上記記事のまとめ
①節分に「福は内、鬼も内」と言いつつ豆を投げる寺社もある。(金峯山寺・元興寺など) ⓶①の理由として、鬼を祀っている。寺社周辺に鬼の子孫がすんでいる、などが考えられると思う。 ③鬼と神は表裏一体? 御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・福・・・陽
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼・・・陰
関西には古社のある地域に、鬼の子孫と称する人が結構住んでおられるのだ。
④関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、寺社に隷属し、死体の処理、警護、ハンセン病患者の看護などを行っていた。 非人は結髪することが許されず、大人になっても結髪しない童形であったため、年齢に関係なく童子とよばれた。 (延暦寺に隷属し、天皇の棺を担ぐ役割を担っていた八瀬童子など) ⑤京都には角のない鬼が多数存在している。(千本えんま堂狂言の鬼、北野追儺狂言の鬼、やすらい祭の鬼など) ⑥もともと鬼とは、怨霊のことだったのではないかと思う。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人物のことで、天災・疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
⑦八瀬童子などはそのような怨霊の子孫ではないか。 ⑧延暦寺追儺式に登場する無明という鬼は、マハーカーラ(大いなる闇という意味)=大黒天ではないか。 大黒天『マハーカーラ)は遣唐使だった最澄(延暦寺を創建した)が日本に持ち帰って厨房の神として祀ったといわれる。
それはマハーカーラが闇の神なので、火を打ち消す神、すなわち火の用心の神という事ではないか。
⑧死体は次の用に変化する。 腹部が淡青藍色に変色(青鬼) ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
↓
骨が露出
⑨古には鬼は目に見えないものだった。 平安時代には四ツ目の方相氏が『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回っていた。 ⑩角のある鬼は、なぜ牛の角をはやし、虎皮のパンツをはいているのか? 牛は干支の丑(12月)、虎は干支の寅(1月)を表し、1年の変わり目をあらわしているのではないか。 そして、これを追い払うことで、新年を迎えるという意味があったのではないか。 ⑪方相氏は二頭の牛が合体した神なので、四ツ目なのではないか。 ⑫大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。 方相氏が宮中をまわって冬の気を体内いっぱいに吸ったところで、弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないか。
鬼の中には、鉱山で働く人、製鉄鋳造などに関わる人を比喩したものもいそうである。 今回はそれについてお話ししようと思う。
①修二会の童子(鬼?)は大仏に鍍金をほどこす人々?
前回、鬼は童子と呼ばれることが多いというお話しをした。
酒呑童子、茨木童子などの鬼が有名だが、鬼の子孫と称する八瀬童子もいる。
八瀬童子は角が生えた鬼ではなく人間で、延暦寺に隷属し、天皇の棺を担ぐ役割を担うなどしていた。
彼らが童子と呼ばれるのは、結髪しない童形であったためである。
「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子
鬼とは怨霊(政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人)のことであり、八瀬童子はそのような怨霊の子孫ということだろう。
東大寺二月堂修二会の行事で、松明を振り回す人のことも童子と呼ばれている。 上記記事に童子さんの写真があるが、八瀬童子と同様、童子といっても子供ではないし、鬼のいでたちをしているわけでもない。 しかし修二会の童子も、鬼と同様の存在なのかもしれないと思ったりする。
東大寺二月堂 修二会 お松明
二月堂の修二会は3月1日から3月14日にかけて行われる行事で、3月12日深夜に、二月堂前の若狭井から「お香水」を汲み上げる儀式が行われる。
この「お香水」は3月2日に若狭の鵜瀬でお水送りの行事が行われ、それが10日後に地下を通って若狭井へ届くといわれている。
奈良・東大寺二月堂の修二会、お水取りの行事に関係するこんな伝説が伝えられている。
若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻した。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出した。
「遠敷」とか「二羽の鵜」とは丹のことではないかとする説がある。
東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれ,(このため、奈良の都には大変な水銀汚染被害があったと考えられています。)
二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説もある。 (水銀を加熱して蒸発させる様子、ということだろう。)
水銀は昔は『みずかね』と呼ばれていた。
お水とりの水とは『みずかね』のことだったのかも?
すると、修二会の童子(鬼?)は大仏に鍍金をほどこす人々だということになる。
東大寺 大仏
東大寺の大仏はブロンズ(銅造)で、後世の補修が大部分である。現在は鍍金も残っていない。
新薬師寺でも同様の行事が行われている。
新薬師寺 修二会 お松明
ただし、新薬師寺の御本尊の薬師如来像は木造で鍍金が施されているわけではない。
⓶毘沙門天は鉱山の神?
新薬師寺の花会式では鬼が松明を振り回すという行事が行われている。
この鬼の後ろの建物は薬師寺本堂で、薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)が安置されているので、 鬼たちはこの薬師三尊像を鋳造しているかのように見える。
薬師寺 薬師三尊像
本堂から毘沙門天がでてきて、法力で鬼たちをおとなしくさせる。(写真下が毘沙門天)
毘沙門天はもともとはヒンズー教のクベーラという地下に眠る財宝を司る神だった。 地下の財宝とは、鉱物のことではないだろうか。 毘沙門天は鉱物や鉱山の神という事ではないかと思う。
追儺式に毘沙門天が登場するところを考えても、 鬼は鉱山で働く人、製鉄鋳造などに関わる人を比喩した存在ではないかと思ってしまうのだが、どうだろう?
③法隆寺でもお水取りの行事がおこなわれていた。
法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場する。
法隆寺の追儺式は2月3日に行われるが、追儺式から8日目の2月11日には法隆寺でもお水取りの行事が行われる。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るという。 この水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだという。
これは東大寺お水取りによく似た行事である。
夢殿の礼盤の下の板からあふれでる水分とは水銀なのだろうか?
法隆寺金堂にはブロンズの釈迦三尊像が祀られている。
法隆寺追儺式に登場する鬼たちは、この釈迦三尊像を造立する人達がモデルなのかもしれない。
④奈良では毘沙門天が鬼を祓う追儺式が多い。
京都には四つ目の方相氏が鬼を祓う追儺式がある。(吉田神社、平安神宮、鞍馬寺など) しかし、奈良では毘沙門天が鬼を祓う追儺式が多い。 すでにお話しした、薬師寺、法隆寺、そして興福寺の追儺式にも毘沙門天が登場する。
鬼たちが手に松明を持っている点も薬師寺・法隆寺と同じである。
追儺式が行われるのは東金堂前である。 その東金堂には銅造薬師三尊像がある。
やはり興福寺の鬼たちはこのブロンズ像を造立する鬼たちなのかもしれない。
みほとけを造立しているのに鬼扱いするとはひどすぎる、いくらなんでもそんなことはない、と思うのは現代人の感覚だろう。
奈良には中世より非人も住んでいたが、非人は寺社に隷属して死体の処理、ハンセン病患者の看護などのほか 神聖な神事を行ったりもしていた。 しかし、彼らは時には神の化身として尊敬されつつも、卑しい身分のものとして差別もされていたのだ。
⑤大黒天は日本版サンタクロース?
興福寺の追儺式では、毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場する。
大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていた。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのだが、トロい私はゲットできず~w。
余談となるが、大黒天は日本版サンタクロースといえるかもしれない。
サンタクロースが活躍するのはクリスマスだが、クリスマスのルーツはミトラ教の冬至祭である。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろで、その3日後の25日にミトラ教では冬至祭を行っていた。
古代の中国では冬至を1年の始点としていたという。 日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方があった。
そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことである。 旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期だった。 立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていい。
つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけだ。
そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われる。
クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、牛を屠るミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう。
東大寺の東北11kmほどのところに笠置寺・正月堂がある。
東大寺には二月堂・三月堂・四月堂はあるが、正月堂はここ笠置寺にあるのだ。
ご本尊は高さ約20mの岩に刻まれた弥勒磨崖仏で、向かい合うようにして正月堂がたっている。
751年、実忠和尚が笠置寺の竜穴を見つけ、中に入って歩いていくと兜率天があった。
兜率天では菩薩たちが仏前に懺悔する悔過の行法を行っていた。
この様子に感激した実忠はこの行法を人間界でも行いたいと思った。 しかし菩薩はこういって諦めるよう実忠を諭した。
「兜率天の1日は人間世界の400年なので、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かる。
また生身の観音が必要なんだよ。」と。
それでも実忠は諦めなかった。
「それなら走ってやるよ!それに心をこめて祈れば生身の観音もきっとあらわれるよ!」
人間世界に戻った実忠和尚は、摂津の難波津で補陀洛山にむかって閼伽折敷(四角い小さな器)を海に流した。
すると100日目に生身の十一面観音様が折敷にのって難波津へ流れついた。
その十一面観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かみがあったた。
こうして752年2月1日に二月堂で修二会が行われた。
閼伽折敷(四角い小さな器)にのって流れ着いたということは、生身の観音とは二月堂のご本尊の小観音(こがんのん)のことなのだろう。 (二月堂のご本尊は大観音もある。)
そして生身の観音は銅の体をしていたのだ。
菩薩は「兜率天の1日は人間世界の400年」といっている。 ゆっくり時間が流れる世界だと考えることもできるが、菩薩は不老長寿であると考えることもできぞうである。
人間の体は死ぬと腐るが、銅の体であれば腐ることがないことを、古の人々は不老長寿と考えたのかもしれない。
つまり仏像は単なる像ではなく、生きており、不老長寿の存在だと考えたのではないかということである。
笠置寺 弥勒磨崖仏
笠置寺 虚空菩薩磨崖仏
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①福は内、鬼も内
関西にはたくさん鬼がいて、人々に愛されている。
今回は私が出会った鬼さんを何匹がご紹介したいと思う。
奈良県 金峯山寺 節分会
節分には「鬼は外、福は内」と言いながら豆を投げるのが一般的だが、金峯山寺・元興寺などでは「福は内、鬼も内」と言いつつ豆を投げる。 このような習慣は全国にある。
⓶鬼を祀る寺?
