トンデモもののけ辞典88 鬼⓶ 鬼は仏像を造立する人?
上記記事のまとめ
①節分に「福は内、鬼も内」と言いつつ豆を投げる寺社もある。(金峯山寺・元興寺など)
⓶①の理由として、鬼を祀っている。寺社周辺に鬼の子孫がすんでいる、などが考えられると思う。
③鬼と神は表裏一体?
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・福・・・陽
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼・・・陰
関西には古社のある地域に、鬼の子孫と称する人が結構住んでおられるのだ。
④関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、寺社に隷属し、死体の処理、警護、ハンセン病患者の看護などを行っていた。
非人は結髪することが許されず、大人になっても結髪しない童形であったため、年齢に関係なく童子とよばれた。
非人は結髪することが許されず、大人になっても結髪しない童形であったため、年齢に関係なく童子とよばれた。
(延暦寺に隷属し、天皇の棺を担ぐ役割を担っていた八瀬童子など)
⑤京都には角のない鬼が多数存在している。(千本えんま堂狂言の鬼、北野追儺狂言の鬼、やすらい祭の鬼など)
⑥もともと鬼とは、怨霊のことだったのではないかと思う。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人物のことで、天災・疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
⑦八瀬童子などはそのような怨霊の子孫ではないか。
⑧延暦寺追儺式に登場する無明という鬼は、マハーカーラ(大いなる闇という意味)=大黒天ではないか。
大黒天『マハーカーラ)は遣唐使だった最澄(延暦寺を創建した)が日本に持ち帰って厨房の神として祀ったといわれる。
それはマハーカーラが闇の神なので、火を打ち消す神、すなわち火の用心の神という事ではないか。
⑧死体は次の用に変化する。
腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
↓
骨が露出
⑨古には鬼は目に見えないものだった。
平安時代には四ツ目の方相氏が『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回っていた。
⑩角のある鬼は、なぜ牛の角をはやし、虎皮のパンツをはいているのか?
牛は干支の丑(12月)、虎は干支の寅(1月)を表し、1年の変わり目をあらわしているのではないか。
そして、これを追い払うことで、新年を迎えるという意味があったのではないか。
⑪方相氏は二頭の牛が合体した神なので、四ツ目なのではないか。
⑫大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。
方相氏が宮中をまわって冬の気を体内いっぱいに吸ったところで、弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないか。
鬼の中には、鉱山で働く人、製鉄鋳造などに関わる人を比喩したものもいそうである。
今回はそれについてお話ししようと思う。
今回はそれについてお話ししようと思う。
①修二会の童子(鬼?)は大仏に鍍金をほどこす人々?
前回、鬼は童子と呼ばれることが多いというお話しをした。
酒呑童子、茨木童子などの鬼が有名だが、鬼の子孫と称する八瀬童子もいる。
八瀬童子は角が生えた鬼ではなく人間で、延暦寺に隷属し、天皇の棺を担ぐ役割を担うなどしていた。
彼らが童子と呼ばれるのは、結髪しない童形であったためである。
「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子
鬼とは怨霊(政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人)のことであり、八瀬童子はそのような怨霊の子孫ということだろう。
東大寺二月堂修二会の行事で、松明を振り回す人のことも童子と呼ばれている。
上記記事に童子さんの写真があるが、八瀬童子と同様、童子といっても子供ではないし、鬼のいでたちをしているわけでもない。
しかし修二会の童子も、鬼と同様の存在なのかもしれないと思ったりする。
東大寺二月堂 修二会 お松明
二月堂の修二会は3月1日から3月14日にかけて行われる行事で、3月12日深夜に、二月堂前の若狭井から「お香水」を汲み上げる儀式が行われる。
この「お香水」は3月2日に若狭の鵜瀬でお水送りの行事が行われ、それが10日後に地下を通って若狭井へ届くといわれている。
奈良・東大寺二月堂の修二会、お水取りの行事に関係するこんな伝説が伝えられている。
若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻した。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出した。
「遠敷」とか「二羽の鵜」とは丹のことではないかとする説がある。
東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれ,(このため、奈良の都には大変な水銀汚染被害があったと考えられています。)
二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説もある。
(水銀を加熱して蒸発させる様子、ということだろう。)
水銀は昔は『みずかね』と呼ばれていた。
お水とりの水とは『みずかね』のことだったのかも?
すると、修二会の童子(鬼?)は大仏に鍍金をほどこす人々だということになる。
東大寺 大仏
東大寺の大仏はブロンズ(銅造)で、後世の補修が大部分である。現在は鍍金も残っていない。
新薬師寺でも同様の行事が行われている。
新薬師寺 修二会 お松明
ただし、新薬師寺の御本尊の薬師如来像は木造で鍍金が施されているわけではない。
⓶毘沙門天は鉱山の神?
