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とんでももののけ辞典 金玉(カネダマ)


金玉


1⃣金玉(カネダマ)

その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという[8][9]。

東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい[8]、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている[9]。

静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう[10][11]。

江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという[12]。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている[13]。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している[11]。

東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている[2]。


金玉(かねたま)の特徴を箇条書きにしてみよう。
①轟音と共に家へ落ちてくる。
⓶黄色い光の玉
③手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来る。
④早朝にも見える。

2⃣金玉は火球?

「①轟音とともに落ちてくる」光の玉というと、火球ではないかと思われる。

上の動画0.48あたりで、火球が流れたあとの轟音が録音されている。

 

↑ こちらの火球は黄色に見える。(⓶黄色い光の玉)


赤い火球もある。(③赤い光の玉)


 

緑色もある。 

上の動画1:39あたりからの字幕には次のようにある。
「流れ星に含まれる組成 大気の組成と2つの理由によって流れ星の色が決まるんです」
「鉄のスペクトルを多くふくんでいて緑色になったそうです」
上記動画より引用

こんな記事もあった。

流星は大気圏に高速で突入した際、流星を構成する物質や大気がプラズマ化(「気化」や「イオン化」とも言われます)して発光します。そのとき、どのような色で発光するかは元素によって異なります。一般的にマグネシウムは青緑色、カルシウムは紫色、ニッケルは緑色の光を放射します。しかし、赤は一般的に地球の大気中に存在する窒素と酸素に由来しています。


「ファイアーボール(火球)」のように輝く流星は、含まれる化学元素によって鮮やかに色を変える。地球大気に高速で突入する際に、流星物質は溶融・蒸発し、衝突する大気粒子とともにプラズマ化して発光する。このとき、ナトリウムは黄色からオレンジ色、銅は青から緑、カリウムはマゼンタ、ケイ素は赤く輝く。また、大気中の酸素粒子は緑色に光る。

説明が異なっているが、どちらのケースもありうるということだろうか。

マグネシウム 銅・・・青緑
カルシウム・・・・・・村崎
ニッケル 酸素・・・・緑
窒素 酸素 ケイ素・・赤
ナトリウム・・・・・・黄~橙
カリウム・・・・・・・マゼンダ

「④早朝に見える」ということは、空が明るいときに見えたということだろうが、火球は日中でも見える。


3⃣金霊(カネダマ)

金霊

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「金霊」

鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。

金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也

「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている[1]。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている[2][3]。

昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという[4]。

東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている[5]。

似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい[6]、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている[7]。


3⃣金霊は1769年の彗星から創作された?


上の記事によれば

明和6年(1769年)夏
天保14年(1843年)2月 

に彗星が出現したとある。

明和6年夏の彗星は、全国的に記録が残っており、畿内の民衆は「豊年之瑞」として「稲星」と呼んだようです。一方、公家社会では凶兆と見て、臨時に御神楽を行って危機の打開を図りました。

「金霊」が描かれている『今昔画図続百鬼』は、1779年(安永8年)に刊行された鳥山石燕(1712 - 1788年)の妖怪画集である。
石燕も1769年の彗星を目撃したのかもしれない。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%9C%8A より引用

とあるのは、1769年の彗星を見た人々がこれを「豊年の瑞(めでたいしるし)」と考えたところから、金霊なるものを創作したということかもしれない。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。(1803年)

水木しげるさんが目撃された「轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿」のものは、UFO❔


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トンデモもののけ辞典109 帷子辻

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

1⃣帷子辻

平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ、786年 - 850年)は仏教の信仰が厚く、檀林寺[3]を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれた。また貴族の子弟教育のために学館院を設けるなど、多くの功績があった[4]。
伝説によると、檀林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。こうした状況を長く憂いてきた皇后は、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である[4]。一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる[5]。
「九相図」(九相詩絵巻)[6]は檀林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描いたものとされる。
また詩書には「檀林皇后の御尊骸を捨てし故にや、今も折ふしごとに女の死がい見へて、犬鳥などのくらふさまの見ゆるとぞ、いぶかしき事になん[7]」とある。この意味について「もともと帷子辻は、こうして自らをなげうって人々の魂を救済しようとした檀林皇后の遺志の源であったはずであるが、その後この辻を通りかかると、犬やカラスに食い荒らされる女の死体の幻影が見えると恐れられるようになった[8]」との解釈もあるが、「後にも檀林皇后の例に倣い、女の死体が捨てられることがある」との意味に解釈すれば怪異でも何でもない、との指摘もある[9]。

2⃣帷子の辻はどこだ?

檀林寺は橘嘉智子が嵯峨野に創建した寺で、現在、天龍寺がある場所にあったという。
一条天皇:(在位986~1011)のころ、廃絶したと考えられている。
の頃には廃絶したとみられる。
現在、天龍寺の近所に法寳閣檀林寺があるが、1964年に壇林皇后の遺徳を偲んで再興されたものである。

橘嘉智子の遺体が朽ちていく様子を描いた九相図は東山区・六道の辻にある西福寺で見た。

九相図

帷子の辻の場所はこちら↓


辻とは十字路のことだが、どこが帷子の辻なのだろうか?

