①かなつぶて
かなつぶては、大和国奈良坂[注 1]で金礫という武器を使って人々から略奪を働いたという化生の者。金礫、金飛礫とも。平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の中で鈴鹿山の立烏帽子と並んで奈良坂のかなつぶてという盗賊が処刑されたことが記されている[注 2][1]。
御伽草子版
『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう[原 1]、りゃうせん(りょうせん)[原 2]などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。
大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した[2]。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った[2]。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた[2]。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた[2]。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する[2]。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった[2]。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた[2]。
⓶金礫とは何か?
上に「法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた」とある。
金礫とはなんだろうか。
ウィキペディアは次の様に説明している。
武器としての金礫
『田村の草子』では、りょうせんが金礫を打つ腕前は唐土にて500年、高麗国にて500年、日本で80年、奈良坂で3年かかって磨いたものであったという[2]。また太郎礫、次郎礫、三郎礫という3つの金礫を使い、太郎礫は600両の金を使い山を盾にしようとも微塵に打ち崩してしまうほどの金の礫で、三郎礫は300両の金の礫である[2]。
「小石を投げる」ことを「飛礫(つぶて)を打つ」という。
つまり、りょうせんは金礫を投げる修行を、中国で500年、朝鮮で500年、奈良坂で3年したということだろう。
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類。
太郎礫・・・600両の金を用いて作った礫。礫から身を守るために山を盾にしても破壊する。
三郎礫・・・300両の金を用いて作った礫。
③奈良坂は都に通じる坂
次に奈良坂の場所を確認しよう。
グーグルマップで奈良坂を検索すると京都府木津川市市坂奈良坂とでてくるが、ここではないだろう。
かねつぶてがあらわれるのは「大和国奈良坂」とあり、大和国とは奈良のことなので、
奈良市の般若寺・奈良豆比古神社付近の坂のことを言っていると思う。
奈良坂は平安京の南に位置する。古には京への貢物の運搬にこの奈良坂が用いられていたのだろう。
④三人翁と郎礫、次郎礫、三郎礫は関係ある?
奈良坂にある奈良豆比古神社には伝統芸能「翁舞」が伝えられている。
能(江戸時代までは猿楽といった)に翁という作品があり、翁舞はこの翁のルーツであると考えられるのだが
能の翁に登場する翁は1人であるのに対し、奈良豆比古神社の翁舞には三人の翁が登場し、三人翁と呼ばれている。

奈良豆比古神社 翁舞
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類だったことを思い出してほしい。
三人翁はりょうせんの金礫と関係がありそうにも思える。
⑤浄人王は弓削浄人?
奈良豆比古神社には翁舞に関係する、次のような伝説が伝えられている。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
『桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、』
とあるが、これは皇族であった浄人王を臣籍降下させて弓削姓を与えたということだろう。
臣籍降下した浄人王は弓削浄人と名乗ったのではないか?
弓削浄人と言う名前には聞き覚えがある。
奈良時代、女帝の称徳天皇の寵愛をえて政治の実権を握った僧侶、道鏡。
宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、称徳天皇は確認のため和気清麻呂を宇佐に派遣する。
しかし和気清麻呂は「「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし(道鏡を天皇にするべきではない)。」とする別の神託をうけとって都に戻り称徳天皇に伝えた。
これを聞いた称徳天皇は怒り、和気清麻呂を流罪にしてしまう。
しかしその翌年、称徳天皇は急死し、道鏡は失脚して下野へ流罪となり、失意のまま亡くなった。
弓削浄人はこの道鏡の弟である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴(浄人王の兄弟が安貴王なので)というのかもしれない。
⑥ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?
5⃣の伝説では、「志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患って奈良坂の庵で療養した。」とある。
に「しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
⑦志貴皇子と春日王は同一人物?
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。
志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
春日王・・・・・・・田原太子
皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
さらに『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
すると5⃣の伝説は、ハンセン病を患ったのは志貴皇子、浄人王は弓削浄人、安貴王は弓削道鏡ということになる。
⑧志貴皇子暗殺説
本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。
❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
この一連の推理が正しければ、道鏡にも正当な皇位継承権があったということになる。
すると称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由がわかる。
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」とは何だ。
道鏡には正当な皇位継承権があるではないかと。
⑨猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
京都府宇治田原市・大宮神社の境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは7⃣に書いたように、志貴皇子のことである。
宇治田原という地名は志貴皇子=田原天皇にちなむ地名なのではないだろうか。
田原天皇社舊(旧)跡
そしてこの大宮神社からほど近いところに、猿丸神社があり、猿丸大夫を祀っている。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
猿丸神社 歌碑
猿丸神社境内にはこの歌を刻んだ歌碑があり、楓の木が植えられている。
たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないだろうか。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
下の写真は志貴皇子邸宅跡と伝わる奈良市・白毫寺であるが、子の挽歌にちなんでか、境内にはたくさんの萩が植えられている。
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は能(猿楽)のルーツかもしれない翁舞の三番叟(さんばそう)の姿をしている。(能・翁や奈良豆比古神社の翁舞では長い烏帽子をかぶった三番叟の舞がある。)
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。
猿丸神社 狛猿
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。
新日吉神社 猿のレリーフ
そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられているのだ。
すでにお話ししたように道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。
日光東照宮 三猿
また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
そして、猿丸大夫は政治的に不遇であった父と二人の息子、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのではないだろうか。
⓾猿の撃退法
上の記事、3ページに「サルの撃退法口承」について次のように記されている。
左礫の村では、農作物を荒す猿を追い払うための方法として、次のようなことを行ったと記されている。
❶藁に火をつける
❷葬式のマネをする。
❸サル撃ち
❹槍でついた(明治時代)
❺サルマキ 雪が深いとき、猿が足から血を出すくらいに追う。
❻杖地区 猿をとると祟りがある
❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った
❽殺した猿はみせしめに柿の木につるしたの図がある。
「❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った」とある。
礫とは小さい石のことなので、これはまさしく「礫を打つ」ことである。
礫を打って、猿を追うわけである。
「かなつぶて」とは志貴皇子、道鏡、弓削浄人の三猿が金の礫に化成したものなのかもしれない。