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シドモアが見た明治期の日本22 日光への旅

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀日本鉄道 日光鉄道

p182
今では日光まで鉄道がありますが[明治二三年開通]、宇都宮から最後の美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく、木々に覆われたまっすぐな街道が鉢石や日光の村々を抜け、長く感ずることも退屈もしません。


明治23年に開通した鉄道とは、かつて日本に存在していた日本鉄道株式会社の宇都宮ー日光をつなぐ日光線のことである。

1881年、岩倉具視ら華族が中心とり、私立鉄道会社「日本鉄道」が設立された。初代社長は吉井友実。
日本鉄道が設立されたのは、北海道開拓に東京ー青森間の鉄道が必用であったためである。
民間の会社として設立されたのは、西南戦争の出費などで政府の財政が窮乏していたためであるという。
しかし、国有地の無償貸与、建設国営など、実質上は「半官半民」であった。

1883年に上野 - 熊谷間が開業した。その後、どんどん路線が延ばされていき、1885年には大宮 - 宇都宮が開業している。
1890年6月1日には支線として宇都宮 - 今市、1890年8月1日には今市 - 日光が支線延伸開業し、宇都宮と日光がつながった。
1891年9月1日に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。

その後、山陽鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道などの新たな私鉄会社が日本各地で創設された。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により日本鉄道は国有化された。

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

上は上野駅を描いたものだが、このような蒸気機関車が上野ー宇都宮ー日光間を走っていたのだろう。


↑ こちらの記事には次のような内容が記されている。

明治19年6月 上野‐宇都宮間が開通。日本鉄道会社 日本鉄道二区線
明治23年5月 宇都宮‐日光間が開通。日本鉄道会社 日光鉄道・日光鉄道技線
明治39年11月1日に、日本鉄道株式会社所有から国有化された。「東北本線」「日光線」

上野:午前6時40分発(始発)―10時5分宇都宮着
宇都宮‐日光間の電車は午前10時20分に宇都宮発―11時50分日光着

明治23年の開通の頃の日光ー宇都宮間の運賃 下等二十五銭、中等五十銭、上等七十五銭

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり、
宇都宮―日光間が開通したのは明治23年なので、シドモアが日光を訪れたのは、明治23年から明治35年の間ということになる。

シドモアは「宇都宮から【最後の】美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく」と記している。
何が【最後】なのかというと、「宇都宮から日光への行程」が、「出発地点から日光までの旅の行程」の最後という意味だと思う。

それではシドモアは出発地から宇都宮まで、交通機関は何を利用したのか。
それは日本鉄道の蒸気機関車だろう。
宇都宮で乗り換えて日光まで行けるのだが、シドモアは蒸気機関車を利用せずに人力車を利用したということだと思う。

全行程 出発地--------------------------------------------------------------------------------------日光
    出発地---------------日本鉄道-------------------------宇都宮--------人力車--------日光 (赤色文字が最後の行程)

シドモアは続けて次のように記している。

p182
八月、夏真っ盛りの猛暑の日、私たちは伸縮自在の日本式トランク(行李)を荷造りし、日光連山を目指し都会を脱出しました。煙と誇りが汽車の窓に舞い注ぎ、屋根は灼熱でパチパチ音を立て、目の回る速さで通り過ぎる緑の木立や繁茂した牧草地は炎熱で揺らいでいます。

やはりシドモアは日光まで汽車でやってきたのだ。

p182
幸いにも、宇都宮で気の利いた茶屋を見つけ休むことにし、同情する姐さん方の世話を受けながら、冷たい鉱泉水の入った盥に手を浸し顔を洗いました。

汽車に乗ったことのない人はわからないかもしれないが、汽車がトンネルを走る際、窓をしめておかないと顔が煤で真っ黒になるのだ。
しかしエアコンのない時代の8月、窓をあけないと暑くてたまらなかったことだろう。
そんなこともあって、シドモアの顔は煤で黒く汚れてしまい、それで茶屋のお姐さんが水の入った盥をもってきてくれたのだろう。

⓶人力車

p183
人力車隊は、それぞれ二人組となり縦一列で、一〇マイル[一六キロ]の杉並木を競争しながら走ります。

ここで、シドモアが日本の旅の中で頻繁に利用している人力車について、調べてみることにしよう。


上記記事に次のような内容が記されている。
❶人力車が登場し、活躍したのは明治期。
❷明治2 年(1869)に東京の八百屋鈴木徳次郎・車職高山幸助・福岡藩士和泉要助らが人力車を作って営業を開始する。
❸三重県では明治10年、4,000台以上が走っていた。
❹乗客に法外なお金を要求したり、雨の日や夜中には車を出すのを断ったり、客を道の途中で降ろしたりする車夫がいた。❺三重県では明治15年に「人力車取締規則」が施行された。
・人力車を営業するときは必ず鑑札を受け組合に入ること
・混雑しているところや橋の上を走るときには掛け声を掛けながら徐行すること
・往来の妨げになる場所に車を止めないこと など
❻明治10年、メーター付きの人力車が登場。鉄輪であった車輪がゴムタイヤとなる。
❼明治14年県内で5,400台を超えた人力車は、それをピークに減少していく。
『県統計書』によれば、大正5年(1916)は2,500台、そして昭和15年(1940)に161台、昭和25年に26台。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色

③日光杉並木街道

p183
鉄道が宇都宮まで敷設される以前には、横浜発の旅行者は船旅を終えると、木陰の道七〇マイル[一一二キロ]を人力車ツアーしたものです。二〇〇年前、徳川の将軍家は一族の埋葬地として日光を選ぶ際、この並木道を作りました。そしてこの神々しい樹木は壮麗な古武士の葬式行列や、家康や家光の墓へ参拝する後継者の荘重な庚申に濃い影を落としたのです。

日光杉並木街道

日光杉並木街道

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木街道は、大沢 - 日光間16.52km、小倉 - 今市間13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で総延長35.41kmの世界最長の並木道である。

徳川家康、秀忠、家光に仕えた松平正綱(1576年ー1648年)が、家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に杉を植樹して東照宮に寄進したもの。

シドモアが見た日光杉並木街道は植樹されてから250年以上(シドモアは200年前と書いているが)、私が見たのは350年以上たったものである。

④別れの挨拶

p185
茶屋全員の「サヨナラ」の甘い歌声に送られ再び出発する頃には、東の空が明るくなり、月の出を予兆しました。


明治期の人やお店は、別れの挨拶を丁寧かつ長くする習慣があったのだろうか。

シドモアは東京の紅葉館(現在の東京タワー付近)で、歓待を受けた際の帰り際での出来事を次の様に書いていた。

p125
煙草盆の登場からすでに六時間が経過し、私たちは帰り支度のため立ち上がりました。メイド全員が玄関先まで付き添い、果てしないお辞儀と別れの言葉の後、無類の活人画となって敷物に座りました。彼女たちの可愛らしい「サヨナラ」は芝公園の暗い並木道を走り抜け、はるか離れた人力車の後ろまで耳に響きました。

⑤ワックス代わりの風呂の水?

p187
さらにギャラリーは光沢を帯びるまでつるつるに磨かれました。ニスも塗らず、油もつけず、ワックスも擦り込みませんが、毎朝、風呂の水に濡らして絞った布でこすります。というのは、その水は特殊な艶を出すに足る油脂分を含んでいるからです。三年間毎日、熱い布でこすると満足な効果が現れ、翌年以降は鮮やかな色合いと光沢が障子、古い茶屋や寺院にある普通の松阪廊下でも、バラの木や樹齢六〇〇年の樫で作ったような素敵な渡り廊下となります。

これはよくわからないが、油分を含んだ温泉でも湧き出ていたのだろうか?
北海道の豊富温泉など油分を含んだ温泉はある。

⑥今市の宿

p187
和紙の貼られた美しい格子枠でベランダを遮り、室内に特別柔らかな日光を入れるスクリーンは障子です。これらのスクリーンの取り扱いには念入りな作法を必要とし、躾の善い人や訓練された従業員は、開け閉めに膝を折り、親指と他の指をきちんと正しくつかいます。ところで、この滑りのよいスクリーンを開閉する作法の中に、客への未病な嘲りや致命的侮辱を含みつたえることもあるので要注意です。

p188
夜間や天候の悪い場合はベランダの外側に雨戸が閉められますが、これは堅固な木製シャッターで、溝の中を前後にごろごろとどろかせバタンとしめます。このシャッターには窓や空気孔がなく、「しかも従業員あ換気用に隙間を開ける気もありません。「ちゃんと閉めないと泥棒だけでなく河童がはいるかもしれません!」と大声で応え、想像上の動物なのに、その河童はいつも人間をかどわかす怪物だと信じ込んでいるのです。

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享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

p189
日本式ベッドはじかに床に敷かれ、木箱の首当てが枕代わりになり、布団が書けも尾代わりとなります。

   

シドモアがいっているのは箱枕だろう。昔の人は髷をゆっていたが、この髷がくずれないように、高さのある枕を使用していた。
枕は布団の上ではなく、外におき、首のあたりを箱枕に乗せていた。

p188
旅行者は自前の指揮布団や毛布、羽枕や空気枕、さらに野宮家の製粉が必用で、特に畳や布団には蚤が充満し、このため惜しみない製粉の添加やまんべんないハッカ油の擦り込みが必用で、これなしに眠ることはできません。

蚤が多いことは、1878年(明治11年)に日本の東北地方から北海道などを旅したイザベラ・バードも嘆いていた。


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シドモアが見た明治期の日本21 東京近郊⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

⑧池上本門寺

p176
ここ池上の地で、仏教宗派の開祖・日蓮が亡くなりました。六〇〇年間、この壮麗な寺院[本門寺]は日蓮上人に対する賛歌で谺し、僧侶は今でも厳格に教義を説きます。日蓮宗は日本最大の組織を持ち、最大の財力を有し、最も強い影響を及ぼしている積極的宗派です。彼らは仏教の新教徒派であり、その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。

池上本門寺については、こちらの記事にも書いた。シドモアが見た明治期の日本15 東京⑨


弘安5年(1282年)、日蓮は病を患い、湯治のために身延山から、常陸(茨城県)へ向かった。
その途中、池上宗仲の館にたちより、池上氏館の背後の山上に建立されたお堂を日蓮が開堂供養したのが、池上本門寺の起源とされる。
日蓮はそのまま同地でなくなり、池上宗仲は法華経の字数(69,384)と同じ六万九千三八四坪を寺領として寄進し
日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
第二次世界大戦の空襲を受けたが、五重塔、総門、経蔵、宝塔は焼け残った。
従って、これらの建物はシドモアが見たのと同じものある。

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シドモアは「日蓮宗は日本最大の組織を持ち」と書いている。
当事と現在では異なるだろうが、現在のデータをみてみると

1 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 784万人
2 真宗大谷派(東本願寺) 735万人
3 浄土宗 602万人 
4 曹洞宗(禅宗) 367万人
5 天台宗 153万人
6 真言宗豊山派 ※高野山真言宗についてはデータなし 142万人
7 法相宗 56万人

https://true-buddhism.com/shuha/ranking/ 

となっていて、日蓮が開いた日蓮宗は入っていない。

日蓮宗の修行は厳しく、過去には死者もでている。

https://www.bengo4.com/c_5/n_450/
上記記事には次のような内容が記されている。

❶千葉県市川市の中山法華経寺で毎年11月1日から2月10日にかけて「100日間荒行」が行われる。
修行僧は1日7回水を浴び、その合間に読経を続ける。
食事は朝夕2回、粥と汁物のみ。睡眠時間は約3時間。
日蓮宗の修行で、30代の僧侶が死亡する事故が起きた。
❸修行僧の健康管理は外部から医師を招いて行なっているが、日蓮宗の内部からも「行き過ぎた指導があったのではないか」という意見がある。
❹主催者と参加者との間に、契約ないし一定の法律関係がある場合、主催者は参加者の生命・身体に危険が生じないように、具体的な状況に応じて配慮すべき義務がある。(安全配慮義務)
❺参加者が無理に荒行を続けた場合は、参加者の過失が認められることもある
❻契約関係等がなかったとしても、注意義務違反があれば、不法行為責任を問われる可能性がある。



日蓮は、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などを遊学し、妙法蓮華経(法華経)が最も優れていると考えるにいたった。
そして、「念仏と禅宗が妙法蓮華経(法華経)を誹謗している、南無妙法蓮華経の題目のみを唱えるべき」と説いた。

日蓮は鎌倉で弘教活動をはじめたが、1257年、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊する被害がでた。
日蓮は「立正安国論」に「地震の原因は浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」という内容を書いて鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出した。
しかし、鎌倉幕府はこれを無視した。また、浄土宗信者より襲撃される事件もおきた。(松葉ヶ谷の法難)。

1261年には、伊豆の伊東に流罪となり、1263年に許されて日蓮は故郷の安房国故郷に戻る。
しかし浄土宗信者の東条景信によって襲撃され、日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折する。

1268年、蒙古と高麗の軍事的侵攻をちらつかせる国書が鎌倉に贈られた。
日蓮はこれを自分の「立正安国論」の予言どおりであるとし、幕府に対し、鎌倉仏教界の主要僧侶との公場対決を要求した(十一通御書)。
しかし幕府は日蓮の主張を無視した。

1271年、極楽寺良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請した。
これに対して日蓮は「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と申し出た。
しかし良観は応じなかった。

日蓮は幕府によって逮捕され、斬首のため、龍の口の刑場へと連れてこられたが
刑が執行されようとした直前、江の島の方角から強烈な球電が現れたため、刑の執行は中止された。

斬首を免れた日蓮は、佐渡国へ流罪となる。
また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
日蓮の弟子の多くが「法華経の行者には諸天の加護があるはずなのに加護がないばかりか、迫害される」として離れていった。
日蓮は諸天善神の加護がない理由を次のように説明した。
①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1272年、鎌倉と京都で幕府内部の戦が生じた(二月騒動)。
幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟、北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺したのだ。
これは日蓮の予言が実現したと考えられた。

