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シドモアが見た明治期の日本13 東京⑦ 


※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

※まちがいなどありましたら、教えていただけると嬉しいです。


㉑火事-2

p97
地元消防隊の掲げる旗印や隊旗は、外人の目にはびっくり仰天です。軍楽隊長の指揮棒が栄光を称え、巨大なクラブ、スペード、ハート、ダイヤモンド、球、三日月、星、あるいは謎の文字の旗が各救援隊の機種によって高く掲げられ、火炎に向かって突進します。

シドモアは旗と書いているが纏のことを言っているのだろうか。

「全ての纏の馬簾に黒線が入るようになったのは1872年(明治5年)に町火消が消防組と改称されて以後である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F より引用

「1923年2月27日、消防組規則が改正され、纏(まとい)が廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E9%98%B2%E7%B5%84 より引用
※1923年は大正12年

とあり、明治期には纏がもちいられていたように思える。

 

p97
しかも、崩落寸前まで燃え盛る屋根の上や火炎の中に留まるといった活躍のため、カサビアンカ[フランス海軍の艦長の名、一七九八年ネルソン提督率いる英国艦隊との闘いに敗れた艦長が、艦内に残る息子とともに自爆炎上した惨劇]のようなぞっとする悲劇が生まれます。

どうやら殉職する人が多かったようだ。

p98
まだ消防蒸気自動車はなく、消化手榴弾の利用は大火災の興奮の渦に巻き込まれ、結局忘れてしまいます。



上の動画0.09あたりに蒸気消防車(蒸汽喞筒)のミニチュアが写っている。

https://shiretoko.tokyo/2019/06/11/shobomusium/
↑ この方のブログ、上から6枚目の写真と同様のもので、馬がひいてくるのだが消防ポンプの駆動に蒸気機関が用いられている。

https://mirai.kinokuniya.co.jp/2017/08/923/
↑ こちらの記事では上から10枚目の
「救助梯子、救助袋、蒸汽喞筒使用の図 火災消防図会 風俗画報 第186号(明治32年4月5日)」に
黒煙を噴き上げる蒸気消防車が描かれている。

このような蒸気消防車が登場したのは、1829年イギリスにおいてである。
1841年にはアメリカで自力走行できる蒸気消防車が登場している。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、
蒸汽喞筒、自力走行できる蒸気消防車のいずれについてもシドモアは知っていたはずである。

シドモアが「消防蒸気自動車」といっているのは、どちらのことだろうか?

いずれにしても、蒸気喞筒は道幅が狭いなどの理由で普及しなかったので、シドモアは見ていないのではないだろうか。

消化手榴弾は消火弾の事だと思う。
1885年(明治18年)日本でアメリカ製の消火弾(球形容器に薬剤を詰めたもの)が紹介されたそうであるが、
あまり用いられていなかったようで、ネット上にも明治期の消火弾についてふれた記事は少ない。
日本の消火弾の記事は、昭和初期のものなどがよくでてくる。

   

㉒地震

p98
地震は年中起きているにも関わらず、幸い激しい揺れもなく、これまで起きた悲劇的震災は一八五四年[相模大地震]と一八五五年[安政大地震]の地震だけです。

1854年の相模地震とは、 安政東海地震の事と思われる。

幸いなことにシドモアは日本で大地震には遭遇していないらしい。

しかし、日本では過去に大震災をいくつも経験している。
以下、1853年からの記録を書きだしてみた。
シドモア日本記が記す1884(明治17)年から1902(明治35年)の部分は赤文字にした。

