 丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、 その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭はたちまち小判に変わる。
④江戸時代の辞書『諺苑』 大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉。
⑤文政時代の風俗百科事典『喜遊笑覧』 厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が加牟波理入道の由来。
⑥中国の六朝時代の書『荊楚歳時記』 厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉
⑦ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある。
⑧和歌山県の伝承「雪隠坊」(せっちんぼう)は、鳥のような声を出す。
⑨岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されている。 厠で見越し入道が人を脅かす。 大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れる。
⓾中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある。
十返舎一九『列国怪談聞書帖』より「がんばり入道」
⓶時鳥→郭公→郭登という謎々
「頑張り入道」というのはトイレで力むことの喩えだろうか。
「頑張り入道」のイラストを見ると、糞の妖怪のように見える😁 そして、中国のトイレの神は郭登(読み方がわからない。すいません。)である。
姓は郭、名は登とのこと。 「公」は貴人の姓名などに添えて敬意を表わす言葉である。 たとえば、藤原という姓の人に対して、貴人であるとの敬意をこめて藤原公と呼んだりする。 郭登に敬意を込める場合は、郭公、登公となる。 郭公は「カッコウ」とよむが、日本では郭公と書いてホトトギスともよむ。 頑張り入道郭公(カッコウ)→頑張り入道郭公(ホトトギス)」という謎々なのかもしれない。
③天辺かけたか
「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」という呪文になぜホトトギスがでてくるのか。 まずはホトトギスの鳴き声を聞いてみよう。
ホトトギスの鳴き声は「ホゾンカケタカ」「天辺(てっぺん)かけたか」「本尊かけたか」であるとされる。
(2)ホトトギスは平安時代すでに「死出(しで)の田長(たおさ)」といわれたように、冥土からやって来て農事を促したり、「死出の山こえて来つらん郭公」〔拾遺‐哀傷〕のように冥土の使いとしたりする俗信があり、不吉な鳥とする見方もあった。それが「本尊かけたか」という聞きなしにつながったかもしれない。
③時鳥→郭公→郭登→天辺かけたか→首が斬られる
天辺とは、「兜 のいただき」のことで、転じて、「頭のいただき」を意味するようにもなった。
兵庫県姫路地方の伝説をもう一度見てみよう。
・大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくる。
天辺は「頭のいただき」のことだった。すると、なぜ「頑張り入道時鳥」と唱えると生首が落ちてくるのかがわかる。
ホトトギスは「てっぺんかけたか」と鳴くのだった。 「てっぺん」は「頭のいただき」のことで、その「頭のいただきがかけたか」とホトトギスは鳴くのである。 「頭のいただきが欠ける」とは「首が欠ける」「首が斬りとられた」という意味である。 それで「頑張り入道時鳥」と唱えると、生首が落ちてくるのではないだろうか。
ホトトギス→天辺(頭の頂)欠けたか→首が斬られる という謎々のように思える。
④トイレは鉱山のイメージ?
・この生首を部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていた。
浦安郷土博物館 トイレ
とあるのは、正月の初夢に見ると縁起のいいものを思い出す。
「一富士、二鷹、三茄子」というが、これには続きがあって、「四扇・五煙草・六座頭」とも「四葬式、五雪隠」「四葬礼・五糞」「四葬式、五火事」と言ったりするそうだ。
私の考えではこれらは全て鉱山に関係する隠語ではないかと思う。その理由を述べる。
❶栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
延暦寺には『なすび婆』の伝説が伝えられている。
昔宮中に仕えていた女が人を殺して地獄に堕ちた。
しかし仏の慈悲によって心は比叡山に住むことが許された。
織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせた。
なすび婆とは比叡山大講堂鐘楼の銅製の鐘を擬人化したものではないか。
❷鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
❸富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。
❹扇は露天掘跡
鉱物が地表近くにある場合、坑道を作らずに地表から地下をめがけて掘っていくこともあり、これを露天堀といった。
露天掘の跡は様々な形があるのだろうが、生野銀山の露天堀跡は扇状になっている。
生野銀山 露天掘り跡
❺煙草は口にくわえた松明?