1274年北条時宗は日蓮を赦免した。
平頼綱は日蓮に蒙古襲来の時期について日蓮に尋ね、日蓮は年内に襲来するだろうと答えた。
日蓮は甲斐国身延(現在の山梨県身延町)で布教活動を行うが、体調を崩しがちになる。

やがて3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬、壱岐を経て博多湾に上陸した。
戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は大きな被害をうける。(文永の役)

1275年、「撰時抄」をあらわし、次のような内容を述べた。
❶蒙古襲来は日本国が法華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果なので、法華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜で処刑せよ。
❷真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので日本の滅亡はやむなし。
❸第3代天台座主の慈覚大師円仁(794年~864年)を五大院安然(841年~915年?)・恵心僧都源信(942年~1017年)と並べて「師子の身の中の三虫」とした。
❹自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」である。

弟子の日興らの活発な布教活動の結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院が改宗して日蓮門下となり、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じる。

1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えたが、彼らは法華経の信仰を捨てず、3名は斬首、ほかは禁獄処分となった。

1279年 蒙古は再び日本を責めようとしたが、大型台風の直撃を受けて退却した。(弘安の役)

公安の役は真言僧の祈祷によるものと考えられた。

1282年、日蓮は温泉での療養を行うため、弟子を連れて出発し、武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上氏の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅を続けることができず入滅した。

シドモアは「その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。」といっているが、上の日蓮の行動からみて、シドモアが言っていることはまず正しいと言えるだろう。

日蓮はとにかく、「他の宗派はダメ、法華経以外信仰するべきではない」という頑固な考えをもっていたようだ。

日蓮は「四箇格言(しかかくげん)」を述べて、他宗派を批判している。
四箇格言とは、「真言亡国・禅宗天魔・念仏無間・律国賊」というもので、
要するに、真言宗は亡国をまねく。禅宗は仏法を害する悪魔、浄土宗は絶え間ない苦しみが続く、律宗は国賊で、
これらの宗派はだめというわけである。

p176
それにしても、宗祖の受難はたいへん過酷なものでした。たとえ流刑され、投獄され、拷問あれ、死刑判決が下っても信者を増やし、真の大教団を見届けるまで生き続け、池上大本山の最高の聖人として崇められるに至りました。人気の高い芝居「日蓮」では、いかに敬虔な宗祖や弟子たちが苦難に堪えたか、ぞっとするような法難を目にします。

これも、シドモアがいっていることはほぼ正しいといえる。

日蓮の受難をまとめておこう。

浄土宗信者より襲撃される。(松葉ヶ谷の法難)。
1261年、伊豆の伊東に流罪(1263年に赦免される)
1263年、東条景信によって襲撃され、頭に傷を受け、左手を骨折する。
1271年、日蓮逮捕され、斬首されそうになったところを球電の出現で免れる。
    佐渡国へ流罪となる。(1274年に赦免される)
    また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は20人の農民信徒を捕えた。

しかし、現代人の私は日蓮という人物を評価できない。

「鎌倉の大地震や、元寇を浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」
「雨が降らなけば良観が信仰している律宗は間違いなので、法華経を信仰せよ」
と日蓮はいっているが、地震や他国からの軍事的信仰。降雨は浄土宗の信仰とは無関係である。
(当事の宗教はどこも日蓮がいうような関連性のないことがらを、宗教と結びつけていたのかもしれないが)

日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた際の言い訳もひどいw
特に⓶

①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1275年、「撰時抄」で、禅僧・念仏僧を処刑せよ。といっているのも過激すぎる。
当事の僧侶は平気で殺生をしたのかもしれないが。

また、自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」というなど、うぬぼれているw

日蓮入滅後、弟子6人のうち5人は日蓮の排他的な考えを緩和した。
弟子のひとり、日興は日蓮宗富士門流(現在は日蓮正宗)という名称で日蓮の排他的な考えを引き継ぐ宗派をたちあげた。
ちなみに創価学会はこの日蓮正宗の関連団体であったが、1912年、日蓮正宗は創価学会を破門にしている。

⑨池上本門寺 お会式

p176
毎年一〇月の一二、一三日には、特別法要[御会式]が主訴日蓮を記念して営まれます。そこには数えきれないほどの人が参加し、祭の初日は鉄道が押し合いへし合いの騒ぎとなり、夜になると篝火や提灯[万灯]の林が大森駅を明るく照らし、昼は高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生をぱっと咲かせ、祭の開催を近隣に告げます。

p178
荘重な屋根を持つ朱塗りの楼門[仁王門(戦災で焼失)、昭和五二年再建]が大きくそびえ、広大な前庭へ向かう民衆の流れを呑み込み、前庭を三方に囲む大小の伽藍からは数珠を擦る音、賽銭を投げる音とともに、僧侶の詠唱、団扇太鼓の
連打、敬虔な祈祷が聞こえます。


「高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生」とあるが「輪生」について、ウィキペディアはつぎの様に説明している。

輪生(りんせい)とは、生物の体において、ある器官が一定の箇所から輪を描くように並んで生じることである。植物の葉や花に関して使われることが多い。

シドモアは3:16あたりにでてくる造花のことをいっているのだろうか。

p180
貫首は巨大な赤傘に庇護され、行列のほぼ真ん中に入って歩みます。彼はクロージャー(司教杖)ににた聖地な朱塗の杖を手にし、下駄も朱塗りです。の地上の儀式はローマ・カトリック様式を思わせ、赤い法衣と笠に覆われた仏教カージナル[枢機卿]は西洋世界の聖職者そっくりです。

これは映像をみつけることができなかった。

p177
フライ、シチュー、炒め物、焼き肉が香ばしい匂いを大気に薫らせ、さらにボール状やサイコロ状の様々な食べ物(おでん)、バターの塊、ケーキ、おいしそうな塊や手巻き類(稲荷寿司にのり巻き)が、田圃の道ぞいに並べられています。鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮は、チューインガムに似て飛ぶような売れゆきです。

「鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮」とは、酢昆布だろうか。
酢昆布といえば、中野の都昆布を思い浮かべるが、中野物産の創業は昭和6年( 1931年)なので、また別のものかもしれない。

バターの塊はわからない。

ケーキとあるのはカルメラだろうか。

カルメ焼きともいい、水を加えて溶かしたザラメに重曹をくわえて膨らませる。
炭酸ナトリウムを熱すると二酸化炭素が発生し、カルメラを膨らませる。
それを水で濡らした布巾に乗せて急冷すると固まる。
その歴史は戦国時代、ポルトガルから伝えられたといわれる。

 

p178
境内にはさまざまな色の砂袋を持った”砂男”がいて、細工する間中、休みなくしゃべりながらどたばた走り回り、何もない綺麗な地面に美しい絵を描きます。まず最初、たくさんのまっしろな砂を手でふるいながら地面に振りかけ、続いて黒や赤の砂を握った手で篩にかけ細く流しながら、極めて迅速、かつ簡潔な技巧で武士、娘、龍神、花、風景を描きます。


↑ こういう感じのものだろうか。実際にパフォーマンスと作品をみてみたいものだ。

p178
軽業師が、空中に輪、玉、短剣を放り投げて手玉にとり、二〇フィート[六メートル]の竿の先で皿を回し、同時に仲間が大きな竹竿を肩で釣り合いをとり、これに小柄な少年がの追って先端の横木で妙技を披露します。


『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 放下師は路上で皿回しをしている。

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 

p178
魔術師は火のついたパイプを飲みこみ水を飲み、口笛をんラしてパイプを出し、一吹き二吹きしてから、またパイプをん見込むと、いかにも満足気に幻想的煙の輪や竜巻を口から次々放出します。


⓾髪の毛の奉納

p178
ある廟の格子に結ばれた脂っこい髪の房は、内陣の本尊に救いを求める信者の奉納品です。

理由についてはわからないが、髪の毛を奉納する習慣は各地にあった。
京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵は左手に毛髪をもっており、たくさんの神の毛が奉納されている。
東本願寺には髪の毛で作った毛綱がある。
京都の菊野大明神、大分県の椿堂にも髪の毛が奉納されているそうだ。

⑪オニーダ号追悼碑

p180
池上はアメリカ合衆国民にとって特別感心のある場所です。とうのは、一八七〇年[明治三]一月二三日[碑文では二四日]、江戸[東京]湾口の近くで米国軍艦オニーダ(オネイダ)号がP&O輝線ボンペイ豪に衝突され、無念にも将兵とともに沈没した事故と深い関わりがあるからです。当時なぜか、わが米国政府は難破船の引き上げや創作する努力を怠りました。しかも、なんたることでしょう!一五〇〇ドルでこの沈没船を日本のサルベージ会社へ売却したのです。
日本の作業員は軍艦の残骸の中に、たくさんの水死した乗組員の遺体を発見しました。仕事が完全に終了すると、なんと彼らは自主カンパで池上[本門寺]境内に追悼記念日を建てたのです!
さらに一八八九年[明治二二]五月、感銘深い仏教儀式・施餓鬼(飢えた霊魂へ御馳走する供養)が執り行われました。この偉大なる寺院は追悼式の準備を整え、僧侶七五名が豪華な最高級の法衣をまとい一丸となって協力しました。[当事の貫首は日亀上人]
追善供養には米国軍艦から提督と士官一〇〇名、さらにオニーダ号から脱出した唯一の生存者も参加しました。



↑こちらの記事にオネイダ号の事故について記されている。だいたい次のようなないようだ。

❶1870年1月24日、横須賀・観音崎沖で米艦船「オネイダ号」が英国船と衝突し、沈没した。
❷米軍人ら115人が犠牲らが犠牲になった。日本人漁師らに救助された乗船者もいたらしい。
❸身元不明者らは池上本門寺に埋葬され、本門寺には慰霊碑がある。

https://ja.foursquare.com/v/%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%80%E5%8F%B7%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91/514e94dee4b06ae75c968135

↑ こちらの記事に慰霊碑の写真がある。


上記動画2:12あたりにオネイダ号の写真がある。
上の動画ではオネイダ号は沈んだままと言っているが、
シドモアは船は日本のサルベージ会社(海洋上で沈没した船舶の引き上げ回収を行う会社)に売却され、作業員が軍艦の中から遺体を発見した、と言っている。
船の引き上げは行わず、遺体のみ引き上げたのだろうか。

上の動画でも言っているが、
2010年、フジテレビの番組で、明治初期に横須賀・観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦・オネイダ号がみつかり、遺物を一部引揚げたらしい?

https://www.jstage.jst.go.jp/article/houseiken/19/0/19_KJ00008637187/_article/-char/ja/
こちらの記事を日本語に自動翻訳するとシドモアが述べているとおり「米国は売却によりオネイアダの財産権を放棄した。」と記されている。





シドモアが見た明治期の日本20 東京近郊➀

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀飛鳥山

p174
東京の近郊には、庶民の親しむ行楽地や華族の美しい別荘がいっぱいです。その北東、王子には政府の化学工場や製紙工場[王子製紙]があります。

歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」
歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」

王子には飛鳥山があり、ここに渋沢栄一は邸宅をたてて住んだ。
飛鳥山の近くには渋谷栄一が創建にかかわった王子製紙の工場があった。

旧渋沢庭園の晩香廬

旧渋沢庭園の晩香廬

晩香廬(ばんこうろ)は清水組が渋沢栄一の喜寿の祝いに贈った木造洋風茶室。

旧渋沢庭園 青淵文庫

旧渋沢庭園 青淵文庫

青淵文庫(せいえんぶんこ)は、竜門社会員が、渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵の祝いに贈った鉄筋コンクリート造2階建ての書庫。
竜門社は、渋沢栄一の理念に賛同する経済人らを会員とする組織。


上記動画は江戸時代ぐらいの王子の風景がよくわかる良動画と思う。
7:10あたりで明治期の王子製紙の映像もでてくる。

1873年(明治6年)設立された「抄紙会社」が初代王子製紙の前身で、元官僚の渋沢栄一が中心となって設立した。
当事、洋紙の原料としていた襤褸(ボロ、木綿の古布)が入手しやすい大都市近郊ということで王子の地が選ばれた。
千川上水から分流させた王子分水を工業用水に用い、1875年(明治8年)12月に工場竣工。
当事、輸入に頼っていた洋紙の国産化がすすむ。
1876年(明治9年)王子製紙株式会社に改称した。

大平洋戦争後、1949年(昭和24年)GHQ によって財閥解体され、後継会社として苫小牧製紙株式会社・本州製紙株式会社・十條製紙株式会社の3社が設立された。

1952年(昭和27年)6月、「財閥商号使用禁止等の政令」の廃止を受け、苫小牧製紙株式会社は王子製紙工業株式会社に改名。
1960年(昭和35年)王子製紙株式会社(2代目)に社名変更。
1968年(昭和43年)、旧王子系の北日本製紙と提携。1970年(昭和45年)に合併。
1971年(昭和46年)、中越パルプ工業と提携。
1974年(昭和49年)、旧王子系の日本パルプ工業と共同で白板紙の事業を立ち上げ。1979年(昭和54年)に合併。
1989年(平成元年)、東洋パルプと合併。
1993年(平成5年)、旧王子製紙から独立した神崎製紙と合併。新王子製紙株式会社に社名変更。
1996年(平成8年)、本州製紙と合併。社名を王子製紙株式会社(3代目)にもどした。

渋沢栄一、ニューヨーク市(1915年)

渋沢栄一、ニューヨーク市(1915年)

⓶大隈庭園

p174
東京の北、早稲田には由緒ある寺社、広大で暗い竹藪、さらに有名な大隈重信伯爵夫人[綾子]の邸宅があります。山水庭園に関する伯爵夫人の才能は抜群で、おかげでそこにあるフランス公使館は景観天国となっています。この公使館は早稲田の中央に位置し、大隈伯爵がフランス政府に売却する以前は伯爵の町屋敷があったところです。


これは、東京都新宿区戸塚町一丁目にある大隈庭園の事だと思う。
行ったことがないが、早稲田大学早稲田キャンパスの一角にあるらしい。
庭園の面積は約3,000平方メートルもあるという。

1874年(明治7年)に大隈重信がこの土地を入手して別邸とし、1882年(明治15年)、大隈は隣接地を東京専門学校(現在の早稲田大学)建設用地として購入した。
1884年(明治17年)に大隈はこの邸宅を本邸としたが、1922年(大正11年)に大隈が没すると、庭園は早稲田大学に寄付された。



シドモアの文章には「山水庭園に関する伯爵夫人の才能は抜群で、おかげでそこにあるフランス公使館は景観天国となっています。この公使館は早稲田の中央に位置し、大隈伯爵がフランス政府に売却する以前は伯爵の町屋敷があったところです。」とある。

現在の大隈庭園は早稲田大学に隣接してあるが、どうやらこの庭園内に大隈の屋敷があり、それが売却されてフランス公使館となっていたらしい?

