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シドモアが見た明治期の日本 1


シドモア

エリザ・E・シドモア

シドモアは日本びいきなアメリカ人で、著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」の中でしきりに日本の事をほめている。
その一例をあげる。

※すべてではない。他にも日本や日本人をほめている個所はたくさんある。
※ピンク色の文字の部分が本よりの引用。灰色の文字は私が書いた。
※ピンク色文字の引用先は「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」

p60
また、どこででも湯水、茶、米、果物、茶碗、皿、グラス、コルク栓抜きが簡単に手に入ります。これが当たり前だと思い、清潔な日本の茶屋や居心地よく景色の見渡せる簡素な建て場に慣れ切った旅行者には、この後中国へでも追放されたら、その有り難みがよく分かるでしょう!

日本では必要なものがすぐに手に入ったようだ。

p109
[ロシア皇帝]やカイゼル[ドイツ皇帝]はここ東洋の統治者をさぞかし羨ましく思うことでしょう。この国の群衆は何千人集まっても、爆弾を投げたり、パンや資産の分配で暴動をおこすことはありません。ひたすら桜を愛で賛美し歌に表すだけが目的なのです。

p277
感性の鋭い日本人は、雨の滴が群葉の篩にかけられて湖へ落ちる音に特有の音楽性を感じます[唐崎の夜雨]。

日本人は暴力的でなく芸術を愛する民族ということか。

p256
東海道本線は湖の高い堤防上を走り、堤防には芝生がしかれ、藁束の格子細工で覆われていますが、これは鉄道の敷設される1年以上も前、割れ目に芝生の趣旨を蒔いた結果栄えたものです。付近を通過しながら、でき上がった鉄道線路の断面を見ると、全線が医師の基礎と砂利敷でしっかりと造られ、数世紀間はもちこたえられる構造になっています。日本人は公共工事をあまり急がず、鉄道建設でも熱狂的やり方で労働者を鼓舞したりしません。

日本の公共工事は労働者に無理をさせて突貫工事を行ったりはしない。

p257
親切な人力車夫が貼りだしたバルコニーへ案内し、特別美しい景色を指さしながら、無頓着に上着を脱いで横木に広げ私たちを座らせました。それは朴訥な日本人の優しさから生まれた無償の行為でした。

報酬を要求しない日本人車夫の親切な行為。


しかしシドモアは、明治期の日本のよい面ばかりを記しているわけではない。
彼女の記述が正しいかどうかは検証する必用があり、明治期の日本社会が彼女の記述どおりであったとは断言できないが、いくつかの記述を引用してみよう。

①チップ、ご祝儀

p31 
商店街の開いている魅惑的な通りをゆっくり進む場合は、車夫から特別手当の請求があります。

ゆっくり進むと時間がかかるので、特別手当の請求は当然かもしれない。

p74
ガイドは大勢いて、通常老人や少年が不案内な外人一行に付き沿って歩きます。彼らはとても親切で、礼儀正しく優しい人たちです。好意的に島の周りを一緒に歩くうちに、なんとなく付き添いの通訳として正式ガイドに昇格し、彼らは最終目的を達成します。

「頼みもしないのに勝手にガイドを始める人々がいる」ということだろう。
人によっては、こういう行為を嫌うだろうが、シドモアは「礼儀正しく優しい人たち」と好意的に受け取っている。
「正式ガイドに昇格し、彼らは最終目的を達成します。」とあるが、最終目的とは「ガイド料(チップ)をもらうこと」だと思われる。

p144
あるとき芝居に感激した外人が、帽子、上着、帯・煙草袋など贈り物の嵐を見ながら、自分も帽子を投げました。
その後、興行師と役者の付き人が帽子を返しにきて、10ドル請求したのです。いわば、観客からの贈り物と目されるこれらの品々は、人気スターの価格リストに照らし、現金で買い戻させるための単なる担保没収品にすぎなかったのです。

p147
彼は東京以外の劇場でも演じ続け、ほかの都市との予約もいっぱいで、至るところで本給以外の臨時手当、ご祝儀、贈り物をもらっています。

p146
楽屋にいる人気スター訪問は純然たる商取引です。役者はファンの訪問を受けるために固定料金を設定し、正規の収入源とします。団十郎の楽屋は新富座の舞台裏、大道具装置場付近の高いところにあって、そこから舞台を見下ろす窓があり、このため呼出係を置く必要はありません。ときどき大スターは自ら舞台に向かって怒鳴ったり、化粧準備や気まぐれで、芝居の進行を遅らせたり早めたりします。団十郎の楽屋訪問にお金を払ったファンの扱いほど冷淡で侮蔑的なものはありません。

昔はファンが憧れのアイドルに会う為の手段として、このような制度が存在していたのか?

p274
また明文化されていない習慣として、各出演者には夕食、ささやかなご祝儀、お土産が必用となります。

これは舞妓さん・芸妓さんに対するもの。


つまりご祝儀とは、もともとは相手への感謝の気持ちや配慮が「金銭」を贈る習慣として定着したものなのです。この点がよりビジネスライクな発想の、海外のチップの習慣との大きな違いと言えそうですね。

とあるが、ウィキペディアには次の様に記されている。

サービスしてくれる人をねぎらって、「これで一杯飲んでくれ」と小銭を渡したことがチップの始まりであると考えられる。

ウィキの説明をよむと、チップのルーツは「ねぎらう心」であり、ご祝儀と同じである。
定価以上の金銭を支払うという意味ではご祝儀とチップは同じである。

「日本はチップを受け取らない文化」と言う人がいるが、ご祝儀をうけとる習慣があり、チップとご祝儀はさほど違いはないと思う。

⓶値段をつりあげる。

p102
商人が店から大勢出てきて、自分の背丈の倍もの商品を奥から出し客の前で広げます。それは見る者が抵抗できないほど魅惑的で、しかも低廉です。さらに客を鴨にして何度も値段を下げて言い寄る商売人には抵抗できません!

イザベラ・バードは日本紀行の中で次の様に書いていた。

『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』第一三信(つづきその二)186ページ
それからわたしか伊藤が品物の値段をたずね、女主人が値をいいますが、6ペンスで売る物に4シリング要求していそうなかんじです。(略)
最終的にこちらが1シリング差し出して値段の折り合いがつくと、女主人は実にうれしそうです。
何度もお辞儀と「サヨナラ」を繰り返し合って店をでるときの気分は愉快なものです!
勤勉な女性に本来の倍多く払い、しかもこちらは予算より安く済んだのですから!


イザベラ・バード

イザベラ・バード

シドモアに商品を売った店の主人もはじめはかなり高い値段をいい、徐々にさげたのかもしれない。
しかし、イザベラ・バードもシドモアも金持ちなので、高いとか損をしたとは思っていないようだ。

p235
八合目の基地で会計帳簿を作成し待っていた小屋の主人が、記録メモをたくさんめくり、三日間の外人部隊まかない請求を読み上げました。あらゆるものが品目ごとに箇条書きにされ、皇位で勧めたはずの日本酒や茸シチューさえも含まれていました。主人は本能的に頭をひょいと下げ、私たち七人に総額五八ドルの請求書を見せ、ひたすら言い訳を繰り返し、さらにポーターやボーイからの広義、避難には一切耳を塞ぎ、日本語や英語の脅迫、毒舌を延々と続けました。シャイロック[シェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」の登場人物]のごとき宿主は、ついに半額の三〇ドルで同意し、起源より受け取る段となり、ようやく諍いは終わりました。

③船賃

p248
昔、旅人は大きな川を渡るのに小さな四角い台[輦台]に座り、人足四人の方に担がれ運ばれました。時々、人足はもっとも危険なところで止まり、渡し料金を釣り上げました。結局脅された旅人は不当な要求の言いなりになり、ゆすり取られたのです。

シドモア自身が経験した話ではないので、検証が必要。

④ガイドのピンハネ

p190
熟語会話集に頼りながら、単独で中山道や僻地を旅する外人は、現地での思いやりや安らぎは、まず期待できません。そういう人間は巡礼階層とみなされ、お客様扱いによる部屋の世話や特別料理からは、全く無縁となります。雇ったガイドが主人を少々騙したりするにせよ、得られる旅の快適さや便宜はコストに見合ったものになります。

p190
どんな旅行者でもガイドからぼられていることを敏感に感じますが、質の悪いガイドの割合は遠く離れた地方ほど多く、このため一人旅を強いられるのも事実で、そんなガイドに置き去りにされると、否応なく重荷を背負い、果てしない艱難辛苦を余儀なくされます。

これについてはイザベラ・バードも同様のことを書いていた。

『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』第一二信 167ページ
入町―湯元を断つ前に、わたしはピンはねの手口を知りました。
清算を頼むと、請求書は私に渡されず、宿の亭主は二階へ駆け上がって伊藤にいくらにすべきか尋ね、
ふっかけて得た儲けをふたりで分けようと話をもちかけたのです。
何を買っても従者は「ピンはね分」を得ます。
宿代に関しては非常に巧みに行われるので、防ぎようがなく、納得のいく範囲で収まっているかぎりは気をもまないことです。

ここでバードが従者と書いているのはガイドの伊藤のことである。

伊藤鶴吉

伊藤鶴吉
彼はシドモアの日光の旅のガイドもつとめた。

⑤貧富の差

p71
しかも生活や環境に関する徹底した衛生観念は、裕福な家庭と同様、貧しい家庭の習い性となっています。

「貧しい家庭でも衛生的である」とほめる文章だが、貧富の差があったことをも示している。

p139
身分の高い日本人にとり、自ら劇場入口へ行き見物料を払って入場する行為は、かなり体裁の悪いことなので、そういう観客は少なくとも1日前、当日の切符手配のために劇場のそばの茶屋へ使いを走らせ、仲介を通して座席を確保します。つまり茶屋は切符売場と組んだダフ屋なのです!

