
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「火前坊」
➀火前坊
平安時代頃に葬送地として知られた京都の鳥部山に現れるという妖怪で、画図では炎と煙に包まれた乞食坊主の姿で描かれている[2]。
鳥部山は有力な皇族や貴族が葬られており、10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ、その信仰儀式を人目見ようとする庶民たちも多かったが、中には儀式に反し、現世に未練があるなどして極楽往生できなかった者もいたらしく、そうした僧の霊が僧形の怪火となって鳥部山に現れたものが火前坊とされている[1][2]。
また、江戸麻布の地名「我善坊谷」から鳥山石燕が創作したものとする異説もある[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%89%8D%E5%9D%8A より引用
絵に添えられた文章はつぎのとおり。
鳥部山の烟たちのぼりて、龍門原上に骨をうづまんとする三昧の地よりあやしき形出たれば、
くはぜん坊とは名付たるならん
・鳥辺山は京都に古くからあった葬送の地。
・烟は煙。
・「龍門原上に骨をうづまん」は白居易「題故元少尹集」にある言葉。
龍門は登竜門のことで、難所を突破できれば出世につながることのたとえである。
「龍門に骨は埋められたが、書き残した遺文によって名声は後世に残る。」「死後に高い評価をえる」というような意味でる。
・三昧は仏教の言葉で「雑念をさり没入することによって対象を正しく認識する」というような意味。
しかし「三昧の地」といっているので、「三昧場」のことを言っているのではないかと思う。
「三昧場」は僧が死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂のことで、転じて、墓所・葬場のことを三昧場というようになった。
・「ならん」は「~だろう。」
通して現代語訳すると次のようになるだろうか。
葬送の地である鳥辺山の煙が立ち上って、龍門原上に骨をうずまんとしている(捨身である焼身をして名声を残そうとしている)
葬場からあやしい形が出ているのを見て、火前坊と名付たのだろう。
⓶入定
「10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ」という
ウィキペディアの説明はかなりショッキングである。
本当にこんなことが行われていたのだろうか。
捨身行は行われていた。
まず、入定である。
五穀を絶って木の皮や実のみを食べる木食修行を行って、体の脂肪を減らし、腐りにくい体にする。
そして漆のお茶を飲んで胃の中のものを吐きだし、さらに漆の作用で体を腐りにくくし、
地下に彫られた穴のようなところに籠ってお経をあげる。
お経の声が聞こえなくなったら行者は死亡しているのだが、その肉体は過酷な木食修行によって腐ることなく後世に残るのである。
しかし実際には腐ってしまった例も数多くあったようだ。
③補陀落渡海
次に、補陀落渡海である。
補陀落渡海とは、南方海上にある観音浄土を目指す行である。
やり方としては、行者が乗り込んだ船の出口を釘で塞いだ上で、伴走船が曳航していく。
沖までやってきたら綱を切る。
渡海船はそのまま海を漂って南方海上にある観音浄土に到着する・・・・なんてはずがない。
波にのまれて船が沈没し、行者は水死することが多かっただろう。
そう、観音浄土とはあの世、死の国のことなのである。
補陀落渡海のメッカは紀伊・那智勝浦(868年から1722年の間に20回実施された/熊野年代記)で、ほかにも足摺岬(高知)、室戸岬(高知)、那珂湊(茨城)他、鹿児島県や茨城県、島根県などでも行われている。
江戸時代になると補陀落渡海は生きた行者ではなく、死者を渡海船に乗せるようになる。
④焼身
それでは焼身はどうか。これについても本当に行われていたようである。
「平安時代の焼身往生について 根井浄」という記事が参考になった。
❶捨身は菩薩道の布施行。投身、焼身、入定、入水。
❷捨身、焼身を説く経典
『金光明経』の摩詞薩唾太子の捨身飼虎
『浬繋経』の雪山童子の捨身羅刹、
『法華経』薬王菩薩本事品の喜見菩薩の焼身供養。
❸中国の六朝時代から階唐時代の捨身は、多く法華経行人によつて行われていた。
❹日本でも『本朝法華験記』に、捨身、焼身の話を多く載せている。