しかし、調べても大隈庭園内にあった館がフランス公使館であったという記事が見つからない。
そのかわり、次のような記事があった。

『東京府名勝図絵』(1912年)より、飯田町の「仏国大使館」。『東京府名勝図絵』の出版年とキャプション、フランス公使館の所在地および島田謙吉『大隈侯一言一行』(1922年)の「後に(中略)フランス公使館となつた」という記述を勘案するに、この写真の建物が、雉子橋邸ではないかと推定される。

千代田区役所が入居している九段第三合同庁舎の前、竹の植栽に囲まれたなかに、大隈講堂の時計台を模した碑が建っており、「大隈重信侯 雉子橋邸跡」と刻まれている。ここに、1876年(明治9)から1884年のあいだ、大隈重信が住んでいたのである。


❶1912年『東京府名勝図絵』(明治45年/大正元年)に飯田町の「仏国大使館」の写真が掲載されているという。
 飯田町は東京都千代田区であって、大隈庭園のある東京都新宿区戸塚町ではない。

❷島田謙吉『大隈侯一言一行』(1922年)に「後に(中略)フランス公使館となつた」と記述されている。
この文章の主語がはっきりしない。主語は雉子橋邸だろうか?
つまり、「雉子橋邸は後にフランス公使館となった」と書いてあるということだろうか?

❸『東京府名勝図絵』の出版年・・・1912年(明治45年/大正元年)
                 ※大隈重信が大隈庭園の土地を購入したのは1874年(明治7年)
 『東京府名勝図絵』のキャプション(タイトル)・・・仏国大使館
 フランス公使館の所在地・・・東京都千代田区飯田町
 島田謙吉 『大隈侯一言一行』・・・1922年
                  雉子橋邸は後にフランス公使館となった。
                  ※雉子橋は、東京都千代田区日本橋川に架かる橋。
❹1876年(明治9)から1884年のあいだ、大隈重信は雉子橋邸に住んでいた。
 ※大隈重信が大隈庭園の土地を購入したのは1874年(明治7年)

シドモアはフランス公使館は早稲田の大隈重信の屋敷があった場所にあり、大隈重信がフランス政府に売却したといっているが、勘違いなのか?
それとも雉子橋邸のほか、大隈庭園にもフランス公使館があったのか?
島田謙吉『大隈侯一言一行』を確認してみるのがよさそうだが、市の図書館にはない。

明治15年(1882年)大隈重信は東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。
明治20年(1887年)第1次伊藤博文内閣の外務大臣に就任した。
このころ、政府は幕末に欧米列強との間で結ばれた不平等条約の改正を目的とし
日本に在留する外国人に対する領事裁判権(治外法権)を撤廃するのと引き換えに、日本の法官(現代で言う司法官=裁判官・判事+検察官・検事)に外国人を任用する、という交渉を行っていた。
しかし大日本帝国憲法に違反するという批判があり、その交渉を推進していた大隈重信は明治22年(1889年)、反対勢力に爆弾を投げつけられて負傷し、右足を切断。外務大臣を辞職した。

右脚切断の重傷を負った大隈

右脚切断の重傷を負った大隈

 1898年、第8代内閣総理大臣となる。
板垣の自由党と合同して「憲政党」を結成し、日本初の政党内閣だった。
しかし党内の対立などにより4カ月で総辞職した。
1914年、第17代内閣総理大臣となる。

大隈重信伯爵夫人の綾子はしっかり者で常に大隈に付き従い、重信は綾子のことを「うちの番頭」と呼んでいたという。

大隈綾子

大隈綾子

③比翼塚

p175
東京の西、目黒には、東洋版”アベラールとエロイーズの愛[フランスの哲学者と修道女との大恋愛]”にふさわしい恋人同士”白井権八と遊女・小紫”を偲ぶ感傷的巡礼場所があり[目黒不動山門付近]、二人の墓[比翼塚]周辺の木立には歌や祈願の紙片がひらひらしています。

エロイーズ(1090年または1100年 – 1164年)は実在した人物で、フランス人修道女で学者であった。
紫式部の生没年が970年または978年ー1019年なので、紫式部よりちょっと後の時代の人だ。

1115年、神学者のアベラールはパリの司教座聖堂参事会員となったとき、
自分と同じパリの司教座聖堂参事会員のフュルベールの家に移住させてもらうことになった。
アベラールは住ませてもらうかわりに、フュルベールの姪・エロイーズの家庭教師をすると申し出た。
しかし、単なる教師と生徒という間柄を超えて、ふたりは男女の関係におよぶ。
アベラールは、「エロイーズはその研究によってフランスで最も有名な女性であったから誘惑した」といっている。
やがて、エロイーズは妊娠し、アベラールの妹の家で男児を出産する。
アベラールはエロイーズと結婚するが、結婚したことは秘密にしていた。
(本をよんでいないのでよくわからないが、年の差があり過ぎる、未婚で妊娠させたなど、世間体が悪かったらしい?
エロイーズのほうが世間体を憚ってアベラールとの結婚をこばんだようである。
しかしフュルベールは、アベラールを憎み、2人が結婚したことを公にする。
アルベールはエロイーズの身を案じて、アルジャントゥイユの女子修道院にいれた。
フュルベールとフェルベールの友人たちは、アベラールがエロイーズを修道女にさせて縁をきったと思いこみ
ある夜フュルベールの友人たちはアベラールの部屋に押し入り、彼の睾丸を切除してしまう。
アベラールはこれを恥じて、サン=ドニ大聖堂の修道士となった。
エロイーズもアベラールの勧めでアルジャントゥイユの女子修道院で尼僧になった。

600年後、ナポレオン一世の最初の妻、ジョセフィーヌ・ボナパルトが、エロイーズとアベラールの亡骸をともにペール・ラシェーズ墓地に葬った。
その場所には多くの人々が訪れ、墓所の地下に手紙を残していくという。

アベラールとエロイーズ

フュルベールに驚かされるアベラールとエロイーズ", ロマン派画家ジャン・ヴィニョーによる(1819年)

白井権八という名前は講談・浄瑠璃・歌舞伎の中での名前で、本当の名前は平井権八という。
江戸時代前期に実在した武士である。

平井権八は因幡国鳥取藩士だったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚・本庄助太夫(須藤助太夫)を斬殺して、江戸へ逃亡した。
そして新吉原・三浦屋の遊女・小紫と恋仲となるが、困窮から130人もの人を辻切りして殺し、金品を奪ったという。
権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、虚無僧となり、郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたため、自首した。
1679年(延宝7年)数え年25歳のとき、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した。
これを知った小紫は東昌寺の墓前で自害した。

ふたりを偲んで東昌寺に「比翼塚」がつくられたが、廃寺となったため、比翼塚は目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)門前に移された。
その塚の周囲の木に願い事を書いた紙などが括りつけられているのを見て、シドモアはエロイーズとアベラールの墓の地下に参拝者が残していく手紙を思い出したのだろう。

一雄斎國輝画「白井権八 後二小むらさき」小紫を描いた錦絵

一雄斎國輝画「白井権八 後二小むらさき」小紫を描いた錦絵



④目黒不動尊

P175
不動境内には滝[独鈷の滝]があり、夏冬その真下で罪を清め祈祷する巡礼が断って冷水を浴びています。似たような懺悔の姿は、横浜ミシシッピ[根岸]湾の断崖壁奥にある小さな寺にも見受けられます。



目黒不動尊 独鈷の滝

目黒不動尊 独鈷の滝

シドモアが書いているのは修験道の滝行のことだろう。
広重の浮世絵にも目黒不動尊の滝行の様子が描かれているが、現在は目黒不動尊で滝行は行われていないようである。

下は奈良県洞川温泉・龍泉寺の滝行である。

龍泉寺

横浜の根岸湾にある滝行が行われていた寺は、白滝不動尊だろうか。

 

⑤西郷山公園

p175
目黒は毎年ツツジ祭りと紅葉祭りを催しますが、地元には華族・西郷従道元帥[海軍大臣、上目黒(現・西郷山公園)に在住]もいて、いつも季節の花に敬意を表し、邸内で宴を催します。

華族・西郷従道元帥[海軍大臣、上目黒(現・西郷山公園)に在住]
と註が入っているが、西郷従道の別邸であったようだ。
註にあるように、現在は西郷山公園となっている。

4884578_s.jpg

西郷山公園

ここにあった西郷従道邸は愛知県犬山市の明治村に移築されている。


西郷従道(1843年 - 1902年)は西郷隆盛の弟で、政治家、陸軍・海軍軍人。
1884年(明治17年)の華族令制定の際、維新時の偉功によって伯爵を授けられた。

⑥泉岳寺

p175
品川に近い泉岳寺は、”四十七名の浪人”の菩提寺で武士道の聖地です。この小さな寺には、間断なく敬虔な巡礼が訪れ祈祷し、線香をたき、さらに彫像や遺品を拝観します。

泉岳寺

泉岳寺

慶長17年(1612年)に徳川家康が桜田門近くに創建した寺で、寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したのち
長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名が高輪の地に再建したという。

元禄14年(1701年)切腹した浅野長矩が、元禄16年(1703年)には赤穂義士がここに葬られた。

1891年(明治24年)、川上音二郎は、赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て泉岳寺に寄付をしている。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは荒れた赤穂浪士の墓を見たのではないかと思う。


⑦大森貝塚

p175
横浜と東京の中間、大森付近で、モース教授[米国人生物学者、帝大教授]は融資前の人類の貝塚を発見しました。


1877年(明治10年)アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースは横浜横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎたあたりで、崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、発掘調査を行った。
その結果、貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などが出土した。
縄文後期の遺跡である。

モースがは論文に発掘場所の詳細を書いていなかったため、品川区説と大田区説があった。
1984年(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金50円を支払った文書が発見され、品川区説が正しいことがわかった。

↓ これは大田区の大森貝塚碑

大森貝塚

↓ こちらは品川区の大森貝塚碑

品川区 大森貝塚

大田区山王一丁目の碑は1929年(昭和4年)、品川区大井六丁目・大森貝塚遺跡庭園内の碑は1930年(昭和5年)に建てられたもので、シドモアの時代にはどちらもなかった。





シドモアが見た明治期の日本19 東京⑬

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

50.皇居と離宮

p163
また一八七三年[明治六]の火事で焼け落ちるまで、旧将軍の居城・本丸は皇居として使用され、内部は京都二条城よりもはるかに壮麗だったと言われています。ともあれ、被災して引っ越しを余儀なくされ、手狭な赤坂台の紀州徳川家の屋敷[赤坂離宮]が一時的に天皇家の避難所となりました。

赤坂離宮

赤坂離宮

シドモアは手狭と書いているが、豪邸である。
紀州徳川家の屋敷だったというが、こんなに立派だったのだ。

p163
一八八八年[明治二一]末、天皇は新宮殿に入居しました。それは六年がかりで建てられ、環状の濠に守られた将軍の城跡にたっています。

この新宮殿とは明治宮殿のことである。
シドモア没後、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で、桜田濠沿い(現在憲政記念館がある場所)にあった参謀本部が爆撃されて炎上。
その火が類焼して明治宮殿は全焼した。
昭和天皇は吹上御苑内のコンクリート造りの建物・御文庫に避難していて無事だったが、警視庁の特別消防隊19名が殉職した。

p163
私は新宮殿完成前に見学する機会に恵まれ、たっぷり一時間以上もかけ、案内人や従業員さえ迷うような宮殿内を観覧しました。欧州様式の建築、装飾、備え付け家具、さらに西洋的理念が日本様式と無理に結合しているため、九電は不調和この上なく、藁葺き屋根と電灯、障子とスチーム暖房装置、モダンな舞踏ホールと能楽堂といったアンバランスな組み合わせが随所にあります。これを見て、眉をしかめても褒める人は誰もいません!