1853年3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震) - M6.7±0.1、死者約20 - 100人。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M7+1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M8.4(Mw8.6[118])、
   死者2,000 - 3,000人 伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M8.4(Mw8.7[注 18]
   死者1,000 - 3,000人 紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M7.3 - 7.5。
1855年2月16日(安政元年大晦日)室戸半島付近で地震 - >Mw7と推定
1855年3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M6+3⁄4±1⁄4又はM6.9[111]、死者少なくとも203人。
1855年9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M7+1⁄4±1⁄4。
1855年11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M7.0 - 7.5、安政東海地震の余震とされる。津波あり。
1855年11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震(安政の大地震) - M7.0 - 7.1、死者4,700 - 1万1000人。
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M7.5 - 8.0(Mw8.3)、三陸・北海道に津波。死者29人。
1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予・安芸で地震 - M7+1⁄4±0.5、死者5人。
1858年4月9日(安政5年2月26日) 飛越地震 - M7.0 - 7.1またはM7.3[111] - 7.6。直接の死者数百人、常願寺決壊による死者140人。
1858年7月8日(安政5年5月28日) 東北地方太平洋側で地震 - M7.0 - 7.5。
1861年2月14日(万延2年2月14日) 文久西尾地震 - M6.0
1861年10月21日(文久元年9月18日) 宮城県沖地震 - M6.4またはM7.2程度[91]、津波、家屋倒壊、死者あり。
1872年3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震 - M7.1±0.2、死者552人。
1872年秋ごろ 小笠原諸島近海で地震 - 父島二見湾で津波の高さ推定3m。
1880年(明治13年)2月22日 横浜地震 - M4.5 - 6.0、煙突多数倒壊。
1881年(明治14年)10月25日 国後島で地震 - M7.0、
1889年(明治22年)7月28日 熊本地震 - M6.3、死者20人。
1891年(明治24年)10月28日 濃尾地震 - M8.0、濃尾平野北西部などで最大震度7相当と推定。死者・行方不明者7,273人。
1892年(明治25年)12月9日・11日 石川県・富山県で地震 - M6.4(9日)、弱い津波。死者計2人。
1893年(明治26年)6月4日 色丹島沖地震 - M7.7、色丹島で2m - 3mの津波。
1894年(明治27年)3月22日 根室半島沖地震 - M7.9 - 8.2(Mt8.2)、死者1人。北海道・東北に津波。
1894年(明治27年)6月20日 明治東京地震 - M7.0、死者31人。
1894年  (明治27年)10月22日 庄内地震 - M7.0、山形県庄内地方の一部で最大震度7相当と推定[122][124]。死者726人。
1895年(明治28年)1月18日 霞ヶ浦付近で地震 - M7.2、死者6人。
1896年(明治29年)1月9日 茨城県沖で地震 - M7.3[125]。
1896年(明治29年)6月15日 明治三陸地震(三陸沖地震) - M8.2 - 8.5(Ms7.2 - 7.9, Mw8.5, Mt8.6)、津波地震、死者・行方不明者2万1959人。
1896年(明治29年)6月16日 三陸沖で地震 - M7.5 の地震が2回発生。
1896年(明治29年)8月31日 陸羽地震 - M7.2、一部地域で震度7相当と推定。死者209人。
1897年(明治30年)2月20日 宮城県沖地震(仙台沖地震) - M7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
1897年(明治30年)8月5日 三陸沖で地震 - M7.7(Mw7.8)、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。
1898年(明治31年)4月23日 宮城県沖で地震 - M7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
9月1日 石垣島東方沖(多良間島沖)で地震 - M7.0。
1899年(明治32年)3月7日 紀伊大和地震 - M7.0またはM6.9 木ノ本・尾鷲で死者7名、三重県を中心に近畿地方南部で被害。
11月25日 日向灘で地震 - 3時34分にM7.1、3時55分にM6.9。
1900年(明治33年)5月12日 宮城県北部で地震 - M7.0、死傷者17人、家屋などに被害。
1901年(明治34年)8月9日 - 10日 青森県東方沖で地震 - 8月9日にM7.2、8月10日にM7.4。死者18人。
1902年(明治35年)1月30日 青森県三八上北地方で地震 - M7.0、死者1人。
1905年(明治38年)6月2日 芸予地震 - M7.2、死者11人。
1905年(明治38年)7月7日 福島県沖で地震 - M7.1。
1909年(明治42年)3月13日 千葉県房総半島沖で地震 - 8時19分にM6.5、23時29分にM7.5。
1909年(明治42年)8月14日 姉川地震(江濃地震) - M6.8、死者41人。
1909年(明治42年)8月29日 沖縄本島付近で地震 - M6.2、死者2人。
1909年(明治42年)11月10日 宮崎県西部で地震 - M7.6。
1911年(明治44年)6月15日 喜界島地震 - M8.0(Mb8.1)、死者12人。


