fc2ブログ
2022 07123456789101112131415161718192021222324252627282930312022 09

涙の旅順の思い出とは


➀旅順の特攻?


私は上の動画の、武田さんの発言の意味が長い間わからずにいた。

僕はこの時親父がね旅順の海軍の魚雷の推進の計算をしてたわけです。
京都大学の数学でて軍隊の関係なかったけど、学校の先生だったんだけど
計算が間に合わないっていうんで行ったの。
この時僕ら子供が2人いっしょに、母親もね。なんで行ったかは分からない。
~略~
その時にね彼らが特攻しなかったらねぇ、僕は今いないんですよ。

とおっしゃっているが、特攻、旅順で検索してもそれらしいものがでてこないからだ。

たとえば、上の記事にも旅順という言葉が無い。

特攻に直接守ってもらったというわけではなく、間接的に守ってもらったという意味なのかとも考えたが
あれが特攻してくれたから僕ら何万人が逃げてきたんですね。
ともおしゃっていて
やはり直接守ってもらったという意味のように思える。

⓶人間魚雷


無知なもので特攻というと、飛行機による特攻しか思い浮かべなかったが
友人によれば、人間魚雷というものがあったのだという。

九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。制空・制海権をアメリカ側に奪われた1944年(昭和19)2月、(マルロク)計画の名で試作開始、7月完成と同時に水中特攻本部が設置され、新兵器は「回天(かいてん)」と命名された。同年11月20日、中部太平洋ウルシー環礁のアメリカ海軍泊地に5基の回天が発進、タンカー1隻を撃沈したのを最初に沖縄作戦などに参加、アメリカ輸送船団に対してかなりの戦果をあげた。しかし搭載潜水艦が次々に失われたため、航空機による特攻作戦のような大規模なものにはならなかった。回天要員約2000人中、戦死86人、殉職16人の犠牲者を出している。


なお、ジャーナリストの前田哲男は日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)において、「人間魚雷」を日本軍に限定して、「九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。」と解説する。


↑ 
【奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤】
この記事も参考になると思う。

③対戦車特攻

しかし武田さんは
あそこで特攻してキャタピラに突撃したから
とおっしゃっている。
キャタピラというのは戦車についている無限軌道のことだろう。

無限軌道(むげんきどう)とは、起動輪、転輪、遊動輪(誘導輪)を囲むように一帯に接続された履板(りはん・りばん)・シュー (Shoe) の環であり、起動輪でそれを動かすことによって不整地での車両の移動を可能にするもので、この種の車両を装軌車両 (Tracked Vehicle) と呼び、対して通常のタイヤ車輪を備えた車両を装輪車両 (Wheeled Vehicle, Car etc) と呼ぶ。

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

人間魚雷は海で用いるものなので、戦車を攻撃したということはやはり飛行機か?
そう思ったのだが、友人が「生身の人間が特攻するのだ」と教えてくれた。
それをもとに検索したところ、次のような記事がでてきた。

大勢の命奪った「対戦車特攻」

対戦車特攻とは、山の斜面をL字型に掘削した「対戦車壕(たこつぼ)」に黄色火薬10キロを入れた箱をもった人間が潜み、戦車が接近してきたら火薬の箱をもったまま戦車の下に飛び込むというものであるらしい。
体から離れた火薬は1秒後に爆発するという。

この手記を書かれた井戸清一さんは1945年6月に旅順に転じ、その後ソ連が参戦したと書いておられる。


④ソ連の満州侵攻

旅順は満洲国(1932~1945年)にある港であった。
満州国は昭和7年、関東軍の主導によって建国された国で、約200万を超える日本人が満洲に住んでいたが、
1945年(昭和20年)8月9日、満州においてソ連対日参戦(日本帝国陸軍の関東軍、支那派遣軍vs極東ソ連軍)が勃発した。

関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満州の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満州国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満州へ連れて来ていた[9]。



http://historyjapan.org/invasion-on-manchuria-by-soviet-1
上記記事には次のような内容が記されている。

ソ連は満洲・樺太・千島侵攻を目的として8日夜に宣戦布告、
9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始した。

一般の居留民や開拓団が大勢戦闘に巻き込まれた。

満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させず、軍人の家族を優先させて汽車で避難させた。
8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。
そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。
一般市民はほとんど汽車で避難することができないまま、関東軍は全満州の4分の3を捨て、朝鮮の防衛を行うため引き揚げてしまった。

その後、満州各地で避難民が虐殺される事件がおきている。

8月15日「玉音放送」によって、日本が連合国に対し無条件降伏したことが全国民に伝えられたが
軍隊に対する正式な停戦命令ではなく、通信網が使えなかったなどの理由から満州での戦闘は8月29日まで続いた。

昭和20年5月の時点で開拓団は約27万人。病死と行方不明者を入れると、開拓団の人々の死亡は7万8500人だった。
日本軍軍事捕虜のうち、57万4530人が捕虜となり強制労働させられた。軍人以外の民間人も捕虜とされた。
うち、ソ連から引き揚げてこられたのは47万2942人。

武田楠雄 プロフィール
1933年京都大学理学部数学科卒、満鉄鉄道技術研究所の研究員を経て、工学院大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『技術者のための微分積分学』より

武田楠雄さんが、満州の旅順で魚雷の推進の計算をしていたというのは、彼が満鉄鉄道技術研究所の研究員であったためだろうか。

あるいは、そのとき満鉄鉄道技術研究所をやめて工学院大学の教授をされていたのが、魚雷推進の計算のため海軍に呼ばれて旅順にいたのかもしれない。

いずれにしても、日本は空襲があって危険なので、奥さんとお子さん二人を旅順に呼び寄せたということではないかと思う。

ところが1945年にソ連の満州侵攻があり、このとき対戦車特攻で多くの特攻隊員が命を落とした。
しかし、旅順においてこのような特攻がおこなわれたのかどうか、よくわからない。
前述した井戸清一さんは、旧満州・旅順の部隊にいたこと、45年6月に旅順に転じたとは書いてあるが
特攻をした場所は明確ではない。

https://www.sankei.com/article/20150808-EXDDWOGLXJMNVJIL5QWHORACQY/photo/MZO5KLHZEVNEXMEA7IV2FXA3WE/

↑ リンク先の地図をみると、旅順ちかくまでソ連が侵攻している様子がわかるので、旅順近くで対戦車特攻が行われたのかもしれない。




スポンサーサイト