❺文献上の日本最古の捨身は、『日本霊異記』(下巻・第一)にみえる禅師
彼は常に法華を諦し、麻の縄で足をしばり、崖に身を投じた。
❻熊野那智山の応照は、日本最初の焼身者、
法華を読諦することをその業となし、喜見菩薩を恋慕随喜して焼身した(『本朝法華験記』第九話)。
❼薩摩国一沙門、千部の法華経を読調し、喜見に異ならずして焼身した(『本朝法華験記』第十五話)。
さらに『元亨釈書』にみえる信州戸隠山の長明も、法華経を諦し、一切衆生喜見菩薩と言つて焼身自殺した(巻十二)。
❽奈良時代『僧尼令』第二十七条の「凡僧尼、不二得焚レ身捨身」僧尼の焚身、捨身を禁止
❾『続日本紀』(養老元年四月条)
「小僧行基井弟子等、零二ー畳街備↓妄説二罪福↓合訓構朋党↓焚ニー剥指管{歴門仮説、強乞二余物↓詐称二聖道肉妖二ー惑百姓こという行基とその集団に出された詔。
❿行基等は、身体の一部を焼いて、庶民教化の一方便としていた。
指を焼いたり、身の皮を剥いでそれに写経する。(血書・刺血写経)『令集解』
⓫「皮を剥ぎて紙となし、血を刺して墨となし、髄を以て水となし、骨を析きて筆となし、仏戒を書写せよ」『梵網経』(巻下)には、とある。
⓬同様の記述は空也上人(空也謙)、釈信敬、釈賢憬(元亨釈書)にもみられる。
⓭平安時代の焼身の記録
(1)六波羅蜜寺の覚信、菩提寺北辺にて焼身『日本紀略』長徳元年(995年)九月十五日※華山法皇以下公卿が拝んだ。
(2)某比丘尼、鳥辺野にて焼身(『日本紀略』万寿三年(1026年)五月十五日
(3)薬王品尼、鳥辺野にて焼身(『左経記』万寿三年(1026年)七月十五日)
(4)四条釈迦堂の文豪、鳥辺野にて焼身『扶桑略記』治暦元年(1065年)五月十五日※道俗市を成す
(5)某上人、船岡野にて焼身(『百練抄』承安四年( 1174年)七月十五日※上下群を成した
(6)某上人、阿弥陀峯にて焼身(『百練抄』長徳元年(995年)九月十六日) ※上下の雲集が集まった。
(7)僧円観、伊予国久米郡にて焼身『後拾遺往生伝』康平五年(1062年)八月十五日
(8)僧長明、戸隠山にて焼身(『拾遺往生伝』元保年中三月十五日を終焉とす)。
※元保という元号はない。
天台宗。信濃(しなの)(長野県)戸隠(とがくし)山にすみ,25歳のとき言語を絶って法華経をとなえた。最後に薪(まき)をつみ,みずから火をはなって往生した。没年に永保年間(1081-84),康保(こうほう)年間(964-968),康平年間(1058-65)の3説がある。法名は「ちょうめい」ともよむ。
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%98%8E-569092 より引用
その他、『三外往生伝』『本朝新修往生伝』にも、焼身の僧の例がある。

六波羅蜜寺
⓮京都では、阿弥陀峯、鳥辺野、船岡野といつた霊場、葬場で行われた。
⓯見せ物的要素もあつた。
⓰焼身はがほとんど月の十五日に行なわれた。
月の十五日は、戒律を守り、各々、罪を告白し、繊悔する布薩の日。
『廿五三昧起請』(起請八ケ条)「可三毎月十五日勤二修念仏三味一事、右今日是弥陀垂二感応哨閻王記二善悪一之斉也、結縁殊慎三二業{堅護二衆戒嚇不レ生二放逸之行剛勿レ従二世路之事こと』とある。
慶滋保胤を中心とした勧学会・・・三、九月の十五日
源信を中心とする念仏結社であつた二十五三昧会・・・毎月十五日に
阿弥陀仏の縁日である十五日に焼身すれば、必ず往生できるという信仰。
七月十五日の孟蘭盆の日に焼身するケース・・・「孟蘭盆捨身上人」(『顕広王記』)「薬王品尼」(『左経記』)
鳥辺山は鳥辺野とも呼ばれた。
どのあたりを鳥辺野と呼んでいたのか、はっきりしないが、
⓭平安時代の焼身の記録に (1)六波羅蜜寺とある。
この六波羅蜜寺のあたりは鳥辺野の入り口付近だといわれる。
ここから東南の方向へ少し行くと大谷本廟があって、登り坂となり、清水寺などがある。
このあたりが鳥辺野だろうか。
鳥辺野を阿弥陀ヶ峰西麓一帯と記した記事もある。
鳥辺野は風葬の地とよく説明されているが、それは室町の頃の事であるらしい。
それ以前の平安時代には野焼き場(露天の火葬場)があったそうである。
藤原道長が火葬されたのも鳥辺野であるという。
そして鳥辺野で実際に焼身がおこなわれていたようである。
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