ピンク色の文字 部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
⓮日本の記念行事 p89
日本人ほど祝祭日を作るのが好きな国民はおりません。一二ヶ月すべて祝祭日の機会を設け、さらに昔は三百六十五日、祭と記念行事が催されました。中国歴[陰暦]に載る重要な記念日の全てが尊重され、さらに君主の誕生日に代わって命日が尊重されました。
伝統行事を思いつくまま書きだしてみよう。(他にも多数あると思うが) もともと伝統行事は旧暦または二十四節気の日付で行われていたもので、 明治に新暦を用いるようになり、新暦に変更して行事を行うようになったため、行事の意味がわからなくなってしまったケースがあると思われる。 (七夕とお盆の関係など。旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事で、七夕はお盆の入りの行事だった。) そこでここでは日付は基本的に旧暦とした。 新暦の日付については(新)と示す。
1月1日 元旦 1月2日 姫始め
1月7日 七草の節句 1月15日 成人の日
2月3日ごろ(新) 節分 ※二十四節気の立春の前日 旧暦では元旦と同時期となる。
2月8日 事始め(農作業を始めて行う日)針供養
2月11日(新) 紀元祭
2月22日 聖霊会(聖徳太子命日)
3月3日 雛祭(上己の節句)
3月21日(新) 彼岸 ※二十四節気の春分
4月8日 花会式
4月13日 十三詣
5月5日 端午の節句
6月30日 夏越の祓
7月7日 七夕
7月15日 お盆
7月23日 地蔵盆
8月1日 八朔
8月15日 月見 9月9日 重陽の節句
9月23日 秋分
10月12日 芭蕉忌
11月1日 亥の子祭
11月15日 七五三
12月8日 事納め(農作業を終える日) 針供養
12月14日 正月事始め
12月22日(新) 冬至(二十四節気による)
12月30日 大晦日 ※旧暦では晦日は30日
❷忌日
良寛忌 天保二年一月六日(1831年2月18日)
夕霧忌 延宝六年一月六日(1678年2月26日)一説に七日
義仲忌 寿永三年一月二〇日(1184年3月11日)
実朝忌 建保七年一月二七日(1219年2月13日)
光悦忌 寛永一四年二月三日(1637年2月27日)
大石忌 良雄忌 元禄一六年二月四日(1703年3月20日)
西行忌 円位忌 山家忌 文治六年二月一六日(1190年3月23日)
利休忌 利久忌 宗易忌 天正一九年二月二八日(1591年4月21日)
其角忌 晋子忌 晋翁忌 宝永四年二月二九日(1707年4月1日)一説に三〇日
梅若忌 梅若祭 梅若参 天延四年三月一五日(976年4月17日)
人麻呂忌 人麿忌 人丸忌 人丸祭 旧暦三月一八日(没年不詳)
蓮如忌 吉崎詣 明応八年三月二五日(1499年5月5日)
阿国忌 お国忌 寛永二一年四月一五日(1644年5月21日)他諸説
鑑真忌 天平宝字七年五月六日(763年6月21日)
蝉丸忌 蝉丸祭 旧暦五月二四日(没年不詳)
頼政忌 治承四年五月二六日(1180年6月20日)
業平忌 在五忌 元慶四年五月二八日(880年7月9日)
信長忌 天正一〇年六月二日(1582年6月21日)
光琳忌 享保元年六月二日(1716年7月20日)
宗祇忌 文亀二年七月三〇日(1502年9月1日)
鬼貫忌 元文三年八月二日(1738年9月15日)
守武忌 天文一八年八月八日(1549年8月30日)
西鶴忌 元禄六年八月一〇日(1693年9月9日)
一遍忌 遊行忌 正応二年八月二三日(1289年9月9日)
道元忌 建長五年八月二八日(1253年9月22日)
去来忌 宝永元年九月一〇日(1704年10月8日)
若冲忌 寛政一二年九月一〇日(1800年10月27日)
保己一忌 文政四年九月一二日(1821年10月7日)
宣長忌 享和元年九月二九日(1801年11月5日)
達磨忌 初祖忌 少林忌 梁の大通二年一〇月五日(528年)他諸説
芭蕉忌 時雨忌 桃青忌 翁忌 元禄七年一〇月一二日(1694年11月28日)