このような座席の買い方をすると、どのぐらい余計にお金が必用になったのか気になる。

⑥天皇

p149
封建時代、天皇は臣下である将軍の実質的な捕囚として、京都御所の黄色の土塀(築地塀)の中で生まれ没しました。臣民の事は何もしらず、臣民に知られることもありませんでした。

同様の話は聞いたことがあるが、事実かどうかわからない。

p168
この東京の宮廷社会では、当然のごとく徒党や派閥があり、さらに内紛や争い、それに伴う勝敗があり、君主の寵愛をめぐって絶え間ない策動と陰謀が渦巻いています。

⑦華族

p169
日本の華族リストには、爵位の人数(公爵一一、侯爵三四、伯爵八九、子爵三六三、男爵二二一)と名前が載っています。

p169
華族リスト上位には、天皇の身内血縁の全親王を据え、次に爵位の授与さrた侯爵一〇名が続きます。この新設侯爵の一〇家のうち、五家は旧五摂家で、これは旧京都宮廷を構成する一五五家の中に筆頭公家です。旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。

p171
東京の社交界はダンスを楽しみ、宮廷の誰もがダンスの名手です。上流社交界のリーダーたちは、カドリール・オヌール[四人一組で踊る表敬ダンス]をくまなく演舞でき、公式舞踏会はこれを皮切りにオープンとなります。

日本社会には身分制度、階級制度はなかったという人がいるが、そんなことはなかったのである。
公爵、侯、伯爵、子爵、男爵などの身分があり、特権をもっており、舞踏会を開くなどしていたのである。

乞食

p82(増上寺)
芝の巨大な山門[三解脱門]を抜け、愛宕山へ抜けて疾走。そこには緑深き険しい山頂へ向かって幅広い連続する直線階段の男坂や緩く中途半端な傾斜で曲がる一本道の女坂があり私たちは各自参道を選んで可愛らしい神社にたどりつきました。
近くには白い皮膚が鱗状になった潰瘍の酷い人がいて、悲しげに施しものに手を伸ばします。

乞食は私が子供のころにもいた。
最近は乞食をする人は見かけないが、ホームレスの人はいる。

⑨芸者

p125
芸者は日本女性の中でも教養程度がとても高く、多くの女性が素晴らしい結婚をしております。

芸者の中には政治家や実業家と結婚した女性は大勢いるが、「置屋の幼女にそのような自由は許されなかった」と芸妓・扇弥さんは語っておられる。

⓾低階層の人々

p186
日本人全員がにぎやかにおしゃべりをし、低階層の人はそれにも増して多弁となり、さらに車夫仲間も加わって全員一度に元気になりました。

「低階層」という言葉があり、明治の日本が階級社会であったことをうかがわせる。

p203
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。それは動物の屠られた死体を扱い、皮や毛皮で衣服をつくる人を蔑んだためです。差別の起源には彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く務めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます。部落民の人たちは以前は、身分制度の中で、より身分の高い近隣住民とは孤立した生活を送ることを余儀なくされてきました。

⑪働くおかあさん

p442 茶焙じ労働者の話
さらに痛ましい光景は、夕暮れ時、婦人たちが赤ちゃんを背にし、作業倉庫から家路へとぼとぼ歩いて帰る姿です。赤ちゃんといえば、一日中倉庫の前庭で遊びまわる兄や姉の背中で跳ねたり、母親のいる炭火鍋に違い、片隅の安全なところに寝かせられたりします。
以前、とても教養のある婦人に「なぜ、託児所や全日保育の運営を慈善事業として考えないのですか?」と尋ねたことがあります。その答えは、「外人共同社会はあまりにも小規模なため、そのような制度を支えるのは財政的にとても無理です」とのことでした。各倉庫には大きな専用託児所を必要としますが、貧しい婦人たちは、稼ぎがわずかなため負担する余裕もなく、この問題は倉庫責任者地震が解決しなくてはなりません。

昔の女性は家にいて家事・子育てをしていたと思っている人がいるが、明治期に赤ん坊を職場につれてきて仕事をしていた女性がいたのだ。
日本で専業主婦が定着したのは戦後の1950年代とされる。


⑫泥棒

p97
半鐘が鳴ると近所のひとたちは被災した友人を助けるために突進し、泥棒はこのチャンスをできるだけ利用します?!

家事になると泥棒被害がふえたのだろうか。
アニメ「火垂るの墓」では主人公の青年は空襲警報のたびに泥棒行為を行っていたが。
こちらの記事では1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で家が家事になった際、泥棒にあった経験がつづられている。

⑬表現の自由の制限

p147
日本政府は、新聞と同じように芝居にも一定の検閲を実施し、不快な演劇を禁止したり、必要なら興行師や劇団員を逮捕します。政治的事件を揶揄することは許されず、当局は人心を掻き乱すような表現を一切禁じています。かつて徳川幕府は「四十七名の浪人」の上演に対し検閲を行いました。なぜなら、その主な論旨と多くの場面は、将軍の腐敗した裁判手続きをはっきりと批判していたからです。このため維新まで、忠臣蔵(忠義同盟)と名前を変えて上演し、芝居内容は歴史的事実とは遠く外れていました。

日本には、表現の自由がなかったということである。

p178
威厳ある皇室情報誌はありますが、それは官報です。国内の出版物に対して、記事抹消を行う厳しい検閲があるため、東京には社交界のゴシップやスキャンダルを扱う面白い新聞がいまだにありません。もちろん皇室を回想した本もありません。

皇室の情報開示はタブー視されていたということだろうが、それは現在でも存在していそうである。


⑭廃仏棄釈

p196
しかし、維新後、神道が国家宗教となり、天皇が日光へ巡礼された際、家康の霊廟からは祭壇の壮麗な装飾、旗印、紋章が剥ぎ取られ、素朴な鏡と空なる神道の御幣に置き換わりました。

p313
たくさんあった徳川家の三葉葵は、どこも天皇家の菊の紋に取って変わりました。 

p313は京都・二条城の話である。

「廃仏棄釈はなかった。疲弊した寺の僧侶が寺宝や寺領を売りさばいたのだ。」という人がいた。
そういうこともあったかもしれないが、シドモアの文章を読むと、少なくとも日光と二条城では、天皇に対する配慮から家康をイメージさせる紋章などは取り除かれたように思える。

また伊勢神宮に明治天皇が訪問された際、伊勢神宮と関係のある多くの寺院は移転させられたり、廃された記録が残っているそうである。




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トンデモもののけ辞典105 がこぜ 『頭に蛇がまきついた童子』


元興寺(がこぜ)

作者不詳『化物づくし』より「がごぜ」

①妖怪がこぜ(元興寺) 

元興寺の境内にはオレンジ色のハルシャギクが咲き乱れており、花の間からたくさんの石仏が見え隠れしていた。
ハルシャギクは中心が紅色、周囲がオレンジ色の蛇目模様になっているので別名を蛇目草という。
蛇目というのは蛇の目のことである。

ハルシャ菊 元興寺

元興寺 ハルシャギク

蛇といえば、『日本霊異記(822年ごろに成立)』に記された元興寺の伝説を思い出す。
その伝説の中に『頭に蛇を巻いた童子』が登場するのである。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、落雷と共に雷神が落ちてきた。
農夫が殺そうとしたが、雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言った。
そこで農夫は雷神を殺さずに、空へ返した。
やがて農夫の妻が子供を産んだが、その子供は頭には蛇が巻きついた異様な姿であった。
成長した子供は元興寺の童子になった。
そのころ元興寺では連日童子たちが鬼に殺されるという事件がおきていた。
ある夜、童子が鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れたので、鬼の髪の毛を掴んで引きずり回した。
髪をむしりとられた鬼は逃げ去り、童子はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼を見失った。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思った。
ここからこの辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになった。
今も元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っている。
血痕を辿って行くと、不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりついた。
それは昔元興寺で働いていた下男の墓であった。
鬼棲山は現在の奈良ホテルのあたりとされる。
この鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪である。
その後、元興寺の田に水を引こうとしたとき、王族によって妨害されるという事件がおきた。
このときもこの童子の活躍によって無事水をひくことができた。
そのため童子は出家・得度することを許されて、道場法師と呼ばれた。
道場法師は尾張の国に元興寺(願興寺)を創建し、奈良の元興寺の支院とした。

頭に蛇を巻いた童子とあるが、興福寺の八部衆のひとつ、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いた姿をしている。

興福寺 左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像

興福寺 左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像

⓶敏達天皇代、元興寺はなかった。

この物語には大きな矛盾がある。
元興寺は飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)を前身とするが、法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことである。
718年、法興寺は平城遷都に伴って奈良に移転し、元興寺と称するようになった。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしているが、敏達天皇の在位は572年-585年である。
敏達天皇の御世、法興寺も元興寺もなかったのである。
あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないだろうか。

③聖徳太子が建てた四天王寺に守屋祠が

敏達天皇に仕えた人物で、元興寺に関係する人物に蘇我馬子がいる。
蘇我馬子が元興寺の前身である法興寺を飛鳥に建てたのは廃仏派の物部守屋との戦いに勝利したためだった。
このとき、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

四天王寺

四天王寺

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれている。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられた。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったのだという。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためである。

四天王寺 守屋祠

守屋祠

守屋祠の存在は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものでもある。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだとも考えられるからである。

そして四天王寺と⓶でお話しした法興寺(元興寺の前身)はどちらも「物部守屋との闘いに勝利した」ことをみほとけに感謝して建てられた。

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たらないが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えている。
飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神があるからだ。

飛鳥坐神社

飛鳥坐神社

大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命という。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説がある。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられている。
物語に登場する頭に蛇を巻いた童子は物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないだろうか。

④自分で自分を退治して神として祀られる。

陰陽道では荒ぶる怨霊(荒霊)は神として祀り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えるのだという。
また神はその現れ方によって御霊・和霊・荒霊の三つに分類される。
神の和やかな側面を和霊、神の荒々しい側面を荒霊、神の本質を御霊という。
頭に蛇を巻いた童子が和霊で、がこぜは荒霊であるが、その本性である御霊は物部守屋なのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和霊・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのである。

もちろん、『自分で自分を殺して神として祀る』なんてことは普通はできない。
物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのだ。
(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)

『守屋は自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方に他ならないと私は思う。
元興寺では節分には、『福は内、鬼も内』と言って豆を撒く。
福とは道場法師のことだろうが、鬼である『がこぜ』もまた道場法師のことなのだろう。
それで、元興寺では『鬼は外、福は内』でもなく、『福は内、鬼も内』といって豆撒きをするのではないだろうか。








[ 2022/06/22 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

トンデモもののけ辞典104 影女『影と話をする陰』

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「影女」

①鳥山石燕が描いた影女

上の絵はちょっとわかりにくい。
↑ こちらに掲載されているもののほうが鮮明でわかりやすい。

松の枝のように見えるが、長い髪を逆立てた人が逆立ちするような形で障子に映っている。

絵に添えられた文章には次のように記されている。

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。」
を現代語訳すると「もののけがいる家には、月かげに女のかげが障子などにうつるという」というような意味になると思う。

「荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」
については、他の方が書かれた記事を引用させていただこう。

 石燕が例に出している問答は『荘子』斉物論篇にあるもので、罔両が影に「歩いたり止まったり節操のないことだ」と言うと、影は「自分の意思で動いているのではなく、ただ人間の動きに従っている」と答えたというものです。

なるほど、「罔両と景と問答せし事」とはこのことを言っているのだ。

⓶罔両は「うっすらしたかげ」「妖怪」を意味する。

罔両は人の名前かと思ったが、そうではなかった。
罔両について調べると次のようにでる。

 [1] 〘名〙
① 陰影のふちに生じる薄い影。ぼんやりした影。
~略~
② ⇒もうりょう(魍魎)
[2] 〘形動タリ〙 よりどころがないさま。たよりないさま。
~略~


さらに陰影の意味についても調べてみた。

陰影

1 光の当たらない、暗い部分。かげ。「ライトを当てて被写体に―をつける」
2 物事の色・音・調子や感情などに含みや趣があること。ニュアンス。「―に富んだ文章」


物体にライトを当てると、物体に明るい部分と暗い部分ができる。その物体の暗い部分の事を陰影というのだろう。

 

陰影について、上の動画がわかりやすいと思う。

石膏像の向かって右のほうは、向かって左の方に比べて色が濃く見える。
この部分のことを陰影というのだろう。(間違っていたら指摘お願いします。)

そして石膏像の向かって右の壁のあたりにうっすらとした陰ができている。
この陰は光が石膏像によってさえぎられることによって生じたものである。

 罔両とは、「 陰影のふちに生じる薄い影。」ということなので、この石膏像の向かって右の壁のあたりに生じている陰のことをいうようである。

また魑魅魍魎という言葉があるが魅(ちみ)罔兩(もうりょう)とも記すようである。

ちみ-もうりょう【魑魅魍魎】
人に害を与える化け物の総称。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。▽「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。

うっすらとしたかげ。妖怪。〔左伝、宣三年〕鼎を鑄て物を象(かたど)り、~民をして姦を知らしむ。故に民、川澤山林に入るも、不(ふじやく)(怪物)にはず、魅(ちみ)罔兩も能く之れにふ(な)く、用(もつ)て能く上下に恊(かな)ひ、以て天の休(福)を承(う)く。

ともあり、罔兩には妖怪という意味もある。

③景、影,陰の意味


景、影,陰の意味は以下のとおり。

①ありさま。ようす。けしき。 ②あおぐ。したう。 ③そえる。たす。 ④大きい。めでたい。

①光がさえぎられてできる黒いかげ。 ②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。

①かげ。日かげ。物におおわれているところ。 ②人目につかない。人知れず。③暗い。 ④消極的な。静的な。⑤時間。

ややこしいのは、「①光がさえぎられてできる黒いかげ」のことも、「③光に映し出された姿かたち」のことも
影といい、さらに陰「①かげ。日かげ。物におおわれているところ。」と同じ発音になっていることである。

混乱しないようにするため、個々では便宜上、仮に次のように定義して話を進めることにする。

景・・・・・・ありさま
影・・・・・・光に映し出された姿形
かげ・・・・・光がさえぎられてできる黒いかげ
陰・・・・・・かげ 物におおわれているところ

影の「①光がさえぎられてできる黒いかげ」とは、上の動画の石膏デッサンの物体の暗い部分(物体にできた暗い部分)のことをいうのだろうか。
陰の「①かげ。日かげ。物におおわれているところ」は石膏像に光がさえぎられて壁にできた暗い部分(光が物体にさえぎられて壁や地面などにできた暗い部分)のことだろうか。
よくわからないが、ややこしくなるので、便宜上、上のように定義して話をすることにする。

④影女は言葉遊び?

もう一度、石燕の絵に添えられた文章を読んでみよう。

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「月かげ」は漢字表記すると「月影」だろう。
月影には、3つの意味がある。①月の姿。⓶月の光。③月光に照らしだされる人や物の姿。

最近の町は夜でも明るいので、気がつきにくいが、
太陽の光に照らされて人や物の「かげ」ができるように、月の光に照らされて、人や物の「かげ」ができることがある。
我が家でも月の明るい夜に家の照明を落とすと、窓から月の光が差し込み、窓の格子の形が「かげ」になって床に映ることがある。
しかし、「月影」とはその「かげ」ではなく、「月の姿」「月の光」「月光に照らし出される人や物」という意味であったのだ。(勘違いしていたw)

❷「女のかげ」の「かげ」の漢字表記は「影」だろうか。
影の意味、①光がさえぎられてできる黒いかげ。 ②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。
のうち、①③の可能性が高いと思う。
ここでは③「光に映し出された姿形」としておく。

❸荘子にも罔両と景と問答せし事あり。

『荘子』斉物論篇の問答
罔両が影に「歩いたり止まったり節操のないことだ」と言うと、影は「自分の意思で動いているのではなく、ただ人間の動きに従っている」と答えたというものです。

この記事では影となっているが、「罔両と景と問答せし事」とあるので、罔両が話をしたのは影ではなく景とするのが正しいのではないのだろうか。

景の意味は①ありさま。ようす。けしき。 ②あおぐ。したう。 ③そえる。たす。 ④大きい。めでたい。だった。

罔両と問答をした景とは「①ありさま。ようす。けしき。」ではないだろうか。
景がどんな「ありさま」だったかというと、「歩いたり止まったり節操のない」ありさまだったのである。

「歩いたり止まったり節操のない」景(ありさま)は、「ただ人間の動きに従っている」と答えているので、
景(ありさま)の正体は、影だろう。

影には4つの意味があった。
①光がさえぎられてできる黒いかげ。 (物体の暗い部分)②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。

「人間の動きに従うもの」なので、⓶ではない。④もちがうだろう。
すると、①光がさえぎられてできる黒いかげ。 (物体の暗い部分) ③光に映し出された姿形 のいずれかだということになるが、
 ③光に映し出された姿形としておこう。

そして景(ありさま)と問答をした罔両は「かげ」だろう。

つまり、「景(ありさま)=影(姿かたち)」と「かげ」は問答しているわけである。

❹「景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「景」は「歩いたり止まったり節操のない(ありさま)」であり、影「姿形」である。
そして、罔両は影(光がさえぎられてできる黒いかげ)であると同時に
景(姿形)のそばにあるわずかな陰(ものに覆われているところ)であるともいえる。

さらに罔両には妖怪という意味もあるので、障子に妖怪の姿としてかげが現れたという事ではないかと思う。

⑤影女の正体は女郎?

影女について、ウィキペディアは次のように記している。

伝記作家・山田野理夫の著書『東北怪談の旅』には「影女」と題し、山形県の怪談が以下のように述べられている[2]。

その昔。増田という者が鶴岡城下に住む友人の酒井吉左衛門の家を訪ねた。家の近くまで来ると、窓から若い女の姿が見えた。

家に入り、益田が吉左衛門と2人で酒を酌み交わしていると、やがて障子越しに女の影が見えた。吉左衛門が言うには、それは影女であるという。

話している内に今度は庭に女の姿が現れたが、家の中には近づいて来なかった。



窓から若い女の姿が見えた・・・・影 (光に映し出された姿形)
障子越しに女の影が見えた・・・・かげ (光がさえぎられてできる黒いかげ)・・・罔両(うっすらしたかげ)

となっていて、「罔両と景と問答せし事」と同様の書き分けがなされている。

そして、女の影は罔両(うっすらしたかげ)でもあるので罔両(妖怪)にも転じたということだろう。
家の中に近づいてこないのは、罔両は「うっすらしたかげ」で実態のないものであるためではないだろうか。

かげ【影/▽景】 の解説
《「陰」と同語源》
1 日・月・星・灯火などの光。「月の―」「木陰にまたたく灯火 (ともしび) の―」
2 光が反射して水や鏡などの表面に映った、物の形や色。「湖面に雲の―を落とす」
3 目に見える物の姿や形。「どこへ行ったのか子供たちの―も見えない」
4 物が光を遮って、光源と反対側にできる、そのものの黒い像。影法師。投影。「夕日に二人の―が長く伸びた」
5 心に思い浮かべる、人の顔や姿。おもかげ。「かすかに昔日の―を残す」
6 ある現象や状態の存在を印象づける感じ。不吉な兆候。「忍び寄る死の―」「社会に暗い―を落とす事件」
7 心に思い描く実体のないもの。幻影。まぼろし。
「そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の―を楽しむ幸福で」〈二葉亭・浮雲〉
8 つきまとって離れないもの。
「寄るべなみ身をこそ遠く隔てつれ心は君が―となりにき」〈古今・恋三〉
9 やせ細った姿のこと。
「恋すれば我身は―となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ」〈古今・恋一〉
10 死者の霊魂。
「亡き―やいかが見るらむよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる」〈源・須磨〉
11 よく似せて作ったもの。模造品。
「誠の小水竜は、蔵に納め―を作りて持ったる故」〈浄・五枚羽子板〉
12 江戸時代、上方の遊里で揚げ代2匁の下級女郎。


「12 江戸時代、上方の遊里で揚げ代2匁の下級女郎。」とあるところを見ると、影女の正体は女郎だったのかもしれない。



トンデモもののけ辞典①103 餓鬼憑き『餓鬼憑きは低血糖症の症状?』

旧河本家本『紙本著色餓鬼草紙』第3段「食糞餓鬼図」

旧河本家本『紙本著色餓鬼草紙』第3段「食糞餓鬼図」

①餓鬼憑き

餓鬼に憑かれるのは主に山道を歩いているときなどとされ、憑かれると身動きが取れなくなってしまい、歩いている最中だった場合は一歩も前へ進めなくなってしまう[2]。
神奈川県のヤビツ峠では、合戦で餓死した兵の亡霊が餓鬼となってさまよい、食物をあさっている為、峠越えをする旅人は急に空腹となり、歩行困難に陥いるため、食物を峠に供えて越えなければならないとされている。[3]
餓鬼憑きに遭った場合には食べ物を口に入れることで逃れられるとされる[2]。和歌山県の北部ではこの食べ物は一粒だけの米でも良いとされ、それすら持ち合わせがないときには「米」という字を掌に書いて嘗めることでも良いという[2]。また高知県の土佐清水地方でも餓鬼飯といって、餓鬼憑きに備えて弁当の中身を一口ほど残す慣わしがある[2]。新潟県では餓鬼憑きで空腹に襲われた者にすぐに食べ物を与えることは良くないといい、粥、雑炊、味噌汁などの軽めの食事を出すという[2]。
前もって餓鬼憑きを避けるための方法も伝わっている。和歌山北部では、山中で弁当を食べるときには、その中身の一口分だけを周囲に撒くと餓鬼憑きに遭わないという[2]。
なお餓鬼とは、本来は仏教における餓鬼道の亡者を指し、仏教説話集である『因果物語』にも、『慳貪者、生きながら餓鬼の報いを受くる事』と題して、餓鬼道の霊が人に取り憑く話が語られているが、民間の伝承における餓鬼憑きの餓鬼とは、一般的には行き倒れになった者や餓死者の怨霊のことを指している[2]。

西日本に広く伝承される憑き物・ヒダル神も、餓鬼憑きの類として知られる[4]。


⓶急にお腹がすいて動けなくなる症状は低血糖症では?

