➀旅順の特攻?
私は上の動画の、武田さんの発言の意味が長い間わからずにいた。
僕はこの時親父がね旅順の海軍の魚雷の推進の計算をしてたわけです。
京都大学の数学でて軍隊の関係なかったけど、学校の先生だったんだけど
計算が間に合わないっていうんで行ったの。
この時僕ら子供が2人いっしょに、母親もね。なんで行ったかは分からない。
~略~ その時にね彼らが特攻しなかったらねぇ、僕は今いないんですよ。
とおっしゃっているが、特攻、旅順で検索してもそれらしいものがでてこないからだ。
たとえば、上の記事にも旅順という言葉が無い。
特攻に直接守ってもらったというわけではなく、間接的に守ってもらったという意味なのかとも考えたが あれが特攻してくれたから僕ら何万人が逃げてきたんですね。 ともおしゃっていて やはり直接守ってもらったという意味のように思える。
⓶人間魚雷
無知なもので特攻というと、飛行機による特攻しか思い浮かべなかったが 友人によれば、人間魚雷というものがあったのだという。 九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。制空・制海権をアメリカ側に奪われた1944年(昭和19)2月、(マルロク)計画の名で試作開始、7月完成と同時に水中特攻本部が設置され、新兵器は「回天(かいてん)」と命名された。同年11月20日、中部太平洋ウルシー環礁のアメリカ海軍泊地に5基の回天が発進、タンカー1隻を撃沈したのを最初に沖縄作戦などに参加、アメリカ輸送船団に対してかなりの戦果をあげた。しかし搭載潜水艦が次々に失われたため、航空機による特攻作戦のような大規模なものにはならなかった。回天要員約2000人中、戦死86人、殉職16人の犠牲者を出している。
なお、ジャーナリストの前田哲男は日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)において、「人間魚雷」を日本軍に限定して、「九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。」と解説する。
↑ 【奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤】 この記事も参考になると思う。
③対戦車特攻
しかし武田さんは あそこで特攻してキャタピラに突撃したから とおっしゃっている。 キャタピラというのは戦車についている無限軌道のことだろう。
無限軌道(むげんきどう)とは、起動輪、転輪、遊動輪(誘導輪)を囲むように一帯に接続された履板(りはん・りばん)・シュー (Shoe) の環であり、起動輪でそれを動かすことによって不整地での車両の移動を可能にするもので、この種の車両を装軌車両 (Tracked Vehicle) と呼び、対して通常のタイヤ車輪を備えた車両を装輪車両 (Wheeled Vehicle, Car etc) と呼ぶ。
輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)人間魚雷は海で用いるものなので、戦車を攻撃したということはやはり飛行機か? そう思ったのだが、友人が「生身の人間が特攻するのだ」と教えてくれた。 それをもとに検索したところ、次のような記事がでてきた。 大勢の命奪った「対戦車特攻」対戦車特攻とは、山の斜面をL字型に掘削した「対戦車壕(たこつぼ)」に黄色火薬10キロを入れた箱をもった人間が潜み、戦車が接近してきたら火薬の箱をもったまま戦車の下に飛び込むというものであるらしい。 体から離れた火薬は1秒後に爆発するという。
この手記を書かれた井戸清一さんは1945年6月に旅順に転じ、その後ソ連が参戦したと書いておられる。
④ソ連の満州侵攻
旅順は満洲国(1932~1945年)にある港であった。
満州国は昭和7年、関東軍の主導によって建国された国で、約200万を超える日本人が満洲に住んでいたが、 1945年(昭和20年)8月9日、満州においてソ連対日参戦(日本帝国陸軍の関東軍、支那派遣軍vs極東ソ連軍)が勃発した。
関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満州の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満州国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満州へ連れて来ていた[9]。
ソ連は満洲・樺太・千島侵攻を目的として8日夜に宣戦布告、 9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始した。
一般の居留民や開拓団が大勢戦闘に巻き込まれた。
満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させず、軍人の家族を優先させて汽車で避難させた。 8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。
そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。
一般市民はほとんど汽車で避難することができないまま、関東軍は全満州の4分の3を捨て、朝鮮の防衛を行うため引き揚げてしまった。
その後、満州各地で避難民が虐殺される事件がおきている。
8月15日「玉音放送」によって、日本が連合国に対し無条件降伏したことが全国民に伝えられたが 軍隊に対する正式な停戦命令ではなく、通信網が使えなかったなどの理由から満州での戦闘は8月29日まで続いた。
昭和20年5月の時点で開拓団は約27万人。病死と行方不明者を入れると、開拓団の人々の死亡は7万8500人だった。
日本軍軍事捕虜のうち、57万4530人が捕虜となり強制労働させられた。軍人以外の民間人も捕虜とされた。 うち、ソ連から引き揚げてこられたのは47万2942人。
武田楠雄 プロフィール 1933年京都大学理学部数学科卒、満鉄鉄道技術研究所の研究員を経て、工学院大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『技術者のための微分積分学』より
武田楠雄さんが、満州の旅順で魚雷の推進の計算をしていたというのは、彼が満鉄鉄道技術研究所の研究員であったためだろうか。
あるいは、そのとき満鉄鉄道技術研究所をやめて工学院大学の教授をされていたのが、魚雷推進の計算のため海軍に呼ばれて旅順にいたのかもしれない。
いずれにしても、日本は空襲があって危険なので、奥さんとお子さん二人を旅順に呼び寄せたということではないかと思う。
↑ リンク先の地図をみると、旅順ちかくまでソ連が侵攻している様子がわかるので、旅順近くで対戦車特攻が行われたのかもしれない。
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➀御室浅間神社跡、古御岳神社
p226 私たちに同行したポーター15人のうち三名が一組となり、それぞれ女性に付きました。彼らは女性軍をおんぶしてでも頂上へ連れていく決意です。堂々とした富士を目指し、先頭のポーターが女性登山者の腰回りに綱を堅く結んで出発し、別のポーターが彼女を前方へ押しました。さらに本人はもう一人のポーターの長い竹竿につかまり、灰から自分の脚を持ちあげる個人的義務(!?)を果たしながら、文字どおり頂上へ向け引っ張られ押し上げられ前身しました。
p226 苔に覆われた丸太作りの階段を登ると、神社の門や戸口に御幣(祭礼用紙片)が飾られ、さらに野晒しのまま祭壇が据えられた境内[御室浅間神社]を通り抜けました。
御室浅間神社は山梨県南都留郡富士河口湖町勝山の富士山二合目にある。 しかし、御室浅間神社があるのは吉田ルートだ。
シドモア一行は須走に到着し、そこから神社(東口本宮富士浅間神社と思われる)、馬返と移動しているので 須走ルートで山頂をめざすものと思われる。
たぶんこの御室浅間神社跡のことを言っているのではないかと思う。 御室浅間神社跡についてはぐぐってもあまり情報がでてこない。 現在は石碑しかないが、シドモアが訪れた明治時代には社や鳥居などがあったのだろう。
p226 ある神社[古御岳神社]では、私たち一行の足音が近づくとほら貝ラッパを吹き、吊し太鼓をドーンと叩いて合図し、紫と白の上着に厚紙の黒烏帽子姿の神官たちが快活に出迎え、温かい麦茶をふんだんに出してくれました。私たちの依頼で朱の大文字が書かれた御札と、この二合目基地(現・五合目)の印を服に張り付け、神社の紋章を焼印した正規の巡礼杖を売ってくれました。
地図を見ると、かなり登って来られたのだなあ、と思う。
⓶八合目
p228 私たち一行のうち、パイクス山[コロラド州ロッキー山脈の山]登頂を経験したベテラン二人は、はるかかなた、濃いチョコレート色の斜面に白い点となって見えました。
p229 快活な小柄のポーターが木綿着をずぶぬれにしながら、私を励まし溶岩の角の周りにロープを張って一休みしました。
p229 ところが、傾斜した溶岩沿いの道を一瞥した瞬間、太陽が照っているはずのあの空から、泡立つ波頭が落下してきました。奔流がうなり押し寄せ、大参事に巻き込まれる寸前、辛うじて落下ルートの横断に間に合いました。
p229 目もくらむ雨、吹きまくる嵐の中、二時間もの厳しい登りの後、ようやく八合目の避難小屋に到着したときには体はすっかり冷え切り疲労困憊の体でした。
p231 土曜日から火曜日まで三日三晩切れ目なく渦巻く嵐は、私たちを暗く煙の充満した小屋の中に囚人のごとく高速しました。
p233 二日目の午後、頂上小屋の管理人が突然、窓に現れました。半分死んだような姿を見て、ポーターらは興奮して引っ張り込み、手足の傷ついた遭難者を介抱しながら、唇へ暑い酒を数杯注ぎました。富士頂上で為す術もなく吹き曝され、嵐と戦った彼の話は「晴れ」を待望している全員の気持ちをいっそう暗くしました。彼は米櫃が空となり、食糧調達に決死の旅を試みたのです。すぐに私たちは、ここの管理人にも同じ絶望的努力が強いられると予感しました。
天候が荒れた際の富士山登山の大変さが伝わってくる。
③富士山頂
p234 戸口の閂が外されると、淡い陽の光と静かな風が虜囚のいる薄暗い穴蔵に入り込み、晴れゆく天気を予想させました。
p234 頂上の傍、噴火口の縁にある鳥居を潜り、険しい溶岩の階段を登ると、最終基地[十合目]へ到着しました。
これは久須志神社(富士山本宮浅間大社東北奥宮)の鳥居の事ではないかと思う。 
p234 風が吹き始め、雲が立ち込める寸前に辛うじて山頂に到着すると、下界は再び濃密な雨の渦巻く海原と化しました。
p234 たくさんの社がある噴火口の縁を一周する余裕も、火口底部の鳥居に飾られた小道をたどる余裕もありませんでした。私たちは神社の手続きを急ぎ、寒さに凍えた神官から金剛杖に焼印を推してもらったり、ハンカチや服にスタンプしてもらったり、さらに山頂登攀記念に挿絵入りの証明書をもらったりしました。
富士山火口