明治宮殿中庭

明治宮殿中庭

”玉座の間[正殿]”は天井羽目板にある紋章以外日本的なものは何もありません。大きな金箔肘掛椅子が、赤いフラシ点[絹ビロード]の天蓋とカーテンのかかった赤絨毯の間の上座に置かれ、脇の漆塗卓上には聖なる剣と御璽が置かれています。

正殿

正殿

和田英作画『憲法発布式』(聖徳記念絵画館所蔵)

和田英作画『憲法発布式』(聖徳記念絵画館所蔵)

↑ この絵は、上の写真と内装がよく似ており、正殿と思われる。

p165
天皇の寝所は、次頁の挿絵図解(E)の箇所にあり、光も換気もない先祖伝来の真っ暗な個室で、夜になると周囲は付添人と護衛艦によって守られます。

p166
陛下は国民と同じ普通の小判型風呂桶を使われ、水は原始的なバケツ・ロープ方式で中庭の井戸からくみ上げます。
バケツ・ロープ方式とはポンプ式ではなく、下の写真のような釣瓶の井戸だということだろう。


3314446_s.jpg

井戸(明治宮殿にあるものではない)

私が子供のころ、祖父母の家にも釣瓶の井戸があった。

p166
宮殿の奥まった場所に礼拝堂(神道の霊廟)がありますが、役人はこの件に関し全く口をつぐんでいます。そこには天皇家先祖の埋葬板碑が祀られ、簡素な位牌や松の板切れには統治者の死後の名前[贈名]が書かれています。
新たに決定した内閣の担当大臣や、新しい任地へ出発する外交官が天皇に謁見する際、官報に「皇居礼拝堂の御霊参拝が許された」と、よく発表されます。おそらく、このような礼拝式は外国にある”忠誠の誓い”に相当するセレモニーと思われます。

p168
浜離宮は、よく知られた皇室の海辺の別荘で、徳川時代に将軍のために造られましたが、今は日本の大臣が舞踏会を催したり、来朝した天皇の賓客、たとえばグラント将軍前米国大統領]が逗留したようなとき、迎賓館としてつかわれます[明治一二年夏、同所にて天皇・グラント将軍歓談]。この美しい庭園では、毎春皇室園遊会が催され、新宮殿に隣り合う吹上御苑とともに山水庭園の最高の手本となっています。

浜離宮がある場所は寛永年間(1624年-1644年)ごろは湿原で、将軍家の鷹場(鷹狩の鷹を訓練する場所)であった。
1654年(承応3年)、甲府藩主・徳川綱重が海を埋め立てて別邸を建てた。
綱重の子・徳川綱豊が6代将軍(家宣)になると、将軍家の別邸となり浜御殿と呼ばれるようになる。
1866年(慶応2年)、敷地内に幕府海軍の海軍所施設として石造建物が建設された。
1869年(明治2年)、イギリスのエジンバラ公アルフレートが日本にやってきたとき、改修して外国人接待所「延遼館」となった。

延遼館

延遼館

1870年(明治3年)、浜御殿は宮内省の管轄となり、浜離宮と呼ばれるようになった。

潮入の池と中島の御茶屋(1884年)

潮入の池と中島の御茶屋(1884年)

1879年(明治12年)ドイツ皇太子フリードリヒ、前アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントが延遼館に滞在したが
鹿鳴館の完成したため、1889年(明治22年)に取り壊された。
1945年(昭和20年)、GHQの要求により東京都の所有となり、1946年(昭和21年)4月1日に都立庭園となった。

浜離宮

最近の浜離宮

p168
この東京の宮廷社会では、当然のごとく徒党や派閥があり、さらに内紛や争い、それに伴う勝敗があり君主の寵愛をめぐって絶え間ない策動と陰謀が渦巻いています。

51.華族

p169
日本の華族リストには、爵位の人数(公爵一一、侯爵三四、伯爵八九、子爵三六三、男爵二二一)と名前が載っています。そこには、公家の一門すべてが新しい貴族として登録され、さらに天皇を助け、忠誠を誓った大名、一八六八年[慶応四]にぼ発した軍事衝突[戊申の役]を経て恭順した徳川陣営の大名も含まれています。そして新しい地位と爵位がたくさんのサムライ階級に授与され、彼らは維新回天の先駆者になり、政治家となり過去二〇年間、素晴らしい発展に向け助言や指導をしてきました。しかしながら旧公家階級は恩赦された大名や、過日華族に列したサムライ階級に少しも心を許していません。

華族は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで日本に存在した貴族階級である。
「日本には階級制がなかった」と言っている自称科学者がいるが、デマである。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」が出され
従来の身分制度の公卿・大名などを廃し、華族とすることが定められた。

これは従来の武家からいきなり権限をとりあげると不満が生じるであろうことに配慮したものと考えられている。

公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家となった家5家・維新後に諸侯となった家15家、合計427家がこれに該当し
この後も、新たな華族が加えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%8F%AF%E6%97%8F%E4%B8%80%E8%A6%A7

上記に華族一覧が記されている。

p169
華族リスト上位には、天皇の身内血縁の全親王を据え、次に爵位の授与さrた侯爵一〇名が続きます。この新設侯爵の一〇家のうち、五家は旧五摂家で、これは旧京都宮廷を構成する一五五家の中に筆頭公家です。旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。

華族には様々な特権が与えられていた。

・家の世襲
・官位の約束
・身分の保証
・学習院への無条件入学
・経済的に困窮している場合は明治政府から金銭が支給される。
・貴族院議員に就任できる。
・学習院への入学

経済的に困窮している華族もいたのだが、華族が特権階級であったことはまちがいない。

1946年、GHQ支配下で華族は廃止された。

シドモアは「旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。」
と言っているが、事実かどうか確認ができない。

明治時代になってからの特権というよりは、江戸時代から、天皇の正室である中宮、皇后は、皇室・徳川将軍家・五摂家だけの特権とされていたと思う。

明治天皇の皇后・昭憲皇太后は五摂家の一条忠香の三女だった。
大正天皇の皇后・貞明皇后は旧五摂家・公爵九条道孝の四女である。
昭和天皇の皇后・香淳皇后は皇族・久邇宮邦彦王の子。
現在の上皇様の皇后・美智子様は日清製粉グループ会長の正田英三郎の娘で、民間出身である。

p171
さらに宮廷は、式部長官の妻である当世随一の麗人を抱えています。この栄華絶頂の貴婦人は、陶芸美の極致、鍋島焼で名高い鍋島一門の当主夫人[鍋島直大侯爵夫人栄子]です。

鍋島榮子

鍋島 榮子(安政2年(1855年) - 昭和16年(1941年])は、宮中に仕えていたが、明治14年(1881年)にイタリア公使・侯爵鍋島直大とローマで結婚した。

鍋島直大は幕末期には肥前佐賀藩主で、明治期に侯爵・政府高官となった人物。
シドモアは「鍋島焼で名高い鍋島一門」と書いているので、陶芸家と勘違いしそうだが、そうではないのだ。
鍋島焼は佐賀藩(鍋島藩)・藩直営の窯で製造された高級磁器である。

鍋島焼 色絵宝尽文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館

鍋島焼 色絵宝尽文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館

鍋島 榮子はその美貌から、戸田極子(岩倉具視公爵令嬢・戸田氏共伯爵夫人)・陸奥亮子(元芸者・陸奥宗光伯爵夫人)らと共に鹿鳴館の華と呼ばれていたそうだ。

明治20年(1887年)に日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任し、
日清、日露戦争の負傷兵の看護、各地の病院を慰問など社会事業活動を行ったという。


陸奥亮子
陸奥亮子

鹿鳴館については、すでにこちらの記事に記した。

p172
舞踏会は、公式歓迎行事の中では最も一般的な行事です。首相は天皇誕生日の晩に舞踏会を開催し、東京府知事は毎冬舞踏会を催し、時折皇族や大臣も同様の企画をすることがあります。

p173
威厳ある皇室情報誌は有りますが、それは官報です。国内の出版物に対して、記事抹消を行う厳しい検閲があるため、東京には社交界のゴシップやスキャンダルを扱う面白い新聞がいまだにありません。もちろん、皇室を回想した本もありません。
ともあれ、封建時代に生まれ、手に汗握る維新動乱の日々を行き抜き、新生日本の誕生と発展をじっと見守ってきた宮廷世界の男女によって、回想録が書かれたならば、さぞかし世間を騒がすことでしょう!

シドモアが見た明治期の日本18 東京⑫

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

㊵団十郎

p143
今日の日本演劇界は、リアリズム派や自然派が主流で、ジェファーソン[米国の俳優]もコクラン[フランスの俳優]も同業者お団十郎以上に役になりきり、沈着かつ完璧な演技をすることは不可能です。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録である。
ということは、シドモアが言っているのは9代目・市川団十郎( 1838年 - 1903年)のことだ。

(九代目市川団十郎, 1838 – 1903)

九代目市川団十郎, 1838 – 1903

p143
死はいつも鋭利な小道具によってなされ、また剣客の道化、切られ役の驚くべき忍耐力、さらに舞台正面に漏れ出る赤色塗料やもつれた赤絹糸の血潮は観客を沸かせ、「ヤ―!ヤ―!」「エー!エー!」の叫びや悲鳴で、場内は興奮の坩堝と化します。

流血シーンは塗料や赤絹糸を用いるようだが、動画、画像は見つけることができなかった。

紅葉狩は「平維茂の鬼退治を描く」能である。
上の動画は歌舞伎だが、九代目市川團十郎による舞踊劇『紅葉狩』、明治20年)が作られた。
上野動画は明治32年となっているが、明治20年のものを明治32年に新たにリメイクしたのだろうか。

p144
あるとき芝居に感激した外人が、帽子、上着、帯・煙草袋など贈り物の嵐を見ながら、自分も帽子を投げました。
その後、興行師と役者の付き人が帽子を返しにきて、10ドル請求したのです。いわば、観客からの贈り物と目されるこれらの品々は、人気スターの価格リストに照らし、現金で買い戻させるための単なる担保没収品にすぎなかったのです。

p147
彼は東京以外の劇場でも演じ続け、ほかの都市との予約もいっぱいで、至るところで本給以外の臨時手当、ご祝儀、贈り物をもらっています。

※彼とあるのは九代目・市川団十郎のことである。

p146
楽屋にいる人気スター訪問は純然たる商取引です。役者はファンの訪問を受けるために固定料金を設定し、正規の収入源とします。団十郎の楽屋は新富座の舞台裏、大道具装置場付近の高いところにあって、そこから舞台を見下ろす窓があり、このため呼出係を置く必要はありません。ときどき大スターは自ら舞台に向かって怒鳴ったり、化粧準備や気まぐれで、芝居の進行を遅らせたり早めたりします。団十郎の楽屋訪問にお金を払ったファンの扱いほど冷淡で侮蔑的なものはありません。

これは誰について書いたものか、明記されていないが、「団十郎」というタイトルの記事内に書かれている。

㊶仮名手本忠臣蔵

p147~p148
日本政府は、新聞と同じように芝居にも一定の検閲を実施し、不快な演劇を禁止したり、必要なら興行師や劇団員を逮捕します。政治的事件を芝居で揶揄することは許されず、当局は人心を掻き乱すような表現を一切禁じています。かつて徳川幕府は、”四十七名の浪人”の上演に対し検閲を行いました。なぜなら、その主な論旨と多くの場面は、将軍の腐敗した裁判手続きをはっきりと批判していたからです。このため維新前まで、忠臣蔵(忠義同盟)と名前を変えて上演し、芝居内容は歴史的事実から遠く外れていました。

シドモアは「忠臣蔵」と書いているが、これは通称で、正しくは「仮名手本忠臣蔵」という。

江戸時代、「世話物」はノンフィクションでもいいが、幕府や武士に関係する事件は、取り締まられるので、南北朝時代の話ということにした脚本がかかれた。

登場人物の名前は『太平記』の人物名に置き換えられている。
吉良上野介(きらこうづけのすけ)は高師直(こうのもろのう)
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は塩冶判官(えんやはんがん)
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)という具合である。

「仮名手本忠臣蔵 三段目」 塩冶判官は、刀を抜き師直に斬りつける。国芳画。

「仮名手本忠臣蔵 三段目」 塩冶判官は、刀を抜き師直に斬りつける。国芳画

「忠臣蔵 夜討二・乱入」 広重画。

「忠臣蔵 夜討二・乱入」 広重画

p148
新しい時代が到来すると興行師らは「これぞ、史実に沿ったいちばん正しい芝居なり」とこぞって宣伝し、歴史家や古物研究者からの最新情報をすべて活用しながら上演するようになりました。

明治以降は江戸幕府が滅亡したため、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。
明治41年から福本日南が忠臣蔵の真相と銘打って、『元禄快挙録』を新聞連載し、昭和9年(1934年)新歌舞伎『元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演された。
しかし、シドモアはこれは見ていないはずだ。
というのはシドモアは1928年(昭和3年)に亡くなっているからだ。

シドモアが見た忠臣蔵はどのようなものだったのだろうか。


1945年(昭和20年)、第二次世界大戦後のGHQ占領下では、「忠臣蔵」は仇討ちの気持ちを鼓舞するとして一次公演、出版が禁止されたが、
1947年(昭和22年)には『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されている。

㊷神武天皇の即位年

p149
欧州の君主や権勢を誇る王族は、日本の統治者・天皇に比較すると成り上がり者にすぎません。皇室は紀元前六六〇年に初代神武天皇が即位して以来、とぎれなき系統を保っています。

日本の皇室が長い歴史をもっていることは事実だが、紀元前660年に神武天皇が即位したということについて、信じている人は現在一部のネトウヨぐらいだと思う。

その理由は
・紀元前660年、日本は縄文時代末~弥生時代早期であり、国家の成立には早すぎる。
・初期には100歳を超える長寿の天皇が多く、治世が長かった割に記紀に事績が記されていない。
などである。

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代を欠史八代といい、後世の創作と考えられている。
しかし、欠史八代が議論されるようになったのは、第二次世界大戦後である。

1940年(昭和15年)、初期の天皇の名前が実名とは考えられないと論じた歴史学者津田左右吉は出版法違反容疑によって逮捕されている。

シドモアはこのような事情を知らず、神武天皇即位紀元前660年を疑っていなかったのかもしれない。

㊸人民は天皇の存在を知らなかった?

p149
封建時代、天皇は臣下である将軍の実質的な捕囚として、京都御所の黄色の土塀(築地塀)の中で生まれ没しました。臣民の事は何もしらず、臣民に知られることもありませんでした。

同様の話は聞いたことがあるが、事実かどうかわからない。

㊹明治天皇

p150
続いてその秋、徳川将軍は正式に辞職をして正当な統治者へ大政奉還し、大阪城へ移りました。一八六八年[慶応四]二月、まだ一六歳未満の天皇は京都御所で被り物を脱ぎ、外国使節[仏蘭公使]を謁見しました。さらに大阪の反抗的幕府を撃破しながら首都江戸へ移りました。

 
1867    10.14 大政奉還、15代将軍徳川慶喜が天皇に政権返上を申し出て翌日受理される
        12.9 王政復古の大号令、新政府樹立
       12.12 徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着
1868 慶応4年 1.3 鳥羽伏見の戦いで「戊辰戦争」が始まる
                       1.6 慶喜、大阪城を脱出し、江戸へ逃げ帰る
                       2.12 慶喜、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
                       3.14 西郷隆盛と勝海舟の会談で、江戸での戦闘が回避されることになる
                       4.11 江戸城無血開城
                     閏4.20 白河口の戦いから「会津戦争」開始
                         5.3 奥羽25藩が奥羽列藩同盟を結成
                          5.6 長岡藩など北越6藩が加わり奥羽越列藩同盟になる
                         5.15 上野戦争、上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で玉砕
                         7.29 会津方面で二本松城、越後方面で長岡城が陥落
                         8.23 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻。会津側は若松城で籠城を始める
           明治元年 9.8 明治に改元
                           9.9 米沢藩が新政府軍に寝返る。翌日には仙台藩も降伏
                           9.22 会津藩が降伏。「会津戦争」が終結
                         10.25 榎本武揚軍が箱館を占領する
        1869 明治2年 3.9 箱館の榎本政権追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発
                               5.11 箱館総攻撃
                              5.18 五稜郭が陥落、旧幕府軍が降伏して箱館戦争が終わる
                                 「戊辰戦争」が終結する 


