
平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
①「ハプログループY遺伝子」は間違いで誤解を招く。
よいブログ記事があったので、内容をまとめさせていただいた。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html
これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。
つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。
すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。
↑ ブログ主さんは、この記事に対して次の様に批判されている。
・「ハプログループY遺伝子」という用語からして不適切。
・ハプログループとは特定の遺伝子のことではない。
・ハプログループの分類名の後に遺伝子をつけるような用語は不適切

アイヌのチセ(家)・内部(北海道、沙流川流域)
⓶Y染色体ハプログループ(父系)とミトコンドリアDNAハプログループ(母系)
確かにそのとおりである。(ニワカ知識なので、間違っている点があれば指摘してほしい)
DNA解析には二種類ある。ウィキペディアの記述に従って表記すると
・Y染色体ハプログループ・・・・・・・・・父系
・ミトコンドリアDNAハプログループ・・・・母系
③ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)≠ハプログループY遺伝子
アイヌ人のミトコンドリアDNAのタイプはⅮ、G、M7a,M7bc、A、N9b、B、F,Yなどである。
そのうちYが20%ほどあり、このYは本土日本人や沖縄にはない。

https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/2014_kouenkai3.pdf より引用
「オホーツク文化人のハプログループY遺伝子」というのは
正しくは「オホーツク文化人のミトコンドリアDNA Y」というべきであって、
「ハプログループY遺伝子」といってしまうと、父系のY染色体ハプログループのことだと勘違いさせてしまう。
ブログ主さんもこのようにおっしゃっている。
・「オホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明」となる研究ではない。
・上記発言では「すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されている」とあるが、それがこの研究を指している。
④Y染色体ハプログループにYはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
上記にY染色体ハプログループの系統樹が記されているが、ÅからRまでであって、現在のところYはない。
(増える可能性はある。)
⑤現代アイヌ人のY染色体ハプログループは縄文系で、オホーツク系ではない。
ニブフ(オホーツク文化人)のY染色体 ハプログループ(父系)は
C2が71% O2が7.7%、Qが7.7%、D1が5.8%、O1aが3.8%、O1bが1.9%、Nが1.9%
アイヌのY染色体 ハプログループ(父系)は
D1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)C2が12.5%
そして、D1a2aは日本固有のY染色体ハプログループであり、アイヌがとびぬけて割合が高い。
ちなみに各地の頻度は、
青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%
となっている。
また
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2a2a(D-CTS220)であった。
これにより「ハプログループD1a2a系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3DNA
とあり、現在のところ、アイヌは縄文の血を濃く残すと考えられている。
⑥ハプログループの名前は何度も書き換えられている。
上記動画12:12 あたりで、次のような発言がある。
D1b系統は日本国内でしか見つかっていない。
これはD1b系統ではなく、D1a2aの間違いではないだろうか。
フィリピン・マクタン島
フィリピンのセブ州マクタン島ラプ=ラプ市において、D1a1,D1a2に属さない、ハプログループ【D1b】の人物が複数見つかっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%B3%B6
より引用
日本
日本列島で見られる「ハプログループD1a2a」は、ハプログループDの中でも、M64.1/Page44.1, M55, M57, M179/Page31, M359.1/P41.1, P37.1, P190, 12f2.2など少なくとも8つの特徴的なSNP(一塩基多型)によって、4万年以上前に分岐している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E6%97%A5%E6%9C%AC
より引用
実はハプロタイプの名前はしょっちゅう書き換えられている。
ISOGGでの名称
2006年 ハプログループD2
2014年5月 ハプログループD1b (D1,D2,D3->D1a,D1b,D1c)
2019年6月 ハプログループD1a2 (D1a,D1c->D1a1a,D1a1b D1b->D1a2)
2020年4月 ハプログループD1a2a (D1a2,D1a3->D1a2a,D1a2b)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
より引用
上はハプログループ名が書き換えられた時期について書かれている。
この動画で、「ハプログループD1b」 と言っているのは、2014年5月から2019年6月の間の呼称で
2019年に「ハプログループD1b」は「ハプログループD1a2」に、
2020年4月には「ハプログループD1a2」は「ハプログループD1a2a」と名称が変更されたということだと思う。