なぜ「鬼も内」というのだろうか。 その理由はいろいろあるだろうが、ひとつには「鬼を祀っている」というのがありそうである。
神はそのあらわれかたで3つにわけられるという。
御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・福・・・陽 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼・・・陰
このうち荒魂が人々に祟る鬼、和魂がご利益を与えてくださる神(=福)、ということではないかと思う。 鬼と神は表裏一体ではないか、と思うのだ。 陰陽でいえば、和魂が陽、荒魂が陰ということだ。
上は京都の千本えんま堂で授与されていた縁起物だが、福をあらわすお多福と鬼が表裏一体になっている。 この縁起物は神の和魂(お多福)と荒魂(鬼)の概念を形にしたものではないかと思った。
③角のない鬼
その節分会のある地域の人が鬼の子孫というケースもありそうだ。 関西には古社のある地域に、鬼の子孫と称する人が結構住んでおられるのだ。
鬼というと角があるというイメージがあるが、鬼の子孫と称する人々は普通の人間である。 もちろん角は生えていない。
関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、寺社に隷属し、死体の処理、警護、ハンセン病患者の看護などを行っていた。
非人は結髪することが許されず、大人になっても結髪しない童形であったため、年齢に関係なく童子とよばれた。
延暦寺に隷属し、天皇の棺を担ぐ役割を担っていた八瀬童子が有名である。 最澄が使役した鬼の子孫と言い伝わり、結髪せず長い髪を垂らしていた(大童)ので、八瀬童子と呼ばれていた。
そして京都には角のない鬼が多数存在している。
千本えんま堂狂言 鬼の念仏
北野天満宮 北野追儺狂言
もともと鬼とは、怨霊のことだったのではないかと思う。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人物のことで、天災・疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
八瀬童子などはそのような怨霊の子孫ではないかと思う。 日本では先祖の霊はその子孫が祭祀するべきとされていた。 怨霊は神とした祀られ、その子孫である人々によって祭祀されたのではないだろうか。
怨霊の子孫は結髪しない童形であり、そこから鬼の姿が形作られていったのかも。
今宮神社 やすらい祭
上は京都・今宮神社のやすらい祭を撮影したものだが、赤熊と呼ばれる赤い髪は結髪しない童形であり 少年たちは鬼と呼ばれている。
もともとこの鬼役をするものたちは、鬼=怨霊の子孫だったのではないかと思ったりする。
④無明はマハーカーラ=大黒天?
延暦寺 追儺式
上の写真、中央の灰色の鬼は無明という。 無明とは「明りが無い」という意味になるので、黒鬼といっていいかもしれない。
延暦寺の国宝館にはたくさんの大黒天像が祀られている。 大黒天は遣唐使だった最澄(延暦寺を創建した)が日本に持ち帰ったといわれるが、大黒天とはもともとはヒンズー教のマハーカーラという神であったとされる。 マハーカーラとは大いなる闇という意味である。 延暦寺の追儺式に登場する無明という鬼は、マハーカーラ=大黒天ではないだろうか。
マハーカーラは破壊の神だが、最澄は延暦寺の厨房の神として大黒天を祀ったという。 それはマハーカーラが闇の神なので、火を打ち消す神、すなわち火の用心の神という事ではないかと思う。
⑤青鬼・赤鬼・黒鬼は死体の状態をあらわす?
延暦寺追儺式の写真を見ると、無明の他、赤鬼・黄鬼・緑鬼(青鬼)がいる。 黄鬼は笑い鬼で、『むさぼりの心』を、青鬼は泣き鬼で『"ねたみ"の心』を、赤鬼は怒り鬼で"『怒りの心』を表すとされる。
しかし、こちらの記事では ↓ 法医学者の間で、「鬼の正体は死体」といわれていると書いてあって、興味深い。
腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
↓
骨が露出
ここに黄鬼はいないが、赤鬼・青鬼・黒鬼は存在している。
現在は火葬がほとんどなので、人間の死体の変化をみることはほとんどないが 古には風葬も多く行われていたので、死体を見ることは当たり前にあっただろう。 そうしてその姿から鬼を創作したというのはありえそうである。
鬼という漢字には、「死者のたましい。亡霊。霊魂。」という意味もある。 死ぬことを「鬼籍に入る」ともいう。
⑥古には鬼は目に見えないものだった。
上は京都・吉田神社の節分会を撮影したものである。 四ツ目は鬼ではなく、方相氏という。鬼に似ているが、方相氏は鬼を祓う正義の味方である。
そのあとに10人の童子(シン子と呼ばれる。シンの字は人偏に辰。)が続く。
そこへ赤鬼・青鬼・黄鬼あらわれ、方相氏が法力で鬼たちを退治する。
枕草子や源氏物語などに追儺式に登場する方相氏の記述がある。
それらの記述から平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられている。
追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。
桃の弓と葦の矢を持つのは、桃や葦に邪気を祓う力があるとされていたためである。
平安時代の追儺式と、吉田神社の追儺式には大きな違いがある。
もう一度、平安時代の追儺式についての記述を読んでほしい。
そう、平安時代の追儺式には方相氏は登場するが、鬼は登場しないのだ。
平安時代には鬼は目に見えないものとして追儺式が行われていたのだろう。
吉田神社のように、追儺式に鬼が登場するようになるのは、もう少し後の時代のことだと考えられる。
平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。
なんと鬼を祓う正義のヒーロー、方相氏を射るというのである。
さらには室町時代の『公事根源』には、『鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。』とある。
方相氏は怖そうな顔をしているので鬼と間違えられたのだろうか。そうではないと思う。その理由についてはのちに述べる。
⑦牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)を表す?
もともとは目には見えない存在だった鬼は、いつしか視覚化された。 それがすでに書いた角のない鬼と、角のある鬼である。 どちらが先かはわからない。
さて、角のある鬼は、なぜ牛の角をはやし、虎皮のパンツをはいているのか?
私は牛は干支の丑、虎は干支の寅を表していると思う。 干支で12か月を表現すれば、丑は12月、寅は1月である。
つまり、牛の角と寅皮のパンツは丑寅=艮=1年の変わり目を表しているのだと思う。
節分とは1年を24に区切った二十四節気の、立春の前日のことをいう。 立春は二十四節気における正月、節分とは二十四節気における大晦日だった。
そして節分は新暦では2月3日ごろになるが、旧暦は新暦から1か月ほど遅れるので、旧暦の正月は節分と同時期だった。
また方角を干支でいうと丑寅(艮)は東北で、東北は鬼が出入りする方角=鬼門といわれた。
つまり節分の鬼とは、目には見えない1年の変わり目を視覚化したもので、 これを追い払うことで、新年を迎えるという意味があったのではないかと思う。
⑧方相を射る
そこで、⑥の方相氏の話に戻ろう。
平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。
なんと鬼を祓う正義のヒーロー、方相氏を射るというのである。
さらには室町時代の『公事根源』には、『鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。』とある。
方相氏は怖そうな顔をしているので鬼と間違えられたのだろうか。そうではないと思う。
平安時代、大寒の日、宮中の諸門に土牛を牽く童子の像をたて、節分の夜に撤去していたという。 牛は干支の丑をあらわすものだろう。 そして八卦では童子は艮をあらわす。
牛=丑=12月 童子=艮=丑寅=12月と1月=1年の変わり目。
そして、この『土牛を牽く童子の像』は『身代わり人形』のような役割を果たすもので、 その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたのだと思う。
ここからさらに発展したのが方相氏による追儺式なのではないだろうか。
方相氏は二頭の丑が合体した姿なのだと思う。 それゆえ四ツ目なのだろう。 そして、方相氏はシン子をつれている。 これは、『土牛を牽く童子の像』によく似ている。 ちがうのは、『土牛を牽く童子の像』は動かないが、『方相氏とシン子』は人間が演じているので動くということである。
動かない人形よりも動く方相氏によって、もっと積極的かつ徹底的に冬の気を吸い込ませようというのだろう。
そして方相氏が冬の気を体内いっぱいに吸ったところで弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないだろうか。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「おとろし」
①おとろし
概要
江戸時代の『百怪図巻』(1737年,佐脇嵩之)、『化物づくし』(画家・制作年不明、加賀谷れい所蔵)、『化物絵巻』(画家・制作年不明、川崎市市民ミュージアム所蔵)、『百鬼夜行絵巻』(1832年,尾田郷澄、松井文庫所蔵)などの絵巻や、絵双六『十界双六』(国立国会図書館所蔵)、『画図百鬼夜行』では、長い髪におおわれ、顔に前髪をたらした姿で描かれている。いずれにも名称以外の解説文が一切なく、どのような妖怪を意図して描かれたかは不明である[1][2]。
名称
『百怪図巻』、『化物絵巻』などの絵巻物、『十界双六』、『画図百鬼夜行』では「おとろし」、『化物づくし』では「おどろおどろ」、『百鬼夜行絵巻』では「毛一杯」(けいっぱい)の名称で描かれている[1]。
江戸時代の随筆『嬉遊笑覧』に引かれている古法眼元信が描いた「化物絵」に描かれていたとされる妖怪の中には「おとろん」の名称が確認できる[3]。
妖怪研究家・多田克己は、「おとろし」と「おどろおどろ」の名称の変化について、『化物づくし』では名前をくの字点(踊り字)を用いて「おとろ〱」と書いているため(画像参照)、これを「おとろし」と誤読したものとしている。ただし、「おどろおどろ」は「気味が悪い、恐ろしい」を意味する「おどろおどろしい」の名詞化した名であり、「おとろし」は「恐しい」の上方訛りであり、どちらの名でも意味において大差はないとしている[1]。ぼうぼうとした長髪のことを「棘髪」(おどろがみ)というが、多田や妖怪研究家・村上健司は、この意味も「おどろおどろ」の名に込められているとしている[2]。また、『百怪図巻』『画図百鬼夜行』のいずれも、おとろしを「わいら」と並べて描いており、「わい」が恐れを意味する「畏(わい)」に通じることから、「恐い(わいら)」「恐ろしい(おとろし)」を具現化した、2体で1対の妖怪とする解釈もある[4]。
⓶踊り字 くの字点 変体仮名
妖怪研究家・多田克己は、「おとろし」と「おどろおどろ」の名称の変化について、『化物づくし』では名前をくの字点(踊り字)を用いて「おとろ〱」と書いているため(画像参照)、これを「おとろし」と誤読したものとしている。
この文章にでてくる「踊り字」とは
々、ヽ、ゝ、く(細長く書く)などのことで、おどり、繰り返し符号、重ね字、送り字、揺すり字、重字(じゅうじ)、重点(じゅうてん)、畳字(じょうじ)ともいわれる。
『化物づくし』の「おどろおどろ」とは、上の絵のことである。 文字の一番最後に細長い「く」のような記号があるが、これが踊り字で「くの字点」という。
平仮名は現在は一音一文字だが、古には何種類もあったそうで、変体仮名といった。 おそらく、上の絵の文字は、この変体仮名によって記されていると思う。 変体仮名については、下記サイトに記されている。
お→於 左より3つめ と→登 一番左 ろ→路 一番左
だろうか。(まちがっていたら教えてくださいねw)
③上方訛り
妖怪研究家・多田克己は、「おとろし」と「おどろおどろ」の名称の変化について、『化物づくし』では名前をくの字点(踊り字)を用いて「おとろ〱」と書いているため(画像参照)、これを「おとろし」と誤読したものとしている。ただし、「おどろおどろ」は「気味が悪い、恐ろしい」を意味する「おどろおどろしい」の名詞化した名であり、「おとろし」は「恐しい」の上方訛りであり、どちらの名でも意味において大差はないとしている[1]。
上方訛りというのは関西弁のことだが、関西では今でも「おとろし」という言葉を使う。 説明にあるように「恐ろしい」という意味であり、 「おとろしよー。」「あー、おとろしー」の様に使う。
「おどろおどろしい」のほうも現在でもつかう。
多田克己さんがおっしゃるように「おとろく」を「おどろおどろ」と読み間違えた可能性はありそうだ。 ④連獅子
おとろし、おどろおどろの絵は、連獅子に似ている。