明治天皇が江戸に行幸したのは1868年11月26日である。
このとき、徳川慶喜はすでに大坂城をたち、江戸城、上野寛永寺へと移り住み、
1868年5.15の上野戦争も終わっている。

シドモアは「(明治天皇は)さらに大阪の反抗的幕府を撃破しながら首都江戸へ移りました。」と書いているが
このときまだ、大坂城にの幕府側の人間がいて、明治天皇を攻撃したのだろうか。
シドモアは少し勘違いしているのではないかと思う。

「(明治天皇は)京都御所で被り物を脱ぎ、外国使節[仏蘭公使]を謁見しました。」
とあり、被り物とは冠のことだろうが、明治天皇が京都御所で外国使節を謁見したという事実も確認できない。
(調べたりないだけかも)

明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画

明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画

上の絵は、1868年(明治元年)の江戸に行幸の途中、六郷川を渡る様子を描いたものである。
9月下旬、2800人が行列をつくって京都を出発し、10月12日(新暦11月25日)に川崎宿に到着した。
兵庫本陣で昼食をとり、六郷川に特設された船橋を渡ったという。
この船橋は明治天皇行幸のため、9月23日より作られたもので
23艘の川船を横に並べ、その上に丸太を結び付けた上に板を敷いて作ったという。
一行はその日は品川宿へ泊まり、翌13日に東京城へ入った。

明治天皇は後方の大きな鳳輦に乗っているのではないかと思う。
鳳輦とは「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」という意味で、天皇の正式な乗り物とされていたが
祭の行列に用いられることもあり、上の絵はまるで祭の行列のように見える。

生玉夏祭 鳳輦

鳳輦を担ぐ人々の衣装も上の絵と同じである。

p150
日本人の平均身長よりも背が高く、立派な威厳と権威を供え、軍人らしい落ち着いた足取り、さらに腰に吊るされた刀剣は、ときどきリューマチで余儀なくされた不揃いの歩き振ぶりを上手に隠しています。

明治天皇がリューマチというのは確認ができなかった。

束帯姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)

束帯姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)


㊺美子皇后

p152
結婚当初、古い習慣に従って眉毛を剃り、額の上に影のような眉を二つ塗り、歯を黒く染めていましたが、数年後、美形を損なうこのような化粧は止めました。

写真はないかと探したが見つからなかった。
しかしこれは事実のようで、次の様に記された文章があった。

明治六年一月十日には、アメリカとロシア公使夫妻が、外国婦人として皇后に初めて拝謁(うち謁見した。)
このとき、皇后はまだ和装で、掃眉、お歯黒であった。
その後、お歯黒はやめるが会見での和装は明治十九年まで続いた。

照憲皇太后 1872年(内田九一撮影)

照憲皇太后 1872年(内田九一撮影)

㊻菊の園遊会

p157
妃殿下も侍従の貴婦人も、全員同じ伝統的衣装を身につけ、鮮やかな刺繍や禁止で織られた錦織は、色彩効果満点で目が眩むほどです。夕焼けで空は茜色に輝き、皇族の列が退場口へ向かうと、白や金や七色の衣装が変幻極まりなくきらめき、鮮やかな彩りは静かな池に反射し、芝生の貴婦人が半円形状に整列すると、なおいっそう鮮やかに栄えます。

p158
ところが、数年後この美しい伝統的衣装集団は、是認類似の体に密着した西洋夜会服姿に一変し、詩的情緒や絵のような趣は全く消えました。

観菊会 中沢弘光筆

観菊会 中沢弘光筆

上は詩的情緒や絵のような趣が全く消えた観菊会w

㊼西洋衣装

p158
皇后陛下は有名な宮廷回覧令状を発し、西洋衣装への衣替えを命じてこれを守らせました。

p158
これに対して純日本的風情を愛好する堅物どもは、こぞって反対しました。しかし、この命令の底流には、「日本人が外国の文化的国民と少しも違わない」ことを条約国勢力に納得させる伊藤博文伯爵の明敏な聖絵次戦略がありました。古いしきたりと美しい民族衣装の廃棄という犠牲によって、一八五四年から一八戸八年[安政一~五]にかけてこの国に強いられた恥ずべき不平等条約の改正を確実に進め、結果的に日本の外交的自由と経済的繁栄を促すことになりました。

1883年(明治16年)には鹿鳴館が建設されたのも、外務卿・井上馨の欧化政策によるもので
不平等条約改正交渉(外国人に対する治外法権など)を有利にすすめるため、欧化政策を進めて諸外国に日本を文明国であると知らしめようとした政策だった。
西洋風の建物やファッションは単なる流行ではなく、もっと大きな意味があったのである。

p159
ところで、皇室の神聖な人格は、皇后のファッションをずっと変えられずにきました。というのは、身分の卑しいとされる仕立て屋は、陛下の体に直接触れることが許されなかったからです。結局、宮廷の西洋衣装推進リーダーである伊藤伯爵夫人、つまり首相の賢夫人[伊藤梅子]が皇后の身代わりになって服の型をとりました。


伊藤梅子

伊藤梅子

伊藤梅子(1848-1924)は、置屋の幼女となって芸子となり、1866年に伊藤博文の継妻(後妻)となった。

p125
芸者は日本女性の中でも教養程度がとても高く、多くの女性が素晴らしい結婚をしております。

とシドモアは書いている。
芸者の中には伊藤梅子のように政治家や実業家と結婚した女性は大勢いるが、「置屋の幼女にそのような自由は許されなかった」と芸妓・扇弥さんは語っておられる。

p159
以前は簡素な長い簪[笄]、帯紐に金の玉飾りとわずかな装飾品以外に何もつけなかった宮廷婦人は、今や米国人並のダイヤモンド熱に浮かされるほどになり、さらに最近、綬と星型宝石のついた新しい勲章が皇后によって制定され、その佩用にとてもあこがれています。[明治二一年、婦人用勲章・宝冠章を制定]。



宝冠章については2:01あたりで説明されている。

㊽英照皇太后

p160
夙子[英照]皇太后は、藤原氏系統の公家・九条一門の人で古い秩序と作法をアモる、新しい様式はほとんど受け付けません。

藤原氏のお家芸といえば、娘を天皇に入内させ、自分は外祖父となって権力を握ることだが、
この時代になっても藤原氏の権力はまだまだ存在していたのだ。

英照皇太后(荒木寛畝作の肖像画、宮内庁所蔵)

英照皇太后(荒木寛畝作の肖像画、宮内庁所蔵)

p160
夏期半年間、いつも皇太后陛下は葉山御用邸で静養していましたが、一八九七年[明治三〇]一月に崩御されました。深夜に神道式葬儀が行われた後、京都泉涌寺の御陵に眠る夫・孝明天皇の傍らに埋葬されました。それから一年間国民は厳しい皇室の喪に服し、軍楽隊の演奏さえも禁じられたほどです。


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向かって左は葉山御用邸の塀 神奈川県三浦郡葉山町一色

1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので藤原
葉山御用邸は1894年(明治27年) につくられた皇族の別荘である。
英照皇太后の生没年は、1835年1月11日(天保5年12月13日) - 1897年(明治30年)1月11日)なので、3度の夏を葉山御用邸で過ごされたのだろう。

泉涌寺

泉涌寺 京都

泉涌寺には後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵がある。
また霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

㊾明治天皇の皇子・内親王

p161
皇太后は、中山邸[明治天皇の実母。中山慶子夫人の邸宅?]にある皇室保育園の運営にかかわって名誉職を務め、天皇の子供や正妻以外の夫人たちを四、五年住まわせていました。この夫人たちは全て公家の出身で、邸内に住宅を持っています。現在この女性たちがきちんと身分保障されているにせよ、口には出せない東洋風遺風で公然の秘密です。

日本では天皇だけでなく、長年一夫多妻制だった。
江戸時代には妻の他に妾を囲うことは当たり前に行われていた。(蓄妾制)
明治3年に制定された「新律綱領」では妻と妾を同等の二親等とすると定められた。
これは家の存続のためには跡取りが必用であるとの考えから定められたものだった。
刑法では明治13年、戸籍法では明治19年に妾はなくなり、明治31年、民法によって一夫一婦制となった。
大正天皇以降は側室制度も廃止された。

p161
美子皇后には実子がおりません。皇太子明宮親王(大正天皇)は天皇と柳原愛子(なるこ)夫人の子息です。天皇は一〇人の子供を亡くしていますが、五人の皇女は元気です。

明治天皇の皇后は昭憲皇太后だが、シドモアが書いているように、彼女には子供がなかった。
公にされている明治天皇の側室は5人いたといわれる。その皇子、皇女はつぎのとおり。
成人した皇子・皇女は赤でしめす。 
                              母           
第一王子 稚瑞照彦尊 明治6年9月18日~    同日      葉室光子     死産   母も死亡
第一皇女 稚高依姫尊 明治6年11月13日~  同日      橋本夏子     死産 母も死亡
第二皇女 薫子内親王 明治8年1月21日~明治9年6月8日    柳原愛子  
第二皇子 敬仁親王  明治10年9月23日~明治11年7月26日    柳原愛子 
第三皇子 嘉仁親王  明治12年8月31日~大正15年12月25日  柳原愛子   大正天皇(明宮親王)
第三皇女 韶子内親王 明治14年8月3日~明治16年9月6日     千種任子 
第四皇女 章子内親王 明治16年1月26日~明治16年9月8日   千種任子
第五皇女 静子内親王 明治19年2月10日~明治20年4月4日   園祥子
第四皇子 猷仁親王  明治20年8月22日~明治21年11月12日  園祥子
第六皇女 女昌子内親王 明治21年9月30日~昭和15年3月8日  園祥子
第七皇女 女房子内親王 明治23年1月28日~昭和49年8月11日   園祥子
第八皇女 女允子内親王 明治24年8月7日~昭和8年11月3日    園祥子
第五皇子 輝仁親王  明治26年11月30日~明治27年8月17日  園祥子
第九皇女 聡子内親王 明治29年5月11日~昭和53年3月5日   園祥子
第十皇女 多喜子内親王 明治30年9月24日~明治32年1月11日  園祥子

シドモアは「5人の皇女は元気です」と書いているが、4人の間違いである。
そして成人した皇子は嘉仁親王(よしひとしんのう:のちの大正天皇)だけだった。

なぜ明治天皇の皇子・皇女は短命だったのか。
明治天皇の皇子・皇女の死因は脳膜炎で、乳人が使用していた白粉にふくまれる鉛中毒症である疑いが濃いということである。
大正天皇も生後まもなく脳膜炎を患い、後遺症に悩まされていたらしい。


シドモアが見た明治期の日本17 東京⑪

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

※p131~p138にかけて、能・歌舞伎・人形両瑠璃などについて述べられているが、それらの長い歴史を検証するのは大変骨が折れ、また私自身あまり鑑賞したことがないため、それらに対して語る資格がないと感じるw
とりあえずこの部分は飛ばして、先に進むことにする。

㊵劇場

p139
とうきょうで大劇場と言えば、新富座[京橋(中央)区新富町]です。間口の長い切妻造の建物で、入場口の上段に役者絵が並び飾られています。

三代目歌川廣重 画 『東京名所之內 第一の劇場新富座』

三代目歌川廣重 画 『東京名所之內 第一の劇場新富座』


p138
通りには茶屋や料亭が連なり、見物客が夕食後にでかけ二時間程度で終わるような短い芝居でないことを暗示しています。あらかじめ観覧団を念入りに編成し、丸一日観劇に没頭します。芝居は通常一一時に始まり、晩の八時か九時頃に終わります。

明治時代の芝居見物はたいへんな長丁場だったのだ。

p139
身分の高い日本人にとり、自ら劇場入口へ行き見物料を払って入場する行為は、かなり体裁の悪いことなので、そういう観客は少なくとも1日前、当日の切符手配のために劇場のそばの茶屋へ使いを走らせ、仲介を通して座席を確保します。つまり茶屋は切符売場と組んだダフ屋なのです!

p139
適当な時間に観覧団一行が茶屋に集まり、当日の昼食や夕食を注文し、それから茶屋の責任者が客を観覧席へ案内します。日に何度か湯茶のサービスがあり、また御用聞きが休憩時間中に「何か欲しいものはございませんか」と注文に来ます。夕食時、品数豊富に料理の入った大きな漆塗りの重箱が運ばれ、パトロンは心地よく座って食事をとります。各座席には、円錐状に炭火が積まれた煙草盆が供えられ、誰もがキセルに火を点け、煙草を吸うと同時に吸殻をコツンと出します。

甚風呂 煙草盆

煙草盆 甚風呂 (和歌山県有田郡湯浅町)

p139
劇場の建物は軽く薄っぺらな木造建築で、至るところに茣蓙や畳が敷いてありどこも似通った造りです。四角い座席、傾斜した床、簡素な低い廊下、そして舞台が場内いっぱいに広がっています。低い横木が床の空間を桝型に分け、客の出入りする連絡橋として役立っています。観客は常時、桝席の床に座って観覧し、格席は六フィート[一・八メートル]角の大きさですべて四人用に設計されています。

