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トンデモもののけ辞典60 臼負い婆

1⃣臼負い婆


臼負い婆(うすおいばば)は、新潟県佐渡島の怪談集『佐渡怪談藻汐草』にある日本の妖怪。


概要


新潟県佐渡郡小木町(現・佐渡市)宿根木の「あかえの京」という場所の海で、ある者が仲間と一緒に釣りをしていた。よく釣れると評判の場所だったが、その日はまったく魚が釣れず、雨が降り出し、まだ七つ下がり(午後4時過ぎ)なのに周囲は薄暗くなってきた。


やがて、海の底から人の形のような化け物が浮かび上がってきた。それは色の白い老婆のようなもので、両手を背に回して何かを背負っているようで [1]、髪は乱れ、目は鋭く、口には牙のようなものが見えた。周囲の人々を見回したかと思うと、また海の底へと消えた。


仲間が言うには、あれはあやかし(海の妖怪)の一種であり、2,3年または4,5年に一度だけ現われる「臼負い婆」と呼ばれるもので、この場所では昔からよく見かけられるが、特に心配は要らないとのことだった。


「臼負い婆」の名は、この宿根木の怪談以外に確認されていないが、昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、磯女や濡女といった海の妖怪の同類と考えられている[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E8%B2%A0%E3%81%84%E5%A9%86 より引用

※太字は筆者(私)による。


2⃣佐渡ヶ島 小木海岸 宿根木海岸


妖怪が出現した場所は小木海岸、宿根木海岸付近だと思う。

「あかえの京」というのはわからないが、「京」というのは「小京都」というような意味だろうか。

宿根木には船大工さんが多く住む町並みが残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区になっているという。

https://tabi-mag.jp/ng0128/




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宿根木


3⃣佐渡怪談藻汐草


佐渡怪談藻汐草について記された記事があった。
孫引きの引用になってしまうが、ご勘弁いただきたい。


怪談藻汐草(かいだんもしおぐさ)


 安永七年(一七七八)より一○年ほど前からの書を、太 という人が書き筆写したとあり、著者ははっきりしない。さらに、その書を文政十年(一八二七)六月、静間義敬が筆写したものが流布していた。内容は三九篇の怪談ばなしを記録したもの。特に貉の怪異談が多い。「窪田松慶療治に行きし事」「高田備寛狸の火を見し事」「百地弥三右衛門狸の謡を聞きし事」「鶴子の三郎兵衛狸の行列を見し事」「真木の五郎鰐に乗りし事」「上山田村安右衛門鰐を手捕りにせし事」「霊山寺山へ大百足出でし事」「大蛸馬に乗りし事」「小川権助河童と組みし事」などである。とりとめもなき怪談であるが、そのころ広く知られていた話であり、当時の世間の様子や人情の一端を見ることができる。




【参考文献】 「佐渡奇談」「怪談藻汐草」「鄙の手振」(『佐渡郷土史料』三集)


【執筆者】 山本修巳




(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典より引用)


http://gashima.jugem.jp/?eid=1761より引用


「安永七年(一七七八)より一○年ほど前からの書を」とあるのは、どういう意味なのかわからないが
1778年±10年ぐらいの書物を書き写したということだろうか。



4⃣たらい舟


小木海岸ではたらい舟による磯ねぎ漁がおこなわれている。

たらいに海女さんがのりこみ、ワカメ、サザエ、アワビなどを採取する。

最近では観光用のたらい舟もあるようである。


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1802年の佐渡小木地震で海面の隆起し、岩礁と入江ができ、それによって、ワカメ、アワビやサザエなどが豊富に採れるようになった。
この漁を効率的に行うためにたらい舟が考案されたらしい。


たらいは臼のように見える。

何かを背負った婆とはこのたらい舟による漁で水死した老女の幽霊ではないか?



佐渡怪談藻汐草が1778年±10年ぐらいの書物を書き写したものであれば、たらい舟がつくられるようになったのは1802年なので時代があわない。


もしかすると「10年ほど前からの書」を、1778年から書き写したということだろうか。

こういう意味であるとすれば、1778年から書き写しを初めて、いつまで書き写したのかが記されていないことになる。

「その書(佐渡怪談藻汐草)を文政十年(一八二七)六月、静間義敬が筆写したものが流布していた。」

とあるので、それ以前の1802年以降の書が書き写されていた可能性はあるが、さて、どうだろう。

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トンデモもののけ辞典59 浮き物

蜃気楼(鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』)


1⃣浮き物

5月から6月頃花曇のような日、海上に巨大魚とも陸地ともつかない物体が浮かんで見える「浮き物」(うきもの)と呼ばれる怪異が伝わっている。おおよそ特定の場所に現れるが、海面を移動することもあり、人が近づくと消え去ってしまうという[9]。魚または海鳥の群れ[9]、未確認の巨大魚などの説がある[10]。


この怪異がみられるのは、粟島という新潟県にある島である。


2⃣浮き物は蜃気楼?


これはずばり、蜃気楼の事ではないだろうか。

こういう記事がある。

新潟沖に蜃気楼出現か

下は富山県魚沼市の蜃気楼である。富山の蜃気楼が有名だが、新潟でも蜃気楼が出ることがあるのだ。



富山の蜃気楼について説明された記事があった。


蜃気楼は、空気中で光が屈折するために5~20km離れた景色が実際とは違う形に見える現象で、上位蜃気楼(=春の蜃気楼)と下位蜃気楼(=冬の蜃気楼)の2種類があります。


春の蜃気楼(4月から5月に多い)は、実際の風景の上側に、伸びたり反転した虚像が出現します。富山湾の海面上に冷たい空気が層をつくり、その上の暖かい空気とのあいだで急に密度が変わるときに出現します。以前は、立山連峰から富山湾に流れ込んだ春の雪どけ水が空気を冷やすと考えられていましたが、近年は、雪どけ水はほとんど関与せず、気温や風の動きが最も密接に関与していると考えられています。


冬の蜃気楼(11月から3月に多い)は春とは逆に、実際の風景の下側に反転した虚像が見えます。これは、冬の冷たい空気が暖かい海水に接するところで暖められ、春とは逆の温度勾配になり、光の屈折の仕方も逆になるのが原因です。


~略~


富山湾で上位蜃気楼の出やすい条件



時期:(3月下旬~)4月~5月(~6月上旬)

時間:午前11時ごろ~午後4時ごろ(それ以前、それ以後の例外もある)

気温:18度以上の場合が多い(朝の冷え込みがあって日中の気温が上がるのがよい)