嵐雪忌 宝永四年一〇月一三日(1707年11月6日)
空也忌 空也念仏 天禄三年一一月一三日(972年12月21日)
貞徳忌 承応二年一一月一五日(1654年1月3日)
良弁忌 宝亀四年閏一一月一六日(774年1月2日)
一茶忌 文政一〇年一一月一九日(1828年1月5日)
近松忌 巣林子忌 享保九年一一月二二日(1725年1月6日)
蕪村忌 春星忌 夜半亭忌 天明三年一二月二五日(1784年1月17日)
シドモアは「君主の誕生日に代わって命日が尊重されました。」と書いているが、確かにそのとおりで、 日本では誕生日よりも命日が尊重された。 これは数え年による年齢の数え方(正月になると全員年齢がひとつ加算される。)と、仏教による年忌法要(三回忌、七回忌、五十回忌など)の影響があるのではないかと思う。 私も京都・空也堂の空也忌や、誠心院の和泉式部忌の行事に行ったことがある。 空也忌は誰でも堂内に入り、空也像が安置された厨子の前でお焼香することができ、空也が始めたと伝わる踊念仏などの奉納があった。
上の表にはないが和泉式部忌は3月21日。 おそらく3月21日は和泉式部の明日ではなく、後世になって春の彼岸である3月21日をになって和泉式部の命日としたのだと思う。
伝承によると空也忌の11月13日は空也の命日ではなく、空也が東国に旅立った日で、空也自らこの日を空也忌とするようにと言い残したという。
私の考えでは、空也とは京都鴨川のほとりに晒された平将門の首のことであり、東国に旅立ったというのは、将門の首が故郷の東国を目指して飛び立った日、という意味ではないかと思う。(とんでも?)
(興味ある方は、
土蜘蛛の謎シリーズ をお読みください。)
13日というのは虚空蔵菩薩の縁日に合わせたのではないだろうか。
京都の法輪寺には、平安時代、虚空蔵菩薩が惟喬親王に漆の製法を教えたという伝説があり、惟喬親王の参籠満願の日が11月13日と伝わっている。
漆業関係者は1985年(昭和60年)、11月13日を漆の日と制定したが、そのルーツは古いのである。 惟喬親王の参籠満願の日が11月13日というのも事実ではなく、虚空蔵菩薩の縁日13日に合わせたのではないかと思う。
⓯祭の縁日で売っているもの
p90 素晴らしい芸当を演じる滑稽で巧妙なからくり玩具は、最も単純な機械原理を応用し、わずかな水道水の補充や蝋燭の熱によって動きます。これらの玩具は竹ひご、細い松材、紙や藁の繊細なもので、米国の子供らが触るとすぐに壊れるような代物です。 「水遊びと縁日のおもちゃ」 こちらのサイトよれば 江戸時代 には、水車、水鉄砲、竹製手桶 焼き物の亀の子
幕末から明治には、火消道具、龍吐水 雲龍水 をまねた木製玩具
明治大正 磁器製金魚鯉、鳥の水笛、 木製ポンプ、ブリキ製玩具、福助の太鼓たたき (水だし福助) 理科玩具「ウイテコイ」、アンチモニー(錫を混ぜた合金製)ピストル
などが玩具として売られていたようである。
しかし、シドモアは「竹ひご、細い松材、紙や藁製で、すぐに壊れそう」といっているので、 アンチモニー製ピストルのことを言っているのではない。 下記動画のような鳥の水笛や、福助の太鼓叩き(水だし福助)のことを言っているのだろうか。
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蝋燭の熱で動く玩具とは「まわり灯籠(走馬燈)」のことだろうか。
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うんと子供のころに、友人宅でこのようなものを見せてもらった記憶がある。p90
さらに幼児らは精密な細枝細工の蝉籠を指に吊しよちよち歩いて家へ持ち帰り、日がな一日満足そうに虜となった蝉のミーンミーン声に耳を傾けます。
明治の縁日の屋台ではこのようなものを売っていたのだ。
このページには「蝉の虫籠」というタイトルのイラストが描かれている。 着物を着た幼児が4人おり、ひとりが虫籠を持っている。みんなで蝉の声を聴いているのだろう。 このイラストはシドモアが描いたものなのだろうか?
