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トンデモもののけ辞典119 ガラッパ

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①ガラッパ

ガラッパは、南九州に伝わる河童の一種[1]。鹿児島県薩摩川内市の川内川に生息しているというのが全国的に有名。

概要
川辺に住み、頭に皿があり、春と秋に山と川を行き来するといわれている[1]。
目に見えずに声や音だけが聞こえる正体不明の化け物とも言われている[2]。特定の人にしか見えないともいう[3][4]。 熊本県の八代・人吉球磨などの県南部では河童、山童のことを「ガラッパ」と呼ぶ。また鹿児島県本土全体でも河童をガラッパと呼ばれている[5]。 八代市本町にはかっぱの渡来の碑が建てられている。仁徳天皇の時代には九千坊が率いたかっぱの集団が中国から上陸した説がある。また熊本県南の人吉球磨地方では「山ん太郎」「川ん太郎」と呼び分けられている[6]。
外見
一般の河童より手足が長いのが特徴で、座ると膝が頭より高い位置にくる[7]。全身に毛があり、後ろ足で立って歩く。皮膚の色は人間と同じ茶褐色である[8]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%91 より引用


⓶ガラッパは秦氏?

ウィキペディア「ガラッパ」の説明に「仁徳天皇の時代には九千坊が率いたかっぱの集団が中国から上陸した説がある。」とあるのが気になる。
※九千防とはガラッパの親分のようである。

古代、大勢渡来したとされるのが秦氏である。
日本書紀によれば「応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた」とある。

ガラッパは「仁徳天皇代に中国から」、秦氏は「応神天皇代、百済から」日本にやってきたとされ、異なっている。

しかし、日本書記は古代の天皇が100歳を超える長寿であるなど、実際よりも歴史を古く偽ったと考えられており
秦氏が日本にやってきたのは5世紀ごろだと考えられている。

その理由は、『日本書紀』では応神天皇三年〈272年)に「百済の 阿花王が即位した。」とあるのだが、
 『三国史記 』は阿花王の即位 は 392年としていて120年のずれがあるのだ。
すでに述べたように日本書紀は実際よりも歴史を古く偽っていると考えられるため、『三国史記』を正しいとすると
弓月君が渡来したのは応神天皇14年〈283年)とされるが、実際には400年(4 世紀末~5 世紀初 )ぐらいだということになる。
秦氏は実際には仁徳天皇代に渡来帰化したのかもしれない。

そして秦氏は百済からやってきたと日本書記は記すが、秦氏は秦の始皇帝の子孫を称していた。
すると、秦氏は中国系渡来人であり、中国からやってきたといえなくもない。

秦氏の本拠地としては、京都の太秦が有名だが、大阪府寝屋川市にも太秦という地名があり、秦河勝の墓もある。
太秦古墳群からは渡来人の遺物が出土しているとのこと。

秦河勝の墓

秦河勝の墓

仁徳天皇が行ったと伝わる淀川の治水工事、茨田堤の跡もちかくにあり、この工事には秦氏が協力したとされる。

茨田堤跡(寝屋川市)

茨田堤跡

そして茨田堤を築く際、人柱に選ばれたコロモコが「本当の神ならば瓢箪を沈めてみよ」といい、瓢箪が沈まなかったためコロモコは人柱にならずに済んだという伝説がのこり
このコロモコと仁徳天皇を祀る友呂岐神社もある。

友呂岐神社

友呂岐神社

ガラッパとは秦氏のことかもしれない。

上の説明をまとめておこう。

・応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた(日本書紀)
 実際には5世紀頃やってきたと考えられている。仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半の人物。
・秦氏は百済からやってきた(日本書記)
 秦氏は秦の始皇帝の子孫を称していた。(秦氏は中国系渡来人)
・大阪府寝屋川市にも太秦は秦氏の本拠地のひとつであり、仁徳天皇を祀る神社もある。
・仁徳天皇の治水工事を秦氏が協力した。

ガラッパを秦氏とすると、秦氏は治水工事を行うなど川と関係が深いので、河童に喩えられたとも考えられる。

③秦氏と相撲

ガラッパは相撲が好きだとウィキペディアには記されている。

そして、
という記事に、次の様な内容が記されている。


❶『日本書紀』垂仁天皇代 に「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」の話がある。※桷力は相撲のこと
「野見宿禰 と当麻蹶速の桷力」は奈良県桜井市穴師にある穴師坐兵主神社 の摂社・相撲神社(地名はカタケヤシ)で行われたと考えられている。