動画が公開された日付は2022年3月6日なので、チャンネル主さんはハプログループの名称が変更されたことを知らなかったのだろう。
⑦チャンネル主さんは、ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)のことを、Y染色体ハプログループ(父系)と勘違いしていると思う。
20:12 アイヌの人たちって何者なんだって言われたりするわけですよ。
なぜなら縄文人がいたのは間違いないけども、オホーツク人って人たちもうわーっておりてきているから。
そこで駆逐されたから、先住民つっても違うんじゃねーのっていう説もあるんですけど
DNA的に見たら明らかでオホーツク人と縄文人交わってるんですよ
だって y 染色体だからね。
男性全員殺して女性だけっていうわけにいかない。
最初聞いた時、何を言っているのは意味が分からなかった。
y 染色体とおっしゃっているが、ミトコンドリアDNAのまちがいじゃないのかと。
それは正しいと思う。
きっとチャンネル主さんは、ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)のことを、Y染色体ハプログループ(父系)と勘違いして「だってY染色体だからね」とおっしゃっているのだと思う。
申し訳ないけれど、この動画主さんは、遺伝子解析のことはあまりご存じなく、
誤解したまま誤った情報を拡散させている、ということだ。

⑧勘違いは誰にでもあるが、訂正や削除は必要
勘違いは誰にでもあるが、訂正や削除は必要だろう。
そうしなければ誤情報を拡散することになってしまうし、何より、「間違いがばれる」と恥ずかしい。
しかしそうは、考えない人がいて
間違ったことを平気で書き、間違いを指摘しても、訂正したり削除しない人が結構いる。
ある人気YouTuberさんに、「内容が大きく間違っているので、削除したほうがいい」とメールを出したこともあるが
放置されており、誤情報が拡散されつづけている。
しかし、そこはプライドをもって、削除する誠意を見せていただきたいところだ。
あなたの「日本素晴らしい論」はどこへ行ったのだ?
先に引用させたいただいたブログ主さんはこのようにおっしゃっている。
率直に言って、アカウントを削除してもおかしくないくらいの失態だと思うのですが、
こういう発言をする人は多くがふてぶてしいので、今後もアイヌ問題関連で遺伝学的研究を都合よく理解して、
というか誤認して恥ずかしい発言を続けるのでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html より引用
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1904 photograph of a group of Ainu people
ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)
↑ この記事のつづきです。
①先住民族の定義は明治以前
ウヨ系の論者などが「アイヌは先住民族ではない」として「アイヌ新法」を批判している。
前回も述べたように、私は「アイヌ新法」を批判するな、などというつもりはない。
問題にしているのは
「アイヌは13世紀ごろオホーツク系民族が北海道にやってきて、成立した民族なので先住民族ではない」という点についてである。
それが、明確にまちがいだといえる理由が、国立アイヌ民族博物館の記事に書いてあった。
アイヌ民族はなぜ先住民族と認められているのですか?
日本政府は、2019(令和元)年、「アイヌ施策推進法」(略称)でアイヌ民族を「先住民族」と規定しました。
その意味については2009(平成21)年7月にまとめられた『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』が参考になります。
それによれば、
「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、
その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」
(下線は引用者が付加)
とされています。
アイヌの場合は、近代国家(明治政府)が形成される過程で、多数民族の支配を受け、
それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、「先住民族」と考えることができるとされています。
つまり、アイヌ民族にとっては近代国家(明治政府)からの支配を受ける以前から、住んでいたことがポイントなのです。
https://nam.go.jp/inquiry/#q7-%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%a8%e8%aa%8d%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae より引用

⓶「アイヌが先住民族かどうか」より、「先住民族をどのように定義するべきか」述べる必要があった。
つまり国が規定する先住民族の定義とは明治以前に存在していたかどうかであって
この定義に従う以上、アイヌが鎌倉期にやってきたといくら言っても、
「アイヌが先住民族である」という事実は変わらないということになる。
「アイヌが先住民族である」と言うことに反論するのであれば、
「明治以前に存在していたかどうかで先住民族を規定するのはおかしい。なぜならば~」と論を展開しなければならない。
しかし、竹田さんはそのような論理展開をされていない。
③占有に直接関係する証拠が必用かも
しかし私は、先住民族の定義を明治以前とするのは、妥当だと思う。
(アイヌ新法が妥当と言う意味ではない。先住民族の定義を明治以前に設定する点において妥当といっている。)
たとえば、あなたがこう言われたとしたら、困惑するのではないだろうか。
「あなたの先祖が鎌倉時代にわれわれの土地を奪ったので、あなたが相続して所有している土地はあなたのものではない。」
「そんなこといわれたって、そんな古いことは知らないし、
第一鎌倉時代のあとに戦国時代があって、土地取り合戦やってるじゃん。
仮に私の先祖が土地を奪ったというのが事実としても、鎌倉時代から800年もたってるじゃん。時効だよ!」