ヘビメタのヘッドバンキングも真っ青なパフォーマンスであるw
おとろし、おどろおどろには前髪に長い一房があるのは、ヘアスタイルは違っているが 連獅子が長い髪を前に垂らして振り回す様を思い出させる。
連獅子は歌舞伎・日本舞踊の演目で、文久元年(1861年)に花柳寿輔の子・芳次郎の名披露目に父子で踊ったという。 初演は明治5年(1874年)。
あらすじは以下のとおり。
二人の狂言師右近と左近が現れ、「獅子の子落とし」の伝承を再現する。
そのあと、間狂言となる。 清涼山の麓で二人の修行僧が出会い、宗派が法華宗と念仏宗だったため、宗教論争になってしまう。 法華宗の僧が題目「南無妙法蓮華経」を団扇太鼓を叩きながら連呼し 念仏宗の僧は叩き鉦(かね)を打って「南無阿弥陀仏」を連呼する。 いつの間にか法華宗の僧侶が「南無阿弥陀仏」ととなえ、念仏宗の僧侶は「南無妙法蓮華経」ととなえてしまうしまつ。 暴風が吹き付け二人の僧は舞台から去る。
親子獅子の精が登場し、牡丹の花の匂いを嗅いで舞う。
赤い髪、白い髪を振り回して舞うのは獅子の親子なのである。
おとろし、おどろおどろが登場する史料の年代はつぎのとおり。 『百怪図巻』(1737年) 『百鬼夜行絵巻』(1832年) 『画図百鬼夜行』(1776年)
連獅子の成立はこれらの史料が成立したあとの1861年だ。 連獅子はおとろし、おどろおどろと関係があるかもしれないが、連獅子が成立する以前よりおとろし、おどろおどろは存在していたということになる。
⑤赤熊
それはともかく連獅子の髪型は赤熊と呼ばれる。
上は京都玄武神社・やすらい祭を撮影したものだが、頭に赤熊をかぶっている。
赤熊の少年たちは鬼と呼ばれている。
そういえば鬼も似たようなヘアースタイルをしている。 鬼というと角のある姿を思い浮かべる方も多いだろうが、京都の節分会などに登場する鬼は下の写真のように赤熊で角の無いものも多い。
上は千本ゑんま堂狂言「鬼の念仏」に登場した鬼と幽霊だが、鬼のヘアースタイルは赤熊である。
ぼうぼうとした長髪のことを「棘髪」(おどろがみ)というが、多田や妖怪研究家・村上健司は、この意味も「おどろおどろ」の名に込められているとしている[2]。
とあるが、
ぼうぼうに乱れた髪。「棘・荊棘(おどろ)」は草木や頭髪が乱れ茂るさま。「おとろし」という髪の乱れた妖怪が語源。
棘髪から妖怪「おとろし」が創作されたのか、妖怪「おとろし」から棘髪という言葉ができたのか、どちらかわからない。
ともあれ、赤熊は棘髪ともいえるだろう。
⑥非人・童子・赤熊・鬼の関係
関西には中世より非人と呼ばれる人々がおり、寺社に隷属し、死体の処理、警護、ハンセン病患者の看護などを行っていた。
京都の清水坂辺りには犬神人(いぬじにん/つるめそ)とよばれる祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人がいた。 犬神人は「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていした。
犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな
この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。
祇園祭の綾傘鉾では赤熊の人が登場する。
上は『本願寺聖人伝絵』に描かれた犬神人だが口にマスクをしている。 口をマスクで覆うのは犬神人のいでたちなのだろう。 綾傘鉾の赤熊のヘアースタイルの人たちもマスクをしている。 彼らは犬神人のいでたちをしているのではないだろうか。
非人と童子と赤熊と鬼には深い関係がある。
非人は結髪することが許されず、大人になっても結髪しない童形であったため、年齢に関係なく童子とよばれた。 八瀬童子などが有名である。
つまり、非人の髪型は赤熊のような髪型だったと考えられる。
そして鬼は酒呑童子、茨木童子のように童子と呼ばれることが多い。 さらに八瀬童子と呼ばれる京都八瀬に住む人々は自ら鬼の子孫を称している。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとされていた。 童子と呼ばれる非人たちは、鬼の子孫であるがゆえ、非人として寺社に隷属しているのだろう。
鬼とは怨霊のことでもある。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そのような怨霊の子孫は非人とされ、彼らもまた鬼と呼ばれた。 そして鬼や非人たちは結髪しない赤熊のような髪型をしていた、ということだろう。
上は千本ゑんま堂狂言の土蜘蛛だが、結髪しない赤熊のヘアースタイルである。
赤熊のようなヘアースタイルをした妖怪・おとろし、おどろおどろとは鬼の事だと思う。 ナルホド、鬼はおとろしいし、おどろおどろしい。
↑ 素晴らしい舞台に感動!日本のミュージカルですね!
①踊り首
踊り首(おどりくび)は、日本の妖怪の一種で、人間の首だけが宙を舞う妖怪。
人間(主に落ち武者や女性)が死んだ後、怨念や愛憎の念があまりに強いため、その首が胴体から離れて巨大化して古びた寺などに現れ、そこを訪れた生者を脅かす妖怪である[2]。
元禄時代には、播磨国の佐用郡(現・兵庫県)で大きな女の首が目撃されたという事例がある。江戸時代の古書『絵本小夜時雨』には「平川采女異蛇を斬」と題し、永禄時代の江州(現・滋賀県)で、ある者が馬の頭を持つ大蛇の妖怪を退治したところ、首だけが空へ飛んで行ったという話がある[1](画像参照)。また民俗学者・岩井宏實の著書においては、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある舞首も踊り首の一種とされている[3]。
⓶皇極天皇の御簾に食らいついた蘇我入鹿の首
首が宙を舞うという話は、日本ではよくある話である。
飛鳥時代には、蘇我入鹿の首が宙を舞ったとされる。
当事の権力者だった蘇我入鹿は、645年に中大兄皇子(のちの天智天皇)に首を斬られたとされる。(乙巳の変) 入鹿の首は飛び上がって皇極天皇の御簾に食らいついたといわれる。
距離は長くはないが、入鹿の首は宙を舞っている。
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
③大宰府から奈良まで飛んだ玄昉の首
奈良時代には玄昉の首が飛んだという話がでてくる。
藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が相次いで天然痘にかかって死亡してしまい、 一時的に藤原氏の勢力は衰えて、738年に橘諸兄が右大臣となった。 橘諸兄は吉備真備・玄昉を重用し、藤原宇合の長男・藤原広嗣(式家)は大宰府に左遷されてしまう。 橘諸兄は玄昉を重用していたのだが、 740年、藤原広嗣は「天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉であるので、二人を処分するべきである。」という上奏文を朝廷におくった。 『今昔物語集』や『源平盛衰記』には、玄昉が光明皇后と密通し、これを広嗣が咎めたとあり 『元亨釈書』『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』には玄昉が藤原宮子(聖武天皇の母親)と密通したとある。
藤原広嗣は玄昉が密通しているので天地に厄災が起きたと訴えたという事だと思う。 しかし訴えは聞き入れられず、藤原広嗣は大宰府で挙兵するも破れ、処刑された。 (藤原広嗣の乱)
745年、藤原仲麻呂が権力をもつようになり、今度は玄昉が筑紫の観世音寺に左遷された。
746年、玄昉は筑紫で亡くなったが、玄昉の死は藤原広嗣の怨霊の仕業であると考えられた。 『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちていたが、これは藤原広嗣の怨霊の仕業であるとの旨が記されている。
つまり玄昉の首は筑紫から奈良まで飛んだ(宙を舞った)ということである。
玄昉の首が落ちたのは奈良市高畑にある頭塔のある場所だといわれている。
頭塔はピラミッドの形をしている。
④京から故郷へ飛びかえった平将門の首
平安時代、平将門は東国に独立国をつくったが、朝廷が派遣した藤原秀郷、平貞盛らの軍と戦い、流れ矢にあたって死んだ。 将門の首は京都の鴨川のほとりで晒されたが、ある日舞い上がり、故郷の東国を目指して飛び去った。 その首が落ちたところに、将門の首塚がつくられたとされる。
将門の首塚
⑤高松塚古墳は蘇我入鹿の墓?
私は飛鳥の高松塚古墳は蘇我入鹿の墓、キトラ古墳は入鹿の父・蘇我蝦夷の墓ではないかと考えている。 その理由を簡単に説明してみる。
高松塚古墳とキトラ古墳には壁画が描かれており、四神図(玄武・青龍・白虎・朱雀の四柱の聖獣)などがよく似ているところから、同一人物あるいは同一グループによって、同時代に描かれたものと考えられている。
高松塚古墳・キトラ古墳のような壁画古墳は日本では他には例がない。 (九州の壁画古墳は抽象的なデザインで高松塚・キトラとは異質)
ただし天皇陵など宮内庁管轄の古墳は発掘調査が禁じられているため、石室内がどうなっているのか、よくわからないのだが。
しかし高松塚古墳は朝鮮にある高句麗壁画古墳壁画によく似ている。
3:09あたりから四神図、9:28あたりからの女性図は襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、 高松塚のものほとんど同じだ。
1:36あたりで高松塚古墳壁画の飛鳥美人と呼ばれる女子群像、 2:26あたりで高松塚古墳の四神図 5:43あたりでキトラ古墳の壁画が紹介されている。
645年の乙巳の変で中大兄皇子に斬られて入鹿は死亡し、その翌日入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。
このとき蝦夷は59歳だ。
蘇我入鹿は生年不祥だが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳ぐらいになる。
高松塚古墳から出土した頭がい骨片や歯を鑑定した結果、被葬者は4、50歳代の男性、 キトラ古墳は熟年の男性とされていて、年齢はほぼあう。
そして入鹿の父・蘇我蝦夷は自分と息子の入鹿のために、生前から「今木の双墓」築いたと史料には記されている。
この「双墓」がどこにあるのか判明していないが、 高松塚古墳とキトラ古墳はよく似ていて、双墓と呼ぶのにふさわしいようにも思う。
乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮跡また高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗壁画古墳に似ていて、被葬者は高句麗と関係の深い人物だと考えられるが
蘇我稲目(蘇我蝦夷の父、蘇我入鹿の祖父)の父が蘇我高麗という名で、当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので 蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説もある。
⑥ドクロは呪術の道具だった。
高松塚古墳の被葬者は下顎の部分の骨はあったが、その上にあるはずの頭蓋骨がなかった。 梅原猛さんは、時間が経過して死体が白骨化したのちに頭蓋骨だけ除かれたのではないかとおっしゃっている。
梅原さんは高松塚古墳の被葬者は弓削皇子としておられて、私とは考えが違うのだが 「死体が白骨化したのち頭蓋骨だけ除かれた」とする見解はナルホド~、と思う。
ドクロは呪術の道具として用いられており、高貴な身分の人のドクロほど効力があるとされていたそうである。
実際にドクロが盗難されたという事件も起きている。
入鹿の死後、かなりたってから入鹿のドクロは呪術の道具として持ちだされたのかもしれない。
あるいは入鹿の魂が蘇らないように、頭蓋骨を持ちだしたのかもしれない。 というのは、次のような伝説があって、死体はバラバラにして埋めると蘇生しないという信仰があったと考えられるのである。
鬼八の死体をばらばらにして地中に埋めた。
ところが鬼八は一夜のうちに蘇ってもとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。 そこで田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。 そうしたところ、鬼八は蘇生しなくなった。
⑦首が巨大化する理由
「人間(主に落ち武者や女性)が死んだ後、怨念や愛憎の念があまりに強いため、その首が胴体から離れて巨大化して古びた寺などに現れ、そこを訪れた生者を脅かす妖怪である」
とあるが、首が巨大化する理由については、大入道・大坊主の正体のうちのいくつかがあてはまりそうである。
すなわち、 ①部屋を暗くして、灯りの前にものをかざすと影が壁に大きく映し出される。 ⓶ブロッケン現象 ③恐怖が実際よりも大きく見せる。 ④アルコール依存症による幻覚
⑧三上山の馬の頭をした大蛇の正体は平将門だった?
