1⃣守宮(いもり)
守宮(いもり)とは、日本の妖怪の一種で、戦乱で死んだ武士の霊が、守宮という小人の妖怪となって井戸の周りに住み着くというもの。浅井了意による江戸時代の怪異小説集『伽婢子』に記述がある。漫画家・水木しげるの著書では「井守」と表記されている[1]。読みは「いもり」だが、実際には両生類のイモリではなく爬虫類のヤモリの怪異を描いたものである[2][3]。
概要
越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)でのこと。塵外という僧が湯尾の城跡の庵で書見をしていたところ、身長4-5寸(約12-15センチメートル)の小人が現れて話しかけてきた。塵外は僧だけあって驚くことなく書見を続いていると、その小人は塵外の無礼を責め、その声に応じて何人もの小人が現れて襲いかかってきた。さすがに塵外はたまらずに逃げ出した。
塵外が村人にこの話をすると、かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いたということだった。塵外はその場所に行ってみると、話の通り無数の守宮(ヤモリ)がいた。塵外が経文を唱えて弔うと、たちまち守宮は滅び去った。
災いは消えたものの、塵外は守宮を憐れに思い、その亡骸を村人たちとともに丁重に葬ったという。
2⃣「いもり」と「やもり」の混同
守宮と書いて「いもり」という妖怪だが、一般的には守宮と書いて「やもり」とよむ。
守宮は爬虫類の「やもり」の漢字表記である。
漢字では「いもり」は井守、「やもり」は家守とも書く。
その理由は、いもりは両生類で井戸にいる害虫を、やもりは爬虫類で家にいる害虫を食べることで、井戸や家を守ってくれるからなのだという。
さらに「いもり」は漢字表記で蠑、螈とも書く。
なんと、ややこしい。
守宮・・・「いもり’」と読む・・・妖怪
「やもり」と読む・・・爬虫類のやもり
守宮(やもり)・・・・・・・家守・・・爬虫類
蠑、螈(いもり)・・・・・・井守・・・両生類
なぜ守宮は爬虫類の「いもり」のことなのに、妖怪の守宮は「やもり」とよむのか。
それについては、ウィキペディアの脚注3に説明がある。
イモリとヤモリは形や大きさが似ているため、かつての日本ではこれらの区別が曖昧であり、本来ヤモリを指す「守宮」を「いもり」と読む例が多々見受けられた。
3⃣湯尾城
妖怪・守宮が現れたのは越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)であるという。
さらに
「塵外という僧が湯尾の城跡の庵で書見をしていたところ」
「かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いた」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%AE%AE_(%E5%A6%96%E6%80%AA) より引用
とある。
塵外とは、
俗世間のわずらわしさを離れた所。塵界の外。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A1%B5%E5%A4%96/ より引用
とあり、これを法名としたものだと思われる。
実在の人物ではなく、架空の人物ではないかと思う。
また、湯尾峠の近くの城跡であった戦で死んだ武士が妖怪になったものと思われるが
福井県南条郡南越前町の湯尾峠近くには湯尾城跡がある。
築城時期、築城者は定かではないようです。伝承では寿永二年(1183年)、木曽義仲が陣を敷いたとされるようです。南北朝期の延元元年(1336年)には杣山城主瓜生保と足利氏方の高師泰がここで戦った上野ケ原の戦いがありました。湯尾城から3000名の瓜生勢が高勢に夜襲をかけたようです。天正二年(1574年)には一向一揆方の七里三河守頼周が籠り、織田氏に備えたとされます。天正六年(1578年)に柴田勝家が改修したとされます。
http://www.466-bun.com/f8/f-f3276yuo.html より引用
1183年 木曽義仲が現在の湯尾城付近に陣をおく
1336年 上野ヶ原の戦 杣山城主・瓜生保vs足利氏方の高師泰
3000名の瓜生勢が高勢に夜襲をかける。
1574年 七里三河守頼周vs織田信長
「かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いた」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%AE%AE_(%E5%A6%96%E6%80%AA) より引用
とあるので、1574年の一向一揆の戦いで七里三河守頼周が城に籠った際の死者の霊が守宮になったという物語だろうか。
七里頼周は本願寺の下級武士だった。
顕如に見込まれて坊官となり、加賀一向一揆の指導を命じられる。
1574年、越前国で桂田長俊の政治が国人や民衆の不満を買う。
富田長繁、土一揆を起こす。桂田長俊を殺害する。
富田長繁、魚住景固も殺害するが、これに一揆衆は反発。
一揆衆は七里頼周を指導者とし、土一揆は一向一揆に性格を変え、富田長繁、土橋信鏡、平泉寺などを滅ぼす。
七里頼周粗暴な振る舞いなどから、門徒から信頼されなくなる。
1575年、織田信長がおくった大軍によって七里頼周率いる一揆軍は敗北する。
1576年、七里頼周は加賀の司令をやめさせられる。かわって下間頼純が加賀の司令に。
参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
4⃣七里頼周と木曽義仲、湯尾城と火打城の混同?