風 :魚津の海岸で北北東の微風(おおむね風速3m以下)

天候:移動性高気圧の中心が本州の東の海上に抜けて当日は晴れ、翌日頃から天候が崩れそうな日。

https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/shinkiro/index.html より引用


富山湾で上位蜃気楼の出やすい時期について、(3月下旬~)4月~5月(~6月上旬)

と記されているが、粟島の浮き物が出る時期は5月~6月となっている。

また、動画やリンク先の写真をみればわかるように、若干海面から浮き上がったように見える。


海面を移動するとあるが、

https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/shinkiro/index.html

↑ こちらには船の蜃気楼の写真もある。船の蜃気楼ならば動くのではないだろうか。


蜃気楼は5~20km離れたところにあるものが光の屈折で見える現象、ということは、粟島から本州が蜃気楼となって見えたのではないか。


花曇りの日に出現するとあるが、花曇りとは明るい曇りのことである。
蜃気楼の映像をみると、スカッと晴れているというよりは、薄い雲がかかっているようにみえる。



↓ 蜃気楼を描いた浮世絵、蜃気楼をつくる実験などあって、とても面白かった。



ぜひこの目で蜃気楼をみてみたいものだ。






トンデモもののけ辞典58 守宮(いもり)



浅井了意『伽婢子』より『守宮の妖』


1⃣守宮(いもり)

守宮(いもり)とは、日本の妖怪の一種で、戦乱で死んだ武士の霊が、守宮という小人の妖怪となって井戸の周りに住み着くというもの。浅井了意による江戸時代の怪異小説集『伽婢子』に記述がある。漫画家・水木しげるの著書では「井守」と表記されている[1]。読みは「いもり」だが、実際には両生類のイモリではなく爬虫類のヤモリの怪異を描いたものである[2][3]。

概要
越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)でのこと。塵外という僧が湯尾の城跡の庵で書見をしていたところ、身長4-5寸(約12-15センチメートル)の小人が現れて話しかけてきた。塵外は僧だけあって驚くことなく書見を続いていると、その小人は塵外の無礼を責め、その声に応じて何人もの小人が現れて襲いかかってきた。さすがに塵外はたまらずに逃げ出した。

塵外が村人にこの話をすると、かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いたということだった。塵外はその場所に行ってみると、話の通り無数の守宮(ヤモリ)がいた。塵外が経文を唱えて弔うと、たちまち守宮は滅び去った。

災いは消えたものの、塵外は守宮を憐れに思い、その亡骸を村人たちとともに丁重に葬ったという。


2⃣「いもり」と「やもり」の混同

守宮と書いて「いもり」という妖怪だが、一般的には守宮と書いて「やもり」とよむ。
守宮は爬虫類の「やもり」の漢字表記である。

漢字では「いもり」は井守、「やもり」は家守とも書く。
その理由は、いもりは両生類で井戸にいる害虫を、やもりは爬虫類で家にいる害虫を食べることで、井戸や家を守ってくれるからなのだという。
さらに「いもり」は漢字表記で蠑、螈とも書く。
なんと、ややこしい。

守宮・・・「いもり’」と読む・・・妖怪
     「やもり」と読む・・・爬虫類のやもり

守宮(やもり)・・・・・・・家守・・・爬虫類
蠑、螈(いもり)・・・・・・井守・・・両生類

なぜ守宮は爬虫類の「いもり」のことなのに、妖怪の守宮は「やもり」とよむのか。
それについては、ウィキペディアの脚注3に説明がある。

 イモリとヤモリは形や大きさが似ているため、かつての日本ではこれらの区別が曖昧であり、本来ヤモリを指す「守宮」を「いもり」と読む例が多々見受けられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%AE%AE_(%E5%A6%96%E6%80%AA)#cite_note-3 より引用

さらにこの妖怪はヤモリの妖怪なのに、家ではなく井戸にすみついていて、ここでも混乱がみられる。



3⃣湯尾城


妖怪・守宮が現れたのは越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)であるという。

さらに
「塵外という僧が湯尾の城跡の庵で書見をしていたところ」
「かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いた」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%AE%AE_(%E5%A6%96%E6%80%AA) より引用


とある。



塵外とは、
俗世間のわずらわしさを離れた所。塵界の外。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A1%B5%E5%A4%96/ より引用


とあり、これを法名としたものだと思われる。
実在の人物ではなく、架空の人物ではないかと思う。


また、湯尾峠の近くの城跡であった戦で死んだ武士が妖怪になったものと思われるが
福井県南条郡南越前町の湯尾峠近くには湯尾城跡がある。


築城時期、築城者は定かではないようです。伝承では寿永二年(1183年)、木曽義仲が陣を敷いたとされるようです。南北朝期の延元元年(1336年)には杣山城主瓜生保と足利氏方の高師泰がここで戦った上野ケ原の戦いがありました。湯尾城から3000名の瓜生勢が高勢に夜襲をかけたようです。天正二年(1574年)には一向一揆方の七里三河守頼周が籠り、織田氏に備えたとされます。天正六年(1578年)に柴田勝家が改修したとされます。
http://www.466-bun.com/f8/f-f3276yuo.html より引用


1183年 木曽義仲が現在の湯尾城付近に陣をおく
1336年 上野ヶ原の戦 杣山城主・瓜生保vs足利氏方の高師泰
      3000名の瓜生勢が高勢に夜襲をかける。
1574年 七里三河守頼周vs織田信長


「かつて戦で城が落ちた際、死んだ武士の魂が古井戸に住み着いた」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%AE%AE_(%E5%A6%96%E6%80%AA) より引用


とあるので、1574年の一向一揆の戦いで七里三河守頼周が城に籠った際の死者の霊が守宮になったという物語だろうか。


七里頼周は本願寺の下級武士だった。
顕如に見込まれて坊官となり、加賀一向一揆の指導を命じられる。
1574年、越前国で桂田長俊の政治が国人や民衆の不満を買う。
富田長繁、土一揆を起こす。桂田長俊を殺害する。
富田長繁、魚住景固も殺害するが、これに一揆衆は反発。
一揆衆は七里頼周を指導者とし、土一揆は一向一揆に性格を変え、富田長繁、土橋信鏡、平泉寺などを滅ぼす。
七里頼周粗暴な振る舞いなどから、門徒から信頼されなくなる。
1575年、織田信長がおくった大軍によって七里頼周率いる一揆軍は敗北する。
1576年、七里頼周は加賀の司令をやめさせられる。かわって下間頼純が加賀の司令に。

参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8


4⃣七里頼周と木曽義仲、湯尾城と火打城の混同?


