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シドモアが見た明治期の日本⑤ 東京3


歌川国利 上野不忍池競馬の図 

歌川国利 上野不忍池競馬の図

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

❼不忍池

p84
台地は左側へ急傾斜し、裾のは大きな蓮池[不忍池]があり、真夏には花の水槽となります。弁天堂と小さな茶屋が中央の島にあり、桜並木のアーチがかかる池の周りは競馬コースになっています。

不忍池

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不忍池には行ったことがないので、写真はPhoto ACさんよりお借りした。(ありがとうございます。)
蓮も桜もたいへん美しい。

❽上野不忍池競馬

この池の周囲は競馬コースであったとシドモアは書いている。

1884(明治17)年、共同競馬会社によって池を周回するように競馬コースがつくられたそうである。(上野不忍池競馬)
同年11月には天皇臨席のもとで第1回レースが開催された。
その後、春と秋にレースが行われたが、経営難となり、1892年に閉場された。

楊洲周延 上野不忍大競馬 1884年(明治17年) 明治天皇が競馬を観覧されている。

楊洲周延 上野不忍大競馬 1884年(明治17年) 

上の絵は第1回レースの様子を描いたものだろう。
競馬を観覧する明治天皇が描かれている。
屏風の前の、たすきを付けているのが明治天皇だろう。
明治天皇の向かって右は明治天皇の皇后・昭憲皇太后だろうか。
その前には平安装束の女性たちが描かれており、御殿飾りの雛人形のようだ。

高取土佐町 雛巡り 御殿飾り 

奈良県 高取土佐町 雛巡り 御殿飾り 

明治天皇は右(向かって左)と昭憲皇太后(?)は左(向かって右)に着座されているのが気になる。
高取土佐町の御殿飾りの雛人形は、これとは逆で、男雛が左(向かって右)、女雛は右(向かって左)になっている。

高取土佐町の雛人形の飾り方は伝統的な京雛などの飾り方である。
左右では左が上位とされていたので、男雛を左(向かって右)、女雛を右(向かって左)にしていたのである。

関東雛は明治天皇・昭憲皇太后の着座と同じになっているが、
そのルーツは、大正天皇の即位礼のとき西洋文化に習ったことだといわれている。

しかし、上の「楊洲周延 上野不忍大競馬 1884年(明治17年)」を見ると、すでに関東雛と同じスタイルで着座されている。

楊洲周延(1838(天保9)年ー1912(大正元)年)がまちがえたのか、それとも当事から西洋風に着座する習慣があたのか?

空には人形をつけたパラシュートが描かれているが、このようなものを花火とともに打ち上げたそうである。
不忍池競馬馬見所の写真はこちら。↓

800px-不忍池競馬馬見所

不忍池競馬馬見所

楊州 周延上野不忍競馬之図 明治18年(1885)上野不忍池競馬を観戦する明治天皇

楊州 周延上野不忍競馬之図 明治18年(1885)上野不忍池競馬を観戦する明治天皇

↑ こちらは第一回レースが行われた翌年のレースを描いたもの。
女性は西洋風のドレスを着用している。
明治天皇と対面するようにたっている黒いドレスの女性は面長な顔立ちが明治天皇の皇后・昭憲皇太后のように思われるがどうだろう?

明治天皇 

明治天皇

昭憲皇太后

昭憲皇太后

❾黒門

p84
上野には無数の墓や寺院、灯籠の行列、鐘楼、飲用泉水、さらに維新前、江戸の徳川軍[彰義隊]が最後の抵抗を試み、弾痕を残した黒門があります。

飲用泉水とは、こういう感じのものだろうか? ↓

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日比谷公園に残されているもので、日比谷公園にはこのような古い水飲み場が7か所あるとのこと。

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これは馬の水飲み場である。

日比谷公園は日比谷練兵場(参照/シドモアが見た明治期の日本⑦)のあと地に、1903(明治36)年に開園され、同時期にこのような水飲み場が設置されたらしい。

1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日比谷公園は見ていないということになる。

黒門は、寛永寺の総門だったが、明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築された。
その理由は、円通寺に彰義隊戦士の遺骸が葬られたためであるという。
門には上野戦争の時の弾痕が多数残っている。

15代将軍・徳川慶喜は、1867年に大政奉還をしたが、慶喜はその後も政権の中枢にいて政治をとるつもりでいた。
1868年、新政府軍vs旧幕府軍の戊辰戦争が勃発する。
鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍は兵力の数ではまさっていたが、最新武器を持つ新政府軍に敗北。
徳川慶喜は江戸城に逃亡し、新政府側に対して従う意思を見せて上野寛永寺に引きこもった。