こんな記事があった。

彼女が亡くなった時に棺にかけられていたのが、絹や麻糸で織った着物(帷子)でした、お葬式の際にこのあたりを通った時に、三条通と交わる辻(交差点)で帷子が風に舞ってはらりと落ちたことから、このあたりが帷子ノ辻と呼ばれるようになったそうです。

三角形の形をした太秦帷子の辻町の東の角、112と数字のある道が三条通である。
つまり三角形の角のように鋭くとがった角のある場所が、帷子の辻だと思われる。
昔からこの角があったのだろうか。

とすればこの特徴的な交差点の形が帷子の辻という地名の由来ではないかと思えてくる。

友人は死装束の天冠のイメージから、死装束である経帷子の辻・・・・帷子の辻となったのではないかという。
また帷子で画像検索すると、下のように帷子を広げて三角状にした写真がたくさんでてくる。

https://maruai.up.seesaa.net/image/Picture20989.png

千本閻魔堂狂言 

千本閻魔堂狂言で亡者が額に着けている天冠

3⃣橘嘉智子の系譜

橘嘉智子の墓は右京区嵯峨鳥居本深谷町にある。
わずかに残った骨だけを葬ったとも考えられるが、「橘嘉智子の遺体が帷子ノ辻に打ち捨てられた」というのは事実ではないだろう。
皇后の遺体を粗末に扱うというのはちょっと信用できないからだ。

それでは橘嘉智子にまつわるこんな伝説が、なぜ創作されたのだろうか。

若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といった。
父親は美努王、母親は橘美千代である。
736年、橘諸兄は、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、
葛城王はこれ以後、橘諸兄と称した。

橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいる。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なのである。
737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡した。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になった。

755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をした。
聖武太上天皇は問題視しなかったが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡している。
このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われる。

758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画したが密告によって捕らえられた。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡している。
続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられている。

奈良麻呂の子の橘清友は、777年に渤海大使都蒙を接待したとき、
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡した。

この橘清友の娘が橘嘉智子である。


4⃣承和の変

『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』という予言どおり、橘清友の子孫は繁栄した。

娘の橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となった。
橘嘉智子の息子の橘嘉智子の正良親王は藤原順子との間に道康親王をもうけた。
橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけた。

833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立った。

このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつあった。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇(正良親王)と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいた。

淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請しているが、それはおそらく良房を恐れてのことだろう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていた。

840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされる。
伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画をたてた。
ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談するが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告した。
さらに橘嘉智子がこれを藤原良房に相談し、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕した。恒貞親王は廃太子となる。
橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没した。(承和の変)

従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎなかった。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられている。

『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。
橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのだろう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかも橘嘉智子はそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王を犠牲にしてしまっている。

橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だったといえるかもしれない。

橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされる。
私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思う。

「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B7%E5%AD%90%E8%BE%BB より引用

というのは、橘嘉智子の行動(孫の恒貞親王を廃太子によって、正子内親王の恨みを買い、橘氏を没落させたなど)が背景に会って、生み出されたのかもしれない。


トンデモもののけ辞典108 片葉の葦 

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

1⃣片葉の葦

江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。


2⃣本所の葦

この物語の舞台は東京都墨田区本所である。


上の地図の赤い点線で囲まれた隅田川の東岸にある地域が現在の本所である。
葦は池沼、河岸、湿地など、水辺に生えるので、本所にも葦が茂っていたのだろう。

本所の料亭 広重

本所の料亭 広重

広重の絵にも葦のようなものが描かれている。

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葦


3⃣居多神社の片葉の葦

ウィキペディア「片葉の葦」のところに、次の様に記されている。

越後七不思議の一つの「片葉の芦」については「居多神社」をご覧ください。

どうやら片葉の葦は本所だけでなく、居多神社にもあるらしい。

境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する[3]。伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという[3]。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている[3]。

360px-片葉の芦

居多神社 片葉の芦

4⃣お駒は片葉の葦を擬人化したもの?

本所七不思議の「 片葉の芦」では、「留蔵が自分になびかないお駒の片手片足を切り落として殺した」とある。
片葉の葦を、人間の片手片足を切り落とした状態に喩えたものではないかと思う。
お駒は片葉の葦を擬人化したものと言ってもいいだろう。

葦はお駒の切り落とされた「足」の語呂合わせにもなっている。

留蔵は片葉の葦の、葉のないほうに立っていて、それで片葉の葦の葉が自分のほうに「なびかない」のではないか。

5⃣葦は男女のカップルをイメージさせる?