シドモアはずっと日本に滞在していたわけではなく、行ったり来たりしているようなので
シドモアが日本に滞在しているときに、たまたま大きな地震がなかったということだろうか。

しかしシドモア(1856年 - 1928年)が産まれる前の、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(相模大地震?)のことは書いている。

シドモアの調査不足かもしれない。

安政東海地震が起きたのは、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)である。
嘉永7年11月4日に起きた地震なのに、なぜ安政東海地震と呼ばれているのか。

嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に元号が嘉永から安政に改められた。
改元の理由は、 内裏炎上、地震(1854年12月23日の安政東海地震)、黒船来航(1853年7月8日)などがあったためである。

1853年 7月8日  (嘉永6年6月3日)   黒船来航
1854年 12月23日 (嘉永7年11月4日) 安政東海地震 
1855年 1月15日       (嘉永7年11月27日)    元号が嘉永から安政に改められた。

ウィキペディアには
この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる。
 より引用

とあるが、意味がよくわからない。

歴史年表としては、嘉永7年11月4日のことを安政元年というのだろうか?

ウィキペディアの「安政 西暦との対照表」のところを見ると、
安政元年1月を1854年としているが、安政元年1月というのは存在せず、嘉永7年1月というのが正しいのではないか?
そして嘉永7年11月27日より安政元年となり、それはグレゴリオ暦では1855年の1月15日と対応すると。

存在しない安政元年1月などを設けて、グレゴリオ暦と対応させるなどということが歴史年表としては普通に行われているということだろうか。

なぜ安政東海地震というのかわからないが、安政東海地震とはいうが、その地震は嘉永7年11月4日におこった地震であり
その23日後の嘉永7年11月27日に安政と改元されたということである。

p98
この時の大地震を「外国から野蛮人が神国日本へ来たため、神の怒りにふれて起きたものである」と不満分子は見なしました。「日本列島という大地は、巨大な鯰の背中にもたれかかっているので、この怪魚がのたうち回ると例の大振動を引き起こす」という言い伝えもありますつまり、大怪物の頭は蝦夷地、尾っぽは南島、元気な胴体は横浜と東京の地下にあるのです。

黒船来航から5か月後におきた地震なので、「外国から野蛮人が神国日本へ来たため、神の怒りにふれて起きたものである」という人がいたのだろう。

全く科学的ではないが、現在でも科学的根拠なく、原因と結果を結び付ける人はいる。

p99
激震では屋根瓦が崩れ、柱材をぐいと捩じり、丸太や鉄板を詰め込んでいない芯なしの煉瓦煙突は崩れ飛び散り、屋根までぶち抜きます。小さな住宅はまるで怪魚が海から現れたごとくがたがた動き、テリア犬が鼠を捕獲するように家屋をつかみ潰します。庭園の遊歩道で小石が軋り、嶽の高い常緑樹は開閉器のように先端でぽっきり俺、さらに半鐘が鳴り、置時計は止まり、住民は狂わんばかりに広い空き地や大通りを目指し、逃げまどいます。

この記述をよむと、かなりの参事がおきているように思えるが、前半では

p98
地震は年中起きているにも関わらず、幸い激しい揺れもなく、これまで起きた悲劇的震災は一八五四年[相模大地震]と一八五五年[安政大地震]の地震だけです。

と書いておられて、矛盾があるなあと思わなくもないが、日本語訳の問題かもしれない。

㉓雨の日

p99
日本人は水中へざぶんと飛び込みバチャバチャやったり、水に半時間使っても、生水は滅多に飲みません。古い根や茎を掘り出し、腰館をずぶ濡れにしながら江戸城濠や蓮池で仕事をする人でも、雨が降ると、その日は仕事をやめてしまいます。横浜の波止場で手際よく積荷の上げ下ろしをしたり、絶えず海面を出入りする沖仲士でも、にわか雨が降ると仕事を断ることがあります。

