①江戸時代の識字率は世界一だとは考えられない。その理由は・・・
最近、「『江戸時代の識字率は日本が世界一』はデマだという話を聞いたので検索してみたところ、次の記事が見つかった。
この記事にさまざまなデータが掲載されているのでそれを引用させていただくことにしよう。
❶明治初期に文部省によって実施された自署率
(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査
滋賀県:64.1%(1877年)
岡 山 県:54.4%(1887年)
青森県:19.9%(1884年)
鹿児島県:18.3%(1884年)
これを見ると地域によってかなり差があることがわかる。
江戸時代に来日した外国人の旅行記などに、日本人の識字率の高さを述べているものがあるが、都市の一部の人間の読書習慣をのべただけで、データをもとにした発言ではない。
昭和38年(1963年)のユネスコ調査によれば、日本の非識字率についても,女性,地方の非識字率は男性,都市の約3倍となっていて、格差がある。
❷1850年ごろ(日本の幕末にあたる)のヨーロッパ諸国の非識字率(チポラ・カルロによる)
・イングランドは30~50%・・・つまり識字率は50~70%
・スウェーデン:10%(1850年)・・・識字率は90%
・スコットランド:20%(1851年)・・・識字率は80%
・プロイセン(ドイツ):20%(1849年)・・・識字率80%
ヴィンセント・デイヴィッドによれば、1850年ころの男性の非識字率は,オランダ,スコットランド,プロイセンなどで20%をしたまわっていたという。(つまり識字率は80%以上)
❶の結果から考えて、江戸時代後期の日本の男性の識字率を高めに見積もって約50%とする。
諸外国のほぼ同時代の識字率は、イングランドは50~70%、スウェーデン90%、スコットランド80%、プロイセン80%なので
江戸時代の日本の識字率は世界一とはとてもいえなくなる。
❹日本の壮丁(労役・軍役にあたる成年の男子)の「文盲率」(非識字率)として,
5.77%(1908年),2.11%(1916年),1.99%(1917年)というデータがある。
デンマーク:0.2%(1907年),スウェーデン:0.2%(1911年),スイス:0.3%(1911年),ド イ ツ:0.5%
(1912年),イギリス:1.0%(1903-1905年)などが,日本をうわまわっている。
❺『ワールド・アルマナック』ば1931年版「諸外国の非識字」※調査方法は様々
日本の識字率は99.04%(1923年),99.3%(1927年)(※ことわりはないが,これは壮丁調査による新兵の識字率)
スウェーデン:100%(新兵検査,年度不詳),
ルクセンブルク:100%(調査方法・調査年不詳)
ドイツ:99.97%(6歳以上,1927年),
オランダ:99.7%(成人,1927年)
ノルウェー:99%(調査方法・調査年不詳)
フィンランド:99%(15歳以上,1920年)
日本は決して世界一ではない。
⓶近代日本の就学率
❶1942年の就学率は日本が世界一だった?