安政5年 (1858) の江戸市村座

安政5年 (1858) の江戸市村座 桝席が描かれている。

p139
それら座席の後ろには立見客の囲いがあって、一幕につき銅貨一、二枚程度の料金を払います。この大向こうの囲いは”つんぼ桟敷[幕見席]”と呼ばれていますが、この客の騒々しいことおびただしく、耳の不自由な人でも耳を塞ぎたくなるほどえす。
劇場に入る客は履物に札をつけます。棚は吊るした下駄であふれ、まるで玄関ロビーの飾り物です。建物の中には果物、茶、菓子、煙草、玩具、簪、スターの写真、さらに小間物を売る店があり、桝席の客はどんな買い物も屋外に出る必要はありません。しかも明るく風通しのよい開放的芝居小屋なので、冬場は隙間風が素通りです。

p141
以前は、かなり多くの芝居小屋がフットライトもランプも使用せず、昼間だけの開演でした。古きよき時代は、日没後だんまりやくの黒子が、役者の顔型を照らすため長い棒の先についた蝋燭を指しだして役者の廻りを徘徊するので、観衆は表情豊かな役者の見事な演技を見ることが出来ました。

舞台上の黒衣

舞台上の黒衣

3人の黒衣が描かれている歌川国芳の役者絵

3人の黒衣が描かれている歌川国芳の役者絵

黒子は黒衣ともいうそうである。
黒子が蝋燭を持って役者の顔を照らし出す舞台を見てみたいものだ。

p141
役者は、観客席の間にある高く長い二つの通路から舞台へ出るので、外から入ってきたように見えます。通路は桝席の観客の頭の高さと同じで、これを花道と呼びます。

花道上の二代目市川猿之助の弁慶

花道上の二代目市川猿之助の弁慶

p142
私は日本で最高傑作といわれる背景画を何度か見たことがありますが、その舞台の幽霊、鬼神、怪物はほかでは見ることのできない、ど迫力でした。”正直者セービー[清兵衛?]”の芝居では雨降る黄昏時、竹藪の中での殺人場面があり、それはヘンリー・アーヴィング英国の名優もジュル・クラレッティ[フランスの劇作家]も凌ぐ傑作でした。

ヘンリー・アーヴィングは俳優業だけでなく、演出家としても活躍された。
「ロミオとジュリエット」「ファウスト」などを演じた。

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ヘンリー・アーヴィング

ジュール・クラレッティはフランスのジャーナリスト、エッセイスト、劇作家、小説家とのこと。

正直清兵衛というのは次のような話で、二世河竹新七(黙阿弥)が歌舞伎に脚色し、安政4年(1857)5月、「敵討噂古市」という題で市村座で初演されている。

八百屋の清兵衛は十五両もの金が入った財布をおとし、杉酒屋の忠右衛門がひろったがネコババする。
清兵衛が「財布を落とした。私が大病をしたときに娘が身を売ってこしらえてくれた金がはいっていた。」といってやってきたが、居酒屋はしらないとしらをきる。
清兵衛は帰って行ったが、居酒屋は「ネコババがばれて、過去の横領事件も罪に問われるのではないか」と心配になり
清兵衛の後を追いかけて清兵衛を殺した。
しばらくして女房が出産したが、皺があって白髪の異形の子を産んだ。

p142
さらに”鍋島の吸血猫”や”東海道の怪猫”に登場する若き美女は素早く魔物に変化し、ジキル博士がハイド氏に変身する以上の気味の悪さです。


「東海道の怪猫」とは『梅初春五十三駅』のことだろうか。

歌川国芳画『梅初春五十三駅』は1835年(天保6年)に市村座で上演された同名の歌舞伎の場面を描いたものとのことだが、手ぬぐいを被った猫が描かれている。。

てぬぐい猫という怪談がある。
東海道五十三次の戸塚宿(現・神奈川県横浜市戸塚区)の醤油屋で、夜ごとに手拭が1本ずつなくなるという事件があった。
ある夜、醤油屋の主人が仕事場にでかけると、大勢の猫が集まって主人の飼い猫が手ぬぐいを被って踊っていたというのだ。

歌川国芳の絵に描かれた手ぬぐいを被った猫のルーツはこの手ぬぐい猫ではないだろうか。

歌川国芳画『梅初春五十三駅』。1835年(天保6年)に市村座で上演された、同名の歌舞伎の場面を描いたもの。

歌川国芳画『梅初春五十三駅』。1835年(天保6年)に市村座で上演された、同名の歌舞伎の場面を描いたもの。


「ジキル博士とハイド氏」はロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説である。

ジキル博士は、人格から悪の側面のみを切り離して別人格を出現させる薬品を発明してハイドという別人格に変身していたが、しだいに薬を服用しなくてもハイドになってしまうようになり、ついにはジキルに戻るための薬がつきて自殺してはてる。

リチャード・マンスフィールド扮するジキルがハイドに変身する場面。

リチャード・マンスフィールド扮するジキルがハイドに変身する場面。

p142
日本野劇場では回り舞台がよく使われ、これは二〇〇年間も続くどくそうてき斬新なアイデアの賜物です。直径二〇フィート[六メートル]とか、三〇フィート[九メートル]の舞台床の部分は鉄道転車台のようにグアヤック樹木製車輪で回転しますが、これは床下の担当係が布圧縮機に似た突出棒に肩を当てて動かします。

 

舞台装置の転換

 舞台装置の転換


↑ リンク先に回り舞台の下の奈落の写真が掲載されている。

 

p142
ところで妙なことに、開幕の会津はコメディ・フランセーズ[パリの国立劇場]に似て、床を大きな棒で三度強打するのです。

シドモアは歌舞伎の話をしていると思うが、歌舞伎の開演の合図は一番太鼓だと書いてある記事があった。
https://www.kabuki-bito.jp/news/818
中村座だけのことかもしれない。(わかる方、教えてください)

歌舞伎の演目も数多くある京都の六斎念仏でも始まりは大きな太鼓を鳴らす。

コメディ・フランセーズはわからない。


シドモアが見た明治期の日本16 東京⓾ 

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

㉞蓮

P115
そのとき上野公園下の池[不忍池]は数エーカーにわたる青みがかった葉っぱのお皿を見せ、ピンクや白の星々をちりばめます。


不忍池

不忍池

p116
以前、この無数のブッダの花は、夏一番、最初の暖かな太陽光線を受けて開き、その瞬間城塞の模擬礼砲のように音が鳴り響きました。今では江戸城濠の蓮が極端に減ったこともあり、そのような快音はどこも聞かれなくなりました。芝の五重塔の裏てにも愛らしい蓮池があり、人力車から緑濃い並木道沿いんみられますが、はやり江戸城濠の蓮の花は首都の輝かしき夏の栄光でした。


ブッダの花とは蓮の花のことである。


ほんとに音が鳴るとは知らなかった。

㉟マラリア

p116
”蓮”論争は、いまだ首都を二分して侃々諤々の様相ですが「蓮はマラリア発生源だ」と声高に責めたてられるのは、どうも理不尽です。壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。

「シドモアの日本紀行」にはマラリアの話がちょくちょくでてくる。
どうも「蓮はマラリア発生源」と考えられ、江戸城濠の蓮は大量に伐採されてしまったらしい?

1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した[29]。
しかし現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。
また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2 より引用


現在、日本でマラリアはほとんどないが、明治36年には年間20万人もの患者があったのだ。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日本でのマラリア流行を目の当たりにしているわけである。

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。
しかし、シドモアの記事をよむと、どうも蓮の花が原因だと考えられていたらしい?

シドモアは「壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです」といっている。

つまり、シドモアは
・マラリアの発生は蓮には関係がなく、土壌に問題がある。
・マラリアの原因は濠からの発生物、または汚泥かもしれない。
というような認識をもっていたのだろう。

1880年、フランスの医師シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア原虫と、キニーネが血液から寄生虫を除去すると提唱したのだが、彼の説はなかなかみとめられず
1884年の油浸レンズ、1890-91年に従来のものより優れた染色法が開発されたことによってようやく認められた。

先ほども書いたように「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、まだその原因や治療法が確立されていなかったということになる。

「マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。」とシドモアは書いている。
築地とは埋立地という意味で、東京の築地は埋立地であったところからそのような地名になったのだろう。
シドモアが見た明治期の日本⑦ 東京1
こちらの記事にも書いたように、築地は外人居留地だった。
この築地でマラリアが流行したが、その理由は蓮ではなく土壌であるとシドモアはいっているようだ。

現在の日本ではマラリアは流行していないが、その理由としては以下のようなことが考えられている。
・キニーネの治療効果
・蚊帳や蚊取線香の使用
・湿地の土地改良
・殺虫剤DDT散布・・・ハマダラカの減少
・住宅構造(ハマダラカが侵入しにくい)

㊱団子坂の菊人形

p116
筵小屋にはフットライトなしのたくさんの臨時花舞台があり、等身大の人形が集団で配列され、その顔と手は蝋と聞くで合成されていますが、衣服、装飾、風景は全て本物の菊で作られ、あまりにも綿密な骨組みで上手に仕立てられているので、からくり仕掛けに気づきません。

p117
客引きが通行人を招き入れ、興行師は絵物語の口上を繰り返し、幟や提灯のりんりつする小道に、大道芸人、手品師、托鉢僧、行商人が無邪気な”バベルの都”[騒々しい場所]を創出します。


菊人形のルーツは園芸が盛んな江戸の染井や巣鴨の菊細工と考えられている。
安政から明治にかけ、団子坂で菊人形が行われるようになり、全国に広がったが、明治末ごろに団子坂の菊人形は廃れたという。

私は幼稚園の遠足で枚方菊人形を見に行った記憶があるが、ひらかたパークの菊人形は2005年で中止になった。

二本松の菊人形(2005年)

二本松の菊人形 福島県

頭や手足は生人形師の安本亀八・山本福松・大柴徳次郎などが作成したという。
私は初代安本亀八作の「飯田喜八郎像」を、奈良のおふさ観音で見たことがある。
正直いって、かなり気持ち悪かった印象があるw
御所人形、市松人形などは好きなのだが。


㊲紅葉館

P121
日本人の間では歓待は美徳ですが、宮廷貴族が外国の衣装や習慣を採用する辞典まで、通常日本の婦人は訪問者を迎えたり、男女同席で歓待することは許されませんでした。そんな歴史的背景から、必然的に日本男性は社交的となり、クラブ会員となって会館をわが家とします。鹿鳴館、つまり東京華族クラブはもっとも有名な社交団体で、この法人代表には皇太子が就任され、会員に外交官、華族、公務員、裕福な民間人、居留外人がその名を連ねています。

鹿鳴館、東京

鹿鳴館

P122
私は日本到着の一日か二日後に、このユニークな歓待の客となる幸運に恵まれました。それは芝の増上寺の上にある山腹の紅葉館[東京タワー付近]、つまり紅葉クラブハウスで催されました。

1890年(明治23年)頃の紅葉館。中野了随『東京名所図絵』より

紅葉館
増上寺

上は増上寺(絵葉書00)大日本東京芝三縁山増上寺境内全図.である。
今は失われた五重塔も❷の向かって左あたりに描かれている。
五重塔は太平洋戦争で失われているので、太平洋戦争前のものだと思われる。
この境内図の向かって右あたりに紅葉館も描かれている。
紅葉館も1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。

紅葉館 位置

p122

美しい部屋の東側は磨き上げられた杉材の手摺りい囲まれ、バルコニーの向こうに庭園と景色が広く見晴らせ、楓(紅葉)の木立や芝公園の濃い森を超えて見える[東京]湾の海に魅了されました。

東京タワーより増上寺を望む

↑ この写真は私が東京タワーから増上寺、芝公園を撮影したものである。
写真上に海が写っている。
シドモアが見た風景にはたくさんの高層ビルはなかっただろう。
また、高度ももっと低い場所から見ただろうが、だいたい同じような位置からシドモアも紅葉と東京湾を眺めたのだ。

p124
舞妓は若い芸者の物思いに沈んだ伴奏に合わせ”紅葉の歌”を踊ります。その形式はすべて、ある最良のポーズから別な最良のポーズへゆっくり滑らかに変化する舞でした。


探してみたら「もみじの橋」という曲を踊る舞妓さんの動画があった。
シドモアが見たのはこれだろうか?


㊳星ヶ岡

p126
秀吉は堅苦しい行儀作法、終わりなき規制、細目、さらに形式ばったしきたりの中に、大名がぐるになって陰謀や諍いを起こすのを未然に防ぐ手立てを取り込んだのです。

これは茶の湯について記したものである。

P126
大名たちは限りない贅沢と放縦の限りを尽くし、造作なく茶事に出資したので、秀吉は贅沢取り締まり令を出したほどです。

こういう話は聞いたことがない。(あれば教えてください。)

p127
日本での社交上、もの珍しい面を理解しようと思い、私は松田先生[松田宗貞、一八三三~一九一五、堀之内流に学び、のちに表千家一一代目碌碌斎の弟子となる]から茶の湯を習いました。
彼は著名な茶道の師匠で、東京星ヶ岡クラブハウス[星ケ岡茶寮]の茶室を運営統括しています。

 

p129
見栄っ張りには向かない肩の凝らぬ午餐会といえば鰻料理のパーティーです。

p130
エドウィン・アーノルド卿[英国の詩人]も料亭”ゴールデン・コイ〝での鰻重のおいしさを褒め称えています。

これはどこにあった料亭だろうか?

p130
河岸にある茶屋[京橋(中央)区霊岸島の大黒屋]では鰻料理コースを待つ間、手品師や歌舞伎による楽しい演出で日本の歓待を最高に盛り上げます。

霊岸島の住所は現在は東京都中央区新橋となっている。


かつての霊岸島については、こちらの記事に詳しく記されている。

永代橋が隅田川にかかっているが、
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが見た永代橋はこういう感じのものだろう。

1897年完成の旧永代橋。

1897年完成の旧永代橋。

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最近の永代橋




シドモアが見た明治期の日本15 東京⑨ 

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

㉗梅屋敷の梅

p106
この梅屋敷[清香庵]は、かつて将軍[八代・徳川吉宗]のお気に入りの場所でした。

p107
行儀のよい参観者は、わが米国人、せっかちな田舎者がするようにひらひらする巻紙を不作法にまくったりはしません。奥ゆかしい老詩人たちは威厳に満ち、ひたすら花への賞賛と屋敷内の厳粛な静寂をテーマに歌を詠み、互いに講評を楽しみます。