しかし昔のことでもあるし、物語が混同されているなどというようなことはないだろうか。
つまり、湯尾城に籠ったのは七里頼周だが、木曽義仲(源義仲)と混同されたのではないか、ということである。


1180年、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、源行家(義仲の叔父)が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。
これに応える形で義仲は挙兵し、倶利伽羅峠の戦い(1183年)・篠原の戦い(1183年)などで勝利し入京する。


義仲は後白河法皇よりと改めて平家討伐を命じられるが、戦果があがらず。
そこへ鎌倉から源義経がやってくると、後白河法皇は義経など鎌倉がわを頼るようになり、義仲は義経と対立。
1184年には宇治川の戦いなどで義経らと戦って戦死した。


1183年には越前・加賀国在地勢力vs平維盛率いる平氏の戦、『火打城の戦い」があって、平氏が勝利している。
1183年、義仲は現在の湯尾城跡付近に陣をおいた、というが、
「火打城」は福井県は現在の福井県南越前町今庄あたりにあったようで、湯尾城は火打城に近い。
義仲が「火打城の戦い」における陣をおいたのが湯尾城跡付近、ということだろうか。


いや、湯尾城と火打城が混同されているのかもしれない。


義仲が湯尾城付近に陣をおいたというのは、湯尾城跡に関係する記事以外には見つからないからだ。
(調べたりないのかもしれない。)



湯尾城跡の南に今庄という駅がある。このあたりに火打城はあったのだろう。


[火打城の戦い]


1183年、木曽義仲に不穏の動きを見て平家方の三位中将・維盛、越前三位・通盛を大将とし、10万余騎の大軍で火打城を攻めた。義仲は守将・平泉寺長吏斎明に命じ5千余騎で篭城させたが、大軍に怖じ気づき、内応したため、城は安易に陥落した。火打城は義仲にとって越前の防衛線であったため、勝った平家軍は加賀へ侵攻、義仲方の諸城を焼き払うと越中へなだれ込み、般若野合戦に続くこととなる。


http://www.nihonjiten.com/data/35063.html より引用


27日、越前国・加賀国の在地反乱勢力が籠もる火打城を取り囲むが、火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため平氏側は城に攻め込むことができなかった。数日間平氏は城を包囲していたが、城に籠もっていた平泉寺長吏斉明が平氏に内通し[2]人造湖の破壊の仕方を教えた[4]。平氏は得た情報を元に湖を決壊させて城に攻め入り、火打城を落とした[4]。その後平氏は加賀国に入った。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%89%93%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 より引用


火打城の戦いでは平家が勝利し、義仲は敗戦したわけである。
実際には義仲はこの戦いには参加していないようであるが。
そして、火打城は人造湖に囲まれていた。


ここでもう一度、ウィキペディアの妖怪・守宮(いもり)の記述を整理してみよう。


①読みは「いもり」だが、実際には両生類のイモリではなく爬虫類のヤモリの怪異を描いたもの。
⓶かつて戦で城が落ちた際、越前国湯尾(現・福井県南条郡南越前町)の城跡の古井戸に死んだ武士の魂が住み着いた。


木曽義仲と七里頼周が混同されているとする推理が正しければ
湯尾城跡の古井戸に住み着いた武士の魂とは、源氏方の武士の魂ということになる。
井戸に住み着いたというのは、火打城が人造湖に囲まれていたためではないか。


そして平家は海軍にすぐれ、源氏は陸軍にすぐれていた。
平家は水に住む両生類のいもり、源氏は陸にすむ爬虫類のやもりに喩えられそうであるが
その源氏の武士の魂が井戸(=火打城を囲む人造湖)にすみついたので、本来ならば、守宮と書いて「やもり」とよむべきところを、「いもり」と読ませているんだったりして。


ちょっとこじつけっぽいかw




とんでももののけ辞典57 波山

竹原春泉画『絵本百物語』より「波山」

竹原春泉画『絵本百物語』より「波山」

1⃣波山

波山(ばさん)は、伊予(現在の愛媛県)に伝わる怪鳥。婆娑婆娑(ばさばさ)、犬鳳凰(いぬほうおう)ともいう[1]。江戸時代の奇談集『絵本百物語』に記述がある[2]。

概要
赤々とした鶏冠を持つ鳥で、口から同じく赤々とした炎を吐き出す。この炎は狐火などと同様に熱を伴わず、物を燃やすことはない[1]。

普段は山奥の竹薮に棲んでおり、人前に姿を現さすことは滅多にないが、深夜には時おり人の住む村に現れ、羽をはばたかせてバサバサと不気味な音をたてる。「婆娑婆娑」の別名はこの羽音に由来する。音に気づいた人が外を覗いても、姿は忽然と消えているという[1]。人に脅かすことはあるものの、危害は加えない[3]。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には「食火鶏」(ヒクイドリ)の記述があり、ニワトリに似た姿で、燃え残りの木を食べるなどと解説されており、波山はこれをモデルとしているとの説もある[2]。



2⃣波山という名前はバサバサからくる?

羽をはばたかせてバサバサと不気味な音をたてる。「婆娑婆娑」の別名はこの羽音に由来する。


とある。

波山という名前も「バサバサと音をたてる」ところからくるのではないだろうか。

犬鳳凰という別称もあるが、鳳凰とは中国の伝説の鳥のことである。金閣寺・平等院などの寺院の屋根や、神輿の屋根などに鳳凰の像があしらわれることもある。

平等院鳳凰堂屋上の鳳凰像。新一万円札にも描かれている。

平等院鳳凰堂屋上の鳳凰像。新一万円札にも描かれている。

犬という言葉は、つまらないもののたとえとして用いられることがある。
本物の鳳凰ではなく、偽物の鳳凰、というぐらいの意味ではないかと思う。

3⃣波山のモデルは食火鶏?

「食火鶏」(ヒクイドリ)の記述があり、ニワトリに似た姿で、燃え残りの木を食べるなどと解説されており、波山はこれをモデルとしているとの説もある。


とウィキペディアには記されているので、ヒクイドリのウィキの記述を見てみた。

「火食鳥」の意味であるとされている。火を食べるわけではなく、喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたとの説が有力である。



ヒクイドリの写真は、下記リンク先の写真がわかりやすい。↓

4⃣波山の正体は野生化した鶏?

