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シドモアが見た明治期の日本32 東海道➀

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


➀東海道本線

p240
最初の鉄道は英国人技師によって建設され、英国式車両が配備され、これを日本人技師が模倣し、敷設した鉄道は日本人が管理しました。

p240
長いトンネルをはじめ、富士山周辺の難所や各河川の巨額な土木工事の必要性から、全線開通は一八八九年[明治二二]まで手間どりました。

慶応3年(1867年)6月、幕府はアメリカ領事館書記官のアルセ・ポートマンに江戸・横浜市間の鉄道設営免許を与えた。
明治になってからアメリカは鉄道建設要請を行ったが、明治政府は幕府による許可であることを理由に認めなかった。
明治2年(1869年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決定した。
イギリスより技術や資金援助をうけることにし、明治3年(1870年)イギリスのエドモンド・モレルを建築師長として工事が始まる。
明治4年(1871年)に井上勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任した。

シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀
↑ こちらの記事にも書いたように、
1872年(明治5年)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止) - 横浜駅(現・桜木町駅)間が日本最初の鉄道として開業。

開業当時の新橋駅

開業当時の新橋駅

開業当時の横浜駅(現 桜木町駅)の全景

開業当時の横浜駅(現 桜木町駅)の全景

1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間が開業
1887年(明治20年)には木曽川駅 - 加納駅(現在の岐阜駅) - 大垣駅間、横浜駅 - 国府津駅間、浜松駅 - 大府駅間が開業。
1889年(明治22年)7月に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業。
1914年(大正3年)東京駅が開業

東京駅

1914年ごろの東京駅

⓶東海道五十三次双六

p241
世間では五十三次の名称で知られ、これにちなんだゲームに前進、退却を素早く繰り返す大衆的ゲーム[双六]があります。


↑ これはいつごろ作られたものかわからないが、日本では明治期にはじめて登場した馬車鉄道が描かれている。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1310718?tocOpened=1

↑ こちらは上の動画のものとちがって、振出しが江戸の日本橋、中央のあがりが京都になっている。

↑ こちらは安政2年・1855年、歌川広重作の『浮世道中膝栗毛滑稽双六』は、振出しが神田八丁堀で、上りの京都へいたるまでそれぞれのコマの絵が分かりやすく掲載されている。


↑ 東海道五十三次 新板道中双六 明治初期 

③箱根

p242
東海道の旅のふりだしは宮野下のホテル[富士屋ホテル]からで、椅子式四人担ぎの駕籠に外人女性二人[シドモア女史と母キャサリン?]が乗り、日本人ガイドを伴い出発。続いて一行の引率者である旦那さん[兄ジョージ?]は軟弱な趣向を笑われながらも、金剛杖、藁保安帽、赤褐色の靴といった出立で大きく足を上げ前進、同時に私たちの後に駕籠いっぱいの食糧箱と荷物が続きました。



富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。

富士屋ホテルについてはこちらの記事にも書いた。↓
シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀

おさらいしておこう。
宮ノ下には奈良屋という、老舗旅館(徳川綱吉のころ(将軍在職:1680年 - 1709年)の創業と伝えらえる)だったが
1868年(明治11年)に富士屋ホテルが開業したあと、奈良屋と富士屋は協定を結び、
1923年(大正元年)まで奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとされた。
奈良屋は2001年に廃業し、現在跡地にはリゾートホテル「エクシブ箱根離宮」が立っている。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
この時奈良屋は日本人専門旅館となっている。
なのでシドモアは富士登山の際にも、この富士屋ホテルを利用したのだと思う。

p242
すぐに一行は竹藪に覆われた山道を登り、さらに草深い高地を越え箱根湖[芦の湖]に向かいました。

上の地図の富士屋ホテルの西にある大きな湖が芦ノ湖である。

芦の湖

芦の湖

p242
太古は噴火口だった湖も、今では全く火が消えています。

芦ノ湖は箱根山のカルデラ湖である。

芦の湖といえば、東京箱根間往復大学駅伝競走の往路ゴール、復路スタート地点であるが、
駅伝が始められたのは1920年(大正9年)である。
シドモアの生没年は 1856年ー1928年だが、「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが駅伝を見ることはなかっただろう。

p242
駕籠かき忍足は歌いながら大股で歩き、息切れする昇りもものともせず、さらに芦之湯硫黄温泉や箱根ブッダ[六道地蔵]を通過します。

芦之湯温泉は「箱根七湯」のひとつ。
泉質は硫黄泉、硫酸塩泉などとのこと。

1890年頃の芦之湯 (日下部金兵衛撮影)

1890年頃の芦之湯 (日下部金兵衛撮影)

