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トンデモもののけ辞典㊿ 浅茅ヶ原の鬼婆





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歌川国芳『観世音霊験一ツ家の旧事』

1⃣浅茅ヶ原の鬼婆

浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。
一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。
用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国や下総国を結ぶ唯一の小道があったが、
宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。
この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、
寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、
亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。
娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。
老婆が殺した旅人が999人に達した。
ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。
老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。
しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。
娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。
実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。
その後、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、
観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、
老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている。



浅草寺

浅草寺

2⃣浅草寺628年、皆既日食は推古天皇崩御の前兆?

浅茅ヶ原の鬼婆は浅草寺の観音菩薩にまつわる伝説である。

ということで、まずは浅草寺の創建についてみてみよう。

628年、隅田川で漁をしていた檜前浜成・檜前武成の網に聖観音がかかり
土師真中知が僧となって自宅を寺とし、この聖観音を祀ったのが浅草寺とされる。

浅草寺が創建された628年を調べてみると、4月10日(新暦)に皆既日食がおこっている。。
そしてその5日後の628年4月15日(新暦)に推古天皇(女帝)が崩御している。

皆既日食は、推古天皇崩御の前兆と考えられたことだろう。

628年と言う創建年は、浅草寺と推古天皇崩御に何やら関係があるのではないかと思わせる。

そこで、推古天皇と、推古天皇に関係の深い人々について、ざっくり見てみることにしよう。

554年、推古天皇は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の間に生まれた。
571年、異母兄・敏達天皇の皇后となる。
585年、敏達天皇崩御。推古天皇の同母弟の用明天皇が即位する。
587年、用明天皇崩御。
その後崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋の戦いがあり、蘇我馬子が勝利。崇峻天皇が即位する。
593年、崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺される。、推古天皇が即位する。
推古天皇の子、竹田皇子は蘇我馬子vs廃仏派の物部守屋の戦いの前後で亡くなったようで
推古天皇の皇太子には聖徳太子がついた。
622年、聖徳太子薨去。
628年、推古天皇崩御。
     敏達天皇と広姫(息長真手王の娘)の間に生まれた舒明天皇が即位.
643年、聖徳太子(蘇我稲目の曾孫)の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害した。
645年、蘇我入鹿、中大兄皇子に斬殺され、入鹿の父・蘇我蝦夷も自殺した。

浅草寺 鯉のぼり

浅草寺

3⃣浅草寺は推古天皇の菩提を弔うために創建された寺?

浅草寺は推古天皇の菩提を弔うために創建された寺で、
檜前浜成・檜前武成の網にかかった聖観音とは、推古天皇の本地仏ということだろうか?

本地仏とは神仏習合のベースとなった考え方のことで、日本古来の神々は、仏教の神々が姿を変えて現れたものとする考え方のことである。
そして、日本の神々の事を権現、日本の神々のもともとの正体である仏教の神々の事を本地仏といった。

たとえば京都北野天満宮の隣にある東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑がある。
天満宮とは菅原道真のことで「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは、「菅原道真のもともとの正体は十一面観音です」というような意味になるだろうか。

檜前浜成・竹成兄弟とあるが、聖徳太子が生まれたと言われる奈良の飛鳥に檜前という地名があり、かつて檜隈寺という寺があった。
檜隈寺は渡来人の東漢氏の氏寺だった。
檜前浜成・竹成兄弟とは東漢氏の人物だったのかも?

また檜前浜成・竹成兄弟の主人の名前は土師中知たが、土師氏は古墳造営・葬送儀礼を専門にする氏族だった。

浅草寺 三社祭

浅草寺 三社祭

4⃣用明天皇代に浅草寺はなかった。

ということで、「浅茅ヶ原の鬼婆」の話に戻ろう。

この物語に「浅草寺の観音菩薩の化身の稚児」とでてくるが、時代は用明天皇代となっている。
用明天皇代は585年~587年。
浅草寺創建は628年なので、用明天皇代に浅草寺はまだなく、この話には矛盾が生じている。

この手の伝説にはよくあることである。

浅草寺 三社祭2

5⃣鬼婆の娘と浅草寺観音菩薩の化身の正体とは?

それはさておき、檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった聖観音が推古天皇とすれば、「浅茅ヶ原の鬼婆」の話にでてくる浅草寺の観音菩薩は推古天皇なのだろうか?

推古天皇は用明天皇の同母妹で、生没年は、554年- 628年。
用明天皇の没年は 587年なので、用明天皇代の話とされていることから考えても、それはありえそうである。
いや、稚児に変装していた婆の娘が推古天皇かもしれない。推古天皇は女性だし。

すると、観音菩薩の化身の稚児は、聖徳太子ではないだろうか。
伝説では用明天皇代の話としているが、聖徳太子は用明天皇の子である。
また稚児とあるが、聖徳太子は髪を角髪(みずら)に結った童形の姿で描かれることが多い。

浅草寺 三社祭






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