赤々とした鶏冠を持つ鳥で、口から同じく赤々とした炎を吐き出す。この炎は狐火などと同様に熱を伴わず、物を燃やすことはない[1]。


というが、ヒクイドリの鶏冠は赤ではない。
頭に赤い鶏冠と、喉に赤い火のような肉垂を持っているのは鶏である。


また、野生化した鶏は飛ぶという記事もネット上にたくさん見つかる。
というわけで、妖怪・波山の正体とは、野生化した鶏、ではないでしょうか。




とんでももののけ辞典56 一反木綿 ※追記あり


1⃣一反木綿

地元出身の教育者・野村伝四と民俗学者の柳田國男との共著による『大隅肝属郡方言集』にあるもので、約一反(長さ約10.6メートル、幅約30センチメートル)の木綿のようなものが夕暮れ時にヒラヒラと飛んで、人を襲うものとされる[1]。

首に巻きついたり顔を覆ったりして窒息死させるともいい[2][3]、巻かれた反物のような状態でくるくる回りながら素早く飛来し、人を体に巻き込んで空へ飛び去ってしまうともいう[4]。

ある男が夜に家路を急いでいたところ、白い布が飛んで来て首に巻きつき、脇差しで布を切りつけたところ、布は消え、男の手には血が残っていたという話もある[3]。

出没の伝えられる地方では、子供が遅くなるまで遊んでいると「一反木綿が出るよ」と言って戒める風習もあったそうである[4]。

また、肝付町では一反木綿がよく現れるといわれる神社(四十九所神社など)があり、子供たちがその神社の前を通るときには、上空を舞う一反木綿が最後尾の子供を襲うと信じられていたため、子供たちは誰よりも先に走って通り抜けたという[5]。

古典の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』に描かれた妖怪の一つに、手足の生えた布状のものがあるが、民俗学者・小松和彦はこれを一反木綿のルーツにあたるものとの仮説を立てている[6]。


2⃣一反木綿が夕暮れ時に現れるのはなぜか。

木綿は古には「ゆふ」とも呼ばれた。
「ゆぶ」は口語では「ゆう」と発音する。
つまり、木綿(ゆふ)と夕(ゆふ)の掛詞になっているのではないかと思う。

3⃣一反木綿 目撃動画

一反木綿は現在でも目撃されているようで、動画も公開されている。

 


 

一反木綿とは、木綿の反物のことだが、現在の日本でこのようなものが空をひらひら舞うことはまずなさそうに思える。
反物はそこそこ重量があって、簡単に空を舞うとは思えないからだ。
(もちろん古においても、、そういうことがそうそうあるとは思えない)

これらの映像は合成なのか。それともトイレットペーパーのようなものが空を舞っているのか?


 

↑ この動きは凧だと思う。

 

3⃣一反木綿が住む権現山

一反木綿は鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)にある権現山に住むといわれているそうである。
権現というのは、仏が仮に衆上を救うために神の姿であらわれたもののことで、神聖な山として信仰されていたのだろう。

権現山には牟礼神社があり、その先に龍神が祀られているらしい。
牟礼神社の御祭神、由緒などは調べてみたがわからなかった。

4⃣白妙の衣は死に装束?

権現山に白い一反木綿の姿が見える風景を思い浮かべると、持統天皇が詠んだ有名な歌を思い出す。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山/持統天皇 
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)

この歌の意味についての、私の解釈は↓ こちらの記事に書いた。

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月だった。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなるので、持統天皇の歌は、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられる。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考える。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされた。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまうが
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

春・・・旧暦1月2月3月・・・・・木性   3月の終わりの18~19日間=春土用
夏・・・旧暦4月5月6月・・・・・火性   6月の終わりの18~19日間=夏土用
秋・・・旧暦7月8月9月・・・・・金性   9月の終わりの18~19日間=秋土用
冬・・・旧暦10月11月12月・・・水性   12月の終わりの18~19日間=冬土用

そして、白妙の衣とは、死に装束ではないかと私は考えた。
持統天皇は天皇としては初めて火葬された人物である。

持統天皇の歌の意味は
「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようだ。夏が火性であるように、私は白い死装束を着て、土葬ではなく火葬されてしまうのですね」という意味だと思う。

死んだ人が歌を詠むことはできないが、別の人が持統天皇の身になって詠んだか
持統天皇が「春過ぎて~」と歌を詠んだため、言霊が作用して、火葬されたと考えられたのかもしれない。

天香具山

天香具山

5⃣一反木綿は死装束を仕立てる布?

持統天皇が歌に詠んだ「白妙の衣」は死装束だと私は思うが
一反木綿は死装束を仕立てるための布ではないだろうか。

仏式で納棺式をする時に、死装束を身につけます。死出の旅に出る姿として古来から用いられてきました。死装束は、僧侶の旅姿に似せて白木綿で昔は手縫いにより作られてきました。頭には三角頭巾、お身体には経帷子(きょうかたびら)手には手甲と数珠、足には白足袋と脚絆、わらじを履かせ三途の川を渡る為の六文銭の入った頭陀袋を首に掛け、杖をお入れしてご納棺をいたします。


上の記事によると、死装束は白木綿を手縫いして作るとある。

>生前に準備するしきたりもあったのでしょうか?
そういう地方もあったでしょうが、大抵は亡くなってから血縁の女性が集まって皆で用意しました。大勢で縫ったのは、死の忌みが一人に掛からないようにということです。これは葬儀によくある習俗で、一人に何かさせない必ず二人以上で行なわせるような風習は、どこの地域に行ってもありました。友引を嫌うように、とかく誰かに死の忌みが被る(要は死者が続く)ことを避けてきたのです。


上記知恵袋では、死装束は亡くなってから仕立てたとある。

つまり、白い一反木綿は死装束をつくるための布であり、これを目撃することは死を連想させて縁起が悪いということで、
一反木綿なる妖怪が創作されたのではないかと思ったりする。

千本閻魔堂狂言 

千本閻魔堂狂言に登場した幽霊。白い死装束を身に着けている。

6⃣葬式と白い布

また、この伝承地では土葬の際に木綿の旗を立てて弔う風習があり、これが風で飛んで空を舞うこともあったであろうことから、これが木綿の妖怪という伝承に繋がったものとも推測されている[1]

より引用

とウィキペディアに説明されているのも興味深い。
他にも、次のような記事があった。

広島県では酉の日も葬儀を行いません。禅宗の喪家では、白木の位牌に白い布をかけて徐々にまくり上げていくという風習があります。また、火葬場帰りに行う清めの塩の儀式は行わない場合が多いようです。

宮城県でも近隣の件と同様に通夜振る舞いは行わないのが一般的ですが、代わりに菓子やまんじゅう・団子などを配る「目覚まし」という風習があります。また、火葬場へ向かう時は首に「いろ」という白い布を巻きます。