急にお腹がすいて動けなくなる症状は、低血糖症ではないかと思う。

異常な空腹感を感じるのは、血糖値が異常に低下した「低血糖」になっていると考えられます。
インスリンというホルモンの効きが良すぎると、血糖値が急激に下がり、低血糖となります。
低血糖の症状が食後に起こる場合、「血糖値スパイク」という血糖値の急激な上昇と下降が起こっている可能性が高いです。

また、糖尿病の初期症状で、インスリンの分泌が遅れることで低血糖が起こるケースもあります。

【セルフチェック】低血糖の症状リスト

次の症状が1つでも頻繁に起こる場合は、低血糖になっている疑いがあります。
はやめに医療機関を受診しましょう。
異常な空腹感がある
動悸がする
手指が震える
めまいがする
集中力が低下する
脱力感や倦怠感が起きる
疲れやすくなる
眠くなる
意識が低下する
冷や汗が出る


③古の日本人は炭水化物の多い食事を摂っていた?

上の記事では、「低血糖になりやすい」2つの行動として、

①炭水化物の多い食事を摂る
⓶ストレスを溜めこんでいる・睡眠不足

のふたつをあげている。

奈良時代以降、日本人の食事は米食中心。昔は一体どのくらい食べていたのか。戦国時代の資料では、侍は玄米と麦などを混ぜたものを1日最低6合食べていたとか。これで約3150キロカロリー。


日本では長年肉食が禁じられていた。野菜だけではすぐお腹がすく。そういうわけで、米・麦・稗などの炭水化物をたくさん食べていたのではないかと思う。

すると、①炭水化物の多い食事を摂る、ということになってしまう。

④古の日本人は睡眠不足ではなかったかもしれない。

経済協力開発機構(OECD)の21年版調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で加盟国のうち30カ国で最下位。全体平均の8時間24分とほぼ1時間もの差がある。厚生労働省が20年に公表したデータでも、20代以上で6時間未満の睡眠だった人が39%だった。


これは2021年度の記事。
現代の日本人は睡眠不足だと報じているが、平均睡眠時間7時間22分で睡眠不足というのはオドロキだった。
時間的な余裕がなく、平均して5~6時間しか眠れない人も大勢いるのではないだろうか。

私が若いころも、棚卸で残業、翌日には棚卸表を会社に提出することが義務付けられていたので
月末には徹夜が当たり前だった。(ブラック企業ですねw)

その点では、昔は夜になると照明もないので、十分な睡眠がとれていたかもしれない。

しかしストレスはあっただろう。戦国時代の武士などは明日命をおとすかもしれないという緊張感を常に持っていたのではないだろうか。

⑤低血糖が起きたときの対処法

・神奈川県のヤビツ峠では、合戦で餓死した兵の亡霊が餓鬼となってさまよい、食物をあさっている為、峠越えをする旅人は急に空腹となり、歩行困難に陥いるため、食物を峠に供えて越えなければならないとされている。[3]

・餓鬼憑きに遭った場合には食べ物を口に入れることで逃れられるとされる[2]。

・また高知県の土佐清水地方でも餓鬼飯といって、餓鬼憑きに備えて弁当の中身を一口ほど残す慣わしがある[2]。

とあるのは、低血糖症になって空腹で動けなくなったときのための対策を伝えるものだろう。

低血糖が起きた時の対処法

症状を感じたら、すぐにブドウ糖(10g)、ブドウ糖を含む清涼飲料水(150〜200mL)、砂糖(20g)などのいずれかをとり、安静にしましょう。

車を運転している場合
車を運転している場合は、すぐ車を止めて対処しましょう。

普通は速やかに、短時間で症状が治まります。15分以上たっても低血糖症状が治まらない場合は、再度同じものを摂取しましょう。





トンデモもののけ辞典102 『カーカンローの正体は井戸の水に映った子供の姿だった?』



朱里石畳のカー

朱里石畳のカー

①カーカンロー

沖縄県に伝わる妖怪。井戸に潜んでおり、覗き込んだ子供を引きずり込むという。水面に映る影を抜かれると病になるともいわれる。
より引用

カー」は井戸を
「カンロー」は子供を意味する。

検索すると確かに井戸のことは「カー」というとある。
しかし子供は「ワラバー」とでてくる。
複数の表現があるということかもしれない。

瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻(冊封七碑)がある。

とあるので「井戸(カー)の甘露(カンロー)」という意味ではないかと思ったりもした。

甘露について、goo辞書には次のようにある。

1 中国古来の伝説で、天子が仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露。
2 《(梵)amṛtaの訳。不死・天酒の意》天上の神々の飲む、忉利天 (とうりてん) にある甘い霊液。不死を得るという。転じて、仏の教え、仏の悟りにたとえる。
3 煎茶の上等なもの。
4 夏に、カエデ・エノキ・カシなどの樹葉からしたたり落ちる甘い液汁。その木につくアブラムシから分泌されたもの。
5 「甘露酒」「甘露水」の略。
[名・形動]非常においしいこと。甘くて美味なこと。また、そのさま。「ああ、―、―」


首里城・瑞泉門にある泉「龍樋」にある「中山第一甘露」の石碑には、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻があるという。

中山とは現在首里城のある地名であり、首里城の別名でもある。
「中山第一甘露」とは首里城の一番目の甘い水、というような意味で
この龍樋の水が湧き出るのは、琉球王の仁政を天が感じて湧き出させた、というような意味も込められているのかもしれない。

冊封使とは、中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節のことである。

ということは「カーカンロー」とは「井戸の甘露」という意味かもしれないと思ったりするが、どうだろうか。(自信なしw)

⓶井戸は閻魔庁へ通じる入口

井戸といえば平安時代の官僚だった小野篁が六道珍皇寺にある井戸から閻魔庁へ通っていたという伝説を思い出す。
通常、この井戸は公開されておらず、手持ちの写真がない。
下記サイト2枚目にその井戸を撮影した写真があるので、そちらを見ていただきたい。

ともかく、井戸は閻魔庁に通じる入口なのだ。

六道珍皇寺

③沖縄のナンカスーコー

沖縄ではどうだろうか。

沖縄では「七日焼香(ナンカスーコー)」といって、葬儀から四十九日までの間、七日毎に法要を行う習慣があるという。

初七日・タナンカ(二七日)・ミナンカ(三七日)・ユナンカ(四七日)・イチナンカ(五七日)・ムナンカ(六七日)
シジュウクニチ(四十九日)
と本土の習慣と同じである。

ちなみに本土では
初七日(ショナノカ)・二七日(フタナノカ)・三七日(ミナノカ)・四七日(ヨナノカ)・五七日(イツナノカ)・六七日(ムナノカ)四十九日(シジュウクニチ)と発音する。

沖縄のは、死者の魂がゆるされるよう、遺族らが地獄の裁判官に許しをこうのがナンカスーコーであり
これによって、死者の魂は地獄におちずに済むとされる。

① ハチナンカ(初七日)・・・不動明王(秦広王)が必要のない殺生があったかどうかについて裁く。
② タナンカ(二七日)・・・三途の川を渡る。生前の所業によって川の流れや状況が変わる。
善人は川に橋が掛けられる。川を渡り切ったところで懸衣翁・懸衣嫗が、故人の着物がいかに濡れているかを重さで確認して、釈迦如来(初江王)に伝える。
③ミナンカ(三七日)・・・文殊菩薩(宋帝王)が生前の貞節を調べて裁き「邪淫の罪」が下されます。
④ユナンカ(四七日)・・・普賢菩薩(五官王)が天秤を使って生前の言動を裁く。
⑤イチナンカ(五七日)・・・地蔵菩薩(閻魔大王)が生前の悪行全てを映し出す「浄瑠璃の鏡」を用いて裁く。
⑥ムナンカ(六七日)・・・弥勒菩薩(変成王)がユナンカの五官王の天秤と、イチナンカの閻魔大王の浄瑠璃の鏡から、最終的な裁きを検討する。
⑦シジュウクニチ(四十九日)・・・最後の裁きが下り、六道のどこへいくかが決定される。
悪人は「地獄・餓鬼・畜生・修羅」へ、普通の人は「人の道」、善人は「天の道」へ。
 
詳しくはこちらの記事をお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-852.html(滋賀県・真如寺の地獄絵に描かれた中陰)

残念ながら沖縄における井戸と地獄の関係はわからなかったが、これだけ本土と沖縄の習慣が似ているのであれば
沖縄においても、井戸を地獄の入り口とみなす信仰はあったかもしれない。
(詳しい方、教えてください!)

だとすると、井戸に潜んで、覗き込んだ子供を引きずり込む妖怪とは、地獄の死者だと考えることができるだろう。

千本えんま堂狂言

千本えんま堂 閻魔像

④妖怪・カーカンローの正体は、井戸の水に映った子供の姿?

