1⃣かまど神
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[6]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[7]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[8]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[9]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[9][10]。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。
2⃣大黒天はかまどの神
前回は、ウィキペディアの記事にあるカマ神(かまど神)=火男=ひょっとこ についてお話した。 今回はウィキペディアには記されていないが、大黒天についてお話したいと思う。
大黒天は、インドから中国を経由して日本に伝わってきました。特に中国では「かまどの神」と崇められていたため、日本でも大黒天は台所のかまどを司る神様として崇められるようになっていきます。
大黒天はかまどの神なのだ。
3⃣延暦寺
大晦日、私は滋賀県大津市の延暦寺に行った。 延暦寺では大晦日の午後11時ごろより追儺式を行っている。
黄鬼は笑い鬼で、『むさぼりの心』を
青鬼が泣き鬼で『"ねたみ"の心』を
赤鬼は怒り鬼で"『怒りの心』を表しているという。 
法師の法力によって心を入れ替えた赤鬼・青鬼・黄鬼は力を合わせて無明鬼を倒す。
灰色の着物に黒い面を被っているのが『無明鬼』である。
黄鬼は「むさぼりの心」、青鬼は「ねたみの心」、赤鬼は「怒りの心」を表すというような もっともらしい説明で納得してはいけない 笑。 もうすこしつっこんで、それでは説明のない無明は何をあらわしているのか、と考えることが必用ではないか?
②闇の神、厨房の神になる。
追儺式が終わると年が明けて元旦になった。 そのあと比叡山国宝殿に行ってみると、数点の大黒天像が安置されていた。
大黒天はもとはヒンズー教のマハーカーラという神だった。
マハーカーラとは『大いなる闇』という意味で、シヴァ神の化身とされ、破壊・戦闘の神だった。 ところがマハーカーラはしだいに厨房の神へと神格を変えていく。
唐の僧義浄が著した「大唐南海寄帰内法伝」には
『インドの寺院の台所の柱には、金の袋を持ち、像高二尺から三尺(約60~90センチ)ほどのマハーカーラが祀られている。
油で拭かれて黒くなっている。 』
と記されているそうである。
日本へは遣唐使だった最澄が持ち帰り、ここ延暦寺の厨房の神(かまどの神)として祀ったのが最初と伝えられている。
③闇の神はなぜ厨房の神になったのか?
マハーカーラはなぜ厨房の神(かまどの神)となったのか?
厨房では火を扱うため、ときとして火事になることがある。
マハーカーラは『大いなる闇』なので、火消しにぴったりの神として信仰されるようになったのではないだろうか。
すると追儺式に登場する『無明鬼』とは『明りのない鬼」という意味なので、マハーカーラ(大いなる闇)と同一神なのかもしれない。
これは興福寺追儺式に登場した大黒天
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今日は歴史ではなく、便秘の話をしようと思う(笑)
最近、人間ドッグにいったところ、「血糖値がやや高めなので、間食をひかえるように」と指導を受けた。 血糖値が高いというと太っていると思われるかもしれないが、私はどちらかといえば痩せているほう。
私は御飯はあまり食べない。(少しは食べる。もっと食べたほうがいいのかもしれないが) しかし甘い物は好きで、午後3時くらいにクッキーやケーキ、アイスクリームなどを食べるのが習慣になっていた。
それとキシリトールガム。 私は花粉症がひどく、汚い話だが、鼻水が喉のほうへ流れていって、しょっちゅう、えずいていた。(嘔吐反射) そういうとき、飴をなめると、唾液がでるせいか、ラクになることに気がつき、飴をなめるようになった。 しかし、飴では虫歯になるので、キシリトールガムにかえたのだった。 ガムは軽い依存性があると思う。 だんだんと、嘔吐反射がおきないときにもガムをかむようになってしまったのだ。 ネットを調べると「人工甘味料でもインシュリンはでる」と書いてあった。
そこで、果物以外の甘い物を控えようと考えた。
朝食にはシリアルにヨーグルト、はちみつをかけて食べることが多かったのだが シリアルには砂糖が入っている。 そこで、朝食は納豆とお味噌汁やスープに変えた。
間食をやめるように言われたが、看護婦さんの言いつけを破って(笑) 果物やチーズ、牛乳などを少しだけ。
昼食、夕食は今まで通り。砂糖の入っている調味料などもあるが、そこまでは気にしていない。 便秘解消のために飲んでいたドリンクも砂糖が入っているので、やめた。
そしてキシリトールガムは食後だけにして、嗚咽反射はマスクや鼻炎の薬で対処することにした。 キシリトールガムの依存性は強くないようで、控えることに特につらさはなかった。 これから花粉症シーズンになってくると、嗚咽反射がつらくなるかもしれないが、一応、いまのところは。
甘い物を控えるようにしてから1か月ほどたつが、体調に変化があったように思う。 それは次の2点。
①便秘が解消された。 便秘解消のため、便秘にきくというドリンクを飲んだり、アボガドやキウイを食べたりもしたが 最初のうちはきいても、だんだん効かなくなってくるということを経験していた。 毎日40分程度のウォーキングもしていた。
それでも全く解消されなかったのが、甘い物を控えるようにしてから、 それまでは鹿のフンのようにコロコロしていて硬かったのが、普通の状態になったのだからびっくり。
ネットで検索すると便秘の原因として砂糖もあげられていたので たぶん、砂糖を控えたことで改善されたのではないかと思っている。
⓶日中、眠くなりにくくなったような気がする。
※知識のない素人考えですので、参考まで。
1⃣かまど神
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[6]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[7]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[8]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[9]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[9][10]。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である
2⃣ひょっとこは火男
東北地方ではひょっとこをかまど神として祀る地方があり、次のような伝説が伝えられているという。
おじいさんは火の神様から変な顔をした男の子をもらい、「火男」と名付けて育てた。 火男はヘソをいじりすぎて腫れてしまった。 おじいさんがキセルでヘソを叩くと小判が出てきて、ヘソは小さくなった。 それを見たおばあさんは、巨大なキセルを持って火男を追いかけまわし、火男は、火になってかまどに飛び込み、火の神様のもとへ帰ってしまった。 おじいさんは悲しんで、火男のお面を彫ってかまど近くの柱にかけた。
この火男が訛ってひょっとこになったという。
3⃣火男、防火の神から安産の神に転じる。
京都のお盆の風物詩といえば六斎念仏だが、その六斎念仏の演目の中に『祇園囃子』がある。 祇園囃子というと祇園祭の山鉾がかなでるゆっくりしたリズムを思い浮かべる方も多いかもしれないが、 六斎念仏の祇園囃子はそれよりも少しテンポが早い。
京都にはいくつかの六斎念仏保存会があり、同じタイトルの演目でも微妙に内容がちがっていたりするのだが 祇園囃子の中に、ひょっとことおかめが登場するものがある。
ひょっとこは手に「火の用心」と書かれた巻物をもっている。  梅津六斎
おかめはお腹の大きい妊婦の姿をしている。 
梅津六斎
これは、かまど神=火男=ひょっとこが、防火の神、安産の神に変身したということだろうと思う。
なぜならば、このような言い伝えがあるからだ。 和歌の神・柿本人麻呂は人丸ともよばれており、「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと。
かまど神=火男=ひょっとこも「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと考えられるだろう。
3⃣ひょっとこの正体は聖徳太子?
私はひょっとこの正体は聖徳太子かもしれない、と思ったりする。 その理由は、2⃣でお話しした伝説に登場する子供は「火男」ということだったが、 「ひょうとく」と言う名前であったともつたえられているのだ。 「ひょうとく」と聖徳は音がよく似ている。
音が似ているというだけならば、説として弱いが、ほかにも理由がある。
京都の千本釈迦堂にはこんな話が伝えられているのだ。
千本釈迦堂 おかめ千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。 棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。
大報恩寺 柱の升組
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。
しかし、このおかめ伝説には、ちょっとひかかるところがある。
それは、おかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてである。
飛騨守というのは役職名である。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していた。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守、飛騨の国司なのである。
飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやったりするだろうか?
飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていた。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発されたので、大工業が発達した。
おかめの夫の長井飛騨守高次は創作の人物で、建築の神なのではないだろうか。
建築の神として信仰されているのは聖徳太子である。
世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれています。
創業は飛鳥時代の578年で、現在も四天王寺からほど近い場所にある。
聖徳太子=ひょうとく=ひょっとこ 聖徳太子=建築の神=長井飛騨守高次 ∴ひょっとこ=長井飛騨守高次
そしてひょっとことペアになるのはおかめである。 そういうわけで長井飛騨守高次の妻はおかめであるとして、千本釈迦堂の伝説は作られたのではないか?
この千本釈迦堂には聖徳太子の信仰があったとおもわれるふしもある。 大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂があり、お堂の上部には、太子堂と記した額がかけられていた。
大報恩寺 太子堂 説明板
お堂の額には太子堂と記されているが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっていた。
説明板には次のような内容が記されています。
1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。
説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はなかった。 しかし、太子とは聖徳太子のことではないだろうか。
4⃣応仁の乱の戦火をまぬがれた寺
大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開いた。
この付近は西陣と呼ばれますが、それは『応仁の乱(1467-1477)』で西軍の陣が置かれたことに由来する。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及びましたが、奇跡的にも焼失をまぬがれた。
「応仁の乱で焼けなかったのは火の神のご利益にちがいない」と、人々は噂したことだろう。
竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「神隠(かみかくし)」の題で描かれた隠し神(右)
1⃣神隠し 子供などが行方不明になって、見つからず、いつまでたっても帰ってこないような場合、 「神隠しにあった」などという。 神隠しを行う神を隠し神というそうである。
この神の正体については、考察するまでもなく、行方不明になったのは神の仕業(悪い神を含む)だと考えたか そう自分の心に言い聞かせることで、大切な人がいなくなってしまったことを自分自身を納得させようとしたものといえるだろう。
2⃣人身売買
神隠しとは行方不明のことなので、その原因としては、迷子・家出・誘拐・遭難事故のほか、間引きなども考えられる。 誘拐の目的は昔なら人身売買がありそうである。
現在の日本にはネトウヨと呼ばれる人々がいる。 ネトウヨはネット右翼の略。 その定義をウィキペディアから引用させていただこう。
ICTディレクターの横田一輝は「特定の国や人種に対する差別的発言を繰り返したり、新聞社の社説や記事、歴史修正、テレビ局の放送内容に対する批判、などを、誹謗中傷、侮蔑的表現として掲示板やブログに投稿したりする人々が「ネトウヨ」と呼ばれる[1]。」と解説している。
渡辺豪[注釈 2]によれば、過激な表現で排外主義などをインターネット上で発信する人々の呼称であるという[11]。辻大介[注釈 3]によれば、厳格な定義はないが、おおよそ、保守的で排外主義的な書き込みや情報発信を行うユーザーのことを指すといい、排外主義的な傾向が薄いものを「ネット保守」と呼んで「ネット右翼」と区別する向きもある、という[12]。安田浩一は「ネット掲示板などを通じて「愛国」や「反朝鮮」「反中国」「反サヨク」を呼び掛ける人たちは、一般的にネット右翼と呼称される」と述べた[13]。 ネトウヨと呼ばれる人々の中には、「日本すばらしい国」「日本には奴隷がいなかった」という人が少なくない。
奴隷とは、他人の所有物とされ、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた人々のことである。 ネトウヨさんたちは、何を根拠に「日本には奴隷がいなかった」と言っているのだろうか。
3世紀頃の日本にあったと考えられる邪馬台国では、魏王へと生口を献上したとか、卑弥呼の死の際、100人の奴婢が殉死させられたなどの記述が魏志倭人伝にある。
律令制の時代には五色の賎といって、5段階の賎民がいたが、そのうち下の2段階が奴婢(売買されていた)だった。 平安時代の宇多天皇、醍醐天皇の御代に奴婢廃止令がだされたが、 その後も売買される奴婢は存在していたようである。 戦国時代には戦のあと、兵士が人狩りすることが半ば容認されていた。これを「乱妨取り」という。 大坂夏の陣屏風には「乱妨取り」の様子が生々しく描かれている。 人狩りされた人は売買されたのだという。
江戸幕府は度々禁令を発して人身売買を禁止している。 ということは、江戸時代にも奴隷はおり、人身売買が行われていたということだ。
3⃣間引き
行方不明のほか、間引きをして神隠しにあったことにした、というケースもありそうだ。
間引きについてはこちらの記事に書いた。
間引きのことを「返す」「戻す」といった。どこに返したり、戻したりするのだろう。 神に返したり、戻したりするのではないか。 『7歳までは神の領域』といわれることがあるが、その意味は「7歳までは神の領域だから殺して神に返しても構わない」という意味なのかもしれない。
7歳までは神のうち――かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単に言えば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。
同時期の同地方における年齢別の死亡率を見ていくと、ある年代において、女性の死亡率が男性のそれを大きく上回っていることに気づく。その年代とは、20代~40代前半である。特に、20代後半の女性の死亡率は、なんと10パーセントを超えている(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)。
この理由は、あえて説明するまでもない。出産に関連して、死亡しているのである。先ほどのデータから言えば、20代後半の女性のうち、10人に1人以上が出産の際、あるいはそのすぐ後で、命を落としているということになる。出産数約5.8人という数字の背後に、これほど厳しい現実があったことも知っておく必要があるだろう。
4⃣叺親父
叺親父(かますおやじ)
青森県津軽地方。叺(袋の一種)を背負った鬼のような大男が、泣いている子供を見つけると、叺の中に無理やり詰め込んでさらって行ってしまうという[5][7]。同様の妖怪は秋田県鹿角地方では叺背負(かますしょい)の名で伝わっている[7]
叺とはわらむしろで作った袋のことである。
また「かます」と言う言葉がある。 英語のdoのような意味をもつ。
「何ぼけかましとるんや」は「何をぼけているんだ」 「一発かましてくるわ」は「一発やったるで」みたいな意味である。 子どもをさらうことも「かます」ということは可能である。
ちょっと苦しいか。笑。
5⃣神隠しと櫛
『吾妻鏡』の記述として、平安時代の武将平維茂の子である平繁成は、誕生間もなく行方不明となり、4年後、夢の中のお告げで狐塚[2]の中から発見されたという伝承がある。この時、狐が翁の姿に変じて現れ、刀と櫛を与えていった(この刀と櫛は家宝となった)。権威付けのための伝承ではあるが、神隠しの記述としては古い部類に入り、後述の沖縄の伝承と含めて、東北から沖縄にかけて、神隠しにあった者と櫛が関連して語られていることが分かる。
沖縄県では、神隠しを物隠しとも呼び、いったん物隠しに逢った者は自分の櫛を持って帰ろうと戻って来る。そして再び出て行ってしまうとされる。そのため、物隠しに逢った家族は早速当人の櫛を隠して取られないようにする。それでも、締め切っている部屋の中から知らないうちに取られてしまうこともあるとされる。研究者によると、櫛と神の関係をよく示している伝承としている。神を祀る者は櫛を必要としたため、物隠しに逢った者は櫛を取りに戻るとされる。近世になり、天狗の仕業と捉えるようになった本州より、古い型の伝承と見られる。