富山市では通夜には「死花花(しかばな)」を用意し、祭壇に飾る。翌日葬儀が行なわれるが、高岡市では出館のさいに棺を白のさらしに巻いて霊柩車に運ぶ慣習がある。またかっては「善の綱」といって、棺につないだ白のさらし布を遺族の人たちが、手にとって行列していく習慣があったが、現在では葬儀の前に白い布を手に取ることで代用している。



※追記
こういう動画も 不織布のようなものといっている。
https://www.tiktok.com/@fnnprime/video/7218510294966963458?_r=1&_t=8bHLLea7Jze





トンデモもののけ辞典55 磯撫で

竹原春泉画『絵本百物語』より「磯撫で」

竹原春泉画『絵本百物語』より「磯撫で」 

1⃣磯撫で

外見はサメに似ており、尾びれに細かい針がおろし金のように無数にある[1][2]。
北風が強く吹くと現れ、近くの海を通りかかる船を襲う。その襲い方は実に巧みで、水を蹴散らして泳ぐのではなく、あたかも海面を撫でるかのように近づき[2]、人を襲うまでは決して姿を見せない。そして尾びれの針で人を引っ掛けて海中に落とし、食べてしまう[1][3]。
船に乗っている人は、磯撫での接近にまず気づくことはない。何となく海の色が変わったと思った時点で既に手遅れであり、仰ぐような風を感じると、それが海面から浮かび上がった磯撫での尾の起こした風である。磯撫でが現れたと気づいた頃には、既に尾びれで捕えられている結果となる[2]。
船乗りにとっては決して防ぐことのできない恐るべき存在であり、また魚を釣るはずの人間が逆に魚に釣り上げられてしまうという、皮肉な存在でもある[2]。
「磯撫で」の名の由来は、海面を撫でるかのような現れ方が由来という説や、尾びれで人を襲う様子が撫でるように見えるという説がある[1]。
三重県熊野市では、海辺に死人がいると「磯撫でに撫でられたのだろう」といわれたという[4]。
妖怪研究家・多田克己の推測によれば、この磯撫では想像上のものではなく、シャチのことを指しているとしている[5]。しかしシャチには磯撫でのような尾の針などはないが、多田克己は、室町時代頃に日本が中国や東南アジアと貿易し始めたことから、東南アジアに進出した日本人が現地のイリエワニを見て、そのイリエワニの背から尾にかけての突起が、磯撫での尾の針などの表現につながったと推測している[5]。


2⃣オンデンザメ

「外見はサメににており」「船を襲う」とある。
船を襲うということは、もしも「磯撫で」の正体がサメであるならば、小さなサメではなく巨大なサメではないかと私は考えた。

巨大なサメで日本近海で見られるサメとしては、オンデンザメがある。

深海にすみ、体長4m以上、動きがのろく、成熟するのに150年、寿命は400年ほどと考えられている。
駿河湾で観測されることがあるそうだが、駿河湾に現れるならば、三重県熊野市の近海にもあらわれそうである。
但し、深海魚なので、水深の浅いところまで浮上してくるか、という問題が残る。
近似種のニシオンデンザメは浅瀬にあらわれて、大型哺乳類を食べることもあるそうだが。

3⃣メガマウス

メガマウスというサメもいる。
最大7m、大きな口をもっているのが特徴で、日本近海にすむ。
磯撫では、三重県熊野市に現れたそうだが、メガマウスは2011年、2016年、2017年に三重県で観測されている。
プランクトンを主食としているので、あまり人をおそったりはしないのではないかと思うがどうだろう。

またウィキの説明にもあるように「、磯撫で」は尾びれに細かい針がおろし金のように無数にあるという。
サメ皮から「サメ皮おろし」がつくられるように、サメはおろし金のようにざらざらしている。
ただし、尾びれのみざらざらしているのではなく、全体がざらざらしているようである。

4⃣シャチ

「多田克己の推測によれば、この磯撫では想像上のものではなく、シャチ」とある。

シャチは日本近海でも観測され、肉食で、陸にあがって動物を捕獲してりすることもあるそうである。


上の動画を見ると、「海面を撫でるかのように近づく」と言う表現が、ぴったりきそうにも思える。
しかしウィキペディアの説明にあるように、シャチには磯撫でのような尾の針はない。

「イリエワニの背から尾にかけての突起が、磯撫での尾の針などの表現につながった」というのは
「シャチにイリエワニの特徴を足して磯撫でを創作した」ということだろうが、若干こじつけ感がしないでもない。

5⃣「磯なで」の正体は波では?

私は「磯なで」の正体は波ではないかと考えている。

『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」

葛飾北斎『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」

葛飾北斎の上の絵をみると、波の先にたくさんの針が憑いているように見える。


上記記事には北斎の波の写真と、ハイスピードカメラの写真を比較して、北斎の観察眼の確かさをほめたたえている。

波の先の針のように見える部分、これが「磯撫で」の「尾びれにあるおろし金のような細かい針」の正体ではないだろうか。

ウィキの説明には「北風が強く吹くと現れ」とある。
「磯撫で」が現れたとされる三重県熊野市は太平洋に面している。


一番上の「磯撫で」の絵を見ると、三角波が立っているようにも見える。



上の動画は三角波を撮影したものである。冒頭で、
「黒潮の流れと引き潮の流れがぶつかって、回りは穏やかなのにここだけすごく荒れています。」
とおっしゃっている。

進行方向の異なる波がぶつかったときにできる峯の尖った波のことを三角波と いいます。沖合いの進行する波(進行波)の場合は、120度より尖ることはな く、それ以上になると砕けます。しかし、進行方向の異なる波がぶつかると互い の波が合成され、進行波から定常波(波が進行せずにその場にとまって振動して いるように見える波)となり、その波は90度まで尖ることがあります。
そのため、大型船舶をも横転させてしまうほどの波形勾配の大きな波に成長す ることがあります。
特に、風向きの複雑な台風の中などでは、規模の大きな典型的な三角波が立ち ますので非常に危険です。 


北風が吹くことによって、波がたち、それが通常の南東方面の波とぶつかり、三角波がたつ。
その大きな三角波が、磯撫での正体なのかも?
 