❷穴師坐兵主神社 は 、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社 、巻向坐若御魂 神社 の 三 社 を合祀 した もの。
この地では、もともと穴師大兵主神社 (下社)を祀 っていた。
そこに応仁の乱 で 焼失 した 穴師坐兵主神社 (上社)が 移 り現在の形となった。
上社 焼失以 前 は 「弓月嶽 (現在の巻向山)にあり、兵主神を祀っていた。
※弓月嶽という名前は秦氏の祖・弓月君を思わせる。

❸『大倭神社注進状』 裏書 / 穴師坐兵主 神社 、穴師大兵主 神社の神体は 日矛であり、日矛は兵主神。
『延喜式神名帳』によると「兵主」と名のつく神社は20社ちかくあり、ほとんど近畿にある。特に但馬国に多い。
祭神 は、兵主神、大国主命(八千矛命、大物主命、大己貴命、素盞鳴命)
兵主神は 『記紀』に載らない神。

❹『日本書紀』/応神天皇14年、弓月君が百済より渡来した。
16年、新羅に渡を塞がれ、加羅に留 まって いた 「弓月の 民 」が渡 来する 。
『新撰姓氏録 』/「融通王 (一 に弓 月王 とい う)」 が 、 秦始皇帝 の末裔 で 、多くの民 を率 いて渡 来した。
『古語拾 遺』『新撰 姓氏録』/弓月王 が 秦氏の祖。
秦氏系渡来氏族が 弓月嶽 (現 巻向山)周辺 に も居住しており、彼らが奉じていた神が兵主神 であろう。

秦氏は兵主神を信仰する氏族であり、その兵主神を祭る穴師坐兵主神社の摂社に相撲神社があるのだ。
秦氏と相撲は関係がありそうである。

④「山ん太郎」「川ん太郎」

春と秋に山と川を行き来するといわれている[1]。
~略~
また熊本県南の人吉球磨地方では「山ん太郎」「川ん太郎」とと呼び分けられている[6]。


この山と川を行き来するというガラッパの特徴も、この記事にそのヒントが記されている。
「河童 が相撲を取 りたがる」という伝承 に 関する研究
野見宿禰 と河童の 別称で ある 「ひ ょ うずべ 」の 関係 を中心 と して 一

❶『日本書紀』垂仁天 皇 に「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」の話がある。※桷力は相撲のこと
「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」は奈良県桜井市穴師に穴師坐兵主神社 の摂社・相撲神社(地名はカタケヤシ)で行われたと考えられている

❷『延喜式神名帳 』 に は 、 兵主 と名のつく神社が19社あり、所在地には穴師の 穴という地名が複数みられる。
大和城上の穴師、坐兵主神社、穴師大兵主神社、近江野洲の兵主神社の地名は穴太、但馬出石の大生部兵主 神社の地名は 穴見。

❸穴師の地ではたたら精錬が行われていたと考証されている。
 「アナ」という地名は製錬 や砂鉄採掘 、鉱山などが確認できる。

たたら製鉄では主に砂鉄が用いられ、砂鉄の採取には『鉄穴流し』が用いられた。
砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流す。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していく。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離する。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したという。
(比重選鉱法)

鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがあった。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもあった。

つまり、秋から冬には山でたたら製鉄を行った。これが「山ん太郎」。
そして、春から夏には「山ん太郎」は川を流れて里に下りてきて、田畑を潤すということではないかと思う。

⑤ガラッパはなぜ手足が長いのか

ガラッパはなぜ手足が長いのだろうか。
これについてはよくわからない。
秦氏は手足が長い民族だったのだろうか。



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とんでももののけ辞典118 烏天狗と鼻の高い天狗、鼻高仙人



①天狗、太郎坊天狗、磯天狗、 太陽・月を食べる天狗

私はいままでにたくさん天狗の記事を書いている。簡単にまとめておこう。

天狗
舒明天皇九年(637年)の記事に次のような記述がある。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がした。僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言った。
天狗とは、流星、火球、彗星のことではないか。

