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シドモアが見た明治期の日本30 富士登山 ⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

④須走

p222
黒い溶岩の燃殻や塊は火山に近づいたことを教えてくれます。道は緑の草原を抜け、石炭粉塵の様なインク色の跡を残しています。炭鉱のボタ山のような火山岩滓の体積が道脇に露呈し、荷車がざらざらした鉱滓を騒々しく磨りつぶして通ります。
絵のような典型的日本の村・須走の全住民が街道に集まり、私たち一行を歓迎してくれました。

「岩滓」とは、火山から噴出された暗色で多孔質の塊のものをいう。スコリアともいう。
本には「がんし」と読み仮名がふられているが、ウィキペディア、goo辞書などネット記事では「がんさい」とする例が多い。

スコリア

スコリア

「鉱滓」は金属の製錬の際、炉の中の溶融金属の上に浮かぶかすのことである。

富士山は現在は活火山ではないが、平安時代には活火山であったとする記録がある。

また1707年(宝永4年)の宝永大噴火では須走村がほぼ全焼全壊している。



須走は上の地図で赤で囲んだ地域のことである。

富士山と丹沢山地にはさまれた標高800mの高原に位置する。西側は富士山頂までが村域であり、富士登山道須走口が続いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B5%B0%E6%9D%91 より引用

上のサイトに富士参詣須走口図が掲載されている。
シドモア一行はこのルートで富士山頂をめざすようである。

p222
広い街道の両側を水が勢いよく躍って渦巻き、機械仕掛けで玩具の軍隊を吹き動かしたり、ケーキや砂糖菓子の売り場に吊るした蠅除けを回しています。

蠅取り紙は昭和、ハイトリックは大正の発明品のようで、明治時代にはなかったと思われる。
シドモアがいう回転する蠅除けとはどのようなものだろうか。
水で動く玩具の軍隊も見てみたいものだ。

⑤東口本宮富士浅間神社

p222
道路の茂みには、古びた神社へ導く鳥居があり、登山前に富士巡礼の全員が祈りを捧げます。

この神社は東口本宮冨士浅間神社だと思う。
富士参詣須走口図で富士浅間神社となっている。


延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火し、須走で鎮火の祈願を行ったところ、噴火がおさまったので、807年に神社を創建したと伝わる。

須走村の御師(参詣者のために祈祷、案内、宿泊の世話をする神職)は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受けて、関東一円で活動を行ったという。
寛延2年(1749年)、既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らが御師の活動を独占した。

p222
やがて太陽が沈み、消えかかる最後の深紅の輝きとともに、雲がうねり去ると、堂々たる円錐富士が頭上に屹立し、夕暮れの変化する光の中で、斜面がバラ色、さらに菫色へと染まってゆきます。

3985177_s.jpg

夕暮れの富士山(須走から撮影されたものではありません)

p223
午前四時、私たちは太陽とともい気象し、えもいわれぬ朝の大気の中で全山ピンクと薄紫になっている富士を仰ぎました。

24313693_s.jpg

朝日に照らされる富士山(須走から撮影されたものではありません)

p222
あわただしく朝食をとり、女性は駕籠に乗り、男性は乗馬で元気いっぱい出発すると、すぐに山麓からつながっている道で、燃殻を広く敷き詰めた並木道に連れ出されました。明るい光の中に海抜一万二〇〇〇フィート[三七七六メートル]の富士が倍になって見え、その瞬間「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。

「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」というのは途中で駕籠をおりて、歩いて登る予定ということである。

p223
林道にそってずっと苔むした石[一里塚]が距離を標し、ある場所には霊峰の聖域教会を示す石垣と見張り灯籠門の遺跡があります。

一里塚、見張り灯籠門はわからなかった。

⑥馬返

p223
たとえ馬や駕籠で、馬返と称する一マイル[一・六キロ]先の筵小屋の基地まで行くことが許されても、この地点から大地は山の神の領域となります。雄大な富士は、ここから上方へ向け一定の曲線を描いていくのです。石段の最上段にある高い鳥居は、履物をつけ自分の脚だけで神聖なる土地を踏む、正式な登攀開始の地点を示しています。