とんでももののけ辞典54 磯天狗

1⃣磯天狗

磯天狗(いそてんぐ)は、愛知県佐久島、和歌山県新宮、須賀利、三重県北牟婁郡に伝わる海の妖怪[1][2][3]。
民俗学者・日野巌による『日本妖怪変化語彙』によれば、天狗という名前に反して天狗の類ではなく、河童の一種とあり、怪火を出すものとされる[1]。和歌山、三重では、磯辺で火を灯しているともいう[2]。

愛知県知多郡南知多町では、ある漁師が雨の夜に海に出たところ、大量の魚が採れたが、どこからか火の玉が飛来し、草鞋を頭に乗せて念仏を唱えたところ火の玉が消え、気づいたときには採った魚が無くなっていたという[4]。
愛知県半田市の民話によれば昔、尾張国(現・同県)のある村で、海上に小さな白煙が回転しながら現れて次第に大きさを増し、竜巻のような凄まじい風と共に山へ飛来し、また飛び去ってゆくものが磯天狗の仕業と呼ばれたという。ある乱暴者が磯天狗を退治すると言い張り、磯天狗が飛来したという山へ登ったところ、噂通りの竜巻のような白煙が飛来し、あっという間にその中に飲み込まれ、はるか遠くの海まで放り出されてしまったという[5]。


白崎海岸

和歌山県 白崎海岸

2⃣磯天狗は磯に落ちてきた流星

日野巌氏は「磯天狗は天狗ではなく、河童」とおっしゃっているようだが、私は河童であるとは思わない。

『日本書紀』によれば637年に大流星があり、これを僧旻が 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言ったとある。
磯天狗もまた流星ではないだろうか。
天狗に磯がついて磯天狗となっているので、磯に落ちてきた(ように見える)流星ではないかと私は思う。
あるいは、流星よりも大きい火球かもしれない。

そう考えれば「怪火を出す」「磯辺で火を灯す」「火の玉」ということの説明もつく。

3⃣磯はたくさんの星が降ってできた。

雲陽誌という書物に次のような内容が記されているそうである。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にした。ニギハヤヒは星の神である。

磯とは岩石海岸のことである。

古の人々は、「磯はたくさんの流星が降ってできた」と考えていたのではないだろうか。


4⃣海上の竜巻

ウィキペディアの説明で
「尾張国(現・同県)のある村で、海上に小さな白煙が回転しながら現れて次第に大きさを増し、竜巻のような凄まじい風と共に山へ飛来し、また飛び去ってゆくものが磯天狗の仕業と呼ばれたという。」

とある。


ウィキペディアの説明で
「尾張国(現・同県)のある村で、海上に小さな白煙が回転しながら現れて次第に大きさを増し、竜巻のような凄まじい風と共に山へ飛来し、また飛び去ってゆくものが磯天狗の仕業と呼ばれたという。」
とある。

「竜巻のような」とあるが、これはずばり竜巻だろう。
海で発生した竜巻が山に移動し飛び去る現象をひきおこすものが磯天狗であるというのだ。


2006 年 9 月 17 日宮崎県延岡市を襲った竜巻では 3名の死者と 143 名の負傷者を生じ、同年 11 月 7 日の北海道佐呂間町の竜巻では 9 名の死者と 26 名の負傷者を生じた。我が国で大きな被害を生じた竜巻としては、1881 年 9 月 26 日に宮崎市で 16 名、1941 年 11 月 28日愛知県豊橋市で 12 名、1903 年 9 月 23 日に東京都新宿区で 10 名の犠牲者が出た例が報告されている.

https://www.metsoc.jp/kansai/publication/Pdf/Sc/035_kakidaigaku.pdf より引用


上記記事に愛知県豊橋市で竜巻被害があったことが記されている。
磯天狗がひきおこした竜巻は、尾張国(愛知県西部)であって、豊橋は尾張には含まれないが、近隣にはなるので
尾張で海で発生する竜巻が観測されることがあったのかもしれない。


竜巻は、我が国では、基本的にどこでも発生すると考えた方が良い。

https://www.metsoc.jp/kansai/publication/Pdf/Sc/035_kakidaigaku.pdf より引用

とも書いてあるが。


竜巻は積乱雲によって起きる現象であり、積乱雲が近づいたときにはあたりが暗くなり、雨が蒸発してできる冷たい風が吹き始めたり、雷鳴が聞こえ始めたりする。竜巻で最も危険なのは、風速 50m/s でも時速にすると 180km に達する速度で飛んでくる瓦や鉄板などの飛散物当たることや、自分自身が風で飛ばされることである。

https://www.metsoc.jp/kansai/publication/Pdf/Sc/035_kakidaigaku.pdf より引用

竜巻で瓦や鉄板が飛散するのだから、石なども飛散するのだろう。

磯を形成する岩は天から降ってきた星であるだけでなく、竜巻が運んできたと古の人々は考えていたのかもしれない。


白崎海岸2


和歌山県 白崎海岸





トンデモもののけ辞典53 磯女

鵜原理想郷 (明神岬)2

1⃣磯女

外見は、上半身は人間の美女に近いが、下半身は幽霊のようにぼやけている[2]、龍やヘビのようになっている、常人と変わりないなどの説があり、背後から見るとただの岩にしか見えないともいわれる[3]。全身が濡れており、髪は地面に触れるほど長く垂れているともいう[4]。
長崎県南高来郡西郷(現・南島原市)の伝承では、長い黒髪の磯女が砂浜に現れて沖合いをじっと見つめており、それを見た者が声をかけようとすると、鼓膜を突き刺すような鋭い声で叫び、長い髪がその者にまとわりつき、毛を伝って生き血を吸うという[5]。主に盆時期や大晦日の夜、海岸の石の上に座り、近くを通る者を奇妙な声で呼び止め、呼ばれた者が近づくと襲い掛かるともいう[6]。そのため磯女の現れる土地では、海岸を歩くときにはどんなに美人がいても近づいてはならないと戒められていた[4]。
熊本県天草市での言い伝えでは、船が港に泊まっているとき、夜中に磯女が艫綱を伝って船に忍び込み、船中で眠っている人に髪の毛をかぶせ、その毛で血を吸って死に至らしめるという[3]。そのため船が知らぬ土地で碇泊するときは、艫綱をとらずに錨だけ下ろしておくという風習がある[3]。島原半島でも碇泊時の同様の風習のほか、漁師の家の苫の茅を3本、着物の上に乗せて寝ると磯女に襲われずに済むいう謂れがあった[5]。北九州の漁村の伝承では、磯女はカニが化けたものなので、カニのようにどこにでもよじ登るのだという[7]。また、磯女を避けるために艫綱を使わないという伝承から、磯女は綱を伝うことはできても海を泳ぐことはできないという説もあるが、福岡県東北の海岸では磯女が水上を歩いていたという伝承もある[8]。
熊本県の御所浦島では磯女は姿を変えることができるともいわれ、白髪の老人の姿となった磯女が漁師に昼飯をねだったという話がある[3]。
長崎県北松浦郡小値賀町では、磯女の正体は水死者といわれ、凪の日に船頭の前に現れ、海の中にある魂を陸に帰してくれるよう頼むという[9]。
磯女の名は九州西部(長崎県、熊本県など)で呼ばれているもので[3]、土地によっては磯女子(いそおなご)、海女、海姫、海女房、濡女子(ぬれおなご)などの別名もある。


2⃣岩女は岩石海岸の岩の妖怪?