↑ こちらのサイトに梅屋敷を描いたたくさんの錦絵が掲載されている。

梅屋敷は亀戸天神の心字池の向こうにあると書いてあるので、天神さん(菅原道真)にちなむ梅林があったのだろう。
菅原道真を祀る神社には梅林があるケースが多い。(北野天満宮、長岡天満宮、道明寺天満宮など)
清香庵はいつのまにか失われて、現存していないようである。

亀戸梅屋舗 歌川広重

亀戸梅屋舗 歌川広重


㉘上野公園の桜

p107
また、「どこでサクラの蕾が膨らみ、匂い、貝かを始めるのか」は大きな公共的関心事で、国内の日刊紙は毎日桜の名所先から至急電を報じます。

p110
官報は三条実美教や伊東博文公が三日間の花見旅行のため奈良や京都を訪ねるとの情報を詳細に発表します。まるでビスマルク[ドイツの宰相]やグラッドスタントン[英国の首相]が国事を中断し、遠くバラ博覧会へ巡礼を企てるかのようです。

上野公園については、すでにこちらの記事でも書いた。 

p109
上野の山のふもとにある広い蓮池[不忍池]が、驚くほどたくさんの白い花を映し出しています。競馬コースが周囲を取り巻き、島の小さな聖堂[弁天堂]の屋根はピンクの枝に覆い隠されています。

歌川国利 上野不忍池競馬の図 

歌川国利 上野不忍池競馬の図 

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不忍池 桜

p108
山に土着する野生の苗木から無数の変種が育ち、やがて頂点を極め百葉バラのごとくピンクの大きな二重の花となり、絵だ八百枝を厚く覆うバラの花飾りとなります

シドモアが記している上野の桜のほとんどはソメイヨシノだと思うが、ソメイヨシノは一重咲きである。
また桜の花はバラのように大きくない。
おそらく小さな花が集まって毬のようになっている様を「ピンクの大きな二重の花となり」と言っているのだと思う。

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p110
皇居内の慎重だった木立も季節遅れの蕾を付け、陛下や廷臣が枝に歌の棚句を吊します。同時に、春の観桜会が浜離宮御料地で催され、花盛りの遊歩道に宮廷関係者全員が集まります。

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千鳥ヶ淵

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浜離宮

㉙向島の桜

p110
隅田川東岸に沿った向島は、まさに祭一色です。低く垂れた桜並木が二マイル[三・二キロ]以上にもわたって続き、満開の日曜日は、まさに天下御免の安息日です。数百層もの船が水に浮かび、いかめしい小柄の景観が川沿いに動く花見客を交通整理します。


p111
変装した客を満載した船が土手沿いに櫂や竿を使って進み、ハンパで奇妙なかつらを被った乗客が自由奔放、おばかさん丸出しで叫び詠い、手拍子をとり、三味線をでたらめに掻き鳴らすさまは、堅物人種アングロサクソンの教学と羨望の的です。

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最近の向島付近

シドモアが書いているような日本人的飲酒をするとアルコール依存症になりにくく、アングロサクソン的にきどって飲むとアルコール依存症になりやすいときいたことがあるw

瓢箪にはお酒をいれる。



手桶はどのようにして使うのだろうか。
手桶の中に徳利とおちょこを入れておくのかもしれない。持ち運びがしやすそうだ。

㉚堀切菖蒲園

p112
そこでは四阿、月山、小池、高貴な花の大群生が見晴らせ、着飾った見物人の集団は自らの装飾効果を十分意識しながら、花の風景に収まっているかのようです。

これはシドモアが堀切菖蒲園について記したものである。

歌川広重 名所江戸百景 「堀切の花菖蒲」

歌川広重 名所江戸百景 「堀切の花菖蒲」

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最近の堀切菖蒲園

㉛本門寺の牡丹

p113
現在、池上の寺[本門寺]では日蓮宗はのプライドをかけた牡丹が展示され、樹齢三百年もの堅い幹と皺のよった樹皮を持つ老木には、堂々たる花が無数に咲いています。

江戸自慢三十六興・池上本門寺会式 三代歌川豊国・二代歌川広重筆

江戸自慢三十六興・池上本門寺会式 三代歌川豊国・二代歌川広重筆

本門寺の塔頭に本妙院があり、そこで現在も牡丹の花が鑑賞できるようだ。


本妙院には樹齢300年以上の松があるという。
上の動画1:33あたりに松らしき木の幹が写っているがこれのことだろうか?

幹が細いようにも思えるが、浜離宮の樹齢300年の松もさほど幹は太くないので、1:33辺りに映っている木のことかもしれない。

「現在、池上の寺[本門寺]では日蓮宗はのプライドをかけた牡丹が展示され、樹齢三百年もの堅い幹と皺のよった樹皮を持つ老木には、堂々たる花が無数に咲いています。」
とシドモアは書いていて、牡丹の木が樹齢300年の様にも思えるが、樹齢300年は松で、その松の周囲に牡丹の花が咲いているという意味なのか、と思った。

しかし、検索してみると、樹齢150年という牡丹の木があり一本の花木から1480輪の花を咲かるようである。



もしかしたら本門寺に樹齢300年の牡丹の木があり、上の動画のように1000を超える花を咲かせていたのかもしれない!

㉜東京の躑躅

p113
また、どこの庭園でもツツジが、炎のような赤、雪のような白、サーモンピンク、薄紫の花を咲かせています。さらに五月になると、野山や未開墾の川包みに群がり、いっせいに燃え立ちます。


㉝牛島の藤

p115
東京の北東、奥州街道沿いの粕壁[埼玉県春日部市]に日本一有名な藤の花があります[牛島の藤]。この藤蔓は樹齢五〇〇年といわれ、長さ五〇インチ[一・三メートル]以上もの花房が垂れ下がっています。こうしたなの大きさは四〇〇〇平方フィート[三七一平方メートル]にわたり、遠くから歌人や巡礼が敬虔な面持ちでやってきます。




シドモアが見た東京の花の名所は、現在もたくさん残っているようだ。
いつか訪ねてみたい。


シドモアが見た明治期の日本14 東京⑧ 

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

※まちがいなどありましたら、教えていただけると嬉しいです。

㉕草花信仰

p104
外国からいかなる悪しき干渉があろうとも、日本の首都における草花信仰は果てることはありません。日本の陰暦[旧暦]は花咲く椿、梅、桜、藤、蓮、菊、楓の時期を分けています。蜜柑と茶の花だけが特別な花の祭典から省かれています。

p104
彼らはこの花の祭典に、感傷的情感と霊魂とお祭り騒ぎを注入します。先祖のだいから花を愛でる精神を引き継いできた日本人は、地方に咲く様々な素晴らしい花を観賞するため、毎年美の聖地へ向け巡礼を繰り返してきました。


シドモアは明治の東京について述べているが、現在でも日本各地で花を愛でる習慣がある。
シドモアがあげたほかには、コバノミツバツツジ、山吹、バラ、皐月、平戸つつじ、キリシマつつじ、新緑、紫陽花、花菖蒲、百日紅、コスモスなども人々の心を魅了している。
そして冬には六花、雪の花も美しい。

シドモアはこのように花を愛する日本人の心を草花信仰、花を見に行く行為を巡礼と書いていて、なるほど、と思った。
私たちが花を愛する心はわけがわからないまま心にめばえてくるのだが、それは信仰であったのだと、シドモアの文章をよんで気がついた。

㉖新年

p104
それでも、この時期どの戸口にも常緑樹と花のアーチが作られ、網藁縄で縛った松と竹[松飾り]が家の前に置かれ、稲藁の房が玄関の庇に花綱飾りされ、さらに提灯が並んで吊り下げられます。象徴的に餅、伊勢エビ、橙、羊歯の葉でデザインしたしめ飾りが玄関の横木にしっかり止められ、最も形のよい屏風が玄関正面に縦らえ、たくさんの正月のシンボルや名刺盆が玄関に置かれます。

アーチ(英: arch)とは、中央部が上方向に凸な曲線形状をした梁、もしくは上方向に凸な曲線形状そのものを言う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%81 より引用


https://www.jalan.net/event/evt_284728/
なるほど、アーチ型といえなくもない。

門松のルーツは平安時代の小松引きであるといわれる。
京都の上賀茂神社では燃灯祭(乙子神事)を行っている。
御阿礼野で小松をひき、玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包むという神事で、平安時代の宮中の年中行事に由来するとされる。

燃灯祭(乙子神事)

で、京都の門松はこんな形をしている。

仁和寺 京門松

仁和寺 京門松

根引き松といって、小松をひいたそのままのような形で、根がついている。
おそらくこの京門松(根引き松)が門松の原型だと思う。

明治時代の門松はどのような形をしていたのか、「常緑樹と花のアーチ」「網藁縄で縛った松と竹」とあるので、現在よく見られるような、松と竹に葉ボタンなどを添えたものであったのではないだろうか。

「稲藁の房が玄関の庇に花綱飾りされ」
とあるのは、下の動画1:46や、4:46あたりのようなものだろうか。(他にもたこのようなものがたくさんでてくる。)




「象徴的に餅、伊勢エビ、橙、羊歯の葉でデザインしたしめ飾り」というのは現在でも正月に、玄関の戸口に飾られることの多いしめ飾りのことを言っているのだろう。
上の動画にもいろいろなデザインのしめ飾りが登場するが、餅、伊勢エビを飾ったものはない。
橙、羊歯の葉はスーパーで売っているしめ飾りにも普通についているが、まさか餅、伊勢エビはないだろうと思ったのだが
なんと、田中町甲斐神社には伊勢海老のしめ飾りを飾るそうである。


こちらは佐賀の注連縄で、伊勢エビはつくりものだが、かつては本物のしめ飾りを飾っていたのかもしれない。

餅をつけたしめ飾りはみつからなかったが、伊勢エビがあるくらいなので、餅をつけたものもあったのだろう。

名刺盆は切手盆とも呼ばれ、ご祝儀やお布施を渡したり、金銭の受け渡し、名刺をもらうときなどに用いる小さなお盆である。

現在ではお年玉はポチ袋にいれてそのまま渡すことが多いが、明治には名刺盆にのせて渡していたのだろうか。
そう思って調べてみたら、お年玉に現金を渡すようになったのは昭和30年代(1955年 - )以降だという。
それ以前のお年玉は主に玩具であったらしい。
それではその名刺盆は何にもちいていたのか?

江戸時代、名前や屋号を書いた名札をもって挨拶回りする習慣があったという。
明治時代になって名札は「名刺」と呼ばれるようになるが、江戸時代以前も名詞と呼ばれていたそうで、呼び方がもとにもどったということになる。

家にいて、挨拶周りの人がやってきたときに名刺盆で名刺をうけていたということだろうか。

p105
この時期は全て借金が返済され、同時に慣行上の儀礼訪問や饗応で三日間とられます。

正月の話をしているので、「この時期は」とは「正月」のことのようだが、年末のことを言っていると思う。
江戸時代はツケで買い物をするのが一般的で、年末にツケを払う習慣があった。
明治時代も同様の習慣が続いていたのだろう。

p105
お互い誰に対しても「シンネン オメデトウ(私はあなたに幸せなシンネンを望みます)」とか、「マンザイ ラク(万年も幸せに)」と挨拶します。

なんと、明治時代には新年のあいさつに「萬歳楽」といっていたのだろうか?


萬歳楽とは隋の煬帝が作曲したと伝えられる雅楽の曲名である。

また、正月には門付けの萬歳が行われていた。

門付けとは人家や商店の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして金銭を得る大道芸のことである。



萬歳とは、新年の言祝ぎの話芸で、現代の漫才のルーツとされる。

p105
また誰もが友人に贈り物を届け、たとえば果物籠、ぼた餅やお萩を祝い紙に包みます。

よく、ぼたもちは「牡丹餅」で春彼岸(春分の日/3月22日ごろ)、おはぎは「お萩」で秋彼岸(秋分の日/9月22日ごろ)に食べるなどといわれる。
しかし、春彼岸、新暦3月23日ごろに牡丹は咲かない。私が牡丹の写真を撮りに出かけるのは、初夏の新暦5月ぐらいだ。
萩は秋分ぐらいには咲いているが。

その春彼岸や秋彼岸に食べるぼた餅やおはぎを正月に友人に贈るというのだ。
ぼた餅とおはぎの違いは食べる季節以外に何かありそうである。

ぼたもちは牡丹の花のように大きな丸い形、おはぎは萩の花のように細長い俵型のような形状で作られていたなどともいわれる。
また、ぼたもちはこしあん(春にはあずきが固くなっているため皮を取り除いてこしあんにしていた)、おはぎは粒あん(収穫したばかりの小豆は皮が柔らかく粒あんで食べられる)であるともいう。

しかし、地域によって何をぼたもちといい、何をおはぎというか、異なっているともいう。

シドモアがいうぼたもちとおはぎがどのようなものを言っているのかよくわからない。

シドモアが見た明治期の日本13 東京⑦ 


※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

※まちがいなどありましたら、教えていただけると嬉しいです。


㉑火事-2

p97
地元消防隊の掲げる旗印や隊旗は、外人の目にはびっくり仰天です。軍楽隊長の指揮棒が栄光を称え、巨大なクラブ、スペード、ハート、ダイヤモンド、球、三日月、星、あるいは謎の文字の旗が各救援隊の機種によって高く掲げられ、火炎に向かって突進します。

シドモアは旗と書いているが纏のことを言っているのだろうか。

「全ての纏の馬簾に黒線が入るようになったのは1872年(明治5年)に町火消が消防組と改称されて以後である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F より引用

「1923年2月27日、消防組規則が改正され、纏(まとい)が廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E9%98%B2%E7%B5%84 より引用
※1923年は大正12年

とあり、明治期には纏がもちいられていたように思える。

 

p97
しかも、崩落寸前まで燃え盛る屋根の上や火炎の中に留まるといった活躍のため、カサビアンカ[フランス海軍の艦長の名、一七九八年ネルソン提督率いる英国艦隊との闘いに敗れた艦長が、艦内に残る息子とともに自爆炎上した惨劇]のようなぞっとする悲劇が生まれます。

どうやら殉職する人が多かったようだ。

p98
まだ消防蒸気自動車はなく、消化手榴弾の利用は大火災の興奮の渦に巻き込まれ、結局忘れてしまいます。



上の動画0.09あたりに蒸気消防車(蒸汽喞筒)のミニチュアが写っている。

https://shiretoko.tokyo/2019/06/11/shobomusium/
↑ この方のブログ、上から6枚目の写真と同様のもので、馬がひいてくるのだが消防ポンプの駆動に蒸気機関が用いられている。

https://mirai.kinokuniya.co.jp/2017/08/923/
↑ こちらの記事では上から10枚目の
「救助梯子、救助袋、蒸汽喞筒使用の図 火災消防図会 風俗画報 第186号(明治32年4月5日)」に
黒煙を噴き上げる蒸気消防車が描かれている。

このような蒸気消防車が登場したのは、1829年イギリスにおいてである。
1841年にはアメリカで自力走行できる蒸気消防車が登場している。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、
蒸汽喞筒、自力走行できる蒸気消防車のいずれについてもシドモアは知っていたはずである。

シドモアが「消防蒸気自動車」といっているのは、どちらのことだろうか?

