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シドモアが見た明治期の日本2 横浜1

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

❶家船

p28
波止場の舟には四、五千人もの民衆が生活し、あちこちに艀を渡しながら生計を立て、警察の厳しい規則は秩序を保ち、かえって暮らしを安定させます。よその国にあるような波止場税はなく、たくさんのサンパン船の中で家族全員が辛抱強く暮らしています。

サンパン船とは小型の舟のことを言っているようだ。
そして横浜の港に舟で生活する人々がいたというのである。
港の波止場に舟を停泊させてえおいても、税金がかからないので、貧しい人々の中には舟で生活する人もいたということだろうか。

検索してみると家船と呼ばれる人々が、近世から近代の日本にいたようである。

東京の水上生活者(1960年頃)

上の写真は1960年ごろの東京の水上生活者を撮影したものである。
シドモアが日本にやってきた明治期の横浜にもこのような人々がいたのだろう。
ウィキペディアには
・女性は抜歯の風習があったとされる。
・藩からの公認と引き換えに鮑などの上納や海上警備などを行った。
・明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育などを理由に政府が規制を行い、昭和40年頃に消滅した。

❷人力車

p30
上陸地点である波止場で旅行者は人力車に出くわします。この車は米国人発案の日本式大型二輪乳母車で、いまでは東洋全域に普及しています。
~略~
ともあれ人力車は米国ひとから見るとたいへん割安な運賃で、母国の馬車一日分の料金で横浜海岸通りを一週間も乗っていられます。
空飛ぶ肘掛け椅子、この可愛らしい専用の私的玉座の乗り心地を肌で感じた人は、きっと「こんな快適な乗り物はほかにはない」と感激します。

日本の人力車(1897年)

日本の人力車(1897年)

シドモアは「米国人発案の日本式大型二輪乳母車」といっているが、ウィキペディアには「1870年(明治3年)和泉要助が発明したと言われる」と記されている。

❸馬車道

p40
弁天通の先丹ある広い通り[馬車道]には、運河を跨ぐ鉄橋[吉田橋]があります。入江から運河が市内のあらゆる方向への井、水路網がミシシッピ湾[根岸湾]から神奈川まで縦横にめぐっています。



馬車道周辺には神奈川県立歴史博物館などがある。
神奈川県立歴史博物館は1904年に建てられたので、シドモアも見ただろう。


22589593_s.jpg


神奈川県立歴史博物館(Photo ACよりお借りしました。)


私はこの付近へは行ったことがあるのだが、ぼーっとしていてwこの素敵な建物の写真を撮り損ねた。


しかしシドモアは純日本的なものを好み、このような西洋風の建物はお気に召さなかったようである。


p27
風光明媚な湾岸風景を見た後、横浜の光景に旅行者はがっかりします。水辺のクラブハウス、ホテル、公邸の立つ海岸通りには画趣に富む東洋的風情は全くありません。日本風と見るには欧州的すぎ、欧州風と見るには日本的すぎるのです。


私は横浜で神奈川県庁 ・横浜市開港記念会館などのレトロな建物の撮影をしたが、
これらの建物は1923年(大正12年)の関東大震災の後に建てられたものである。
横浜赤レンガ倉庫の写真も撮影したが1号館は1913年(大正2年)2号館は1911年(明治44年)竣工である。
シドモアの生没年は1856年10月14日~1928年11月3日なので、関東大震災後に建てられた建物も見たかもしれないが、
「シドモア日本紀行」の前書きに、「1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録」この記録期間にはいずれも存在していなかったということになる。


関東大震災で焼失した、先代の3代目県庁舎


関東大震災で焼失した、先代の3代目県庁舎


❹ミシシッピ湾(根岸湾)



幕末、日本にやってきたペリー艦隊は測量をした土地に名前を付けた。


猿島・・・・・・・ペリー島・・・・・・・・ペリー提督から
夏島・・・・・・・ウェブスター島・・・・・国務長官ウェブスターから
本牧岬・・・・・・条約岬・・・・・・・・・横浜で条約交渉がおこなわれたため
旗山崎・・・・・・ルビコン岬・・・・・・・ルビコン川(古代ローマのシーザーが「さいは投げられた」と言って渡った)
ミシシッピ湾・・・根岸湾・・・・・・・・・艦船の名前
?湾・・・・・・・ポーハタン湾・・・・・・艦船の名前
?湾・・・・・・・サスケハナ湾・・・・・・艦船の名前


これらの地名のうち、ミシシッピ湾(根岸湾)は長く、主に外国人によって、その名前で呼ばれた。


❺アイスクリーム


p40
アイスクリーム屋と呼ばれる販売人もたくさんいて、グラスに削り氷をいれて砂糖をまぶし、小さな茶匙を添えます。

馬車道通りの氷水屋(店主・町田房蔵)が1869年(明治2年)に日本で初めてアイスクリンを製造販売したが、2分(現在の約8000円程度)と高価であったので外国人にしか売れなかったという。


シドモアがいっているのはこの氷水屋のアイスクリンとはまた別のものかもしれない。


❻金太郎頭の赤ちゃん


p42 
赤ちゃんはたいてい母親や、幼い姉の背中におぶって運ばれ、なすすべもなく頭をごろんとさせて眠り、目覚めるときは黒い数珠玉の目をぱっちり上げ泣き叫ぶことはありません。頭の天辺の剃上げ、派手でちっちゃな着物、穏かな賢い表情は、まるで飾り棚の古美術品です。


寿長生の郷 雛人形展


寿長生の郷 雛人形展 シドモアが見た赤ちゃんはこんな感じだったのかも?


