1⃣かまど神
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[6]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[7]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[8]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[9]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[9][10]。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である
2⃣ひょっとこは火男
東北地方ではひょっとこをかまど神として祀る地方があり、次のような伝説が伝えられているという。
おじいさんは火の神様から変な顔をした男の子をもらい、「火男」と名付けて育てた。
火男はヘソをいじりすぎて腫れてしまった。
おじいさんがキセルでヘソを叩くと小判が出てきて、ヘソは小さくなった。
それを見たおばあさんは、巨大なキセルを持って火男を追いかけまわし、火男は、火になってかまどに飛び込み、火の神様のもとへ帰ってしまった。
おじいさんは悲しんで、火男のお面を彫ってかまど近くの柱にかけた。
この火男が訛ってひょっとこになったという。
3⃣火男、防火の神から安産の神に転じる。
京都のお盆の風物詩といえば六斎念仏だが、その六斎念仏の演目の中に『祇園囃子』がある。
祇園囃子というと祇園祭の山鉾がかなでるゆっくりしたリズムを思い浮かべる方も多いかもしれないが、
六斎念仏の祇園囃子はそれよりも少しテンポが早い。
京都にはいくつかの六斎念仏保存会があり、同じタイトルの演目でも微妙に内容がちがっていたりするのだが
祇園囃子の中に、ひょっとことおかめが登場するものがある。
ひょっとこは手に「火の用心」と書かれた巻物をもっている。

梅津六斎
おかめはお腹の大きい妊婦の姿をしている。

梅津六斎
これは、かまど神=火男=ひょっとこが、防火の神、安産の神に変身したということだろうと思う。
なぜならば、このような言い伝えがあるからだ。
和歌の神・柿本人麻呂は人丸ともよばれており、「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと。
かまど神=火男=ひょっとこも「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと考えられるだろう。
3⃣ひょっとこの正体は聖徳太子?
私はひょっとこの正体は聖徳太子かもしれない、と思ったりする。
その理由は、2⃣でお話しした伝説に登場する子供は「火男」ということだったが、
「ひょうとく」と言う名前であったともつたえられているのだ。
「ひょうとく」と聖徳は音がよく似ている。
音が似ているというだけならば、説として弱いが、ほかにも理由がある。
京都の千本釈迦堂にはこんな話が伝えられているのだ。
千本釈迦堂 おかめ千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。
大報恩寺 柱の升組
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。
しかし、このおかめ伝説には、ちょっとひかかるところがある。
それは、おかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてである。
飛騨守というのは役職名である。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していた。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守、飛騨の国司なのである。
飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやったりするだろうか?
飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていた。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発されたので、大工業が発達した。
おかめの夫の長井飛騨守高次は創作の人物で、建築の神なのではないだろうか。
建築の神として信仰されているのは聖徳太子である。
世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれています。
創業は飛鳥時代の578年で、現在も四天王寺からほど近い場所にある。
聖徳太子=ひょうとく=ひょっとこ
聖徳太子=建築の神=長井飛騨守高次
∴ひょっとこ=長井飛騨守高次
そしてひょっとことペアになるのはおかめである。
そういうわけで長井飛騨守高次の妻はおかめであるとして、千本釈迦堂の伝説は作られたのではないか?
この千本釈迦堂には聖徳太子の信仰があったとおもわれるふしもある。
大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂があり、お堂の上部には、太子堂と記した額がかけられていた。
大報恩寺 太子堂 説明板
お堂の額には太子堂と記されているが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっていた。
説明板には次のような内容が記されています。
1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。
説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はなかった。
しかし、太子とは聖徳太子のことではないだろうか。
4⃣応仁の乱の戦火をまぬがれた寺
大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開いた。
この付近は西陣と呼ばれますが、それは『応仁の乱(1467-1477)』で西軍の陣が置かれたことに由来する。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及びましたが、奇跡的にも焼失をまぬがれた。
「応仁の乱で焼けなかったのは火の神のご利益にちがいない」と、人々は噂したことだろう。
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