これは、「かます=叺」の語呂合わせよりも強くそう思うのだが 「櫛=奇し」の語呂合わせになっているのではないだろうか。
「櫛」という文字が名前についている神は結構おられる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 天神櫛玉命 櫛八玉神 玉櫛媛 櫛磐間戸神 櫛名田姫神 櫛真智命 などである。
こんな話がある。 大国主の前に光り輝く神があらわれて、「私はあなたの幸魂・奇魂」といった。こうして祀られたのが大神神社であると。
また、髪は神の語呂合わせになっているため、髪にさす櫛が神聖視されたという側面もあったのかもしれない。
1⃣ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコ
初代神武天皇は日向に住んでいたが、あまりに国の端であるということを理由に東征の旅にでる。 その際、シオツチの翁が「東にはすでにニギハヤヒが天の磐船を操って天下っている」と発言している。 神武の軍は河内国の白肩の津に到着し、東に向かい胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。 ここで地元の長髄彦との闘いとなり、神武の軍は敗戦し、南に迂回して畿内入りする計画をたてる。 神武の軍は苦労の末、畿内に入り、再びナガスネヒコと対戦する。 ナガスネヒコはこういった。 「昔、ニギハヤヒと言う神が天の磐船に乗って天下り、天孫だと名乗った。 私はニギハヤヒを神と奉じ、私の妹のトミヤスヒメはニギハヤヒの妻となり、二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。 天孫が二人もいるのはおかしい。あなたは偽物だ。」 そういってナガスネヒコはニギハヤヒが天孫であることを示す天羽羽(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せた。 すると神武も同じものを見せた。 ナガスネヒコはナガスネヒコが天孫であることに納得せず、戦いを止めようとしなかったので、ニギハヤヒが長髄彦を殺し、神武に服した。
記紀にはだいたいこういう内容が記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされることから、神武以前、畿内には物部王朝があったのではないかという人もいる。
記紀に万世一系の天皇家にとって都合の悪いニギハヤヒとナガスネヒコのエピソードが掲載されているのは 記紀が成立した奈良時代、それは偽りようがないくらい事実として人々認識されていたのではないかとする説もある。
磐船神社 ご神体の天磐船 ニギハヤヒはこの天磐船にのって、天下ったと伝わる。
2⃣蝦夷の祖・アビヒコ
鎌倉~室町期成立の『曽我物語』には、「蝦夷の祖は鬼王安日(アビヒコ)」とする伝承が記されているそうである。
蝦夷とは現在の関東地方、東北地方、北海道、樺太に住む人々の蔑称である。
アビヒコはナガスネヒコの兄で、神武に敗れたナガスネヒコはアビヒコとともに青森県弘前に逃れたとか アビヒコのみ津軽地方に流罪になったというのである。
ただし、これは記紀には記載がない。
安倍氏の祖はこの安日彦であるとする伝承がある。 故・安倍晋三氏の安倍家は 前九年の役で知られる安倍宗任の子孫であると言い伝わっているそうである。
3⃣オセドウ貝塚の古人骨
青森県五所川原市相内にオセドウ貝塚がある。 縄文時代前期~中期の遺跡と考えられている。 このオセドウ貝塚から大正12年に人骨が発見されている。
大正12年に村人によって、発掘された人骨を「オセドウ貝塚人骨」として詳しく報告されている。 (筆者注一博士は、人類学者である。)
*その特徴は、
(1)壮年男子である。
(2)歯の摩耗は、少ない。
(3)縫合の連結が進んでいる。
(4)死因は、頭部の皮膚疾患か、損傷による骨膜炎症かである。
(5)眉間隆起は、普通である。
(6)短頭である。
(7)歯のかみ合いは、下歯と上歯とがきちんとかみ合っている。
(8)鰐の突出が弱く抜歯していない。
(9) 長すね骨である。
⑩顔部の諸特徴は、石器時代人の通有性に近い、(以下、略)、さらに考察が加えられてい
るが省略する。
「(9) 長すね骨である。」というのは、「脛の骨が長い」ということだろうか。
写真は、上記記事の4pにある。
4⃣ナガスネヒコとオセドウ貝塚は時代があわない?
オセドウ貝塚から発見された古人骨はナガスネヒコのものではないかという記事も多数みつかる。 しかし私は「この骨をナガスネヒコのものだとする」のは少し抵抗がある。
オセドウ貝塚は縄文前期~中期の遺跡である。 縄文時代は13000年くらい前から2300年くらい前の時代である。
ここから発見された古人骨をナガスネヒコの骨とするには時期が早すぎるように思えるからだ。
記紀によれば神武天皇が即位したのは紀元前660年。 しかし、古代の天皇は100歳を超える長寿であるわりに事績が少ないなどそのまま信用できないとし 欠史八代といって、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇は存在しなかったとする説などがある。
魏志倭人伝などに邪馬台国が登場するのは3世紀。 神武、ニギハヤヒ、ナガスネヒコが実在していたとすれば、早くても3世紀を少し遡ったぐらいの時代ではないだろうか。
ちなみに私は神武・崇神・応神の三天皇は同一人物であり、 邪馬台国は大和、卑弥呼は日女命で倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の事ではないかと考えている。 倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は後円部の大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とほぼ同じ大きさである。
(箸墓は前方後円墳、魏志倭人伝には円墳と記されているので箸墓は卑弥呼の墓ではないとする説もある。) 籠神社の系図では、始祖・彦火明命の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とある。
籠神社では彦火明命はニギハヤヒの別名としている。
そして魏志倭人伝に登場する卑弥呼は日女命(ひめのみこと)に別の漢字をあてたものではないかとする説があり、 日女命は物部氏の祖神・ニギハヤヒの9代目の孫なので、物部王朝の女王ということになる。
卑弥呼には男弟があると魏志倭人伝は記しているが、この男弟は大物主命ではないかと思う。 倭迹迹日百襲姫命のもとに通っていた神が大物主で、大物主の正体が蛇であることを知っておどろいた倭迹迹日百襲姫命は 杼でほとをついて死んだという伝説がある。 近親相姦じゃん、といわれるかもしれないが、古代には血の純潔を守るため、同複の姉弟、兄妹の結婚は当たり前だったとする説がある。 古代エジプトでも兄弟姉妹婚は当たり前にあった。
大物主の物は物部氏の物ではないか。 大物主を祀る大神神社は本殿をもたず、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝する古い祭祀スタイルの神社だが 物部氏が本拠地としていた大阪府交野市・枚方市付近には拝殿のみで、本殿を持たない神社がいくつかある。 ニギハヤヒを祀る磐船神社、星田妙見宮、交埜神社の境外社・瘡神社 など。 本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイルであるかもしれない。 とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。
卑弥呼と仲の悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼は「日の命(みこと)」で、日向からやってきた神武=崇神ではないかと思う。 崇神天皇の和風諡号のひとつに「ミマキイリヒコイニエ」というのがあるが、名前の中の「イリ」は入り婿の入りだとする説がある。
狗奴国の男王卑弥弓呼は邪馬台国の入り婿となることで邪馬台国をのっとり、邪馬台国の男王としてたったのではないだろうか。 神武の皇后・ヒメタタライスズヒメは大物主または事代主の娘とされることに注意してほしい。 先ほど私は「大物主は物部氏の神ではないか」と書いた。 神武は日向から東征して畿内入りして、物部王朝の王の妻を皇后にしたのだと考えられる。
話が長くなったが、この推理が正しければ、神武=崇神と戦ったナガスネヒコとは邪馬台国があった3世紀ごろの人物ということになる。 縄文時代初期~中期のオセドウ貝塚とは時代があわない。
5⃣オセドウ貝塚古人骨は少年期に去勢されていた?