日本の鉱山で働く人々が口に松明をくわえている絵をネット上で見た記憶がある。 鉱山で働く人が、口に松明をくわえているのは、作業に両手が使えるようにするためではないだろうか。
ボリビア・ポトシ鉱山の坑道にはティオという神様の像が祀られていて、煙草をお供えする習慣がある。
なぜ煙草なのかというと、鉱山で働く人々は口に松明をくわえるので、それを煙草に見立てたのではないだろうか。
ティオの写真はこちら↓
❻六座頭は暗闇で働く坑夫を意味する?
座頭とは江戸時代の盲人の階級のひとつである。昔の坑道には照明などなく真っ暗だったことだろう。 暗いと物がよく見えない。座頭とは坑夫の隠語ではないかと思ったりする。
座頭
❼葬式の際、土を掘って穴に遺体をおさめる。これは穴を掘ってその中にはいる鉱夫のイメージ。
❽トイレは現在は水洗が主流だが、汲み取り式トイレは穴の中に排泄する。これも鉱山のイメージ。
❾火事は、たたら吹きや鋳造のようすを比喩的に表現したものではないか。
すなわち、トイレは鉱山のイメージなので、トイレで転がってきた生首は黄金に変わったとされたのではないか。
③松浦静山の著書『甲子夜話』
丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、
その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭はたちまち小判に変わる。
というのも同様の謎々だと思う。
この話では「頑張り入道の首」となっている。 頑張り入道とは糞の妖怪であり、その糞が小判のような価値のあるものに変わるということだろう。
①角大師
京都などでよく見かけるお札といえば、角大師さんのお札だ。 角大師さんのお札は疫病退散にご利益があるとされる。 僧名は良源(912- 985)といい、平安時代に比叡山の天台座主だった人のことだが 現在もあつく信仰されており、人々は尊敬と親しみをこめて「角大師さん」と呼んでいる。  元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)
御覧のとおり、角大師さんは痩せて角の生えた鬼のような姿で描かれるが、これが良源であるという。 なぜ良源は鬼のような姿で描かれ、角大師さんと呼ばれているのか。
⓶角大師さんと桜と疫病の関係
角大師さんの伝説として、次のようなものがある。
伝説① ある年の春のこと、御所に参内した良源は、庭園の桜の美しさに惹かれて、しばらく散策していました。 不意に、女官らが花見の酒宴をしているところに出くわし、無理やりという感じで引っ張りこまれます。しばらくの間、座興に調子を合わせていましたが、「今日は、ほんとうによいお花見をさせてもらいました。そのお礼に、私も一つ、一番得意とする百面相をお目にかけます」と、みなに合図があるまで顔を伏せるように言いました。 しばらくして、「はい」と呼び声があったので、女官らが顔を上げると、そこには恐ろしい二本角の鬼の姿が。腰を抜かした女官らは、恐怖のあまりまた顔を伏せます。音一つしないので、おそるおそる顔を上げると、さっきまで鬼がいた場所には誰もいず、良源の姿も消えていたそうです。
この話は桜と疫病と鬼の関連を思わせる。
昔の人は「桜の花びらに乗って疫神が散っていく」と考え、そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神神社で『鎮花祭』を行うようになった。 京都の今宮神社や玄武神社では4月8日にやすらい祭が行われているが、そのルーツは『鎮花祭』で、これに念仏踊りを加えたものである。
赤い髪をした少年たちが念仏踊りを行うが、彼らは角はないが鬼と呼ばれている。 京都の追儺式などでは角のない鬼が登場することが多い。
玄武神社 やすらい祭
つまり、桜の花びらにのって疫病が広がるのを、鬼が念仏踊りを踊って鎮めるというのが、やすらい祭の趣旨だといえる。
