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シドモアが見た明治期の日本25 日光 ⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


⑨東照宮と大猷院
p195
各神殿には、最初に参拝者を導くはばひろい上り石段があり、外庭に立つ壮麗な幾つもの楼門[表門・陽明門(東照宮)、仁王門・二天門・夜叉門(大猷院)]には精緻な彫刻が施され、金銀の豪華な板金が嵌められ、すべて極彩色と金塗装で輝いています。かぎりない細部の構成と装飾、重厚な楼門の屋根を支える梁と腕木の複雑さには目が眩みます。

東照宮 表門

東照宮 表門

陽明門

東照宮 陽明門

大猷院 仁王門

仁王門 大猷院

2286512_s.jpg

二天門 大猷院

大猷院-夜叉門

夜叉門 大猷院

⓾家康の墓

p196
かつて、二つの神殿は、全体が仏教の象徴と浮か混ざりで輝き、線香が強く薫り、鉦や銅鑼の調べも美しく、毎日念仏供養が院内に響き渡っていました。しかし、維新後、神道が国家神教となり、天皇が日光へ巡礼された際、家康の霊廟からは祭壇の壮麗な装飾、旗印、紋章が剥ぎ取られ、素朴な鏡と空なる神道の御幣に置き換わりました。

p197
一方、家光の神殿は排斥処分から助命されて、神聖な書の入った華美な漆箱が並んでいます。またそこには金箔の仏像、黄金の蓮の葉、じゅうりょかんおある蝋燭、太鼓、銅鐸、旗指物、垂れさがる飾りも尾、加えて青煙を淡く薫らせ外に発散する大香炉がありますが、それらはみな昔たいせつな儀式に使った仏具です。

奥社 唐門と銅宝塔(徳川家康墓)

奥社 唐門と銅宝塔(徳川家康墓)

これは事実かどうか確認できなかったが、奥宮にある家康の墓はその他の東照宮の建物と比べてかなり地味な印象なので
もしかしたらそういうことがあったのかもしれない。

明治政府は明治元年(1868)神仏分離令をだし、次のようなことを布達している。
一、神社名の権現・牛頭天王などの仏教語を神号に変えること
二、仏像を神体としているものは取り除き、神体は幣か鏡に取り替えること
三、神社にある鰐口・梵鐘・懸け仏などは取り除くこと

その結果、徳川家康の墓所はそれまでは東照大権現と呼んでいたのを東照宮というようになったそうだが、
二、三は行われたのかどうかわからない。

⑪水盤舎

p197
各神殿の外側には素晴らしい水槽があり、また広い休憩所には、御影石製雨どい付きの荘重な屋根がかかり、それを堅固な隅柱が支えています。各水溜まり場には精密にくりぬいた大きな単独岩石があり、均等に磨かれガラスリポ詠いに見えるこの岩石の底からは、水が沸き上がり、周辺の縁へ滑らかに流れでています。家光の神殿の噴水は鍋島藩主の贈り物で、休憩所の軒には、大神殿を礼拝した巡礼たちの残した無数の小旗がひらひらしています。

これはお水屋のことを書いたものだろう。
大猷院のお水屋は佐賀藩藩主の鍋島勝茂が奉納したものである。

大猷院 手水

水盤舎 大猷院

東照宮 水盤舎

東照宮 水盤舎

⑫彫刻、逆柱

p199
神聖な白馬がほごされている神厩の上には、目や耳や国を手で塞ぐ猿の集団[三猿]を描いた彩色彫刻があります。どんな邪悪にも、人は”見ざる聞かざる言わざる”が安全だという意味です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shinkyusha.jpg

神厩の写真はこちら ↑

日光東照宮 三猿

三猿

この三猿は、志貴皇子・弓削道鏡・弓削浄人をあらわしているのではないかと思う。
興味ある方はこちらの記事を読んでほしい。


p199
見事に彫刻された楼門[陽明門]の小さな二匹の虎の円形浮き彫り[木目の虎]は、とても巧妙に工夫され、木目の曲線や木の節は、ビロード外側の柔らかな縞状や厚い毛皮の趣を利用すされ、描かれています。

これ↑のことだろうか?