オセドウ貝塚古人骨をネットで調べると、「身長が2mある」とでてくるのだが、上の報告に身長は記されていない。
本当に2mもあるのだろうか。
平成2年次点では市浦村歴史民族資料館に展示されているとある。
ぜひ見にいってみたいが、大阪から青森はちと遠い。
そういうわけで確認ができていないが、本当に2mあったとしよう。 栄養状態がいまよりも悪かったと思われる縄文時代になぜそんな大男がいたのだろうか。 (性別については報告書に、(1)壮年男子である。と書いてある。)
ある時、私はカストラートについて調べていた。 カストラートとは近代以前のヨーロッパで流行した去勢された男性歌手のことだ。
声変わり前の男児を去勢し、男性ホルモンの分泌を抑制すると、大人になってもボーイソプラノが維持できるという。 成長ホルモンは分泌されるため、通常の男性と同じように成長し、 肺活量などは成人男性とほとんど変わらなかったらしい。 ということは、声は少年のままでも息がながく、声量があったということだろうか。
カストラートが登場したのは、1550年 - 1600年ごろのローマといわれる。 1878年、ローマ教皇レオ13世が、人道的でないとして、カストラートを禁じ、カストラートの歴史はとじられた。
「成長ホルモンは分泌されるため、通常の男性と同じように成長し、」と書いたが、こんなことを書いてある記事がみつかる。
映画『カストラート』というのがあります。バロック時代に実在した史上最高のカストラートと称されたファリネッリの生涯を描いた伝記映画(1994年作)です。背が高く(去勢されたために男性ホルモンが軟骨閉鎖をおこさないため高身長になることが多い)ハンサムなファリネッリが、舞台で朗々と歌うと(肺活量が多く、かつ歌唱技術により1分間息継ぎしないで歌えたらしい)、男たちを、国王を魅了し、淑女もあまりの美声に興奮して気絶してしまう場面が印象的でしたね。
イタリア・パドヴァ大学の研究チームが、19世紀に活躍したカストラート歌手ガスパーレ・パッキェロッティの遺骨を解剖学的に精査したと、6月28日付の「Daily Mail」が報じている。
~略~ カストラート歌手は、下肢が長く、長身であると言われてきたが、今回発掘されたパッキェロッティも、大腿骨並びに頸骨が大きく、身長191センチメートルもの巨体であったと推定された。また、上腕骨も大きく発達しており、身長に加え、四肢すべてが常人を凌駕していたようだ。
去勢の痕跡はそれだけではない。通常は35歳ごろに消失するはずの骨盤の骨の一部である腸骨稜にみられる骨端線が、81歳で亡くなったはずのパッキェロッティに残っていたそうだ。他にも、CTスキャンにより、パッキェロッティが、骨粗しょう症を発症し、脊椎を骨折していたことも分かった。これらは去勢によりホルモンのバランスを崩した結果だとみられている。
オセドウ貝塚古人骨は少年期に故意、または事故などによって去勢された骨ではないのか?(本当に身長が2mもあるのなら、だが)
6⃣ナガスネヒコは去勢されていた?
ナガスネヒコはなぜナガスネヒコという名前なのだろうか。
オオヤマツミはニニギに娘の姉妹・コノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギの妻として差し出したのだが、 面食いのニニギは美しいコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、醜いイワナガヒメは返してしまった。 オオヤマツミは、「イワナガヒメは永遠の命を、コノハナノサクヤヒメは繁栄をねがって差し上げたのに、イワナガヒメを返してしまったので、命は短くなるだろう」と言ったという。 このように神の名前は神の性質を表している場合がある。 この話の場合、イワナガヒメは「岩のような永遠の命の神」、コノハナノサクヤヒメは「花のような繁栄の神」だ。
とすれば、ナガスネヒコは脚が長い神ということだろう。
なぜナガスネヒコは脚が長いのか。 それはカストラートのように少年期に去勢した(または去勢された)からではないか?
脚が長いというだけで、少年期に去勢したというのは、あまりに安直だと言われそうだ。(笑)
しかし、もう一点、気になる点がある。 ナガスネヒコはニギハヤヒに妹のトミヤスヒメを嫁がせている。 なぜナガスネヒコは自分の娘ではなく、妹を嫁がせたのだろうか。 ナガスネヒコには息子しかいなかったのか。もちろん、それはありえる。 しかし、ナガスネヒコに子供がなかった、とも考えられる。 つまり、ナガスネヒコは少年期に去勢していたため、子をなす能力がなかったのではないかということだ。
もちろん、これも安直な考えではあるが、可能性がないともいえない。
古代の日本は中国から様々な文化、風習をとりいれたが、宦官はいなかったといわれる。 しかし、はるか昔には宦官のような風習があったのかも❔
1⃣権五郎火
権五郎火(ごんごろうび)
新潟県三条市本成寺地方に伝わる。五十野の権五郎という名の人物が旅の博打打ちとサイコロの博打で争った末に大勝ちし、良い気持ちで帰っていたところ、夜道を追って来た相手の博打打ちに殺害され、その怨念が怪火と化したものとされる。付近の農家では、この権五郎火は雨の降る前触れとされており、権五郎火を見た農民は稲架の取り込みを急いだといわれている[14]。
2⃣五郎は御霊
オヤジギャクというと、寒いイメージを持たれるかもしれないが(笑) 古において、それは掛詞と呼ばれ、和歌に二重の意味を持たせるテクニックでもあった。
そして、こんな話をきいたことがある。 五郎は御霊の掛詞である、と。
御霊とは、政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人(怨霊という)を慰霊し神として祀ったもののことである。
そこから権五郎もまた御霊ではないのか、と思えてくる。
ネットで検索してみると御霊神社(鎌倉権五郎神社)などがでてくる。 鎌倉権五郎景政(平影政)を主祭神とする神社であるという。 やはり五郎だけでなく、権五郎も御霊なのではないだろうか。
とすれば、五十野の権五郎は御霊だということになる。
2⃣五十野の権五郎は太陽神? 「権五郎火は雨の降る前触れ」という言葉から、次の言い伝えを思い出す。
晩年、小野小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。 すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。 (妙性寺縁起)
五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。
小野小町は日の神(天照大神)であったが、火の神となり、さらに河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。
五十野の権五郎も、日の神→火の神→河の神(水の神)と転じ、 その結果、「権五郎火があらわれると、雨が降る」と言われるようになったのだろうか。
3⃣権五郎火は天然ガスの自然発火?
権五郎火の舞台は新潟県三条市ということだが、ここにはかつて大面油田があった。
権五郎火伝説が伝えられる本成寺はこちら↓
JR帯錦駅の東が大面。このあたりに大面油田があった。 距離は6kmほど。
1916年(大正5年)から1963年(昭和38年)まで石油の採掘が行われていたらしい。
またそれ以前にも、「地中の火」「燃える風」と呼ばれた怪現象があり、これらは天然ガスの自然発火だと考えられている。
なぜ天然ガスが自然発火すると、雨が降るのか。 私の友人がこんなことを教えてくれた。
地中にある天然ガスは気圧が低くなると、地上にでてくる。 気圧が低いと雨になるのではないかと。
4⃣権五郎はなぜさいころ博打をやっていたのか。
権五郎はなぜさいころ博打をやっていたのだろうか。 これもオヤジギャグが関係しているかもしれない。
鉄火場という言葉がある。
鉄火場(てっかば) 丁半博打の形の崩れたものをいう。賽子(さいころ)2個を壺に入れ、振って出た目の合計が丁(偶数)か半(奇数)かで勝負が決まる。鉄火場は、専門の「壺振り(つぼふり)」がいなくてもよく、むしろ賭客が「廻り壺(まわりつぼ)」といって交代で壺振りを行う。壺振りが胴元を兼ねるものに「四三(シソウ)」と「四六(シロク)」があり、これらは丁と半が一致しなくてもよく、儲けがあれば胴元が取り、損をすれば胴元が負担する。ただし、4と3、あるいは4と6の目が出ればその半額が胴元の利益になる、といったものである。鉄火場も、賭場を開いた者にテラ銭(寺銭)を支払う。
鉄火(てっか・鐡火)とは、鍛冶などにおいて鉄に熱を加えて赤く焼けている様や、それらを鍛造する時の火花をさす。または鍛冶の事。または、マグロの赤身料理などに使用される名。 ~略~ 鉄火塚 - 地境や入山権や土地の所有をめぐって行われた火起請のその紛争地に慰霊や祈念として建立された塚。元和5年(1619年)に、現在の滋賀県日野町で鉄火裁判が行われ、それを祈念して日野町音羽の雲迎寺(うんこうじ)の境内には「喜助翁鉄火記念の碑」が建てられている。このような火起請が行われた場所は、古くから神域とされてきたところも多く、そのため紛争の鎮魂の理由だけでなく、日本各地に鉄火塚や鉄火の道祖神が存在するが、その土地に鍛冶の工房があり、町名や村名や字(あざな)が鉄火や鍛冶であることから、たんに鉄火という塚がある場合もある。
火起請(ひぎしょう)とは、中世・近世の日本で行われた神判の一種で、火誓(かせい)、鉄火(てっか)、鉄火起請(てっかきしょう)とも称する。赤く焼けた鉄(鉄片・鉄棒)を手に受けさせ、歩いて神棚の上まで持ち運ぶなどの行為の成否をもって主張の当否を判断した。
博打→鉄火場→火起請(鉄火) ということは、何か裁判に関係しているのだろうか? そういえば、ウィキ「大面油田」には次の様に記されている。
会社は石油の収入で潤ったが、その一方で田畑の作物への補償話もあって、頭を悩ましたと伝わる。
新潟県三条市大面付近に鉄火塚は無いだろうかと思って調べてみたが、残念ながら、わからなかった。
また鉄火は天然ガスの自然発火の比喩であるかもしれない。
①かなつぶて
かなつぶては、大和国奈良坂[注 1]で金礫という武器を使って人々から略奪を働いたという化生の者。金礫、金飛礫とも。平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の中で鈴鹿山の立烏帽子と並んで奈良坂のかなつぶてという盗賊が処刑されたことが記されている[注 2][1]。
御伽草子版
『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう[原 1]、りゃうせん(りょうせん)[原 2]などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。
大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した[2]。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った[2]。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた[2]。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた[2]。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する[2]。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった[2]。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた[2]。
⓶金礫とは何か?