平川采女異蛇を斬
(『絵本小夜時雨』一巻所収)
永禄年間の頃、滋賀県南部の三上山に大蛇が住み、人々を苦しめていた。当時の領主に仕えていた平川采女という武人が命を受けて三上山に赴くと、その大蛇が現れた。
その姿、頭は馬のごとく、口は耳まで裂け、紅の舌をひらめかし、火炎を吹きかけながら飛び来たったが、平川は「えいや」と太刀で斬りつけ、その首を刎ねた。しかし、大蛇は首だけになっても動くので再び斬り払うと、首は鏡山へと飛んでいき、不篠の池に落ちたという。
この話は『淡海温故録』などの本に収録された話だ。三上山は俵藤太の大百足退治などでも知られているな。
蛇と書かれてはいるが、挿絵では馬のような頭をしているなど、どちらかというと龍に似た特徴を有しているようだ。
速水春暁斎画『絵本小夜時雨』より「平川采女異蛇を斬」
永禄年間とは、1558年から1570年までの期間。天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭である。
上の文章にもあるように三上山は俵藤太の大百足退治にもでてくる。
しかし、俵藤太の物語では三上山に住んでいるのは大蛇ではなく、百足である。
「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した[18][19]。
瀬田の唐橋 説明板より 俵藤太の百足退治
平川采女異蛇を斬・・・・三上山には大蛇が住む・・・平川采女という武人が退治した。 俵藤太・・・・・・・・・三上山には百足がすむ・・・藤原秀郷(俵藤太)が大蛇の依頼をうけて百足を退治した。
私たちはすでに藤原秀郷という名前を知っている。④のところで、私は次のように書いた。 「平安時代、平将門は東国に独立国をつくったが、朝廷が派遣した藤原秀郷、平貞盛らの軍と戦い、流れ矢にあたって死んだ。」と。
そしてこちらの記事には次の用に書いた。↓
「武田信玄は毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていた。
百足は毘沙門天の使いとされていた。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったものと思われる。
三上山や男体山は鉱山だったのか、とも考えて検索してみたが、わからなかった。
もしかすると三上山や男体山が百足に喩えられたのは、百足が毘沙門天の使いだからかもしれない。
武田信玄ら戦国武将が毘沙門天を信仰していたのは、毘沙門天が戦の神だからだ。
俵藤太は平将門を討伐しているが、その平将門との闘いに勝利することを毘沙門天に祈ったのだろうか。
そうすると俵藤太は戦いの神である毘沙門天を弓で射たという話になってしまう。
矛盾するようにも思えるが、アイヌの熊送りでは、神として育てた熊を殺す。
同様の信仰が本土にもあったのかもしれない。」と。
もしかして、藤原秀郷が退治した百足(毘沙門天の使い)とは、平将門そのものではないだろうか。
平川采女が退治した大蛇は馬の頭部をしているというが、平将門の子孫を称する相馬氏の家紋は繋ぎ馬である。  相馬氏の家紋「繋ぎ馬」
関西では平将門は朝廷に逆らい「新皇」を名乗った逆賊だととらえるむきが強いが 関東では平将門は英雄視されているのだという。
平安京の貴族たちが安逸をむさぼっているために将門が乱を計画し、天もこれを認めて黒馬を将門に与えたという伝説が伝えられている。
ところがこの馬は将門しか乗りこなすことができないので、繋いであるというのだ。
また「じゃじゃ馬に 常陸の伯父御 くいつかれ 」という川柳がある。
じゃじゃ馬とは平将門、常陸の伯父御とは将門の 伯父の平国香のことである。
このように将門自身が馬に喩えられることも多かった。
三上山に住む平川采女が退治した大蛇もまた、平将門の霊であり、 それで馬の頭部をしており、その首は飛行したと考えられたのではないだろうか。 (将門の首は京で晒されたが、飛び上がって故郷を目指して飛び去ったとされる。)
※「元禄時代には、播磨国の佐用郡(現・兵庫県)で大きな女の首が目撃されたという事例がある。」
と記されているが、これについては調べてみたがわからなかった。 情報などお持ちの方は、ご一報いただけるとありがたいです。
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「白粉婆」
①白粉婆
白粉婆(おしろいばばあ、おしろいばば)または白粉婆さん(おしろいばあさん)は、奈良県吉野郡十津川流域に伝わる老婆の妖怪。
概要
鏡を引きずってジャラジャラと音を立てつつ現れる、老婆の姿の妖怪といわれる[1]。
鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』には「白粉婆」の名で、ひどく腰の曲がった老婆が、大きな破れ傘を頭に被り、右手で杖をつき、左手には酒徳利を持っている姿が描かれている。同書の解説文には「紅おしろいの神を脂粉仙娘と云 おしろいばばは此神の 侍女なるべし」とあり、白粉婆が脂粉仙娘(しふんせんじょう)という白粉の神に仕えている侍女であることが述べられているが、奈良の伝承における白粉婆と同一のものかは不明[2]。顔一面に白粉を塗りたくっているが、この塗り方が厚ぼったい上にひどく雑で、見るだけで恐怖を覚えるともいう[3]。
民俗学者・藤沢衛彦の著書『図説民俗学全集』によれば、雪女と同種の妖怪であり、石川県能登地方で雪の降る夜に酒を求めて現れるとされるが[4]、実際には能登にはそのような伝承の存在が確認されておらず、藤沢が『今昔百鬼拾遺』から連想して創作したものと指摘されている[5]。
山中の女の妖怪である山姥や山女は、旅人に白粉をねだったり、山の麓に現れて酒を買ったなどの話があることから、白粉婆もそうした山姥や山女に関連しているとの指摘もある[2]。
⓶長谷寺の白粉婆
天文6年。長谷寺の座主・弘深上人の発案で、戦乱の世を少しでも良くするべく、本堂一杯の大きさの紙に寺の本尊である観音菩薩を描くことになり、全国から画僧たちが集まった。
しかしある日、足利将軍家の軍勢が寺に押しかけ、寺や町の穀物を根こそぎ徴発してしまった。噂を聞いた画僧たちは食事が出ないのではと不安がっていたところ、寺の小僧は事情を説明した上で、それでも観音の救いによって食事の支度ができると伝えた。
不思議に思った画僧たちが小僧の案内で井戸端へ行くと、1人の娘が米を研いでいた。桶で研いだ米をざるにあけると、桶に1粒だけ米が残り、それを水につけると米が桶一杯に膨れ上がり、それをさらに研ぐことで米はどんどん増えていた。
画僧の1人は、彼女が観音の化身ならば顔を見てみたいと、仲間の制止も聞かずに小石を投げつけた。すると浄土を思わせる光が差し、娘は顔を上げた。その顔は白粉を塗っていたが、画僧たちのために苦労を重ねたことで皺だらけの老婆のようになっていた。しかし画僧たちはそのまばゆさ、ありがたさを前にして1人残らずひれ伏していたため、誰1人その素顔に気づくことはなかった。
以来、画僧たちは仕事に打ち込み、見事な大画像が完成したという[6]。現在でも長谷寺の境内には白粉婆の堂があり、その老婆が祀られている。明治時代の頃までは、毎年正月の修正会でこの像に白粉を塗る行事が行われていたという[5]。
長谷寺
③長谷寺の奇習、一箱べったり。
長谷寺にはもう何回も参拝しているが、白粉婆の堂があるのは気がつかなかった。 そこで長谷寺のホームページを見てみると次のような記事があった。
妖怪研究家の木下昌美さんが妖怪「白粉婆(おしろいばば)」を調べに長谷寺にいらっしゃったのですが、元々「白粉婆」と言うのは、破れた傘を頭に被り、右手に杖、左手に酒徳利をもち、顔には暑く、雑に塗った白粉をつけた妖怪です。
長谷寺伝わる姥像は、その昔、長谷寺創建の際、僧侶の食事一切を一手に引き受けて、毎日の食事を過不足なく提供し続けた老女の像になります。その女性は化粧っ気のないみすぼらしい出で立ちであったのですが、情に厚く、慈母のように皆に慕われていました。しかし、ある日の夕刻を境に忽然と姿を消したそうです。誰もその女性の素性を知らず、行方を捜す術もなかったので皆、非常に悲しんだと言います。
そうして誰言うとなくあの老女は長谷観音さまの化身だと言われるようになり、そのご恩に報いるべく、綺麗な着物と白粉をせめてもの「志」として、供養したと言う事です。
毎年旧正月5日の深夜に長谷寺近くの白河という所(老女の出身地か?)から一箱にたっぷり入ったお白粉と白笠紙を姥像のある本長谷寺に持ち寄り、紙衣を着せ、お白粉をべったりと塗るまさに奇習が出来上がったと言います。
この行事は昭和三十年頃まで行われていましたが、以降、誰も拝むこともなくなり、お堂の隅に追いやられていたのですが、昨今の妖怪ブームと妖怪研究家の木下昌美さんがこの姥像に興味を持ち、ついには陽の目を見るようになりました。
この姥像の奇習「一箱べったり」の伝承と妖怪「白粉婆」がいつしか混同されるようになったということです。不思議なご縁ですね。
この記事には白粉婆像の写真も掲載されているが、それはお地蔵様である。
お白粉と白笠紙を持ち寄るのは、白河という所(老女の出身地か?)からだと書いてあるが、その場所は長谷寺の北あたりの地名である。
⓸化粧地蔵
お地蔵様の顔を白塗りにする習慣は各地にあり、旅先でもよく見かける。
京都周辺と青森に多く存在する。
~略~
毎年8月に行われる地蔵盆という行事で、地域の子ども達によって、少しずつ顔が描きかえられていくのが習わしなのだが・・・・
↑ こちらの記事では、8月の地蔵盆の行事であるとしている
長谷寺の「一箱べったり」は毎年旧正月5日の深夜に行われる行事とあって、地蔵盆の行事ではない。 検索しても正月に地蔵に化粧をする習慣があるという記事はみつからないが 正月にもお盆と同じく先祖の霊がかえってくるといわれることもあり 正月に「一箱べったり」のような行事を行う習慣のある地域もかつてあったのかもしれない。
京都・石上神社 化粧地蔵
⑤地蔵に化粧するのは、地蔵を若返らせるため?