残念なことにシドモア一行はお鉢巡りが叶わなかったのである。 お鉢巡りとは、富士山の火口の縁をめぐるもので、所要時間は約1時間30分ほど、距離は約2.6キロである。
④富士下山
p235
八合目の基地で会計帳簿を作成し待っていた小屋の主人が、記録メモをたくさんめくり、三日間の外人部隊まかない請求を読み上げました。あらゆるものが品目ごとに箇条書きにされ、皇位で勧めたはずの日本酒や茸シチューさえも含まれていました。主人は本能的に頭をひょいと下げ、私たち七人に総額五八ドルの請求書を見せ、ひたすら言い訳を繰り返し、さらにポーターやボーイからの抗議、避難には一切耳を塞ぎ、日本語や英語の脅迫、毒舌を延々と続けました。シャイロック[シェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」の登場人物]のごとき宿主は、ついに半額の三〇ドルで同意し、起源より受け取る段となり、ようやく諍いは終わりました。
これと同様の値段のつりあげについては、イザベラ・バードも書いていた。 「江戸~明治期の日本人は正規の料金を偽らなかった」という保守の論者がいるが、そんなことはなかったのである。 宿主は30ドルで同意したということは、この値段が正規の料金か、または若干高めの料金なのだろう。 その倍もふっかけるというのは、現代の日本人の感覚ではあまりにひどいw
p235 黄色い服を着たポーターが私をロープでしっかり結び、一緒に飛び込み滑走を開始しました。緩い燃殻の急流を転がり、濡れた灰の中に足首までつかり、まるで競技場の選手さながら駆け下りました。昇りコースではたくさん時間を費やした区間をたった数分で滑り降り、途中温かいお茶を飲むため止まった休憩小屋はわずか数ヵ所でした。
p238 聖なる山が夜明け間近の淡い灰色の中に明るくくっきりと見え、しばらく昇る朝日を見るため待機しました。急に海側からくすんだ茶の霧が押し寄せ、天高く照るつきを横切り、あっという間に眼下の平野を消しました。カンパンやチョコレートで四時の朝食を済ませた私たちはブロッケン現象の陰をそのままに、また籠に戻りました。
シドモア一行は富士山をおり、乙女峠まで戻ってきてここから朝日を望んでいる。 方角的に、富士山は朝日が出る方向とは反対側の西に見えるはずである。 朝日が昇って来るのを見、振り返って朝日のあたる富士山をみようとすると、霧がでて富士山のある方角にブロッケン現象が現れたのだろう。
ブロッケン現象(ブロッケンげんしょう、英: Brocken spectre)とは、太陽などの光が背後から差し込み、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。
p239 ところで、輪が母国のレーニア山[ワシントン州中西部の高峰・タコマ富士]も万年雪に覆われ、斜面の森林がピュージット湾内に濃い緑の影を落とし、昔も今も変わらぬ愛すべき山です。
レーニア山
➀片脚上臈
片脚上臈(かたあしじょうろう)は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)に伝わる妖怪。
姫上﨟ともいう。栃の窪という地からハダナシ山という山にかけて現れるという、美しい上臈姿の片脚の妖怪。紙製の鼻緒の草履を履いた者がいると、その片方を奪うという。山吉田村の阿寺には栃の窪を水源とする阿寺の七滝という滝があり、そこには不妊の女性に子宝の霊験のある子抱き石という石があったが、そこへ行くには紙緒の草履を履いていかなければならないとされ、そのような女性が片方の草履を奪われたという。
また山中で、猟師が獲物を一時的に置いて水を飲みに行ったときなど、その隙に獲物を奪い取るともいい、獲物から離れなければならないときなどに、猟銃と山刀を十字に組んでおくか、袢纏をかけておくと、片脚上臈の怪異を避けるまじないになるという。
獲物を奪うのは山男の仕業ともいわれるが、実際には山犬の仕業との説もある。
片脚上臈の伝承のある阿寺の七滝
上臈とは江戸時代の大奥女中の最高位の役職名である。 将軍や御台所への謁見が許され(御目見以上)で、京都の公家出身の女性が役職につくことが多かった。 生家の名前とは関係なく、姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いだ。
主に御台所(将軍の妻)の相談役をつとめた。
⓶子孫に王位を継承することができなかった達磨と天智天皇
この妖怪の話で興味深いのは、履物を奪うことである。 なぜ片脚上臈は履物を奪うのだろうか。
『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)
なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのだろうか?
『景徳伝燈録』に次のような物語がある。
『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。
中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。
それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。
その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。
また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。
宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。
帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。
孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
※遷化とは、高僧の死亡のことである。
つまり、広景の絵に描かれている鼻緒を結び直す男性は、達磨の幽霊だと思う。
『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせる。
蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしたというものである。
また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説がある。
天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。
そのため、沓が落ちていた場所を陵とした。(『扶桑略記』)
中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないだろうか。
達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっている。
出家したということは子孫も残せなかったのかもしれない。
仮に出家前に子をなしていたとしても、彼の子孫は王位につけなかっただろう。
天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはついたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができなかった。
奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまい、
天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで、天智天皇の子孫が皇位継承することになったのだが。
もしかしたらそのような点から、中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれない。
③脱げた履物は、子孫に王位を継承させられなかったことをあらわしているのではないか?
藤原氏の祖は中臣鎌足である。 中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。 この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されている。
藤原氏の氏寺・興福寺すでに書いたように、天智天皇の皇子は長らく皇位につくことができなかった。 天智以下、皇位は次のように継承されている。( 赤字は女帝) 38代 天智 ↓ 39代 弘文(即位したかどうか不明) ↓ 40代 天武(天智の弟) ↓ 41代 持統(天智の娘・天武の妻) ↓ 42代 文武(天武の孫) ↓ 43代 元明(文武の母) ↓ 44代 元正(天武の孫、元明の娘、文武の姉) ↓ 45代 聖武(文武の子) ↓ 46代 孝謙(聖武の娘) ↓ 47代 淳仁(天武の孫) ↓ 48代 称徳(聖武の娘/孝謙と同じ人物) ↓ 49代 光仁(天智の孫)
40代天武から48代称徳までが天武系で、ここで天武系の血筋がたえてしまったため、49代には天智系の光仁が即位したのである。 9代にわたって天智の子孫は皇位につけなかったわけである。
しかし、鎌足の子・藤原不比等が天智天皇の子であるとすれば、不比等の娘が天皇に入内することで、女系によって天智の血は繋がれたといえる。
藤原宮子・・・・・・・不比等の長女・・・文武天皇の夫人、聖武天皇の母 藤原光明子・・・・・・不比等の三女・・・聖武天皇の皇后、孝謙(称徳)天皇の母
蹴鞠で脱げた中大兄皇子(天智)の沓を中臣(藤原)鎌足が拾って皇子にさしだしたというのは 天智の子孫は皇位継承することができなかったが(沓が脱げた)
鎌足は天智天皇の子である藤原不比等を自分の子として育て、不比等の娘が天皇に入内し、 また不比等の働きによって、天智系天皇が再び皇位についた(鎌足が天智の脱げた沓を拾った) という事を言っているのではないかと思ったりする。
談山神社 中臣鎌足像
つまり、沓や下駄、草履などの履物は子孫繁栄の象徴であるともいえる。
妖怪・片脚上臈は、子宝を望んでやってくる女性に対して、そうはさせじとして紙製鼻緒の草履を奪おうとしているのかもしれない。

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「火前坊」
➀火前坊
平安時代頃に葬送地として知られた京都の鳥部山に現れるという妖怪で、画図では炎と煙に包まれた乞食坊主の姿で描かれている[2]。
鳥部山は有力な皇族や貴族が葬られており、10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ、その信仰儀式を人目見ようとする庶民たちも多かったが、中には儀式に反し、現世に未練があるなどして極楽往生できなかった者もいたらしく、そうした僧の霊が僧形の怪火となって鳥部山に現れたものが火前坊とされている[1][2]。
また、江戸麻布の地名「我善坊谷」から鳥山石燕が創作したものとする異説もある[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%89%8D%E5%9D%8A より引用