磯とは、岩石海岸のことである。
ウィキペディア・磯女には「背後から見るとただの岩にしか見えないともいわれる」とあるが、磯女とは岩石海岸の岩の妖怪ではないだろうか。

それゆえ、波をかぶり、全身が濡れているのではないだろうか。

長い髪は、海草を比喩したもののように思える。
アマモという海草は、長さ20 - 100cmにもなる。
また髪の毛ににた海草もある。

「鼓膜を突き刺すような鋭い声」というのは、岩にくだける波の音だろうか。

「艫綱を伝って船に忍び込み」というのは、「磯女はカニが化けたものなので、カニのようにどこにでもよじ登る」という伝承があるように、岩場にいるカニなのだろうと思わせる。

「磯女が水上を歩いていた」というのは、海の上に小島のように浮かぶ岩場のことか?

「白髪の老人の姿となった磯女」というのは、白い海草のついた岩のことではないか。

鵜原理想郷 (明神岬)

3⃣磯女は女版蛭子?

「磯女の正体は水死者」とあるが、水死体の神といえば、蛭子である。

「蛭子はイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても立つことができなかったため、葦船に乗せて流された」と記紀には記述がある。

水死体のことを蛭子といい、水死体があがると大量になるなどという地域がある。
3歳で海に流された蛭子は水死体の神なのだろう。

すると磯女は蛭子が女神の姿で現れたものと考えることができるかもしれない。

日本の神は性別がルーズで、男神とされる三輪明神が、謡曲三輪では女神として登場したり
女神とされる天照大神が祇園祭・岩戸山のご神体は男神になっていたりする。
聖徳太子が親鸞の夢の中に現れて「女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという話もある。

熊野若王子神社 蛭子神

熊野若王子神社 蛭子神

4⃣磯女はなぜお盆や大晦日に現れるのか。

ウィキの記述に「盆時期や大晦日の夜にあらわれる」とあるが、盆には死者の霊がこの世に戻ってくるとされる。
磯女もまた水死体なのだ。
磯女は大晦日の夜にも表れるとあるが、大晦日とは1年の変わり目である。
1年の変わり目とは、12月が丑で1月が寅なので、艮(丑寅)となる。
艮は方角では東北を表すが、東北は鬼が出入りする方角とされる。
つまり、大晦日=艮(丑寅)=鬼、ということで、磯女は鬼だということではないだろうか。

5⃣蛭子=陽、磯女=陰?

ただし、蛭子=水死体が現れると大漁になるが、
女版蛭子=磯女=水死体が現れると血を吸われて死んでしまう。
同じ水死体でも、蛭子は陽、磯女は陰ということだろうか。

6⃣磯女は様々な神格をもつ?

以上の話のまとめ。
磯女は磯の岩の妖怪であり、カニの妖怪でもある。
そして、さらに女版蛭子という性質も持っていそうに思える。






トンデモもののけ辞典52 イクチ

1⃣妖怪イクチ

『譚海』によれば常陸国(現・茨城県)の沖にいた怪魚とされ、船を見つけると接近し、船をまたいで通過してゆくが、体長が2キロメートルにも及ぶため、通過するのに12刻(3時間弱)もかかる。体表からは粘着質の油が染み出しており、船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、船乗りはこれを汲み取らないと船が沈没してしまうとある[1]。
『耳袋』ではいくじの名で述べられており、西海から南海(近畿地方、九州)にかけて時折現れ、船の舳先などにかかるものとされている。ウナギのように非常に長いもので、船を通過するのに2,3日もかかるとあり、「いくじなき」という俗諺はこれが由来とされている。また同書では、ある人物が「豆州八丈(現・東京都八丈島)の海に、いくじの小さいものと思われるものがいるが、それは輪になるウナギ状のもので、目や口がなく動いているものなので、船の舳先へかかるものも、長く伸びて動くのではなく、丸くなって回るものだ」と語ったという。

2⃣五浦海岸にはかつて巨大な油ガス田があった?

私は「常陸国」「体表からは粘着質の油が染み出しており」とあるのに注目した。
私的に、常陸国といえば油田だ。

2020(令和2)年、北海道大学と茨城大学の研究チームが驚くべき成果を発表。五浦海岸にはかつて巨大な油ガス田があったというのです。
~略~
炭酸塩コンクリーションを構成するほとんどの炭素が、地下深部の熱によって生成した天然(メタン)ガスに由来していることを明らかにしました。約2000万〜1500万年前、日本列島が大陸から分離したとき、激しい地殻変動によって海底深くにあった油・ガス田に亀裂が入り、数万年にわたって天然ガスが断続的に漏れ出していたのだとされます。しかも、五浦海岸沖には今も油ガス田が存在する可能性があるのです。



上の地図の六角堂と書いてあるあたりが五浦海岸である。

海岸に巨大な油田があるのであれば、それが海に流れ出すということがおこりそうである。

3⃣イクチの正体は海洋に流出した原油?


リンク先の海洋汚染の写真を見てほしい。
原油が筋になって海上に浮かんでいるような写真もある。

いくち

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「あやかし」の名で描かれたイクチ

上記、鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』の「あやかし」の名で描かれたイクチは、この海上に浮かんだ筋状の油を妖怪化したものではないだろうか。

「船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行く」というのは、油を含んだ波が船にかかる、ということではないか。

4⃣「いくじなき」と言う俗諺は「イクチ」からくる?

なぜ妖怪は名前を「イクチ」というのか。

ウィキペディアには
『ウナギのように非常に長いもので、船を通過するのに2,3日もかかるとあり、「いくじなき」という俗諺はこれが由来とされている。』
と記されているが、
「いくじなき」をぐぐってみると「意気地無」しかでてこない。

① 気力がなく役にたたないこと。困難や苦労に打ちかつ力強さがないこと。また、そういう人。
~略~
② しまりがなく、ぐうたらなこと。また、そういう人。

なんで「ウナギのような長いものが船を通過するのに2,3日もかかる」ものを「意気地無」というのか、さっぱりわからない。
もしかしたら、古にはそういう俗諺があったのかもしれないが、どうもこじつけの様に思えるw

5⃣イクチは油口?