もうひとつ、カーカンローについて思いつくことがある。

曽爾高原のお亀が池に伝わる次のような伝説である。

伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていた。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といった。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになった。
男が理由を尋ねると『子供を授かるように水垢離をしている。』と言いったた。
お亀は男児を出産し、姿を消した。
夫はお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませた。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消した。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きった。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かった。
夫はなんとか逃げ帰ったが、すぐに亡くなった。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死にました。
もとはこの池は太良路池といっていたが、このお亀の事件があってからお亀ヶ池というようになりった。
またお亀が襲い掛かった場所を「大口」、一直線に追いかけてきたところを「立堀(たてほり)」、大蛇が疲れて休んだところを「弊足(びょうそく)」、水を飲んだところを「水舌(みずのみ)」と地名が残っている。

井戸に映った美しい男性とは、鏡に映ったお亀の姿だと考えられる。
とすれば、井戸を覗き込んだ子供を引きずり込む妖怪・カーカンローの正体は、井戸に映った子供の姿だということになる。

お亀が池

お亀ヶ池

⑤実像が虚像にいれかわる物語

他にも思い浮かぶ物語がある。
記紀に記述のある、雄略天皇と一言主大神が狩をしていて出会ったエピソードである。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあった。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていた。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきた。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえた。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきた。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上した。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送った。 

雄略天皇と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものなのではないだろうか。

お亀&美しい男性は「水鏡」、雄略天皇と一言主大神は「木霊(山彦)」だが
どちらも、実態と虚像(影、山彦)の話という点で一致する。

一言主神社 公孫樹

葛城一言主大神

一言主大神は雄略天皇を長谷(奈良県桜井市)まで送っているが、長谷とは死の国の喩えだと思う。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』だが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもある。
『志多備国』とは『黄泉の国』のことである。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないだろうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともある。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓がある。

長谷寺 牡丹3

長谷寺

「名前を問われたほうが先に名乗る」というような習慣があったのだろうか。
雄略天皇はそれを忘れてうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神が、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。」と言って名をなのって矢を放ち、
雄略天皇は矢で射抜かれて崩御してしまったということだと思う。

⑥一言主大神は女神だった?

余談となるが、一言主大神は女神だと考えられる。
というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからだ。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)

これに対して彼女はこう答えたのではないかと思う。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』

一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

しかし、狩りと菜摘みは関係がある。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思う。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていた。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があるので、同一神ではないかと思うのだ。

平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されている。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。

容姿を気にするあたり、やはり一言主神は女神じゃないのかな、と思ってしまう。

祇園祭・役行者山の御神体 中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神

祇園祭・役行者山の御神体 中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神

⑦カーカンローはギリシャ神話の影響を受けている?

もうひとつ、思い出す話がある。ギリシャ神話の「ナルキッソス&エーコー」の話である。

ナルキッソスはアプロディーテーに魔法をかけられ、愛された相手を拒むようになった。
エーコーはヘーラーに他人の言葉を繰り返すことしかできないように魔法をかけられていた。
ナルキッソスはそんなエーコーを退屈に思い、振ってしまう。
侮辱を罰する神・メネシスはこれを見て、ナルキッソスが自分しか愛せないように魔法をかけた。
ナルキッソスは泉に映った自分に恋し、水面に映った自分に口づけしようとして泉に落ちて死んた。
ナルキッソスが死んだあと、水辺には水仙の花が咲いていました。(ギリシャ神話)

ナルキッソス

カラヴァッジオによって描かれたナルキッソス

エーコーは木霊(山彦)の神だが、一言主大神も木霊(山彦)の神だと考えられる。
雄略天皇と同じ言葉を返しているからだ。

そしてナルキッソスは水鏡に映った自分の姿に恋しますが、雄略天皇の木霊だと考えられる一言主大神は雄略天皇と同じ姿をしていたとある。

ナルキッソスが拒んだエーコーとは鏡に映った自分の姿(性別は男から女に変わっているが)だったのではないだろうか。

つまり、ナルキッソスは自分の虚像であるエーコーを退屈に感じていたが
メネシスに「自分しか愛せないように」魔法をかけられたため、自分の虚像(水鏡に映った自分の姿)であるエーコーを愛し
そして、ナルキッソスとエーコー(水鏡に映ったナルキッソス)は立場が逆転し(一言主大神と雄略天皇の立場が逆転したように)
ナルキッソスが虚像(エーコー)となり、虚像のエーコーが実像(ナルキッソス)になってしまったという話のように思える。

このように考えると、「一言主大神&一言主大神」の話は「ナルキッソス&エーコー」の話に大変よく似ているように思われる。

他にもオルフェウスが妻エウリュディケを連れ戻すため 冥界 にいき、冥界の王ハデスが「後ろを振り返ってはいけない」といわれたのに、振り返ってしまったため、妻を連れ戻せなかったという話があり
これは記紀神話にある、イザナギがイザナミを連れ戻すため黄泉の国へいったが、イザナギはイザナミとの約束を破って振り向いてイザナミの姿をみてしまったため、二人は決別したという話によく似ている。

もしかすると記紀神話はギリシャ神話の影響を受けているのかもしれない。
日本はシルクロードの東の到達点で、パルテノン神殿と同様のエンタシスの柱が法隆寺や唐招提寺にあることを考えてもあり得そうに思える。

沖縄にこれに類似した話はあるかどうか、知らないのだが(これから調べてみる 汗)
カーカンローも、ギリシャ神話の影響を受けているのかもしれない。

つまり妖怪・カーカンローとは水鏡に映った子供の姿であり、ナルキッソスが水鏡に映った自分の虚像に恋をして水におちたように、井戸を覗き込んだ子供もまた井戸に落ちてしまったという話ではないかと思ったりする。



トンデモもののけ辞典101 河童・産女・山姥 『坂田金時は河童だった?』

妖怪画で知られる鳥山石燕による河童

妖怪画で知られる鳥山石燕による河童

①坂田金時は下毛野公時を脚色して創作した人物?

今日のテーマは河童だが、私は坂田金時は河童ではないかと考えている。
その理由をお話ししよう。

平安時代、源頼光が大江山の鬼退治をしたという伝説がある。
頼光には四人の優秀な家来(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)がおり頼光四天王と呼ばれていた。

頼光四天王のうち坂田金時は童謡「金太郎」で有名である。

京都・八坂神社に石見神楽を見にいったことがある。
その演目のひとつに「大江山」がある。

タイトルからおわかりいただけるように、頼光四天王が大江山の鬼退治をする物語を神楽にしたものである。

石見神楽 大江山

上は鬼に向かっていく頼光四天王のうちの2人だと思われる。

石見神楽 大江山 坂田金時

↑ このルックスは坂田金時だろう。

頼光四天王の他のメンバーは大人なのに、なぜ坂田金時は子供のような姿をしているのだろうか。
とても違和感を覚える。

実は坂田金時は実在した人物ではなく、下毛野公時を脚色して創作した人物ではないかといわれている。
下毛野公時は近衛舎人(皇族に仕え警備、雑用などを行う役職)で、三条天皇の行幸の際には、歌舞(東遊)・騎射(真手結)・相撲使を務めている。
また藤原道長の随身(ずいじん/貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人)でもあったが、18歳でなくなっている。

平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党は『坂田金時』ではなく『坂田公時』となっている。

⓶坂田金時は製鉄・鉱山と関係が深い?

金時がどこで生まれたかについては諸説あるが、次のような記事もあり、金時は製鉄・鉱山と関係が深そうに思える。

 平安時代中期、天暦9年(955)に近江国坂田郡布勢郷に生まれた。金太郎の出自は明らかではないが、当時この地に勢力のあった息長氏の一族といわれている。この地は製鉄業が盛んで、青年となった金太郎は鍛冶屋で働くことになり、「金の文字の腹掛け」「赤い肌」「鉞」のイメージが生まれた。
 源頼光の家来となり、上京後、金太郎は名を坂田金時と改め、正暦5年(994)、金太郎が住んでいた村の人々を苦しめていた、伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の四天王と称されるまでになる。
 退治するのは、大江山の酒呑童子ではなく、伊吹山の山賊なのである。
 西黒田には製鉄の痕跡が少なからず残っている。「灰原」「タタレン」「穴伏」「焼尾」などの字名。鍛冶屋が軒を連ねていたという布施町の鍛冶屋場庄司(かんじゃましょうじ)など。後鳥羽上皇が佐々木定綱を奉行に鍛冶番匠を従えて名刀を打たせたという記録も残っている。更に、足柄神社(七条町・八条町・本庄町に三社)、熊岡神社があり、奉納相撲も今に伝えている(足柄山は現在存在しないが小字名は残っている)。


金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けているが、「金」は金太郎の「金」でもあり、また金属の「金」をも表しているのではないだろうか。

また前掛けは菱形だが、これも鉱山や鉱物をあらわしているのではないかと思う。

日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられる。

多田銀銅山を開発したと伝わる源満仲が帰依した満願寺には坂田金時の墓がある。
多田源氏は坂田金時を鉱山または鉱物の神として信仰し、満願寺に坂田金時の墓をつくったのかもしれない。

多田鉱山 青木間歩

多田鉱山 青木間歩

満願寺にある坂田金時の墓

満願寺にある坂田金時の墓

③金太郎と河童

さらに私は金太郎とは河童ではないかと考えるようになった。
と言うのは、頼光四天王の一人、卜部 季武(うらべ の すえたけ950-1022)にこんな伝説があるからだ。

「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」
夜、 平季武(卜部季武)が馬で川を渡っていると、川の中に産女がいて赤子を渡し、「これを抱け」といった。
季武は女から赤子を受け取り、抱いたまま岸へ向かった。
産女は「子を返せ」と言って追いかけてきたが、季武は陸へ上がって館へむかった。
抱いていた赤子を見ると木の葉だった。

産女がわが子を僧侶に抱かせ、僧侶の念仏や題目によって産女が成仏したなどという話もあり
その際には産女はお礼に黄金の袋をくれたという。

砂金は川で採れる。
産女が卜部 季武に渡した赤子とは砂金の比喩のようにも思える。

また卜部季武菱と金太郎にはこんな伝説もある。

.源頼光は卜部季武を従えて信州明呂山にやってきて、山姥(坂田時之の妻)の家に宿を請うた。
山姥は頼光を家にとめ、すきを見て襲ったが、頼光の武力が勝っていた。
山姥は我が子・怪童丸の助命を請い、頼光は怪童丸を家来にした。
怪童丸は坂田金時と名前を改め、頼光四天王の一人となった。

山姥とは山に住む老婆の妖怪だが、この伝説に登場する山姥は、山は山でも鉱山に住む妖怪なのだろう。
そして鉱山の妖怪・山姥と産女は同一の妖怪であり、産女が川で産んだのが砂金の神・金太郎ということなのではないだろうか。

産女と山姥の伝説は、比喩の仕方が違ってはいても、同じことを言っているように思えるのだ。
ただし、産女の伝説にでてくる赤子(金太郎?)は川で採取される砂金、山姥の伝説にでてくる怪童丸(坂田金時=金太郎)は鉱山の鉱物をあらわしている。