絵に添えられた文章はつぎのとおり。
鳥部山の烟たちのぼりて、龍門原上に骨をうづまんとする三昧の地よりあやしき形出たれば、
くはぜん坊とは名付たるならん
・鳥辺山は京都に古くからあった葬送の地。 ・烟は煙。 ・「龍門原上に骨をうづまん」は白居易「題故元少尹集」にある言葉。 龍門は登竜門のことで、難所を突破できれば出世につながることのたとえである。 「龍門に骨は埋められたが、書き残した遺文によって名声は後世に残る。」「死後に高い評価をえる」というような意味でる。 ・三昧は仏教の言葉で「雑念をさり没入することによって対象を正しく認識する」というような意味。 しかし「三昧の地」といっているので、「三昧場」のことを言っているのではないかと思う。 「三昧場」は僧が死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂のことで、転じて、墓所・葬場のことを三昧場というようになった。 ・「ならん」は「~だろう。」
通して現代語訳すると次のようになるだろうか。
葬送の地である鳥辺山の煙が立ち上って、龍門原上に骨をうずまんとしている(捨身である焼身をして名声を残そうとしている) 葬場からあやしい形が出ているのを見て、火前坊と名付たのだろう。
⓶入定
「10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ」という ウィキペディアの説明はかなりショッキングである。
本当にこんなことが行われていたのだろうか。 捨身行は行われていた。
まず、入定である。
五穀を絶って木の皮や実のみを食べる木食修行を行って、体の脂肪を減らし、腐りにくい体にする。 そして漆のお茶を飲んで胃の中のものを吐きだし、さらに漆の作用で体を腐りにくくし、 地下に彫られた穴のようなところに籠ってお経をあげる。 お経の声が聞こえなくなったら行者は死亡しているのだが、その肉体は過酷な木食修行によって腐ることなく後世に残るのである。
しかし実際には腐ってしまった例も数多くあったようだ。
③補陀落渡海
次に、補陀落渡海である。
補陀落渡海とは、南方海上にある観音浄土を目指す行である。 やり方としては、行者が乗り込んだ船の出口を釘で塞いだ上で、伴走船が曳航していく。 沖までやってきたら綱を切る。 渡海船はそのまま海を漂って南方海上にある観音浄土に到着する・・・・なんてはずがない。
波にのまれて船が沈没し、行者は水死することが多かっただろう。 そう、観音浄土とはあの世、死の国のことなのである。
補陀落渡海のメッカは紀伊・那智勝浦(868年から1722年の間に20回実施された/熊野年代記)で、ほかにも足摺岬(高知)、室戸岬(高知)、那珂湊(茨城)他、鹿児島県や茨城県、島根県などでも行われている。
江戸時代になると補陀落渡海は生きた行者ではなく、死者を渡海船に乗せるようになる。
④焼身
それでは焼身はどうか。これについても本当に行われていたようである。
「平安時代の焼身往生について 根井浄」という記事が参考になった。 ❶捨身は菩薩道の布施行。投身、焼身、入定、入水。
❷捨身、焼身を説く経典 『金光明経』の摩詞薩唾太子の捨身飼虎 『浬繋経』の雪山童子の捨身羅刹、 『法華経』薬王菩薩本事品の喜見菩薩の焼身供養。
❸中国の六朝時代から階唐時代の捨身は、多く法華経行人によつて行われていた。 ❹日本でも『本朝法華験記』に、捨身、焼身の話を多く載せている。 ❺文献上の日本最古の捨身は、『日本霊異記』(下巻・第一)にみえる禅師 彼は常に法華を諦し、麻の縄で足をしばり、崖に身を投じた。 ❻熊野那智山の応照は、日本最初の焼身者、 法華を読諦することをその業となし、喜見菩薩を恋慕随喜して焼身した(『本朝法華験記』第九話)。
❼薩摩国一沙門、千部の法華経を読調し、喜見に異ならずして焼身した(『本朝法華験記』第十五話)。
さらに『元亨釈書』にみえる信州戸隠山の長明も、法華経を諦し、一切衆生喜見菩薩と言つて焼身自殺した(巻十二)。
❽奈良時代『僧尼令』第二十七条の「凡僧尼、不二得焚レ身捨身」僧尼の焚身、捨身を禁止 ❾『続日本紀』(養老元年四月条) 「小僧行基井弟子等、零二ー畳街備↓妄説二罪福↓合訓構朋党↓焚ニー剥指管{歴門仮説、強乞二余物↓詐称二聖道肉妖二ー惑百姓こという行基とその集団に出された詔。 ❿行基等は、身体の一部を焼いて、庶民教化の一方便としていた。
指を焼いたり、身の皮を剥いでそれに写経する。(血書・刺血写経)『令集解』 ⓫「皮を剥ぎて紙となし、血を刺して墨となし、髄を以て水となし、骨を析きて筆となし、仏戒を書写せよ」『梵網経』(巻下)には、とある。 ⓬同様の記述は空也上人(空也謙)、釈信敬、釈賢憬(元亨釈書)にもみられる。
⓭平安時代の焼身の記録 (1)六波羅蜜寺の覚信、菩提寺北辺にて焼身『日本紀略』長徳元年(995年)九月十五日※華山法皇以下公卿が拝んだ。 (2)某比丘尼、鳥辺野にて焼身(『日本紀略』万寿三年(1026年)五月十五日 (3)薬王品尼、鳥辺野にて焼身(『左経記』万寿三年(1026年)七月十五日) (4)四条釈迦堂の文豪、鳥辺野にて焼身『扶桑略記』治暦元年(1065年)五月十五日※道俗市を成す (5)某上人、船岡野にて焼身(『百練抄』承安四年( 1174年)七月十五日※上下群を成した (6)某上人、阿弥陀峯にて焼身(『百練抄』長徳元年(995年)九月十六日) ※上下の雲集が集まった。 (7)僧円観、伊予国久米郡にて焼身『後拾遺往生伝』康平五年(1062年)八月十五日 (8)僧長明、戸隠山にて焼身(『拾遺往生伝』元保年中三月十五日を終焉とす)。
※元保という元号はない。 天台宗。信濃(しなの)(長野県)戸隠(とがくし)山にすみ,25歳のとき言語を絶って法華経をとなえた。最後に薪(まき)をつみ,みずから火をはなって往生した。没年に永保年間(1081-84),康保(こうほう)年間(964-968),康平年間(1058-65)の3説がある。法名は「ちょうめい」ともよむ。 https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%98%8E-569092 より引用 その他、『三外往生伝』『本朝新修往生伝』にも、焼身の僧の例がある。 
六波羅蜜寺 ⓮京都では、阿弥陀峯、鳥辺野、船岡野といつた霊場、葬場で行われた。 ⓯見せ物的要素もあつた。 ⓰焼身はがほとんど月の十五日に行なわれた。 月の十五日は、戒律を守り、各々、罪を告白し、繊悔する布薩の日。 『廿五三昧起請』(起請八ケ条)「可三毎月十五日勤二修念仏三味一事、右今日是弥陀垂二感応哨閻王記二善悪一之斉也、結縁殊慎三二業{堅護二衆戒嚇不レ生二放逸之行剛勿レ従二世路之事こと』とある。
慶滋保胤を中心とした勧学会・・・三、九月の十五日 源信を中心とする念仏結社であつた二十五三昧会・・・毎月十五日に 阿弥陀仏の縁日である十五日に焼身すれば、必ず往生できるという信仰。
七月十五日の孟蘭盆の日に焼身するケース・・・「孟蘭盆捨身上人」(『顕広王記』)「薬王品尼」(『左経記』)
鳥辺山は鳥辺野とも呼ばれた。 どのあたりを鳥辺野と呼んでいたのか、はっきりしないが、 ⓭平安時代の焼身の記録に (1)六波羅蜜寺とある。 この六波羅蜜寺のあたりは鳥辺野の入り口付近だといわれる。 ここから東南の方向へ少し行くと大谷本廟があって、登り坂となり、清水寺などがある。 このあたりが鳥辺野だろうか。 鳥辺野を阿弥陀ヶ峰西麓一帯と記した記事もある。
鳥辺野は風葬の地とよく説明されているが、それは室町の頃の事であるらしい。 それ以前の平安時代には野焼き場(露天の火葬場)があったそうである。 藤原道長が火葬されたのも鳥辺野であるという。 そして鳥辺野で実際に焼身がおこなわれていたようである。
※「シドモアが見た明治期の日本」は、図書館で借りていた「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」を返却期限がきて返したので(「買えよ」って感じですねw)、しばらく中断します。 購入する予定です。入手ししだい、再開します。よろしくお願いします♪
奇談集『絵本百物語』巻第5 第39「風の神」。絵/竹原春泉
➀風の神
5-4(第三十九 風の神)風の神(かぜのかみ)
「風にのりて所々をありき人を見れば口より黄なるかぜを吹(ふき)かくる其(その)かぜにあたればかならず疫(えき)傷寒(しやうかん)をわづらふ事とぞ」(風に乗って様々な所を歩き、人を見れば口から黄色い風を吹きかける。その風に当たれば必ず流行り病や傷寒を患うことになるということだ)
挿絵は竹原春泉斎である。
「傷寒」について調べると、次のようにある。 昔の、高熱を伴う疾患。 熱病。 いまのチフスの類
ウィキの記述はこれだけだが、ネットを検索すると、どうも記述はこれだけではないようである。
「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」
とも記されているようだ。
⓶土は水に勝つので、土(黄砂)によって水が蒸発して湿気になる?
この風の神の正体は推理するまでもなく黄砂だろう。
「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」を現代語訳すると 「黄色い気をふくのは、黄色は土で、湿気である」というような意味だろうか。 これは、陰陽五行説を踏まえた文章であると思う。
陰陽五行説では万物は木火土金水の5つの要素からなると考える。 そして木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒であらわすのだ。
そして、次のような関係があるとされる。 五行相生「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」 五行相剋「水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」 「湿気なり」は、土は水に勝つので、土(黄砂)によって水が蒸発して湿気になるということだろうか?
③風の神は風邪の神?
それにしても、黄砂の神をなぜ風の神と表現したのだろうか。 黄砂が風によって運ばれてくることは間違いないが、黄砂がひどい日は4月、5月ぐらいで、どちらかというと風が穏やかな日が多い。
黄砂に霞む広島市内-西区竜王公園から広島湾
寒冷前線の前面で激しい砂塵あらしがおき、ゴビ沙漠・タクラマカン沙漠の砂塵をまきあげる。
砂塵あらしは強いものをカラブラン(黒風)、やや強いのをセリクブラン(黄風)と呼ばれている。 カラブランがおこると1m先もみえないほどになるという。
上空にまきあげられた砂塵は上空の偏西風で東に運ばれながら拡散し、粒径が10マイクロメートル(1マイクロメートルは1ミリメートルの1000分の1)以上の比較的大きな粒子が先に落ちる。 日本に落ちるのは、それよりも小さい粒子である。
このような軽くて小さい粒子は空気に漂うので、強風の日は太平洋のほうへ飛ばされてしまい、穏かな日に観測されやすいのではないかと思う。 (まちがっていたら教えてください!)