上記サイトの富士参詣須走口図の下のほうに馬返と記された場所がある。
ここから先は馬ではいけないということで、馬返と呼ばれたのだろう。
p222でシドモアは
「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。
と書いているように、馬返から、女性たちも駕籠をおりて歩いて富士山を登るのだろう。

p223
筵小屋で駕籠を止め、私たちは二日間の休養をとりました。出発日、荷物が分けられ、ポーター[荷物運搬人]の背に結ばれました。いつの間にか、彼らは身を華やかに飾り、まるで戦闘態勢を整えた北米インディアンのような恰好になっていました。このインディアン集団はたくさんの予備ワラジを腰に結んだり、荷物にぶら下げたりしました。

こちらの記事に、かつて富士登山で強力(ごうりき)をされていた方について記されている。
シドモア一行は宮ノ下で案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇っているが、この人たちが強力なのだろう。

伝統衣装をまとったスー族の戦士、ジトカラ・サ(19世紀の撮影)

伝統衣装をまとったスー族の戦士、ジトカラ・サ(19世紀の撮影)

上のインディアン、スー族の戦士は体にいろんなものをつけている。
このような感じで強力さんたちは体にワラジやいろんなものを身に着けていたのだろう。

⑦須走登山ルート

p223
裸の燃殻や溶岩を超えると、窪みのない平坦な傾斜が連続し、さらにジグザグ道となって着実な登りを妨げます。森の中に三つの小さな神社があって、巡礼の祈願や奉納を促し、さらに神聖なお札を杖や衣服に付けるよう招いています。この神社を過ぎると、一〇ヵ所の休憩所(基地)が登山道沿いに均等に置かれ、一番目、つまり一合目は森の端にあり、十合目は頂上にあります。

https://www.fujisan223.com/pap/subashiri/

上のサイトの図を見ると、須走ルートは次のようになっている。

富士浅間神社(東口本宮富士浅間神社)→馬返→大日(大日堂)→役行者(行者堂)→中宮役所→ラムロ(?)→明王(明王堂)→一合

シドモアが三つの神社と書いているのは、馬返→一合の間にあることになるが、何がそれに該当するのかわからない。
もしかすると、大日(大日堂)→役行者(行者堂)→ラムロ(?)→明王(明王堂)のうちの3つがそれに該当するのかもしれない。

現在では車やバスで5合目までいって、そこから登ることができるようだ。
それをふまえると、やはり明治の富士登山はきびしい。

須走

p224
神官や基地管理人は六月下旬に山開きし、降雪が始まる直前の九月にしめます。真夏の数週間、全斜面は白装束の巡礼行列で埋まり、杖に飾られた鈴のリンリン鳴る音で全山大合奏となります。

江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画。

江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画
※向かって右上に書かれている穴のようなものは何でしょう?


⑧富士講

p224
毎年三万近くの巡礼が富士ヤマに登ります。この敬虔な聖地巡礼団の多くは農業従事者で、彼らは共同協力会を作って細やかな年会費を治め、会員は総費用を順番に負担してもらい旅に出ます。

江戸時代、庶民にとって旅費は安いものではなかった。
そこで集団で『お伊勢講』をつくり、お金を出し合って二、三人の代表者が伊勢参りをするということが行われた。
代表者はくじ引きで決められ、農閑期に旅に出た。
講の人々に変わってお伊勢さんに祈り、お土産を買って帰った。

富士講もこの『お伊勢講』と同様のものである。

このような講は、戦後GHQが賭博行為として禁じるまで続いた。(地域によっては現在でも存在しているそうである。)

なぜ講が賭博行為とされたのかといえば、
参加した会員が一定の金を拠出して資金を集め、くじ引きで数人がその資金のすべてを手にするからだろう。

ただし、お伊勢講、冨士講などの講では、くじ引きで代表に選ばれた人は、次回のくじ引きには参加できないなどのルールがあり、全員が代表に選ばれる仕組みになっていたそうなので、賭博行為とはいえないと思う。

それはともかく、シドモアが富士登山を行ったのは明治だが、この時代においても富士講が盛んであった様子がうかがえる。

⑨富士山の伝説

p224
富士ヤマは伝説に包まれ、巡礼たちは躊躇なく信じます。聖なる山は二〇〇〇年前、わずかひと晩で生まれ、地上にそびえ立ちました。そのとき西方に大きな窪地が出現し、すぐ水になったのが琵琶湖です。