・役行者と奈良時代の修行僧・雲遍上人が愛宕山で祈祷をしていると、大小合わせて9億余りの天狗で愛宕山は埋め尽くされた。
9億もの数の天狗(=流星)は流星群ではないか。
愛宕山信仰はお盆と関係が深い。(お盆の行事・松上げは愛宕山信仰からくるといわれる。)
お盆の時期に観測される流星群はペルセウス座流星群である。
・愛宕山の天狗は全国各地の天狗の惣領(長男)格なので「太郎坊天狗」と呼ばれた。
空海の高弟であった僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けたという。
太郎坊天狗とは惟喬親王そのもの、または惟喬親王についた真言宗(空海は真言宗の開祖なので)の僧侶のことだろう。

・漁師が雨の夜に海に出たところ、大量の魚が採れたが、どこからか火の玉が飛来し、草鞋を頭に乗せて念仏を唱えたところ火の玉が消え、採った魚が無くなっていた。
『日本書紀』によれば637年に大流星があり、これを僧旻が 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言ったとある。
磯天狗とは磯に落ちてきた(ように見える)流星、または火球ではないか。
・海上に小さな白煙が回転しながら現れて次第に大きさを増し、竜巻のような凄まじい風と共に山へ飛来し、また飛び去ってゆく。
竜巻は瓦や鉄板を飛散させるので、石も飛散させるのだろう。
磯を形成する岩は天から降ってきた星であるだけでなく、竜巻が運んできたと古の人々は考えていたのかもしれない。

・日神と月神が、人間の起死回生の薬を盗んだので、人々は犬に日と月と追いかけさせた。
日神と月神は薬を飲んでいたので、犬が噛んでも死なないが、犬は追いかけて日月を食う。
そのため日食・月食がおこる。(中国の天狗食日食月信仰)
・記紀によれば、イザナギが左目を洗ったところ天照大神(日神)が、イザナギの右目を洗ったところ月読命(月神)が、鼻を洗ったところスサノオがうまれた。
一方陰陽道の宇宙観によると、東は太陽の定位置、西は月の定位置、中央は星とするのだという。
東は左、西は右である。(地図の側からみる)
つまり、イザナギの顔は宇宙(天)であり、イザナギの顔の中央にある鼻から生まれたスサノオは星の神であろう。
スサノオは天照大神にいたずらをし、これがきっかけで天照大神は天の岩屋戸に隠れてしまい、高天原は闇になった。
天照大神は天岩戸からでてきて、高天原には再び光がさすようになったが、スサノオは高天原を追放された。スサノオは天照大神と対立関係にあったのである。
・天津甕星と言う神がいる。不思議なことに記紀神話には星の神はこの天津甕星たった一柱しか登場しない。
そして、この天津甕星もまた天照大神と対立する神であり、天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した神と記されている。
どうやら星の神は、天照大神に抵抗する神のようである。
天照大神に抵抗する神という点において、スサノオと天津甕星はイメージが重なる。二神は同一神ではないだろうか。
・なぜ星にくわれて日食・月食がおこるなどと言う伝説ができたのだろうか。
月食が起こって月が見えなくなると星がよく見える。
日食が起こると夜のように暗くなって星が見えると聞いたこともある。
当然流星も見えただろう。つまり星が日月の輝きを奪ったと昔の人は考え、それをを「犬が食べる」と表現して、このような伝説が作られたのではないだろうか。

⓶烏天狗と鼻の高い天狗

剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近世に入ってから主流となったものである[6]。

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私は天狗とは流星(または火球、彗星)を擬人化したものだと考えている。
流星は空を飛ぶので、翼のある烏の姿にされたのだろう。

鼻の高い天狗はユダヤ人に喩えられることがある。
たしかにユダヤ人は鼻が高く、赤ら顔で、額にはテフリン(テフィリン)をにつけるがそれが日本の修験道の頭襟に似ているなどと言われる。

上の写真の烏天狗の額、下の絵に描かれた鼻の高い天狗の額にも頭襟がつけられている。
テフリンの画像はこちら→https://tobecatholic.org/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E6%96%B9-2/