穏かな日に観測されるのに、なぜ妖怪は風の神と命名されているのだろうか。
ただ空気がもやっとするだけでなく、屋外に置いておいたものなどに砂埃がついているので、 黄砂がどこからやってくるのかわかっていなくとも、その正体が砂であることは分かっていただろうと思う。 そしてその砂は空気がもやっと霞んでいるときに多いので、霞の原因が空気中を漂う砂であることもわかっていただろう。 空気中を漂う砂は、どこからか風に運ばれてきたのだということも容易に考えつく。
黄砂が降ると、アレルギー症状、花粉症などを生じる。 花粉症はクシャミ、鼻水、微熱がでることもある。その症状は風邪に似ている。
黄砂の神は風に乗ってやってきて、さらに風邪をもたらす神だと考えられた結果、風邪と風の語呂合わせで、風の神とされたのかもしれない。
この説が成立するためには、いつから「かぜ」という言葉を使っていたかが重要になるが、こんな記述を見つけた。
江戸時代に入ると記録はさらに詳細になり、インフルエンザを連想させる疾患を「かぜ」或いは「はやりかぜ」と呼ぶようになりました。
絵本百物語は江戸時代の1841年に刊行された奇談集なので、年代的にはいけそうであるw
※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
④須走
p222 黒い溶岩の燃殻や塊は火山に近づいたことを教えてくれます。道は緑の草原を抜け、石炭粉塵の様なインク色の跡を残しています。炭鉱のボタ山のような火山岩滓の体積が道脇に露呈し、荷車がざらざらした鉱滓を騒々しく磨りつぶして通ります。 絵のような典型的日本の村・須走の全住民が街道に集まり、私たち一行を歓迎してくれました。
「岩滓」とは、火山から噴出された暗色で多孔質の塊のものをいう。スコリアともいう。 本には「がんし」と読み仮名がふられているが、ウィキペディア、goo辞書などネット記事では「がんさい」とする例が多い。
スコリア
「鉱滓」は金属の製錬の際、炉の中の溶融金属の上に浮かぶかすのことである。 富士山は現在は活火山ではないが、平安時代には活火山であったとする記録がある。
また1707年(宝永4年)の宝永大噴火では須走村がほぼ全焼全壊している。
須走は上の地図で赤で囲んだ地域のことである。
上のサイトに富士参詣須走口図が掲載されている。 シドモア一行はこのルートで富士山頂をめざすようである。
p222 広い街道の両側を水が勢いよく躍って渦巻き、機械仕掛けで玩具の軍隊を吹き動かしたり、ケーキや砂糖菓子の売り場に吊るした蠅除けを回しています。
蠅取り紙は昭和、ハイトリックは大正の発明品のようで、明治時代にはなかったと思われる。 シドモアがいう回転する蠅除けとはどのようなものだろうか。 水で動く玩具の軍隊も見てみたいものだ。
⑤東口本宮富士浅間神社
p222 道路の茂みには、古びた神社へ導く鳥居があり、登山前に富士巡礼の全員が祈りを捧げます。
この神社は東口本宮冨士浅間神社だと思う。 富士参詣須走口図で富士浅間神社となっている。
延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火し、須走で鎮火の祈願を行ったところ、噴火がおさまったので、807年に神社を創建したと伝わる。
須走村の御師(参詣者のために祈祷、案内、宿泊の世話をする神職)は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受けて、関東一円で活動を行ったという。
寛延2年(1749年)、既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らが御師の活動を独占した。
p222 やがて太陽が沈み、消えかかる最後の深紅の輝きとともに、雲がうねり去ると、堂々たる円錐富士が頭上に屹立し、夕暮れの変化する光の中で、斜面がバラ色、さらに菫色へと染まってゆきます。
夕暮れの富士山(須走から撮影されたものではありません)
p223 午前四時、私たちは太陽とともい気象し、えもいわれぬ朝の大気の中で全山ピンクと薄紫になっている富士を仰ぎました。
朝日に照らされる富士山(須走から撮影されたものではありません)
p222 あわただしく朝食をとり、女性は駕籠に乗り、男性は乗馬で元気いっぱい出発すると、すぐに山麓からつながっている道で、燃殻を広く敷き詰めた並木道に連れ出されました。明るい光の中に海抜一万二〇〇〇フィート[三七七六メートル]の富士が倍になって見え、その瞬間「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。
「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」というのは途中で駕籠をおりて、歩いて登る予定ということである。
p223 林道にそってずっと苔むした石[一里塚]が距離を標し、ある場所には霊峰の聖域教会を示す石垣と見張り灯籠門の遺跡があります。
一里塚、見張り灯籠門はわからなかった。
⑥馬返
p223 たとえ馬や駕籠で、馬返と称する一マイル[一・六キロ]先の筵小屋の基地まで行くことが許されても、この地点から大地は山の神の領域となります。雄大な富士は、ここから上方へ向け一定の曲線を描いていくのです。石段の最上段にある高い鳥居は、履物をつけ自分の脚だけで神聖なる土地を踏む、正式な登攀開始の地点を示しています。
上記サイトの富士参詣須走口図の下のほうに馬返と記された場所がある。 ここから先は馬ではいけないということで、馬返と呼ばれたのだろう。 p222でシドモアは 「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。 と書いているように、馬返から、女性たちも駕籠をおりて歩いて富士山を登るのだろう。
p223 筵小屋で駕籠を止め、私たちは二日間の休養をとりました。出発日、荷物が分けられ、ポーター[荷物運搬人]の背に結ばれました。いつの間にか、彼らは身を華やかに飾り、まるで戦闘態勢を整えた北米インディアンのような恰好になっていました。このインディアン集団はたくさんの予備ワラジを腰に結んだり、荷物にぶら下げたりしました。
こちらの記事に、かつて富士登山で強力(ごうりき)をされていた方について記されている。 シドモア一行は宮ノ下で案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇っているが、この人たちが強力なのだろう。
伝統衣装をまとったスー族の戦士、ジトカラ・サ(19世紀の撮影)
上のインディアン、スー族の戦士は体にいろんなものをつけている。 このような感じで強力さんたちは体にワラジやいろんなものを身に着けていたのだろう。
⑦須走登山ルート
p223
裸の燃殻や溶岩を超えると、窪みのない平坦な傾斜が連続し、さらにジグザグ道となって着実な登りを妨げます。森の中に三つの小さな神社があって、巡礼の祈願や奉納を促し、さらに神聖なお札を杖や衣服に付けるよう招いています。この神社を過ぎると、一〇ヵ所の休憩所(基地)が登山道沿いに均等に置かれ、一番目、つまり一合目は森の端にあり、十合目は頂上にあります。
https://www.fujisan223.com/pap/subashiri/上のサイトの図を見ると、須走ルートは次のようになっている。 富士浅間神社(東口本宮富士浅間神社)→馬返→大日(大日堂)→役行者(行者堂)→中宮役所→ラムロ(?)→明王(明王堂)→一合 シドモアが三つの神社と書いているのは、馬返→一合の間にあることになるが、何がそれに該当するのかわからない。 もしかすると、大日(大日堂)→役行者(行者堂)→ラムロ(?)→明王(明王堂)のうちの3つがそれに該当するのかもしれない。 現在では車やバスで5合目までいって、そこから登ることができるようだ。 それをふまえると、やはり明治の富士登山はきびしい。
p224 神官や基地管理人は六月下旬に山開きし、降雪が始まる直前の九月にしめます。真夏の数週間、全斜面は白装束の巡礼行列で埋まり、杖に飾られた鈴のリンリン鳴る音で全山大合奏となります。
江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画 ※向かって右上に書かれている穴のようなものは何でしょう?
⑧富士講
p224 毎年三万近くの巡礼が富士ヤマに登ります。この敬虔な聖地巡礼団の多くは農業従事者で、彼らは共同協力会を作って細やかな年会費を治め、会員は総費用を順番に負担してもらい旅に出ます。
江戸時代、庶民にとって旅費は安いものではなかった。 そこで集団で『お伊勢講』をつくり、お金を出し合って二、三人の代表者が伊勢参りをするということが行われた。 代表者はくじ引きで決められ、農閑期に旅に出た。
講の人々に変わってお伊勢さんに祈り、お土産を買って帰った。
富士講もこの『お伊勢講』と同様のものである。
このような講は、戦後GHQが賭博行為として禁じるまで続いた。(地域によっては現在でも存在しているそうである。)
なぜ講が賭博行為とされたのかといえば、 参加した会員が一定の金を拠出して資金を集め、くじ引きで数人がその資金のすべてを手にするからだろう。
ただし、お伊勢講、冨士講などの講では、くじ引きで代表に選ばれた人は、次回のくじ引きには参加できないなどのルールがあり、全員が代表に選ばれる仕組みになっていたそうなので、賭博行為とはいえないと思う。
それはともかく、シドモアが富士登山を行ったのは明治だが、この時代においても富士講が盛んであった様子がうかがえる。
⑨富士山の伝説
p224 富士ヤマは伝説に包まれ、巡礼たちは躊躇なく信じます。聖なる山は二〇〇〇年前、わずかひと晩で生まれ、地上にそびえ立ちました。そのとき西方に大きな窪地が出現し、すぐ水になったのが琵琶湖です。
これはおそらく、「ダイダラボッチという巨人の妖怪が近江の土で富士山をつくり、掘った跡が琵琶湖になった」という伝説について述べているのだと思う。 ダイダラボッチとは一つ目の巨人で、私は台風を擬人化した妖怪だと考えている。
p225 山の女神フジは同性を嫌っていると信じられ、女性を襲って空中に放り投げるという鬼の話は、世の旧幣から完全に脱皮したはずの日本婦人の登山をいまだに妨げています。女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになったといわれています。
富士山は1872年(明治5年)まで女人禁制だった。 「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり シドモアが富士山を登ったのは、女人禁制がとけて少なくとも12年ほどはたっていたはずだが、それでも長年の習慣はなかなか変わらなかったのだろう。
一般的に山の神は女性で、醜く嫉妬深いので女性の入山を禁じていたなどといわれる。 しかし富士山の神とされ、東口本宮富士浅間神社の御祭神でもあるコノハナノサクヤヒメは、美人であると記紀は記している。
天孫ニニギが葦原中国に天下ったとき、オオヤマツミという神が娘のコノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギの妻にさしだしたが 面食いのニニギは、美しいコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、醜いイワナガヒメは返してしまったとあるのだ。
醜い女性の神、と言えばコノハナノサクヤヒメではなく、イワナガヒメのようで、いつの間にか二柱の女神が入れ替わっているかのようで不思議に思うが、その疑問はいまだにとけていない。
その山の神である鬼が、女性登山者を放り投げるという話は聞いたことがないが、かつてそんな伝説が語り継がれていたのかもしれない。
赫夜姫(かぐやひめ)伝説が富士山南麓に伝わっている。 かぐや姫といえば、平安時代に記された「竹取物語」に登場するヒロインである。 竹取物語のあらすじは次のようなものである。