⑤河童の特徴

江戸時代以降の一般的な河童の特徴をあげてみる。
a.子供のような体格
b.全身緑色または赤色
c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。
d.口は短いくちばし。
e.背中に甲羅がある。
f.手足に水かきがある。
g.肛門が3つある。
h.生臭い。
i.キュウリが好物。
j.相撲が得意
k.土木工事を手伝う。
l.河童を助けた人間に魚を贈った。
m.薬の製法を教えた。
n.溺れた人の尻小玉を抜いて食べる。

金太郎は子供のような体格であり、体は赤い。
また足柄山で熊と相撲をとったといわれる。
金太郎のヘアスタイルはおかっぱ頭だが、おかっぱ頭は古くは男子の髪型で、むれないように頭頂部を剃っていた。
その髪をそり落とした部分が皿のように見える。
金太郎は端午の節句の鯉のぼりにまたがる姿で描かれることも多く、川のイメージがある。

山口家住宅 鯉のぼり

大阪府堺市 山口家住宅

亀の甲羅

亀の背甲(左図) 腹甲(右図)

上の図は、向かって左が背甲、向かって右が腹甲である。
腹甲は菱形をしている。
金太郎の前掛けが菱形になっているのは、それが鉱物を表すと同時に亀の腹甲を表しているのではないだろうか。

また背甲には六角形や五角形の模様がありますが鉱物の結晶の中には六角形の板状・柱状のものがあり、亀の背甲は鉱山や鉱物を表すもののように思える。

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。



トンデモもののけ辞典100 貝吹坊『児島高徳と修験道』

①貝吹坊

貝吹坊(かいふきぼう)は、備前国(現・岡山県)和気郡に伝わる妖怪。熊山城跡の堀の水中に棲んでいたとされ、ホラガイを吹く音のような「ボー、ボー」という声をあげる。姿を見せずに音のみを出す妖怪とされる[1]。

水木しげるの著書によれば、かつて味地義兵衛という者が、唐津城の壕に妖怪がいると聞いて調べに赴いたところ、壕から青い目を光らせた妖怪が現れたことがあり、この妖怪が貝吹坊の一種であろうと述べられている[2]。このことから平成以降の妖怪関連の文献では、貝吹坊は青い目を持つ妖怪と解説されていることもあるが[3]、唐津城の妖怪譚は天保時代の随筆『思斉漫録』にあるもので、原典に貝吹坊の名はない[4]。
また水木はかつて、池で食用ガエルの鳴く音に驚いた経験があることから、食用ガエル(ウシガエル)が正体だったとも見られている[2][5]。


⓶貝吹坊はウシガエル?

「食用ガエル(ウシガエル)が正体だったとも見られている」とあるが、これはありそうである。

「堀の水中に棲んでいたとされ、ホラガイを吹く音のような「ボー、ボー」という声をあげる。
というのもウシガエルを思わせる。


法螺貝の音も聴いてみよう。



なるほど、法螺貝を短く吹いた時の音はウシガエルが鳴く声のように聞こえる。


「水木しげるの著書によれば、かつて味地義兵衛という者が、唐津城の壕に妖怪がいると聞いて調べに赴いたところ、壕から青い目を光らせた妖怪が現れたことがあり、この妖怪が貝吹坊の一種であろうと述べられている。」


とあるが、一つ目の動画を見ると、ウシガエルの目は青く見える。
ネットで他のウシガエルの写真を見てもやはり目が青い。


③天保時代、ウシガエルは日本にはいなかった。


ウシガエルが日本に入ってきたのは、1918年(大正7年/または1917年、1919年)である。
動物学者の渡瀬庄三郎が、食用としてアメリカ合衆国・ルイジアナ州ニューオリンズから17匹を輸入した。
ということは、ウシガエルは1918年以前には日本にいなかった可能性が高い。


そして「唐津城の妖怪譚は天保時代の随筆『思斉漫録』にあるもので、原典に貝吹坊の名はない。」


④貝吹坊はタゴガエル?


https://www.youtube.com/playlist?list=PL5TJw1GhFqUppRHW1bkthWCGhPMmHT621


上は蛙の鳴き声リストである。(比較がしやすいです。ありがとうございます!)


聴き比べてみたところ、タゴガエルがいちばん「ボー、ボー」という音に近いように思った。



タゴガエルは日本固有種で本州、四国、九州の山地に棲息するそうである。


「貝吹坊は熊山城跡の堀の水中に棲んでいた」とあるが、熊山城は標高509mの熊山にあった城であるといい、タゴガエルが棲息していそうに思われる。


ただしタゴガエルの目は青くは見えない。


⑤日本のピラミッド遺跡


熊山には古代から中世にかけて霊山寺という寺院があったそうである。
熊山遺跡と呼ばれる石積遺跡があるとのこと。


熊山遺跡


熊山の標高350メートル以上の場所には同様の遺構が32基もあるのだという。


ピラミッドのようだが、このようなピラミッド状の仏塔は奈良市の頭塔、大阪府堺市の土塔など
日本にいくつか存在している。


頭塔


頭塔


土塔


土塔


熊山遺跡は仏塔とされている。


これは余談w


⑥児島高徳


熊山の熊山城跡には建武3年(1336年)に熊山で挙兵した児島高徳の腰掛岩と旗立岩があるそうである。


児島高徳は後世、南朝側の忠臣として讃えられた人物である。

出自など詳しいことはわからないが、一説によると後鳥羽天皇の後胤であるという。


承久の乱の折、後鳥羽上皇の第四皇子・冷泉宮頼仁親王が備前国児島へと配流となり、その孫の僧・頼宴の子という説[5]。五流尊瀧院は修験道の一流を担っており、延いては高徳を山伏勢力と結びつける説でもある。この説は、醍醐天皇の皇子・源允明(みなもと の すけあきら)の子・福慶が児島に居住し、その11代目[2]、または宇多天皇の皇子・敦慶親王が児島に配流されたのち、その子・福慶から14代目[6]・和田(児島)備後守範長の娘・信夫(しのぶ)が頼宴へ嫁いで出生したのが高徳であり[5]、これをもって和田(児島)範長は高徳の外祖父とすることができる。高徳が7歳の時、範長の養嗣子になったとされ、和田(児島)範長は養父となる[2]。ただし、後鳥羽上皇の後裔であるとする系図は明治時代に作られたものであり、それ以前からこのような伝承があったという証拠はない。

尚、五流尊瀧院内に現存する頼仁親王当時建立とされる石塔を昭和45年(1970年)に修繕・調査した際、舎利が発見された。これを受け、頼仁親王と弟の桜井宮覚仁親王が後鳥羽上皇一周忌の際に分骨を行い、これとともにこの石塔を建立したのではないか、という従来からの通説はより濃厚となった。しかし、高徳の出自と関連付け、これの後裔であるとするには到らない。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E9%AB%98%E5%BE%B3 より引用


上の記事は書いてある内容がわかりにくいが、たぶんこういうことだとおもう。


❶高徳の母方の家系

・和田(児島)範長ー信夫(娘)が頼宴へ嫁ぐー児島高徳


・和田(児島)範長の出自は2つの説がある。



a.醍醐天皇の皇子・源允明(みなもと の すけあきら)の子・福慶が児島に居住した。その福慶の11代目
  醍醐天皇ー源允明ー福慶ー11代目 和田(児島)範長


b.宇多天皇の皇子・敦慶親王が児島に配流されたのち、敦慶親王の子・福慶から14代目
  宇多天皇ー敦慶親王ー福慶ー14代目 和田(児島)範長


❷高徳の父方の家系


・承久の乱の際、後鳥羽上皇の第四皇子・冷泉宮頼仁親王が備前国児島へと配流となった。頼仁親王の孫の僧・頼宴
 後鳥羽上皇ー頼仁親王ー〇〇ー頼宴ー児島高徳


つまり高徳の母方先祖は醍醐天皇または宇多天皇、父方先祖は後鳥羽上皇という尊い生まれであるということだろう。


この地には役行者の弟子が創建したと伝わる僧・頼宴は五流尊瀧院の大僧正ということだろうか。


このあたり、ウィキペディアにははっきりと記されていないのでよくわからないのだが、
「五流尊瀧院は修験道の一流を担っており、延いては高徳を山伏勢力と結びつける説でもある。」とあるので、
あるいはそういうことかもしれない。


高徳の出自の真偽はともかくとして、五流尊瀧院に児島高徳社が祀られていることに注意したい。


五流尊瀧院は天台修験系の一宗派「修験道」の総本山である。
修験道というからには、法螺貝を吹くのではないかと思うのだがどうだろう。


また戦の際には法螺貝を吹いたという。


児島高徳は熊山の熊山城で挙兵した。
この熊山城跡の堀の水中から聞こえる「ボー、ボー」という声は法螺貝のようで、五流尊瀧院と関係が深い児島高徳を、
また熊山城で挙兵した児島高徳を、人々に思いださせたことだろう。



妖怪・貝吹坊の正体は児島高徳ではないだろうか?



トンデモもののけ辞典 貝児99 『貝合わせの夫婦和合から生まれた妖怪?』

貝児

鳥山石燕『百器徒然袋』より「貝児」

上の絵はかすれたりしていてわかりにくい。
こちらの絵のほうが見やすいと思う.。→ https://w.atwiki.jp/deadsoul/pages/82.html

①貝児

貝児(かいちご)は、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、貝桶(かいおけ)の妖怪。
概要
貝桶とは、日本の中世から江戸時代にかけて伝わる遊戯の貝合わせや貝覆いに用いる貝殻の入れ物であり、画図では貝桶から子供のような姿の者が這い出る姿が描かれている。解説文には「この貝児は這子の兄弟にやと、おぼつかなく夢心に思ひぬ」とあるが、這子とは幼児のお守りに使われた四つんばい姿の幼児の人形のことで、石燕は貝児をその這子の兄弟かとしている[1]。
現代では、遊びに飽きて使われることのなくなった貝が付喪神(器物が化けた妖怪)となったもの[2]、もしくは、かつて貝桶は母親から娘へ贈られる嫁入り道具の一つとして珍重されており、古来の嫁入り道具は親から子へと受け継がれ、数百年も伝わっているものも珍しくなかったことから、歳月を経た嫁入り道具の貝桶から生まれたものなどと解釈されている[3]。
この貝児が出現したという明確な伝承は残されていないため、石燕の創作物とする説もある[1]。