天狗

しかし、鼻の高い天狗の登場が近世だとすると、それをもって、日ユ道祖論を説くのはおかしいかもしれない。
秦氏の先祖である弓月君が日本にキリスト教とともに入ってきたとする説があるが、
弓月君が日本にやってきたのは応神天皇14年とされるので、5世紀頃だろうか。
そうであれば、もっと古い時代から鼻の高い天狗がいてしかるべきではないかと思ったりする。

天狗は流星を擬人化したものだと私は考えているので、天狗が空を飛ぶ烏のような姿をしているのは納得がいく。
しかし、鼻の高い天狗はどのようにして創作されたのだろうか。

上の絵では、天狗の下に鼻の長い象が描かれている。
聖天さんやガネーシャは象の頭を持っている。

雙身歡喜天

歓喜天(聖天さん)

儀式で祀られるガネーシャ像 (ドイツ連邦共和国・ケルン)

儀式で祀られるガネーシャ像 (ドイツ連邦共和国・ケルン)

女神パールヴァティーが、自らの垢を集めて人形を作り命を吹き込んだのがガネーシャ。
パールヴァティーが浴室に入っているとき、ガネーシャは父・シヴァの入室を拒んだため、首をはねられた。
シヴァはガネーシャが自分の子だと知って、切り捨てたガネーシャの頭を探しにいったがみつからず
象の首を斬り落としてガネーシャの体につけて復活させたのだという。

ということは、天狗の鼻が長いのは、象の頭をつけて復活したという事なのかもしれない。
天狗は流星の神であると同時に、ドクロの神だということなのかもしれない。

③鼻高仙人

もうひとつ、天狗が流星の神であるといえる理由がある。

奈良・霊山寺には次のような伝説がある。

小野妹子の子の小野富人は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住んた。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭した。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げた。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けた。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼んだ。

728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼになった。
このとき、安倍内親王の父・聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、「湯屋の薬師如来に祈れば治る」とお告げがあった。
聖武天皇は行基に登美山を参拝するよう、命じたところ、阿倍内親王の病は回復した。
734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけた。

壬申の乱は672年に勃発した内乱である。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位した。
敗れた大友皇子は自害した。

小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたということだろう。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がない。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金である。

伝説では小野富人は小野妹子の子であるとしている。
しかしウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっているが、富人の名前はない。

672年、本当の右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹である。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となった。
672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦っている。
しかし大友皇子側が敗れ、金は捕えられて処刑、金の子孫は流罪となった。

この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年(669年?)に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中の佐久奈度神社である。

この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面がある。
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものだとされる

鼻高面は赤い顔をした天狗の面である。

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあった。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金だった。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面がある。
そして佐久奈度神社の鼻高面は中臣金のイメージと重なる。
中臣金=鼻高面
鼻高仙人と呼ばれた小野富人(鼻高仙人)と中臣金(鼻高面)は同一人物なのではないだろうか。
小野富人(鼻高仙人)=中臣金(鼻高面)

中臣金は672年に死亡しているが、小野富人はこの年から登美山に住んでいる。
登美山に住んだ小野富人とは、死んだ中臣金の霊なのかも?

「小野富人が薬湯を作った」とは「小野富人の霊が薬湯を作った」という意味だろう。

今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言ったりする。

「728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼになった。」
「このとき、安倍内親王の父・聖武天皇の夢枕に現れた鼻高仙が現れ、「湯屋の薬師如来に祈れば治る」とお告げがあった。」
とあるが
この流星は小野富人(鼻高仙人)=中臣金(鼻高面)ではないだろうか。


ふたつの夫婦岩

①檜原神社

奈良山の辺の道沿いに檜原神社がある。
檜原神社には柱に注連縄をかけただけの素朴な鳥居があり、鳥居の向こう側には二上山が見える。
二上山は向かって右側が雄岳、向かって左側が雌岳と呼ばれている。

檜原神社より二上山を望む

檜原神社より二上山落日を望む

⓶二見ヶ浦の夫婦岩

3月、私は檜原神社から二上山に落ちる夕日を眺めていて、三重県伊勢市二見町江・二見ヶ浦にある夫婦岩を思い出した。
YouTubeに素晴らしい動画があったのでお借りした。(ありがとうございます!)