p199
この楼門の彫刻円柱の一部は、故意に逆さまに立てられていますが[逆柱]、これは建築家があまりにも完璧で驚異的な出来栄えをかえって危惧したからです。

逆柱 

逆柱

日光東照宮 陽明門の柱の模様

正しい柱

ウィキペディアには次の様に説明されている。

日光東照宮の陽明門はこの逆柱があることで知られている。柱の中の1本だけ、彫刻の模様が逆向きになっているため、逆柱であることがわかる。しかしこれは誤って逆向きにしたわけではなく、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることで災いを避けるという、言わば魔除けのために逆柱にしたとされている。また、妖怪伝承の逆柱とは全く異なるものである[2]。

鎌倉時代の「徒然草」には、完全なものは決して良くはない、それで内裏を造る時も、必ず1か所は造り残しをする、とある。江戸時代には、家を建てる時「瓦三枚残す」と言ったという[5]。


p199
もう一つの楼門[坂下門付近の潜門]の上には、猫が丸くなって心地よく眠り[左甚五郎の眠り猫]、雨がくると瞬きをして知らせるということで、この白い猫は大谷川沿いにあるどんな立派な作品にも負けない評判を取っています。

東照宮 眠り猫

眠り猫

これとよく似た彫刻が四天王寺にもある。

四天王寺 眠り猫

これについて、興味のある方は、こちら ↓ の記事を読んでほしい。
四天王寺 紫陽花 猫の門 『日想観を修する眠り猫と厩に閉じ込められた聖徳太子』

雀

眠り猫の裏側には雀と竹の彫刻がある。

この眠り猫の意味については、ざまざまな説がある。

➀警戒心の強い猫すらも安心して眠れる世の中の到来を意味している。
⓶天敵である猫が眠っているときに雀のような弱い者も安心して過ごせる世の中を意味している。
③眠り猫は寝たふりをして、家康公の墓の番をしている。

実は、➀⓶は近年、昭和51年ごろ、東照宮の神職さんが考えたことである。
それまで東照宮では「③眠り猫は寝たふりをして、家康公の墓の番をしている」と説明していたのだが
神職の高橋さんが、「春日大社(奈良県)所蔵の国宝「金地螺鈿(らでん)毛抜形太刀」の鞘に、竹林で猫が雀を捕まえる図柄が描かれている」ことから「平和のシンボルとして『眠っている』と考える方が妥当」と訴え、それがメディアに取り上げられて広まったのだという。

そのほかにも次のような説がある。
④鼠一匹通さない。

家康は寅年なのだそうだ。
そして、雀はアマノワカヒコの葬儀に登場するなど、死のイメージがある。
寅年生まれの家康が亡くなったのでネコのようにおとなしくなり、死んだ家康の霊は雀となり、
地下茎で増える筍の様に徳川家は子孫繁栄する、なんて意味ではないかなw
(子供を産まない女性は筍を探し続ける地獄に落ちるといわれていた。その理由は筍は種がなくても地下茎で増えるため)

⑬巫女

p199
日光の最も神秘的な祭祀は、家康の霊廟で舞う巫女で年齢六〇くらいにみえます。~略~巫女の前のしんせいな朱の階段上には賽銭箱があり、そこへ敬虔で好奇心の強い人たちから賽銭が投げ込まれます。すると巫女は立ち上がり、こちらの通路は数歩、あちらの通路を数歩とおごそかに進みます。各方向転換の直前にベビー・ガラガラ[鈴]を右手で振り、開いた扇をひだりてにして手招きします。

巫女2

巫女

上の2枚は奈良の鏡作坐天照御魂神社の若い巫女さんであるが、シドモアが見たのはこのようなものであったと想像する。
シドモアがベビー・ガラガラと表現したのは下のGIFアニメである。

ジェラード・シオドール 『新しいがらがら』 1875年

ジェラード・シオドール 『新しいがらがら』 1875年

赤ちゃんをあやすためのおもちゃで、ふると音がなる。
現在でも販売されているが、そのルーツは古代ギリシャであるという。

日本では室町時代に、御所の女官たちが紙張子の文箱に小物をいれてつくったのがルーツで、雀、犬、ウサギなどの形をしたものが作られたそうだ。

大猷院 

皇嘉門 大猷院 

日光東照宮

輪蔵 鼓楼 東照宮


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