ぺらぺらしゃべることを「油口(あぶらくち)」というが、「ゆくち」とはいわないだろうか。
名字には油口と書いて「「ゆくち」とよむ人がいるようだが。
「ゆくち」が訛ると「いくち」になりそうに思える。
というのは、こじつけっぽいかなw









トンデモもののけ辞典51 小豆はかり 追記あり


1⃣妖怪・小豆はかり

『怪談老の杖』では、以下のように語られている。
その昔ある男が、麻布に住む友人の家に妖怪が出没するという話を聞いた。男は「ぜひ見たい」と言い、友人の家に泊まらせてもらった。
前述の特徴の通り部屋を静かにしていると、天井裏を踏み歩くような大きな音がし、続いてあの小豆をまくような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、挙句にはその音は、一斗(約18リットル)の小豆をまくかのような大きさになった。
やがて、天井裏ではなく家の外の庭から、下駄を鳴らす音や、水をまくような音がしてきた。男はすかさず障子を開けたが、庭には誰の姿もなかったという。
この妖怪は天井から土や紙くずを落とすこともあるものの、特に悪事は働かないものなのだという。


2⃣小豆をまく音は波の音?

「妖怪・小豆はかり」は音だけを立てて、姿が見えないらしい。
そこでまず小豆の音を聴いてみた。


上の動画はざるにいれた小豆を揺らす音であって、小豆をまく音とは多少違うかもしれないが、波が打ち寄せる音のように聞こえる。

「小豆はかり」が現れるのは麻布だという。
東京都港区で、海にちかい。
もしかして、「小豆はかり」の正体は、波の音で、波の音が、小豆を撒く音に似ているところからその名前がついたのだろうか?

と一瞬考えたが、さらに調べていくと、どうやらそうではないらしいと思えてきた。



3⃣麻布の地名の由来


私は「あざふ」と「あずき」の音が少し似ていると思った。
そこで麻布(あざふ)の地名の由来を調べてみた。


すると、次のような記事が見つかった。


”麻の産地であり又織物もさかんであった。”というのが定説なのだろうが、江戸時代位までは、 阿佐布、麻生、浅府、安座部、などと多様に書き表されていた。
http://deepazabu.net/m1/asap/asap.html より引用


記事には、アイヌ語のアサップルが語源ではないか、とする説も記されていて興味深いが、定説ではかつて「麻の産地」だったということになっているようだ。


追記/麻の産地説もありえるとは思うが、いつごろの話で、誰が織物を生産していたのかなど、全く不明であり
定説だというだけで、正しいとすることはできない。



4⃣「あず」「あさぶ」は崖を意味する言葉


3⃣でご紹介した記事には、小豆はでてこない。
そこでさらに調べると、


「あざぶ」は「あさふ」でもあり、口語では「あそう」ということになり「麻生」という表記にもなっている。 
茨城県行方市麻生の隣には台地の崖を意味する「粗毛(ほぼけ)」という地名があるが、同じく麻生は「あぞ・ふ」で、崖地の場所を表している。東京港区の麻布も、台地の縁にある崖地の意味だ。


「あさふ」「あそう」は崖という意味もあるようである。


さらに、知恵袋にこのような質問と回答もあった。


質問者/山用語で、小豆と言うのも怖い土地を表すのですか。
麻布、麻生が崖で、小豆も地盤の弱い崩落する危険があるところなのですか。



ベストアンサー/あず、あるいは、あづ
は土砂災害の多い場所をあらわすらしいです。


質問者/梓とか、小豆島とか。
軟弱な地盤なのでしょうね。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12176225292?fr=sc_scdd&__ysp=5bCP6LGGIOm6u%2BW4gw%3D%3D  より引用


あず【坍】〘名〙 くずれた岸。がけ。がけのくずれてあぶない所。
※万葉(8C後)一四・三五三九「安受(アズ)の上に駒をつなぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息にわがする」https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8D-2002019 より引用


どうやら「あず」出てくるという言葉は万葉集にもでてくる古い言葉のようである。


崩崖
読み方:アズ(azu)
くずれた岸
https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/mame/No_233.html より引用


5⃣妖怪・小豆ばかり、正体をあらわす。


どうやら、妖怪「小豆はかり」の正体だけでなく、「麻生」の地名の由来も見えてきたようである。


「麻布」の地名の由来は、
https://baba72885.exblog.jp/15534522/ 
この記事にあるように、「崖」からくるのだろう。


そして、麻布の崖の上にある家に現れる「小豆はかり」は、崩れた崖の妖怪だろう。
「天井裏を踏み歩くような大きな音」「小豆をまくような音」「下駄を鳴らす音」「水をまくような音」は崖が崩れる音なのだろう。


「天井から土や紙くずを落とす」のも崖崩れに伴うものだろう。


物語ではそれ以上の被害はなかったようで、なによりであるw


「小豆はかり」の「はかり」は「ばかり」と言う意味だろうか。
「ばかり」は「場所を表す言葉のあとについて、おおよその場所」を示す。
あるいは「計り」という意味かもしれない。
これについてはよくわからない。


追記/私は麻布に行ったことがなく、地形などよくわからなかったのだが、知人より、よい記事を教えてもらった。
この記事に掲載されている写真を見ると、坂が多く、凹凸のある地形であることがわかる。
崖状になっている地形についても述べられている。


麻布十番をはじめとした東京都心部の「山の手」と呼ばれるエリアは、台地と谷間が絡み合った複雑な凸凹地形の上にある。

~略~

閑静な住宅地は仙台坂から東に向かって緩やかな斜面となっており、崖状に落ち込む。崖下の建物の4階部分に相当する高さなので、10m程度の比高があることになる。明治初期の地図を調べてみたが、当時からこの土地は崖で隔てられていたようで、崖下には池も存在していたことが古地図から見て取れる。

https://suumo.jp/town/entry/azabujuban-norihisa.minagawa/より引用



この記事にも
【「麻布」は、当時周辺に住んでいた農民が、麻の布をつくっていたのが由来だとか。】
と書いてあるが、定説を書いただけのようで、いつごろ、誰が麻の布をつくっていたのかについては記されていない。


「今昔散歩重ね地図」を使って作成した江戸末期の凸凹地図も掲載されているが、ここに麻畑や織物工房のようなものも見つからない。


たぶん、先ほども紹介した↓この記事を参考にして書いただけで、詳しいことがわかっているわけではなさそうだ。
http://deepazabu.net/m1/asap/asap.html