これはおそらく、「ダイダラボッチという巨人の妖怪が近江の土で富士山をつくり、掘った跡が琵琶湖になった」という伝説について述べているのだと思う。
ダイダラボッチとは一つ目の巨人で、私は台風を擬人化した妖怪だと考えている。


p225
山の女神フジは同性を嫌っていると信じられ、女性を襲って空中に放り投げるという鬼の話は、世の旧幣から完全に脱皮したはずの日本婦人の登山をいまだに妨げています。女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになったといわれています。

富士山は1872年(明治5年)まで女人禁制だった。
「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
シドモアが富士山を登ったのは、女人禁制がとけて少なくとも12年ほどはたっていたはずだが、それでも長年の習慣はなかなか変わらなかったのだろう。

一般的に山の神は女性で、醜く嫉妬深いので女性の入山を禁じていたなどといわれる。
しかし富士山の神とされ、東口本宮富士浅間神社の御祭神でもあるコノハナノサクヤヒメは、美人であると記紀は記している。

天孫ニニギが葦原中国に天下ったとき、オオヤマツミという神が娘のコノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギの妻にさしだしたが
面食いのニニギは、美しいコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、醜いイワナガヒメは返してしまったとあるのだ。

醜い女性の神、と言えばコノハナノサクヤヒメではなく、イワナガヒメのようで、いつの間にか二柱の女神が入れ替わっているかのようで不思議に思うが、その疑問はいまだにとけていない。

その山の神である鬼が、女性登山者を放り投げるという話は聞いたことがないが、かつてそんな伝説が語り継がれていたのかもしれない。

赫夜姫(かぐやひめ)伝説が富士山南麓に伝わっている。
かぐや姫といえば、平安時代に記された「竹取物語」に登場するヒロインである。
竹取物語のあらすじは次のようなものである。

かぐや姫は翁が切った竹の中から生まれ、たいへんな美女に育つ。
そのため、大勢の男たちがかぐや姫に求婚するのだが、かぐや姫は結婚の条件として、無理難題を押し付ける。
石作皇子には「仏の御石の鉢」を、車持皇子には「蓬萊の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」を
右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」を、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を
中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持ってきたら、結婚しましょう。
そうかぐや姫は告げたが、5人の貴公子は全員それに失敗する。
ついに帝までもがかぐや姫に求婚したが、やはりかぐや姫はかたくなに拒んだ。
三年後、かぐや姫は翁に「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五夜に月に帰らねばならない。」と告げた。
これを知った帝は二千人の軍隊を翁の家に送った。
子の刻(真夜中頃)、大空から人が雲に乗って降りて来たが、軍隊は戦力を失って戦うことができなかった。
かぐや姫は翁に手紙を、帝には不死の薬と和歌をおくった。
その後、かぐや姫は物思わなくなる天の羽衣を着せられて、車に乗って月へ昇ってしまった。
帝は悲しんで、天に近い富士山で不死の薬と手紙を焼くよう命じた。
ここから、この山は「ふじの山」というようになり、その煙は今も立ち昇っている。


「煙が今も立ち昇っている」というのは、竹取物語が記された平安時代、富士山の火山活動が活発であったことだ。
そしてかぐや姫の正体は月の女神であり、最後は月に帰っていく。

月へ帰って行くかぐや姫

月へ帰って行くかぐや姫(土佐広通、土佐広澄・画)

ところが富士山南麓に伝わる赫夜姫伝説では、かぐや姫は月ではなく、富士山に戻って洞穴にはいるという筋になっているそうである。
つまりかぐや姫は月の女神ではなく、富士山の女神というわけである。 

富士市の「下方五社(しもかたごしゃ/富知六所浅間神社、瀧川神社、今宮浅間神社、日吉浅間神社、入山瀬浅間神社)」と呼ばれる神社では御祭神として、かぐや姫やかぐや姫をそだてた竹取の翁・竹取の媼(おうな)を祀っている神社があるということである。

またこ「富士山と八ヶ岳の背くらべ」という伝説もある。

昔、女神の富士山と男神のハヶ岳が、どちらが背が高いかで言い争いをし、木曽の御岳山の阿弥陀如来に背くらべの判定約を依頼した。
阿弥陀如来は、水は高い方から低い方へ流れるので、二つの山のの頂上に長い「とい」をわたして水を流すことにした。
すると水は富士山の方へ流れたので、富士山はくやしくたのでなって八ヶ岳の頭を叩いた。
すると、八ヶ岳の頭は八つにわれてしまい、富士山が日本一背の高い山になった。