かぐや姫は翁が切った竹の中から生まれ、たいへんな美女に育つ。 そのため、大勢の男たちがかぐや姫に求婚するのだが、かぐや姫は結婚の条件として、無理難題を押し付ける。 石作皇子には「仏の御石の鉢」を、車持皇子には「蓬萊の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」を 右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」を、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を 中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持ってきたら、結婚しましょう。 そうかぐや姫は告げたが、5人の貴公子は全員それに失敗する。 ついに帝までもがかぐや姫に求婚したが、やはりかぐや姫はかたくなに拒んだ。
三年後、かぐや姫は翁に「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五夜に月に帰らねばならない。」と告げた。 これを知った帝は二千人の軍隊を翁の家に送った。 子の刻(真夜中頃)、大空から人が雲に乗って降りて来たが、軍隊は戦力を失って戦うことができなかった。 かぐや姫は翁に手紙を、帝には不死の薬と和歌をおくった。 その後、かぐや姫は物思わなくなる天の羽衣を着せられて、車に乗って月へ昇ってしまった。 帝は悲しんで、天に近い富士山で不死の薬と手紙を焼くよう命じた。 ここから、この山は「ふじの山」というようになり、その煙は今も立ち昇っている。
「煙が今も立ち昇っている」というのは、竹取物語が記された平安時代、富士山の火山活動が活発であったことだ。 そしてかぐや姫の正体は月の女神であり、最後は月に帰っていく。 月へ帰って行くかぐや姫(土佐広通、土佐広澄・画)
ところが富士山南麓に伝わる赫夜姫伝説では、かぐや姫は月ではなく、富士山に戻って洞穴にはいるという筋になっているそうである。 つまりかぐや姫は月の女神ではなく、富士山の女神というわけである。
富士市の「下方五社(しもかたごしゃ/富知六所浅間神社、瀧川神社、今宮浅間神社、日吉浅間神社、入山瀬浅間神社)」と呼ばれる神社では御祭神として、かぐや姫やかぐや姫をそだてた竹取の翁・竹取の媼(おうな)を祀っている神社があるということである。
またこ「富士山と八ヶ岳の背くらべ」という伝説もある。
昔、女神の富士山と男神のハヶ岳が、どちらが背が高いかで言い争いをし、木曽の御岳山の阿弥陀如来に背くらべの判定約を依頼した。 阿弥陀如来は、水は高い方から低い方へ流れるので、二つの山のの頂上に長い「とい」をわたして水を流すことにした。 すると水は富士山の方へ流れたので、富士山はくやしくたのでなって八ヶ岳の頭を叩いた。 すると、八ヶ岳の頭は八つにわれてしまい、富士山が日本一背の高い山になった。
シドモアが「女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになった」といっているのは、かぐや姫伝説と、富士山と八ヶ岳の背くらべの二つの話を合わせたような話の様にも思えるが 若しかしたら、シドモアが言うような伝説がつたえられていたのかもしれない。
p225 この秀麗無比の山は夢に見ることだけでも、幸せが必ず約束されるのです。富士は大空を旋回するコウノトリや昇り龍とともに、人生の成功や艱難の克服を象徴しています。
「富士山の夢を見ると幸せが約束される」というのは、初夢で見ると縁起がいいものとして、「一富士、二鷹、三茄子」と言われることを言っているのだろう。
「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」などとこれはよく言われるが、これはドイツにコウノトリによく似たシュバシコウという鳥がおり、シュバシコウが赤ちゃんを運んでくるという言い伝えがあり、それが日本に伝わってコウノトリが赤ちゃんを運んでくる、と言われるようになったのだともいわれる。
記紀にでてくる、鵠(くぐい)は白鳥とされているが、コウノトリのことではないかともいわれている。
日本書記には、言葉をしゃべることのできなかったホムチワケが鵠をみて「これは何者ぞ」と言葉を発し これに喜んだ天皇は鵠をつかまえさせてホムチワケの遊び相手としたところ、ホムチワケは話せるようになったという話がある。
昇り龍とは天に向かって昇っていく龍のことだが、転じて、勢い付いている様子を登り龍のようだ、などといったりする。
⓾富士山の噴火
p225 一五〇〇年頃まで、富士は年中噴煙の渦巻を帯び、また全世紀を通じ大噴火を繰り返してきました。最近起きた一七〇七年[宝永四]の噴火は一ヵ月にも及び、荒い燃殻、灰、焼けた赤土の塊を放出し、今でも山を覆っています。火山灰は五〇マイル[八〇キロ]先にも広がり、登山道の川をせき止め、麓の平原を高さ六フィート[一・八メートル]の燃殻で覆い、粗に北斜面にたん瘤[宝永山]を作り、禁制のとれた完璧な円錐形を台なしにしました。
宝永山富士山の噴火の歴史を下記にまとめた。 ・約70万年前~20万年前 小御岳火山 現在の富士山の位置で小御岳火山、南東にある愛鷹山の活動が活発になる。 富士山北斜面5合目の小御岳は小御岳火山のなごり。
・約10万年前~ 古富士火山 小御岳火山が休止し、古富士火山の活動が活発になる。 大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000メートルに成長。 宝永山周辺など富士山中腹に古富士火山のなごりあり。 火山泥流が頻発。
・約11,000年前 約2,000年間にわたり、大量の溶岩を流出した。 玄武岩質のため遠くまで流れ、最大40キロメートルも流れ、南は駿河湾にいたった。 その後約4000年間活動を休止する。
・約5千年前~ 新富士火山 溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火などを伴う活動。
・約3,000年前 縄文時代後期、4回の爆発的噴火が起こる。(仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリア)
・約2,300年前 富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生(御殿場泥流)
・800年 延暦大噴火 旧暦3月14日から4月18日にかけて大規模な噴火が起こる。(日本紀略) ・802年(延暦21年)1月8日 噴火 相模国足柄路が一次閉鎖され、箱根路が代わりに用いられた。
・864~866年 貞観大噴火 噴火し、北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す。 溶岩は当時あった『せの海』を西湖と精進湖に分断した。 また溶岩は斜面を流れて青木が原溶岩(青木ヶ原樹海)となった。
・1707年 宝永大噴火
宝永地震の49日後の12月16日、富士山は大量のスコリアと火山灰を噴出。火山雷が発生。月末まで断続的に続く。 江戸にも多量の灰がふる。川崎では灰が5センチメートル積もる。 山麓で家屋や耕地に大きな被害。洪水等の土砂災害も。
・江戸時代晩期~昭和中期
山頂火口南東縁の荒巻(朝日岳の手前にある鞍部)を中心に噴気活動を観測。 1854年の安政東海地震がきっかけか。 1957年50度を観測。
・1987年8月20日~27日 富士山で一時的に火山性地震が活発化。山頂で有感地震を4回記録(最大震度3)
・2000年10月~12月、2001年4月~5月 富士山のやや深部で、低周波地震が多発する。
※新富士火山の噴火は781年以後17回の記録がある。
※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
➀東海道線
p220 距離にして四〇マイル[六四キロ]、昔の東海道線を蒸気機関車で小田原[相模]湾の底深い海岸沿いを走り、太平洋側にある青い箱根連山の稜線を目指しました。国府ッで遊覧四輪馬車に乗り換えましたが、平野をガタガタ走って東海道沿いの谷あいを登る途中、子供たちを馬蹄で蹴散らしたり、駕籠かき人足とトラブルを起こしたりしました。この御者は険しい谷間を一〇マイル[一六キロ]も荒れ狂って飛ばす、とても向こうみずな人間なので、人力車に乗り換えたときは本当にほっとしました。
日本の律令制における、広域地方行政区画で五畿七道がさだめられた。 五畿は畿内ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉(現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部)の五国をさす。 七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道のことである。
東海道:現在の茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重(熊野地方を除く)の各都県を合わせた地域。 東山道:現在の青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域。 北陸道:現在の新潟、富山、石川、福井の各県を合わせた地域。 山陽道:現在の兵庫県南西部と、岡山、広島、山口の各県を合わせた地域。 山陰道:現在の京都府北部と兵庫県北部および、鳥取、島根の各県を合わせた地域。 南海道:現在の香川、徳島、愛媛、高知の四国4県と、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島を合わせた地域。 西海道:現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域。
上の図がわかりやすい。
ウィキの記述にあるとおり、東海道は茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、熊野地方を除く三重のことで、東海道は「うみつみち」ともよむ。
また、七道の各国の国府をつなぐ幹線官道(駅路)が設けられ、それらの道のことも東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道と呼ばれていた。
東海道とか山陰道というのは道のことだと思っていたが、地域の名前でもあったのだw(反省w)
現在、JR東海道本線は、東京駅(東京都千代田区)~神戸駅(兵庫県神戸市中央区)を結んでいる。
1872年(明治5年)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止) - 横浜駅(現・桜木町駅)間が日本最初の鉄道として開業。 シドモアも船で横浜港に到着し、ここから鉄道で新橋へ向かったものと思われる。 というのは、シドモアは次のように記しているからである。
p53
世間から見れば、東京と横浜は一つの運命共同体です。二つの都市は一八マイル[二九キロ]の鉄道で結ばれ、社交パーティーの訪問や招待にはとても便利です。東京の大臣が舞踏会を催す際、特別夜行列車で横浜の客を送迎します。
1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間が開業 1889年(明治22年)7月に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業。
1914年(大正3年)東京駅が開業
国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津にある駅で、1887年に開業した。
国府津駅(1909年/明治42年)
上の地図の赤いマーカーがついたところが、国府津、その南西方向に富士箱根伊豆国立公園とあるが、そこに箱根はある。 地図を拡大してみるとわかりやすいと思う。
⓶宮ノ下
p220 素晴らしい夏のリゾート・宮ノ下は、日本人にも外国人にも人気のある場所です。
p220 そこには優れたホテルがいくつかあって[奈良屋、富士屋ホテル]、西洋ファッション、澄んだ山の空気、鉱泉、美しい風景に富むとても楽しい温泉郷の中心です。
明治期の奈良屋(玉村康三郎撮影)。右手に見えるのが1877年(明治20年)築の西洋館。
奈良屋は徳川綱吉のころ(将軍在職:1680年 - 1709年)の創業と伝えられる老舗旅館であったが 1868年(明治11年)に富士屋ホテルが開業したあと、奈良屋と富士屋は協定を結び、
1923年(大正元年)まで奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとされた。 2001年に廃業し、現在跡地にはリゾートホテル「エクシブ箱根離宮」が立っている。