なぜ地蔵の顔に化粧をするという習慣が生じたのだろうか。 それには地蔵を若返らせるという意味があったのではないかと思ったりする。
津守国基 (1023-1102)という住吉大社の神主が、和歌の浦に住吉のお堂の壇に用いる石を探してやってきて、こんな歌を詠んでいる。
年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫
(長い年を生きてきただろうに、年老いることもなく、和歌の浦に鎮座して幾代になるのだ、玉津島姫よ。)
玉津島姫とは和歌山県・和歌の浦にある玉津島神社の御祭神である。
玉津島神社
和歌の浦
この歌の詞書にはこんなことが書いてる。
「この歌を詠んだ夜の夢に、唐衣を着た女房が10人ほどあらわれて、ちょうどいい石はこれだよと教えてくれた。」
唐衣を着た女房が10人ほどあらわれたというのは、玉津島姫は10人いるということではいだろうか。 もしかして、歌舞伎役者のように、次々に新しい神が玉津島姫の名前を襲名するので、女神はいつまでも年老いることがないのかも?
これは神道の話であって、仏の話ではないといわれるかもしれないが 日本では神仏は習合して信仰されていた。 神仏習合のベースとなった考え方は、本地垂迹説である。
本地垂迹説とは 「日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮にこの世に姿を現したものである」という考え方で 日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。 たとえば、菅原道真という神の本地仏は十一面観音、天照大神の本地仏は大日如来である、のように考えられた。 つまり、菅原道真と十一面観音、天照大神と大日如来は同体、というわけである。
神が若返るのならば、仏である地蔵菩薩が若返ると考えられたのではないだろうか。
⑥白粉婆は衣通姫の年老いた姿?
長谷寺付近には衣通姫伝説が伝えられている。
第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまう。 群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになった。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となった。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていたが、待ちきれなくなって兄に会いにいった。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てた。
こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ
(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。)
ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名である。
白粉婆とはこの衣通姫の年老いた姿かも?
⑥十津川に化粧地蔵は見つからなかった。
白粉婆は奈良県十津川村にあらわれるというが、検索してみても化粧地蔵はみつからなかった。
十津川村の白粉婆は化粧地蔵とはちがうものかもしれない。 もう少し、違う角度からみてみよう。
ウィキペディアの文章が曖昧でわかりにくいが 「鏡を引きずってジャラジャラと音を立てつつ現れる、老婆の姿の妖怪」
「顔一面に白粉を塗りたくっているが、この塗り方が厚ぼったい上にひどく雑で、見るだけで恐怖を覚える」
というのは十津川の白粉婆について述べているのではないかと思う。
石燕が描いた白粉婆が、十津川に伝わる白粉婆と同じものかどうかわからないとも書いてある。 「わからない」ということは、「同じものかもしれない」よいうこよんsので、 石燕の絵に添えられた文章を読んでみると、次のように記されている。
紅おしろいの神を脂粉仙娘と云
おしろいばゝは此神の侍女なるべし
おそろしきもの、しはすの月夜女のけはひとむかしよりいへり
現代語訳すると、こんな意味になるだろうか。
紅白粉の神を脂粉仙娘(しふんせんじょう)という。 「おしろいばば」は此神の侍女である。 おそろしいものは、12月の月夜の女の気配であると、昔よりいう。
「しはす」は師走で旧暦12月のことを言っているの思う。 月夜とは月の明るい夜という意味である。月齢15日の夜のことだろうか。
白粉婆は、鏡を引きずって現れるとあるが、鏡とは月の比喩かもしれない。
ここで長谷寺の白粉婆と呼ばれる地蔵の石像に白粉を塗る「箱べったり」の奇習が1月5日に行われていたことを思い出してほしい。
地蔵の顔を白く塗る習慣はお盆に行われることが多いのだが、正月にも行われていたのではないかと私は考えた。 そして石燕が描いた白粉婆が現れるのは師走の月夜である。
白粉婆は1年たって古くなった神なのではないか。
「山姥や山女は、旅人に白粉をねだったり、山の麓に現れて酒を買ったなどの話がある」という記述も興味深い。
十津川は山深い土地だからだ。
白粉婆は山姥や山女と関係のある妖怪かもしれないが、これについてはまた改めて考えてみたいと思う。
寺島良安『和漢三才図会』より「和尚魚」
①和尚魚
体長は5~6尺(約1.5~1.8メートル)。体はスッポンに似ており、頭部は「和尚」の名の通り頭髪がない坊主頭のように見える[1]。
これを捕らえて殺そうとすると、和尚魚は手を合わせて涙を流しつつ命乞いをするので「助けてやるが、その代わり二度と祟ってはいけない」と言い聞かせて海へ逃がすと良いという[1]。
また、同様に亀の体に坊主頭の人間の頭部を持つ海坊主として亀入道(かめにゅうどう)があり、若狭湾に出現するといわれる[2]。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』では、これは和尚魚と同じものとされている。この姿を見ると不吉な出来事が起こるとされ、捕えてしまった場合、酒を飲ませて海へ放したという[3]。
妖怪探訪家・村上健司はこの和尚魚や入亀入道を、海亀を妖怪視したものと推測している[1]。
前回は亀入道を中心に考えたので、今回は和尚魚について考えてみようと思った。 その結果、浦島太郎を調べることになって・・・・・
⓶和尚魚はスッポンに似ているが、スッポンではない。
和尚魚はスッポン似ているという。 そして、「海へ逃がすとよい」ともあるが、 スッポンは海ではなく淡水の川や池に住んでいる。
なので、和尚魚の正体は淡水にすむスッポンではないことがわかる。
ちなみにスッポンは亀とちがって、次のような特徴がある。 ・甲羅が柔らかく、弾力がある。(亀の甲羅は堅い) ・歯がない。(亀には歯がある) ・指が3本。(亀の指は5本) ・基本的に水中で生活する。(亀は水陸両方で生活する。)
③和尚魚の正体はウミガメ?
和尚魚はスッポンに似ているとあるが、スッポンは海に住んでいないので、 和尚魚はスッポンににている海の生物をモデルとして創作されたものではないだろうか。
スッポンににている海の生物とはウミガメだ。
和尚魚は手を合わせて涙を流しつつ命乞いをするので「助けてやるが、その代わり二度と祟ってはいけない」と言い聞かせて海へ逃がすと良いという[1]。
とあるのは興味深い。 ウミガメは出産のとき、涙を流すというのを聞いたことがある。 和尚魚はウミガメではないか?
「手を合わせて」とあるが、下の動画を見ると、ウミガメが手を動かす様子は、手を合わせるかのようにも見える。
④ウミガメの産卵
上の動画にはオドロキの内容が語られている。
⑤浦島太郎が助けた亀はメス亀
特に私が注目したのは、これである。↓ a ウミガメは一生のほとんど海の中で過ごすが、メスは産卵のため自分が生まれた浜に戻ってくる。
b ウミガメは光や音が苦手なので夜浜辺に上陸して産卵する。
浦島太郎の物語がある。
浦島太郎は浜辺で子供たちにいじめられている亀を助けてやる。
すると亀はお礼だといって、浦島太郎を自分の背中にのせて竜宮城へつれていく。
竜宮城で浦島太郎は乙姫様に迎えられて楽しく過ごす。
しかし故郷が恋しくなり、亀の背にのって元の世界に戻るが、3年と思っていたのが、700年の年月がたっていた。
浦島太郎は乙姫にもらった玉手箱をあける。
擦ると白い煙がもくもくとでて、浦島太郎は一瞬で老人になってしまう。
浦島太郎が助けた亀は、なぜ浜辺にいたのか。 それは産卵のためだったのだ。 すなわち、浦島太郎が助けた亀はメスだったのだ。 また、時間は昼ではなく夜だ。
この発見に感動してしばらくじーんとしていたが(w)、
実はこの話は国語教科書に掲載されて広く知れ渡った物語で、そのもととなっている話は少しストーリーが違うのだという。
それも、日本書記、万葉集、御伽草子などいくつもの史料に掲載されており、それぞれ少しづつ異なっているようである。
『御伽草子「室町時代)』にも掲載されているが、御伽草子には異本もあり、さまざまな話が伝えられているとのこと。 江戸時代に普及した御伽文庫の内容は次のようなものである。
丹後の国の浦島太郎は「ゑじまが磯」で亀を釣り上げたが逃がしてやった。
数日後、浜に舟が漂着し、中には女が乗っていた。
女は浦島太郎に、本国に帰してほしいと頼む。
浦島太郎は女と舟に乗って龍宮城につき、女と夫婦となって3年暮らした。
しかし浦島太郎は両親が心配になって「帰りたい」といった。
女は「私はあなたに助けられた亀です。」といい、「決してあけないように」といって太郎に「かたみの筥(はこ)」を渡した。
浦島太郎は元の世界にもどったが、なんと700年がすぎていた。
浦島太郎が箱を開けると紫の雲が立ち昇り浦島太郎は老人になった。
浦島太郎はさらに鶴となって蓬萊山(不老不死の薬を持つ仙人が住む山)へ向かって飛び去った。
竜宮の女も亀になって蓬莱山へ向かい、丹後では太郎と女は夫婦の明神となって祀られた。
亀は浜辺で子どもたちにいじめられているところを浦島太郎に助けられたのではなく、浦島太郎が海でつりあげたのを逃がしてやったのだった。 海で釣り上げたのであれば亀はオスの可能性もある。
しかしその後、亀は女の姿になって浜に漂着したとあり、これは亀が産卵のため浜にあがってくることをベースに作られた物語のように思える。
⑥浦島太郎のモデルは倭宿禰命?
「ゑじまが磯」がどこにあるのかわからないが、丹後の国とある点に注意したい。 丹後の国とは現在の京都府北部、丹後半島のあたりである。 丹後半島には浦嶋神社がある。 主祭神は浦嶋子(浦島太郎)で、浦島太郎伝説が伝えられているところである。
倭宿禰命
上は籠神社にある倭宿禰命像だが、なぜ倭宿禰命は亀に乗っているのにあるだろうか。
倭宿禰命は別名を珍彦・椎根津彦・神知津彦 大倭国造、倭直ともいい、 籠神社の主祭神・彦火明命の四代目の孫 海部宮司家四代目の祖である。
神武東征のとき、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、浪速、河内、大和へと神武天皇の道案内をした。
その功労により、神武天皇から倭宿禰の称号を賜った。
籠神社にはこのように伝わり、そのため、倭宿禰命像は亀に乗った姿であらわされているのだった。
籠神社と浦嶋神社は距離的にも近い。 浦島太郎のモデルは倭宿禰命なのではないか?
⑦倭宿禰命とヤマトタケルは同一人物?