1942(昭和17)年10月25日の読売新聞の記事が引用されている。
【学制が布かれ七十年 初めは小学校に高等,下等 今では世界一の就学率】
今では日本の就学率(国民学校に入学する者の割合)は99.4%で世界一です。近代的な学校の設備が一番早く出来たヨーロッパ諸国をはるかに追越しています。…東亜にある国々も日本にくらべたらお話にならないほど就学率は低く,私たちは教育の点でも日本に生れた幸福を深く感謝しなければなりません。
1941年に太平洋戦争が始まっている。1942年はその太平洋戦争が始まった翌年だ。
このとき、日本には新聞紙法があって新聞は検閲対象だった。
つまりこの時代には表現の自由がなかったのだ。
そのあたりを割り引いて、本当に日本の就学率が世界一だったのか考えてみる必要がありそうだ。
❷文部省データ
学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』,『学制百年史』,『学制百二十年史』
年度 就学率(%) 年度 就学率(%)
1875(明治08) 35.19 1935(昭和10) 99.51
1880(明治13) 41.06 1940(昭和15) 99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20) 99.79
1890(明治23) 48.93 1950(昭和25) 99.64
1895(明治28) 61.24 1955(昭和30) 99.77
1900(明治33) 81.48 1960(昭和35) 99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40) 99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45) 99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50) 99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05) 99.51 1990(平成02) 99.99
上記の表をみると、明治38年には95%の就学率となっていてかなり高い就学率となっているようにみえる。
しかし、「途中で退学した生徒も当初はおおく,就学率がたかくみつもられてきたのではないか」という疑問がだされている。
これらの研究成果によれば,日本で初等教育がほぼ普及したといえるのは1900年代ではなく,1920~1930年代ではないかとしているということだ。
ただし、どのようにして1920~1930年代と結論を出したのが、
そのあたりが
日本の就学率は世界一だったのか 角 知行には明確に記されていない。
社会心理学者のウィルソンによれば、適応的無意識のひとつの能力である心理的免疫システムが、良い気分でいたいという欲求を非意識的思考によって満たすことで、この言説は疑われることなく受容される。
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① 奴隷貿易
15世紀ごろ、ヨーロッパでは丈夫なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が伝わるなどして遠洋航海が可能となった。
大航海時代の到来である。
当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック
ヨーロッパ各国は西インド諸島やアメリカ大陸で大規模な農場経営を始めるようになる。
農場経営のための労働力として、ヨーロッパ人は原住民を用いていたが、疫病が流行するなどして人口が削減、労働力不足に陥ってしまう。
これを解消するために、アフリカの黒人奴隷が労働力として用いられるようになる。
黒人奴隷は三角貿易によって西インド諸島、アメリカ大陸にもたらされた。
三角貿易とは、 ヨーロッパから工業品を船に積み込んでアフリカ西海岸へむかい、次にアフリカ西海岸から黒人奴隷を船に載せて西インド諸島やアメリカ大陸にむかう。
その後、西インド諸島、アメリカ大陸の砂糖やタバコを積んでヨーロッパへ戻る、というものである。
黒人奴隷は人間としては扱われず、商品として扱われていたわけである。
ウィキペディア「アフリカ史」には次のように記されている。
アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。
たいへん惨酷な内容であり、これをもって、「ヨーロッパ人は残虐だ」と考える人がいるかもしれない。
奴隷船の内部構造(部分)
⓶奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。
さて、奴隷狩はどのようにして行われたのだろうか。
下の絵を見ると、右下にヨーロッパ人のような人が描かれている。
奴隷狩
ヨーロッパ人が鉄砲などで脅して奴隷狩を行ったのだろうか。
もしかしたらそういうこともあったかもしれないが、いくら鉄砲があるといっても奴隷狩りはやるほうも大変である。
ヘタすると命を落としかねない。
商品として手に入れられるのであれば買った方が安くつくだろう。
そう、ヨーロッパ商人たちは西アフリカ諸国から奴隷を商品として買っていたのである。
アフリカは暗黒大陸で、未開人が住んでいたと思っている人がいるかもしれないが、
アフリカには国が存在していた。
アフリカにはちゃんと文明があったのである。
ヨーロッパの商人たちは交易をおこなうにあたり、アフリカの土地の支配者や首長から許可をえたのだという。
アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。
「歴ログ -世界史専門ブログ-なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」
という記事には、次のように記されている。
・奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。
彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。
・ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。
ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。
ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。
・この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。
その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。
1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。
その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。
・奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には
我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い
と記されています。
・ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。
・(アシャンティ王国は)それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました。
奴隷たちを荷物同然に船に積み込んだり、過酷な労働をさせたヨーロッパ人も惨酷だが、食用だと思って奴隷を出荷していたアフリカ人も惨酷といわざるをえない。
③ アフリカ、奴隷貿易で衰退、植民地化する。
しかし1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立され、1807年にはイギリス、アメリカ、1814年にはオランダ、1815年にはフランスと次々に奴隷貿易が禁止された。
その理由のひとつは、イギリスなどの国内で、奴隷貿易は、キリスト教の立場からみて人道的に問題があると批判されるようになったためであるという。
奴隷貿易の廃止によってアフリカ諸国は衰退し、ヨーロッパ各国と保護条約を結ぶなどして植民地化されていった。
これは、自分で自分の首をしめる結果になったといわざるをえないのではないだろうか。
④残虐性は民族の特性ではなく個人の特性
残虐性は民族の特性ではなく、個人の特性、または環境によって作り出されるものだと私は思う。
それは左的な思想からくるものではなく、科学的に考えるとそういう結論になるのではないかと思うのだ。
ヨーロッパの商人たちはお金儲けのために奴隷貿易をおこなったが、ヨーロッパ人の中にはそれを「人道的ではない」として批判する人々もおり、その結果奴隷貿易は廃止された。
ある人は「アフリカ人は優しい」と発言されていたが、「食肉用と思って奴隷を出荷していた」アフリカ人もいた。
日本はアメリカに原爆を落とされた。これはとんでもなく残虐な行為である。
さらにGHQはプレスコードで報道を制限し、原爆被害の報道をさせないようにしていた。
そんな中で、現地取材し、原爆の真の恐ろしさを伝えたジャーナリスト・ジョン・ハーシーがいた。
その一方で、「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」と話すイギリス人もいる。
これらの例が示すことは、残虐性などの人間の性質は、民族やDNAによって決まるのではなく、個人の資質、または置かれた環境によって形成されるものであって
「ヨーロッパ人は残虐」などとはいえないということである。
ある方が、エドワード・シルヴェスター・モースの写真を示して「江戸時代の子供はなぜ明るかったのか」という話をされていた。
モースの写真はこちら↓
揚げ足をとるつもりはないが、明治時代の写真を江戸時代の写真と勘違いしていたのだろう。
このぐらいの勘違いは誰でもしそうだが、江戸時代と明治時代の人物写真はかなりちがっていたのではないかと思う。
幕末の坂本龍馬《 天保6年(1836年)~慶応3年1(1867年)》の写真が残されているが、撮影するのに20秒から30秒かかったといわれている。
坂本龍馬像
上の記事には次のように記されている。
ほとんどの赤子の顔は、大きくぶれていて、しっかり写っていない。これは、明治中期のカメラでは、20~30秒ほど撮影時間が必要だったからである。(上記記事より引用)
写真はこちら。
そこでもう一度モース《モースが日本にやってきたのは明治10年(1877年)から明治22年(1889年)》の写真をみてほしい。
この写真は20秒から30秒もかけて撮影した写真とは思えない。
笑ったまま20秒も表情を変えずにいることは難しいと思うからだ。
そこで調べてみると、ヤフー知恵袋に次のようなQ&Aがあった。
『日本で初めてブランド名のついたカメラとして有名な「チェリー手提暗函」は明治36年の発売です。このカメラのシャッターはTとIです。Iは瞬間を意味するインスタントで、言い換えれば手持ち撮影可能なシャッタースピードです。
翌年発売の「チャンピオン手提暗函」ではシャッタースピードは1/20秒から1/100秒に可変できたということです。』
赤ん坊がぶれて写っている写真は明治中期と書いてあるが、明治36年にはシャッタースピードが速いカメラが発売されてたのである。
これらは日本のコニカの製品だが、モースはアメリカのコダックを使っていたのではないだろうか。
おそらく、日本のカメラよりも早く、アメリカのコダックのカメラは早いシャッタースピードが切れるようになっていたのではないかと思う。
しかし、モースの写真はすばらしい。
なかなかこんな表情が引き出せるものではない。
現在でも習合写真はカメラ目線で表情の乏しい写真になりがちである。
モースの写真は、モースか助手が、なにか面白いことを言って子供たちを笑わせて撮影したのではないかと思う。
つまり何が言いたいのかというと、写真は「真実を写す」と書くが、いくらでも嘘をつけるということである。
現在のデジタル写真では合成写真を作ったり、怒った顔を笑った顔に変えたりすることも簡単にできる。
そのような技術がなかった時代においても、写真で嘘をつくテクニックはいろいろあった。
たとえ嫌なことがあって普段笑うことの少ない子供でも、何か面白いことをいって一瞬だけ笑わせておいて、
それを撮影すれば明るい雰囲気の写真になる。
なので、明るそうに笑っている子供の写真をみて、昔の子供は明るかったと決めつけるのはまちがいだといえる。