「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり この時奈良屋は日本人専門旅館となっているので、シドモアがとまったのは、富士屋ホテルののほうではないだろうか。
富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年
タイ国王、オーストリア皇太子、ウィンストン・チャーチルやヘレン・ケラー、チャーリー・チャップリン、ジョンとオノ・ヨーコなどもここに泊まったそうである。 きっと、シドモアが泊まったのもここだと思う。
p220 ここのホテルは1年中よく管理され、真冬の気候は中国南部の港町でかかったマラリア病毒の特効薬となります。
現在、日本でマラリアはほとんどないが、明治36年には年間20万人もの患者があった。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日本でのマラリア流行を目の当たりにしているわけである。
マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。
1880年、フランスの医師シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア原虫と、キニーネが血液から寄生虫を除去すると提唱したのだが、彼の説はなかなかみとめられず
1884年の油浸レンズ、1890-91年に従来のものより優れた染色法が開発されたことによってようやく認められた。
先ほども書いたように「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、まだその原因や治療法が確立されていなかったと考えられるのだ。
p221
また宮ノ下の寄木細工は有名で、どの家も日本式ゲーム、家庭用品、玩具、小間物の工作場を持ち、美しい木目の国産樹木でんんでも造り、植物性ワックスで滑らかに磨き上げます。一〇〇以上もの木片縞模様からなる精巧なモザイクを見て、誰もが仕上げの良さや値段の安さにびっくり、これを買わずには村からでられません。
これはかなり以前に私が購入したものだが、箱根寄木細工で検索するとこれと同じような箱がでてくる。 かつて大阪梅田の阪神百貨店前地下に土産物屋を売る店が並んでおり、そこで買ったか 東急ハンズで買ったか、どちらだったか忘れてしまった。(どちらでも同様の寄木細工の箱が販売されていた。)
p221 宮ノ下到着後、ここで案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇い、朝六時、婦人を駕籠三台[駕籠かき人足兼ポーター(九人)]に載せて出発、これに四人の屈強な男性、二人のボーイ、さらに六人のポーターが続きました。
木曾道中熊谷宿の駕籠(渓斎英泉)
もともとシドモア一行は男性4人、女性3人 日本人ボーイ(使用人)2人であった。 うち女性3人は駕籠で、男性は徒歩。 女性3人が乗る駕籠は3台だが、訳者の註尺として)[駕籠かき人足兼ポーター(九人]とある。 駕籠は前後二人で担げるが、交代要員をいれて三人一組(三枚肩)、四人一組(四枚肩)などと呼ばれていたらしい。 ここでは三枚方だったので、3枚方×3組で9人なのだろう。
さらにもともと随行していた二人の日本人ボーイのほか、あらたにやとった六人のポーター(荷物運び、案内人)が加わっり、総勢24人である。
うち、17人は使用人という、一般庶民からすれば大変贅沢な旅である。
③乙女峠から御殿場へ
p221 広い道を登り、乙女峠で有名な刃渡り馬道をジグザグと進みます。
彫刻の森美術館の西650mほどのところに富士屋ホテルはある。
乙女峠という地名の由来は以下のとおり。
箱根の仙石原に「とめ」という娘が住んでおり「おとめさん」と呼ばれていた。 娘は父の病の治癒を願って、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百日詣した。 願いがかなって父親の病は回復したが、娘は父の身代わりとなってこの峠でなくなった。
この伝説はなんとなく深草少将が小野小町のもとへ百夜通いしたという話を思い出させる。 深草少将はあと1日で百日といいう九十九日目の雪の夜になくなってしまうのだ。
江戸時代、仙石原には関所が設けられ、通行の際、ここでしばしば足止めされたことからら「御留峠」となり、「乙女峠」になったともいう。
「刃渡り馬道」とは何のことをいっているのだろうか。 「刃渡り」とは「 刃物の刃の長さ」または、「刀の刃の上を歩く軽業」のことである。
次のような記事があった。
「刃渡り」……読んで字のごとく、鋭い刃物の上を歩いて渡っているかのような場所である。
その刃物の側面に、ほとんど柵はない。つまり、崖そのもの。
刃渡り馬道とは、鋭い刃物の上を歩くかのような、側面が崖になった馬道のことではないだろうか。
乙女峠からは富士山が一望できるようである。
↑ こちらの記事を見ると、 乙女峠からつづく乙女道路はじぐざぐになっている。
上の動画はシドモアとは逆方向(シドモアは乙女峠→御殿場だが、動画は御殿場から乙女峠へむかっている。)だが 曲がりくねった道でところどころガードレールになっている。 明治時代の道が同じ場所にあったかどうかわからないが、やはりこのように曲がりくねった道で、 それを「ジグザグと進みます。」と表現したのだろう。
p221 峠から半島御用邸[恩賜箱根公園]と一緒に宮ノ下や箱根湖[芦の湖]が目に入り、格子縞の緑の警告を振り返って眺めると、縞模様の原野の彼方に富士ヤマが変わらぬ頑固あで頭を雲に隠し、目前に真っ直ぐ聳えていました。この平らな原野に向け、まっしぐらに駆け下りると、御殿場へ到着しました。
恩賜箱根公園の西にある湖が芦ノ湖である。 宮ノ下はすでに述べたようにシドモアが宿泊したと思われる富士屋ホテルの有るところで、彫刻の森美術館の東あたりにある。 これらが乙女峠あたりから見えたというのである
半島御用邸は函根離宮のことであり、芦ノ湖の塔が島と呼ばれる半島にあった。 1946年に一般開放され現在は恩賜箱根公園と呼ばれている。 シドモアが旅をしたころは箱根離宮だったといいういことだ。
芦ノ湖
終戦前の御殿場市街
シドモアが訪れたころは、こんなに電線はたくさんなかっただろう。
※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
③中禅寺湖畔の宿
p212 五件の茶屋が水際に並行して並び、各茶屋は湖を見わたすため水上に歩廊を三組持っています。特に蔦屋、イズミヤ、ナカマルヤ[中村屋?]での宿泊と休息は日光によくある宿よりも、ずっと純日本的な安らぎがあります。外国人のために椅子やテーブルは用意されますが、宿泊客は皆床に寝ます。広々した中庭に出て共同洗面器で顔や手を洗い、さらに靴下のままか、備えられた堅い猿皮スリッパで室内を動き回ります。
こちらの記事に次の様な内容が記されている。 ・つたや旅館は慶応4(1868)年創業の老舗。 ・つたや旅館→メモリアルホテル蔦舎→ホテル蔦舎→ホテル湖畔亭→シンプレスト日光と変遷した。 ・ 「一日の行楽ー中禅寺行き」(田山花袋 博文館 大正7)に、「私はいつも蔦屋に泊った。」と記されている。 ・ホテル湖畔亭はおおるりグループの宿
この記事には「ゆとりろ日光」というホテルの口コミとして ・おおルリグループの買い取ったホテルの中で一番よいのがここかもしれない。 ・蔦屋時代からの料理長が創意工夫して頑張っている。 とある。
さらに調べると、ゆとりろ日光(旧シンプレスト日光) 住所:栃木県日光市中宮祠2484 とあり「シンプレスト日光」は「ゆとりろ日光」と名称がかわったらしい。
この「ゆとりろ日光」のルーツである「つたや旅館」は慶応4(1868)年創業ということなので、シドモアが言っているのはこの「つたや旅館」のことなのだろう。
上記に、和泉屋旅館の絵ハガキが掲載されている。
ナカマルヤ[中村屋?]はわからなかった。
しかしこれらの旅館はかつて栃木県日光市中宮祠2484あたりに並んでいたのだろう。
地図の+マークを推すとわかるが、場所は前回書いた日光二荒山神社中宮祠のすぐ近くである。
二荒山神社 中宮祠
上のグーグルマップを拡大して中禅寺湖周辺を見てみると フランス大使館別荘、ベルギー大使館別荘、英国大使館別荘記念公園、イタリア大使館別荘記念公園などの文字が見つかる。
戦前には、多くの欧米の国の大使館の別荘がここにあったそうである。 既に紹介したが、シドモアも次のように記していた。
p192
毎年夏になると、東京の公使館の半分はそっくり日光へ移動します。社寺、僧坊、聖職者の住居、そて村の上側の民家は外人へ賃貸され常時増えています。日光の住宅は、まだ避暑地ニューポート[米国ロードアイランド州ロード島の都市]にある別荘の値段ほどではありませんが、一シーズン三カ月で三〇〇円ないし五〇〇円という法外な値が地元相場になっています。
上記ブログには、漫画家・矢口高雄さんの作品「サルカ三十文」にでてくる話として、次のように書いておられる。
・当時の猿の毛皮の価値はくまの毛皮の3倍
・胆嚢や骨も薬として使われた
・牛馬の病気よけの呪いとして猿の頭蓋骨や骨を吊るす習慣があった
・山麓の村々にはサルマタギ専用の宿屋もあった (上記記事より引用)
猿皮ではなく、サル皮と呼ばれるものがある。 これは皮で作った輪っかのことである。 この輪っかにベルトの端を通しておくことで、ベルトの余った部分がぶらぶらしないように留めておくのである。
すると皮ではあるが、皮の輪っかではスリッパはつくれないので、これではなさそうであるw
シドモアはp206「日光」のところで「私たちが逗留する夏の別荘は」と書いていたり、 p211「中禅寺湖」のところで「毎年八月、白装束に大きな藁帽子を被り、藁敷き雨具を肩に巻いた大勢の巡礼がやってきます。」と書いているので、 シドモアが日光にある中禅寺湖を訪れたのも夏だと思っていたが、ページを遡ってみると、私がうっかり次の文章を読み飛ばしていたことが分かった。
p210 道をたどると、刈り取り後の蕎麦、黍、稲、じゃが芋の田畑、茅葺屋根の農家、道端の神社や茶店が次々と目に入ります。
蕎麦・黍・稲を収穫するのは秋だ。 シドモアが中禅寺湖にやってきたのは秋なのだろう。白装束の巡礼は以前に見かけたか、聞いた話として書いているのだと判断できる。 すると猿皮のスリッパとは猿の毛皮で作ったスリッパである可能性が高い。
p212 米、野菜、魚、台所用品、家族の衣類を洗うには、家屋の最も低い床に通じる平板桟橋を使います。同じような桟橋が各宿にあり、娘たちはそこに集まって竹籠で米をといだり、洗ったりしながら楽しそうにおしゃべりします。また各宿の従業員は洗面器、歯磨き、コップ一式を持ってあちこち湖畔へ出向くので、桟橋は小さな社交舞台となり、自然な形で交流がなされます。
 桟橋とは上の写真のような形状のものをいう。 このようなものが、各宿にあり、湖の水で洗濯をしたり、米をといだりしていたのだろう。 娘たちが集まると、おしゃべりになるのは今も昔も変わらない。 ④戦場ヶ原
p213 丸太造りの茶店の潜む濃い緑の松林の間から、ようやく湖の突端が現れ、そこから菖蒲が浜で知られた低い岸辺の一部が見えます。
菖蒲ヶ浜付近
p213 さらに円形劇場のような壮大な山壁が中禅寺村をぐるっと囲み、はるかかなたには地獄川と龍頭の滝があり、渓流が何本もリボン状に分かれ苔むした岩棚を滑り流れます。
龍頭の滝
p213 大昔、敗北した軍勢の血に染まったといわれるレッド・プレイン[戦場ヶ原]が広がり、秋霜とともに例の深い色合いに変わります。[戦場ヶ原には、赤城山の主・百足と男体山の主・大蛇が大軍勢を繰り出して争ったとの伝説がある]。
戦場ヶ原
シドモアが「例の深い色合い」と書いているのはこの色のことだろう。
p213 この高原の端から薄暗い山々が立ち上がっていますが、中でも男体山は緑や紫のベールと浮雲の王冠に包まれ、巨大な陰を見せています。高原には居住や開拓の形跡はなく、松の点在する人跡稀な光景は、米国の高地シエラ[カリフォルニア州シエラネバダ]のたにまにとてもよく似ています。
戦場ヶ原
Owens Valley and the Sierra Escarpment
p213 日本のどの地方に行っても、水辺から山頂まで木が茂り、緑陰に覆われ、耕作されています。でも冬の奥日光は荒涼として、道に積もる深雪は下界を完全に遮断します。茶屋は閉まり、住人は温かな谷あいへ逃避し、春の到来と旅人だけが、この地を再び復活させるのです。