⓶貝桶

貝桶は雛祭に雛の道具として飾られることも多い。
2個で一組になっている。


石燕の絵には梅や松の絵の描かれた八角形の箱が描かれているが、これが貝桶だろう。
貝桶は八角形の形をしているのが一般的であるようだ。

貝桶

ミニチュアの貝桶(雛の道具)写真向かって右上 京都・法住寺にて

③貝合わせ

「貝合わせ」は貴族社会に発生し、長く受け継がれた王朝遊びとして知られていますが、平安時代の「貝合わせ」は、貝殻の形や色合いの美しさや珍しさを愛で、その貝殻を題材にして歌を詠じ、優劣を競う遊びでした。それとは別に、一対の貝における身と蓋(ふた)を合わせる遊戯があり、それは「貝覆い」と呼ばれていました。時代が下ると、この遊びもまた「貝合わせ」と呼ばれるようになり、今日に伝えられています。より引用


④貝覆い


0:16
蝶番のついていたところを自分の方に向け、すべて身と蓋にわけます。

といっている。
しかし、これではどちらが身で、どちらが蓋なのかわからない。

これについての丁寧に説明した記事があった。

「貝合わせ」の遊戯に使用する貝殻を「合わせ貝」といいます。一対の貝の蝶番になったところをよく観察すると、凸になった方と凹になった方があるのに気付きます。凸になった方を“陽”(=地貝/じがい)、凹になった方を“陰”(=出貝/だしがい)と呼び、男女に見立てられた合わせ貝は、別々の貝桶に収めて保存されます。


貝合わせ(古くは貝覆い)に使用される蛤貝は360個とされ、貝の並べ方にもルールがあったようです。  江戸時代に遊ばれた「合わせ貝」には、幅9cmほどもある大きな蛤貝が用いられ、金箔や蒔絵で美しく装飾されていました。これらのうち、凸の貝“地貝”を同心円状に伏せて並べおき、その中心に凹の貝“出し貝”をひとつ伏せおいて、多くの中から、もとの一対を探します。対になる貝を違えないところから夫婦和合の象徴とされました。大名の姫君の婚礼調度の中で、合わせ貝とそれを収めた貝桶は、最も重要な意味を持ち、婚礼行列の際には先頭で運ばれたといいます。
 合わせ貝とそれを収めた貝桶を小さく作った雛道具は、古くから雛人形とともに飾られてきました。


上の動画をみると、貝桶は3つある。
黒色で赤い紐がかけられたものが2つ、これは凸(陽=地貝)と、凹(陰=出貝)を分けていれておくものだろう。

そしてもうひとつ、白い貝桶があり、そこから貝を取り出している。
白い貝桶のほうは、凹凸を合わせた貝を入れておくためのもののようだ。

これを天地に象(かたど)り、男女に付会し、別々の貝桶におさめ、天文暦学等に関連せしめて、遊びの方法が定められた。天にかたどった地貝の伏せ方は、まず中央に12ヶ月にかたどって12個を伏せ、7曜日にかたどってしだいに7個をくわえ、1年の日数にかたどった360個のハマグリ殻を過不足無く9列にならべる。9列であるのは昔の天文学で天を九重と考えたからであるという。すなわち口が12、次が19とある。この19という数は暦学上重要な数であり陽暦も陰暦も19箇年で一循環するという。

地貝を立て終ると、出役の女房が出貝桶から出貝1個を取り出し、中央に伏せる。周囲に並んだ20人以上の姫君方が、360の地貝に斑紋や形状等の出貝と全く同じものを見定め、おもむろに1対のハマグリ殻を掌中に取り上げ、片手で合わせ、よくあったならば、2つにわけて膝の前に伏せる。出役が出貝を中心に伏せると、また同じことを繰り返し、最も多く取った者が勝である。


貝合わせ

京都・法住寺にて

⑤貝や貝桶は夫婦和合の象徴

~略~
また、対になる貝を違えないところから夫婦和合の象徴として、公家や大名家の嫁入り道具の美しい貝桶や貝が作られた。貝の内側に描かれるのは自然の風物や土佐一門風の公家の男女が多く、対になる貝には同じく対になる絵が描かれた。美しく装飾された合貝を納めた貝桶は八角形の形をしており二個一対であった。大名家の姫の婚礼調度の中で最も重要な意味を持ち、婚礼行列の際には先頭で運ばれた。婚礼行列が婚家に到着すると、まず初めに貝桶を新婦側から婚家側に引き渡す「貝桶渡し」の儀式が行われた。貝桶渡しは家老などの重臣が担当し、大名家の婚礼に置いて重要な儀式であった。現在では人前式のセレモニー「貝合わせの儀」として使用されるようになった。

より引用

⑤貝児は、貝から生まれた妖怪?

さて、④で貝桶は3つあるという話をした。

1.凸(陽=地貝)を入れるためのもの
2.凹(陰=出貝)   をいれるためのもの
3.凹凸をあわせた貝をいれるためのもの

貝児が這いでようとしている貝桶はどれだろうか。
絵に描かれた形などから見分けることは私にはできないが
「3.凹凸をあわせた貝をいれるためのもの」ではないかと思った。

その理由は、凹凸を合わせた貝は夫婦和合の象徴であるからだ。
夫婦が和合すると子どもができる。
つまり、貝児は、貝桶の中の合わさった貝から生まれた妖怪ではないかということだ。

⑥雛祭りはエロい行事だった?

貝桶は雛祭りの雛壇にそのミニチュアを飾ったりする習慣があるが
そもそも雛祭りとはエロい行事であるように思える。

ネットを検索すると雛祭りの菱餅は女陰を、甘酒は精液をあらわしているとする記事ヤカキコミが結構みつかる。
それはありそうである。

また雛祭りには蛤のお吸い物を食べるが、梅原猛さんは貝とは女陰を表しているのではないかと言っておられた。


↑ こちらの記事にも書いたのだが、こんな風に記されたサイトがある。

「水揚がすんで一本になつた芸妓のことをいふ。又は単に女の局部を蛤ともいふ。半玉を蜆といふが如し。」
https://www.weblio.jp/content/%E8%9B%A4 「隠語大辞典」より引用

一本とは一人前の芸妓のこと、半玉とはまだ一人前になっておらず、玉代(ぎょくだい/花代のこと)も半人分の芸者のことである。

つまり、貝は夫婦和合の象徴でもあり、女陰そのものの隠語でもあったわけである。

貝児とは、その貝(女陰)から生まれてきた児という意味ではないだろうか。

菱餅

京都・法住寺にて

⑥這子

石燕の解説文には「この貝児は這子の兄弟にやと、おぼつかなく夢心に思ひぬ」とある。
「この貝稚は這子の兄弟であろうかと、ぼんやり夢心に思った。」というような意味である。

ここに記されている這子(ほうこ)とは、はいはいする赤ん坊に似せた人形で、古に身代わり人形として作られた。

這子

這子 滋賀・寿長生の郷にて

もともとの這子は「さるぼぼ」のように布を縫い合わせて作った簡素なものであった。
https://japan-toy-museum.org/archives/3478 リンク先上から6枚目

同様の人形に天児人形があるが、天児は頭部以外は木製で作られている。


天児

天児 京都・市比売神社にて

市比売神社 天児

着物を着せていない天児 京都・市比売神社にて


いつもお読みいただきありがとうございます。
明日は写真の整理のため、ブログは休ませていただきます。よろしくお願いしまーす。













トンデモもののけ辞典98 陰摩羅鬼『成仏できなかった死者の霊は陰摩羅鬼という鳥になる?』

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「陰摩羅鬼」

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「陰摩羅鬼」

石燕の絵を見ると、卍マークのある香炉や、寺によくある旗(幟?名前がわからないw)
向かって左下には常花(イミテーションの花)、鐃鈸(にょうはち/仏教の法要に用いるシンバル)などが置いてある。、陰摩羅鬼がとまっているのは、おりん(磬子/けいす)だろう。
その下にある棒、磬子ばい(?)でおりんのふちをたたいて音を鳴らす。
御摩羅鬼は寺のお堂の中にいることがわかる。

①陰摩羅鬼

陰摩羅鬼、陰魔羅鬼(おんもらき)は、中国や日本の古書にある怪鳥。経典『大蔵経』によれば、新しい死体から生じた気が化けたものとされる[1]。充分な供養を受けていない死体が化けたもので、経文読みを怠っている僧侶のもとに現れるともいう[2]。


絵に添えられた文章は次のように記されている。

“蔵経の中に、「初て新なる屍の気変じて陰摩羅鬼となる」と云へり。「そのかたち鶴の如くして、色くろく目の光ともしびのごとく羽をふるひて鳴き声たかし」と『清尊録』にあり。


古典の画図においては鳥山石燕の画集『今昔画図続百鬼』に描かれており、解説文には中国の古書『清尊録』からの引用で、姿は鶴のようで、体色が黒く、眼光は灯火のようで、羽を震わせて甲高く鳴くとある[1]。

この『清尊録』には以下のような中国の陰摩羅鬼の話がある。宋の時代のこと。鄭州の崔嗣復という人物が、都の外の寺の宝堂の上で寝ていたところ、自分を叱る声で目を覚ました。見ると、前述のような外観の怪鳥がおり、崔が逃げると姿を消した。崔が寺の僧侶に事情を尋ねると、ここにはそのような妖怪はいないが、数日前に死人を仮置きしたという。都に戻って寺の僧に尋ねると、それは新しい死体の気が変化して生まれた陰摩羅鬼とのことだった[1]。

日本では江戸時代の書物『太平百物語』に、『清尊録』に類似した陰摩羅鬼の話がある。山城国(現・京都府)で宅兵衛という男が寺でうたた寝をしていると、自分を呼ぶ声で目を覚ました。見るとそこには怪鳥がいた。驚いた宅兵衛が逃げ出して陰から様子を伺っていると、そのまま怪鳥は姿を消した。宅兵衛が寺の長老に尋ねたところ、新しい屍の気が陰摩羅鬼になると大蔵経にあり、最近寺に仮置きした死人によるものだろうということだった[1]。

陰摩羅鬼の名の由来は、仏教で悟りを妨げる魔物の摩羅(魔羅)に「陰」「鬼」の字をつけることで鬼・魔物の意味を強調したもの、もしくは障害を意味する「陰摩」と「羅刹鬼」の混合されたものとの説がある[1]。


⓶死者の霊は鳥になって飛び立つ

記紀にアメノワカヒコという神様の葬儀のようすが記されている。
それによると、カワカリが食べ物を運び、サギはほうきを持ち、カワセミは神饌を用意し、スズメは米をつき、キジは泣き女をつとめたとある。