❼中華街


p45
居留時の本通り裏手、病人臭い一画に中国人が固まって住んでいます。脂っこい壁、汚い路面は、水路対岸の優雅で人形のように愛らしい住宅街とは異なり大いに当惑します。背後の絶壁の上で、風通しのよい茶屋の桟敷の提灯が揺れています。朱の壁紙、袋のような衣服、弁髪、耳障りな声、嫌な臭いがチャイナ・タウンを支配しています。


弁髪


弁髪


明治期にはこんな髪型の中国の方が横浜の町を歩いていたのだ。


❽氷


p48
天然氷は函館から運ばれ、人口氷はどの港町でも作られています。


幕末のころ、ボストン氷と呼ばれる高価な天然氷を輸入し、外国人医師たちが治療用に用いていたという。
中川嘉兵衛は北海道・函館五稜郭の天然氷をボストン氷よりも安く販売した。
その後、製氷機械が登場した。
福井藩主松平春獄は外国製の小型製氷機を所有していたが、使い方がわからず放置していた。
明治3年(1870年)福沢諭吉が発疹チフスにかかり高熱を出したとき、慶應義塾塾生はこの小型製氷機を借り、氷をつくることに成功し、諭吉は病から回復したという。
これが日本における初めての機械製氷だった。


明治12年(1879年)、米国人・アルバート・ウォートルスが横浜にジャパン・アイス・カンパニーを設立し、一般に販売されるようになった。
横浜はアイスクリン発祥の地であるだけでなく、機械製氷発祥の地でもあったのだ。
その後、明治16年(1887年)、東京京橋新富町に建設された東京製氷会社が設立された。
明治22年(1889年)当時、12貫匁(45㎏当り)五稜郭天然氷で80銭、日光天然氷70銭、神奈川天然氷65銭、機械氷60銭であった。


❾横浜の夏の気温



p48
夏は暑いわりに、米国のように気まぐれな温度変化はなく、水銀柱は七、八、九月に華氏八〇、八五、九〇度[摂氏二六・七、二九・四、三二・二度]と上がりますが、間断なく吹く季節風のおかげで暑さをしのぐこおができ、夜は心地よい気温となります。


これは月別最高気温だろうか。月別最高気温の平均だろうか。
そのあたりがよくわからないので、現在と比較ができない。
ちなみに2021年横浜の最高気温の月平均は、7月30.1度、8月 31.2度、9月 26.0度、
2021年横浜の最高気温は7月33.7度、8月34.6度、9月29.9度だった。


❿大臣主催の社交パーティー


p53
世間から見れば、東京と横浜は一つの運命共同体です。二つの都市は一八マイル[二九キロ]の鉄道で結ばれ、社交パーティーの訪問や招待にはとても便利です。東京の大臣が舞踏会を催す際、特別夜行列車で横浜の客を送迎します。


これは鹿鳴館におけるパーティーのことをいっているのだろうか。


鹿鳴館、東京


鹿鳴館、東京


鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待する社交場として1、1883年(明治16年)に建設された。
「シドモア日本紀行」は「1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録」なので、時代があう。


外務卿・井上馨は、不平等条約改正交渉(外国人に対する治外法権など)を有利にすすめるため、欧化政策を進めて諸外国に日本を文明国であると知らしめようとしたのである。


1883年(明治16年)からり1887年(明治20年)までを鹿鳴館時代といい、国賓の接待、舞踏会、天長節の祝賀会行事などをおこなった。


ウィキペディアは、次のように記している。

しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった

西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ[5]、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8#%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8%E6%99%82%E4%BB%A3


しかしシドモアは次のように記している。


p171

東京の社交界はダンスを楽しみ、宮廷の誰もがダンスの名手です。上流社交界のリーダーたちは、カドリール・オヌール[四人一組で踊る表敬ダンス]をくまなく演舞でき、公式舞踏会はこれを皮切りにオープンとなります。このカドリールの交替変化は訓練ヘイの正確さで行い、ステップと動作は茶の湯に傾注する指先のように的確、かつ優美です。不慣れな旋回動作を試す軽率な外人は、すぐに愚劣な行為を後悔する羽目になります。日本人の優雅さ、舞台での沈着、正確、聖地さは抜群で、かの外人は己の失敗を恥じ、深い罪悪感にさいなまれるほどです。


 


カドリール・オヌールとはこの動画の1:35あたりからのダンスのことだろうか。


シドモアのお世辞なのか、そうでないのかはわからない。


それはさておき、井上の欧化政策は伝統を重んじる人々からは避難を浴びたようである。
鹿鳴館は1940年(昭和15年)取り壊された。


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