⓰雛祭り
p91 その週の間、家族はいちばん贅沢な服を着て祝い客に家を解放して招き、選りすぐりの絵や火砲の美術品を飾ります。これと一緒に祖父母の時代から受け継がれてきた雛人形や彫像も飾られ、女の赤ちゃんの誕生となるとさらに人形が追加されます。これらの人形は天皇・皇后・貴族・宮廷貴婦人をイメージし、本物そっくりの贅沢な衣装をまとい、その数は何ダースにもなります。
通常、雛人形は、雄雛・雌雛・三人官女・五人囃・左大臣・右大臣・泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸の9体の人形を雛壇に飾ることが多いのではないかと思う。 雄雛は天皇、雌雛は皇后、左大臣・右大臣は貴族、五人囃は貴族の子供、三人官女は紫式部・清少納言のような貴族の女性で皇后につかえているのだと思う。 泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸は仕丁という、宮中の雑用係である。
仕丁について、コトバンクは次の様にしるしている。① 令制で、公民の成年男子に課せられた力役(りきやく)。また、その人。諸国から五〇戸に二人の割合で、正丁を京にのぼらせ、官司に分配して三年間労役に服させた。二人のうち実働する者を立丁(りってい)(=直丁・駆使丁)といい、他の一人は立丁のために生活の世話をし、廝丁(しちょう)といわれる。女性に課せられた場合は女丁(にょてい・じょちょう)といわれるが、その数は少なかった。じてい。つかえのよぼろ。〔令義解(718)〕
※栄花(1028‐92頃)花山たづぬる中納言「内のそこらの殿上人・上達部・あやしの衛士・仕丁にいたるまで」
雄雛・雌雛・三人官女・五人囃・左大臣・右大臣・泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸、合計で人形は15体だ。 シドモアは「その数は何ダースにもなります。」と書いているが、若干数が多すぎるように思われる。 しかし雛人形のほか、市松人形を飾ったり、数セットの雛壇を飾る場合もあるので、シドモアはそのようなものを見たのかもしれない。
静岡県岡部宿大旅籠「柏屋」にある雛人形は箱に、安政3年(1856)と記されており、 京都御所の御殿をかたどった建物3棟に40体の雛人形を飾るそうである。
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p91
祭の間中、人形は祭壇や台座に一列ずつ並べられ、食べ物や贈り物がその前に置かれます。ちっちゃな模型の御飯茶碗、急須、茶碗、皿、盆を載せた漆膳は、家庭の什器類そっくりの精密さです。各人形は専用の膳、食器を持ち、ときには他の人形を饗応するための食事セットを一式供えたりもします。黄金のセット、彫刻された朱漆食器、さらにリリパット小人国[スウィフト著『ガリバー旅行記』にでてくる小人の国]の見事な金物細工セットには法外な値が付きます。
ときには他の人形を饗応するための食事セットを一式供えたりもします。」というのは、下の動画のような感じだろうか。
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法住寺 吊り雛展より
六角形の箱は貝合わせをするための貝を入れておく道具で、嫁入り道具とされていた。 シドモアは書いていないが、雛の道具として一般的によく飾られるものなので、シドモアも見たのではないかと思う。
↑ この方のブログ記事によれば、本物の貝合わせの道具は八角形が多く、雛の道具には六角形が多いという。 六はあまりイメージのいい数字ではない。 死後輪廻する6つの世界のことを六道といい、京都・鳥辺野の六道の辻は謡曲熊野では
「愛宕の寺も うち過ぎぬ 六道の辻とかや げに恐ろしや このみちハ めい土にかよふ なるものを」と詠っている。 現代語訳すると「愛宕寺を過ぎた、六道の辻はたいへん恐ろしい。この道は冥途に通じている。」というような意味になるだろうか。(自信なしw) 六角形の貝桶は花嫁道具としては縁起が悪そうだ。 実際の貝桶のほとんどは末広がりで縁起のいい八角形なのではないか。 雛人形に六角形の貝桶が多いのは、雛人形とはもともと息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流す身代わり人形であったからかもしれない。 人形を川や海に流すというのは、人形を殺すということである。 雛人形が豪華になってから川や海に流す習慣はなくなったが、昔の雛人形は首を抜いて和紙にくるんでしまった。 雛人形の首を抜くのは、人形を川や海に流すかわりに、人形を殺すという呪術的な意味があり それで雛人形の貝桶は六角形なのかもしれない。