しかし昔のことでもあるし、物語が混同されているなどというようなことはないだろうか。
つまり、湯尾城に籠ったのは七里頼周だが、木曽義仲(源義仲)と混同されたのではないか、ということである。
1180年、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、源行家(義仲の叔父)が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。
これに応える形で義仲は挙兵し、倶利伽羅峠の戦い(1183年)・篠原の戦い(1183年)などで勝利し入京する。
義仲は後白河法皇よりと改めて平家討伐を命じられるが、戦果があがらず。
そこへ鎌倉から源義経がやってくると、後白河法皇は義経など鎌倉がわを頼るようになり、義仲は義経と対立。
1184年には宇治川の戦いなどで義経らと戦って戦死した。
1183年には越前・加賀国在地勢力vs平維盛率いる平氏の戦、『火打城の戦い」があって、平氏が勝利している。
1183年、義仲は現在の湯尾城跡付近に陣をおいた、というが、
「火打城」は福井県は現在の福井県南越前町今庄あたりにあったようで、湯尾城は火打城に近い。
義仲が「火打城の戦い」における陣をおいたのが湯尾城跡付近、ということだろうか。
いや、湯尾城と火打城が混同されているのかもしれない。
義仲が湯尾城付近に陣をおいたというのは、湯尾城跡に関係する記事以外には見つからないからだ。
(調べたりないのかもしれない。)
湯尾城跡の南に今庄という駅がある。このあたりに火打城はあったのだろう。
[火打城の戦い]
1183年、木曽義仲に不穏の動きを見て平家方の三位中将・維盛、越前三位・通盛を大将とし、10万余騎の大軍で火打城を攻めた。義仲は守将・平泉寺長吏斎明に命じ5千余騎で篭城させたが、大軍に怖じ気づき、内応したため、城は安易に陥落した。火打城は義仲にとって越前の防衛線であったため、勝った平家軍は加賀へ侵攻、義仲方の諸城を焼き払うと越中へなだれ込み、般若野合戦に続くこととなる。
http://www.nihonjiten.com/data/35063.html より引用
27日、越前国・加賀国の在地反乱勢力が籠もる火打城を取り囲むが、火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため平氏側は城に攻め込むことができなかった。数日間平氏は城を包囲していたが、城に籠もっていた平泉寺長吏斉明が平氏に内通し[2]人造湖の破壊の仕方を教えた[4]。平氏は得た情報を元に湖を決壊させて城に攻め入り、火打城を落とした[4]。その後平氏は加賀国に入った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%89%93%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 より引用
火打城の戦いでは平家が勝利し、義仲は敗戦したわけである。
実際には義仲はこの戦いには参加していないようであるが。
そして、火打城は人造湖に囲まれていた。
ここでもう一度、ウィキペディアの妖怪・守宮(いもり)の記述を整理してみよう。
①読みは「いもり」だが、実際には両生類のイモリではなく爬虫類のヤモリの怪異を描いたもの。
⓶かつて戦で城が落ちた際、越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)の城跡の古井戸に死んだ武士の魂が住み着いた。
木曽義仲と七里頼周が混同されているとする推理が正しければ
湯尾城跡の古井戸に住み着いた武士の魂とは、源氏方の武士の魂ということになる。
井戸に住み着いたというのは、火打城が人造湖に囲まれていたためではないか。
そして平家は海軍にすぐれ、源氏は陸軍にすぐれていた。
平家は水に住む両生類のいもり、源氏は陸にすむ爬虫類のやもりに喩えられそうであるが
その源氏の武士の魂が井戸(=火打城を囲む人造湖)にすみついたので、本来ならば、守宮と書いて「やもり」とよむべきところを、「いもり」と読ませているんだったりして。
ちょっとこじつけっぽいかw
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