いずれにしても、蒸気喞筒は道幅が狭いなどの理由で普及しなかったので、シドモアは見ていないのではないだろうか。

消化手榴弾は消火弾の事だと思う。
1885年(明治18年)日本でアメリカ製の消火弾(球形容器に薬剤を詰めたもの)が紹介されたそうであるが、
あまり用いられていなかったようで、ネット上にも明治期の消火弾についてふれた記事は少ない。
日本の消火弾の記事は、昭和初期のものなどがよくでてくる。

   

㉒地震

p98
地震は年中起きているにも関わらず、幸い激しい揺れもなく、これまで起きた悲劇的震災は一八五四年[相模大地震]と一八五五年[安政大地震]の地震だけです。

1854年の相模地震とは、 安政東海地震の事と思われる。

幸いなことにシドモアは日本で大地震には遭遇していないらしい。

しかし、日本では過去に大震災をいくつも経験している。
以下、1853年からの記録を書きだしてみた。
シドモア日本記が記す1884(明治17)年から1902(明治35年)の部分は赤文字にした。

1853年3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震) - M6.7±0.1、死者約20 - 100人。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M7+1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M8.4(Mw8.6[118])、
   死者2,000 - 3,000人 伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M8.4(Mw8.7[注 18]
   死者1,000 - 3,000人 紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M7.3 - 7.5。
1855年2月16日(安政元年大晦日)室戸半島付近で地震 - >Mw7と推定
1855年3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M6+3⁄4±1⁄4又はM6.9[111]、死者少なくとも203人。
1855年9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M7+1⁄4±1⁄4。
1855年11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M7.0 - 7.5、安政東海地震の余震とされる。津波あり。
1855年11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震(安政の大地震) - M7.0 - 7.1、死者4,700 - 1万1000人。
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M7.5 - 8.0(Mw8.3)、三陸・北海道に津波。死者29人。
1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予・安芸で地震 - M7+1⁄4±0.5、死者5人。
1858年4月9日(安政5年2月26日) 飛越地震 - M7.0 - 7.1またはM7.3[111] - 7.6。直接の死者数百人、常願寺決壊による死者140人。
1858年7月8日(安政5年5月28日) 東北地方太平洋側で地震 - M7.0 - 7.5。
1861年2月14日(万延2年2月14日) 文久西尾地震 - M6.0
1861年10月21日(文久元年9月18日) 宮城県沖地震 - M6.4またはM7.2程度[91]、津波、家屋倒壊、死者あり。
1872年3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震 - M7.1±0.2、死者552人。
1872年秋ごろ 小笠原諸島近海で地震 - 父島二見湾で津波の高さ推定3m。
1880年(明治13年)2月22日 横浜地震 - M4.5 - 6.0、煙突多数倒壊。
1881年(明治14年)10月25日 国後島で地震 - M7.0、
1889年(明治22年)7月28日 熊本地震 - M6.3、死者20人。
1891年(明治24年)10月28日 濃尾地震 - M8.0、濃尾平野北西部などで最大震度7相当と推定。死者・行方不明者7,273人。
1892年(明治25年)12月9日・11日 石川県・富山県で地震 - M6.4(9日)、弱い津波。死者計2人。
1893年(明治26年)6月4日 色丹島沖地震 - M7.7、色丹島で2m - 3mの津波。
1894年(明治27年)3月22日 根室半島沖地震 - M7.9 - 8.2(Mt8.2)、死者1人。北海道・東北に津波。
1894年(明治27年)6月20日 明治東京地震 - M7.0、死者31人。
1894年  (明治27年)10月22日 庄内地震 - M7.0、山形県庄内地方の一部で最大震度7相当と推定[122][124]。死者726人。
1895年(明治28年)1月18日 霞ヶ浦付近で地震 - M7.2、死者6人。
1896年(明治29年)1月9日 茨城県沖で地震 - M7.3[125]。
1896年(明治29年)6月15日 明治三陸地震(三陸沖地震) - M8.2 - 8.5(Ms7.2 - 7.9, Mw8.5, Mt8.6)、津波地震、死者・行方不明者2万1959人。
1896年(明治29年)6月16日 三陸沖で地震 - M7.5 の地震が2回発生。
1896年(明治29年)8月31日 陸羽地震 - M7.2、一部地域で震度7相当と推定。死者209人。
1897年(明治30年)2月20日 宮城県沖地震(仙台沖地震) - M7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
1897年(明治30年)8月5日 三陸沖で地震 - M7.7(Mw7.8)、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。
1898年(明治31年)4月23日 宮城県沖で地震 - M7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
9月1日 石垣島東方沖(多良間島沖)で地震 - M7.0。
1899年(明治32年)3月7日 紀伊大和地震 - M7.0またはM6.9 木ノ本・尾鷲で死者7名、三重県を中心に近畿地方南部で被害。
11月25日 日向灘で地震 - 3時34分にM7.1、3時55分にM6.9。
1900年(明治33年)5月12日 宮城県北部で地震 - M7.0、死傷者17人、家屋などに被害。
1901年(明治34年)8月9日 - 10日 青森県東方沖で地震 - 8月9日にM7.2、8月10日にM7.4。死者18人。
1902年(明治35年)1月30日 青森県三八上北地方で地震 - M7.0、死者1人。
1905年(明治38年)6月2日 芸予地震 - M7.2、死者11人。
1905年(明治38年)7月7日 福島県沖で地震 - M7.1。
1909年(明治42年)3月13日 千葉県房総半島沖で地震 - 8時19分にM6.5、23時29分にM7.5。
1909年(明治42年)8月14日 姉川地震(江濃地震) - M6.8、死者41人。
1909年(明治42年)8月29日 沖縄本島付近で地震 - M6.2、死者2人。
1909年(明治42年)11月10日 宮崎県西部で地震 - M7.6。
1911年(明治44年)6月15日 喜界島地震 - M8.0(Mb8.1)、死者12人。


シドモアはずっと日本に滞在していたわけではなく、行ったり来たりしているようなので
シドモアが日本に滞在しているときに、たまたま大きな地震がなかったということだろうか。

しかしシドモア(1856年 - 1928年)が産まれる前の、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(相模大地震?)のことは書いている。

シドモアの調査不足かもしれない。

安政東海地震が起きたのは、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)である。
嘉永7年11月4日に起きた地震なのに、なぜ安政東海地震と呼ばれているのか。

嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に元号が嘉永から安政に改められた。
改元の理由は、 内裏炎上、地震(1854年12月23日の安政東海地震)、黒船来航(1853年7月8日)などがあったためである。

1853年 7月8日  (嘉永6年6月3日)   黒船来航
1854年 12月23日 (嘉永7年11月4日) 安政東海地震 
1855年 1月15日       (嘉永7年11月27日)    元号が嘉永から安政に改められた。

ウィキペディアには
この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる。
 より引用

とあるが、意味がよくわからない。

歴史年表としては、嘉永7年11月4日のことを安政元年というのだろうか?

ウィキペディアの「安政 西暦との対照表」のところを見ると、
安政元年1月を1854年としているが、安政元年1月というのは存在せず、嘉永7年1月というのが正しいのではないか?
そして嘉永7年11月27日より安政元年となり、それはグレゴリオ暦では1855年の1月15日と対応すると。

存在しない安政元年1月などを設けて、グレゴリオ暦と対応させるなどということが歴史年表としては普通に行われているということだろうか。

なぜ安政東海地震というのかわからないが、安政東海地震とはいうが、その地震は嘉永7年11月4日におこった地震であり
その23日後の嘉永7年11月27日に安政と改元されたということである。

p98
この時の大地震を「外国から野蛮人が神国日本へ来たため、神の怒りにふれて起きたものである」と不満分子は見なしました。「日本列島という大地は、巨大な鯰の背中にもたれかかっているので、この怪魚がのたうち回ると例の大振動を引き起こす」という言い伝えもありますつまり、大怪物の頭は蝦夷地、尾っぽは南島、元気な胴体は横浜と東京の地下にあるのです。

黒船来航から5か月後におきた地震なので、「外国から野蛮人が神国日本へ来たため、神の怒りにふれて起きたものである」という人がいたのだろう。

全く科学的ではないが、現在でも科学的根拠なく、原因と結果を結び付ける人はいる。

p99
激震では屋根瓦が崩れ、柱材をぐいと捩じり、丸太や鉄板を詰め込んでいない芯なしの煉瓦煙突は崩れ飛び散り、屋根までぶち抜きます。小さな住宅はまるで怪魚が海から現れたごとくがたがた動き、テリア犬が鼠を捕獲するように家屋をつかみ潰します。庭園の遊歩道で小石が軋り、嶽の高い常緑樹は開閉器のように先端でぽっきり俺、さらに半鐘が鳴り、置時計は止まり、住民は狂わんばかりに広い空き地や大通りを目指し、逃げまどいます。

この記述をよむと、かなりの参事がおきているように思えるが、前半では

p98
地震は年中起きているにも関わらず、幸い激しい揺れもなく、これまで起きた悲劇的震災は一八五四年[相模大地震]と一八五五年[安政大地震]の地震だけです。

と書いておられて、矛盾があるなあと思わなくもないが、日本語訳の問題かもしれない。

㉓雨の日

p99
日本人は水中へざぶんと飛び込みバチャバチャやったり、水に半時間使っても、生水は滅多に飲みません。古い根や茎を掘り出し、腰館をずぶ濡れにしながら江戸城濠や蓮池で仕事をする人でも、雨が降ると、その日は仕事をやめてしまいます。横浜の波止場で手際よく積荷の上げ下ろしをしたり、絶えず海面を出入りする沖仲士でも、にわか雨が降ると仕事を断ることがあります。

仕事内容にもよるが、今でも雨が降ると屋外の仕事はやらないことが多い。
アメリカでは雨でも屋外の仕事をするのは当たり前なのだろうか。

p100
人力車夫は乗客のために居心地よく幌を引き出し、水滴を弾く油脂やゴム製エプロンを結び、さらに車夫本人は今まで以上に簡素化した木綿着姿で、明るく小走りで進みます。彼らは雨傘代わりに大きく平らな皿型藁帽子[饅頭笠]を被り、ワラジを脱ぎ捨て履物代わりに大きな足指をぼろ布や藁束で結び飾って裸足で走ります。


p100
通行人は、足を濡らさぬよう木や油脂で作った爪皮に素足を差し込み、高さ三インチ[七・六センチ]の足駄を堂々と履きます。


足駄は「あしだ」と読み、「下駄」のことである。
7.6cmというのはずいぶんハイヒールだが、実際そういうものがあるようで、下記動画3:18あたりで紹介されている。
晴れの日用に比べて水はね防止のため歯が細くなっているのも特徴。
7:07あたりでは爪皮についても説明されている。


㉔越後屋

p100
雨の滴がパラパラと音を立てて降ると客が飛び込むので、普通どこの店屋も大喜びです。”越後屋[三越]”や”大丸”の大きな絹織物聖天は、東京版ルーブル[パリの美術館]やボン・マルシェ[パリの百貨店]のような雰囲気で客を楽しませてくれます。双方とも大通りの一角にあり、道路からは単なる塀、あるいは間仕切りにしか見えない黒暖簾が風邪でうねり、白っぽい紋章と店の名前が描かれています。

「越後屋」といえば「おぬしも悪よのう」と言いたくなるがw、「越後屋」は三越の前身だったのだ。
(時代劇ではなぜ越後屋が悪とされたのだろうか?)


2:32あたりには人力車も描かれており、シドモアがそこから降りてきそうに感じる。

p100
店に入ると一階の広大な部屋が一瞥でき、その大部屋は周囲の石式通路から一フィート半[四六センチ]ほど高く、床には畳が敷かれ、広さは縦横六〇フィート[一八メートル]以上もあり、すべてはむらなくつやつや光っています。
~略~
ここには棚も帳場もなく、畳には美しく日本髪を結いあげた女性客が何組も座っています。
~略~
買い手が求めるまでは手に取ってみる品本が店先にはなく、注文に応じて小柄なボーイ[丁稚小僧]が直接倉庫から腕に抱えたり、籠に入れたりして絹製品を運んできます。


上の動画1:12辺りにシドモアが記しているのと同様の風景を描いた絵がでてくる。
ただし、向かって左のほうには引き出しや天井近くの高い場所には反物を並べた棚が描かれている。

歌川広重『名所江戸百景』より「大伝馬町呉服店」。店の前を棟梁送りが行く。

歌川広重『名所江戸百景』より「大伝馬町呉服店」。店の前を棟梁送りが行く。

上棟式の後、棟梁の自宅か下小屋で宴会が開かれる習慣があった。職人たちには祝儀がふるまわれた。
この宴会のため、現場から自宅または下小屋へ練り歩くことを棟梁送りといった。

p102
敬虔豊かな骨董あさりの書いては、承認が示すどんな値段に対しても、常に「高い」といって応戦します。もし売り手が売買契約に熱心なら、さらに「たくさん高い」と付け草エマス。「恐ロシ高イ」「途方モナシ、高イ[甚だしく高くて、おはなしにならない]」などといった大げさで妙な古典的表現の日本語を使うと、これを聞いた商人はびっくり仰天し、おうおうにして値段が下がる効果があります。