京都・法住寺 吊り雛展
p92 この長い一週間の祭の中で、雛人形は日本古来の暮らしと楽しみ方の神髄、行儀作法の優雅さを教えてくれます。ともあれ、おの伝統は世代から世代へ確実に伝わっていき、これ以上見事な手本は、またとありません。 とシドモアは書いていて、これは全くその通りなのだが、雛祭りの本来の意味とは 「人形に息を吹きかけて人形に穢れを移し川や海に流して殺す」 「人形に息を吹きかけて人形に穢れを移し首をぬいて殺す」 ということではないかと、私は思う。⓱鯉のぼり p92
鯉のぼりを立てる意味は、鯉が急流に逆らって滝を登る丈夫な魚でありシンボルだからです。
https://biz.trans-suite.jp/51752
↑ こちらの記事によれば、実際の鯉は滝登りをすることはないという。 シドモアは少し勘違いをしていようである。 そうではなく、「竜門という滝を登り切った鯉は龍になる。」という言い伝えがあり、縁起がいいとして端午の節句に鯉のぼりをたてるのではないかと思う。
↑ こちらの記事には次のような内容が記されている。 ・端午の節句の習慣として菖蒲酒、菖蒲湯、菖蒲枕、菖蒲刀、菖蒲鉢巻き、菖蒲打ちなどがある。 ・菖蒲葺きについて、清少納言は『枕草子』に次のように記している。 「節は、五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の内をはじめて、言ひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげく葺かむと、葺きわたしたる、なほいとめづらし」 ・大森貝塚発見で有名なエドワード・S・モース(1838~1925)の『日本その日その日』(石川欣一訳/平凡社全三巻)に 明治10(1877)年の東京郊外における端午の節句の菖蒲葺きをモースがスケッチしている。 ・モースは、明治11(1878)年、東京の町家の鯉のぼりについてもスケッチを残している。 スケッチに記されたのは、真鯉一旒のみ。籠玉も矢車もない。
https://mama.chintaistyle.jp/article/carp-streamer-mean/
↑こちらの記事には次のような内容が記されている。 ・江戸時代は黒の真鯉一匹のみ。
・明治時代になると赤い緋鯉が加わり、黒い真鯉は父親、赤い緋鯉は子どもを表した。 ・昭和の東京オリンピック後に青い子鯉も加わり、鯉のぼりは三匹になった。
シドモア日本紀行は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、真鯉一匹のみ、または黒い真鯉と赤い緋鯉の2匹がおよぐ鯉のぼり、いずれかであったと考えられる。p92
また何度もお祝いをしている家庭ではポールを林立させ来いの群れを大空を泳がせます。 とあるので、一本のポールに鯉のぼりを何匹も吊るしていたのではなく、1本に一匹の鯉のぼりを、複数本あげていたように思えるが、どうだろう。
歌川広重『名所江戸百景』より。
p92 その印に屋外での高いポールのてっぺんに籠細工を載せ、布や紙の生きているような魚を吊します。 と書いているが、残念ながら広重の鯉のぼりは籠細工が描かれていない。
p92
家の中では人形、玩具が儀式的配列で並べられ、武士、力士、槍、幟、三角旗の小さな模型、さらに武者行列を華やかにするすべての装飾武具が飾られます。
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五月人形については上の動画4:52あたりからの説明がわかりやすい。 シドモアは武者行列といっているが、戦の本陣をイメージしたものというのがただしいのだろう。 力士というのは鍾馗さまのことを言っているのかもしれない。
山口家住宅(堺) いつごろのものかわからないが、このような飾り方もあったということで。
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