上に「法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた」とある。
金礫とはなんだろうか。 ウィキペディアは次の様に説明している。
武器としての金礫
『田村の草子』では、りょうせんが金礫を打つ腕前は唐土にて500年、高麗国にて500年、日本で80年、奈良坂で3年かかって磨いたものであったという[2]。また太郎礫、次郎礫、三郎礫という3つの金礫を使い、太郎礫は600両の金を使い山を盾にしようとも微塵に打ち崩してしまうほどの金の礫で、三郎礫は300両の金の礫である[2]。
「小石を投げる」ことを「飛礫(つぶて)を打つ」という。 つまり、りょうせんは金礫を投げる修行を、中国で500年、朝鮮で500年、奈良坂で3年したということだろう。
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類。 太郎礫・・・600両の金を用いて作った礫。礫から身を守るために山を盾にしても破壊する。 三郎礫・・・300両の金を用いて作った礫。
③奈良坂は都に通じる坂
次に奈良坂の場所を確認しよう。 グーグルマップで奈良坂を検索すると京都府木津川市市坂奈良坂とでてくるが、ここではないだろう。 かねつぶてがあらわれるのは「大和国奈良坂」とあり、大和国とは奈良のことなので、 奈良市の般若寺・奈良豆比古神社付近の坂のことを言っていると思う。
奈良坂は平安京の南に位置する。古には京への貢物の運搬にこの奈良坂が用いられていたのだろう。
④三人翁と郎礫、次郎礫、三郎礫は関係ある?
奈良坂にある奈良豆比古神社には伝統芸能「翁舞」が伝えられている。 能(江戸時代までは猿楽といった)に翁という作品があり、翁舞はこの翁のルーツであると考えられるのだが 能の翁に登場する翁は1人であるのに対し、奈良豆比古神社の翁舞には三人の翁が登場し、三人翁と呼ばれている。 
奈良豆比古神社 翁舞
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類だったことを思い出してほしい。 三人翁はりょうせんの金礫と関係がありそうにも思える。
⑤浄人王は弓削浄人?
奈良豆比古神社には翁舞に関係する、次のような伝説が伝えられている。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。 春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。 兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。 そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。 都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。 桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。 春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。 兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。 そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。 都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。 桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
『桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、』 とあるが、これは皇族であった浄人王を臣籍降下させて弓削姓を与えたということだろう。 臣籍降下した浄人王は弓削浄人と名乗ったのではないか? 弓削浄人と言う名前には聞き覚えがある。
奈良時代、女帝の称徳天皇の寵愛をえて政治の実権を握った僧侶、道鏡。 宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、称徳天皇は確認のため和気清麻呂を宇佐に派遣する。 しかし和気清麻呂は「「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし(道鏡を天皇にするべきではない)。」とする別の神託をうけとって都に戻り称徳天皇に伝えた。 これを聞いた称徳天皇は怒り、和気清麻呂を流罪にしてしまう。 しかしその翌年、称徳天皇は急死し、道鏡は失脚して下野へ流罪となり、失意のまま亡くなった。 弓削浄人はこの道鏡の弟である。 道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴(浄人王の兄弟が安貴王なので)というのかもしれない。
⑥ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?
5⃣の伝説では、「志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患って奈良坂の庵で療養した。」とある。 に「しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
⑦志貴皇子と春日王は同一人物?
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。
志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
春日王・・・・・・・田原太子
皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。 志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
さらに『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
すると5⃣の伝説は、ハンセン病を患ったのは志貴皇子、浄人王は弓削浄人、安貴王は弓削道鏡ということになる。
⑧志貴皇子暗殺説
本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。
❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
この一連の推理が正しければ、道鏡にも正当な皇位継承権があったということになる。 すると称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由がわかる。 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」とは何だ。 道鏡には正当な皇位継承権があるではないかと。
⑨猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
京都府宇治田原市・大宮神社の境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。 田原天皇とは7⃣に書いたように、志貴皇子のことである。 宇治田原という地名は志貴皇子=田原天皇にちなむ地名なのではないだろうか。 田原天皇社舊(旧)跡
そしてこの大宮神社からほど近いところに、猿丸神社があり、猿丸大夫を祀っている。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
猿丸神社 歌碑
猿丸神社境内にはこの歌を刻んだ歌碑があり、楓の木が植えられている。 たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないだろうか。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
下の写真は志貴皇子邸宅跡と伝わる奈良市・白毫寺であるが、子の挽歌にちなんでか、境内にはたくさんの萩が植えられている。
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は能(猿楽)のルーツかもしれない翁舞の三番叟(さんばそう)の姿をしている。(能・翁や奈良豆比古神社の翁舞では長い烏帽子をかぶった三番叟の舞がある。)
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。
猿丸神社 狛猿
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。
新日吉神社 猿のレリーフ
そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられているのだ。
すでにお話ししたように道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。
日光東照宮 三猿
また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
そして、猿丸大夫は政治的に不遇であった父と二人の息子、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのではないだろうか。
⓾猿の撃退法
上の記事、3ページに「サルの撃退法口承」について次のように記されている。
左礫の村では、農作物を荒す猿を追い払うための方法として、次のようなことを行ったと記されている。
❶藁に火をつける
❷葬式のマネをする。
❸サル撃ち
❹槍でついた(明治時代)
❺サルマキ 雪が深いとき、猿が足から血を出すくらいに追う。
❻杖地区 猿をとると祟りがある
❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った
❽殺した猿はみせしめに柿の木につるしたの図がある。
「❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った」とある。 礫とは小さい石のことなので、これはまさしく「礫を打つ」ことである。 礫を打って、猿を追うわけである。
「かなつぶて」とは志貴皇子、道鏡、弓削浄人の三猿が金の礫に化成したものなのかもしれない。
片輪車 著者不詳『諸国百物語』より「京東洞院かたわ車の事」
1⃣片輪車
京都の片輪車
延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである[1]。
滋賀県の片輪車
寛保年間の雑書『諸国里人談』に記述がある。寛文時代の近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという[2]。
2⃣江戸時代は車の使用は禁止だった?