角大師さんのお札は、疫病退散にご利益があるとされるのだった。 角大師さんの伝説では、花見の席で角大師さんは鬼に返信するのだが、これは「花びらにのって疫病が広がるのを、阻止しようとした角大師さんが鬼に変身した物語だとみることができるのではないだろうか。
③疫病を退散させるため瞑想した角大師さん
伝説⓶ それは、良源の最晩年73歳の時の話。夜更けに瞑想の境地に浸っていると、何か不穏な空気が漂ってきます。ほの暗い灯りの陰に怪しい者がいるので、良源は「何者ぞ」と尋ねます。すると、こんな答えが返ってきました。
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しています。あなたもまた、これに罹らなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
おりしも、巷では疫病が蔓延していました。良源のもとを訪れたのは、それを広めている疫病神だったのです。
逃れえぬ因縁と考えた良源は、左の小指を指し出し、「これに付いてみよ」と言います。すると、たちまち高熱を発して、尋常でない苦痛をおぼえたため、得意の秘法の一つを行い、身体の中に入った疫病神を弾き出しました。疫病神は逃げ出し、良源はすぐに体調を回復します。
良源は弟子を集め、鏡を持ってくるように言い、二つ三つ指示を出しました。それから、鏡の前に座り、瞑想に入ります。そうするうち、鏡に映る姿が変貌していき、頭から角を生やして、骨の浮き出た鬼のようになりました。他の弟子たちが恐ろしさにひれ伏すなか、気丈で知られた明普阿闍梨が、鏡の妖魔を描き取りました。
目を見開いた良源は、絵を見て満足気にうなずき、すぐに版木におこし、お札を摺るよう伝えます。摺り上げられたお札に加持を施した良源は、ふもとの家という家に配布し、戸口に貼ってもらうよう命じました。畿内に疫病が猛威をふるうなか、お札を貼っている家の人だけは難を免れたそうです。
以来、民衆はこれを角大師と称え、こぞってそのお札を貼るようになり、今に至るというわけです。
角大師さんの生没年は912年10月15日~985年1月26日である。 この物語は角大師さんが73歳の時の話だとあるので、984年春ごろを舞台としている。 角大師さんは瞑想にふけるうち、角が生え、骨の浮き出た鬼のような姿になったというのである。
伝説③ 若き日の良源は日々きびしい修行に明けくれ、仏前での読経三昧を続けていた。そのようにして良源が解脱の域に達し、立派な僧侶として完成してしまうと、誠に困るのが悪鬼・邪鬼の類で、彼らは良源の修業をしきりに妨害しようとし、妖術を使って世俗的な誘惑をさまざまなやり方で仕掛け、修業をやめさせようとこころみる。しかるに良源は食を絶って不断の読経と瞑想とを続け、やせ衰えて骨と皮だけの身となり、自らも鬼のごとくの姿に化して悪鬼・邪鬼の妨害をはねのけ、ついに解脱を達成した。角大師は、その時の良源を描いたもので、鬼神と化した異様な姿の放つ霊力で妖魔を撃退する、だから寺の山門や檀徒家の玄関口にそれを貼って、魔除けとするようになった、とのことだった。
こちらの伝説にはいつ頃の話であるのかについては記されておらず、瞑想に読経と食断ちが加わっている。
伝説④ 永観二年〈984年)、全国に疫病が流行して、ちまたでは疫病の神が徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。お大師さまは、この人々の難儀を救おうと大きな鏡に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ、禅定(坐禅)に入られるとお大師さまの姿はだんだんと変わり骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人の明音阿闍梨だけが、このお姿を見事に写しとられた。お大師さまは写しとった絵を見て版木でお札を刷るように命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して、各家の戸口に貼り付けるように再び命じられ、病魔退散の実を示されたのであった。やがて、このお札(角大師の影像)のあるところの病魔は怖がられて、よりつかず一切の厄難から逃れることが出来た。以来、千余年このお札を角大師と称し、元三大師の護符としてあらゆる病気の手本と厄難の消除に霊験を顕し、全国に崇めらているのである[鹿野,2004:pp.50-51]。
