トンデモもののけ辞典119 ガラッパ
①ガラッパ
ガラッパは、南九州に伝わる河童の一種[1]。鹿児島県薩摩川内市の川内川に生息しているというのが全国的に有名。
概要
川辺に住み、頭に皿があり、春と秋に山と川を行き来するといわれている[1]。
目に見えずに声や音だけが聞こえる正体不明の化け物とも言われている[2]。特定の人にしか見えないともいう[3][4]。 熊本県の八代・人吉球磨などの県南部では河童、山童のことを「ガラッパ」と呼ぶ。また鹿児島県本土全体でも河童をガラッパと呼ばれている[5]。 八代市本町にはかっぱの渡来の碑が建てられている。仁徳天皇の時代には九千坊が率いたかっぱの集団が中国から上陸した説がある。また熊本県南の人吉球磨地方では「山ん太郎」「川ん太郎」と呼び分けられている[6]。
外見
一般の河童より手足が長いのが特徴で、座ると膝が頭より高い位置にくる[7]。全身に毛があり、後ろ足で立って歩く。皮膚の色は人間と同じ茶褐色である[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%91 より引用
⓶ガラッパは秦氏?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%91 より引用
⓶ガラッパは秦氏?
ウィキペディア「ガラッパ」の説明に「仁徳天皇の時代には九千坊が率いたかっぱの集団が中国から上陸した説がある。」とあるのが気になる。
※九千防とはガラッパの親分のようである。
※九千防とはガラッパの親分のようである。
古代、大勢渡来したとされるのが秦氏である。
日本書紀によれば「応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた」とある。
日本書紀によれば「応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた」とある。
ガラッパは「仁徳天皇代に中国から」、秦氏は「応神天皇代、百済から」日本にやってきたとされ、異なっている。
しかし、日本書記は古代の天皇が100歳を超える長寿であるなど、実際よりも歴史を古く偽ったと考えられており
秦氏が日本にやってきたのは5世紀ごろだと考えられている。
秦氏が日本にやってきたのは5世紀ごろだと考えられている。
その理由は、『日本書紀』では応神天皇三年〈272年)に「百済の 阿花王が即位した。」とあるのだが、
『三国史記 』は阿花王の即位 は 392年としていて120年のずれがあるのだ。
すでに述べたように日本書紀は実際よりも歴史を古く偽っていると考えられるため、『三国史記』を正しいとすると
すでに述べたように日本書紀は実際よりも歴史を古く偽っていると考えられるため、『三国史記』を正しいとすると
弓月君が渡来したのは応神天皇14年〈283年)とされるが、実際には400年(4 世紀末~5 世紀初 )ぐらいだということになる。
秦氏は実際には仁徳天皇代に渡来帰化したのかもしれない。
そして秦氏は百済からやってきたと日本書記は記すが、秦氏は秦の始皇帝の子孫を称していた。
すると、秦氏は中国系渡来人であり、中国からやってきたといえなくもない。
すると、秦氏は中国系渡来人であり、中国からやってきたといえなくもない。
秦氏の本拠地としては、京都の太秦が有名だが、大阪府寝屋川市にも太秦という地名があり、秦河勝の墓もある。
太秦古墳群からは渡来人の遺物が出土しているとのこと。
太秦古墳群からは渡来人の遺物が出土しているとのこと。
茨田堤跡
そして茨田堤を築く際、人柱に選ばれたコロモコが「本当の神ならば瓢箪を沈めてみよ」といい、瓢箪が沈まなかったためコロモコは人柱にならずに済んだという伝説がのこり
このコロモコと仁徳天皇を祀る友呂岐神社もある。
このコロモコと仁徳天皇を祀る友呂岐神社もある。
ガラッパとは秦氏のことかもしれない。
上の説明をまとめておこう。
・応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた(日本書紀)
実際には5世紀頃やってきたと考えられている。仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半の人物。
・秦氏は百済からやってきた(日本書記)
秦氏は秦の始皇帝の子孫を称していた。(秦氏は中国系渡来人)
・大阪府寝屋川市にも太秦は秦氏の本拠地のひとつであり、仁徳天皇を祀る神社もある。
・仁徳天皇の治水工事を秦氏が協力した。
ガラッパを秦氏とすると、秦氏は治水工事を行うなど川と関係が深いので、河童に喩えられたとも考えられる。
上の説明をまとめておこう。
・応神天皇14年(283年)、秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人を率いて日本にやってきた(日本書紀)
実際には5世紀頃やってきたと考えられている。仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半の人物。
・秦氏は百済からやってきた(日本書記)
秦氏は秦の始皇帝の子孫を称していた。(秦氏は中国系渡来人)
・大阪府寝屋川市にも太秦は秦氏の本拠地のひとつであり、仁徳天皇を祀る神社もある。