ここでシドモアは冬の奥日光について書いているが、「深雪は下界を完全に遮断します。」とあるので、シドモアもまた下界から奥日光にはやって来れなかったものと思われる。
⑤湯ノ湖
p214 山道は、この寂しい高原を超え、湯の湖へ向けて七〇〇フィート[二一〇メートル]ほど険しい丘の正面に沿いあがります。道は数フィートの幅に狭まり、小石、多量の泡、水煙、湯気が滑り落ちてきます。細かく凹凸に切り立つ斜面と森に囲まれたこの湖は、壮麗な山々の秘密の鏡で、その山の一つ、白根山は眠れる火山です。蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が棲めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。
湯ノ湖
白根山
シドモアは「蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が住めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。」と書いているが、 上の湯の湖の写真を見ると水はそんなに濁っているようにはみえない。 また、釣りも行われているので、魚が住めないということもない。
ただしウィキペディアには次のように記されている。 「日光白根山からの水に加え、湖畔にある日光湯元温泉からの湯が流れ込んでいる。温泉成分や山からの砂などで水深が浅くなり、湿地化する危機にあったが、1992年から浚渫工事が行われ[2]、危機を乗り越えた。温泉の湯が流れ込んでいるものの、水深が浅いため冬季には全面結氷することもある。」
1992年の浚渫工事以前は水が濁り、魚の姿も少なかったのかもしれない。
硫黄のにおいはたちこめているらしい。
⑥湯元温泉
p214 温泉の一つが村の入り口で泡立ち、たっぷり湯の入った約一〇フィート[三メートル]角の湯舟が四本柱の屋根に覆われ、側面全部が大気に開放されて準備万端、牧歌的素朴さが漂っています。
湯元温泉の入り口に露天風呂があったことは、シドモアと同時期に日本にやってきたイザベラ・バードも記しているという。
p214 このような温泉場が村はずれにたくさんあり、どこも同じように開放的で、たくさんの人が褐色の肌を見せ茹だったり冷ましたりしています。
湯元温泉の温泉街のはずれの湯ノ平湿原に源泉地がある。(写真上) この源泉は湯元の旅館のほか、光徳温泉・中禅寺温泉にまで送られているそうである。 
小林清親『日光湯元温泉』-1896年・明治29年
「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので 上の絵はちょうどシドモアがやってきたころの湯元温泉を描いたものだと考えられる。
湯の湖温泉の向こうに見えている温泉街のあちこちから湯煙がでている。
絵の下のほうには駕籠に乗ったり、徒歩で温泉に向かう人の姿が描かれている。 p216ある種の湯舟は端の長い管に小さな懐炉をつけているので、ほんの一握りの木炭で短時間に湯が沸きます。これまで大勢の入浴車の生命を奪ってきた炭酸ガス中毒をこの器用な工夫でなくしたのです。
炭酸ガス中毒とは、空気中の二酸化炭素が高濃度の状態になることが原因であらわれ中毒症状のことをいいます。 火事や、ドライアイスの貯蔵庫に長期間滞在することが原因となります。 二酸化炭素濃度が3~4%でめまいや吐き気、頭痛などの症状があらわれ、7%を超えると意識を失います。 「長い管に小さな懐炉をつけている」というお風呂を沸かす装置についてはよくわからない。
p216
熱い風呂を好む好む日本人は、一にも二にも沸騰させることが目的で地元の人たちはひるむことなく高温に耐えます。グリフィス博士[米国人教育者『皇国』の著者]は自分の本に、酷寒の日、街道沿いに湯気を立てる戸外の大釜から、入浴者が火傷で踊り出す珍事を書いてるほどです。
ウィリアム・グリフィス
p216 裸の闊歩は、いつもと変わらぬ芝居訳者の様に威厳がありました。私はびっくりし、「はたして、この紳士は着物と一緒にプライドまで脱ぎ捨てたのだろうか?」と疑いました。ところが、宿の主人には裸になった意図的理由はありませんでした。彼は「衣服は人生の仮の姿であり、本質的なものではなく、古びた尊大な魂を本当に「封じ込めているわけではない 」との哲学を、それとなく語っていたのです。
p218 無着衣の裸体に関し、欧州人があれこれ妙な不快感を示し誤解している点を、日本人は「あまりにも下らない話だ」と笑っています。
p218 夜間、冷え込んだ空気が硫黄の臭みを大地に押しつぶす時刻、湯元の通りは盲目のマッサージ師(按摩)の悲し気な笛が鳴り響きます。
笛の音はこちらで聞くことができる。
⑦秋の日光・中禅寺湖
p217 中善寺湖は誇大な宝石・無疵のサファイアとなり、男体山は鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様が描かれます。
上の写真はスターサファイアである。 中禅寺湖がこのサファイアのように美しい青色だったのだろう。 
ビザンティン美術の例:アヤソフィアにある、キリストと11世紀の皇帝コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画
鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様というのは、男体山が、上のモザイク画のように鮮やかで様々な色を用いた色に染まっていることを言っているのだと思う。
華厳の滝と中禅寺湖
男体山
p219 ある日とうとう、道路を封鎖する最初の冬の雪に見舞われ、最後まで中禅寺に残りオープンしていた一軒の茶屋も店仕舞となり、私たちは足尾銅山経由で旅を終えました。
足尾銅山
1895年頃の足尾鉱山
※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
➀駕籠・輿・荷馬
p208 日本で使われている駕籠に関し、外国人はいろいろ批評しますが、あの狭苦しい状態は故意に異教徒を虐待しているわけではありません。その苦痛がむごく陰険でにことは、いずれ法廷尋問で明確に判定されるべきでしょう!?
p208 山岳地や遠方に行くには、荷馬以外唯一の旅行手段です。日本時とはたいへん気持ちよさそうに膝を二つ折りにし、脛を立てて座りますが、外人が乗った場合、身長の大きさ、たくましい骨格、高い座高が邪魔して頭や体がつっかえて順応性に欠け、しかも快適さからはほど遠く、長い脚がわきからぶらぶら出ます。その上、自分がおばかさんに見え、両親の呵責すら感じます。なぜなら、母国では一〇歳未満の少年に等しい小柄な駕籠かき人足に、自分の体重をすべて任せるからです。
京都ゑびす神社 宝恵かご社参
明治時代の日本人の平均身長は男性157cm、 女性は147cm程度だったという。
駕籠に似た乗り物として、棒の上にいくつかの肘掛け椅子を置いたものがあり、ローマ法王やパレードのような偶像のように人を載せることができます。でも、四人の担ぎ手の足取りによって長い棒が上下に跳ね、往々にして乗客を船酔い状態にします。
教皇御輿で運ばれるピウス8世。
p209 ゆっくり歩く生き物・荷馬は、綱で前方へ引く御者を必要とし、伸びた頭と気の進まない足取りは単なる移動モーターに見えます。馬と先導人はワラジを履き、数マイルごとの馬の履き替えに新しいワラジを高い鞍のまわりに縛っています。蹄鉄は、都会や大きな港町にしかなく、村の鍛冶屋にはありません。荷馬は厚い藁胸当てをつけ、高い鞍が木びき台のように造られ、乗り手が鞍に座ると、うまい具合に両合が馬の首元へ垂れ下がります。この鞍は釣り合いがとれているだけで、帯は締めていません。
馬による人の輸送(右)
上は人が3人乗れるように工夫されている。
藤枝宿での積荷の載せ替え
「馬と先導人はワラジを履き」とあるが、確かに人も馬もワラジのようなものを履いている。 「荷馬は厚い藁胸当てをつけ」とあるのは上の絵ではよくわからない。 上記goo辞書「腹帯」に掲載されている右のイラスト(クリックで大きくなる)を見ると「辻房」と記されているが、これが藁胸当てではないだろうか。 「この鞍は釣り合いがとれているだけで、帯は締めていません。」とあるのは、同じイラストに腹帯と記されている。 この腹帯で鞍を固定させるのだろうが、荷馬はこのような帯をしめて固定させていないのだろう。
⓶中禅寺湖、二荒山神社中宮祠、男山
p209 日光から中禅寺へ行くのに、あなた方観光客は駕籠や荷馬、あるいは人力車で八マイル[一三キロ]ほど旅をしなくてはなりません。
p210 行程約三マイル[四・八キロ]で高度二〇〇〇フィート[六〇〇メートル]を登りきると湖畔へたどり着き、さらに峠まで緩やかな坂道と広い階段を登ります。
p210 幅三マイル[五キロ]長さ八マイル[一三キロ]の中禅寺湖は険しく深い山岳樹林に囲まれ、雄大な男体山[二四八四メートル]は湖畔から堂々とそびえぴらみっどのように先細りとなり、山頂も森に囲まれています。
中禅寺湖と男体山
p211 麓には神社[二荒山神社中宮祠]があり、登りの参道沿いは祠だらけで、頂にも社があり、改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣があります。
二荒山神社 中宮祠
二荒山神社 狛犬
登山口となっている日光二荒山神社の中宮祠の登拝門。この先は山頂へと向かう階段が続いていく。
男体山山頂の剣
この剣について、シドモアは「改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣」と書いているが、 1877年に茨城県結城市のある人が鉄の剣(長さ約3.5m、幅15cm)を奉納したのだという。
2012年3に腐食によって根元からおれたが、下野市の男性から奉納されたステンレス製の剣が設置された。 従って、現在の剣は2代目であり、シドモアが見た物とは別のものということになる。
シドモアはなぜ「改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣」と書いたのだろうか。
男体山に伝わる伝説とは、次のようなものなのだが。
昔、男体山の神と赤城山(群馬県前橋市)の神が領地争いをした。 男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘った。 男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。 猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。
p211 毎年八月、白装束に大きな藁帽子をかぶり、藁敷き雨具を肩に抱いた大勢の巡礼がやってきます。湖で清めた後、鳥居をくぐった敬虔な信者は神社に祈祷をし、喘ぎながら頂上へ向かいます。 p211 参道一面、シーズン中に捨てられた履物で覆われ、また過ぎし日のワラジの山がそこここにあります。
日光修験については、こちらの記事に書いた。
白装束とあるので、巡礼は一般の人ではなく、修験道の山伏だろうと思う。
蓑とは下の写真のようなもので、稲藁など撥水性のある植物を編んで作られた雨具である。
※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
⑭白糸の滝・滝尾神社
p201~p202 さらに登ると、滝[白糸の滝]が泡を噴出しながらリボン状に細く裂けて流れ、これよりも高い所に古い社寺[滝尾神社、弘法大師ゆかりの地]があって、巡礼や旅人が祈祷したり感嘆したりしますが、この無防備の聖域を乱す人はいません。ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。
滝尾神社拝殿
白糸の滝
シドモアは「ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。」と書いている。 「ここ」は「滝尾神社」を指すものと思われる。
上の動画、12:00 あたりに門がでてくる。 このような門などをの左右には通常、仁王や風神雷神像、二天像などが安置されるが、この門には何も置かれていない。
ここに風神雷神像があったのだろうか。 とすれば、その風神雷神像はどこにいってしまったのか?