伝説④は伝説①と同じく、時代は984年である。 この年、疫病が流行り(疫病神が徘徊し)角大師さんが禅定を行うと骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になったとある。
伝説⓶・・・984年、瞑想にふけるうち、角が生え、骨の浮き出た鬼のような姿になった。 伝説③・・・食を絶って不断の読経と瞑想とを続け、やせ衰えて骨と皮だけの身となり、自らも鬼のごとくの姿に化した。伝説④・・・984年、疫病が流行り、角大師さんが禅定を行うと骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になった。
空海は高野山奥の院に入定し、現在も禅定を続けているとされる。 空海は生きていると信じられ、いまでも食事が供されている。
入定というのは即身仏になるべく、五穀をたって木食修行をして脂肪をおとし(こうして死後腐りにくい体にする) 漆のお茶をのんで胃の中のものを吐きだし、洞窟や土中に埋められてミイラ化することをいう。 埋められたあとは、命がつきるまで読経を続けたなどといわれる。
角大師さんは入定して骨と皮だけの即身仏になったということではないだろうか。
即身仏は山形県の湯殿山などに多く残されている。 湯殿山は水銀土壌であり、そこに生える草や木の実を食べて木食修行すると水銀が体内に取り込まれて死後腐りにくい体になったという。 しかし京都大原にも一体即身仏は残されている。
残念ながら現在拝観できないが、阿弥陀寺に即身仏が存在している。 阿弥陀寺がある京都大原は、比叡山のふもとにあって、京都市街よりも2,3度気温が低い。
そのような寒冷な気候のため即身仏が残されたのだろう。
角大師さんの御廟(良源御廟)は比叡山にあるが、比叡山は大原よりもさらに気温が低いので、 一定期間、即身仏が残されていた可能性はある。
④天然痘の神から豆の神へ
伝説⑤
元三大師のお札には、豆大師というものもあります。
江戸時代の寛永年間(1624~1645)のこと、大坂の百姓が、豊作祈願のため比叡山の横川を訪れました。
熱心に祈っていると、来るときには小雨だった雨足が土砂降りになり、自分の水田が気になって仕方ありません。
田植えを終えたばかりなのに、洪水ですべてが流されてしまうのではないかと、寺の僧に苦衷を訴えたところ―
「田作りの守護をして下さるお大師さまにお参りに来ていて、それは何をいうて御座るぞ、いまこそ一途にお大師さまにお祈りする時じゃないか」
百姓は気を取り直して、懸命に祈りました。
とはいうものの、やはり心配は収まらず、大雨の中を急ぎ足で自分の村を目指します。近づくほどに洪水のもたらした被害が大きくなり、半ば諦めかけたところで村にたどり着きました。
案の定、村の田畑は、全滅といっていい被害を受けていました。ところが、くだんの百姓の田だけは、被災していないのに驚きます。村人に質すと―
「三十人余りの子供上がりの若者が、手に手に桶や鍬を持って来てサ、畔をつくるやら、水を汲み出すやら、いやもうその働きの素早いこと、手際のよいこと、おぬしの田だけが苗の顔が見えていらア」
その若者たちがやってきたのは、まさに百姓が、横川で僧に諭されて、一心不乱に祈っていた時刻と一致していました。
百姓が再び横川に参詣すると、前回会った僧に事の次第を話しました。すると、僧は次のように答えを返したそうです。
「お大師さまは観音さまの御化身じゃから、三十三身になぞらえて、三十三人の童子となってお救い下されたのじゃと思います」
この出来事が元になって、33体もの小さい良源の姿絵を描いたお札を、豆大師(魔を滅するということで魔滅大師)と呼んで貼られるようになったのです。