延宝とは元号のひとつで、期間は江戸時代の1673年から1681年まで。
江戸時代には人が移動する際には徒歩、または駕籠がよく用いられていた。
これについて、江戸時代には車は禁止だったという話を聞いたことがある。
たとえば「教えてgoo」には、こんな回答がある。
技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。
その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。
2004年に投稿されたもので、参考URLのリンクが貼られているが、リンク先記事は削除されており、確認ができない。
3⃣江戸時代、一部地域では車が使用されていた。
江戸に入ってくる商品荷物は、上方・東北地方より船による場合と陸上を牛馬背で運送される場合とがあった。市内における運送手段には牛馬背、人背負・大八車・牛車が使用されていた。
~略~
貴族の乗用車である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが、江戸時代には衰退していた。荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台、幕末には箱館等の限定された都市でしか使用されなかった。
~略~
牛馬だけでなく人力による荷車輸送も全国的な展開はなかった。
~略~
全国的には未発達の車輌交通が、江戸においては大八車、牛車ともに許可されており、改めて近世都市江戸のもつ意味が問題となろう。なお、辞典においては「江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に用い、牛原や車町に配置されて、建築資材を中心とする輸送にあてたが、大八車の普及につれて、地名にその面影を残すにすぎなくなった。」と説明されている(『国史大辞典4』、九四三頁、吉川弘文館、昭和五十九年、参考文献は明記されていないが、司馬江漢「春波楼筆記」かと思われる)。ここでは地名だけでなく実態を追求するつもりである。
本稿は、錦絵、絵馬、地誌類の挿絵などに出ている牛・牛車の資料も掲載し検討の素材とした。
タイトルは「都史紀要32 江戸の牛」となっており、目次をみると興味をそそられるタイトルが並んでいる。
早速ネット注文して、読んでみた。
内容をざくっとまとめてみる。
①1707年に江戸橋広小路に200坪の牛置場がつくられた。
諸国より海・川を船で運ばれてきた荷物は、牛置場に待機する牛車で市中の各問屋へ送られた。
⓶家康 全国統一後、「伝馬の制」を確立した。
「伝馬の制」とは、 公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。
大伝馬町、南伝馬町・・・道中筋伝馬御用
小伝馬町・・・・・・・・江戸府内伝馬御用
③1657年、江戸大火後の復興事業後、大八車が使われる。
1662年「江戸名所記」 に地車(小車)、代八と記されている。
飼料代がかからないなどメリットがあり増えた。馬持の荷物を奪う。
伝馬町、大八車に口銭をかけることを出願した。
極印賃徴収は元禄16年12月 諸運上停止に関連して中止
④人力による荷車は江戸のほか、京都、大坂のベカ車、名古屋の大八車・小車・貧乏車・鬼カミ・しゅら、駿府(静岡市)など一部の地域で使用されたのみ
⑤幕府は、人足と馬背による場合を公的機関としていたため、牛車・大八車を限定した地域にしか採用せず、伝馬町・馬持の保護をした。
⑥1845年、中山道樽井・今須宿(岐阜)に板車導入願がだされた。(樽井がどこにあったのかについては、わからなかった。)
1857年 使用許可される。
⑦1808年、馬持が「鞍判を受けて伝馬助役を務めた上で商売をしているが、諸商人の手引車と荷付牛が荷物を江戸市中に運んでいて、商売あがったりなので、これらを禁止してほしいと願い出て認められた。
⑧京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。
京車・伏見車・鳥羽車・嵯峨車などにわかれていた。
京車の主要業務は年間50~60万俵の大津為登米輸送のほか、幕府御用。
http://liaj.lin.gr.jp/uploads/161-3.pdf(リンク先に京車の浮世絵あり)
⑨江戸の牛車は寛永期(1624~43]に土木普請工事のため京都から招き、芝高輪に居住地をさだめ、四日市(江戸橋広小路)・八丁堀牛置場を拠点として活動していた。
⓾安藤広重の高輪を描いた浮世絵53点中10点に牛車が描かれている。
1829年成立の江戸名所図会には高輪牛町、尾張町、魚籃観音堂、麻生一本松、神田明神祭礼に牛車の絵がある。
⑪狂歌、川柳にも牛車をよんだものがある。
⑫京都周辺では、淀・納所・横大路・上鳥羽・京都苦情にいたる鳥羽街道、伏見、武田街道、大津、逢坂、山科、日岡、粟田口にいたる山科街道で牛車が行われていた。
山科街道は未知の損傷を防ぐため敷石舗道だった。
⑬「摂津名所図会」では武庫の山中で採掘される御影石を諸国へ運送するのに牛車を利用している。
⑭1772年頃より西宮町ないの酒屋から積問屋、咳所までの咲け荷物浜出しの運搬にあたる西宮地車組が開始された。
⑮「明治政府になって車通行は解禁となり、馬車・牛車・荷車・人力車の第数は表八のようにいずれも急速にのびてるが」と50pに記されている。
解禁とは「法律、その他のとりきめで禁止していたことを、解きゆるすこと」である。
「解禁となり」という言葉は、車が禁止されていたという風にもよめる。
⑯1707年 町触などから交通規制があったことがわかる。
⑰宰領付添 は牛車・大八車で犬などをひき殺さないため、生類憐みの目的から1686年に出されていた。
⑱牛の産地・・・出羽・省内・陸奥・会津・南部
肥育地・・・飛騨・越中・越後・信濃
⑲駿府への牛車導入は1609年城廊工事のため伏見・鳥羽から招聘されていた。
4⃣幕末期、車使用許可申請が出されている。
↑ こちらの記事には、次のような内容が記されている。
❶幕末期の東海道では「車」が使用されており、旅人を載せて運ぶ営業もなされていた。
❷江戸時代、健康な一般人は武士も庶民も一切駕籠に乗ることは禁止されていた。
駕籠は街道筋では旅客用として許可されていた。(宿駕籠)
❸近世大阪では「べか車」が用いられていた。
❹シュンベリー 「江戸参府随行記」の記述
「この国の道路は一年中両行な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。」
シーボルトの記述
「地面を平らにし、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂を撒く。(中略)また必要に応じて堀・堤防、水路を設けている」
❺車があまり用いられていなかった理由
・日本は地勢が急峻で車両交通に不便
・架端技術が未熟だった
・街道の路面を痛ませないため
1774年、「べか車の使用が橋の損傷を招くのでべか車の端上通行禁止」の触書がでている。
・馬方や船方の営業を脅かされる。
「べか車の進出により馬方や船方の荷物運送の営業権が脅かされるので使用をさしひかえよ」との触書が1791年、1799年にでている。
❻1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。
1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。
1862年全面許可
❼1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。
しかし、そこに「右は東海道岡崎辺りより草津宿までの間にてもっぱら合用い」とあり、
岡崎―草津間は旅人を車に乗せて運ばれていたことがわかる。
5⃣車の使用を禁じる制度の名前がでてこない?
私の疑問は、幕府は車の使用を禁じていたというが、それはなんという名前の制度で、またどのような形でその制度が広報されたのか、ということである。
例えば、4⃣❺に触書の内容がでてくるが、このようなものは残っていないのだろうか。
検索してもでてこない。調べたりないのかもしれないが。
そうではあるが、
4⃣❻「1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。」
「1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。」 4⃣❼「1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。」などとあり
中山道、東海道、江戸で人を載せる車を使用するためには許可を得る必要があったようである。
荷物を運ぶ車は、
3⃣⑧「京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。」
とあり、やはり許可が必要だったのか?
6⃣江戸時代には交通事故が頻繁におきていた。
「江戸時代には車は使用されていなかった」というのは都市伝説で、実際には牛車や代八車、べか車などが一部地域で用いられていたことがわかった。
それも結構な交通量があり、残念ながら、こちらも一次資料的なものが見つけられていないが、
事故も頻繁におきていたと記したネット記事が多数ある。
元禄以前には、個人の飼い犬よりも町全体で養われている「町犬」の方が多く、路上では「大八車」という物を運搬する車に犬がひかれる事故が多発していました。そのため、幕府から「大八車、牛車による犬の事故防止」と、「飼い主のない犬にも食事を与え、生き物を憐れむこと」というお触れが出ます。
7⃣京都の片輪車は交通事故をおこす牛車、滋賀県の片輪車は大八車?