シドモアが「女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになった」といっているのは、かぐや姫伝説と、富士山と八ヶ岳の背くらべの二つの話を合わせたような話の様にも思えるが
若しかしたら、シドモアが言うような伝説がつたえられていたのかもしれない。

p225
この秀麗無比の山は夢に見ることだけでも、幸せが必ず約束されるのです。富士は大空を旋回するコウノトリや昇り龍とともに、人生の成功や艱難の克服を象徴しています。

「富士山の夢を見ると幸せが約束される」というのは、初夢で見ると縁起がいいものとして、「一富士、二鷹、三茄子」と言われることを言っているのだろう。

「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」などとこれはよく言われるが、これはドイツにコウノトリによく似たシュバシコウという鳥がおり、シュバシコウが赤ちゃんを運んでくるという言い伝えがあり、それが日本に伝わってコウノトリが赤ちゃんを運んでくる、と言われるようになったのだともいわれる。

記紀にでてくる、鵠(くぐい)は白鳥とされているが、コウノトリのことではないかともいわれている。

日本書記には、言葉をしゃべることのできなかったホムチワケが鵠をみて「これは何者ぞ」と言葉を発し
これに喜んだ天皇は鵠をつかまえさせてホムチワケの遊び相手としたところ、ホムチワケは話せるようになったという話がある。

昇り龍とは天に向かって昇っていく龍のことだが、転じて、勢い付いている様子を登り龍のようだ、などといったりする。

⓾富士山の噴火

p225
一五〇〇年頃まで、富士は年中噴煙の渦巻を帯び、また全世紀を通じ大噴火を繰り返してきました。最近起きた一七〇七年[宝永四]の噴火は一ヵ月にも及び、荒い燃殻、灰、焼けた赤土の塊を放出し、今でも山を覆っています。火山灰は五〇マイル[八〇キロ]先にも広がり、登山道の川をせき止め、麓の平原を高さ六フィート[一・八メートル]の燃殻で覆い、粗に北斜面にたん瘤[宝永山]を作り、禁制のとれた完璧な円錐形を台なしにしました。


宝永山

宝永山

富士山の噴火の歴史を下記にまとめた。

・約70万年前~20万年前  小御岳火山
現在の富士山の位置で小御岳火山、南東にある愛鷹山の活動が活発になる。
富士山北斜面5合目の小御岳は小御岳火山のなごり。

 

・約10万年前~ 古富士火山
小御岳火山が休止し、古富士火山の活動が活発になる。
大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000メートルに成長。
宝永山周辺など富士山中腹に古富士火山のなごりあり。
火山泥流が頻発。

・約11,000年前
約2,000年間にわたり、大量の溶岩を流出した。
玄武岩質のため遠くまで流れ、最大40キロメートルも流れ、南は駿河湾にいたった。
その後約4000年間活動を休止する。

・約5千年前~ 新富士火山
溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火などを伴う活動。

・約3,000年前
縄文時代後期、4回の爆発的噴火が起こる。(仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリア)

・約2,300年前
富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生(御殿場泥流)

・800年 延暦大噴火
旧暦3月14日から4月18日にかけて大規模な噴火が起こる。(日本紀略)

・802年(延暦21年)1月8日 噴火 相模国足柄路が一次閉鎖され、箱根路が代わりに用いられた。

・864~866年 貞観大噴火
噴火し、北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す。
溶岩は当時あった『せの海』を西湖と精進湖に分断した。
また溶岩は斜面を流れて青木が原溶岩(青木ヶ原樹海)となった。





・1707年 宝永大噴火
宝永地震の49日後の12月16日、富士山は大量のスコリアと火山灰を噴出。火山雷が発生。月末まで断続的に続く。
江戸にも多量の灰がふる。川崎では灰が5センチメートル積もる。
山麓で家屋や耕地に大きな被害。洪水等の土砂災害も。

・江戸時代晩期~昭和中期
山頂火口南東縁の荒巻(朝日岳の手前にある鞍部)を中心に噴気活動を観測。
1854年の安政東海地震がきっかけか。
1957年50度を観測。

・1987年8月20日~27日
富士山で一時的に火山性地震が活発化。山頂で有感地震を4回記録(最大震度3)

・2000年10月~12月、2001年4月~5月
富士山のやや深部で、低周波地震が多発する。

※新富士火山の噴火は781年以後17回の記録がある。


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