これは角大師さんが疫病除けの神から、語呂合わせで豆の神となり、さらに農耕の神、雨の神へと神格が広がった結果生じた物語ではないだろうか。
984年に流行した疫病が何なのか、はっきりしないが、当時畏れられていた疫病は天然痘だった。 天然痘では体中に豆のようなぶつぶつができるところから、豆の神→農耕の神→雨の神と神格が広がったのではないか。
勧修寺
①画霊
画霊(がれい)は、藤原家孝による文政時代の日本の随筆『落栗物語』前編にある怪異で、人物画に画家の執念が乗り移るといわれるもの。
概要
その昔、勧修寺という宰相家に、女性の絵が描かれたぼろぼろの屏風があった。あるとき、穂波殿の侍所からその屏風の借用を依頼され、勧修寺は快く貸し出した。
しかしその後、穂波殿の屋敷近辺で怪しげな女性が出没するようになった。あるときに女性を目撃した者が、その跡をつけてみると、女性は屏風のもとまで移動して姿を消した。穂波殿では屏風を気味悪がり、もとの勧修寺へ返却した。
すると今度は勧修寺の方にも、その女性が現れるようになった。屏風を怪しんだある者が、絵に描かれた女性の顔に細長い紙を貼り付けてみたところ、現れる女性も顔に細長い紙を付けていた。
いよいよ屏風を怪しんだ勧修寺では、絵師にその屏風の調査を依頼した。すると絵師が言うには、その屏風の絵は江戸時代に画家として名を馳せた土佐光起のものであり、貴重なものだということだった。
勧修寺は絵を修復し、大切に保管することにした。それ以来、あの女性が現れることはなかったという[1]。
⓶勧修寺は藤原高藤・胤子父娘ゆかりの寺
この物語に登場する勧修寺とは京都府山科区にある勧修寺のことだろうか。
勧修寺の創建は900年、醍醐天皇が右大臣藤原実方に命じて造立させたとされる。 その目的は醍醐天皇の生母・藤原胤子(実方の同母妹)の菩提を弔うためで、胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅が寺に改められたという。(勧修寺縁起)
※胤子が生前に創建したとする史料もある。
勧修寺という寺名前は胤子の父・藤原高藤の諡号をとったものである。 勧修寺近くの民家には勧修寺を造立した藤原実方の墓があるとのこと。 写真を見ると亀の上に墓碑がたてられており、その後ろに墳墓があります。
藤原実方の墓から徒歩10分程度のところの鍋岡山山頂に藤原高藤の墓がある。
墓碑には「贈正一位太政大臣藤原高藤墓」と記されているとのこと。
勧修寺
②高藤・列子のエピソードは作り話
藤原胤子の父親は藤原高藤、母親は宮道列子であるが、高藤と列子にはこんな説話伝えられている。
高藤が南山階に鷹狩に出かけたとき、急な雨にみまわれて宮道弥益(山城国宇治郡大領)の屋敷を訪れた。
高藤は弥益の娘・列子に一目ぼれして一夜の契りを結んだ。
翌日帰宅した高藤は父・良門に厳しくしかられ、鷹狩を禁止された。
6年後、高藤は列子と再会するが、列子は胤子という娘を連れていた。
胤子は6年前に高藤と契ったときにもうけた子供だった。
胤子は成長して宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになった。
高藤は父・良門に鷹狩を禁止されたとあるが、これは事実とは考えにくい。
というのは良門は高藤がうまれて間もなく亡くなったとされているからである。
③天皇の外祖父だったのに昇格できなかった藤原高藤
①で、藤原高藤の墓碑に「贈正一位太政大臣」と記されていると書いたが、これは藤原高藤の死後に「正一位」が送られたということであす。
藤原高藤の最終官位は内大臣正三位である。
高藤は父親の良門が低い地位のまま亡くなってしまったため、昇進が遅く、長い間従五位だった。
そして娘の胤子は光孝天皇の第七皇子で、臣籍降下していた源定省の妻となった。
ところが、887年、源定省は皇族に復帰して即位した。宇多天皇である。
つまり高藤は天皇の義父になったわけで、このとき正五位下に昇進している。