一橋家臣・本多敏三郎や旧幕臣の渋沢成一郎らの呼びかけによって彰義隊が結成される。
メンバーは3000人~4000人。寛永寺を拠点とした。

その後、江戸城無血開城が行われ、徳川慶喜は水戸に戻ったが彰義隊は解散せず
大村益次郎率いる新政府軍と彰義隊が武力衝突する。(上野戦争)
寛永寺正門の黒門口、団子坂、谷中門などで戦いが繰り広げられた。
新政府軍はアームストロング砲を用いて彰義隊を攻撃し、彰義隊はわずか1日で壊滅した。
彰義隊の残党は北陸や会津などに逃れて新政府軍との戦いを続けた。


上記動画、1:18 あたり、説明版のイラストにあるのは黒門だろう。
6:50あたりで寛永寺旧本坊表門がでてくる。
この門も弾痕による穴が多数あいており、黒門と呼ばれているが、シドモアがいっている黒門はどちらだろうか。


p84
この門の近くには、グラント将軍の手で受けられた旺盛な若木があります。[明治12年夏、グラント前米国大統領来日、ローソン檜植樹]


※「この門」とは、黒門のことである。

http://5510.seesaa.net/article/116086520.html

上の記事によると、グラント将軍はローソン檜、将軍夫人はタイサンボクを植え、両方とも現存するが、
グラント檜は元気がなくなって、二代目を育成中とのことである。


p84
また公園から少し離れた裏手には、将軍の富と権力の象徴である壮麗な遺物、徳川家の菩提寺[寛永寺]が建っていますが、残念ながら増上寺同様、火災で焼失しました。

シドモアは増上寺のところでは火災については触れず、ここで増上寺の火災について述べている。
シドモアが見た明治期の日本⑧ 東京2 

シドモアがいう増上寺の火災とは、1874(明治)7年の放火だと思う。このとき増上寺の大殿は消失したが
シドモアが見た増上寺は、現在の増上寺よりもはるかに壮麗で、五重塔・有章院霊廟・鐘楼・文昭院殿霊廟・台徳院覆屋・勅額門などがあった。
これらの建物は太平洋戦争の空襲で焼失してしまった。

寛永寺の火災とは、上野戦争の戦火である。
この際、根本中堂など多くの堂宇を焼失し、焼け残ったのは五重塔、清水堂、大仏殿、徳川家霊廟などだけだった。

太平洋戦争の空襲では、徳川家霊廟も失われたが、シドモアの時代には存在していた。


❿東京美術クラブ


p85
ある時期、東京美術クラブが上野公園で、個人所有の美術品を借り受けて秘蔵展覧会を開催しました。その会場の前を通過しようとしたとき、サンジロウが急に真剣な面持ちになり、入場口を指さし「運賃を受け取るかわりに「一緒に有名な芸術家の最高傑作を見たい」と所望しました。

サンジロウさんは美術がとても好きな人力車の車夫さんだったのだ。
こんなサンジロウをシドモアは好ましく思っていたのではないだろうか。


卓抜無比の猿の絵描き・狙仙は、生前の評価は低いものでしたが、今日では鑑定家から極めて高い評価を受けています。外国人には、日本の大家の中で北斎が最も人気があります。彼らは多作家・北斎の木版場に運よく遭遇することを願って古本屋を探し回ります。彼の才能は生前から認められ、一〇〇年前の封建時代、江戸中が北斎の描く正月カルタに夢中になりました。カルタには風景画、封止が、空想画が描かれ、独創性にとむ彼ならではの一品揃いです。一五巻の素描スケッチ[北斎漫画]、さらに[富岳百景]がとても有名です。

『梅花猿猴図』 心遠館蔵


『梅花猿猴図』 心遠館蔵


葛飾北斎が描いた正月カルタは少し検索してみたがわからなかった。
そういうものがあるのなら、ぜひ見てみたい。


隅田川関屋里(すみだがわせきやのさと)葛飾北斎

 
隅田川関屋里(すみだがわせきやのさと)葛飾北斎


⓫誓教寺 葛飾北斎の墓


p86

亡くなる間際、「描きたいなあと思っているものを描くには、余りにも人生が短すぎる」と嘆息したのです。そのとき、なんと九〇歳でした!上野の東京美術クラブ展覧会を見た後、サンジロウは青い目の贔屓客を近くの寺院[誓教寺(大東区元浅草]へ連れて行き、境内にある北斎の墓へ案内しました。墓所には絵札がたくさんぶら下がっていました。それらは、才能に絶望し必死に祈る画家たちが吊るしたもので、いかに不朽の名作を産んだ北斎が信奉されているか、よくわかります。


葛飾北斎の生没年は1760年10月31日(? )-1849年5月10日なので、満89歳、数え年90歳である。
(生まれた年を1歳とし、元旦に1歳を足す)


北斎は死の間際、「天が私をあと10年命を長くしてくれたらなあ」「天が私をあと5年以下得手くれれば真正の画工となることができただろう」と言ったと伝わる。


https://www.ensenji.or.jp/blog/7658/


北斎の墓については、こちらのブログ記事に記されている。
現在は絵札はつるされていないようである。




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