「熊野山中で神武天皇の道案内をしたのは三本脚の八咫烏だったが、海の道案内をしたのは倭宿彌命だったたわけである。
山中の道案内はカラスがしたのだから、海の道案内は倭宿彌命=亀がした、といえるかもしれない。」と。
しかし、『御伽文庫』の浦島太郎を読むと、これを訂正する必用があるかもしれない。(すいません!) 亀は浦島太郎の妻で、浦島太郎は鶴となった。そして二人で蓬莱に向かったとある。 ここから、「鶴は千年、亀は万年」といわれるようになったといわれる。 (実際には鶴の寿命は30年程度、亀は80年程度) 浦島太郎は鶴になったのだ。
まてよ、確か先代旧事本紀によれば、倭宿禰命は景行天皇の皇子と記されていたはずだ。 景行天皇は第12代天皇で、ヤマトタケルの父親である。 ヤマトタケルは日本書記では日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、『古事記』では「倭建命(ヤマトタケルノミコト)と記されることが多い。
倭建命と倭宿禰命はどちらも倭(ヤマト)とある。 もしかして、倭建命と倭宿禰命は同一人物ではないだろうか。
走水の海(横須賀市)の神が大波を起こしたとき、ヤマトタケルの后の弟橘比売は海に入水(海に身を投げて死ぬこと)している。 大波を鎮めるには生贄が必用だと考えられていたのかもしれない。 そうすると波は穏やかになり、ヤマトタケルは上総国に渡り、しばらくこの地(現在の木更津市か?)に上陸している。 海に身を投げて死んだ弟橘比売は亀になったと考えられたかもしれない。
木更津港
そしてヤマトタケルは伊吹山の神と戦うためにでかけるのだが、神は大氷雨を降らせ、ヤマトタケルは病を患って亡くなってしまう。 死んだヤマトタケルは陵に葬られるが、白鳥となって飛び立った。
白鳥というのは白い鳥のことで、スワンのことではない。 白鳥とは鶴のことかもしれない。
白鳥(鶴?)はどこへ飛んでいったのか。 それは蓬莱山であり、白鳥のあとをおって海で入水し亀となった弟橘比売も蓬莱山へ向かったのかも?
ヤマトタケルを祀る大鳥大社
⑧竜宮は星の世界だった?
浦島太郎伝説は『御伽草子「室町時代)』からさらに遡ることができる。
丹後国風土記逸文(8世紀)
與謝郡日置里筒川村の筒川島子(つつかわのしまこ)は、別名「水江浦島子」といい、日下部首(くさかべのおびと)の先祖。
雄略天皇の時代、島子は一人舟で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が釣れた。 五色の亀は美女に変身し、「天上の仙(ひじり)の家の者」だといった。 舟で女性の住む「蓬山」を訪れる。(海上の島) 蓬山の門では、7人の童子(昴七星)、8人の童子(畢星)に出迎えられ、女と夫婦になる。 三年がたち、島子は帰りたいといいだした。 女は「私と再会したいならば、決してあけてはいけない」といって嶼子に玉匣(たまくしげ/箱)を授けた。 嶼子は元の世界に戻るが、300年たっていた。 箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。 そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟る。
この話では浦島太郎ではなく筒川島子という名前になっている。
丹後国風土記逸文を読んで驚かされるのは、蓬山の門に、7人の童子(昴七星)、8人の童子(畢星)がいる点である。 蓬山とは五色の亀が棲む海上の島ということだが、五色の亀が変身した女は「天上の仙(ひじり)の家の者」だといっている。 つまり、蓬山(海上の島)と天上の仙の家は同じものということになる。
水平線と空は繋がっているように見えるので、古の人々は海と空は繋がっており、海をどこまでも行くと天上にいたると考えていたのだろうか。
そう考えると、籠神社の南にある細長い砂州を天橋立と呼ぶ理由もなんとなくわかる。 長い砂州をどんどん歩いて海のかなたまでいくと、海と空が繋がっているということではないだろうか。
天橋立という地名の由来は
「イザナギは久志備の浜の北の籠神社の真名井原(イザナミを祀る)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった」と言われてはいるが、この由来がいつから言われているのかわからないし
「海と空は繋がっている」説もありえるんじゃないだろうか。 また覗きをして天橋立をみるのは、海を空に見立てるためだろうが、昔の人はまた覗きをしていなかったかも。
天橋立
蓬山の門に、7人の童子(昴七星)、8人の童子(畢星)がいたとあるが 昴(すばる)とはプレアデス星団のこと。 畢星(つりがねぼし)はヒアデス星団のことで、いずれも牡羊座を構成する星団で、オリオン座の向かって右あたりにある。 ここが海から空に入る入口というわけだ。
オリオン座と言うと冬の星座というイメージが強いが、夏でも深夜に上ってくる。
スサノオはイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられており海神と同一視されている。 (つまり乙姫の父親・海神がスサノオ)
しかし記紀神話には根の国(死後の国)の神としてもスサノオは登場する。
さらに、スサノオは星の神だとも考えらえる。 というのは、イザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれたとされるが イザナギの顔は宇宙に喩えられていると思う。 陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするという。 地図では「右が東」だと思われるかもしれないが、それは正しくは「向かって右が東」であり 地図の側にたてば、東が左となる。 ということはイザナギの顔の真ん中にある鼻から生まれたスサノオは星の神ということになる。 船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。
⑨浦島太郎(筒川島子・浦嶋子)は恨みをもって死んだ?
スサノオは海の神でもあり、星の神でもあり、根の国(死後の国)の神でもある。 つまり、亀は死の国の住人であり、浦島太郎は死の国に連れていかれたということになる。
日本書紀
丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)に住む浦嶋子は舟に乗って釣りに出て、亀を捕らえた。 亀は女に変化し、浦嶋子はこの女を妻とした。 二人は海中に入って蓬萊山(とこよのくに)へいき、遍歴して仙人たちに会った。
こちらの話では蓬萊山と書いて「とこよのくに」と読ませているが、「とこよのくに」とは『常世の国』でありこちらも『根の国』と同じく死後の世界と考えられている。 ただし、根の国は地獄のようなところ、常世の国は天国のようなところとされている。
万葉集巻九
高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」
水の江の浦島の子が7日も帰らず鯛や鰹を釣っていると、海境(うなさか)[注 24]を超えて漕いで海神の娘と出会って結婚した。 常世にある海神の宮で暮らしたが、男は元の世界へ戻りたいと言い出した。 妻は「常世の国に戻りたいと思うのならば決してあけてはいけない」といって篋(くしげ)を手渡した。 水江に戻ると、たった3年だと思っていたのに、家がなかった。 箱を開ければ元の家などが戻るのではないかと思って、開けたところ白い雲がたなびいて常世にむかった。 浦島の子は皺だらけの白髪の老人の様になり、ついには息絶えた。
この高橋虫麻呂の長歌では、浦島の子は箱をあけて老人になったあと死んだ、と歌われている。
浦島太郎(筒川島子・浦嶋子)のモデルが倭宿禰命だとすれば、浦島太郎は恨みをもって死んだということになる。
倭宿禰命は物部氏の神と考えられ、神武以前畿内には物部王朝があったと考えられる。 倭宿禰命は神武の道案内をしたというが、どこまで本当かわからないし、国を乗っ取られたことに恨みを抱いて怨霊になったのではないだろうか。
怨霊というのは神である。
しかし、怨霊の倭宿禰命は仏門に入り、煩悩をすてて悟りを開き、人々に祟るのをやめる。
そう言った目的があって、神仏は習合されていたのではないかと思う。
そうして亀に乗った姿の倭宿禰命は僧侶となり亀入道となったが、それでも恨みは消えなかったようで
亀入道の姿を見ると不吉な出来事が起こる、などと考えられたのではないだろうか。
いや、まて。 亀は産卵のため浜辺に戻ってきていたメスだったはずだ。 しかし、和尚魚とか亀入道というのは男の妖怪じゃないのか?
浦島太郎や島子が結婚した亀がメスだということは、この話は和尚魚や亀入道とは関係がないのではないか?
いや、そうとも言い切れない。
和尚とは「修行を積んで一人前と認められたお坊様」のことで、女性にも使ったりしないだろうか。
ネットをぐぐると「女の和尚さんが・・・・」という文章もあった。(どうかな?) 冒頭の和尚魚の絵も尼僧に見えなくもない。
また、日本の神は性別がルーズで、謡曲三輪では男神とされる三輪明神が女神として登場するし 男性の聖徳太子が女に生まれ変わって親鸞の妻に鳴ろう、と言ったという話もある。
そして、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすのではないかとする説もある。
亀は荒々しく祟る心を捨てきれず、そのため女ではなく男の妖怪としてあらわれたと考えることもできるかもしれない。
寺島良安『和漢三才図会』より「和尚魚」
①和尚魚
和尚魚(おしょううお)は、江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』にある海の妖怪で、海坊主の一種[1]。
概要
体長は5~6尺(約1.5~1.8メートル)。体はスッポンに似ており、頭部は「和尚」の名の通り頭髪がない坊主頭のように見える[1]。
これを捕らえて殺そうとすると、和尚魚は手を合わせて涙を流しつつ命乞いをするので「助けてやるが、その代わり二度と祟ってはいけない」と言い聞かせて海へ逃がすと良いという[1]。
また、同様に亀の体に坊主頭の人間の頭部を持つ海坊主として亀入道(かめにゅうどう)があり、若狭湾に出現するといわれる[2]。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』では、これは和尚魚と同じものとされている。この姿を見ると不吉な出来事が起こるとされ、捕えてしまった場合、酒を飲ませて海へ放したという[3]。
妖怪探訪家・村上健司はこの和尚魚や入亀入道を、海亀を妖怪視したものと推測している[1]。
⓶亀に乗った倭宿禰命
和尚魚は頭は人間の坊主、体はスッポンににており 江戸時代の随筆『譚海(津村淙庵)』では、若狭湾に登場する亀入道と和尚魚と同じものとしているそうである。
若狭湾は広いが、亀といえば私は元伊勢籠神社を思い出す。 この神社に、亀に乗った倭宿禰命(ヤマトスクネノミコト)のブロンズ像があるのだ。
籠神社 倭宿禰命像
なぜ籠神社に倭宿彌命の像があるのかといえば、籠神社の摂社・蛭子神社の御祭神が彦火火出見命と倭宿彌命だからだ。
籠神社は「倭宿彌命」について、次のように伝えている。
別名を珍彦・椎根津彦・神知津彦 大倭国造、倭直とも云う。 籠神社の主祭神・彦火明命の四代目の孫 海部宮司家四代目の祖 神武東征のとき、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、浪速、河内、大和へと神武天皇の道案内をした。 その功労により、神武天皇から倭宿禰の称号を賜った。
ほかの史料による倭宿禰命の記述は次のとおり。(面倒なら飛ばしてもらっても大丈夫です)
①海部氏系図二巻のうち『勘注系図』の註文 「彦火明命―建位起命―宇豆彦命(うずひこ)」 「彦火明命―彦火火出見命―建位起命―倭宿祢」とある。
⓶日本書記 曲浦(わだのうら)で魚釣をしていたところを、椎の棹を授けて船にのせ、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせた。 神武天皇に仕え、兄磯城を破った。神武天皇の即位後、倭国造に任命された。
③古事記 亀の甲羅の上に乗っていたのを棹を渡して船に引き入れ、槁根津日子の名を賜った。
④先代旧事本紀 三川大伴部直の祖として景行天皇の皇子
岡山県岡山市東区水門町には亀石神社があり、珍彦(宇豆毘古命)が乗った大亀の化身とされる亀岩をご神体として祀っているそうである。
③倭宿彌命は大阪湾北側を支配する海部氏の首長で、蛭子と同一神?