新薬師寺の花会式では鬼が松明を振り回すという行事が行われている。
この鬼の後ろの建物は薬師寺本堂で、薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)が安置されているので、
鬼たちはこの薬師三尊像を鋳造しているかのように見える。
薬師寺 薬師三尊像
本堂から毘沙門天がでてきて、法力で鬼たちをおとなしくさせる。(写真下が毘沙門天)
毘沙門天はもともとはヒンズー教のクベーラという地下に眠る財宝を司る神だった。
地下の財宝とは、鉱物のことではないだろうか。
毘沙門天は鉱物や鉱山の神という事ではないかと思う。
追儺式に毘沙門天が登場するところを考えても、
鬼は鉱山で働く人、製鉄鋳造などに関わる人を比喩した存在ではないかと思ってしまうのだが、どうだろう?
鬼は鉱山で働く人、製鉄鋳造などに関わる人を比喩した存在ではないかと思ってしまうのだが、どうだろう?
③法隆寺でもお水取りの行事がおこなわれていた。
法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場する。
法隆寺の追儺式は2月3日に行われるが、追儺式から8日目の2月11日には法隆寺でもお水取りの行事が行われる。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るという。
この水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだという。
これは東大寺お水取りによく似た行事である。
夢殿の礼盤の下の板からあふれでる水分とは水銀なのだろうか?
法隆寺金堂にはブロンズの釈迦三尊像が祀られている。
法隆寺追儺式に登場する鬼たちは、この釈迦三尊像を造立する人達がモデルなのかもしれない。
④奈良では毘沙門天が鬼を祓う追儺式が多い。
京都には四つ目の方相氏が鬼を祓う追儺式がある。(吉田神社、平安神宮、鞍馬寺など)
しかし、奈良では毘沙門天が鬼を祓う追儺式が多い。
すでにお話しした、薬師寺、法隆寺、そして興福寺の追儺式にも毘沙門天が登場する。
鬼たちが手に松明を持っている点も薬師寺・法隆寺と同じである。
追儺式が行われるのは東金堂前である。
その東金堂には銅造薬師三尊像がある。
その東金堂には銅造薬師三尊像がある。
やはり興福寺の鬼たちはこのブロンズ像を造立する鬼たちなのかもしれない。
みほとけを造立しているのに鬼扱いするとはひどすぎる、いくらなんでもそんなことはない、と思うのは現代人の感覚だろう。
奈良には中世より非人も住んでいたが、非人は寺社に隷属して死体の処理、ハンセン病患者の看護などのほか
神聖な神事を行ったりもしていた。
しかし、彼らは時には神の化身として尊敬されつつも、卑しい身分のものとして差別もされていたのだ。
⑤大黒天は日本版サンタクロース?
興福寺の追儺式では、毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場する。
大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていた。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのだが、トロい私はゲットできず~w。
余談となるが、大黒天は日本版サンタクロースといえるかもしれない。
サンタクロースが活躍するのはクリスマスだが、クリスマスのルーツはミトラ教の冬至祭である。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろで、その3日後の25日にミトラ教では冬至祭を行っていた。
古代の中国では冬至を1年の始点としていたという。
日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方があった。
日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方があった。
そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことである。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期だった。
立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていい。
つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけだ。
そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われる。
クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、牛を屠るミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう。
東大寺の東北11kmほどのところに笠置寺・正月堂がある。
東大寺には二月堂・三月堂・四月堂はあるが、正月堂はここ笠置寺にあるのだ。
ご本尊は高さ約20mの岩に刻まれた弥勒磨崖仏で、向かい合うようにして正月堂がたっている。
751年、実忠和尚が笠置寺の竜穴を見つけ、中に入って歩いていくと兜率天があった。
兜率天では菩薩たちが仏前に懺悔する悔過の行法を行っていた。
この様子に感激した実忠はこの行法を人間界でも行いたいと思った。
しかし菩薩はこういって諦めるよう実忠を諭した。
「兜率天の1日は人間世界の400年なので、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かる。
また生身の観音が必要なんだよ。」と。
それでも実忠は諦めなかった。
「それなら走ってやるよ!それに心をこめて祈れば生身の観音もきっとあらわれるよ!」
人間世界に戻った実忠和尚は、摂津の難波津で補陀洛山にむかって閼伽折敷(四角い小さな器)を海に流した。
すると100日目に生身の十一面観音様が折敷にのって難波津へ流れついた。
その十一面観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かみがあったた。
こうして752年2月1日に二月堂で修二会が行われた。
閼伽折敷(四角い小さな器)にのって流れ着いたということは、生身の観音とは二月堂のご本尊の小観音(こがんのん)のことなのだろう。
(二月堂のご本尊は大観音もある。)
そして生身の観音は銅の体をしていたのだ。
菩薩は「兜率天の1日は人間世界の400年」といっている。
ゆっくり時間が流れる世界だと考えることもできるが、菩薩は不老長寿であると考えることもできぞうである。
(二月堂のご本尊は大観音もある。)
そして生身の観音は銅の体をしていたのだ。
菩薩は「兜率天の1日は人間世界の400年」といっている。
ゆっくり時間が流れる世界だと考えることもできるが、菩薩は不老長寿であると考えることもできぞうである。
人間の体は死ぬと腐るが、銅の体であれば腐ることがないことを、古の人々は不老長寿と考えたのかもしれない。
つまり仏像は単なる像ではなく、生きており、不老長寿の存在だと考えたのではないかということである。
笠置寺 弥勒磨崖仏
笠置寺 虚空菩薩磨崖仏
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