893年には胤子の生んだ敦仁親王が立太子して、翌894年には高藤は従三位、895年には参議となっている。
897年には敦仁親王が即位(醍醐天皇)し、高藤は正三位・中納言に。
899年には大納言となった。
900年、高藤は危篤となり、天皇の外祖父であることから大臣昇進が検討された。
しかし、当時左大臣には藤原時平、右大臣には菅原道真がいました。
高藤を大臣にするためには、藤原時平・菅原道真いずれかを太政大臣にする必要があったのだが、両者とも太政大臣の資格を満たしていなかった。 そこで100年以上途絶えていた内大臣という役職を復帰させて高藤をこれに任じた。
しかし昇進後2か月で薨去し、死後に正一位・太政大臣の官位が送られた。
④藤原基経の後押しを受けて即位した宇多天皇
歴史をもう少しさかのぼってみよう。
藤原良房という人物が娘の明子を文徳天皇に入内させ、紀静子が生んだ第一皇子の惟喬親王をおしのけて、明子が生んだ惟仁親王を生まれたばかりで立太子させた。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、藤原良房は養女の藤原高子を清和天皇に入内させた。
そして高子が生んだ貞明親王がわずか9歳で即位して陽成天皇となった。
そして藤原高子の兄で、藤原良房の養子の藤原基経が摂政となった。
この陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子だという説がある。
というのは、伊勢物語に在原業平と高子が駆け落ちをしたという話があるからですある。
陽成天皇は源益を殺したとして退位させられているが、退位させられた本当の理由は彼が在原業平の子だからではないだろうか。
そして藤原基経は仁明天皇の第三皇子である時安親王を55歳で即位させた。(光孝天皇)
時安親王の母親は藤原沢子という人で、基経の叔母にあたる人である。
光孝天皇は基経の後ろ盾を得て即位したということで基経には逆らえなかったのではないかと想像する。
光孝天皇は陽成天皇の弟の貞保親王をはばかって26人の皇子皇女を臣籍降下させている。
光孝天皇が重体に陥ったとき、基経は後継者に源定省(宇多天皇)を推した。
貞明親王は基経の妹・藤原高子の子なのですが、当時基経と高子は大変仲が悪かった。
(高子と在原業平の関係が気にいらなかったのだろう。)
そしてその源定省(宇多天皇)の妻が、藤原高藤の娘だったということである。
891年に藤原基経はなくなったが、基経の子の時平が権力をひきついで左大臣になっていた。
そういうわけで藤原高藤は天皇の外祖父となっても権力を持つことができなかったのだろう。 このように見てみると、勧修寺は高藤の娘・胤子を弔うという目的のほか、高藤を弔うための寺という意味も持っていそうに思える。
それで寺名を高藤の諡号である「勧修」としたのではないだろうか。
妖怪・画霊の話では、「勧修寺という宰相家」とある。 宰相とは参議のことであるが、藤原高虎の経歴を思い出してみると、895年に参議となっている。 「勧修寺という宰相家」とあるのは、藤原高虎のことだろうか。
藤原高虎・従五位
887年、源定省は皇族に復帰して即位した(宇多天皇)。 高藤の娘・胤子は源定省の妻となっていたため、藤原高藤は天皇の義父となる。藤原高虎・正五位下に昇進。 893年 胤子の生んだ敦仁親王が立太子 894年 藤原高藤・従三位 895年 藤原高虎・参議 897年 敦仁親王が即位(醍醐天皇)、藤原高藤は正三位・中納言。
899年 藤原高虎・大納言。 900年、藤原高藤は危篤となり、内大臣。という役職を復帰させて高藤をこれに任じた。 藤原高虎、昇進後2か月で薨去。死後に正一位・太政大臣。
すると、勧修寺という宰相家にあった屏風に描かれた女性とは、高藤の妻で宇多天皇の女御・胤子を産んだ 宮道列子なのではないか?
画霊の話は高虎と列子の一夜の契り伝説をベースに創作されたもののように思える。
勧修寺
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