保久良神社の伝説によれば、椎根津彦命は神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのって漂着したという。
吉井良隆氏は次のようにおっしゃっているそうである。 「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長で、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮ではないか」
それはありえるかも、と思う。
上の地図、赤丸がついているのが保久良神社、その南にある六甲アイランドあたりがかつて青木の浜と呼ばれていたそうである。 その東には西宮神社があり、青木の浜と西宮神社は距離的にも近い。
吉井良隆氏のおっしゃる「海部」が何を意味するのかわからないが、 籠神社の宮司は代々海部氏の世襲である。 この「海部氏がかつて大阪湾北側を支配する首長だった」と吉井氏はおっしゃっているのだろうか。
籠神社には蛭子神社(恵比寿神社)があって、倭宿彌命も祀られている。
倭宿彌命はイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても歩けなかったため 葦船に乗せて流された蛭子と同一神ではなのかもしれない。
④畿内には神武以前、物部王朝があった?
畿内には神武以前、物部王朝があったのではないか、と私は考えている。
記紀には神武より早く、ニギハヤヒが畿内に天下っていた、と明記されているのだ。 このニギハヤヒは物部氏の祖とされている。
籠神社の主祭神・彦火明命 (ひこほあかりのみこと)は、別名を天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命I(ニギハヤヒ)であり、社家海部氏の祖神と伝えている。
つまり、籠神社は物部氏の祖・ニギハヤヒを祀る神社であり、海部氏は物部氏だということである。
籠神社
⑤物部氏の倭宿禰は、神武側について称号を賜った。
⓶の内容をもう一度確認しておこう。
神武東征以前、畿内には物部王朝があったが、物部氏の倭宿彌命は神武方につき、浪速、河内、大和へと神武天皇の道案内をした。
その功労により、神武天皇から倭宿禰(やまとすくね)の称号を賜った、ということである。
もともとある国があったところへ、別のところからその国を征服しようとやってきた人物Aがおり、国の王子BがAの征服の手助けをした。 そしてその見返りとして高い称号や金銭を賜った、というような話である。
⑥亀は倭宿禰そのもの?
熊野山中で神武天皇の道案内をしたのは三本脚の八咫烏だったが、海の道案内をしたのは倭宿彌命だったたわけである。 山中の道案内はカラスがしたのだから、海の道案内は倭宿彌命=亀がした、といえるかもしれない。
倭宿彌命は亀に乗っていたとあるが、倭宿彌命は亀そのものであると考えられたのではないか。
熊野本宮大社 幟に描かれた三本脚の八咫烏
7⃣元伊勢とは何か
籠神社は元伊勢のひとつだが、元伊勢とは何かについてざっと説明しておこう。
崇神天皇代、疫病が流行った。 崇神天皇はそれまで天照大神・倭大国魂神を宮中に祀っていたのだが、崇神天皇は二神と一緒に生活するのが怖くなって皇居の外で祀らせることにした。 (「疫病が流行るのは天照大神・倭大国魂神の祟り」だと考えられたのだろう。)
倭大国魂神は渟名城入姫命に託して祀らせたが、髪が落ち、体が痩せて(倭大国魂神の祟りでそういう症状になったと考えられたのだろう)祀ることができなかった。 その後倭大国魂神がどうなったのかよくわからないが、オオタタネコに大物主神を祀らせたところ疫病は静まり、はむかう者もいなくなったという話がでてくるので、倭大国魂神と大物主神は同一神なのかもしれない。
さて、天照大神は豊鍬入姫に託して笠縫邑で祀らせた。 その後、豊鍬入姫が年老いたので、倭姫に祀らせた。 倭姫は天照大神を祀るのにふさわしい土地を探して各地を巡った。 その時々に天照大神を祀った場所を元伊勢といい、60か所に及ぶといわれる。 籠神社はその元伊勢のひとつなのである。
最後は天照大神が伊勢の国にやってきたとき
「この神風の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)の帰(き)する国なり、傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり、この国に居らむとおもう」と託宣したので 天照大神は伊勢に祀られることになった。
これが伊勢神宮である。
8⃣天照大神は物部氏の祖神だった?
天照大神はご存じのとおり、天皇家の祖神である。 そうであるのに、物部氏の神・彦火明命(ニギハヤヒ)や倭宿彌命を祀る籠神社が元伊勢とはどういうわけだろうか。
(籠神社では相殿神として天照大神も祀ってはいるが。)
実は本当の天照大神とはニギハヤヒではないかという説がある。 ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命という神名になっている。 これは天照大神によく似た名前である。 ニギハヤヒは男神だが、天照大神は男神とする信仰は各地にある。 たとえば京都祇園祭岩戸山のご神体の天照大神も男神である。
京都祇園祭岩戸山のご神体・天照大神
天照大神とニギハヤヒが同一神なので、元伊勢籠神社では物部氏の神・彦火明命(ニギハヤヒ)や倭宿彌命を祀っているのではないか?
崇神天皇は天皇家の人間であり、物部王朝を何からかの形でのっとった。 (記紀神話には入り婿の話が多いので、入り婿になることで物部王朝をのっとったのかもしれない)
一般的に先祖の霊は恐ろしいものではない。どちらかというと守護神のように感じる存在である。 しかし疫病が流行ったとき、崇神天皇は天照大神・倭大国魂神を恐ろしく感じて、宮中の外で祀らせた。 これは天照大神・倭大国魂神に対するやましい心が崇神天皇の中にあったためではないか。 なぜ崇神天皇はやましい心を持っていたのか。 それは自分の先祖または自分自身が、物部王朝をのっとったという自覚があったためではないか。 それゆえ、物部氏の神である天照大神(ニギハヤヒと同一神?)・倭大国魂神を恐れたのではないか?
先代旧事本紀は、倭宿彌命を、「三川大伴部直の祖として景行天皇の皇子」と記している。
景行天皇は第12代天皇で、ヤマトタケルの父親である。 景行天皇は物部王朝の天皇をモデルとして創作されたものなのかもしれない。 三河大伴氏は、866年の応天門の変で失脚した伴善男の子・伴員助(トモノカズスケ)を祖としているようだ。
つまり、倭宿彌命は物部王朝の天皇・景行天皇の子であり、三河大伴氏の祖、ということなのかもしれないが 三川大伴部が三河大伴氏と同じものかどうかわからない。
9⃣石上神社は天照大神を祀る神社?
上の祇園祭岩戸山のご神体の写真を見ると、天照大神の前に鶏がいるが、鶏は天照大神の神使とされている。 伊勢神宮内宮には白い鶏が放し飼いにされているそうだが、私が参拝したときには鶏の姿はなかった。
奈良県天理市に石上神宮があり、こちらには祇園祭岩戸山と同様の茶色い鶏が放し飼いにされている。 伊勢神宮の古名は「磯宮(いそのみや)」といったそうで、関係がありそうである。
この石上神宮は物部氏が祭祀する神社である。
石上神宮の主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)といい、御神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊とされる。
もしかするとこの布都御魂大神とは天照大神と同一神であり、 それゆえ磯宮(いそのみや)という伊勢神宮の古名と、石上(いそのかみ)と似た神社名であり また同じように神使である鶏を放し飼いにしているのかもしれない。
⑩亀入道は倭宿禰命?
ようやく、亀入道の話に戻ることができるw つまり、亀入道の正体とは、亀に乗って現れ、神武の道案内をした倭宿禰命の事ではないかと思うのだ。
入道とは仏門に入った人のことだが、籠神社は寺ではなく神社ではないか。 倭宿禰命像も神の姿をしていて、僧侶の姿ではない、といわれるかもしれない。
しかし、江戸時代までの日本では神仏習合が当たり前だった。 調べたところ天蓋山大谷寺という寺が、籠神社の奥院で、元別当寺(神宮寺)であったようだ。
倭宿禰命は神武の道案内をしたというが、どこまで本当かわからないし、国を乗っ取られたことに恨みを抱いて怨霊になったことだろう。 怨霊というのは神である。
しかし、怨霊の倭宿禰命は仏門に入り、煩悩をすてて悟りを開き、人々に祟るのをやめる。 そう言った目的があって、神仏は習合されていたのではないかと思う。
そうして亀に乗った姿の倭宿禰命は僧侶となり亀入道となったが、それでも恨みは消えなかったようで 亀入道の姿を見ると不吉な出来事が起こる、などと考えられたのではないだろうか。
1⃣産怪
産怪(さんかい)は、日本各地に伝わる妖怪の内、人間の妊婦が産むといわれるものの総称である[1]。出産時に注意しなければ、赤ん坊の替わりにこれらの妖怪が産まれてしまうという[2]。
かつての医学が発達していなかった頃の日本では、出産は現在とは比較にならないほど大変であり、また受胎から間もない胎児が奇異な姿に映ることも理解されていなかった[1][3]。更にそういった時代では、迷信が深く信じられていた。そのために流産で産まれた胎児、早産などの異常出産で産まれた奇形児や未熟児が、これらのように妖怪視されたといわれる[4]。
1:15あたりの受精から4週間後の胎児は蛙のように見える。 その後の胎児の姿も小動物のように見える。
このような胎児を流産したり早産したりした場合に妖怪だとみなされたというのは、ありえそうである。
そして、このような胎児が妊婦を殺すと考えられたのは、古には出産によって死亡する例が多かったためではないかと思ったりする。
2⃣血塊
血塊(けっかい)は、埼玉県、神奈川県に伝わる産怪[4]。カタカナでケッカイとも表記する他[1]、長野県下伊那郡では同様の産怪をケッケという[5]。
外見についての伝承は乏しいが、舌が二枚有り毛が逆さに生えていて[6]、牛に似た顔の毛むくじゃらの姿という説がある[4]。
これが家の縁の下に潜り込むと、産婦の命が危険に晒されると言われている。埼玉の浦和には、出産時に縁の下に屏風を巡らせる風習が伝わっており、これは血塊が縁の下に潜り込むことを阻むためとされている[1]。これには血塊(けっかい)に結界(けっかい)をもじった意味もあったようである[1]。
神奈川の足柄郡三歩村では、産み落とされた血塊は血まみれのまますぐに動き、囲炉裏の自在鉤を昇り出す[5][7]。こうして血塊が逃げ切ると産婦は死んでしまうと言われていたため、前もってしゃもじを用意して自在鉤に括りつけておき、血塊が出現して自在鉤を昇り始めたらすぐさま、しゃもじで打ち落としたという[1]。
民俗学者・日野巌は幼少時、見世物小屋で出し物にされていた血塊を見たと語っている。小屋では、とある女性が大学病院で産み落としたものといわれていたが、日野はこれを南洋に生息するヨザル(英語版)を手なずけて見世物にしたものと指摘している[8]。
小学館のデジタル大辞泉は『けっかい』について「猿の一種、ロリスの俗称。江戸時代、見世物にされた。」としている。上野動物園はスローロリスの説明を「マレー半島では" コウカン"と呼ばれ、それが種名となってかつては"コンカン"とか"ケツカイ"とか呼ばれたこともありました。古い上野動物園の台帳にもこの名を見ることができます。」記述していた[9]。
上記記事をまとめてく。
①血塊(けっかい)は、埼玉県、神奈川県に伝わる産怪(人間の妊婦が産むとさえる妖怪の総称[) ⓶長野県下伊那郡では同様の産怪をケッケという。
③外見についての伝承は乏しい。 舌が二枚有り毛が逆さに生えている、牛に似た顔の毛むくじゃらの姿などといわれることがる。 ④血塊が家の縁の下に潜り込むと、産婦の命が危険に晒される。 ⑤埼玉県浦和では、出産時に縁の下に屏風を巡らせる。 血塊が縁の下に潜り込むことを阻むため。また、血塊(けっかい)に結界(けっかい)をかけた。 ⑥神奈川の足柄郡三歩村では、産み落とされた血塊は血まみれのまますぐに動き、囲炉裏の自在鉤を昇り、逃げ切ると産婦は死んでしまうと言われていた。 そのため、しゃもじを自在鉤に括りつけて、血塊が自在鉤を昇り始めたらしゃもじで打ち落としたという。 ⑦民俗学者・日野巌は幼少時、見世物小屋で血塊を見た。 「ある女性が大学病院で産み落とした」と説明されたが、日野は南洋に生息するヨザルだと指摘している。 ⑧小学館のデジタル大辞泉は『けっかい』について「猿の一種、ロリスの俗称。江戸時代、見世物にされた。」とし記す。 ⑨上野動物園はスローロリスについて 「マレー半島では" コウカン"と呼ばれ、それが種名となってかつては"コンカン"とか"ケツカイ"とか呼ばれたこともありました。古い上野動物園の台帳にもこの名を見ることができます。」と説明していた。
3⃣ヨザルとスローロリス
上の動画にでてくるのがヨザルである。とても愛らしいが、手の指、耳、口の形などがどことなく人間ぽい。 そういうわけで、江戸時代には言い伝えのある妖怪・血塊であるとして、見世物とされていたのだろうか。
上の動画はスローロリスの食事風景を撮影したものである。 こちらも器用にものをつかむ手の指、尻尾がないところなども、どことなく人間ぽい。 雑食のようでヒナウズラを食べている。
動画の最初の方をみると、スローロリスが窓ガラスをよじ登っており、 妖怪・血塊を思わせる。
スローロリスも妖怪・血塊に似ているということで、ケッカイと呼ばれたのかもしれない。
一つ目の動画、1:15あたりの受精から4週間後の胎児は蛙のように見える。 1:42あたりの受精から2か月半後の胎児は、ヨザルやスローロリスのようにみえる。
こういう胎児が、血塊の正体だろうか。
4⃣オケツは胎盤?