二荒山は東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺である。 そのうち、輪王寺の大猷院・二天門には四天王のうちの持国天と広目天が安置されており、 その裏側に風神雷神像が安置されている。 (私が参拝したときには残念ながら二天門は修理中で二天、風神雷神像は見ることはできなかった。なんてこったいw 三仏堂に移されているというので行ってみたが、堂内は撮影禁止だったー。)
上の動画↑3:39あたりに風神雷神像がでてくる。 しかし、この風神雷神像はもともと東照宮の陽明門にあったものを、明治4年に二天門に移したものだ。 
「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、 シドモアは二天門の風神雷神像を見たはずである。 しかしシドモアは二天門の風神雷神像については記しておらず、滝尾神社に風神雷神像があったといっている。 これはいったいどういうことなのか
p202 ある聖堂[行者堂]は、筋肉質の朱の仏像を祀っていますが、囲いもなく車夫のたまり場となり、信者は仏像に対して活力ある脚を持つよう嘆願しながら、一足のワラジを奉納します。
上の動画17:17あたりに行者堂が映し出されている。 行者堂は役小角を祀っていると、ナレーションが入っている。
上は奈良吉野山の金峯山寺付近にあった役小角像である。
シドモアは「筋肉質の朱の仏像」といっているが、役小角は着衣の姿であらわされることがほとんどであり、筋肉質かどうか判断しがたいので、かなり違和感を感じる。 役小角の左右に置かれているのは、役小角に従った前鬼・後鬼といわれる鬼である。 こちらのほうならば、筋肉質といえなくもないが、役小角について述べないで、前鬼・後鬼を述べるというのもおかしい。
しかし行者堂には草鞋が奉納されているので、行者堂の事を言っているようではある。 シドモアは少し記憶間違いをしているのかもしれない。
⑮含満ヶ淵
p202 御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。慈悲深い顔と燃えるような赤い衣装全体に細かい紙片が張り付けられ、神には信者の願い事が書かれています。石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり、すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。 川岸の暗がりには、ブッダの後継者一〇〇名の苔むした石仏[羅漢像]が迷走しながら座っています。[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]。 p202 橋から弘法大師に縁のある広い霊地まで石仏が並び、その数を数えるのが習わしですが、誰が数えても決して数が合わないと言われています。
ここへは行ったことがないのだが、知人に写真を提供してもらうことができた。(ありがとうございます)↓
[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]と注釈があるとおり、 1902年(明治35年)の大洪水で、慈雲寺本堂、霊庇閣、並び地蔵が流されたようである。 慈雲寺本堂と霊庇閣は、1970年代に再建されたものとのこと。
ウィキペディアには並び地蔵ではなく化地蔵と記されている。 化地蔵と呼ばれるのは、シドモアが書いているように、何回数えても数があわないからなのだそうだ。
洪水で流出する前の化地蔵
「御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。」 とあり、友人が撮影したお地蔵様とは別のお地蔵様があるのかもしれないと思い、いくつか動画を見てみたがよくわからなかった。
Photo ACさんを検索したら一体、他のお地蔵様よりも一回り大きそうなお地蔵さまがあった。↓(下の写真) もしかしたらこのお地蔵さまのことかもしれない。(詳しい方、教えてくださるとうれしいです。)

そのお地蔵様には赤い衣装が着せられ、その上に願い事を書いた紙片が張り付けられているのだという。 地蔵菩薩には塩や油をかけたり、縄をしばりつけたりする信仰がある。 これらと類似の信仰で、地蔵菩薩の上に紙片を大量に張り付けて祈願していたのだろう。しかし、現在はそのような習慣は廃れているようである。
「石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり」 とあるのは賽の河原伝説に由来するものだと思う。 親より早く亡くなった子供は賽の河原で親のために石を積んで塔をつくる。 しかし地獄の鬼がその塔を壊してしまうが、地蔵菩薩が救ってくれる。 そんな話があり、石を積み上げて塔を作る人があり、お寺の隅などでそのようなものを見かけることがある。 私はやったことがないが、どのような人が石を積み上げておられるのだろうか。 (伝説では死んだ子供が石を積み上げるのだが、実際にある場所で死んだ子供が石を積み上げることはできない)
「すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。」
とあるのは如意輪観音の石像だろう。 日光を散策すると、道端などに如意輪観音の石像をよく見かけたので。 私は関西に住んでいるのだが、関西では如意輪観音の石像はあまりみかけない。
如意輪観音の石像 日光付近
⑯被差別部落
p203
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。それは動物の屠られた死体を扱い、皮や毛皮で衣服をつくる人を蔑んだためです。差別の起源には彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く務めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます。部落民の人たちは以前は、身分制度の中で、より身分の高い近隣住民とは孤立した生活を送ることを余儀なくされてきました。 明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、低階層は身分制度の暴虐から漸次解放され、部落民は市民となり法律によって保護されました。以前として、恥ずべき偏見は部落民自身を狭い村に閉じ込めていますが、部落民の立ち去った後、そこに居たところに塩を撒いて清めるという失敬な話はもはやありません。
近年、教科書から江戸時代の身分制度として士農工商や、四民平等の表記をしなくなった。
その理由について、東京書籍の説明をまとめると次のようになる。
・身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でない。
「武士-百姓・町人等、えた・ひにん等」が存在し、ほかにも、天皇・公家・神主・僧侶などが存在した。
・武士は支配層として上位
・他の身分については、上下、支配・被支配の関係はない。
・特に、「農」が国の本であるとして、「工商」より上位にあったと説明されていたが、そのような関係はなく、対等であった。
・近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ、身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあった。
・士農工商という言葉を使わなくなったのにあわせ、平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにした。
・「四民」という言葉は、もともと中国の古典に使われている言葉で、『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とある。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味である。 ここから転じて、「四民平等」の「四民」という言葉は、「士農工商」は、「国を支える職業」といった意味で使われていた。 ・江戸時代になると、「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方をするケースがも出てくる。
・「四民」本来の意味で使用するのは、わかりにくい、説明しにくいなどの指摘があった。 ・「四民平等」の語は、明治政府の一連の身分政策を総称するものだが、公式の名称ではない。
・「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」と表記の記述の方が、近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せた。
繰り返しておくが、士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分ということである。 つまり、身分の上下はあったということである。
また士農工商は嘘だった(戦後の教科書が自虐史観を押し付けたという意味)」という人がいるが、これも間違った認識だといえる。 東京書籍の説明にもあるが、単に研究が十分でなく、勘違いされていたというだけだろう。 戦後の教科書が自虐史観をうえつけるため、士農工商という身分制度を教えたという人は
「士農工商の4つの身分は単なる職業区分であって身分の差がないのに、身分差別があると教えていた」という誤った認識をもっている。 しつこく繰り返しておくが、現在教科書で教えているのは、士農工商が平等ということではない。 「➀士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分」=「⓶身分制度があった」 と教えているのだ。 ➀と⓶のちがいは、階級の数の違いでしかない。 階級の数を偽ったとしても階級があったことにはかわりなく、そんなことをGHQがさせる理由がわからない。 現在の教科書の記述を読めば理解できるだろう。 孫引きになってしまうが、教科書の表記がどうなっているかみてみよう。
「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました」 「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」 「武士が支配者」と書いてあって、支配者階級と被支配者階級があることが分かるような記述になっている。
しかし、私は東京書籍さんの「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」という表記が正しいとは思えない。
1870年(明治3)農民や町人が姓(苗字)を名のることを許された。 1871年 穢多・非人などの差別的呼称と身分を廃止した。 公卿と諸藩藩主を華族、武士を士族、農工商を平民という呼称に改めた。 華・士族、平民間で居住・職業・結婚などの自由を認めた。
華族・士族・平民というのは階級ではないのか。
士族は主に江戸時代の武士階級で、華族以外のものの身分階級である。
当初、士族は江戸時代の習慣をひきつぎ、世襲の俸禄(家禄)を受ける、名字帯刀、切捨御免などの身分的特権を持っていたが、こうした士族の特権は段階的に剥奪されていく。 1873年(明治6年)徴兵制によって国民皆兵となる。 1876年(明治9年)廃刀令。 1873年、家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金(秩禄公債)を発行する。。 1876年、金禄公債(強制的に禄を廃止し、その代償として公債を発行。)
公家・大名家・国家への勲功のあったもの・臣籍降下した元皇族などは華族という身分を得た。 華族には貴族院の構成、皇族・王公族との通婚、旧・堂上華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)などの特権が与えられていた。
士族はともかく、華族の存在があるのに、「すべての国民は平等」というのは詭弁である。
シドモアは「明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、」 と書いているが、すでに述べたような理由でまちがいである。
しかし、1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録としてつづられた「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」に江戸時代に特権階級や被差別部落が存在していたと書いてあることは重要である。
シドモアは江戸時代の日本については知らないはずなので、日本人ガイドなどにそういう話を聞いたか 「江戸時代の日本には特権階級がいて被差別部落が存在していた」ことは新聞などを通じて知っていたのだと思われる。
そしてシドモアが日本にやってきたのは明治で、日本がGHQの支配下にあった時代よりも以前である。
GHQがプレスコードと呼ばれる出版物の検閲をしていたのは事実だが、 それを理由に、日本には階級制はなかった、階級制があったとする人がいて、それはいくら何でも結論を急ぎ過ぎだと思う。
GHQ以前の日本にやってきたシドモアの文章は、当然のことだが、GHQのプレスコードの影響をうけておらず 江戸時代の日本には階級制度があったことを証明しているように思える。
いやいや、シドモアは日本を貶める目的で「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」を書いたんだ、と主張される方がいるならば、丁寧かつ具体的な説明をお願いしたい。
⑰骨董屋
p204 毎夏、日光の骨董市場は拡大してゆき、骨董は当然宗教的色彩を帯び、鉦、太鼓、銅鑼、香炉、彫像、旗印、錦織の反物、聖職者用の扇などが、どの行商人の荷物の中にも詰まっていますが、もちろんこれらの品々は近辺の社寺の宝蔵から出たことは保障つきです。
文化財保護法が制定されたのは、昭和25年(1950年)なので、それ以前には重文クラスのものも骨董屋で売買されていたのかもしれない。
p205 日光の観光客は必ずユオキ[柚餅子]を買います。クルミと大麦糖でT繰ら得た子の樫は、一インチ[二・五センチ]角、長さ六インチ[一五センチ]の平たい厚切りの状態で乾いた竹皮に包まれ、日本人客の買い物意欲を高めるため優美な木箱に入っています。
土産物屋には寄らなかったので、日光の名物が柚餅子なのかどうか、わからないが ネットで検索するとそれらしいものはでてこない。 最近ではあまり土産物として作られていないのかもしれない。
p206 障子の影絵が室内のうときや集いの様子を繰り返し映し出し、さらに家族入浴の秘密が湯水のバシャバシャ音と一緒に漏れ、お祖父さんから赤ちゃんまで全身茹でられ(!?)、ごしごし体の現れている様子が伝わってきます。やがて雨戸がバタンと占められ、翌日明け方まで休憩時間となります。
日本に来て本当に驚いたことの一つは、家族で一緒にお風呂に入るのがあまりにも日常的であることだったな。というのも、本当に幼い子どもとの入浴を除いて、これはアメリカではありえないからね。日本では、小さな女の子でもお父さんと一緒にお風呂に入るよね。アメリカでの一般的な経験則では、子どもが就学年齢の5歳くらいになるまでに、親と一緒にお風呂に入ったりシャワーを浴びたりしなくなる。
だから、日本のこの慣習に最初少し違和感があったけど、今ではすっかり慣れたし、お風呂の時間は家族の「絆の時間」とも言えることを理解しているよ。親子が一緒にお風呂に入っている間に、最高の会話が生まれることもあるからね。
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