雁は渡り鳥である。それで「食べ物を運ぶ役目」とされたのだろう。
鷺は長い首を箒の柄、羽根の部分を箒に見立てたのではないだろうか。
カワセミは、小魚をとらえるのがうまく、町中でもカワセミが魚をくわえているのをよく見かける。
それで食物を用意する係とされたのだと思う。
雀は田圃のコメを食べる害鳥だった。それで碓女(=米をつく女)なのだろう。


メスのキジの鳴き声は弱弱しく泣いているかのようだ。それでキジが泣き女なのかもしれない。

鳥たちが葬儀をするという点に注意してほしい。

死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立つという話がある。
ササキという鳥がおり、これに御をつければ陵(ミササギ)となる。
仁徳天皇陵などの巨大古墳は、地上から見たのではその形を認識することができない。
天高く舞う鳥の視線であれば、その形は容易に認識できるだろう。

 

昔の人は、死んだ人の魂は鳥になって大空に向かうと考えたのではないだろうか。
ナスカの地上絵なども同様だと思う。

とすれば、アメノワカヒコの葬儀を執り行った鳥たちは、すべて死者の魂なのだと考えられる。

実はアメノワカヒコの葬儀にキジが登場するが、アメノワカヒコは生前に泣き女(=キジ)を殺している。
鳥が死者の霊であれば、アメノワカヒコが殺した泣き女(=キジ)も葬儀に参加することができるだろう。

経典『大蔵経』によれば、陰摩羅鬼は新しい死体から生じた気が化けたものであるという。
やはり、鳥は死者の魂だと考えられていたのだろう。

そしてきちんと供養を受けていれば、雁・鷺・カワセミ・雀・キジなどになって天に向かうことができたのだろうが、
陰摩羅鬼はきちんと供養を受けていないので、成仏できず、妖怪の鳥になってしまったのだ。
それで陰摩羅鬼は供養のためお経をあげてほしくて、寺の経文読みを怠っている僧侶のもとに現れると考えられたのではないかと思う。


「穢多・非人を通常の社会に入れると殺される」のはそこに差別意識があるから。



武田氏発言まとめ

①穢多・非人は国の中の特殊身分制度。士農工商には入っていない。
⓶日本人は差別しなかったが、ユダヤ人が外国から入ってきた時に日本人はどういう風に扱ったか。
このような問題はもう無限にある。
③アイヌもそうだが、そういう外国との折衝もある。
④なかなか普通の人間として生活できないような人もいる。
⑤人数的に例外的である人を、どう扱うかというのは難しい問題。
⑥現在の社会では、希な人を正常な人と一緒に取り扱おうというのが正しいという社会。
⑦⑥が正しいかどうかについては議論されていない。
⑧知能が遅れている人を特殊学校に入れるのは正しい。
⑨知能が遅れている人を普通の小学校に入れて、みんながいじめるのがいいのか。
⓾足の悪い人、病気がちな人に合わせたことをやるという考え方もある。
⑪穢多・非人の人を通常の士農工商の中にいれると、すぐ殺されるといようなことになったと思う。
⑫それはやはり社会が別に保護しなきゃいけない
⑬穢多・非人は別の所に集団で住まわせるしかないという状態だった。
⑭スポーツは男女わけてやるが、穢多・非人を分けるのはそれと同じ。
⑮実質平等、実質人間の尊厳を認めるということ。

①穢多・非人は国の中の特殊身分制度。士農工商には入っていない。
そのとおりであるが、
最近の歴史教科書では「士農工商」と言う言葉は書かれていないらしい。
昔の歴史教科書には江戸時代の身分制度として「士農工商」と明記されていたが、数年前に廃止になった。
士農工商とはもともとは「国中のすべての人びと」という意味で儒学からくる言葉である。
近代、士農工商は江戸時代の身分制度を意味すると考えられるようになって、教科書にも掲載されていたのだが
研究が進んだ結果、江戸時代の身分制度を身分が高いものから順に、士農工商とするのは誤まりであったことがわかり、訂正されたのである。

士農工商の言葉が教科書からはずされた理由は主に
a. 武士が上で農工商に身分の上下はない。農工商は単なる職業区分=武士・平人・賤民の三つの身分が存在していた。
b.僧侶・神官など士農工商に分類できない職業もある。
という2点だった。

しかし、これを士農工商は単なる職業区分だったと勘違いした人が大勢いたようで、ブログ記事などにそのように書いている人もいた。

武田氏も勘違いをされており、ご自身のブログで「士農工商は単なる職業区分」とおっしゃっていたと思う。

武田氏はよく「日本には身分制度はなかった」「日本には階級制がなかった」とおっしゃっているが
それは武田氏の「士農工商は単なる職業区分」という勘違いからくる発言である。

正しくは、「士が上で、農工商が下」「武士・平人・賤民の三つの身分が存在していた。」である。

⓶日本人は差別しなかったが、ユダヤ人が外国から入ってきた時に日本人はどういう風に扱ったか。
このような問題はもう無限にある。

①で述べたように日本の身分制度は、「武士・平人・賤民の三つの身分が存在していた。」といえるが
身分制があることと、差別が存在することは微妙に異なるだろう。
「日本人は差別しなかった」かどうか。これについては、のちほど考えることにしよう。

「ユダヤ人が外国から入ってきた時に日本人はどういう風に扱ったか。」という発言について
5世紀ごろ日本にやってきたとされる秦氏はユダヤ人ではないかという説があるそうだが、これについておっしゃっているのだろうか?

そうかもしれないが、武田氏のこの発言だけでは、何のことなのかわからないというしかない。

③アイヌもそうだが、そういう外国との折衝もある。

これも意味がわからない。アイヌは外国だといっているのだろうか?

④なかなか普通の人間として生活できないような人もいる。

障害のある人はサポートが必用だろうが、穢多・非人は障害者ではない。

⑤人数的に例外的である人を、どう扱うかというのは難しい問題。

たとえばアイヌのような少数民族は、例外的といえるかもしれない。
言語や文化が異なるからだ。
例えばアイヌは、土地を所有するという概念がなく、契約という概念も持ち合わせていなかったため
ある程度保護をしないと、騙されて土地から何から取り上げられてしまうというようなことが起こってしまう。
現在はそのようなことはないだろうが、昔はそのようなことが実際にあったと聞いた記憶がある。

しかし、穢多・非人は異民族ではなく、日本民族である。
言葉の障害、文化の障害はない。
非人は神事に深くかかわるなど、どちらかといえば文化を牽引してきた人々であるとさえいえる。

穢多・非人は、武士・平人と何がちがうのだろうか。
武田氏は肝心のそれを一切説明していない。

⑥現在の社会では、希な人を正常な人と一緒に取り扱おうというのが正しいという社会。
⑦⑥が正しいかどうかについては議論されていない。

ノーマライゼーションという言葉がある。
その意味は、社会的な弱者の環境整備を整え、普通の生活が送れるような社会にすることである。
例えば、足の不自由な人でも苦労することなく通勤できたり、買い物できたりする社会。
知的障害がある人については、彼らが自立して生活できるよう、サポートが受けられる社会、というような意味だろう。

足が悪い人を足の悪くない人と同様に扱って通勤・買い物で苦労させたり
知的障害のある人に何の手助けもせず、一般的な社会に放りだすというような社会を、われわれは目指してはいない。

⑧知能が遅れている人を特殊学校に入れるのは正しい。

上の記事に体験談などが掲載されていて参考になる。

程度や個別の状況によって、特別支援学級に入れた方がよいケース、通常学級に入れた方がよいケースがあるようで
一概には言えないのかなと思った。

⑨知能が遅れている人を普通の小学校に入れて、みんながいじめるのがいいのか。

知能が遅れている同級生をいじめるのは、差別である。
知能が遅れている同級生がいてもいじめず、仲良くできるのが望ましい。
「知能が遅れている人を普通の小学校にいれると、同級生がいじめる」という発言は、日本に差別があることを前提としているものと思われる。
差別のない社会であれば、知能が遅れている人があっても、いじめたりせず、仲間としてうけいれるはずである。

⑪穢多・非人の人を通常の士農工商の中にいれると、すぐ殺されるといようなことになったと思う。
⑫それはやはり社会が別に保護しなきゃいけない
⑬穢多・非人は別の所に集団で住まわせるしかないという状態だった。

これも⑨と同じ。
日本人に差別意識がなければ、穢多・非人が同じ社会にいても、殺されるなどということは生じないだろう。
つまり、このように発言すること自体、武田氏は「日本人には差別意識があった」といっていることになる。

⑭スポーツは男女わけてやるが、穢多・非人を分けるのはそれと同じ。

男女は体のつくりが異なるが、穢多・非人の男性は他の男性と、穢多・非人の女性は他の女性と変わるところはない。

⑮実質平等、実質人間の尊厳を認めるということ。

上に説明したように、穢多・非人の存在は、日本に差別があったことを物語るものであり
武田氏が導く結論は誤まったものだと言わざるをえない。

もう少し補足しておこう。
武田氏は、穢多・非人は稀な人、といっているが、どう稀であるかの説明をしていない。
穢多・非人はアイヌのような少数民族ではなく、身体に障害のある人々でもない。
異なるのは、その職業と身分である。

武田氏は彼らの職業と身分を理由に、稀な人であるので、一般社会にいれると殺されるから保護したというのだが
職業や身分を理由に殺されるのは、日本に差別があったということになる。

また1856年渋染一揆がおこっている。

池田慶政が「御倹約御触書」を出した。
その内容は
・被差別部落民の着物は無紋・渋染・藍染に限る。
・雨天の際や仲間の家に行く時は栗下駄を許すが、顔見知りの百姓に出会ったら下駄を脱ぐべし
・他村へ行く時は下駄をはいてはいけない

これに備前国岡山藩の被差別部落住民が反発して、強訴した。

強訴の罪によって12人が牢屋にいれられて、6人が獄死している。

これのどこが保護なのだろうか。

歴史は実際にどのようなことがおこったか、で判断するべきものである。
武田氏の語る歴史は、差別を保護と言い換えた、単なる言葉遊びのようなものである。
しかし、単なる言葉遊びであるから矛盾が生じてしまっている。

繰り返しになるが
「穢多・非人の人を一般社会にいれると、すぐ殺される」から保護したというが
「穢多・非人の人を一般社会にいれると、すぐ殺される」ような社会は、差別のある社会である。
よって武田氏の理屈では「日本には差別があった」ということになるのである。