・仁徳天皇の治水工事を秦氏が協力した。
ガラッパを秦氏とすると、秦氏は治水工事を行うなど川と関係が深いので、河童に喩えられたとも考えられる。
③秦氏と相撲
ガラッパは相撲が好きだとウィキペディアには記されている。
ガラッパは相撲が好きだとウィキペディアには記されている。
そして、
という記事に、次の様な内容が記されている。
❶『日本書紀』垂仁天皇代 に「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」の話がある。※桷力は相撲のこと
「野見宿禰 と当麻蹶速の桷力」は奈良県桜井市穴師にある穴師坐兵主神社 の摂社・相撲神社(地名はカタケヤシ)で行われたと考えられている。
❷穴師坐兵主神社 は 、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社 、巻向坐若御魂 神社 の 三 社 を合祀 した もの。
この地では、もともと穴師大兵主神社 (下社)を祀 っていた。
そこに応仁の乱 で 焼失 した 穴師坐兵主神社 (上社)が 移 り現在の形となった。
上社 焼失以 前 は 「弓月嶽 (現在の巻向山)にあり、兵主神を祀っていた。
※弓月嶽という名前は秦氏の祖・弓月君を思わせる。
❸『大倭神社注進状』 裏書 / 穴師坐兵主 神社 、穴師大兵主 神社の神体は 日矛であり、日矛は兵主神。
『延喜式神名帳』によると「兵主」と名のつく神社は20社ちかくあり、ほとんど近畿にある。特に但馬国に多い。
祭神 は、兵主神、大国主命(八千矛命、大物主命、大己貴命、素盞鳴命)
兵主神は 『記紀』に載らない神。
❹『日本書紀』/応神天皇14年、弓月君が百済より渡来した。
16年、新羅に渡を塞がれ、加羅に留 まって いた 「弓月の 民 」が渡 来する 。
『新撰姓氏録 』/「融通王 (一 に弓 月王 とい う)」 が 、 秦始皇帝 の末裔 で 、多くの民 を率 いて渡 来した。
『古語拾 遺』『新撰 姓氏録』/弓月王 が 秦氏の祖。
秦氏系渡来氏族が 弓月嶽 (現 巻向山)周辺 に も居住しており、彼らが奉じていた神が兵主神 であろう。
秦氏は兵主神を信仰する氏族であり、その兵主神を祭る穴師坐兵主神社の摂社に相撲神社があるのだ。
秦氏と相撲は関係がありそうである。
秦氏と相撲は関係がありそうである。
④「山ん太郎」「川ん太郎」
春と秋に山と川を行き来するといわれている[1]。
~略~
また熊本県南の人吉球磨地方では「山ん太郎」「川ん太郎」とと呼び分けられている[6]。
また熊本県南の人吉球磨地方では「山ん太郎」「川ん太郎」とと呼び分けられている[6]。
この山と川を行き来するというガラッパの特徴も、この記事にそのヒントが記されている。
「河童 が相撲を取 りたがる」という伝承 に 関する研究
野見宿禰 と河童の 別称で ある 「ひ ょ うずべ 」の 関係 を中心 と して 一
❶『日本書紀』垂仁天 皇 に「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」の話がある。※桷力は相撲のこと
「野見宿禰 と当麻 蹶速 の桷力」は奈良県桜井市穴師に穴師坐兵主神社 の摂社・相撲神社(地名はカタケヤシ)で行われたと考えられている
❷『延喜式神名帳 』 に は 、 兵主 と名のつく神社が19社あり、所在地には穴師の 穴という地名が複数みられる。
大和城上の穴師、坐兵主神社、穴師大兵主神社、近江野洲の兵主神社の地名は穴太、但馬出石の大生部兵主 神社の地名は 穴見。
❸穴師の地ではたたら精錬が行われていたと考証されている。
「アナ」という地名は製錬 や砂鉄採掘 、鉱山などが確認できる。
たたら製鉄では主に砂鉄が用いられ、砂鉄の採取には『鉄穴流し』が用いられた。
砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流す。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していく。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離する。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したという。
(比重選鉱法)
鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがあった。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもあった。
つまり、秋から冬には山でたたら製鉄を行った。これが「山ん太郎」。
そして、春から夏には「山ん太郎」は川を流れて里に下りてきて、田畑を潤すということではないかと思う。
そして、春から夏には「山ん太郎」は川を流れて里に下りてきて、田畑を潤すということではないかと思う。
⑤ガラッパはなぜ手足が長いのか
ガラッパはなぜ手足が長いのだろうか。
これについてはよくわからない。
秦氏は手足が長い民族だったのだろうか。
これについてはよくわからない。
秦氏は手足が長い民族だったのだろうか。
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