夏至の日、男岩と女岩の間から海の向こうに見える富士山から朝日が昇ってくる。
私も一度深夜から出かけて見にいったことがあるのだが、残念ながら水平線のあたりに雲がでて富士山や日の出を拝むことはかなわなかった。

二見ヶ浦の海岸から朝日を望むと、向かって左側が男岩で向かって右側が女岩となっている。
二見ヶ浦にある夫婦岩は二上山とは雌雄が逆になっているのだ。

大和は青垣の山に囲まれた土地で、伊勢は海に囲まれている。
さらに大和では二上山に夕日が没し、伊勢では夫婦岩から朝日が昇ってくる。

夫婦岩には注連縄が掛けられているが、檜原神社の注連縄はまるで二上山にかける注連縄のようにも見える。

二見ヶ浦はまるで檜原神社から二上山を見た風景を鏡に映して逆にしたような場所ではないか。

檜原神社 三つ鳥居

檜原神社 三つ鳥居

③檜原神社は元伊勢だった。

檜原神社と伊勢には関係がある。

10代崇神天皇の代まで天照大神と倭大国魂神はともに宮中で祀られていた。
ところが疫病が流行り、人民の中には朝廷に背くものも現れた。
そのため天皇は二柱の神とともに生活するのが恐ろしくなり、倭大国魂神は渟名川入姫命、天照大神は豊鍬入姫命に託し、宮中の外で祀らせた。
渟名川入姫命渟名川入姫命は長岡崎で、豊鍬入姫命は倭国笠縫邑で天照大神を祀った。
笠縫邑の比定地は諸説あるが、檜原神社だとする説が有力である。

その後、年老いた豊鍬入姫命にかわって倭姫が天照大神を祀るようになった。
倭姫は天照大神を祀るるにふさわしい土地を求めて各地を転々とした。
最後に伊勢にやってきたとき、天照大神は「この神風の伊勢の国は常世之浪 の重浪(しきなみ)よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。」と託宣した。
こうして伊勢に天照大神を祀る伊勢神宮が建てられた。


赤印二見ヶ浦の左斜め下(東南)に伊勢神宮が、地図上部の明和町とあるところに伊勢斎宮跡がある。

④二見ヶ浦は伊勢神宮領だった。

倭姫命が天照大神の鎮座される土地を求めてやってきたとき、伊勢の海を二度見たという伝説がある。
『二見ヶ浦』という地名はここからくると言われている。
また二見ヶ浦は神宮の御塩(おしお)と御贄(おにえ)を調達するための神宮領であったといい、伊勢神宮と関係の深い土地である。

天照大神はなぜ「伊勢に鎮座したい」と託宣したのだろうか。
それは二見ヶ浦の風景が、檜原神社から見る風景を鏡に映したような場所であったからではないだろうか。

檜原神社から見る風景が陰(二上山に日が沈むため)だとすると、二見ヶ浦の風景は陽(夫婦岩から日が昇るため)、というわけである。

⑤伊勢斎宮跡と檜原神社はどちらも北緯34度32分!

上記サイトに次のように記されている。

伊勢斎宮跡、箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺、大鳥神社など著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並ぶ。(仏像写真家の小川光三さんによる。)

写真を始めてから、私は写真を始める前の自分がいかにものを漠然と見ていたかということに気が付いた。
写真を始めると観察力が身についてくる。(まだまだ未熟だが~)

小川光三さんも写真家ならではの観察眼と、フィールドワークでこれを発見したのだろう。
すばらしい発見!そしてこの北緯34度32分を太陽の道と名付けられた。

伊勢斎宮跡は三重県多気郡明和町にある、斎宮が執務した場所である。(上の地図を参照してください)

⑥糸島の夫婦岩


二見が浦という地名は福岡県糸島市志摩桜井にもある。
こちらのほうは行ったことがないのだが、夏至の日、男岩と女岩の間に夕日が沈むという。

三重県伊勢市市二見町江 伊勢志摩(いせしま)・二見ヶ浦 夫婦岩(向かって右/女岩、向かって左/男岩)夏至の日に朝日がのぼる

福岡県糸島市志摩桜井  糸島(いとしま)  ・二見が浦 夫婦岩(向かって右/男岩、向かって左/女岩)夏至の日に夕日が沈む

ふたつの夫婦岩にもなにか呪術的な仕掛けがありそうだ。

この謎がとけたとき、ひとつ古の人の心(古の人が何を考えていたのか)がわかるだろう。






[ 2023/03/21 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)