オケツは、岡山県に伝わる産怪[1]。
外観は亀に似ており、背には蓑毛が生えている。生まれるとすぐに床を這い出し、家の縁の下へ逃げ込もうとする。すぐに取り押さえて殺してしまわなければならず、取り逃がすと寝ている妊婦の真下にもぐり込み、妊婦を殺してしまうという[1]。
これは後産の胎盤ではないだろうか。
オケツというのは汚血と書くのかもしれない。 赤黒く見えるので胎盤を汚れていると古の人は考えたのだろうか。 しかし、胎盤は胎児のベッドのような大事な役割をはたすものである。 汚いものではない。 動画のように出産後胎盤を見せてくれるのは生命を理解する上で貴重な機会になるだろうと思う。
1⃣反響(エコー)と残響(リバーブ)は基本的には同じ
上の記事(オモシロイです)に次のような内容が記されている。
①普段我々が聞いている音のほとんどが「本当の音」ではない。
⓶我々が普段聞いている音というのは、「本当の音」(元の音)に「残響」が加わった音。 ③音が発生すると、その音は耳に向かって直進する。そして耳に到達すると「聞こえた」ことになる。 ④音源で発生した音は、すべてが耳に向かって直進するわけではなく、全方向(同心球状)に拡がっていく。 「耳に向かわなかった音」は近くの壁などに当たってから跳ね返り、耳に入ってくる。(反響/エコー) ⑤反響は、余計な経路を通ってくるため、「本当の音」(耳に直接入ってくる音)よりも遅れて聞こえてくる。 ⑥「反響」は近くの壁に反射してくる音もあれば、遠くの壁に反射してくる音もある。 あちこちの壁に反射してからやっと届いたり、別の家具などに反射して聞こえてくる音もある。 それらの音は、通ってきた経路の長さがちょっとずつ違うから、遅れかたもちょっとずつ違う。 「無数の反響がちょっとずつズレて聞こえてくる音」を、「残響」(リバーブ)という。 ⑦山で「ヤッホー!」と叫んだときに、しばらくして「ヤッホー!」と一つ戻ってくるのが「反響」 ⑧風呂場で「ヤッホー!」と叫んだときに、「ヤッホーォォォォゥ」と語尾につく「ォォォォゥ」が「残響」
2⃣1.63秒で音が戻ってくるのに必要な距離
1⃣で山彦とは反響のことであるが、基本的には残響と同じ現象であることがわかった。
反響と残響の違いは、耳に入ってくる時間の差だといえるだろう。
時間差が小さければ「ヤッホーォォォォゥ」と聞こえ(残響) 時間差が大きいと輪唱のように「ヤッホー…ヤッホー」と聞こえるわけだ。(反響) 時間差が生じるのは、音の発生源と、音を反射する岩、壁などとの距離だ。
上の動画は和歌山県日高川町の有名なヤッホーポイントで反響実験をしたものである。 (参考になりました。ありがとうございます!)
上の地図向かって左上にある「拡大地図を表示」をクリックするとグーグルマップに飛ぶ。 そしてヤッホーポイントとある青丸のところにカーソルを置き、右クリックすると「距離を測定」とでてくる。 ヤッホーポイントからの距離を測定したい場所にカーソルを持って行ってクリックすると、距離が測定できる。
声を反射する岩の場所がどこにあるのかわからないが、対岸まで一番近い場所までは約200m、一番遠い場所までは約360mである。
「やまびこ」が、何秒で返ってくるかを機械で測定してみると、1.63秒ということがわかりました。 とある。
音の速さは約340m/秒
1:1・63=340:X X=340✖1.63=554.2m
554.2mは往復の距離なので、2で割った約277.1mぐらいのところに反射する岩や壁があると、 約1.63秒で山彦が帰ってくるということになる。
3⃣北割下水と南割下水に挟まれた田圃?の距離
上記リンク先の本所深川町屋絵図(旧幕府引継書)に北割下水と南割下水の位置が示されている。 その北割下水と南割下水の間、大横河と横十間川に挟まれた場所に広い土地がある。
地図が小さくて文字が読めないのだが、これは田圃か畑ではないかと思うのだが、どうだろう?
その広い土地は、横十間川と大横川に挟まれた場所にある。
上の地図の向かって右が横十間川、中央付近にあるのが大横川である。 横十間川と大横川間の距離は980mほどである。 するとその広い土地は700mほどあるだろうか。
これだけ距離があれば、声が返ってくるのに時間がかかって残響というよりは反響になりそうである。
割下水でおこった怪異を見てみよう。
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である[1][2]。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが[1][2]、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある[1]。
この怪異は田畑のある広い場所で拍子木を打ち、それが西側の民家の壁にあたって跳ね返り、 残響というよりは山彦のような反響となって帰ってきたものと考えられるのではないだろうか。
夜、マンションの廊下などを歩いていて、他の人の足音が聞こえる、と感じ よく確認してみると自分の足音だった、という経験もよくある。
『本所七不思議之内 送撃柝』(送り拍子木)三代国輝・画
『本所七不思議之内 送撃柝』(送り拍子木)三代国輝・画
1⃣送り拍子木
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である[1][2]。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが[1][2]、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある[1]。
2⃣山彦がおこるしくみ
これは、山彦だろうと思ってググったところ、次のようなテレビ大阪さんのこんな記事があった。
なぜ、「やまびこ」は、響くの?そのしくみは!?
「やまびこ」は、音の反射です。
振動によって作られた音が、空気を伝わり、山にぶつかって、跳ね返ってくる、というしくみで起こります。
「やまびこ」は、1秒間に約340m進む、音の反射によって聞こえるのです。
今回、訪れた「日本一のヤッホーポイント」は、人がやまびこをさけぶ場所の正面に岩があるため、そこに音が当たり、うまく跳ね返ってくるのです。
もし、これが岩ではなく、木などがたくさん生えていると、音を吸収してしまい、音が小さくなってしまいます。 早口言葉でも、やまびこは返ってくるの!?
「やまびこ」は、距離が離れていると、音がどんどん減っていきます。
また、大きな音は、返ってきやすいという特徴があります。
例えば、クラッカーの音などは、瞬発的に大きな音が鳴るので、返ってきやすいのです。 ~略~
≪「やまびこ」を成功させるポイント≫
●音が反射して戻ってくるまでの時間内に言葉を言う
●なるべく高い音でさけぶ
●母音の「あ」「え」「お」を強調する
協力先
松村雅史(大阪電気通信大学 教授)
和歌山の合唱団
和歌山県合唱連盟
3⃣割下水
怪異が起きたのは割下水(わりげすい)だという。 割下水は東京都墨田区に掘られた堀割(地面を掘って作った水路)のことだ。 南割下水と北割下水があり、南割下水の場所は隅田川の東、現在の北斎通り(亀沢1丁目あたり)、北割下水は現在の春日通り(本所1丁目あたり)にあったらしい。
上の地図の「すみだ北斎美術館」のあたりの東西の通りが北斎通り、赤い丸のある東西の通りが春日通りである。
上記リンク先に、その割下水の写真が掲載されている。 また現在、割下水は暗渠になっていることも説明されている。 田圃ばかりで水はけが悪いので割下水を作ったと書いてあるが、防火用水として設けたのではないかと思ったりもする。
また上記に掲載されている地図をみると東は田圃のようだが、西の方には建物がたっているようである。 文頭の『本所七不思議之内 送撃柝』(送り拍子木)三代国輝・画 を見ても、民家が描かれている。
東の田圃あたりで拍子木を打てば、西の建物に音が反射して、山彦のように聞こえるのではないだろうか。
案内板の写真も掲載されていて、次のように記されている。(改行は筆者が適当に入れた。)
南割下水
明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。
まず着手したのは、堅川、大横川、北十間川、横十間川などの運河の堀割の開削と、両国橋の架橋です。
掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。
北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。
幅は一間(約一・八メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、
本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。
昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が産まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。
またこの辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。
4⃣拍子木の怪異は民暦の大火でなくなった人のしわざ?
もう一度、送り拍子木の怪異をよんでみよう。
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である[1][2]。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが[1][2]、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある[1]。
割下水は明暦の大火ののちに作られたのだった。明暦の大火の死者数は3万から10万人と記録されている。
上記に明暦大火による壊滅範囲の図がある。 割下水あたりは、この図の隅田川の文字があるあたりで、ぎりぎり被害を免れたかもしれないが 「火の用心」と唱えつつ、拍子木を打つ音は、人々に民暦の大火を思い出させたことだろう。
そして民家の壁に反射して山彦のように響く柏木の音を、民暦の大火で亡くなった人の霊のしわざだと考えたのではないだろうか。
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)
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