歌川広重 箱根七湯図会_芦のゆ

歌川広重『箱根七湯図会』より「芦のゆ」

絵の中央に描かれているのは、源泉だと思う。
下の写真は日光湯元温泉の源泉地。

湯元温泉


六道地蔵は神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある磨崖仏群(元箱根石仏群)のひとつ。
元箱根石仏群は六道地蔵(高さ3.2m)二十五菩薩(実数は26体)火焚き地蔵(3体)からなり、五輪塔3基・宝篋印塔1基もある。
1293年(永仁元年)から1311年(応長元年)に造られた。

六道地蔵

六道地蔵

p242
ブッダの膝の小石の山は巡礼による祈祷登録です。


写真をよく見ると、石仏の膝のあたりに石が積まれているように見える。

「二十五菩薩」は西方浄土から来迎する二十五の菩薩で、
観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在王・獅子吼・陀羅尼・虚空蔵・宝蔵・徳蔵・金蔵・金剛蔵・山海慧・光明王・華厳・衆宝王・月光王・日照王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威徳・無辺際の各菩薩のことである。


↑ これは奈良県當麻寺で行われている二十五菩薩練供養で、二十五菩薩が中将姫を迎えにやってくる場面を再現している。

しかし元箱根石仏群の二十五菩薩は、阿弥陀如来立像1体、供養菩薩立像1体のほかは、地蔵菩薩立像なのだという。

1766601_s.jpg

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上の写真中央に映っているのが、26体ある二十五菩薩像のうちの阿弥陀如来立像だと思う。
供養菩薩立像がどれなのかはわからない。

六道地蔵の六道とは、生きとし生きるものが輪廻するという六つの世界、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道のことだろう。
墓地の入り口などに六地蔵が置かれているのもよく見かけるし、京都では6つの街道に地蔵菩薩を祀る寺があり、8月23日、24日の地蔵盆に6つの寺をめぐる習慣がある。

なぜ箱根峠沿いの街道筋に元箱根石仏群がつくられたのか、興味があるが、全く見当がつかないw

p242
半島御用邸[恩賜箱根公園]の菊の門の門扉はしかりと閉められ、円錐形の富士が湖を取り囲む尾根の肩越しにちらりと姿を見せ、底なし湖の水面に映っています。

これは箱根離宮のことで、シドモアが半島御用邸と書いているのは芦ノ湖の半島・塔ヶ島にあるためだろう。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
このころは御用邸として用いられていたのだが、1946年に一般開放され、現在は恩賜箱根公園となっている。

「疎林の広場」から見た芦ノ湖、箱根外輪山、富士山

恩賜箱根公園「疎林の広場」から見た芦ノ湖、箱根外輪山、富士山

p243
ここで、私たちは靴にワラジを被せて結び、東海道の滑らかな石畳に沿って歩くうち、再び上りとなって箱根峠へ導かれ、すぐ頂上に着き、そこから広い谷間を越え南方向に太平洋が眺められました。

23715664_s.jpg

上の写真は https://www.photo-ac.com/main/detail/23715664 からダウンロードさせていただいたもので(ありがとうございます)
タイトルは「駿河湾と富士山」となっていて、タグに「箱根峠」とあるので、箱根峠から望んだ風景ではないかと思う。
(まちがっていればご指摘ください。)

 

p243
ぎこちない足にワラジを結んだ荷馬が、石畳の道を青い仕事着姿の農民によって引かれて行きます。彼らは定番の青と白の木綿手拭いを被り、しかも人も馬もその足を同じようにワラジで覆い、つるつる滑る状態を防いでいます。

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箱根旧街道の石畳:三島宿

箱根八里は東海道の最大の難所でした。標高800mを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪などが降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くのがたいへん困難だったからです。そこで旅人の便宜を図るためにつくられたのが石畳の道です。
しかしはじめから石畳が敷かれていたわけではありません。寛永元年(1624)に来朝した第3次朝鮮通信使の記録によると、竹が敷きつめられていてまるで乾いた道を行くようであった、と記録されています。これは箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹のことです。
ところが道に敷かれた竹は腐ってしまうため毎年敷き替えなければなりません。そのために多くの竹と人手、お金を必要としました。
そこで幕府は、延宝8年(1680)公金1400両あまりをかけて、箱根峠から三島宿に至る西坂のうち、約10kmを石畳の道としたのです。箱根峠から小田原宿へと下る東坂には、現在7地点、3.3kmにわたって石畳が残っていますが、それについては史料がないため詳しいことはわかっていません。

藤枝宿での積荷の載せ替え

藤枝宿での積荷の載せ替え

当事の荷馬には上の絵のようにワラジをはかせていたようだ。

確かに普通の靴ならはズルっと滑りやすく、かなり気を遣って歩みを進める必要がある。しかしながら、わらじであれば苔むした石畳でも滑りにくく、むしろ歩きやすい道だといえるのだ。

↑ こちらは実際にワラジをはいて石畳の道を歩かれた方の体験談。(貴重な体験談をありがとうございます。)






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