百人一首にこんな歌がある。

難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや/伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


どちらも恋の歌である。
肩葉の葦ではないふつうの葦が、両側に葉をつける。
古の人々は、両側に葉をつける葦から、男女のカップルを思い浮かべたのではないだろうか。
それで葦と恋をむすびつけた歌を詠んでいるのではないかと思った。

6⃣伊勢にも片葉の葦の伝説があった。

下記動画では伊勢の国・長井の里の井出のお宮を舞台とする話で
渡り鳥である雁が葦の葉をもらって長い渡りの旅に出て、疲れればその葉を海に浮かべて、体をやすめるという。


なんだか雁風呂を思わせる話である。

月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという[1]。

2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した[1]。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81%E9%A2%A8%E5%91%82#%E6%A6%82%E8%A6%81 より引用

それはともかく、肩葉の葦はあちこちに生息していそうである。
今度、川辺にいったら探して見ようと思う。

淀川河口にやってきた鯨 と えべっさん

2023年1月9日、淀川河口で鯨が発見され、「よどちゃん」という愛称がつけられた。



残念ながら鯨は1月13日に死んでいるのが確認された。


1月9日、今宮戎神社は十日戎の宵戎だった。

十日戎は1月10日が本戎、11日 が残り戎である。



つまりよどちゃんは、宵戎の日に現れて、残り戎が終わって間もなく死んでしまったのである。
私はよどちゃんは、えべっさん(蛭子神のこと)の化身のようだなと思った。

その理由は十日戎が始まる日にあらわれて、残り戎の2日後に死んだというだけではない。
鯨のことを「エビス」という地方があるからだ。

https://ebisufan.com/news/ebisukujira.html/

↑ こちらの記事にも

「昔の人は「鯨」のことを「えびす」と呼んでいた」とあり、鯨を持ったり、鯨に乗ったエビス像の写真が掲載されている。


「寄り鯨の到来で七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われており、魚業の神=鯨が身を挺して住民に恵みをもたらしたことを感謝し、鯨への信仰心が育ってきたそうです。その漁業神こそが「恵比寿様」のことであり、まさに、恵比寿様は鯨の化身として同一視されていたんです。


【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係 より引用

よどちゃんは「エビス様」であり、「十日戎」にあわせるように淀川河口にあらわれたのだ。


報道によれば、今までにも大阪湾あたりに鯨が迷い込んできたことがあったといい、温暖化の影響で海水温があがったことが原因ではないかとしていた。

過去の日本には中世温暖期と呼ばれた時期があり、現在より2,3度気温が高かったとされる。
(「中世温暖期には現在よりも気温が高かったのであれば、現在温暖化を気にする日必要はないじゃないか」という人がいそうだが、現在、温暖化が危惧されているのは、その上昇率の高さによる。
2-02 700~2100年までの気温変動(観測と予測)

そのころは戎神社の総本社である西宮神社や、『日本最古の戎社』を称する大阪府堺市の石津太神社付近にも、時々鯨が迷い込んできていたのだろう。


 

↑ こちらの動画は千葉県浦安市の旅の記録である。

0:52あたりから稲荷神社境内にある大鯨の社の映像がでてくる。


稲荷神社のホームページには次のように記されている。


東京湾に鯨がいたということは現在では思いも及ばないことではあるが、水が澄み、自然環境が好く小魚が多く、鯨の餌が豊富だったのであろう。


河口から海へしばらく向かうと三枚洲(葛西沖)という好漁場があり、漁をしようといつものように日の出前に当代島の高梨源八、西脇清吉の両氏は船に立って漁場の三枚洲に近づいていくと、洲の上に大きな黒い大きな魚が暴れているのを見つけて近寄っていくと、うわさが絶えなかった大鯨が浅瀬の汐溜まりに取り残されている。


そこで両氏は驚きと興奮で体が硬直したものの気を取り直し、大格斗の末に大鯨を捕ることに成功し、意気揚々と当代島へと戻った。


両氏が帰還すると村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり、老若男女がこぞって見物に来たそうです。


この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。


稲荷神社について より引用

 

「【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係」という記事、浦安・稲荷神社の大鯨の碑についての説明文
どちらを読んでも、鯨が古の人々に富をもたらす動物であったことがわかる。


そしてそれは、アイヌの熊送りに通じるところがある。


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


アイヌの熊送りは、神の化身である子熊を捕まえてきて飼育し、それを儀式の中で狩り、殺して食するというものである。

つまり犠牲になってわが身を与えて下さるもの(熊)が神であるという考え方である。

エビス信仰では、熊のかわりに鯨が神の化身であり、鯨はその身(肉)を人々に与えて下さるので尊いというわけだ。


実はエビスと呼ばれるのは鯨だけではない。
水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれたそうである。


エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても歩けなかったため、葦舟に乗せて流したとされる。

エビスは龍宮にたどりつき、海神に育てられたが、神の御子であるので陸上にもどされ、西宮神社で祀られるようになったという話を聞いたことがある。


足が悪くわずか3歳のエビスがたどり着いた龍宮とは死の国のことだろう。

そして地上に戻されたエビスとは水死体のことであったのかもしれない。

鯨は水死体の化身として信仰されていたということなのかもしれない。



大杉神社


千葉県鵜原理想郷 クジラの頭蓋骨を祀る大杉神社