そう思う人が多いのではないだろうか。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kenkyu/takeshima/chapter01_column_02.html
上記には次のような内容が記されている。
❶イギリスとフランスが、国際司法裁判所で、マンキエ・エクレオの帰属をめぐって争った。
❷両国間に係争領域の帰属を明記する条約がなく、互いに古くから当該領域を領有してきたと主張していた。
❸両国は、中世以降の歴史的事実に基づき、「古くからの権原」や「原始権原」を保持していると主張した。
❹ 裁判所によれば、決定的に重要なのは、中世の出来事から導かれる間接的な推定ではなく、占有に直接関係する証拠。
(裁判記録、課税、土地の登記、関係法律の制定及び施設の構築)
この❹の規定を、むりやり北海道にあてはめれば、もっとも古く遡ったとしても松前藩成立ぐらいになりそうだ。
③アイヌの瞳は青いか
これについては
ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)
でも疑問を述べたのだが、こういう記事が見つかったので、追記しておく。
ただし、アイヌ人々の中に青い瞳の人はいないと結論づけたわけではない。
ロシア人探検家は古モンゴロイドであるアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と認識し、顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記している。
より引用
④擦文文化からアイヌ文化が繋がっていることを示す記事
前回も詳しく述べたように、
DNAハプロタイプには、父系(Y遺伝子DNA)と 母系(ミトコンドリアDNA)があり
Y1は母刑だが、父系でみると、アイヌ人は縄文系の80%が縄文系のハプログループD1a2aを持っているのだ。
母系のみ語って父系は語らないでもいいのだろうか。
やはり両方の遺伝子で語る必用があるように思う。
母系でみれば、たしかに現代アイヌ人には縄文人や弥生人にはないミトコンドリアDNA Y1を持つ人が20%いる。
おそらくオホーツク文化人との交流によるものだろうが、それがいつ入ったのか、わからない。
あくまでも、Y1を持っているのは、現代のアイヌ人の方々であって、古のアイヌ人ではないのである。
弥生時代に渡来人が九州あたりにやってきて、渡来系弥生人、縄文系弥生人、両者の混血 などに寄って弥生人は形成された。
しかし北海道は稲作に適さないので、渡来人が及ばなかった。
この弥生時代にオホーツク文化人がやってきたのかもしれないし、擦文時代にやってきたのかもしれない。
13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきたとは言い切れない。
また、13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきて、縄文人と混血してアイヌが形成されたのだとしても
日本人だって、縄文人と弥生人が混血しているので、
アイヌが先住民族ではないと言うならば、日本人も先住民族ではないといわなければおかしいことになる。
竹田さんはオホーツク文化人が13世紀にやってきたとおっしゃっているが、
それは擦文文化とアイヌ文化の変わり目が13世紀となっていることから判断したに過ぎないと思う。
なぜなら、竹田さんはなぜ13世紀にオホーツク文化がやってきてアイヌになったといえるのか
一切の説明をされていないからだ。
そして、ウィキには次のように記されている。
・アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。
・7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。
移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている。
古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論があるが、
これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである
13~14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 より引用
石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。
石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%EF%BC%88%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%EF%BC%89
より引用
ウィキの記述が間違っている可能性もないとはいえないが、こんな記事もある。
擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者
山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)
13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。
また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。
石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。
近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-10610405/106104052001kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/ より引用
あるいは、擦文文化を滅ぼした上にアイヌ文化を作ったのではないかといいう人がいるかもしれないが
遺跡に争ったあとがあれば、それについて書いてあるはずだと思う。
書いていないということは、争ったあとがないということだろう。
今後研究が進んで、新発見などがあり、アイヌは13世紀にオホーツク文化人がやってきたというようなことにならないとも限らないが、
現状は擦文文化とアイヌ文化は連続していると考えられているのではないかと思う。