ようやく本題にはいる。(笑)
妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札
源氏車と言う模様があるが、牛車の車を模様にしたもののように見える。 この源氏車に波文様をあしらい車輪が半分見えない状態になった模様を「片輪車」というそうである。
牛車の車輪は、乾燥を防ぐために外して、鴨川の流れに浸したといい、それを模様にしたものであるという。
また片輪車の模様について、次のように説明された記事もあった。
秀吉の家来が朝鮮出兵の時、満潮になり牛車が波で動かなくなるのをかまわず進め、波の上を牛車が滑るように進んだ。」源氏車と波が美しい景色で人々に感嘆の声をあげさせたとか。勿論、敵に快勝したために秀吉に許されそれを家紋にしたという話を読んだことがある。
妖怪の片輪車は、おそらく京都でも頻発したであろう、牛車の事故をルーツとしているのではないだろうか。
3⃣⑧、「(京都の牛車は)1614年の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た」のだった。 京都でも交通事故がおきたことだろう。 そしてその事故は人から人へうわさ話として伝わっていく。
写真、テレビ、パソコンなどがない、視覚に訴えかける情報が少ない時代である。 噂話が伝聞するうちに、人々の想像力が片輪車というの妖怪を生み出したのではないだろうか。 妖怪・片輪車がくわえている脚は牛車に引かれた子供の脚だと思う。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」
リンク先の大八車は車の前にT字型の持ち手がついていて、上の絵の片輪車と同じ形である。
追記 8⃣なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのか?
なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのだろうか。 車輪が外れやすかったのか? そういうこともあっただろうが、わたしは「片輪」と「かたわ」を掛けてあるのではないかと思う。
「かたわ」と言う言葉は差別的な表現であるとして、現在はあまり使われないが身体に障害がある人のことをさす言葉であり、源氏物語にもでてくるという。
ウィキペディアで「かたわ」を検索すると、漢字表記で片端・片輪とでてくる。
「片」はそれだけで不完全という意味を持ち、「かたわ」は不完全なもの、不恰好な物を意味する。片足しかなかったり片側の輪が無い車輪など)。もっとも、どちらが先に語源となったかは定かではない。 片輪車とかたわは関係があるようである。
妖怪・片輪車に脚をもぎとられた子供は、身体障害者である。
1⃣縄文土器は食用植物のフィギュアだった?
上の動画はとても面白い内容である。 土偶は奇妙な形をしているなあ、と常々思っていたが、顔が食用植物の形と聞くと、なるほど、と思える。
9:15あたりの画像は、向かって左から オニグルミ、クリ、トチノミ、ハマグリ、これは何という貝かわからない、イタボガキ
そのほかにも、竹倉 史人さんは「遮光器土偶はサトイモである」などとしておられるが、遮光器土偶がサトイモというのはちょっと納得がいかない。 
遮光器土偶
サトイモ
そうではあるが、オニグルミ、クリ、ハマグリは確かにそのように見えるし、祖の説がまちがっていたとしても発想がすばらしい。 この竹倉 史人さんの説については、また改めて考えて見たいと思う。
今日なぜ、冒頭で竹倉 史人さんの説を紹介したのかといえば、 「昔の人は、この土偶のように、物の形にインスピレーションをうけて、仏像を製作したのではないか」と私は思っていて、それを説明したいと思ったからである。
2⃣蟹の死体から現れた観音
前回、私は山梨県山梨市万力にある長源寺に伝わる蟹坊主の話をした。 長源寺のご本尊の千手観音は、巨大な蟹の死体からあらわれたとされる。
長源寺のご本尊の写真はこちら↓
下の蟹満寺の額と長源寺のご本尊の写真を比べてみてほしい。 長源寺の千手観音の腕の付き方がカニの脚のように見える。
京都市金戒光明寺の吉備観音は立像だが、やはり腕がカニのように見える。
滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。
これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。
2⃣蜘蛛のみほとけ
「仏像は動物などの形にインスピレーションを受けて製作されたものではないか」 私がこう考えるようになったのは、興福寺の阿修羅像を拝観したことがきっかけだった。
興福寺の八部衆像のうち5体のみほとけに動物のイメージがある。
五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。 沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。 乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。 迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間。 畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神。
興福寺の八部衆の一である阿修羅像もまた、何かの動物をあらわしているのではないかと思ったのだ。
阿修羅像
その美しい顔立ちにうっとりしてしまい、つい見過ごしてしまいそうになるが、美しい顔だちよりももっと特徴的なのはその長い腕ではないだろうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、昆虫的である。
阿修羅は蜘蛛ではないだろうか。腕は6本だが、脚の2本を足せば8本となって蜘蛛の脚の本数とあう。
私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思う。 また腕と脚と合わせて8本であり、蜘蛛の脚と同じ数である。 阿修羅は蜘蛛なのではないか?
↑ リンク先の東大寺三月堂の不空羂索観音の光背を見てほしい。 蜘蛛の巣のようではないだろうか。
阿修羅ほど昆虫的な腕ではないが、腕と脚の合計が8本で蜘蛛の脚の数と同じだ。
また不空羂索観音は手に羂索をもっている。 羂索とは仏教用語では罠の色糸を撚り合わせた縄のことだが、鳥獣をとらえる罠のことでもある。 不空羂索観音がこの羂索をなげると、よりあわせた綱がぱあっとほどけてひろがるのではないだろうか。 それはまさしく土蜘蛛の姿である。
清水寺 六斎念仏 獅子と土蜘蛛
4⃣清水型観音は伊勢海老?
リンク先3枚目に清水寺のご本尊・清水型千手観音の御前立の写真がある。 清水寺のご本尊は秘仏であり、かわりによりもご本尊に似せて作られた御前立が厨子の前に置かれているのだ。 私は公開された秘仏の清水型千手観音を拝観したことがあるが、御前立よりも丸顔であったような記憶がある。
全国に清水寺と称する寺はあり、その多くの寺で清水型観音を祀っている。 特徴は頭上に高くあげられた二臂の長い腕を組んだおすがたである。
↑ これは長野県東筑摩郡山形村の清水寺の紙芝居だが、冒頭に清水型千手観音のイラストが登場する。
友人は京都清水寺の線所観音を拝んで、「これは伊勢海老だ」と言った。
写真のように伊勢海老は長い触覚をもっている。これを千手観音の腕として表現したのではないかというのである。 たしかにそれはありそうである。
 清水型千手観音の頭上高く上げられた腕以外の腕は、伊勢海老の胴体から延びる脚のイメージ。 さらに伊勢海老の尻尾は緩やかに裾が広がる観音様の衣のように見える。 5⃣長い腕の十一面観音は猿?
十一面観音は腕が長く作られることが多い。特に奈良・法華寺のものは腕が長く、膝のあたりまである。 像高は1メートルほどで、小ぶりのみほとけである。
これは、猿をイメージして作られた観音様なのではないだろうか。
猿は膝を曲げて立つので腕が長く見える。
大阪天満宮 猿回し
厩猿信仰(猿を厩の守護神とする)はインドから中国を経て日本に伝わったとされるが、中国にはキンシコウという金色の猿がいる。
日本猿も手が長いと思うが、キンシコウはさらに腕が長いように見える。
ニホンサルの体長は83 cm、キンシコウの体長は65cmほどで、像高1mほどの小振りの法華寺・十一面観音像のイメージにあう。
6⃣伎芸天は迦楼羅?
日本に現存する伎芸天は秋篠寺のものだけである。 美しいみほとけは数多くあるが、秋篠寺の伎芸天ほど優しそうな表情のみほとけは他にはないと思う。
掘辰雄さんはこの像を『東洋のミューズ』と称讃された。
ミューズとはギリシャ神話に登場する音楽・舞踏・学術・文芸などを司る女神である。
しかし私はこの美しい伎芸天を見て、迦楼羅(かるら)だ!と思ってしまった。
2:39あたりの技芸天の耳の上向かって左あたりを見てほしい。
三面宝冠をつけているとのことだが、宝飾の真ん中あたりに小さな二重の円がある。
次に迦楼羅の伎楽面を見てみよう。
恐ろしい顔をしていて伎芸天にはちっとも似ていないが、耳に伎芸天と同じような二重の円がある。
私は伎芸天と迦楼羅のこの二重の円は鳥の耳を表したものではないかと考えている。 鳥の耳は羽毛で隠れていてわかり難いが、小さな穴があいている。
迦楼羅は鶏冠とくちばしを持ち、鳥を神格化した神である。
そして伎芸天は器楽の技芸に秀でた神・・・ということは音楽の神なので、やはり鳥を神格化した神とも考えられる。
7⃣葛井寺・千手千眼観音は孔雀?
