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オホーツク文化は北海道北沿岸にも5世紀から9世紀ごろあった。


※以前の記事の内容と重複する部分が多くあり、まとまりもありませんが、自分用として公開します。
ご容赦ください。

①竹田恒泰さんは「アイヌが13世紀に成立した」とする根拠を語っていない。

アイヌ人はいつ誕生したのか。
それを13世紀、日本でいえば鎌倉時代だという人がいる。

その理由について、竹田恒泰さんは全く語っておられなかった。

 


05:53 アイヌ人が北海道に現れたのは13世紀です。アイヌ文化は13世紀より前は存在しません
~略~
なんでこんなことが分かるかっていうのをですね、まあ徐々に見ていくだけなんですけども

とおっしゃるので、ずっと聞いたが、13世紀にアイヌ人が現れると考えられることについての根拠は述べられていない。

⓶擦文文化とアイヌ文化には断絶がある?


上の動画をみると、これについて、長濱浩明さんが、次のように理由を述べておられるようだ。
(実際に長濱さんの著書を読んだわけではないが、上記動画で長濱さんの説だといっている。)

①竪穴式住居は縄文時代に作られていたもので、その起源は1万年前まで遡る。
しかしアイヌ文化の担い手たちは掘立柱建物に住んでいた。
縄文時代にはこの形式は祭壇や見張り台に使用されていた。
1万年間竪穴式住居が作られてきた北海道の地でなぜ800年前から異なる方式の住居が作られるようになったのか。
縄文→続縄文→擦文の変化は段階的スムーズであるのに対し
擦文アイヌの変化には断絶がある

⓶アイヌ文化は北海道限定で出現しておりしかも得意なものでした。
アイヌ文様の独特の入れ墨の習慣のトリカブトの毒を使った毒矢による狩猟は本州には見られない

③アイヌ語と日本語は全く異なる言語である。

③擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。

これに対し、瀬川拓郎さんの「アイヌと縄文」には次のような内容が記されていた。

①擦文文化ののちの時代をアイヌ文化と呼んでいるが、ニブタニ文化と呼ぶべき。
②アイヌ文化とはアイヌ語、口承文芸、模様、祭祀、儀礼、生業など近世アイヌの生活文化全体をさす。
③考古学でいうアイヌ文化は擦文文化に続く平地住居・鉄鍋・漆塗椀などの物質文化の組み合わせをさす。
一般的な意味でのアイヌ文化とは異なる。
④考古学の文化の設定はその文化に特徴的な物質文化や遺跡がみつかった土地の地名をつける。
⑤アイヌ文化は民俗の名前をつけてしまったため、「13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた」と誤解が生じている。
⑥擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
⑦よって、ニブタニ遺跡の名前にちなんで、ニブタニ文化と呼ぶべきである。
⑧11世紀ごろ、竪穴式住居が平地住居におきかわり、土器が漆器・鉄鍋におきかわったのは、日本海沿岸だけ。
その他の地域では12世紀から13世紀初めごろまで土器と竪穴住居が用いられていた。

少し瀬川さんの批判をさせていただくが、(擦文文化とアイヌ文化の継続性を否定するものではない)
ニブタニ遺跡は15世紀から17世紀にかけての遺跡である。
この遺跡の名前を文化の名前につけてしまうと、やはり13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた、と誤解が生じそうである。

また、「擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。」という発言も
擦文文化とアイヌ文化の継続性についての具体的な説明がないので、懐疑的にとられてもやむをえないかもしれない。

④アイヌ文化の遺跡の下から擦文文化の遺構が発見されている。

擦文文化とアイヌ文化の継続性について、具体的な事例について述べている記事を見つけた。

擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者

山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)


13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。

また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。

石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。

近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。


アイヌ文化の遺跡の下から擦文文化の遺構が発見されているので
擦文文化からアイヌ文化への連続性が認められるということだろう。

しかし、この記事をよんでも、それはアイヌ文化の遺跡ではなく、和人の遺跡ではないか、という人がいそうである。
なぜアイヌの遺跡だとされているのかについての、説明がないためである。


⑤オホーツク文化は北海道北沿岸にも5世紀から9世紀ごろあった。

ハプログループには2つある。

Y染色体ハプログループ(父系)
ミトコンドリアDNAハプログループ(母系)

そして、現代アイヌ人のY染色体ハプログループ、ミトコンドリアDNAハプログループは次のようになっている。

Y染色体ハプログループ(父系)/D1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)C2が12.5%
                 D1a2aは縄文系
               (※青森:38.5% 静岡:32.8% 徳島:25.7% 九州:26.4% 沖縄:55.6%)

ミトコンドリアDNAハプログループ(母系)/Ⅾ、G、M7a,M7bc、A、N9b、B、F,Yなど
                     Yが20%ほどあり、このYは本土日本人や沖縄にはない。
                      Yはオホーツク文化人に多い。


現代アイヌ人にはミトコンドリアDNAハプログループ(母系)Yが20%ほどあり、
このYは本土日本人や沖縄にはなく、オホーツク文化人に多いため、アイヌは13世紀ごろにやってきたというのが
竹田恒泰さんの主張だったが、なぜ13世紀としているのかについての説明がなかった。

ところでこのオホーツク文化だが、実はこの文化は北海道北沿岸にも5世紀から9世紀ごろあったとされる。

ウィキペディアの記述は次のとおり。

擦文文化
つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、
この文化を8世紀までを前期、9世紀 - 10世紀を中期、12世紀頃までを後期の三期に区分する。
この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀頃には鉄器を持ち、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。

オホーツク文化期
擦文文化が営まれていた頃、オホーツク海沿岸には、道東に漁業と海獣狩猟を中心とするオホーツク文化を持った人々が移住したが、
アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。
アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。
この古代文化は、3世紀から13世紀に樺太、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。
うち北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。


アイヌの2割にY1があるのは、擦文文化人が北海道のオホーツク文化人と交わった結果だと考えられているようだ。

すると擦文文化人とオホーツク文化人と交わったのは5世紀から9世紀(401年~900年頃)となって、竹田さんのいう13世紀ではないということになると思う。

日本の飛鳥時代は593年に始まる。
続く奈良時代は710年。

飛鳥時代ごろより本土人が北海道に進出しているとする史料はあるが、
401年~900年頃の北海道が日本であったと考えられるだろうか?
かなり難しいのではないかと思う。

ウィキペディアの
オホーツク文化を持った人々が移住したが、アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。
アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。


という記述は、「擦文文化がアイヌ文化にゆるやかに移行した」「オホーツク文化はアイヌ文化とは別の特徴をもつ」
ということだろうが、
やはり、そのあたり、もっと視覚的に納得できる説明があったほうがいいのではないかと思った。




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