仕事内容にもよるが、今でも雨が降ると屋外の仕事はやらないことが多い。
アメリカでは雨でも屋外の仕事をするのは当たり前なのだろうか。

p100
人力車夫は乗客のために居心地よく幌を引き出し、水滴を弾く油脂やゴム製エプロンを結び、さらに車夫本人は今まで以上に簡素化した木綿着姿で、明るく小走りで進みます。彼らは雨傘代わりに大きく平らな皿型藁帽子[饅頭笠]を被り、ワラジを脱ぎ捨て履物代わりに大きな足指をぼろ布や藁束で結び飾って裸足で走ります。


p100
通行人は、足を濡らさぬよう木や油脂で作った爪皮に素足を差し込み、高さ三インチ[七・六センチ]の足駄を堂々と履きます。


足駄は「あしだ」と読み、「下駄」のことである。
7.6cmというのはずいぶんハイヒールだが、実際そういうものがあるようで、下記動画3:18あたりで紹介されている。
晴れの日用に比べて水はね防止のため歯が細くなっているのも特徴。
7:07あたりでは爪皮についても説明されている。


㉔越後屋

p100
雨の滴がパラパラと音を立てて降ると客が飛び込むので、普通どこの店屋も大喜びです。”越後屋[三越]”や”大丸”の大きな絹織物聖天は、東京版ルーブル[パリの美術館]やボン・マルシェ[パリの百貨店]のような雰囲気で客を楽しませてくれます。双方とも大通りの一角にあり、道路からは単なる塀、あるいは間仕切りにしか見えない黒暖簾が風邪でうねり、白っぽい紋章と店の名前が描かれています。

「越後屋」といえば「おぬしも悪よのう」と言いたくなるがw、「越後屋」は三越の前身だったのだ。
(時代劇ではなぜ越後屋が悪とされたのだろうか?)


2:32あたりには人力車も描かれており、シドモアがそこから降りてきそうに感じる。

p100
店に入ると一階の広大な部屋が一瞥でき、その大部屋は周囲の石式通路から一フィート半[四六センチ]ほど高く、床には畳が敷かれ、広さは縦横六〇フィート[一八メートル]以上もあり、すべてはむらなくつやつや光っています。
~略~
ここには棚も帳場もなく、畳には美しく日本髪を結いあげた女性客が何組も座っています。
~略~
買い手が求めるまでは手に取ってみる品本が店先にはなく、注文に応じて小柄なボーイ[丁稚小僧]が直接倉庫から腕に抱えたり、籠に入れたりして絹製品を運んできます。


上の動画1:12辺りにシドモアが記しているのと同様の風景を描いた絵がでてくる。
ただし、向かって左のほうには引き出しや天井近くの高い場所には反物を並べた棚が描かれている。

歌川広重『名所江戸百景』より「大伝馬町呉服店」。店の前を棟梁送りが行く。

歌川広重『名所江戸百景』より「大伝馬町呉服店」。店の前を棟梁送りが行く。

上棟式の後、棟梁の自宅か下小屋で宴会が開かれる習慣があった。職人たちには祝儀がふるまわれた。
この宴会のため、現場から自宅または下小屋へ練り歩くことを棟梁送りといった。

p102
敬虔豊かな骨董あさりの書いては、承認が示すどんな値段に対しても、常に「高い」といって応戦します。もし売り手が売買契約に熱心なら、さらに「たくさん高い」と付け草エマス。「恐ロシ高イ」「途方モナシ、高イ[甚だしく高くて、おはなしにならない]」などといった大げさで妙な古典的表現の日本語を使うと、これを聞いた商人はびっくり仰天し、おうおうにして値段が下がる効果があります。



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