大阪府藤井寺市の葛井寺のご本尊・千手千眼観音の脇手は 持物をもつ大手38本は手38本、小手1001本(右500本、左501本)を持つ迫力ある観音様で、 脇手には墨で眼が描かれている。
これは孔雀ではないかと思う。
孔雀の雄は羽根を広げるとたくさんの目があるように見える。
ギリシャ神話に全身に100の目を持つアルゴスという神が登場するが、アルゴスも孔雀の神であるかもしれない。
8⃣水月観音はクラゲ?
神奈川県鎌倉市・東慶寺には水月観音という超美形の観音さまがおられる。
クラゲの漢字表記は「海月」「水母」「水月」である。 水月とは、ずばりクラゲのことなのである。 崩れた三角形の形はクラゲを思わせる。
1⃣蟹坊主
山梨県山梨市万力の長源寺には、以下の伝説が伝えられている。かつて甲斐国万力村にあった同寺の住職のもとを雲水が訪ねて問答を申し込み、「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。答に詰まる住職を雲水は殴り殺し、立ち去った。その後も代々の住職が同様に死に、とうとう寺は無人となった。話を聞いた法印という旅の僧がここに泊まったところ、例の雲水が訪ねて来て同様の問答を仕掛けたので「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニの正体を現し、砕けた甲羅から血を流しつつ逃げ去った。以来、寺には何も起こることはなくなったという[1]。このカニの大きさは2間四方とも[2]、全長4メートルともいわれる[3]。
別説では、法印が寺に泊まると、夜中に身長3メートルもある怪僧が現れて問答を仕掛けたが、正体を見破られた上に独鈷で刺されて逃げ去り、翌朝に法印が村人たちと共に血痕を辿ると、そこには巨大なカニが死んでいたという[4]。また、長源寺の本尊は千手観音だが、このカニの死体から千手観音の姿が現れ、法印がそれに感激して千手観音を寺の本尊に祀ったとも[2]、法印は救蟹法師(きゅうかいほうし)と名を改めて寺の住職となったともいう[5][6]。
なお長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山といっていたため、蟹坊主の伝説が語られたのは享保11年より後と考えられている[5]。長源寺ではこの化蟹伝説に基いた1885年(明治18年)作成の「救蟹伝説掛軸」二幅が伝来している。
この伝説にちなみ、カニが逃げ去ったといわれる場所には蟹追い坂、蟹沢といった地名が残されており、長源寺にはカニの爪跡とされる2つの穴があいた石や、カニが投げつけたという1メートル以上もの巨石などが残されている[7]。かつてはカニの甲羅も残されていたというが[6]、後に紛失している[5][7]。
長源寺と同様に、無人の寺に泊まった旅の僧にカニの化け物が問答をしかけ、僧がこれを暴いて退治するという伝説や昔話は、石川県珠洲市の永禅寺[8]、富山県小矢部市の本叡寺などに見られ、小矢部市には伝説にちなんで「北蟹谷」の名が残されている[9]。岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の伝承では、甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたという[10]。このような問答を仕掛けるカニの化け物の話は、狂言の『蟹山伏[11]』がルーツとされる[4]。
長いので内容をまとめておこう。
・雲水は長源寺(山梨県山梨市万力)の住職に「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。 答に詰まる住職を雲水は殴り殺した。その後も代々の住職が同様に殺された。 そこで法印という旅の僧が長源寺に宿泊したところ、雲水が訪ねて来て同様の質問をした。 訪印が「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニ(2間四方または全長4メートル)に変身し、血を流して逃げた。 正体を見破られた雲水が逃げ、血痕を辿ると、巨大なカニが死んでいたともいう。
・カニの死体から千手観音の姿が現れ、祭ったのが長源寺の御本尊の千手観音だとされる。
・長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山だったため 蟹坊主伝説は享保11年より後に生じたと考えられている。
・永禅寺(石川県珠洲市)、本叡寺(富山県小矢部市)にも同様の話が伝わっている。
・岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたと伝わる。
・とカニの妖怪の話は、狂言の『蟹山伏』がルーツとされる。
2⃣蟹山伏
狂言の曲名。山伏狂言。修行を終えた山伏が強力(ごうりき)をしたがえて帰国の途中,蟹の精が飛び出してきたのに出会う。強力が金剛杖で打ちかかると,かえってはさみで耳をはさまれてしまう。山伏が行法で離してやろうとさまざまに祈るが,蟹の精は反対に強力の耳を強く締めつけ,ついには山伏の耳まではさんでしまう。蟹の精はころあいを見はからって2人を突き倒して逃げ去り,あとを山伏主従が追い込む
3⃣カニの姿をした千手観音
長源寺のご本尊の写真はこちら↓
腕の付き方がカニの脚のように見える。
滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。
これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。
男女双体の神としては、歓喜天などがある。
聖天(歓喜天)
4⃣蟹満寺
蟹といえば、京都府木津川市にある蟹満寺を思い出す。
蟹満寺には次のような伝説が伝えられている。
昔、この地に住む娘が近所の人がとらえた蟹をたすけて逃した。
その後、この娘の父親が、蛇が蛙を飲み込もうとしているところに遭遇した。
父親は蛇に「自分の娘をあなたの嫁としてさしだすので、蛙を助けてあげてほしい」といった。
蛇は蛙を飲み込むのをやめ、夜になって娘をもらうためにやってきた。
娘の父親は「3日後にきてくれれば娘をさしあげる」といい、観音経を唱え続けた。
すると蟹が大勢の仲間を引き連れてやってきて、蛇を殺した。
蟹もまた死んでしまい、蟹と蛇を弔うために蟹満寺が建てられた。
蟹満寺
今昔物語集等に掲載されている「蟹の恩返し」の舞台が蟹満寺である。
寺の所在地の地は名綺田(かばた)というが、古には「蟹幡」「加波多」と書いて「カニハタ」「カムハタ」と読まれていたようだ。 「ハタ」という音をともなっているところをみると、秦氏と関係のあるお寺なのかもしれない。
私はこの蟹満寺を参拝したことがあるが、ご本尊は釈迦如来像だった。 しかし観音霊験説話であること、当時の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったと考えられている。
娘を助けた蟹は観音様の化身なのではないだろうか。
5⃣みほとけの化身として信仰されたタコ
↓ こちらは京都の新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)の「なで薬師」である。
蛸薬師 なで薬師
この「なで薬師」さんを左手で撫でると病治癒に霊験があると信仰されている。
また大阪府岸和田市には天性寺というお寺があり、「蛸地蔵」と呼ばれている。
どうも蟹だけでなく、タコもみほとけの化身であると考えられていたようだ。
6⃣イカの神もいた!
蛸に似た動物にイカがある。 イカも神仏として信仰されていたのだろうか?
そう思って調べてみたところ 島根県西ノ島町浦郷地区にある「由良比女神社」に「イカ寄せ浜の伝説」が伝えられているという。
国づくりの神・由良比女命が出雲大社へ出かけ、芋桶に乗って隠岐へ帰る際、海に浸した手にイカが噛み付いた。 イカはそのおわびとして、神社前の由良の浜に大群でやってくる。 昭和20年代までは、大群でやってきたイカを捕獲する人々の姿が見られたとのこと。
明治まで神仏は習合して信仰されていたのでイカを神格化したみほとけが西ノ島にあるかもしれない。
7⃣みほとけは動物の形を象ったもの?私はみほとけは動物の形を象った姿に造られることが多いのではないかと思っている。 これについてはこちらの記事でのべる。 → 動物の形をしたみほとけたち
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